オータサンの貴重な作品集“レインフォレスト”の誕生

小林正巳(日本ウクレレ協会)

レインフォレスト〜オータサン作品集/オータサン Rainforest〜Ohta-san"Herb Ohta" Melodies/Ohta-san
ビクターVICP-62350(2003年6月21日発売、税込み2,940円)

1.作曲家としてのオータサンの素晴らしさ

 オータサンがクラシックからポピュラー、ジャズ、ラテン等広範囲のレパートリーを持つ素晴らしいウクレレ演奏家であることは、いまや多くの音楽家そして音楽ファンの認めるところとなっています。たとえば「恋は水色」の作曲家であるアンドレ・ポップがオータサンのウクレレ演奏に感激してオータサンにプレゼントした「Song For Anna」がオータサンの演奏によって当時としては異例の600万枚という大ヒットをしたエピソードが知られていますが、作曲家がオータサンの演奏の可能性に期待した実例のひとつと言えましょう。

 一方オータサンは自分のアルバムやライブ、コンサート等の中で自作のオリジナル曲を演奏することがしばしばあります。そして初めてオータサンのオリジナル曲を聴いたかたはいずれの曲も美しいメロディーを持つとともに、的確で、しかもしゃれたジャズのフィーリングを持ったコード(和音)が付けられていることに驚かされるのではないでしょうか。これはオータサンが演奏家であるとともに作曲家としても極めて高い能力を持っていることを示していると言えましょう。この能力は6000曲以上と言われるオータサンの広いレパートリーを演奏する中から自然に学び取ったものだけでなく、みずから勉強した音楽理論との相乗作用で培われたものではないでしょうか。

 現在までにリリースされたオータサンのアルバム70枚以上の中にもオータサンのオリジナル曲はたくさん収録されてきましたが、一枚のすべてがオータサンの作品というアルバムは今回の「レインフォレスト」が最初となります。さらに今まではどうしてもオータサンのウクレレによるインストゥルメンタル演奏が中心であったため、折角付けられているステキな歌詞の数々が一般には知られないままでおりました。

そこで今回のオータサン作品集「レインフォレスト」では収録曲中の5曲を歌手に歌ってもらうことになりました。歌手としてはベテランの歌手達、ニナ・ケアリイワハマナ、ギャリー・アイコ、イヴァラニ・カハレワイの3名とオータサン・バンドのベーシストでもあるブルース・ハマダが選ばれました。さらに今回収録された15曲を中心に「オータサン作品集」という楽譜集の出版も計画されているようですので、オータサンのファンにとっては大変嬉しい企画となりました。

2.ウクレレの歴史

2-1.ポルトガル移民がウクレレの原形をハワイに持ち込んだ

ここで話題がちょっと脇道にそれますが、オータサンが縦横無尽に弾きこなしているウクレレという楽器はどのようにして誕生したのでしょう。じつはハワイの特産物であったサトウキビがこの楽器の誕生と大いに関係していたのです。

日本の江戸時代末期から明治時代に移行する時代に相当する時期のハワイでは白檀と並んでサトウキビから採れる砂糖が主な産物でした。このためサトウキビ農園で働く労働者を数多く必要としたのですが、1778,79年にハワイを「発見」したキャプテン・クック達にはじまり多数の外国人が訪れるようになった結果、性病や伝染病まで持ち込まれハワイ原住民の人口が極端に減ってしまったのです。困ったハワイ王朝は外国から農業労働者を数多く受け入れることに決め、我が国からも明治元年(1868年)に150名の非公式移民(この150名は「元年者」と呼ばれています)が渡ったのを皮切りにたくさんの移民がハワイに渡り、現在の「日系ハワイ人」を構成しております。そして農業労働者として我が国を含む世界各国からの移民がハワイに渡っていたのですが、そのなかでポルトガルからは本土ではなく大西洋上にある島Madeiraの住民達が中心となって1878年から1913年までの間に約20,000名という数の移民がハワイに渡りました。

1879年8月23日に主にマデイラ島からの移民を乗せて4ヶ月の航海を経てハワイに到着した第二次移民船Ravenscragの乗客419名の中に現在のウクレレに関係ありそうな人物が5名含まれていました。楽器職人のAugusto Dias, Jose do Espirito Santo, Manuel Nunesの3名と音楽家のJoao Luiz Correa, Joao Fernandesの2名です。

ポルトガルに限らないかも知れませんが、収穫祭等のお祭りでは皆が唄い、踊る習慣があり、その時に演奏される楽器としてはギター、マンドリンに加えてポルトガル本土ではcavaquinho(カヴァキーニョ)、マデイラ島ではbraguinha(ブラギーニャ)と呼ばれる小形のギター(すなわち今で言うウクレレ)が活躍いたしました。braguinhaという名前はこの楽器が最初に製造されたポルトガル本土北部の地方Bragaに因んでいます。

この移民船の乗客のひとりJoao Gomes da Silvaがbraguinhaを持っていたのを知ったJoao Fernandesは、船がハワイに到着したときに彼からその楽器を借り、安全な航海ができ、無事にハワイに着いた喜びを表すためにポルトガルの民謡を奏で、ほかの乗客達がそれに合わせて唄い、踊ったという記録が残されています。このbraguinhaがウクレレの原形と認められておりますので、Joao Fernandesがウクレレ演奏家の元祖ということになります。

ちなみに、ポルトガルにはrajaoという多少大きな5弦もしくは6弦の楽器もあり、この航海およびそれ以降の移民船でbraguinha同様ハワイに持ち込まれタロ芋畑で働く農民に愛されたためtaro-patchという名前の楽器となりましたが、いずれの楽器もオリジナルはギターの故郷である隣国スペインからやってきたものと想像されています。

一方、楽器職人の3名はハワイ到着直後に楽器作りを開始いたしました。彼等はハワイ特産のコアという木をbraguinhaの素材として採用する等いろいろな改良を加えた結果、braguinhaはハワイ固有の楽器「ウクレレ」へと変化して行きました。

2-2.ウクレレの調弦

オリジナルのbraguinhaはスチール弦が張ってあり、調弦は5度間隔すなわちマンドリンやバイオリンのようになっていたようなのですが、ハワイにやってきた楽器職人たちは弦の材料としてガット(羊腸)を採用いたしました。これは当時のバイオリン属の楽器やギターにつかわれていた弦でした。そして調弦については(あくまでも推測ですが)ギター奏者が容易に弾けるようにとギターの高い側の4本の弦と同じ音程(弦同志のピッチの相対関係)にしたと思われます。ところがbraguinhaの弦長はギターの10フレットからブリッジまでの距離にほぼ相当する35センチ程度であったためギターと同じ弦を同じ張力で張った場合、ギターの10フレット付近のピッチすなわち4弦からC−F−A−Dがえられます。しかしこれは極めて高いピッチなので5フレットのG−C−E−Aのピッチが得られるように変更したと思われます。ところが同じ弦を張って低いピッチに調弦すると張力が下がってしまうので、ギターよりも50%太い弦を採用し、目的のG−C−E−Aとなるように考えたようです。

一般に弦楽器の弦は両端にあるブリッジとナット(もしくは指でおさえたフレット)との距離に応じた振動をし、そのピッチは距離に反比例します、すなわち弦長が半分になるとピッチが1オクターブ高くなります。しかしこの関係は弦の直径が弦長に比べて極めて小さい場合にだけ成り立つのであって、普通の弦ですと弦の直径が相対的に大きいため弦としての振動が始まる点がブリッジやナット、フレットよりも多少内側になってしまいます。そしてこの現象は当然ですが弦直径が大きいほど顕著になります。

フォーク・ギター、エレキ・ギター等ではブリッジの位置を太い弦ほどナットから遠ざける(セットバックさせる)ことが行われています。最近のウクレレにもブリッジにセットバックの付いたものが登場していますが、braguinhaはもともと細い金属弦が使われていたこともあって、ハワイで`ukuleleとして再出発した際にはこのことは考慮されていませんでした。

そのため折角定めたG−C−E−Aに調弦しようとすると4弦(G)の太さとしてギターの5弦相当が必要となってしまうので、演奏しにくいだけでなく太い弦に起因するピッチの不正確さが極めて目立つことになったと思われます。これを救済する方法として4弦に1弦と同じ太さの弦を用い、そのピッチを1オクターブ高くするという変則的な調弦にしたようです。こうすればギター奏者にとってコード・フォームが同じというメリットが生かせますし、このことによってウクレレ独特の奏法も誕生したのでしょう。

1910年代から1920年代に掛けて、米本土ではウクレレ・ブームが起こりました。手軽に弾ける楽器のウクレレはボードビリアンの格好な伴奏楽器となり、これに伴い家庭でウクレレを弾く人たちが増加したのです。楽譜出版社が軒を連ねるティン・パン・アレイからはハワイやウクレレに関する楽譜がたくさん出版され、当時としては船で訪れるしか方法のなかった夢の島ハワイの音楽とウクレレがもてはやされたのです。そしてハワイではG−C−E−Aという調弦であったこの楽器が、おそらくボードビリアンの音域に合わせてと思われますがA−D−F♯ミBという調弦に変わりました。この時代の米本土で出版された楽譜の大半がこの調弦になっていますので、この調弦を「アメリカン・チューニング」と呼び、従来からのG−C−E−A調弦を「ハワイアン・チューニング」と呼び分けるようになりました。

その後弦を作成する技術が向上して、ガットを芯に使いその上に金属を巻き付けることで小さな直径でも低い音が得られる弦が登場したため、4弦として当初の目的であったギターと同じ音程を持つ調弦「ローG調弦」ができるようになり、ウクレレとしての音域拡大に貢献いたしました。よくオータサンがこのローG調弦を発明したかのように言われていますが、ご本人も否定していますし、この調弦は弦さえ入手できればだれでも(特にギター奏者が)試みたことだと思いますので自然発生的に起こってことと思います。

2-3.ウクレレ製作者の流れ

Dias, SantoそしてNunesのうちSantoはNunesの開いた工房に加わりましたが、Diasは自分自身の工房を開き、braguinhaを製作しておりました。しかしSantoもDiasも1890年までに楽器製作を止めてしまい、その後はNunesおよびKumalae等の職人がウクレレを作っていたに過ぎませんでした。

1915年にサンフランシスコで開催されたパナマ運河開通を祝った「パナマ太平洋エキスポ」ではハワイのミュージシャンがたくさん出演し、それとともに開催された楽器コンテストでKumalaeの作品が受賞する等、ハワイとウクレレに関する関心が一気に拡大したのですが、この波に乗ってにウクレレを量産する工房がふたつ誕生いたしました。ひとつは以前からギターを製作していたC.F.Martin(マーチン)社で、もうひとつはNunesのところでウクレレ製作のノウハウを取得したSamuel Kamakaが興したKamaka Hawaii(カマカ)社です。

マーチン社は主として高級ウクレレを製作し米本土で販売、カマカ社は中級、普及形のウクレレを製作しハワイを中心に販売していました。マーチン社の生産台数のデータによると、1920年代に大きな需要があったことを示しております。カマカのデータは見つからないのですが、おそらくマーチンを上回る生産数量だったのではないでしょうか。

両社からはオリジナル形ウクレレのほかにテナー形、バリトン形、そしてコンサート形等が次々とつくられ、さらにカマカからはパイナップル形、6本弦、8本弦、そしてシガーボックス形といろいろな製品が発売されてきました。

最近になってマーチン社からもウクレレが再登場するようになるとともに、ハワイではカマカに次ぐ量産メーカーとしてコアロハ社も参入し、安定した製品を我々に提供してくれています。

2-4.「ウクレレ」という呼び名の由来

braguinhaという名前の楽器がいつ頃どのような理由で`ukuleleと変わったのかを知りたいところなのですが、諸説があって「正解」は不明、というのが正解のようなのです。ひとつだけ分かっていることは、braguinhaから直接`ukuleleに変わったのではなく、しばらくの間はpila li`ili`i「pila」は「バイオリン」「li`ili`i」は「小さい」すなわち「小さいバイオリン」と呼ばれていた期間があったとの記録が残されています。

ハワイ語で「`uku」が「蚤や虱」を指し、「lele」が「跳ねる」というところから英語では「jumping flea」と訳されていますが、何故この楽器を「蚤が跳ねる」と呼んだのでしょうか。

`ukeke説:braguinhaがハワイにやってくる前にハワイにはマルキサス諸島から渡来した`ukeke(マルキサス諸島では`uteteと呼ばれていました)という三弦の楽器がありましたが、弾き方が大変難しかったらしいのです。これに対してbraguinhaは演奏が容易で、軽快に弾くことができるため「すばやく弾ける`uke (`ukekeの省略形)」という意味で「`ukelele 」と呼んだのが変化して「`ukulele」になった。という説。

綽名が変化したという説:イギリス軍人(最近発行されたCD付きハワイアン音楽書籍では間違ってポルトガル人と紹介されています)であったEdward Purvisがインドでの兵役を終えて1879年にハワイにやってきました。彼の経歴が買われてすぐに彼はカラーカウア王の親衛隊に招かれ宮廷での勤務を開始したのですが、小柄にもかかわらず動きが敏捷なため、すぐに「跳ねる蚤」すなわち「`ukulele」という綽名を付けられました。彼は当時ポルトガルから来たばかりの楽器braguinhaに興味を持ち、すぐに弾きこなせるようになりました。カラーカウア王をはじめとしてたくさんの人々の前で演奏し、絶賛を浴びるにつれて彼の綽名「`ukulele」がそのままこの楽器の呼び名に変化してしまった。という説。

演奏のさまが跳ねる蚤のようであったという説(1):前述のJoao Fernandesは大変優れた演奏家であったようで、一台のbraguinhaでメロディーを弾くとともにコードも鳴らすというテクニックを持っていたそうです。彼のこの演奏テクニックがあたかも「蚤が跳ねる」ようであったため、楽器にこの形容をそのまま付けた。という説。

演奏のさまが跳ねる蚤のようであったという説(2):演奏家Gabriel Davionが自作のbraguinhaを友人のW.L.Wilcox判事の家でのパーティーに持参し演奏したところ、パーティーの参加者から楽器の名前を訊ねられました。彼は冗談のつもりで「演奏方法が蚤が跳ねているようなのでjumping fleaと呼ぶ」と説明しました。そしてかたわらのWilcox判事にハワイ語では何と訳したら良いかと相談したところWilcoxの答えが「`ukulele」であった。という説。

リリウオカラニ女王の解釈:ハワイ王朝最後の女王であり、カラーカウア王の妹であったリリウオカラニ女王は「跳ねる蚤」説を好まず、自分なりの解釈を持っていました。すなわち「`uku」(蚤、虱)に対して「uku」には「贈り物」「支払い」「賞金」というような意味もあり、「lele」には「跳ねる」のほかに「やってくる」という意味もあるので、「到来した贈り物」すなわち「ポルトガル国民からハワイ国民への贈り物」ではなかろうか、と解釈していたそうです。

オリジナルがbraguinhaまたはcavaquinhoであった「`ukulele」という呼び名はその後世界的に認められたようで、手元にあるポルトガル発行のcavaquinhoのテキストにも英語部分の説明としてはcavaquinhoではなくukuleleと書かれていました。

なお、米本土ではukuleleという発音が難しいことと、省略好き?の国民性からuke(ユーク)と略すことが普通に行われています。これが原因となってかukeleleという表現もよく見かけます。

2-5.ウクレレが日本へ来たのはいつ頃?

私たち日本人がはじめてウクレレという楽器を知った時期についての正確な記録は残っておりません。ひとつの手がかりは1841年に土佐中ノ浜の漁師万次郎(のちのジョン万次郎)が乗り組んだ漁船が遭難し、米国マサチューセッツの捕鯨船John Howlandに救助されてハワイに寄港したところにあります。もちろんこの時代はウクレレの誕生前ではありますが、彼は当時の王様カメハメハ三世の側近であったジャッド博士から寛永通宝を見せられたそうです。このことは彼の前にも、そしてあと(1879年のウクレレ誕生後)にも日本の漁船がハワイに漂着した可能性があることになり、漂着漁民達がハワイでウクレレに触れた可能性はあることを示唆しております。ただ、たとえウクレレを目にしたとしてもそれを演奏したかどうかを含めて何の記録もありませんので、想像の域を越えませんが・・・

もうひとつの可能性は世界一周旅行の途上1881年3月4日に日本にも立ち寄ったカラーカウア王の日本皇室への献上品含まれていたのではなかろうかという点にありました。カラーカウア王は長いこと宣教師によって禁止されてきたフラを復興するとともに、このウクレレがフラの伴奏楽器として最適なことから、前記Joao FernandesやEdward Purvisをはじめ、たくさんの演奏家の演奏を楽しみ、みずからも演奏したそうですので、もしかしてこのときの献上品にウクレレが含まれていないかと記録を探しました。しかしながら皇室からの贈り物として七宝焼きの花瓶、絹織物、漆塗りの箱、青銅の飾り等々を貰ったが、カラーカウア王からは何も献上しなかったという記録だけが残っていましたので、この期待は外れてしまいました。

1909年にハワイに生まれ、小さいときからウクレレやスチール・ギターに親しんできた灰田可勝(ヨシカツ:のちに晴彦、さらに有紀彦と改名)が弟の稔勝(トシカツ:勝彦)とともに日本に渡り、獨協中学に入学したのが1924年でした。中学時代から彼は友人達にウクレレの手ほどきをしたという記録がありますので、日本人が楽器としてのウクレレに初めて触れたのはこの頃と言ってもよいかもしれません。

灰田晴彦はその後獨協中学の同級生であった永田哲夫や弟の灰田勝彦達と日本最初のハワイアン・バンドであるモアナ・グリー・クラブを結成したのですが。灰田はハワイ出身であるためにハワイに居る友人達からたくさんのハワイ音楽の資料を入手することができ、永田がそれにロマンチックな日本語の歌詞をつけたことで、たくさんのファンに受け入れられ、当時の音楽界では絶大な人気を得ていました。

その後弟の勝彦はソロ歌手としても最高の人気を得ましたが、兄の晴彦は作曲家に転身するとともに、後進にスチール・ギターとウクレレを指導することでこれらのハワイアン音楽に使われる楽器の普及に尽力いたしました。

1959年に彼が創設した日本ウクレレ協会は40年以上を経た今日でも彼の目指していたウクレレ普及の活動を地道に続けております。

3.オータサン作品集の舞台裏

3-1.歌詞とメロディーとどちらが先に作られる?

 よく皆さんがこの件で質問をされるようですが、オータサンの答えは「両方ある」とのことでした。理想を言えば同時に作られるのがよいのですが、やはりそれぞれの人間の得手不得手もあるとともに、時間的な制約もあるのでどうしてもどちらかが先になってしまうようです。ただ、オータサンはメロディーが浮かび次第どんどんと楽譜を書いていくので、これを作詞者に渡して詞を付けて貰うというパターンのほうが現実としては多いように見受けられます。

 もう一件よく質問される項目に「作曲はウクレレでするのですか?」というものがあります。この答えは「ノー」すなわちウクレレを使わずに作曲をしているということです。ウクレレでメロディーやコード(和音)を弾いてみなくてもオータサンの頭のなかにはそれらが存在しているということなのでしょう。

3-2.ジム・ビロフとジェイミー・ホープそして共演者たちの横顔

ジム・ビロフ ある日地元のフリー・マーケットで偶然見つけたウクレレが大変気に入り、ビルボード誌の共同編集者という職をなげうってウクレレの世界に飛び込んだジム・ビロフは、夫人のリズ(Elizabeth)と一緒にウクレレ専門の会社「Flea Market Music」を興しました。この会社ではウクレレ関連の製品を扱うとともにオリジナルのウクレレ Fluke を開発し、義弟Dale Webbの会社で製造するまでになりました。そしてジムは特にライル・リッツとオータサンという二人のウクレレ奏者を大変尊敬していましたので、この二人によるワークショップや二人のウクレレ教則本を次々に企画し実績を作ってきました。

 一方、彼自身もオリジナル曲をたくさん持っていて、CDアルバムを出したり、オーケストラと共演して「ウクレレ協奏曲」を演奏したりしていましたが、オータサンの作る美しいメロディーに感動した結果、オータサンのメロディーに歌詞を付けるという関係がスタートいたしました。今回のアルバムにはそれらの中から5曲が収録されていますが、いずれもジムのしゃれたセンスが窺われる歌詞となっています。

ジェイミー・ホープ ジムよりも前からオータサンの作品の歌詞を担当してきたジェイミー・ホープは、音楽学校在学中からオータサンのステージで歌ったり、歌詞を提供したりしてきましたが、卒業した後は歌詞を作ることはそのままにカメハメハ・スクールのバンド・リーダであるラリー・ウチマ氏と結婚して音楽の世界からは引退し、母親がオウナーであったアイエアのレストラン「Ronnie's」の後継者として忙しく働いています。母親Ronnieはオータサンとサム・カプというふたりのミュージシャンのファンであったので、レストランのメニューに「Ohta-san French Dip」と「Sam Kapu Ice Cream」を加え、いずれも大人気とか。このレストランに行かれる方は一度試してみられてはいかがでしょう?

ブルース・ハマダ 最近のオータサン・ツアーには必ず同行し、ジャズ・テイストあふれるベースと甘い歌声を聴かせてくれるブルース・ハマダは、普段はハレクラニ・ホテルのラウンジ・バー「ルワーズ・ラウンジ」でジム・ハワードのピアノと組んで演奏しているとともに、 レストラン「ブラック・オーキッド」でフュージョンのグループの一員として演奏をしています。

 彼は1957年にホノルルで生まれ、ハワイ大学の音楽教育学部を卒業後、ロサンゼルスの音楽学校でベース、キーボード、作曲学、 編曲学そして音楽プロデュース学等を学びました。彼の演奏がジャズの本場からも認められるようになってからも彼はハワイでの演奏にこだわり、オータサンを含めた地元のミュージシャン達や各地からハワイを訪れるミュージシャンのバックを務めてきました。

ジム・ハワード ピアノのジム・ハワードはこのブルースのパートナーとしてハレクラニ・ホテルのルワーズ・ラウンジで演奏するとともに、オータサンのいくつかのアルバムのレコーディングにも参加してきました。彼の強みは楽譜を初見で飲み込めることで、オータサンの付けた複雑なコード(和音)にもとづいてすぐさまアドリブが展開できるため、オータサンもジムに安心してソロを任せています。特に今回のアルバムではエレピ(電子ピアノ)によるアドリブで私たちをうならせてくれました。

ノール・オキモト ドラムスのノール・オキモト(「ノエル」と読めるのですが本人も周囲も「ノール」と言っていますのでそれに従います)の父親ジョージ・オキモトは以前オータサンのグループでドラムスを担当しておりましたのでオータサンとは親子二代にわたっての付き合いとなります。ノールは以前ウディー・ハーマンのグループに在籍していた実力者で、彼の弾くドラムスもジャズのテイストが溢れるもので、現在はホノルルで毎年開催されるジャズ・フェスティバルの中心的存在であるとともに、ハワイのミュージシャンのライブやレコーディングでも大活躍をしています。

ニナ・ケアリイワハマナ 女性歌手ニナ・ケアリイワハマナはハワイ音楽の名門ロドリゲス・ファミリーの総帥で、有名なラジオ番組「ハワイ・コールズ」の中心的存在であった女性歌手、作曲家、フラ指導者であるヴィッキィ・イイの娘で、ふたりの姉ラニ、ラヘラそして兄のボイシィとともに母に代わって「ハワイ・コールズ」の全盛期を支えた歌手でもあります。他の姉兄が引退した後もクリヤーな声を持つソロ歌手として現役を続けているベテランです。

ギャリー・アイコ 男性歌手ギャリー・アイコはニナの母親ヴィッキーもメンバーであったジェノア・ケアヴェのグループのリーダーであるジェノア・ケアヴェを母親にもつこれまたベテランの歌手です。彼は自分のアルバムだけでなくジェノアのアルバムにも参加して、その堂々たる声を聴かせてくれています。

イヴァラニ・カハレワイ ハワイ・コールズのアルバムの中で「Blue Muumuu」を歌ったキュートな女性歌手がいたことを記憶されている方も居られるかと思いますが、この当時ハイティーンであったイヴァラニ・カハレワイも現在ではすっかりベテラン歌手となり、演奏会にレコーディングにと活躍しています。

3-3.名曲「Song For Anna」の由来

オータサンの「作品」ではありませんが、オータサンが世界的なウクレレ奏者として認められたアルバム「Song For Anna (A&M SP-3651)」について、いままで一般には知られていなかったエピソードをご紹介いたしましょう。

1976年にリリースされたこのアルバムは「恋は水色」の作曲者として有名なアンドレ・ポップがオータサンの才能に感銘を受けてつくりあげたアルバムで、その中にはオータサンの為に作曲したいくつかの作品が含まれていましたが、彼はそれぞれの曲にタイトルは付けず、単に「オリジナルA」「オリジナルB」といった仮のコード・ネームで扱ってきました。

アルバム用のレコーディングが終わり試聴テープがつくられたときに、あるハワイの放送局でこれらの曲をタイトルのないままいち早くオンエアいたしました。たまたまメインランド(米本土)から旅行でハワイにきていた女性がこの曲をラジオで聴き大変気に入ったので、旅行から戻ると地元のレコード店を探し回ったのですが当然ながらリリース前ですので見つかりませんでした。そこで彼女はこの放送局に手紙を送り問い合わせたところ担当のDJの青年から丁寧な返事が届き、これがきっかけとなって二人は文通を続けるようになりついに結婚するまでに発展いたしました。この二人のエピソードがレコード会社の耳に入り、今まで決まっていなかった「オリジナルA」の正式タイトルをこの女性の名前を取った「Song For Anna」と決定いたしました。いまでもオータサンは「あの楽譜には“友人ハーブ・オータに捧げる”と書いてあるのになぁ」とぼやいていますが・・・。

ところで「オリジナルB」は「A Shade Of Blue」となったのですが、このいきさつはわかりません!

4.曲目の紹介

1) ウェザー・マン

 アルバムのトップは哀愁を帯びたマイナー(短調)の曲で、特に日本人の好みに合致した曲「Weather Man」です。「ウェザー・マン」とは「天気予報をする人」のことで、ここでは「天気」の「weather」と「〜かどうか」という意味の「whether」をかけことばとして使い、「気に掛けている彼女のことを予測して欲しい、彼女は私のところへ戻ってくるのだろうか、それとも悲しい結末になるのだろうか」と歌う歌詞が付けられています。

2) リリー

 オータサンは1970年代の初めにメンバーともにブラジルに演奏旅行へと向かったのですが、そこで二つの大きな災難に遭ってしまいました。まず持ち込んだ10万ドル以上もする楽器類一式を税関で没収されてしまい、続いて銀行で現地の通貨に換金しようとしていたときに大切なパスポートをひったくられてしまったのです。そこにいた女性がすぐに犯人を追いかけ、取り押さえてくれたためオータサンのパスポートは無事戻ってきたのですが、この17歳のイギリス人女性リリーのためにオータサンが作詞もした作品がこの「リリー」でした。

 ここでの演奏はボサノバのリズムですが、悪い思い出ばかりのブラジル旅行の中で唯一明るい思い出としてこの曲を演奏しています。

3) アイ・ウッド・ラブ・トゥー・メイク・ユー・マイン

 我が国で根強い人気をもっているコーラス・グループ「サーカス」が昨年リリースしたアルバム「Nostalgia 〜Heart IV〜」(Sound Circus SCAC-004) の中で「夕景」という曲をアルバムのクロージング曲として収録していますが、これは長年親交のあるオータサンがこの「I Would Love To Make You Mine」のメロディーを提供、メンバーの叶央介氏が作詞し、オータサンもレコーディングに加わった曲なのです。ジェイミー・ホープのつくった英語の歌詞と叶氏のつくった日本語の歌詞のいずれもがこのメロディーとぴったりとマッチしていますので、個人的に私の最も好きな曲の一つとなっています。

4) ファイナー・シングス

 この曲「The Finer Things」はジムの作詞によるラブ・ソングです。「私が手に入れようと願っていた“素晴らしいもの”とは、クルマや飛行機、そしてスペインの別荘のようにお金さえあれば買うことができるものだとばかり思っていたが、あなたを愛したことで初めてこの考えが間違っていたと分かった。“最高のもの”は二人の愛だった」という歌詞をブルースが甘く歌います。

5) ホエン・アイム・ノット・アラウンド

 「7年も一緒に過ごしてきたけれど、私は遠くへ旅立ちます。私がそばに居なくなったらあなたはどうするでしょうか?」という歌詞をもつ「When I'm Not Around」ですが、30数年前にオータサンがプナホウでワークショップを開いた際に有名な詩人の紹介で現れたのがこの曲の作詞者である当時16歳だったヴィック・ショーンバーグでした。彼の作る詞はどれもが大変綺麗な歌ばかりなので、当初オータサンはこの青年が誰かの詞をコピーしたかと思ったそうですが、その後彼の詞とオータサンのメロディーのコンビによって "Summer Nights"(歌:リンダ・グリーン)をはじめ、たくさんの曲がつくられ、いくつかのアルバムにも収録されるようになりました。

6) レインフォレスト・ワルツ

 オータサンのレコーディングでよく利用するスタジオにオーディオ・リソース社のスタジオがありますが、この会社のスタジオはホノルルの町中とヌウアヌの山中の二カ所にあって、ホノルルのスタジオでは実際のレコーディングを、そしてヌウアヌのスタジオでは主としてトラックダウンを行っています。

 2000年8月に中野裕之監督、錦戸亮(ジャニーズJr.)主演によるBS-i(TBS系のデジタル・ハイビジョン放送局)開局記念番組『PEACE WAVE〜ウクレレと少年』の収録用として、オータサンのオリジナル曲数曲から一曲を選ぶという作業がこのヌウアヌのスタジオで行われた結果この曲が選ばれたのですが、当時はまだ曲のタイトルが付いていませんでした。そこでそのスタジオのオーナーであるトニー・ヒューガー氏の提案で付けたタイトルがこのスタジオのあるヌウアヌの地域に因んだ「Rainforest (熱帯雨林) Waltz」でした。

 このしゃれたタイトルは、そのまま今回のアルバムのタイトルにも採用されましたが、ハワイアンに限らず、美しいメロディーばかりが並んでいるオータサンの作品集のタイトルとしても最適だったと思っております。

7) プア・ロケラウ

 盲目のハワイアン歌手、作曲家であったジョニイ・アルメイダの作品に「Green Rose Hula」という曲があります。タイトルは英語であるにもかかわらず歌詞はすべてハワイ語となっており「No ka pua lokelau ke aloha, no ka u`i kau i ka wekiu」と歌われますが、この歌詞の「lokelau」が「green rose」(グリーンローズとは中国原産のバラの一種で花びらまでが緑色をしている花のことです)のハワイ語に相当いたします。しかしながら今回の曲「Pua Lokelau」はジョニイの作品とは全く無関係につくられたもので、作者はキャサリーン・ロゼグオという変わった姓の白人女性です。彼女は白人でありながらハワイ語に堪能で、現在もハワイ島で子供達にハワイ語だけを使ってサイエンスを教えているとのことでした。

 この曲自体は1981年に作られたのでオータサンや息子のジュニアも何度か演奏しており、ジュニアの最新アルバムにも収録されていますが歌詞が歌われたのはこのアルバムが最初で、今回のリード・ボーカルであるギャリー・アイコたち三人の歌手も初めて唄った曲でした。そして三人ともそのメロディーと歌詞の内容に感動し、今後彼等のレパートリーにしたいと言っていました。

8) フレンチ・カフェ

 この曲「The French Cafe」も「Weather Man」と同様な構成の短調の曲で、私たちの心の琴線に触れるようなメロディーを持っています。いつもの待ち合わせ場所であるフレンチ・カフェで現れない恋人を待っている男のことを歌った歌で、彼は二人の関係に終止符が打たれたようだと悟りながらも、今までの楽しかったランデブーの数々に乾杯する、という内容になっています。このあたりはジムの作詞のセンスが生きています。

9) サムワン・ニュー・イン・マイ・ライフ

 この曲「There Is Someone New In My Life」の作詞者デニス・クザインはオランダの人ですが、オータサンは彼とハワイで会い、その作詞の才能を見込んで彼にいくつかのメロディーを提供、この曲もその中の一曲でした。「私の暮らしを一変させてしまうほどの人」にめぐり逢ったときの気持ちの動きを歌った曲で、英語の特徴である「性別が分からない」二人称 (you) を使うことで、男女いずれにも当てはまる曲になっています。

10) カマアイナ・ケイキ

 ハワイの大作曲家の一人ロバート・アレックス・アンダースンには「Malihini Mele」「Haole Hula」「Lovely Hula Hands」「On A Coconut Island」「Mele Kalikimaka」等、たくさんの名曲があり、その大半は作詞作曲を彼自身が手がけています。一方、彼はオータサンの作るメロディーが気に入り、それに歌詞をつけた「共同作品」も発表しております。オータサンのアルバムのタイトルにもなった「Ukulele Isle」(Decca DL-74704) とともにこの「Kamaaina Keiki」がふたりの「共同作品」なのです。

 ここではニナ・ケアリイワハマナがリード・ボーカルとなり、ギャリー・アイコ、イヴァラニ・カハレワイのトリオで唄われますが、「カマアイナ(正確にはカマアーイナ)」は「その土地に生まれ育った人」、「ケイキ」は「子供」のことで、「あなたが土地の子供でないとハワイ人の私が唄ったり話したり歩いたときの意味が理解できないでしょう・・・・」といった歌詞になっています。

11) ゾーズ・アイズ

 ジェイミー・ホープが女性作詞家ならではの「女性の気持ち」を「Those Eyes」の詞に書いています。オータサンはこの詞で「One look at you and I knew we'd be together, next look is up to you・・・・」の最後の部分のことを「ボクには“あなた次第”という気持ちは理解できない(笑)」と言っていましたが、いずれにしてもこの曲は愛する二人がお互いの瞳をのぞき込んでいる場面を歌っています。

12) ダンシング・イン・ザ・レイン

 ジェイミー・ホープの詞が続きます。この「Dancing In The Rain」も愛する二人の歌で、「雨の中で踊っている私をどうやって捉えたか教えてちょうだい!」といった歌詞が付いています。この演奏には関係ありませんがオータサンが「先輩として?」ジェイミーの歌詞を修正した部分があります。それは「Please love me more, come to my door・・・・」というジェイミーの作詞に対して、愛しているならばそんなおとなしい言い方じゃない筈、と「 Please love me more, run right through my door・・・・」のように変更したとのことでした。

13) リンガー・イン・ユース

 この曲「Linger In Youth」の作詞者ボブ・アランとオータサンの付き合いも長く、1976年リリースのアルバム「Song For Anna」中の「Living In Dreams」の歌詞もこのボブが書いています。

 「あなたも子供のころは友達とふざけあったり、学校帰りに一緒にアイスクリームを食べたり、いろいろな冒険について語り合ったでしょう。ちょっとだけその時代を思い出してみようではないか、人生はあっという間に過ぎて行くから」という歌詞をブルースが歌い上げます。

14) レイジー・デイ

 この「Lazy Day」はちょっと聴くとバート・バカラックの曲のような雰囲気を持ったワルツの曲です。そしてなぜか小節の数が18+18+16+18となっているので、アドリブをする立場から見ると演奏しにくい曲ではないでしょうか。「なぁんにもせずに二人でのんびりしようじゃないか、ちょうど満足げな二匹の猫が日向ぼっこをしているように。急ぐことはない、私たちには時間がいくらでもあるから・・・」といった歌詞が付いています。

15) ハワイ

 「オータサン作品集」の最後はオータサンの代名詞ともいわれるこの「Hawaii」です。オータサンの演奏会のクロージング曲として今までも数限りなく使われてきましたし、石原裕次郎が次の作品のテーマ曲として使いたいと言いながら果たせずに亡くなった思い出の曲としても知られています。

 この曲はいままでもオータサンのアルバムやビデオに何度か収録されていますが、そのほとんどがオータサンのウクレレによるインストゥルメンタルであるのに対し、このアルバムではベテラン歌手のニナ・ケアリイワハマナによって歌われております。ニナの音域は今回のキー(調子)よりも少し高い側にあるのですが、今回の録音ではウクレレの演奏も考慮してオリジナル・キーで演奏されたため、彼女独自のアレンジによるメロディーを交えて歌っています。このアレンジも大変新鮮ですので、今後このような歌い方でカバーする歌手が現れるかも知れません。

[写真の説明]
ホノルル「トーマス・スクエア」にあるプリンセス・カイウラニのバニヤン・トゥリー前にて撮影。
 この巨木は23歳で夭折したカイウラニ王女の一家の住居である「アイナハウ」に植えられていたバニヤン・トゥリーで、カイウラニが亡くなった後、父親のアーチボールド・クレッグホーンがこの公園に移植したものです。ホノルルにある美しいバニヤンは、皆この樹から株分けしたという伝説の大樹です。


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