ウツボカズランの陥弄

作:須永かつ代様

    「ぐぇえーーーっ!!!」
    早朝のオフィスに、絶叫とも獣の声ともつかぬ叫びが響いた。
出社したばかりの小沼英美は、ロッカー・ルームの鏡の前で乱れた髪型を直していたが、ただならぬ叫び声を聞いて、ギクッとなった。
    「何?今の声は?」
    彼女はロッカーの扉の裏にある小棚にブラシを置き、すぐに扉を閉め、そのまま社長室へと向かった。
    英美は大手総合商社、小倉商事株式会社の社長秘書を務めていた。小倉商事は従来より収益重視の経営をモットーとしており、バブル崩壊後の厳しい状況にあって、珍しく堅実な経営を続けていた。それもこれも、社長の棟方剛三の経営手腕によるところが大きかった。
    この日、棟方は朝早いJAL便で北米に出張することになっていた。時はまさに期末、3月28日。棟方はこの日は特に、当期売上見込みの報告書を読むため、出張直前の限られた時間を活用して、朝6時から出社していた。社長みずからが、このように早い時間に出社するため、社長秘書の英美もまた、棟方が空港へ向かう時間にあわせて、この日は特に早く出社していた。
    英美は彼女は清潔感のある純白のブラウスの上に、鮮やかなパステル・ピンクのツー・ピース・スーツを着ていた。ピンク色のスーツの大きな襟の上に、テーラー・カラーの白いブラウスの襟が重なり、会社訪問の女子大生を思わせる初々しさを見せていた。彼女は小柄で150センチそこそこの身長だったが、姿勢は良く、目じりがきりっとしており、毅然たる物腰が、さすが大商社の社長秘書と思わせる、インテリジェンス溢れる才媛としての美しさを引き立てていた。
    この日は朝から風が強く、せっかく整えてきた御髪も、社屋に入る前にかなり崩れていた。英美はロッカー・ルームに入ると、すぐにバッグからブラシを取りだし、ほつれた髪型を整えていたが、その矢先、しんと静まったオフィスの奥から、聞きなれた声が絶叫するのを聞きつけたのだった。
    「ぐわぁーーーっ!!!」
    「(あ、あれは・・・社長の声かしら?)」そう思うと、英美はさすがに気がかりになり、髪型を整えるのもそこそこに、ロッカー・ルームを出て、同じ階のもっとも外れにある社長室へと早足で向かった。
 
    社長室は小倉商事社屋の最上階、56階の、最も奥に位置していた。リスク回避という観点から言って、社長室が社屋の中でもあまり知られていない、最も突端の場所に位置しているのは、至極当然のことだったろう。だが、まさにその社長室から、ただならぬ叫び声が聞こえてきていた。英美は慌てて、社長室の大きく重い扉を開けた。
    「社長っ!どうしましたっ?!」
    そう叫んでから、英美は、もはやしんと静まり返った社長室の中を見まわした。大きなガラス窓を背にした大きなデスクには社長の姿はなかった。
    「・・・・・・?・・・・・・しゃ、ちょう?」
    恐る恐るデスクに歩み寄りながら、英美はあたりをうかがった。だが、棟方の姿はどこにも見当たらなかった。
 
    しゅうしゅうしゅうしゅう・・・・・・・・・。
 
    社長の大きなデスクの向こう側から、なにやら煙立つような音が聞こえた。英美がデスクの裏側にそっと近寄ると、机の上と社長用のゆったりとした皮椅子の上から白煙が立ち上っていた。この白煙の出元をよくよく見ると、椅子の座る部分と足元、さらにデスクの肘をつく当たりに、濃い青緑色の液体が水溜り作っており、しかもそれがポコポコと沸騰するように泡を立てていた
    「・・・・・・。え?」
    英美は何が起こったのか、事態が飲み込めなかった。いや、英美ならずとも、理解のしようがなかったろう。
    棟方は必要な書類に眼を通したら、すぐにも成田空港に向かって出発することになっていた。英美は空港まで見送りをする予定であった。しかし、肝心の棟方が、時間になっても姿を現さなかった。現しようがなくなっていた・・・・・・。
    英美は社長用の大きなデスクから、脇にある、これもまた大きな観葉植物に目をやった。それは2メートル以上も丈のある、たくさんの蔓や葉をつけた、ヘチマのような植物であった。大きな葉の先には、壷のような形のしたくぼみをつけていた。どうやらこれは食虫植物の類で、壷のような形をした部分に虫を誘き寄せ、捕獲しては、自らの栄養として吸収するようであった。英美は思い起こしていた。こういうのを何と呼んだっけ。・・・えっと、・・・サラセニア、・・・うつぼかずら、・・・・・・。
    観葉植物の鉢から、再び社長のデスクに目を移すと、異常が起こっていた。さっきまで机の上に溜まっていた青緑色の液体はなくなっており、しかも机の上に、水か何かで浸食されたような大きな穴が開いていた。この穴は完全に机の板を貫通していた。
    「・・・・・・、え?」
    まさか、と英美は思った。さっきまで溜まっていた青緑の水が、まさか机の板を溶かしてしまったのでは・・・?
    そう考えた瞬間、観葉植物の方から、ごそごそという音がしだした。はじめ英美は、どこからか風が吹き込んだのかと思ったが、社屋の窓はすべて密閉式で、風が吹き込むことはあり得なかった。
 
    ごそごそごそごそ・・・・・・・・・。
 
    英美は観葉植物を見つめた。この音は、明らかに植物の蔓や葉が、自ら揺すって動こうとする音であった。
    「ま、まさか・・・?」
    英美はその場に立ちすくんで、ことの成り行きを見守っていた。その時、不意に、鉢の後ろ側から全身黒ずくめの男が3人飛び出し、英美に飛び掛り、彼女の両脇を抱え込んだ。
    「!!! な、何をするの?」
    英美は思わず叫んだ。
 
    ごぞごぞごぞごぞ・・・・・・・・・。
 
    植物は茎や葉を揺すりながら、その丈をどんどん大きく伸ばしていった。
 
    ず、ずず、ずずずずーーーーーーーっ!!!
 
    その丈は、ついに社長室の天井にまで届くかと思われた。植物の根は、鉢の中の土からはみ出し、あたかも足を得たかのように、社長室の床一面に広がっていった。
    「きゃああーーーっ!!」
    この異常事態に、英美は戦慄した。部屋中が、何か得たいの知れない植物の蔓や葉に覆い尽くされていくようであった。
    「だ、だれかーーーっ!!誰か、来てえーーーーーっ!!」
    英美は大声で助けを求めたが、早朝のこともあり、助けに来てくれる人がいるとは思えなかった・・・・・・。
 

 
    「だ、だれかーーーっ!!誰か、助けてーーーーっ!!!」
 
  ほとんど望み薄と思われた英美の叫び声を、最上階でエレベータを降りたばかりの小川英子が聞きつけた。英子は英美と同じ、秘書室に勤務していた。英美が社長秘書であるのに対して、英子は常務取締役の秘書を務めていたが、二人とも同い年の26歳だったこと、お互い名前が似通っていたことから、二人は大の親友であった。この日、英子は、前日に遣り残した常務の報告書のコピーを取るため、早朝出勤をしたのであった。彼女は
からし色のジャケットに、黒いニットのワンピース、足にはジャケットと同じ、からし色のパンプスを履いていた。
    英美の悲鳴を聞きつけて、英子は思わず社長室の方へ目をやった。
「・・・・・・?英美?」
そう独りごつと、彼女はグッチのバッグをロッカーの中にしまって、すぐ社長室の方へ駆けて行った・・・・・・。

***
 
    英美は黒ずくめの男たちに両脇を抱えられたかたちで、完全に拉致されていた。彼女の目の前には観葉植物が大きく生え広がり、彼女を威嚇するようであった。
    そのうち、観葉植物はついに声を発した。
    「女っ!見たなっ!!」
    英美は何が起こったのか、皆目分からなかった。
    「なっ、何をっ?!・・・・・・何にも見てませんっ!」
    「ヴィヴィイイイイーッ!お前の上司は新兵器、αΩの設計図を渡そうとしなかったため、このウツボカズラン様が始末した。見てのとおり、棟方は俺様の消化液で溶けて、もはやこの世にはいないのだーー」
    「えっ!?ええーーっ?!!」
    英美は驚愕した。では、さっき机や椅子の上で見た青緑色の液体は・・・・・・?
    「我々の秘密を知ったものは、生かしてはおけぬ。女っ、お前も死ぬのだ!!」
    そういうとウツボカズランは蔓のように巻いた触手をブルブル震わせながら、英美に近づいていった。
    「いやっ!だ、誰かーーーっ、誰か助けてぇーーーっ!!」
    しかしそれが英美の最期の言葉だった。ウツボカズランは真中の、蔦に取り囲まれた補虫壷の入り口を英美の方に向けた。一瞬、大きな葉が補虫壷を蓋したようだったが、すぐに蓋を開け、とたんに壷の中からサラッとした青緑色の液体が細い線を描いて噴出し、英美の顔を直撃した。
 
    ぴゅーーーーーっ!!ぱしゃぁあっ!!!
 
    「あ、あああーーーーーっ!!!」
    絶叫する英美。消化液は英美の色白い顔を青緑色に染め、さらにスーツのジャケットの上に重なって、襟元にアクセントをつけているブラウスの白いテーラー・カラーをも青緑に染めた
    「う、うわあーーーーっ!!!」
    青緑色の毒液を顔面から襟元、胸元、そして鮮やかなピンク色のジャケットの前身ごろ、もろに浴びて、黒ずくめの男どもに両脇を抱えられた英美は、身動きが取れないまま、身体を大きく揺すって悶えた。黒装束の男たちが英美の両手を放すと、彼女は錐揉みするように身体をよじらせながら、社長室の真紅のカーペットの上に転げ、仰向けに倒れた。
    「ぎゃぁああーーーーーっ!!!」
    断末魔の悲鳴を上げながら、英美の肉体は激しい化学変化を引き起こした。見るみる間に、彼女の皮膚は細かい気孔を作り始めた。それはちょうど、角砂糖の粒と粒の間に見えるような、細かい孔であった。青緑色の液体はこの細かい気孔の中にすーーっと染み込んでゆき、染み込んだ中から角砂糖の粒を、じわじわ・・・っと崩し出した。
    それはあっという間の出来事だった。英美の全身の肉体はブドウ糖化し、あたかも角砂糖にコーヒーが染み込むかのように、ブドウ糖化した肉塊を青緑の毒液が侵食し、溶解していった。英美の肉体ばかりか、ウールの混じっていたスーツブラウスもまた、見るみる間に糖化して、もとの形態を崩していった。
 
    じゅくじゅくじゅくじゅく・・・・・・・・。
 
    あとには英美だった女性の痕跡も残らず、真紅のカーペットの上に青緑色の液体が、人間大に広がって溜まっているだけであった。
    「俺の姿を見たもの、みんなこうなるのだ!」ウツボカズランは勝ち誇ったように、こう叫んだ。
 
    カチャンッ!
 
    社長室のドアの向こうから、何かが倒れる音がした。ウツボカズランはドアの方に振り向いた。ドアが少し開いていて、その隙間から、からし色のジャケットが目に入った。
    「見たなっ!!」ウツボカズランは手とも足ともつかぬ、蔦のような触手をしゅっと伸ばして、ドアの向こうに隠れていた目撃者を捕らえた。
    それは英子だった。英美の叫び声を聞きつけた彼女は社長室のドアまで来て、英美を救うに至らず、彼女の悲惨な最期を見てしまったのだった。
    「いやっ、たっ、たすけてえっ!!」
    からし色のスーツの袖黒いワンピースの腰のくびれのあたりに蔦が絡みつき、英子は身体の自由を失った。しかしウツボカズランは執拗に。触手のような蔦で英子の身体を縛りつけてゆく。英子は身体を悶えさせていたが、そのうち彼女の両足はカーペットから浮き上がり、ウツボカズランの蔦によって宙吊りにされてしまった。
    「いやあっ!!」
    英子は両足をバタバタさせたが、何の役にも立たなかった。ウツボカズランはそのまま英子の身体を高々と持ち上げ、真中にある一番大きな補虫壷の中に彼女を放り込んだ。
 
    ずぼっ!
 
    英子を体内に放り込んだのち、ウツボカズランは彼女の身体から触手を振りほどき、代わりに大きな葉で補虫壷の入り口に蓋をしようとした。英子は壷の中を必死によじ登り、蓋をされまいと、入り口の縁のところに両腕を掛けて這い出そうとした。
 
    ぴしっ!
 
    這い出そうとする英子の頭を、触手のような蔓が叩き、彼女を壷の中に突き落とした。英子は敢えなく補虫壷の底に尻餅をついた。
「痛・・・」
 
    ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、・・・・・・。
 
    暗い壷の中で、何やら滴が垂れる音がしていた。それはウツボカズランの消化液が、壷の中に溜まってゆくその音であった。
 
    ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ・・・・・・・・・。
    ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ・・・・・・・・・・・・・。
 
    青緑色の液が壷の底に水溜りを作っていった。英子はすでに立ちあがっていたが、彼女からし色のパンプス青緑色の消化液をかぶって、次第に崩れていった。
    「ひいっ!!!」
    英子は再び、壷の中の壁をよじ登ろうとした。しかし、壁の表面からも青緑色の液が分泌され始めていて、もはや、よじ登ることは不可能だった。
 
    ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ・・・・・・・・・・・・・。
 
    「・・・・・・!・・・・・・、ひ!」
    声にならない悲鳴を上げて、英子は自分の足下を見つめた。からし色のパンプスはすでに青緑色の毒液に消化されて、跡形もなくなっていた。彼女はパンティ・ストッキングで包まれた裸足を、壷の底に溜まった消化液の中に突っ込んでいた。青緑色の毒液は見るみる間に英子の両足に染み込み、彼女の足を糖化させ、角砂糖のように崩し始めた。
    「ぎゃーーーーーーっ!!!」
    もの凄い痛みを両足に感じて、英子は絶叫したが、もはや彼女を救うすべはなかった。
 
    ずぶ、ずぶ、ずぶ、ずぶ、・・・・・・・・。
 
    英子の身体は両足の先から溶けて、次第に膝、腿が青緑色の水溜りの中に沈んでいった。毒液は、その中に浸かった彼女の肉体を容赦なく溶解していった。
    続いて黒のワンピースのスカートの裾消化液の中に浸った。次いでからし色のジャケットも浸かり、英子の下腹部は完全に糖化して、じゅくじゅく・・・と崩れていった。
    「た、たす・・・け・・・」
    すでに両胸まで青緑色の池に沈みながら、英子は最期の助けを求めた。だがそれも空しかった。彼女は顎まで毒液に浸かってしまった。そのまま唇、鼻、眼、額、・・・・・・。助けを求めて、虚空に突き出されていた両腕も、パシャッ毒液の水溜りに落ち、じゅくじゅく・・・と崩れ去った。
    「ズルッ」
ウツボカズランは舌なめずりをした。「美味い、若い女はうまい・・・」
 
    ドアの向こうから女の声がした。
    「どうしましたかっ?」
    英子の悲鳴を聞きつけて、また誰かが駆けつけたようだった。ウツボカズランは思わずニヤリとした。またしても、美味な餌食が寄ってきたのかと思うと、ウツボカズランは愉楽でおのれの身体を打ち震わさずにはいられなかった・・・・・・。
 
(終わり)