デビル・バブラー
作:ZZZ様
「所長?お電話です」
ミドリは所長の大枝に声をかけた。
こざっぱりした、しかしモダンで白を基調とした品のいい法律事務所のオフィスである。従業員はミドリと所長の大枝、そしてアルバイトの山下の3人である。ミドリは法学部卒業の後、大枝法律事務所に就職して2年になる。所長の大枝勝久は40代前半の気さくな人物で、おおよそ弁護士という雰囲気を感じさせないため、そのおおらかな人柄を信頼して弁護を頼みにくる事業所の経営者も少なくない。山の手で検事をしていた経歴もあり、いわば学者肌だけではない実践派の法律の専門家である。
「はいよ、もしもし・・。」
大枝は快活にデスクの受話器を取った。
「ミドリさん。聞きました?最近の女性蒸発事件の真相」
山下が声をかけてきた。山下義男は法学部の院生である。大枝を尊敬してやまず、弁護士の実践を学びたいと頼み込んだ末、ここでバイトさせてもらっている。まだティーンのようなあどけない顔立ちをミドリに向けた。
「遺留品の一部は見つかったけど、本人が行方知れずって…。ここ一週間で5件の問い合わせがきているわね。誘拐されたってセンじゃないの?」
ミドリは帳簿をめくり、収支の計算をしながら山下に応えた。
「違うんですよ。誘拐じゃなくて、ヨウカイですって」
ミドリは計算を止めた。
「ヨウカイ?溶解って溶けちゃったってこと?」
「そうなんです。夕べいきつけの銭湯でお年寄り連中が話しているのを聞いちゃったんですよ。一昨日から捜索願いのでている大企業のOLがいるらしいのですが…。」
「ああ、バックと身分証明書だけ見つかったそうね。」
「そうです。それを発見したっておやじが言うにはね、スーツ姿の女性が地面に吸い込まれるように消えていったらしいんですよ。」
ミドリは再び計算を始めた。山下のデスクにはテレビヒーローの小さな人形が並んでいる。ミドリにはさっぱりその種類がわからない。
「山下君。何とか仮面とか、何とかマンの話じゃないんだから。冗談もほどほどにしなさい。」
「ミドリさん。本当なんですってば!」
山下がリキんでいると、受話器を置いた大枝が声をかけてきた。
「その話なんだけどな。どうやらウチが調べにゃならんようだね。そこでだが、ミドリくん…。」
「はい?」
夜1時を回り、路上には行き交う自動車もまばらになってきた。しかも繁華街から離れた山崎駅周辺の人通りは全くない。ここには民家はなく、事務所や店舗など小さなビルが立ち並んでいる。明かりの消えた建物を通る風が夏の終わりをかもしだし、物寂しさを感じさせる。街灯に照らされた歩道にたたずんでいるうち、ぶるっとミドリは身震いをした。この先のガードレールで女性が何人も行方不明になっている。山下に言わせると文字通り蒸発したということだ。大枝の言葉を思い出した。
「現場をたまたま通りがかったウチのお得意様の会社の人がこの蒸発事件の容疑者になっちまっているようなんだ。でもねえ、僕もこの一連の事件には不思議な点を感じているし、その気の毒な人が留置されている間にも事件は続きそうな気がするんだ。そこでミドリ君。頼みなのだが、ちょっと遺留品の見つかった現場を調べてくれないか。」
「はい、わかりました。これからすぐに行ってきます。」
計算にややうんざりしていたミドリはイスから立ち上がり、支度を始めようとした。もともと事務仕事より活動的な捜査活動にあこがれているのである。
「いやいや、すぐじゃなくていい。そうだな、人目につかない夜がいいな…。」
こうしてミドリは深夜に現場をうろうろしなくてはならない羽目になったのである。もしかしたら新たな目撃者が現れるかもしれないし、場合によって真犯人に出くわす可能性だってあるのだ。ひょっとすると捕り物になるかも…ミドリは足元を見て少し後悔した。
「スニーカーにすればよかったかな」
今夜の彼女はヒールのやや高い白いサンダルにクリーム色のサマースカート、ブラウスといったスタイルである。仕事柄かもしれないけど、やや固めのファッションセンスだな、とミドリ自身思うこともあった。
「さて、もうすぐ2時か」
大枝からは約一時間で撤収するよう言われている。もう12時から2時間も粘っているので、超過勤務といえよう。しかし何も手がかりが見つからないことにはボーナスにもならない。
コツ コツ コツ…
ミドリが携帯の時計から視線を上げるとガードレールの向こうから人影が向かってくる。60メートルくらい離れているので顔まではよくわからないが、スカートのシルエットから若い女性らしい。こんな時間まで残業だろうか。民間企業は不況の中、寝るひまもないほど働かされているのだろうかと想像すると、とても私には勤まらないとミドリは思った。その時、
「あ、あれは?」
ミドリは女性の後ろから黒い影が現れたのを目撃した。ぴったり女性の後ろにつく。
コツ コツ コツ…
ビチャ ビチャ ビチャ
足音が二重になった。しかし黒い影の足音はまるで水をたっぷり含んだ長靴のような音を立てている。
女性もその異様さに驚き、歩きながら振り向いた。
「きゃあ!!」
女性とミドリが叫んだのは同時だった。ちょうど街灯に照らされた黒い影の主は人間ではない。エビやカニを連想させる甲殻類のような姿をした怪物であった。頭部の側面についた両目は飛びだし、その間からは地面まで伸びる触覚が垂れ下がっている。口のような部分にはひげをつけた何本もの顎のようなものがもぞもぞと開いたり閉じたりしているのだ。腕は鋏のような形状をしている。
「いやああっ!」
女性は慌てて身を翻し、走りだした。
ブシュウウウウ!
怪物の口から泡状の白い液体が噴出された。それは放物線を描き、女性の頭を越えて地面に落ちた。女性の目の前に水溜りを作る。
ピチャ!
勢いのついた女性は水溜りに足を踏み込んでしまった。
「ああっ!」
女性の両足が止まった。足元を見ると白い泡が生き物のようにオレンジ色をしたバックストラップのパンプスの底に集まり、絡み付いてはなれない。
ブクブクブク
ヒールから泡が吹きだし、このクツが溶かされていることを女性は理解した。
怪物はゆっくり迫ってくる。女性は力をこめて足をふみだそうとする。しかし水溜りの中はぬかるんだ地面のようで、全く足がはなれない。それどころかどんどん泡の中に沈んでいくようだ。
「いやっ。助けて!」
もがけばもがくほど足が泡の中に消えていく。つま先からくるぶし、足首、ひざと、どんどん泡状の液体の中に沈んでいってしまった。
「いけない!」
ミドリの正義感がこの状況を許さなかった。携帯を持ち替え、素早く所長の大枝にSOSのメールを打つ。送信されたことを確認すると、ミドリは今にも水溜りの中に消えてしまいそうな女性のいるガードレールに向かって走り出した。
「グギ?」
怪物は駆けてくるミドリに気づいた。しかしミドリは走っていったものの、どうやったらこの場を何とかできるのかは全く考えていなかった。
(あの女性を引き上げなければ!そのためには怪物、いや二本足で立っているんだから怪人よね。怪人を倒さなくては…。怪人を倒す方法は??山下君の好きなテレビヒーローならどうやってたっけ?)
「たああっ!」
ミドリの足が地面を蹴り、空中へ飛び上がった。
「ゲゲ?」
さしもの怪人もやや戸惑った。その瞬間、
ばきっ!
ミドリのキックが怪人の胸を直撃した。怪人は2メートルほど吹っ飛び、地面に仰向けになって倒れこんだ。ミドリは決してテレビヒーローではないが、突然の攻撃に怪人も面食らったようだ。
「グググ…」
ミドリは立ち上がると泡の中に取り込まれそうな女性に手を伸ばした。女性はもうすでにワンピースの胸まで沈みかかっている。体の半分は熔けてしまっているのだろうか、不安がミドリの脳裏をよぎった。しかし、目を合わせると女性の意識は意外にもはっきりしていることが見てとれる。
「たすけて…」
「さあっ、私の手を!」
ミドリは女性の手をつかみ、ぐいと引っ張ろうとする。しかし、恐ろしいほどの力がミドリにかかった。
「くっ、これじゃあ、逆に引きこまれちゃう。」
ヒールサンダルなので足に力が入りにくい。ジリッ、ジリッと水溜りに引き寄せられる。歯を食いしばって両腕に力を入れるが、女性はズブズブ沈んでいってしまう。まだミドリより若い新入社員といった感じのかわいらしい娘だ。もう首まで沈んでしまった。きれいな大きいひとみをゆがませて、女性がかぼそい声をだした。
「もう、だめ…」
「あきらめないで!」
ミドリが声をかける。しかし、そうこうするうちに女性は顔まで沈み、もう息をすることもできない。このまま彼女の手を握っているとミドリまで水溜りに引き込まれてしまう。
ジリッ…。
また引っ張られる。すでに女性の細い腕だけが水溜りの上にかろうじて突き出ているだけだ。ミドリの手を握り返す力もよわよわしい。
ピシッ!
空気を切る音がして、ミドリは両手首に痛みを感じた。見ると得体の知れないムチのような、それでいてぬめりのある細長く赤黒いものが巻きついている。その衝撃で思わず女性から手を離してしまった。
ブクブクブクッ
「ああっ。いけない!」
ミドリの叫びもむなしく、かわいそうな娘はきれいな指を空中に泳がせ、ついに水溜りの中に消えていってしまった。そして、女性が完全に沈むと表面に立っていた泡も消え、水溜りは干上がるように地面から蒸発していった。
「グゲゲ」
振り返ると、倒れていた怪人が起き上がり、2本の触覚をミドリの手に巻きつけているのがわかった。グイと引っ張られ、両手が頭上にあげられる。
「どうするつもり?」
怪人のつもりなどわかろうはずがないが、ミドリは問うた。答えだといわんばかりに怪人は触覚を振り上げるとミドリを宙に持ち上げた。ロープほどの細い触覚だが、かなりの重量を吊り上げることができるらしい。今、ミドリの両手をしばったまま50センチほど地面から浮かせ、支えているのだ。
ブシュウウ!
怪人は地面に泡を吐き、ミドリの足元に新しい水溜りを作った。ハネがミドリのサンダルに跳ぶ。ミドリは悟った。あの女性のように、ミドリもこの泡の中に溶かしてしまうに違いない。
「グフフフ」
怪人がまさにそうだとでも言うように笑っている。ミドリは足元を見た。片方のサンダルの甲についたハネがブクブクと小さな泡を発し、表皮をむしばんでいる。そして足首を止めているストラップは付着した泡によって切れかかっていた。
「いったい何が望みなの?」
ミドリは恐怖と戦いながら怪人の顔を見据えた。
「グゲグゴゴゴ」
意味不明の言葉を発しながら口をもごもごさせている。白い泡がその口に出現してくる。
「いやっ!」
泡をまともにくらったのではたまらない。ミドリはよけようと体をゆすった。その拍子に片方のサンダルの紐が溶け、足からするりと脱げて水溜りの中へ落ちてしまった。
ブクブクブク…
鈍い音を立て、泡の中にミドリの白いサンダルが沈んでいく。
「ああ…、サンダルが…」
ミドリは形を失っていくサンダルを見つめ、小学生の時、理科の実験で塩酸に落とされたアルミの金属片が泡を発しながら溶けていくのを観察したことを思い出していた。このままではいずれ自分もそうなってしまう。
「オマエハ、キプロスノヒトミヲモッテイルカ」
突然怪人が言葉を発した。
「何?キプロ…」
ミドリが問い返すと、再び怪人が繰り返した。
「オマエハ、キプロスノヒトミヲ、モッテイルカ」
「きぷろすのひとみ?なんだかよくわからないけど、そんなものは持っていないわ。」
「ニンゲンハ、ウソヲツイテハナラナイ」
怪人の目が赤く光ったように見えた。ミドリを吊り上げている触覚が少し下がり、まだ発砲している水溜りにミドリのつま先が近づいた。
「ちょっとやめて!本当に知らないったら!こっちが聞きたいくらいよ。」
しかし、怪人がいらいらし、怒りを表しているのがミドリには感じ取れた。口がせわしそうに閉じたり開いたりしている。
「サア、ダセ!」
怪人はまるでつばを跳ばすように、言葉とともに泡を散らせた。わずかな泡片がミドリにかかる。
ジュウウウ!
ミドリのブラウスにいくつかの小さな穴があいた。そして再びミドリの体ががくんと地面に向かって下がる。ミドリのつま先はすでに水溜りの上、数センチまで近づいている。片足はサンダルを履いていない。直接足裏が液体に触れればたちまち溶かされてしまうだろう。
「やめて!私はそんなもの本当に持っていないのよ!」
ミドリは声をふりしぼった。
「グゲゲ!」
怪人はゆっくりとミドリを水溜りへ下ろしていく。3センチ、2センチ、1センチ…
「い、いや!!」
ミドリは声を上げた。
ピチャ…
ついにサンダルの先端が水溜りに触れる。水溜りが泡立ち始め、サンダルを腐食させていく。
ズブズブズブ…
怪人は下ろすのをやめなかった。ミドリの足はつま先から水溜りの中にゆっくりと沈んでいく。露出部分の多い華奢(きゃしゃ)なサンダルでは、履いていようがいまいが同じことであった。液体が容赦なくストッキングにしみこみ、生温かい液体の感触が足の甲、くるぶし、そして両足首へと徐々に伝わってくる。
「ギャアアアアア!」
ミドリは自分が悲鳴をあげたのだと思った。しかし、前を見ると怪人の胸に不規則な穴が二つ空き、そこが発光してくすぶっている。断末魔のような異様な声を発したのは怪人の方だったのだ。怪人は触覚を大きく振ると後ろを振り向いた。その弾みでミドリは弾き飛ばされ、アスファルトの上に落ちた。怪人の向いた方向には銃を構え、誰かが立っている。シルエットになっており、ちょうどミドリからはその人物の輪郭しか見えない。
「グギャアア!」
怪人は触覚をミドリから振りほどくと、シルエットの人物めがけて振り回した。シルエットの主は2本の触覚を片手でむんずとつかむとグイと引っ張った。
ブチブチッ!
怪人の触覚はむしりとられ、怪人はよろめいた。シルエットの人物はそのすきも逃さず、歩み寄るとパンチを怪人に繰りだした。
シャキイイン!
シルエットの主が光る剣のようなものを腰から抜き出した。そのまばゆい光で、ミドリにはおぼろげながらもその人物の全体像が見えた。
「うっそお??何とか仮面?」
まさにそれは山下のデスクに乗っている数々のおもちゃを実物大にした感じのものだった。こんな時ではあるが、もっと山下に詳しく名前を聞いておくのだったとミドリは少し後悔した。
シュパアッ!
一刀両断、そのヒーローは怪人を真っ二つにしてしまった。怪人は仰向けに倒れ、ブクブクと泡を発しながら自分の泡に包まれ、やがて消滅していった。ヒーローはそれを見届けると、ミドリに近づく。
ヒーローの姿をしているが、新手の怪人かもしれない。ミドリは警戒心を抱いたもののしりもちを着いたまま、動くこともできない。ヒーローは至近距離までくると、今度は銃を取り出しミドリに向けた。
「やめて!私はあなたやこの怪人とは何の関係もないんだから!」
シュパッ!
ヒーローはミドリの言葉に全く耳を貸さず、ためらわずに銃を発射した。
「キャッ」
ミドリは顔をそむけたが、ヒーローから発射された物体は泡だらけになっているミドリの足に命中した。
ミドリが驚いて足元を見ると、泡はきれいに洗い流され、無傷の美しい素足とまだ片足に残っていたボロボロのサンダルが現れた。
「あ、ありがとう、ありがとうございます。」
ミドリは立ち上がると礼を述べた。近くで見ると表面がつるっとしたまるで宇宙人のような風貌のヒーローだった。緑に光る目をもつ顔は無表情の面のようだ。
「あの、あなたは宇宙人ですか?」
ミドリの問いに、一瞬ヒーローは無表情の顔を「くすっ」とゆがませたように見えた。ヒーローは両手を胸の前にあわせると少しずつ開いた。花びらのように開いた手のひらの中にはエメラルドのように輝く光が発せられる。ミドリが覗く。
「キプロスの瞳」
そうヒーローは言葉を発し、その光をミドリに浴びせかけた。
「キャアア!」
びっくりしてのけぞったミドリの脳裏にやわらかい言葉がこだました。
(その勇気、知性、力を大切にしなさい)
緑色の光がミドリを包んだと思うと、パアッと消えていった。あっけにとられ、ミドリはその場にへなへなと座り込んでしまった。
どのくらいそうしていただろうか、遠くから声が聞こえてくる。
「おーい、ミドリ君!」
所長の大枝と、山下が駆けつけて来る、どうやらメールは届いたらしい。
「よかったなあ、無事で」
大枝のゆったりした言い方がミドリの気持ちを余計に憤らせてしまった。
「よかったなあ、じゃないです!遅いです!もう、こっちは本当に死にかけたんだから!見てくださいこのクツ!」
「うわ、どうしたんですか?それ…」
山下もびっくりする。
「わけのわからないエビみたいな怪人はでるわ、しばられるわ、溶かされそうになるわ、山下君の大好きそうな変なかっこうしたヒーローは出るわ…。それに、一人の女性は間に合いませんでした…。」
ミドリは肩を落とした。
「君はよくやってくれた。これから忙しくなりそうだね」
大枝がやさしくミドリの肩をたたく。ミドリはうなずくと女性の消えていったアスファルトを見つめた。
「先生。あの」
「なんだい?」
「…いえ、いいんです」
ミドリは「キプロスの瞳」について大枝に聞こうと思ったが止めた。また再び怪人がやってくるかもしれない。大枝まで巻き込むのはよくないと思ったからだ。
「さ、ここは任せて君は帰ったほうがいい。警察には私から連絡しておくよ。多分信じないだろうがね」
「はい」
ミドリは使い物にならないサンダルを脱ぐと、はだしで歩き出した。
「そうだ、超過勤務はたっぷり付けてあげるから、心配しないでくれよ。」
大枝が背中から声をかける。
「君の勇気と知恵と力にはいつも感謝しているからね」
「ありがとうございます。失礼します」
ミドリは少し気分がよくなった。
(好きで選んだ仕事でしょ?また明日からしっかり働かなくては)
そう言い聞かせ、ミドリは停めてあった車に乗り込むと深夜の道へとハンドルを切った。
つづく