その前夜


作・仮面らいだーぶいすりゃあ様

あと1日。

いつもと同じ時刻に床を上げると、奈津子はいまさらながらに居住まいを正した。

明日には引継ぎを終えて、本社勤務に異動する。

須藤奈津子は4年前、T大学の社会学部ジャーナリズム学科を卒業し、毎朝新聞社に入社した。志望は外報部で、得意の英語を活かしていずれは海外特派員になることを夢見ていたが、新聞社の新入社員配属の常として、まずはC県の「サツ廻り」に配属された。

「サツ廻り」に回されたとは言え、これも経験と、奈津子はこの4年間、私生活を犠牲にして業務に邁進した。若い女性に似ず、夜討ち朝駆けで現場の刑事にピッタリ付き添い、無骨な鬼警部には夜11時過ぎの赤提灯まで付き合って情報を収集して、「ヤンキー母親、小4娘殺人事件」や「セレブ医師妻殺人事件」などの犯人逮捕をいち早くスクープし、世間を沸かせた。

「でも・・・」

奈津子にとっては、こんな事件はどれも空しいものだった。

「こんな事件をさらうためにジャーナリストになったんじゃない」

彼女の胸中に去来するのは、いつもこうであった、

「海外へ行きたい」

そんな彼女の希望がいよいよ叶えられることになった。

2週間前、C県支社長から呼ばれ、来月1日付けで本社外報部への異動が告げられた。

「とうとう!」

この日が来た。この4年間の苦労はすべてこの日のためにあったのだ。

外報部がそんな楽な部署であるとは思っていない。否、現在の国際情勢は困難を極めている。イラクの状況は未だ戦争状態であり、レバノン情勢も緊迫している。サミットを成功裏に終えたとは言え、ロシアはチェチェン問題等、未だ一触即発の状況だ。外報部に回ったとしても、今まで以上の苦労と、今までにない危険と背中合わせになるだろう。

それでも、なお奈津子は外報部への執着があった。

「今の時代は・・・」

報道に国内も海外もない。クロスボーダーの時代だ。日本国内だって、今まで想像も付かなかった危険が起き得るのだ。大切なのは、いかなる事態に陥っても、臨機応変に対応できるフットワークの軽さと、真実を追究する粘り強さだ。4年間の「サツ廻り」で、私にはその基礎体力は身に付いている・・・。

支社勤務ラスト前日の今日、奈津子は気持ちを新たにすべく、これまでのチタン・フレーム眼鏡を外し、コンタクト・レンズに替えた。コンタクトはずっと以前から持っていたが、普段の仕事では女性であることを敢えて押し隠すように、眼鏡をかけてわざと野暮ったさを装っていたのだった。服装についても、これまでダーク・グレイのスーツが多かったのを、今日は特別に黒のキャミソールに真っ赤な比翼ジャケット、ボトムも黒いパンツ・ルック、靴も黒のミュールという、今までになく人目を引く、スマートなコーディネイトで決めてみた。

「白鳥デスクは何て言うかしら?」

果たして彼女が出社したとき、白鳥デスクは「(をっ)」という声にならない表情の変化を見せたが、こういうときに下手にリアクションするとセクハラになることはよく理解していた。彼は「なっち、今日は乗ってるね?」と声を掛けるに留め、奈津子は上司のそうした深謀遠慮をくすくすと笑った。

「なっち、引継ぎは順調かい?」

奈津子の含み笑いを知ってか知らずか、白鳥デスクは話題をそらすように声を掛けた。

「はい、デスク。今日の定時までにはすべて終わります。明日は荷物の整理に専念します」

「そうか。まあ、きっちりやってくれ」

4年か・・・。大学を出たばかりで、世間の何たるかなどまったく分からず、ジャーナリズムを勉強してきたというので鼻っ柱がやたら高く、たたき上げの荒くれ刑事にどやしつけられるたび、目にいっぱいの悔し涙を溜めていたなっちが、いよいよ本社に栄転する・・・。白鳥デスクの胸の内にもいろいろ思うところがあった。これもOJTと、直接手出しすることは控えてきたが、彼女が涙にくれていたとき、側面援護をしてくれたのは、県警の鬼と言われる木戸警部だった。警部は早から奥さんを亡くされているが、娘さんと、家の坊主と同級の息子さんの二人の子供がいる。無骨だが、若い娘に対する配慮は自分を上回るものがあった。木戸さんのお陰でなっちがここまで成長したと言っても過言ではない・・・。

 

「なっち、午後一に県警に行くが、一緒に来れるか?」

「はい、例の事件ですか?」

奈津子は後任の三崎由紀子に引き継ぎ書の某ページを示しつつ、白鳥デスクの方に向き直った。

奈津子にしても、木戸警部にはひとかどならぬ世話になっている。県警に行くと言えば、それはイコール木戸番に赴くことを意味していたが、まさかここで「木戸さんにご挨拶に行く」とは言いづらい。

例の事件、とは1週間前、近郊で起こった幼稚園バス消失事件だった。通園途上の幼稚園バスが、忽然として消えたのである。園児20人と引率の保母2名が行方不明になっている。同時に、近くの公園の砂場で遊んでいた幼児2人も行方不明になっている。県警は集団誘拐事件として捜査本部を組織したが、今現在、まったく手がかりがない状況である。

そんな中、昨日、道路工事に従事していた土木作業員が変死する事件が発生した。1人は頚部をあまり鋭利でない刃物で切断され、首なし死体で発見された。もう1人いたはずの作業員は行方不明である。

奈津子は昨日、事件の起こった現場を取材しているが、現場に張られたロープの中で苦虫を噛み潰したような木戸警部のしわしわ顔が印象的だった。

「例の幼稚園バス行方不明事件で」、白鳥デスクは言った、「県警から経過説明があるらしい。当然、木戸さんが出てくるはずだ。引継ぎで忙しいかも知れないが、せっかくだから一緒に行かないか?」

願ったり叶ったりです、という表情で奈津子は上司に応じた。

県警まで車で15分。何度この道を通ったことだろう。それも今日が最後になるかも知れない。明後日からは本社、外報部勤務だ・・・。

経過説明と言っても、何も別室を仕立てて記者会見をするわけではない。県警の2階の廊下の奥まった片隅に、各紙の支社、地方テレビ局の記者が十数人たむろしている。黄ばんだ染みのある灰色の壁、タールで塗りこめられたようなべたべたした廊下、すでにこの4年間で自分の日常生活空間になっていると言っても過言でない。それも今日でお別れか・・・。

がちゃ、ぎいいーーっ。

蝶つがいがきしみ音を立てながら、ドアが開き、見慣れた木戸警部のしかめ面が現れた。後ろには若い刑事が2人続いている。そのうちの1人は2年前、奈津子にプロポーズしたことがあるが、奈津子がどう答えてよいか分からず、うろたえているうちに、間髪入れず、木戸警部(当時は警部補だった)が鉄拳を食らわせた。以後、彼は奈津子に一言も声を掛けなくなった・・・。

木戸警部が口を開いた。

「えぇー、ただいま世間を騒がせている行方不明事件についてでありますがー」

相変わらず飾りもそっけもない、無骨な切り出し方だ。

「・・・県警としても鋭意捜査中であります」

「鋭意捜査中」、他の警察官や検察官が言ったのならば、これは犯人の検討も付かないことを誤魔化す表現でしかないが、木戸さんの場合、これは何か一定の確信があるときの決まり文句だ。

「ただ・・・・・・」

そら来た。鋭意捜査中、しかし何らかの留保付き。さすが木戸警部、何かを察知しているのだろう。

「市民の皆さんには、得体の知れない白い泡にご注意下さい、とお伝え下さい」

???

奈津子は拍子抜けした。

得体の知れない白い泡?木戸警部らしからぬ、突拍子もないコメントだ。

いつもなら現場に残された多少の手がかりをそれとなく仄めかし、我々ブンヤさんにスクープのチャンスを与えてくれるのだが、白い泡?これでは取り付く島もない。

「白い泡?はっはっはっ、何です、そりゃ?」

木戸警部とは旧知の仲の白鳥デスクが失笑する。

「今はそれしか申せません。ま、くれぐれも気をつけていただきたい」

少しばかり憮然とした木戸警部は踵を返し、ドアの向こうへ立ち去ろうとした。デスクが

「あ、木戸さん、ちょっと・・・」と声をかけ、奈津子の方に目配せをした。異動の前の挨拶の機会を作ってくれようというのだ。奈津子は感謝の念に耐えなかった。白鳥デスクにも、木戸警部にも・・・。

木戸警部は奈津子がいつもと異なる、インパクトあるファッションでいたことに気づいたのか、彼女の方に振り返ると、少し頬のしわがほころんだようだった。

次の瞬間、木戸警部の視線が奈津子とは別の方向に投げやられた。警部の表情の変化に気づかない奈津子ではなかった。

白鳥デスクも表情を変えていた。

「あ、あれは・・・?!」

県警の薄暗い廊下の片隅、開け放たれた明り取り用の窓から噴水が湧き上がっている。いや、噴水ではない。なにやら白いもの。・・・泡だ!白い泡が階下から噴水のように湧き上がり、窓から2階の廊下に吹き込んでいるのだ。

しゅしゅしゅしゅしゅしゅ・・・・・・・・・。

「これは・・・?」

白鳥デスクは夢でも見ているような顔つきだった。奈津子もしばし、状況が分からないでいたが、沈痛な面持ちの木戸警部を見て、「ひょっとして、これが・・・?」と考えをめぐらせた。


白い泡に気をつけろ、木戸さんはそう言った。でも、この泡が何だっていうのかしら?これが幼稚園バス行方不明とどういう関係が?それよりも、この泡はいったいどこから出てきているのかしら?

泡は2階の窓から吹き込んでくる。階下では誰が、どのように泡を送り込んでいるのか?奈津子ならずとも、誰しもが疑問に思うことだ。

奈津子のすぐ隣にいた、ツイード地のジャケットを着た、あまりうだつの上がらない感じの記者が窓の方に近づいた。読掛新聞の本間だ。何でも首を突っ込んで、自分で確認しないと気が収まらない、ある意味、ジャーナリストの鑑のような男だが、このときばかりは生粋のジャーナリスト精神が災いした。

本間は泡が吹き込む周期や吹き上げる高さに気を使いながら、そろそろと窓に接近したが、カメラを持ち上げようとした瞬間、泡の動きの周期が変わった。泡はいきなり吹き上げる高さを変え、まだ届かないだろうと思って距離を取っていた本間を直撃した。

しゅしゅしゅしゅしゅ・・・・・・・。

「うわっ!」

文字通り、面食らった本間は、タールでべたべたした廊下の上に尻餅をついた。すぐに起き上がろうとしたが、泡は一気に本間の上半身を覆いつくした。

「うぷっ!」

周期が変わってからの泡の噴出は止まるところがなかった。本間は床の上で仰向けのまま、身動きも出来ず、10秒もしないうちに全身が泡で包み込まれてしまった。

「い、いかん!泡で人間がやられるっ!!」

白鳥デスクが叫んだ。続いて、木戸警部が本間を助けようと駆け出そうとしたが、デスクがそれを必死に止める。

「駄目だっ、木戸さん、あんたもやられるぞっ」

奈津子はしかし、事態を冷静に追っていた。

(やられる?人間が泡に?どうして?どうやって?ただの洗剤の泡じゃないの?)

泡に覆われて倒れている本間のすぐ傍ら、廊下の角には非常用消火器が1基設置されていた。

(消火器の泡みたい。本間さんも何を大袈裟な。さっさと立ち上がって泡を払えば良いのに)

窓から吹き込む泡の勢いがやや衰えた。奈津子の背後では白鳥デスクが木戸警部を羽交い絞めにしながら、泡に近づかないよう抑えている。

不意に奈津子は、もっと接近して泡の正体を突き止めたいという欲求に駆られた。本間がなぜ倒れたまま起き上がらないのか?そもそも、この泡は誰がどのように吹き込んでいるのか?

噴出す泡の勢いがやや衰えたのを見計らって、奈津子は倒れている本間の足元を過ぎて、反対側、つまり窓の側に移った。泡はまだ吹き込んでいるので窓際までは近寄れない。だか、反対側から本間の体をのぞき見たとき、奈津子は驚愕した。

「溶けてる!」

野暮ったいツイードのジャケットから除く、本間のちんけな顔は泡により侵食されて、白骨を露呈していた。その白骨すらも、じゅくじゅくと音を立てて崩れ落ちつつある。

じゅくじゅくじゅくじゅく・・・・・・・・・。

泡が人間を溶かす!これだったのか?!

やはり木戸さんはいい加減なことを言わなかった。彼はすでに犯人を突き止めていたのだ。いや、正しくは、何によって幼稚園バスや幼児、土木作業員が消失したか、分かっていたのだ。それでは、この泡の正体はいったい何なのか?

奈津子はなんとか窓に近寄り、窓の下からこの悪魔の泡を送り込んでいる犯人の正体を突き止めたかった。勢いは弱まったとはいえ、泡は吹き込み続け、すでにほとんど溶解して、原型を留めない本間の身体を執拗に覆っていた。

・・・それでも、もう少し。あと少し・・・。

奈津子は泡の動きに注意しながら窓に接近し、踵の細いミュールの上にさらに爪先立ちになって、窓の外にいる犯人の姿を確認しようと努めた。

「あ、危ない、なっち!近づいちゃいかん!!」

「奈津子くん!」

白鳥デスクと木戸警部の声が県警の廊下にこだまする。

(大丈夫です、デスク、警部。あと少しで犯人が見えます。・・・私の支社での最後のスクープです・・・)

一瞬、窓の外に異形の物の姿が見えた、気がした。それは全身が赤みを帯び、両腕は巨大な刃物になっており、身体中にぶつぶつとした隆起のある巨大なカニだった。奈津子は絶叫した。

「ばっ、ばけものっ!」

その瞬間!

ぷしゅしゅしゅしゅしゅーーーっ!!

衰えていた泡が再び勢いを増し、窓から四方八方に吹き込んだ。側方から窓ににじり寄っていた奈津子は避けることができず、まともに泡を食らった。

「ぶふっ!!」

白い泡で顔面を覆われた奈津子は、両手で必死に拭い去ろうとした。しかし、窓の外から降り注ぐ泡の攻撃は、彼女に防御を許さなかった。

しゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅ・・・・・・・・・・・・。

泡は奈津子の鮮やかな赤いジャケット、黒のキャミソール、スマートなパンツを瞬く間に覆い尽くした。奈津子は泡を拭い去ることも呼吸することもままならず、タールでべたべたした県警の廊下にうつぶせに突っ伏した。ジャケットの真っ赤な後ろ見ごろが白い泡で覆われる。

「なっち!」

「奈津子くん!!」

二人の恩師、白鳥デスクと木戸警部の悲痛な叫び声が響く。

・・・しかし、時すでに遅かった。奈津子の着ていた衣服、黒のミュールはじゅくじゅくと音を立てながら、白い滴に同化してゆき、同時に彼女の意識も遠のいていった。

じゅくじゅくじゅくじゅく・・・・・・・・・。

明日・・・、明日が最終日・・・。明後日は本社・・・。

・・・・・・だが、奈津子の夢はそこで絶たれた。後にはべたべたしたタールと混ざり合わない、白い混濁した粘液の海が人間大に広がっているだけだった。

(終)