八代将軍吉宗の享保7年(1722)、道修町薬
種屋仲間124人が、株仲間として幕府から公
認されました。その株仲間の『人数帳』が、
道修町文書として9冊保存されています。



現存する最も古い人数帳は『享保10年5月』
の覚え帳で、頭取として記載されている伏見
屋市左衛門は、伏見屋市兵衛(のちの小野市
兵衛家(*1)の先祖)の主家でした。
初代伏見屋市兵衛は、享保2年(1717)20
歳の時、主家から別家を許されたと言われて
いますが、株仲間として名前が挙げられたの
は、享保20年(1735)の人数帳からでした。


「寛延3年3月改の人数帳」
この帳面には、次冊の人数帳が宝暦9年12
月に改められるまでの9年間の異動事項(名
前、住所、代判、相続、養子、株取得、譲り
株、休み株、預り株、改印など)が「貼り紙」
によって記入されています。
各人数帳の貼り紙をたどれば、その家の経
歴が分かることになるのです。





『宝暦9年]2月改の人数帳」
道修町二丁目 近江屋長兵衛(のちの武田
長兵衛家(*2)の始祖)の名が出ています。貼り紙
に「近江屋長兵衛義、是まで中買商売休み居
り申し候処、向後商売相勤め申し候 天明元
年6月」と記載されています。
この貼り紙の下に「近江屋喜之介株名前、
手代長兵衛へ譲り受け、尤も勝手につき 当
時中買力相休み候につき株は仲間に預り置き
申し候 安永8年4月」という貼り紙がされ
ています。
この2枚の貼り紙によって、初代近江尾長
兵衛が安永8年(1779)に中買仲間株を取得
後すぐには開業せず、天明元年(1781)に中
買仲間として営業を始めたことが分かります。



『天明元年12月改の人数帳』
道修町三丁目 田邊屋五兵衛(*3)の項に「近江屋九兵
衛中買株 このたび田邊屋五兵衛譲り受け、向後商
売相勤め申し侯 寛政3年11月」という貼り紙があります。

田邊屋五兵衛家は、初代が延宝6年(1678)、土佐
堀―丁目で”たなべや薬”を発売した合薬(あいく”
すり)屋として有名でしたが、六代五兵衛になっ
て道修町三丁目.に移り、寛政3年(1791)に薬種
中買仲間に加入したのでした。



『寛政11年12月改の人数帳』
道修町二丁目 塩野屋吉兵衛(*4)の所の貼り紙に「福島
屋半兵衛代判善七にて商売相勤め罷り在り処、このた
び株相退き、中買株塩野屋吉兵衛譲り受け、商売相勤
め申し候 文化13年10月」と記載されています。
塩野家の始祖である初代吉兵衛は、主家の塩野屋藤
兵衛から30歳で別家を許されましたが、中買株を取得
したのは、別家から8年後の文化13年(1816)でした。


以上の例のように『道修町薬種中買仲間人数帳』は、
道修町の薬種問屋のルーツを知る上で大変貴重なもので、
保存会秘蔵の『人数帳』を3ヵ月交代で順次展示しご
覧に供しています。






今年からスタートした「道修町文書を読む会」は、
講師の野高宏之先生の初心者にも解りやすく”面白
いお話で、受講者の皆さんに大好評でした"
「道修町文書は薬種中買仲間の会所の書類とい
う性質上、読みやすくはっきりと書かれているの
で、古文書の入門には最適です。これからも続け
て行きたいですね」との先生のお言葉もあり、来
年も皆さんの参加をお待ちしております。