第一回:2002年11月19日掲載

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「女性被害者の部屋」一周年に寄せて

   らいだーまん様のサイト「女性被害者の部屋」がこの11月で一周年を迎えたとの由、同じ嗜好を持つ同胞として、心からお祝いの言葉を贈りたいと思います。

    私が「タイトロン」のサイトからこの「女性被害者の部屋」に辿りついたのはサイト開設から間もない2000年11月半ばでしたから、一応、このサイトの草創期からのファンとして認めて頂けると思います。初めてのBBSへのカキコミから、溶解短編小説の寄稿、さらに溶解ビデオの制作・実現へと、私にとっても波乱万丈の1年間でございました。これからも新しい企画を提案して、サイト充実に協力してゆきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

    らいだーまん様と同様に、私もまた、顔面にハエ男の白い毒液を浴びて爆死した薄幸のお手伝いさん(『仮面ライダー』第42話・上右画像)、ドクロイノシシの牙に突き刺されてドロドロに溶けた生贄の女性(『仮面ライダーV3』第31話・上左画像)などのお陰で、溶解フェチの世界にのめり込んでいったのでございます。

    この2人の女性をきっかけとして、その後、数多の溶解シーンを求めて特撮作品を渉猟していった点で、私とらいだーまん様はまさに赤い糸で結ばれていたと思います。

溶解美女のエロス

    では、どうして私たちはこのように溶けて亡くなる女性被害者に萌えるのでしょうか?

    ここではドクロイノシシの生贄となった女性について考えて(妄想して?)みたいと思います。

    物語の設定は至極明快です。デストロンの新幹部キバ男爵の呪文により蘇ったキバ一族の一員、ドクロイノシシの生贄・実験台として、デストロンの捕虜となっていた若い女性が殺されるのです。

    この女性(出演・石原清美)、年のころは24−5歳でしょうか。髪の毛は今風に少し茶髪気味で、少しウェーブのかかったワンレンにしています。聖なる生贄に相応しく、輝くように真っ白なブラウスに、下は黒地にグレイの幾何学模様をあしらったマキシ・スカートをはいています。彼女は気を失ったまま、人間の頭蓋骨をトーテムポールのように積み重ねた柱の前に立たされ、両腕は磔に処せられたかのように鎖で縛りあげられています。鎖は彼女のブラウスの、胸の上でタスキがけされ、彼女が身動きができないように縛りつけています。これだけでも、呪縛ふぇちの方々にとってなかなか萌える構図ですね。

    さて、意識を取り戻した彼女の前に棺が置かれ、中からドクロイノシシがその奇怪な姿を現します。女性は甲高い、絞り出すような声で悲鳴を上げます。

    女性は恐怖で身体をこわばらせ、悲鳴を上げながらその場を逃れようとして必死でもがきますが、鎖に縛られて身動きができません。その彼女に向かって、ドクロイノシシはゆっくりと近づいてゆきます。

    ついに女性の最期の時が来ます。ドクロイノシシは彼女の豊満な(?)胸に鋭い牙を突き刺します。シルクのように白く眩しいブラウスの身ごろが引き裂かれ、胸元から鮮血が迸ります。

    たっぷりと鮮血を吸ったドクロイノシシが生贄の女性から離れると、女性の顔はみるみる乳白色の粘液状に溶解してゆき、すべての肉体がドロドロに崩れ落ちて、ついには醜い骸骨だけになってしまいます。これにて生贄の美女、一巻の終わりです。

    ドクロイノシシに端を発するキバ一族シリーズは、『仮面ライダーV3』の新境地を開くものとして、非常に重要な位置を占めると思いますが、それにしてもこの若い女性を実験台とした処刑のシーンは凄惨です。これを見てビックリして、怖がった少年少女も多かったのではないでしょうか?

    しかし私はこのシーンを非常にエロスに満ちたものと感じました。ある特撮サイトで「ここで女性のブラウスが破けて、胸が見え、ちょっとエッチで大人向け」だったと記述しているものがありましたが、私の感じたエロスはそれとはちょっと違うものです。

    古今東西の芸術を見渡して(とは言え、もちろん全世界のすべての芸術作品を調べるなんてことは私には不可能ですから、これは行き当たりばったりの芸術体験なのですが)、女性が獣の牙に突き刺されて殺されるなんていう凄惨な形象はないように思われるでしょう。ところが一つだけ(他にもあるかも知れませんが、私が知るところでは一つだけ)、そのように残虐な殺人シーンが描かれている作品があります。それは、かの有名な『南総里見八犬伝』で、放浪する八犬士たちにまとわりつき、彼らを悩まし続けた毒婦・船虫(ふなむし)の最期のシーンです。

    何度も罪を犯しながら八犬士たちから逃げおおせた船虫は、流れ流れて女衒に身を持ち崩し、男客の舌を噛み切って殺し、金を奪うという悪業を働いていましたが、ついに運が付き、八犬士たちに殺されるのです。この処刑の仕方が凄い。最後に船虫の犠牲になった男客は牛追いだったのですが、彼が連れていた牛の角で船虫の身体をメッタ突きにして殺すのです。牛にとっても船虫は主人の仇でしたから、これは言わば敵討ちであり、勧善懲悪の筋が通るというわけです。

    ちなみに『南総里見八犬伝』において、船虫が登場する挿話はすべて角とか牙を持った獣と関係があります。

    まず最初の登場では、仲間とはぐれて旅をする犬田小文吾が森の中で猪に遭遇します。小文吾は持ち前の怪力で猪を殴り殺し、猪を撃とうとして逆に跳ね飛ばされ気を失っていた並四郎という男を助けます。実はこの並四郎は悪い奴なのですが、小文吾は恩人として彼の家に呼ばれます。そこで出会ったのが、並四郎の細君である船虫だったのです(後の筋書きは溶解と関係ないので、カットします)。

    次に船虫が登場するのは、犬村大角の父・赤岩一角の後家さんとしてですが、実は大角の本当の父は山中で溶解、もとい妖怪猫に噛み殺され、ここに登場している赤岩一角はこの化け猫の変身した姿でした。つまり、ここでの船虫は妖怪の細君というわけで、生半なことではやられそうもない、相当なタマです。しかし、ここでも船虫には獣の牙がついてまわります。

    三度目に船虫が現れるのは、犬田小文吾が越後で闘牛を見ているとき、一頭の牛が暴れだし、これを小文吾がまたしても怪力で取り押さえるという事件があった直後です。この事件を傍らで見ていた船虫は、その晩小文吾の宿に按摩として現れ、目を患った小文吾の背後から彼を殺そうとしますが、気配を察知した小文吾に取り押さえられます。小文吾は船虫を直接殺すことはせず、神慮まかしにかけようと言って、縄で縛ってお堂の中に吊るし上げます。ある日数だけそのまま吊るしておき、お堂を通る者が船虫を折檻するのにまかせ、生き延びることができれば放免するという、犯罪者の懲罰を神様に委ねる土地のならいでした。しかし船虫は、ちょうど通りすがりの犬川荘介を騙して、呪縛を解いてもらい、まんまと逐電します。

    そして四度目の登場が先に述べた女衒としての悪業、そして八犬士たちに捕らえられ、牛の角によって突き殺されるという最期を遂げるわけです。

    船虫の話を長々としてしまいましたが、私はドクロイノシシの生贄になった若い女性の最期は、この船虫の最期に通じるものがあると思います。凶器こそ牛の角から猪の牙へと変わり、被害者も稀代の悪女から若い薄幸の美女(?)と、多少の相違はありますが、両者とも凄惨かつ残虐な殺人事件でありながら、それでいて見る者(読む者)に何か消し去りがたい官能美を感じさせるのです。少なくとも私にはそう思えました。それで、どうしてそう思ったかを考えてみようというのが、このエッセー(妄想)の趣旨なのです。

    船虫の場合、現れては悪事を働き、いったん捕まりながら、まんまと逐電する……というパターンを四度も繰り返すのですが、その都度、彼女に対する周囲の対応がサディスティックになってゆきます。すなわち、神慮まかしにされて縛り上げられ、お堂に吊るされるというのは明らかに緊縛ふぇちの世界で、そこには暴力とセックスとの混交が見られます。

    同様に、牛に突き殺される最期の場面においては、牛の角は屹立する男性性器を思わせ、突き殺す=性器の挿入のダブル・イメージを与えます。

    そう考えたとき、ドクロイノシシの犠牲になった若い女性の悲鳴は、いわゆる助けを求めて大きな声で叫ぶというより、痛みを覚えて苦しむと同時に、どこか、これまで体験したのないような愉悦から喘ぐような印象があることに気づきます(石原清美さんの名演ですね)。

    もちろん、彼女と船虫では状況が違う。船虫はこれまで犯した数々の悪業の罪を償うため、悪を清めるための儀式に捧げるための生贄でしたが、ドクロイノシシの生贄にされた女性はそんな悪事を働いたわけではなく、不幸にも捕らえられ、理由もなく処刑されたのだから、意味合いが異なる……、そう考えられる方々もいるでしょう。

    ここから先はもう完全に妄想の世界、空想を楽しむだけの世界なのですが、ここで注目したいのが、彼女がはいているマキシ・スカートです。もちろん、彼女がこれをはいているのはこれが最初で最後のことでしょう。しかし、『仮面ライダーV3』の物語においては、実はこの同じマキシ・スカートをドクロイノシシ(第31話)に先行する第26話で、ヒーターゼミが化けていた若い女性(出演・水上竜子)がはいていたのです。デストロン怪人の変身した姿ですから、この女はもちろん悪女であり、裾の長いマキシ・スカートはこの女の悪業を引きずっているとも思われます(もちろん勝手な連想です)。つまり、ドクロイノシシの生贄に捧げられた女性というのは、意外や意外、ヒーターゼミが変身した悪女の生まれ変わりだったのかも知れません(もちろん妄想です)。

    一方で、生贄の女性が着ているブラウスはヒーターゼミの変身した悪女が着ていたものとは別物です。後者が着ていたのは、首元がV字に開いたテーラー・カラーでしたが、生贄の女性は首元までボタンでしっかり留めた、襟の閉じたタイプです。彼女が本当に悪女の生まれ変わりならば、まったく同じ衣装であるべきではないか、そんな感じもします。

    しかしブラウスのタイプを変えたのには別の意味がある、と思われます。

    ドクロイノシシがその牙で彼女の胸をぐっさりと刺したとき、彼女の純白のブラウスの前身ごろが破れ、鮮血が流れ出ます。牙を刺す行為が角を刺すのと同じく男性性器を挿入することだとすれば、引き裂かれた彼女のブラウスは、破られなければ性器が挿入されないもの、つまり処女膜であると考えられるのです。溶解死するだけだったら必ずしも血を見る必要はなかったはずですが、ここで血を流すということは、すなわち彼女の処女喪失を意味すると考えられるわけです。

    ここで演出家は純白のブラウス=処女膜を破りたかった、そのためには首元がV字に開いたテーラー・カラーのブラウスでは都合が悪い、前身ごろを引き裂くところがはっきり見えるように、シャツ・カラーのブラウスを選ぶ必要があった。私にはそう思えます。

    さあ、いよいよ溶解シーンです。

    乳白色の粘液を頭上から垂らされて、顔面をドロドロに覆われながら、女性が溶解してゆく様子が表現されます。この手法は、すでに『仮面ライダー』の第78話、ウニドグマの回で初めて採用されています。ここでも女性被害者(少年の母親)が登場したのですが、この時はまったく萌えませんでした。その理由としては、母親がうつ伏せに倒れて顔面が良く見えなかったこと、顔面を覆ったのがチョコ・クリームのようなこげ茶色の粘液で、それが夜の家の中の暗い照明に溶け込んで、今ひとつはっきり見えなかったこと、そして何よりも(すいませんが)この母親役の女優さんがぜんぜん美しくなかったことが挙げられます。それに対して、石原清美さんの方は(とびっきりというわけではないけど)なかなか美しい。花があります。

    ともあれ、ドクロイノシシの毒牙にかかって、生贄の女性は溶けてゆきます。この時、彼女の顔面を白い粘液が頬から顎、首筋を伝い落ちながら、いったんブラウスの襟元で溢れ返ります。これが溶解のドロドロ感を実にヴィヴィッドに表すとともに、もう一つの妄想を与えてくれます。

    もともと私は、先に挙げた女性のテーラー・カラーのブラウスが大好きです。テーラー・カラーですと、女性の豊満な乳房やその谷間が見えそうで見えない、そのギリギリのところで首元ないし胸元を仄めかします。その見えそうで見えないところが、男心をくすぐるように思います。露骨に見せてしまっては、有難味に欠けてしまうわけです。

    これに対して、生贄の女性の着ているブラウスは、先も述べた通り、首元まできっちりボタンを留めたシャツ・カラーです。この襟のお陰で(せいで)彼女の胸元は誰にも見られぬ、なんびとにも犯されぬ聖域として残されています。

    「襟」という漢字はころも偏と禁止の「禁」から作られています。ところで「禁」はさらに「林」と「示」に分解されます。これは木々で囲まれた林の奥に聖なる社(やしろ)がある、これより先は入ってはならぬ、という意味を持っています。すなわち「襟」とは、これより先に入ってはならぬ聖域=秘所=女性の胸をきっちり隠すものを意味するわけです。これにより生贄の女性の処女性はますます高まることになります。

    しかし、ドクロイノシシの毒は彼女の処女性をも容赦なく冒して(犯して)ゆきます。ドロドロに溶けた白い溶液は彼女の襟元でいったん溢れ返りますが、結局は彼女の秘所を守っていたブラウスの前身ごろをベッタリと汚しながら、流れ落ちてゆきます。ここで私たちが目の当たりにするのは、処女性を失って「女」となった人間が性の悦びの中にたゆたい、肉体までもとろけさせてゆく、まさにそのようなエロチックな構図なのです。かくして彼女は、苦悶とも恍惚ともつかぬ表情のまま、この世のものとも思われぬドロドロの顔になってフェイド・アウトしてゆきます……。
 溶けるという言葉の「溶」の字は、さんずいに容器の「容」という字が組み合わされてできています。さんずいが水や液体に関係することは周知の通りですが、一方、「容」はさらにウかんむりと「谷」に分かれます。「谷」には「口」という字が隠れていて、これは顔にあるのみならず、広く「穴が開いている状態」を指します。すると谷というのは山と山の間にぽっかり空いた空間を示すのであり、「容」もまたぽっかり空いた、何かによって埋められるべきもの=容器を指すわけです。

 ちなみに「容」のヨウという発音はヨク(「欲」)という音が変化したものと言われています。「容」すなわち「欲」に通じるわけですが、両者とも何か満たされていない状態であり、満たされることによって落ち着きます。

 こうした満たされない状態に、水ないし液状のものが注がれるというのが「溶」であり、溶けるとはまさしく人間の満たされない思い=欲望・欲情に繋がっています。私たちが「溶解する美女」に言い知れないエロスを感じるのは、あるいはこの辺に理由があることなのかも知れません。

 ついでに言うと、溶解の「解」という字は「角」+「刀」+「牛」であり、な・な・なんと、ここにも牛と角(猪と牙に通じる)が現れています。尤も、この文字は「刀」で以って「牛」をさばき「角」と肉を分かつ、ということからできたようですが、ドクロイノシシの暴力の犠牲となった美女=処女の最期の姿に、「溶解」の持つ官能美の輝きが見事に現れていると私は確信するのです。
  次回はハエ男の毒液を浴びて爆死したお手伝いさんの官能美について考えてみたいと思います。