溶解ガス Schmelzer -X(シュメルツァー・イックス)

.prevert様

1.プロローグ

 1944年5月1日、イングランド南部のメンストン飛行場。

 漆黒の闇の中、1機のウエストランド・ライサンダー直協機が飛び立とうとしていた。

 「ゴオーーンオンオンオン…」 

 スロットル全開のブリストル・マーキュリー空冷エンジンが重苦しい梵鐘のような連続音を奏で、左右の赤緑の翼端灯と白い尾灯が小刻みに揺れながら、ランウェイを加速して行く。カタカタと振動する三座めの後席に、小柄な人影がちょこんとやや前かがみに座っていた。

 SOE(Special Operation Executive 英国特殊作戦本部) 所属の女性工作員、

 クリスティン・F・ランバート大尉、コードネーム「カトリーヌ」。

 当時SOEはナチ占領下のフランスへ多くの工作員を送りこんでいた。その中には、敵地での活動をあらゆる意味で容易にするため、クリスティンのような若く美しい女性工作員も少なからず含まれていたのだった。今回のクリスティンの任務は、フランスに潜入し、レジスタンスを介してドイツ国防軍内の反総統派と接触することにあった。

 間もなく、連合軍は西部戦線で一大反攻作戦を開始することになっていた。2年前のディエップ奇襲作戦など比較にならないほどの兵力と物資が集積され、米英はドイツ本国の無差別戦略爆撃と並行して、ドイツ軍の補給路にあたるフランス国内の鉄道、橋梁、道路、そして港湾施設に間断なく爆弾の雨を降らせていた。もし、フランスに第二戦線が形成されれば、東部戦線で戦術的後退に手一杯のドイツ軍にはもはや持ちこたえる術はない。伝統的なプロイセンの流れを汲むドイツ国防軍の中には、クーデターによって総統を除き、戦争の早期終結を目指すグループが地下で密かに活動を開始していた。その中心と目されている、ドイツ陸軍の智将、グーテンドルフ中将と接触し、密かに彼らを支援するための連絡網を構築することが、クリスティンに与えられた任務の概要だった。

 クリスティンは、振動する機体の中でこみ上げてくる緊張と恐怖に打ち勝とうと、小柄な身体をいっそう縮めて拳を握り締めていた。やがて機速が加わり、それまでの激しい振動が嘘のように止むと、機はふわっと闇の中に吸い込まれて行った。離陸後、翼端灯を消して上昇左旋回しつつ、どんどん高度を上げて行く。左にバンクしたライサンダーのキャノピィから灯火管制に沈んだ黒い大地が目に入った。

 …もしかしたら、この目で見る最後の故国…

 そんな感傷めいた思いが込み上げると、26歳のクリスティンは目頭に熱いものを感じた。

 …私は、選び抜かれたSOEのエリート工作員。今回の任務は危険だけど、必ずやり遂げなければならないわ…

 気丈にも感傷を追い払うと、クリスティンは落下傘ベルトのしまり具合を確かめるようにバックルを腹に押しつけた。5月とは言え、ドーヴァー上空10000フィートの機内は凍りつくような寒さである。彼女は降下スーツ越しに、しんしんと寒気が透過してくるのを感じていた。

 落下傘降下後すぐにフランス市民に成りすますため、彼女は濃緑とこげ茶色の迷彩降下スーツの下には軍服ではなく、情報部被服室で渡されたグレーのダブル・ボタンのスーツと白いテーラーカラーのシルクブラウス、膝下5センチほどの上着と同色のタイト・スカートを着込んでいた。スカートの裾は降下スーツを着る際に邪魔になるので、股間の直下まで折りたたみ、ほのかに甘い香りのする栗色の長い髪は、パッドの入ったレザーヘルメットの中にたくし上げてあった。降下スーツは着地後に速やかに脱ぎ捨てることができるように四肢、体幹に多数のジッパーが付いていた。用具袋には偽造の身分証明書、現金、下着類、履き替え用のパンプス、化粧品、果ては買収用の高価なナイロン製ストッキングまでもが入れてある。

 機はグリネ岬上空で右にゆっくり旋回し、針路を南に取った。この辺りはドーヴァー海峡の一番狭い所で、夜目を凝らすとフランスの大地が行く手に黒々と横たわるのが微かに見て取れる。機は海峡の中ほどで一旦高度を海面すれすれまで下げ、右旋回で南西に変針した。ここまではドーヴァー海峡の最短距離を取るように見せかけたのだ。ドイツ軍のヒンメル・ベット(早期警戒レーダー網)を欺瞞するためである。

 「大尉、あと15分でカーン上空に達します。準備はいいですか?」と機長がインカムで伝えてきた。

 「OK!大丈夫よ!」クリスティンが答えると、カッシング機長が肩越しに振り返ってサムアップした。

 「滑空侵入及び落下傘降下のため高度を7000フィートまで上げます。」

 上空から俯瞰すると、星明りを映した海は暗黒の陸地に比べて、微かではあるが、明るく見える。朧げながら、ノルマンディーの海岸線が左翼下にゆっくりと近づいてくるのが視認されると、カッシング少尉はおもむろにエンジンを切り、操縦桿を気持ち前に押して滑空を開始した。アロマンシュ付近で一旦は内陸に入り、ヴィレル・ボカージュに達して左旋回の後、南西からカーンに接近するコースを取る。全てが予定通り、寸分の狂いもなく進んで行く。エンジンの爆音が止むと、機体が風を切る音だけの静寂が訪れた。右前方に見るカーンの町は深く眠り込んでいるようだ。変なことに喉がカラカラに渇いているにも拘わらず、腋下は冷たい汗でぐっしょりしている。クリスティンは首に巻いた羽二重のマフラーを引き出して、鼻梁が細く、先端が少しだけ上向いた、形のよいこじんまりした鼻を覆い、ゴグルを下ろすと、降下準備のため、スライド・キャノピィに手を伸ばそうとした。

 その刹那、機首ががくんと下がり、エンジンが轟々と唸った。

 マイナス・Gのため、クリスティンの身体は放り上げられ、右側のキャノピィにしこたま頭をぶつけた。ライサンダーは右に横滑りしながら急降下する。右翼のすぐ右上を、収束した数条の赤い曳痕が流れて行くと同時に、大きな黒い塊が「ガヒューウウウン」と覆い被さるように通り過ぎて行った。

 「敵の夜戦です。退避します。」カッシングの上ずった声が聞こえた。

 …あれはBf-110。しかし、どうして判ったの?…

 レーダーがあるとはいえ、大編隊の夜間爆撃機ならともかく、闇の中を単機で、しかも低空で侵入するライサンダーに正確に接敵することは限りなく困難なはずである。訳が呑みこめないまま、機は退避行動を続ける。しかし、時すでに遅く、闇の中でもう1機の夜戦がライサンダーの後下方50m、絶好の射撃位置につけていた。

 「カ・カ・カ・カ・カーン」

 着弾によって機体は大きく振動し、機内を火花が走った。操縦席のキャノピィは朱に染まり、カッシングが座席で仰け反った。燃料タンクに火が入り、ドーンという衝撃と共に右翼が付け根から吹き飛び、機体は急激な時計回りの錐揉みに入ってしまった。こうなると、乗員は遠心力によって床板に這いつくばるしかなく、脱出はもはや不可能である。

 燃料タンクの破孔からガソリンが噴出し、クリスティンの足元を火の海にした。

 …オーマイガッ、私、星空の中で燃えてしまうの?…

 不思議にも熱さはあまり感じないが、炎に酸素を奪われて呼吸ができない。遠ざかる意識の中で、彼女はもうすぐ訪れるであろう残酷きわまりない死を覚悟した。ライサンダーは機体の三倍もある、長い炎を曳きながら、数回螺旋を描いた後、白熱の火球となって星空に四散した。

 白っぽく輝く光の中をクリスティンは、彼女の故郷であるロンドン郊外のビギンヒルへ急いでいた。

 青い草地の中の小道を、赤毛でおさげに結った遠い過去のクリスティンが歩いていた。西から流れてくる灰色の雲が、夏の陽光を遮り、申し訳程度の蒼さを含んだ晴れ間を東に追いやると、空から大粒の雨が落ちてきて、辺りをぬらし始めた。

 この季節、天候の変わりやすいイングランドでは、傘の携帯は常識である。こんなことは13歳のクリスティンも知っている。しかし、クリスティンは傘を持っていなかった。いや、敢えて持って行かなかったというのが正しいかもしれない。やがて、雨粒はクリスティンの淡いクリーム色のブラウスにも斑紋をつけ始めた。

 シルク地の光沢のある袖に、水玉が落ちてはキラキラ跳ねたかと思うと、スーッと生地に吸い込まれ、透明感を増した斑紋を作る。やがて、斑紋は拡大融合して、クリスティンの肌に張り付き、更に降り注ぐ雨粒によって、妖しい微妙な光沢を放って行く。背中や、まだ大きくはない胸のふくらみの間を、冷たいものが伝い落ちて、それまで風を孕んで心地よく素肌に触れていたシルクの感触が、ペトッと張り付く閉塞感と交じり合って行く時、クリスティンは、妙な興奮を覚えるのだ。

 両手を交差させ、前身ごろをそっと触ってみる。

 濡れたシルク越しに、指先が、硬くなった小さなニップルに触れた。

 中指の爪をニップルに立てると、

 間にあるシルクが擦れて、音が出る。

 「シュルッ、シュルルッ、シュルシュルッ」

 何ともいえない快感が、クリスティンを狂おしいほどに包み込んだ。 この感触を求めて、彼女は母親の目を盗んで、よそ行きのお気に入りのブラウスを着てきたのだ。ほてった股間をから大腿を伝って生暖かい黄金色の液体が迸り落ち、クリステインは震えながら泥水の中へとへたり込んだ。 細かいプリーツの入った紺色のスカートの裾に灰褐色の泥水が染み込んで行く。

 「どうしよう…。また、やってしまったわ。ママに叱られちゃう…。」

 クリスティンは、幼い頃の自分を眺めて、頬を赤らめた。

 …そうよ、今にして思えば、あの頃から私の変な性癖は始まったのね…

 ハイスクールや、カレッジの女子学寮の時も、こっそりと洋服を着たままシャワーを浴びて、自慰に耽溺した。濡れて行くときのブラウスやワンピースは、決まって手触りのよい薄手のシルク地を好んだ。スカートも、裏にツルツルしたペチコートのあるものばかりをはいていた。美しくて理知的な彼女に言い寄ってくる男は多かったが、クリスティンはあまり男には興味を示すことはなかった。数回、成り行きで男と寝たことはあったが、着衣のままでないと交渉を拒む彼女に男たちは当惑していた。騎乗位で下半身に挿入させて、着衣の上から自分でニップルを触って終着点へ向かおうとする彼女を、男たちは呆れ、気味悪がって去って行った。

 カレッジで病態心理学を専攻したクリスティンは自分の性癖が一種のフェティシズムであることを理解した。今回の出撃時に被服部で白いテーラーカラーのシルクブロードのブラウスを選んだのも、潜在意識の中で、死をかけた任務に就く美しい肢体に纏う最期の衣服という思いがあったからかもしれないと、クリスティンは眼の前にぽっかり現れた過去の時空を漂泊しながら感じていた。

2.カーン潜入

 「ヒュー、ヒュルルルルル……」

 クリスティンは耳元で微かに風の唸りを聞いたような気がした。

 「ヒュルルルル……」

 「バシュッ。」

 強い衝撃がクリスティンを覚醒させた。落下傘が開いたのだ。ハーネスが両ももの付け根に食い込んで、彼女の身体を地上50mで急減速させた。数秒もせずに、着地。彼女は半ば朦朧としながらも、無意識の内に受身をして衝撃をいなした。傘体を丸めて、ハーネスをはずし、ジッパーを開けて降下服を脱ぎ捨てると、地面に穴を掘って、それらを手際良く隠蔽した。身をかがめて林の中に入ると、用具袋から取り出した黒いエナメルのパンプスに履き替えた。振り返ると、数百メートル西の丘の向こうから大小の火の手が上がっていた。ライサンダーが墜落して炎上しているらしい。

 「フーッ……」

 クリスティンは軽くため息をついた。機体の爆発で、彼女は幸運にも怪我らしい怪我もせず機外に放り出され、何らかの具合で、落下傘が開いてくれたのだ。さもなければ、今ごろ彼女は、異臭を放つ黒焦げの肉片に成り下がっていただろう。幾重にも重なった幸運がクリスティンの美しい肉体を破壊から守ってくれたのだ。

 上空の撃墜劇は地上からもはっきりと見えていたに違いない。程なく、辺りが騒がしくなった。墜落した機体の捜索が始まったらしい。遠くの道を行き来する、自動車やサイドカーの灯火が見え隠れしている。クリスティンは夜が明けるまで、林の中でじっとしていることにした。民間人に成りすましているとはいえ、こんな丑三つ時に、若い女性が出歩いていては明らかに不自然である。

 目を林の少し奥にやると立ち枯れた大木があった。根元近くの幹に開いた、大きな洞の中の窪地に腰を下ろして、両膝を抱き丸くなって夜明け待った。

 離陸してから時間にすれば二時間半も経っていないはずなのに、それはとても遠い過去のことのように思われた。

 未明の冷気にクリスティンは悪寒を感じた。どうやら、少しまどろんでしまったらしい。すでに林の中にも薄明が訪れ、小鳥の囀りが聞こえている。

 …しまった!寝てしまった。…

 はっとして、彼女は辺りの気配を窺った。

 小鳥の囀りのほかに、ガサガサと落ち葉を踏み分ける音がする。

 「ヨホーイ!ゲハート、ヴァス マッヘン ダー?(オーイ!ゲハート、何してるんだ?)」遠くで、呼びかける声もする。

 ドイツ兵だ。

 「ヤーヤー、ハルン。イヒ ヴィル デン ハルン ラッセン、ヴァルテン ズィー ヌア アイネ モメンタ!(小便だ。一寸、待ってくれ!)」 
かなり近くで答えが返る。

 幹に開いた小穴から覗くと、190センチもあろうかという巨漢がこちらに向かって立っている。巨漢はやおらズボンのジッパーを下ろすと、ブツブツ言いながら大きなイチモツを引き出した。

 「ドライ ズィーベン フェルツィッヒマッヘン、フォイア!(37mm対戦車砲、発射用意、 発射!)」

 「砲口」から勢い良く発射された液体が、ダーッツと洞の中に流れ込んできた。

 「…!」

 思わず出しそうになった声を押し込み、クリスティンは身をよじって予想外の珍入者をかわそうとした。その時、運悪く彼女の肘が洞の中の朽木を崩してしまった。

 「バキッツ!」

 「イスト イェマント ダー?(誰かいるのか?)」

巨漢は放尿を中断すると、身体を「く」の字にして洞の中を覗きこんだ。

 「ドンナーヴェッター! ハーンス! ゼーエト オイヒ エス アン。(なんだこりゃ!ハンス!これを見ろよ。)」

 巨漢は銃の安全装置をはずすと、洞の中のクリスティンに銃口を向けた。やや遅れて、もう一人の小柄な兵士が現れた。陸軍伍長の階級章がついている。

 「どうして、こんな朝早くに?ここで一体何をしていたのかね?お嬢さん、失礼ですが、身分証明書を拝見。」

 クリスティンはスーツの胸ポケットから身分証明書を取り出した。

 「私はソフィー・ブルヌヴイユ。かわいがっている犬のマルシェがいなくなって…。一晩中林の中を探していたら、道に迷ってしまって。」

 兵士は身分証明書を一瞥してから、巨漢の方を振り返った。

 「おい、ゲハート。怪しいな、こいつ。墜落した敵機から脱出したのかも知れん。本部まで連行しよう。」

 銃を突き付けられて、クリスティンは町外れの教会を接収して設置された捜索中隊本部に連行された。教会の一室で捜索指揮官のフレムト大尉が尋問をはじめた。

 「そこに掛けたまえ。」

 促されてクリスティンは机を挟んで反対側の丸椅子に座った。

 「君は、何者だ?敵の偵察機が落ちた辺りの林で何をしていたんだ?夜間の外出は禁止されている筈だ。」

 「私はソフィー・ブルヌヴイユ。犬を探していました。」クリスティンはシレ顔で応えた。

 「犬だと?冗談を言うな。林の近くで、焦げた落下傘と降下服が発見されている。長い髪の毛が付着したヘルメットもだ!」フレムトが机をパンと叩いて、声を荒げた。

 「正直に言い給え。さもないと君の身柄を、親衛隊に引き渡すことになる。」

 フレムトはポケットから煙草を取り出すと、ライターで火をつけて、深く吸い込んだ。

 「私は、カーンの住民よ。怪しいものではないわ。ただ、いなくなった犬を探して林の中で道に迷っただけ…。」

 クリスティンは涙を流して食い下がった。

 「ヒルシュ伍長、この女を地下室にぶち込んでおけ。」鼻孔から煙を吐きながらフレムトが命じた。

 「ヤーヴォル、ハウプトマン。(はっ!大尉。)さあ来るんだ。」略帽をやや斜めに被った伍長が、クリスティンの背中に拳銃を付きつけ、地下室に押し込んでから鍵をかけた。

 部屋の中には何もなく、天井近くの壁に開いた、一個だけの小さな明り取りの窓から、春の光が僅かに漏れてくるだけだった。クリスティンは冷たい石畳の床に座り込み、己の不明を後悔したが、後の祭だった。平服で敵に捕まった以上、銃殺刑である。ジュネーヴ条約は適用されない。目を閉じると止め処もなく涙が頬を伝った。何時間か経ったただろうか。鍵を開ける音がして、フレムト大尉とヒルシュ伍長が部屋に入ってきた。

 「たった今、保安諜報部から、連絡が入った。調査の結果、君の嫌疑は晴れたそうだ。これから釈放する。この所、工作員の侵入が多くてな、まあ、悪く思わないでくれ。」

 そう伝えると、フレムトはあっけにとられるクリスティンを解放した。…誰かが、手を回してくれたのかしら…?クリスティンは小首をかしげながら、階段を登った。

 すでに、日は少しばかり西に傾きはじめている。時計を見やると時刻は2時半を少し回ろうとしていた。クリスティンは前もってウェイ・ポイントに指定されていた、カーン中心部にあるカフェ・ド・カルピケに急いだ。思わぬ道草を食ってしまったので、予定まで時間は余り残されていない。息をせききって辿りつくと、カフェ・テラスに席を取った。大通りを挟んでサン・ピエール教会の尖塔が聳え立っている。

 5時を過ぎた頃、クリスティンの背後の席に初老の婦人が座った。婦人はガサガサと新聞を開けながら、背中越しに独り言のように小声で呟いた。

 「シェルブールの港が爆撃されたわ。」

 クリスティンも小声で応える。「漁師の船が、三隻沈んだってホント?」

 これは、相手を識別するため、事前に申し合わせた合言葉である。婦人が振り返ってクリスティンの耳元で囁いた。

 「カトリーヌ、あたしに付いてらっしゃい。」

クリスティンは婦人に案内されて、市内をあちこち歩き回らされた挙句、サン・ジェルマンという花屋に辿りついた。小太りの花屋の主人が出てきて、クリスティンに手を差し伸べた。

 「ボン・ジュール、マドモアゼル。ピエールだ。あんたを待ってたよ。いやぁ、無事で良かった。夕べ、飛行機が墜落してもうあんたは駄目かと思っていたんだ。色々調べたら、あんたが敵に拘束されたらしいって情報が入ってね。そこで、グーテンドルフに頼んで、手を回してあんたを出しくれるように動いてもらったんだよ。保安諜報部が、こうもすんなりとあんたを出してくれるとは思わなかったがね。さすが天下の名将、グーテンドルフ様々だよ。いやー、よかった、よかった。」

 主人は口角泡を飛ばして一気にまくし立てると、クリスティンの手を痛くなるほど握った。

 「腹がへったろう?打ち合わせまでにはまだ時間がたっぷりある。夕飯でも食って、休んでくれ。」

 カーンの町は夕方の7時半になろうとしていた。5月ともなると日脚が延びて、まだ外は夕日が照っている。その内、三々五々メンバーが集まってきた。皆、其々に合言葉をかけて、地下の倉庫に通されてくる。地下室の円卓につくとピエールが口を開いた。

 「英国から派遣されたカトリーヌだ。グーテンドルフに接触するための任務を帯びている。ジョルジュ、将軍と連絡をとってくれ。綺麗なお嬢サンが会いたいと言ってるってな。ミレーヌ、君はカトリーヌと一緒にグーテンドルフの山荘へ行くんだ。花の配達だ。いっぱい持って行くんだ。アンドレ、山荘まで運転手をやってくれ。途中でヘボこくんじゃないぞ。」

 ピエールは例によって一気に役割分担を伝えた。

 「カトリーヌ、ミレーヌよ。ご一緒させていただくわ。よろしく。」

ミレーヌが、微笑みながら横目で挨拶した。クリスティンより少し若いようだ。ブロンドで少しウエーヴのかかった髪を後ろで無造作に束ねている。

 「こちらこそ宜しく。」クリスティンも挨拶を返した。

 「日時は追って連絡しよう。今日はこれで終わりだ。」

 打ち合わせは、あっけなく閉会し、ワインが振舞われた。ピエールはワインをカブガブやりながら、ヤレ、前の戦争の時塹壕戦はどうだったのとか、怪しげな武勇伝を大声で話し始めた。皆、少し辟易しながら聞いているようだった。ワインが入ったせいか、クリスティンは眠くなった。この一日、あまりにも多くのことがクリスティンを翻弄した。それらが、クリスティンの頭の中をぐるぐると駆け巡った。


3.罠

 カーンに潜入してから三日目の夜、ピエールから接触の日程が伝えられた。いよいよ、明朝、手筈通り花の配達を装いグーテンドルフの山荘に向かうことになったのだ。接触が首尾良く済んで、反総統派との連携が出来あがれば、この戦争も案外早く終わるかもしれない。任務の重大さを考えると、クリスティンはなかなか寝付けなかった。

 明けて194454日の早朝、午前5時にクリスティンは目覚めた。

 シャワーを浴びて、ショーツ、ガーターベルト、ブラ、スリップの順に洗い曝した純白の下着を身に着けていく。

 ベッドに腰を下ろして、濃いブラウンのストッキングを履き、腰のガーターベルトに留める。カモシカのような下肢に密着したストッキングに朝日があたり、きめの細かい繊維がキラキラと輝いている。

 白いブラウスに袖を通し、上からボタンを留めて行く。冷えたシルクのスーッとした肌触りが心地よい。スカートに脚を通して、ブラウスの裾をたくし込み、後ろのジッパーを上げて、ダブルのホックをパチンと掛ける。ブラウスのカフスボタンをしてから、スカートをめくって、レース地の裾に花柄の刺繍があるスリップを整え、ブラウスの裾を摘んで下に引くと、少し弛んでいた身ごろがスカートの中に滑らかに引き込まれて行く。

 「シュルシュルッ…」

 ブラウスとスリップのシルク同士が衣擦れすると、大きくはないが形の良いバストが、ブラウス越しにツンと盛りあがった。

指を当てると、ブラのパッドの向こうで、ニップルが硬くなっている。

 …こんな大切な日というのに、私…

 クリスティンは苦笑した。

 店の前では、アンドレが車の準備をしていた。缶に薪をくべ、木炭を蒸してガスを発生させて、シリンダーに送り込む。

エナーシャを回して、クラッチを繋ぐとプルプルとシトロエンのエンジンが目覚めた。

 ミレーヌは色とりどりのバラの花束を後部座席に積み込んでいる。紺色のギャバジン地のブルゾンにスラックス、首には白地にピンクの水玉模様のスカーフと軽快な出で立ちである。朝の挨拶を交わして、ピエールが二三の注意を早口に伝えると、アンドレは車を出発させた。後部座席でクリスティンが後ろを振り向くと、見送るピエールの姿が小さくなって行った。

 車は運河の橋を渡り市街を抜ける。オルヌ川沿いに並行する線路を右に見ながら、丘陵の中を南に向かった。満開の菜の花畑が、あちこちの丘の斜面に矩形の幾何学模様を作っている。窓から入る風に煽られて、ミレーヌのスカーフがヒラヒラと舞っている。戦時であることをつかの間ではあるが忘れさせるような、何とも長閑な風景が続いていた。十分ほど走って左折すると、車は間道に入って、上り坂がきつくなった。シトロエンがカラカラとノッキングしながらも登りきると、ドイツ軍の検問所が見えてきた。

 「ハールトッ!(止まれ!)」

 衛兵に行く手を遮られて、アンドレは車を止めた。

 「花屋のサン・ジェルマンです。グーテンドルフ中将閣下の命により花を届けに来ました。」

 曹長がやってきて、三人の身分証明書をチェックした。彼は、衛兵詰所に戻って電話で何やらやり取りしながら、右手を上げた。

 「グーテ アーバイト(ご苦労)、通ってよし。」

 衛兵が赤白黒の段だら模様の遮断機を上げて、通過を許可した。

 検問所の付近に配置された数名の兵士が、目ざとくクリスティンたちをみとめて、口笛を吹く。

 「にっこり笑って!」

 ミレーヌが兵士たちに投げキッスをしながら、クリスティンを促した。

 広葉樹の明るい山道を抜けると、赤レンガの山荘が見えてきた。車寄せに駐車して、バラの花束を抱えて車から降りたつと、副官が玄関で待っていた。

 「ご苦労様でした。副官のタウベ中尉です。将軍がお待ちかねです。」

 慇懃に応接室に通されると、初老の将官がニコニコしながら出迎えた。

 「バラの配達を待っていたよ。今日は家内の誕生日でね。」

 「バラの花をお持ちしましたわ。きっと奥様に喜んで頂けると…。」これも、事前に取り決めた合言葉である。

 グーテンドルフは眼鏡の奥で目を細めて頷いた。

 「カトリーヌ、よく来てくれた。ここにいるのは同志だ。心配はない。」

 グーテンドルフはタウベ中尉の方を見て笑った。

 「先日は、危ない所を救っていただき、感謝の言葉もありません。」クリスティンが礼を言った。

 「?…。危ない所とは…一体何かね?」

 怪訝そうにグーテンドルフが聞くので、クリスティンは、カーン潜入のいきさつを将軍に説明した。

 「待ち給え。私はその話を聞いてはおらんぞ。変だな。」

 グーテンドルフはタウベと顔を見合せて首をかしげた。

 その時である。急に山荘の外が騒がしくなった。数台の車が、車寄せに急停車した。バタバタと車のドアが開いて、黒い制服・制帽の士官を先頭に一個中隊ほどの兵士たちが降りて来た。国防軍とは明らかに異なる制帽には、銀色の髑髏(トーテン・コップフ)が輝いている。

 「SS(親衛隊)!?」

 タウベ中尉が腰のワルサーを抜こうとしたとき、黒ずくめの士官のルガーが火を吹いた。眉間を打たれたタウベは声も立てずに崩れ落ちた。

 「これまでだ。観念するんだな。」

 SSの士官が薄笑いを浮かべながら、低い声で言い放った。

 「グーテンドルフ将軍、アルシュロッホSS中佐だ。貴様を国家反逆罪で逮捕する。カトリーヌ、いや、クリスティン・ランバート大尉、ご苦労だったな。君のおかげでやっとグーテンドルフの尻尾を扇ぐことが出来たよ。」

 「?…」

 言葉の意味が呑みこめずに当惑するクリスティンをせせら笑うように、アルシュロッホは続けた。

 「そこの哀れなレジスタンスどもを片付けろ!」

 SSの兵士がアンドレとミレーヌを壁の方に突き飛ばして、短機関銃を発射した。二人は血しぶきを上げて折り重なるように倒れた。アルシュロッホはまだ僅かに息のあるミレーヌの方に歩み寄って、頭部に銃弾を打ちこんだ。ミレーヌの頭から血混じりの脳漿が飛び散った。

 アルシュロッホが振り返って顎で命じると、部下たちが手荒くクリスティンとグーテンドルフの身体検査を始めた。

 「ランバート大尉、冥土の土産に教えてやろうか。われわれは、ここにいるグーテンドルフ中将が、かねてから国防軍内の敗北主義者どものリーダー格だと睨んでいた。知っての通り、グーテンドルフは北アフリカ戦線の国家的英雄で、総統閣下のお気に入りでもある。如何にゲシュタポ(秘密国家警察)と言えども、明確な証拠もなしに手出しすることは出来なくてね。そこで、レジスタンスに工作員を入れて、将軍と英国の情報機関を接触させるように仕組んで、君が来るのを待っていたんだよ。尤も、君の乗った飛行機が、夜間演習帰りのルフト・ヴァッフェ(空軍)の馬鹿どもと、偶然鉢合わせするとは、予想外だったがねぇ。」

 アルシュロッホは陰気に笑いながら続けた。

 「君が、無事だとわかってほっとしたよ。保安諜報部に手を回して、君を釈放したのは、他ならぬこの私だ。もうひと泳ぎしてもらうためにな。そして、グーテンドルフに動かぬ証拠を突き付けることができたわけだ。」

「ピエール…?、」

 クリスティンは我が目を疑った。SSの制服を着ているので今の今まで気がつかなっかたが、アルシュロッホと名乗るこの男は、あの花屋の主人のピエールそっくりだ。

 「ご明察だな、お嬢サン。花屋はネーベン・アーバイト(副業)でね。SSは人使いの割りに薄給なんだよ。ハッハッハ。二人を連行しろ。」

 アルシュロッホが命じると、SS中尉が前に進み出てナチ式の敬礼をした。

 「ヤーヴォル!オーバーシュトゥルムバンフューラー。(はっ、SS中佐!)」

 二人は後ろ手に縛られ、護送の兵士に囲まれて別々のトラックに乗せられた。2台のトラックが走り出すと、前後をキューベルヴァーゲンが固め、乾いた音を残して何処ともなく走り去って行った。


4.特殊収容所X-12(イックス・ツヴェルフ) 


 北ドイツ、ヴァルト海沿岸に、ミサイル試射場として後に知られるようになる、ペーネミュンデと言う田舎町がある。そこから、更に車で1時間ほど奥に入ったところに、特殊収容所X-12はあった。

 深い白樺林の中の細い道を入ると、忽然と開けた土地が現れ、周囲を有刺鉄線で囲まれたコンクリート造りの平屋の建物が6棟ほど整然と建っている。ゲートには機関銃座があり、黒い制服を着たSS兵士が警戒にあたっている。

 運動場のよう
な草地では、捕虜が整列し点呼を受けており、奥まった所にある一際大きな作業場のような建物の前では、SS兵士に誘導された捕虜が隊列を組んで行進し、労役に就こうとしている…何処にでもある捕虜収容所の日常風景であるように見える。

ただ、ここが他の収容所と違うのは、この風景が全て「エキストラ」による「ヤラセ」ということだ。捕虜に扮するのはすべて「髑髏部隊」と呼ばれるSS直属の特務隊員なのである。では、この収容所の真の姿は…巧妙に偽装された生物・化学兵器開発に関わる人体実験施設とでも言おうか。実験目的に応じて、あらゆる人種、性別、年齢にまたがる「実験動物」が「飼育」されており、さながら動物実験舎の様相を呈していた。

 アネット・クルツ博士はX-12における毒ガス兵器担当の主任研究員である。

 大学を首席で卒業した後、大手薬品メーカーであるヒンケル・ファルマツォイティッシェAGで開発業務に就いていた所を、才能を見込まれて、5年前にここに引き抜かれて来た。30歳を少し回ってはいるが、まだ独身である。金髪・長身・碧眼の三拍子揃った美人ではあるが、あまりに切れ者であったためか、或いは、その冷徹な性格のためか、周囲の男性から敬遠されたのかもしれない。

 クルツ博士は部内でSchmelzer-Xと呼ばれる、一種の毒ガス兵器の開発にあたっていた。

 Schmelzer-X……これは、常温で無色・透明な液体で、気化した時の比重は空気より若干大きい。動物組織に取り込まれると、細胞内にある糸粒体に作用して、自己増殖を促進し、呼吸に関係する諸酵素を急激に活性化させる結果、細胞内の呼吸に関連するエネルギー産生機構を暴走させ、細胞膜を構成する蛋白質を変性・酸化させる。
 また、同時に細胞質内に1規
定の塩酸に相当する強酸性の分泌顆粒を生成し、細胞質を破壊する。そして、Schmelzer-X自身は糸粒体内の窒素含有塩基・糖・燐酸複合有機化合物によって複製され、次々に周辺の細胞に作用を及ぼして行く。

 生体内に入った極微量のSchmelzer-Xが、あたかも「触媒」のように作用し、生体内で「核分裂」のように連鎖する溶解反応を引き起こし、個体を速やかに溶解に導くというのだ。しかも、酸素に対する不安定さゆえ空気中では約一時間で半減期を迎え、個体を溶解し尽くすと速やかに効力を失う。残されるのは、コーヒー残滓のようになった個体中の不溶成分のみである。

 クルツ博士は、化学兵器として転用可能なアルカロイドを抽出するため、数年程前からコーカサス地方の高山に咲くキク科の植物の根を研究していた。
 2年前、この植物の根に常在している嫌気性菌を継代培養する内に、偶然現れた変異株に動物組織を溶解する作用があることを知った博士は、1年を掛けてこの細菌の莢膜から「溶解物質」を抽出することに成功したのだ。
 当時、溶解過程には謎が多く、「未知の溶解物質」という意味の
Schmelzer-Xという呼称が与えられた。

 もし、このSchmelzer-Xが大量に生産され、A4ロケット(V2ロケット)の弾頭に使用されたら、どうなるであろうか?

それが、もしも大都市に落下したら…。場合によっては、核分裂兵器以上の効果があるかもしれない。しかも、生きとし生けるすべての動物は死滅しても、都市のインフラは無傷でそっくり手に入る。細菌兵器や核分裂兵器のように、厄介な汚染物質を撒き散らすことも皆無だ。

 追い詰められた第三帝国にとって、間違いなく起死回生の報復兵器となるであろう。時局の切迫する今、クルツ博士は一刻も早く兵器としての完成を急がなければならなかった。弾頭内での安定性、拡散性の向上、生体に対する溶解効率の向上など、実用化の前にはまだ解決すべき難問が山積していた。しかし、博士の不眠不休の努力もあって、Schmelzer-Xは動物実験での好成績を経て、愈々人体に対する噴射実験によってその全容を現そうとしていた。

5.人体実験

 クリスティンはSSに捕らえられた後、身柄をゲシュタポに移された。簡単な尋問を受けたが、グーテンドルフ将軍が逮捕された今となっては、もはやゲシュタポにとっても、クリスティンは大して魅力のある対象ではなかった。クリスティンの戦争は終わってしまったのだ。

 夕刻、彼女は即決裁判の上、銃殺されることになった。

 ちょうどその頃、X-12ではクルツ博士が、その日の夜、溶解実験に供する予定だった26歳の女性の体調に不具合を発見して困り果てていた。彼女は妊娠していたのだ。実験プロトコルに不適格と判定され、他に適格者を探したがX-12にはプロトコルの条件を満たすものはいなかった。この日の実験には、Schmelzer-Xに期待をかける党やSSの高官も視察に来ることになっていた。実験を中止することは出来なかった。

 クルツ博士は、あちこちの部署をあたった挙句、カーンのゲシュ
タポ支部に拘置され、銃殺予定だったクリスティンがプロトコルの条件に最も合致する事を知った。

 クリスティンは目隠しの上、手錠を掛けられて、急遽輸送機に乗せられてX-12に送られた。

 夕方、X-12に到着すると、クリスティンは上着を脱がされてクルツ博士の前に引き出された。博士は、クリスティンをプロトコルに沿ってチェックして、適格と判断した。クリスティンは自分の運命を悟っていた。SOEに入ったときから、死ぬことは覚悟していた。死ぬことが怖くはなかったが、このような形で、SSの罠にはまってしまったことが、悔やんでも悔やみきれなかった。これでは、全くの犬死ではないか。煮られるにせよ、焼かれるにせよ、彼女にはもうどうすることも出来ないのだ。この陰気な林間の建物で彼女の26年の人生が終わりを告げ、健康で美しい肢体が朽ち果てて行く理不尽に逆らうことは不可能なのだ。しかし、これも神のご意志ならば仕方のないことなのかも知れないと、クリスティンは思った。

 「一体、私をどうするつもり?」

 クリスティンはクルツ博士に問いかけた。

 「フフフッ、もうすぐにわかるわ。」

 博士は、人差し指でクリスティンの細い造りの下顎から首筋にかけて上から下に向かって軽くなでて行き、ブラウスの襟元を引っ掛けてチョンと弾いた。ブラウスの前身ごろの生地が、ぷるんと細かく揺れ動いた。

 部屋の中では、白衣を着た助手たちがせわしく動き回っている。クルツ博士は、背広を着た上司らしい人物に、なにやら説明を始めた。黒い制服に党の腕章をしたSSの高官の姿も見える。その場の雰囲気からクリスティンは、自分が人体実験のモルモットにされる運命にあると確信した。こんなことなら、いっそ、ひと思いに銃殺される方がましだと思った。

 「来るんだ!」

 「何をするの!いっ痛いッ!」

 分厚いゴムのパッキングのついた実験室の気密扉が開けられ、二人の助手が抵抗するクリスティンの上着を脱がせると、腕をつかんで中に引っ張り込んだ。

 実験室の床や三方の壁はステンレスに覆われ、部屋の中央にはT字型のステンレス製のベッドがあり、観察室手前の壁には大きな3重の強化ガラスが嵌め込まれていた。ガラスの観察窓はマジックミラーになっており、実験室から観察室は見ることが出来ない。クリスティンはベッドに仰臥位で寝かされ、四肢を金具で固定された。クルツ博士が入ってきて、ベッドのモーターを操作して、クリスティンの身体を45度ほど起こした。

 「クリスティン、あなたには気の毒だけど、ここで溶けてもらうわ。私が開発した溶解ガスの実験台としてね。」

 「とッ、とける?」

 「そう、溶けるのよ。あなたの美しい身体が、惨めにドロドロに…。」

 クリスティンの頬に冷たい手を当てて、クルツ博士は微笑んだ。やがて、気密扉が閉められ、照明が点灯して、ベッドに拘束されたクリスティンを明るく照らし始めた。隣の観察室では、クルツ博士が実験の最終調整をしていた。助手が制御パネルに向かって着席し、クルツ博士はその背後に腕組みして立ったまま、次々とチェック・リストを読み上げて行く。

 「エア・ロック確認、強制換気装置起動、ベンチュリ管内圧設定プラスブースト、インジェクター・セット、…」

 「エス イスト クラー アレス(全て正常)、ドクトル。」 助手が甲高い声で復唱する。

 「Schmelzer-X 装填。」

 「装填よし。」

 「発射管ベント・ロック解除。フュンフ ズィコンダ…… ロース!(5秒前……発射!)」

 「ロース!」

 助手が赤いトグル・スイッチを手前に倒した。

 強制換気装置の作動音の後、数秒して、天井と床のベント・ホールが開く音がした。クリスティンは空気が動くのを感じた。彼女の長い髪やブラウスの襟袖が風に煽られてヒラヒラ舞ったが、すぐに静かになった。

 クリスティンは、それまで固く閉じていた目をそっと開いてみた。別に、ガスらしいものが出るわけでもなく、苦しくもならない。首を振って見廻しても、何も変化はない。正面のマジック・ミラーには、照明が当たって白く輝くブラウスを纏った

自分が映っている。

 …何だか、暑いわ…

 照明のせいかとも思ったが、身体の芯から急激に熱くなって来るようだ。

 …ああーッ。熱い、熱いわ。燃えてしまいそう…

 強烈な熱さに見舞われて、クリスティンは拘束された身体をよじらせた。紅潮した顔や首筋から汗が…いや、汗と言うには少し黄褐色を帯びた液体が、あちこちから浸出して来た。

 浸軟して褐色に変色した皮膚に張り付いたブラウスの身ごろや袖に、じっとりと褐色の斑紋ができて、徐々に広がって行く。

 「いっ、いやぁーッ。お願い!やめてっ!溶けるッ。あたし、溶けてしまう!」

 苦悶の表情を浮かべたクリスティンの美しい顔にも、褐色の斑点が現れた。

 顔面の左半分からドロドロと液体が流れ落ちて、ブラウスの襟や前身ごろに数条の褐色の染みを作って、グレーのスカートの腰や下腹部の辺りにぼたぼたと滴下して染みこんで行く。スカートの下の太股からも幾筋もの液体が伝い落ちて、黒いパンプスの周りに溜まり始めた。

 クリスティンは苦痛に顔を歪めて、左右に激しく首を振った。振り乱れた髪の毛が頬に張り付く。

 全身が痙攣する度に、身体から液体が飛散しては床に落ち、ブラウスの袖やスカートの裾がボロボロになって、裂け目から茶褐色に浸軟した皮膚が覗く。

 「ジュルルルル…」

 白煙を上げながらブラウスの身ごろが朽ちて行き、ボタンがパラパラと飛び散って床に落ちた。

 まだ、辛うじて型を保っていた乳房が、下着を破って露出したかと思うと、皮膚が何ヶ所か裂けて液体が横溢し、空気が抜けて行く風船のように萎んで行く。

 …ああ、あたし…あたし、こんなに綺麗なのに…

 クリスティンはマジック・ミラーに虚ろな視線を投げた。

 この時、彼女の知覚神経は、もう苦痛を感じなくなっていた。

 ただ、身体が濡れて行く感覚と、シルクが肌に張り付く感覚が交錯して、胸が締め付けられるような、妙に高揚したようで後ろめたさをともなった快感を感じていた。

 昔、幼い頃に雨の中でびしょ濡れになって感じていた…あの快感。

 すでに、クリスティンの身体は大部分が液化して、僅かに両手首と髪の毛の一部を残して原型を失っていた。骨格も残さずに、全てが茶褐色の液体となってしまったクリスティンの時間は、周囲から見るとすでに止まってしまったように見えていた。クリスティンは、限りなく展張し、希薄になって行く自我と時空の中で、光沢を放つ白いブラウスの胸元をそっと触ってみた。まだ、シルクの柔らかな手触りが残っていた。シルクの下で硬くなったニップルが、まだ微かに感じていた。

 クルツ博士は、クリスティンが全て溶けきったところで、記録カメラのスイッチを止めた。視察の高官らが帰っていった後で、換気の済んだ実験室に入ると、コーヒー滓のような、つい今しがたまでクリスティンだった物体が残っていた。残滓の中でクリスティンが身につけていた、金のピアスとネックレスが光っていた。クルツ博士は残滓を助手に集めさせると、私室に戻って椅子に腰を下ろした。何故か、息が弾んで、胸の鼓動が高鳴っている。

 ふと股間に冷たいものを感じて、そっと指をスカートの中に入れてみると、下着が粘液で湿っていた。

6.エピローグ

 クリスティンの死から1ヶ月後の6月5日深夜、米第82、101空挺師団がコンスタン半島に降下。これを嚆矢として、翌朝、連合軍の大部隊がノルマンディーに殺到した。圧倒的物量の前に、ドイツ軍は激しい抵抗も空しく敗退を重ねて行った。

グーテンドルフ将軍と、連座した幕僚たちは、極秘裏にSSによって処刑されたが、宣伝省は彼らの死を「連合軍と交戦中の名誉の戦死」と発表した。

 X-12は、6月10日深夜、ペーネミュンデ空襲のため飛来した、英空軍爆撃機の一部がコースをそれて「誤爆」したため、施設の大部分を焼失した。クルツ博士が避難した防空壕には焼夷弾が直撃した。後日、焼死体が発見されたが、焼損が激しく身元の確認には至らなかった。その後、Schmelzer-Xが、実戦で使用されたという記録は残っていない。

 SOEの戦闘行動調書にはこう記載されている。

 「英陸軍大尉クリスティン・F・ランバート、1944年5月1日、特殊任務のためメンストン空軍基地を出発するも、乗機と共に消息を断ち行方不明。194581日、戦死と認定、陸軍少佐に進級。」

 クリスティンの故郷であるビギンヒルの村外れの丘には、家族によって墓が建てられた。墓石には、白いブラウス姿で微笑むクリスティンの写真が嵌め込まれているが、墓の中にはクリスティンの遺骨はない。

(完)

 この物語はすべてフィクションであり、登場人物や組織、国家は実在したものとは異なります。また、物語の内容は歴史的事実とは一切関係ありません。