赤い死の霧

作:須永 かつ代様

律子はいらいらしていた。

綾小路律子は帝都大学理学部長の篠崎教授の研究室で助手を務めていた。彼女の研究テーマ「動物細胞維持のためのG酵素の働きに関する考察」は高分子化学の領域で画期的なものと言われていた。この研究を推し進めれば、癌治療の特効薬を作り出すことも可能と見なされており、彼女の研究は医学界からも注目されていたのである。
研究者としての彼女の将来はまさに前途洋々としていた。
頭脳ばかりでなく、律子は大変な美貌の持ち主でもあった。彼女は3年前、同じ高校から帝都大学教育学部に進学した親友の草野美津代を押さえて、ミス帝都大学の栄冠を勝ち得ていた。美貌・才覚ともに優れた律子は男性学生たちの憧れの的であり、何よりも本人自身がそのことを自覚していた。
だが、そうした女王様的雰囲気が馴染めなかったのだろう。
2年先輩で、同じ研究室の助教授、三上だけは律子を敬遠していた。三上はむしろ、美貌の点では律子に一歩譲るが、優しく控えめな美津代に惹かれていた。美津代は大学卒業後、母校の中学の英語教師となったが、彼女もまたずっと三上を慕っていた。
二人は卒業後も交際を続けており、この5月連休に結婚することを決めたばかりだった。
それが律子の神経を高ぶらせた。律子もまた三上を愛していたからだった。
美津代は律子にとって親友だったが、ことが三上との結婚となれば冷静ではいられなかった。
「どうして? なんで、美津代となの? 私のどこがいけないの?」
様々な思いが律子の頭の中で渦巻いていた。
研究の方もまた行き詰まっていた。律子は、G酵素がアミノ酸を活性化させると同時に、ある一定の条件下ではアミノ酸を極限まで拡散させ、破壊する可能性があることに気づいた。だが、これを検証するには絶対零度の環境を作り出す低温試験室が必要だった。帝都大学には絶対零度を設定できるだけの低温試験室は無かったのである。
「どうしたら設備を導入できるかしら…?」
律子が喫茶店で一人、思案に暮れていると、黒いトレンチ・コートを着たサングラスの男が寄ってきた。
「お嬢さん、あなたの要望に応えられるかも知れませんよ。」
律子は思わず、男の顔を見上げた。「え……?」
「それだけではありません、実験に必要なマウスも充分に確保できます」
それから律子は男に誘われるがままに、喫茶店を出て、男の車で何処かへと連れ去ら
れた……。

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結婚式を2日後に控えた4月28日、美津代は夜かなり遅くに勤務先の中学を出た。
ゴールデン・ウィークにかかるとは言え、10日も休暇をもらうため、同僚に迷惑をかけないように仕事の整理をするのに手間取ったのだった。
11時、いつになく遅くなった。しかし美津代の気持ちは爽やかだった。
いよいよあさっては三上さんと式を挙げる、そう思うと、暗い夜道とは言え、美津代の足取りは軽かった。
美津代は襟の高い
白のシャツ・ブラウスに、ダークグレーのスカートを着ていた。首元には草花の模様の真っ赤なシルクのスカーフを結んでブラウスの襟の中に織り込み、ブラウスの上には紺色のYネック・カーディガンを羽織っていた。カーディガンは袖を通してはいたが、さほど寒くない初夏の夜だったので、前のボタンは留めていない。このため美津代が軽やかに歩いて行くと、カーディガンの裾が後ろになびき、はためいて、それがまた彼女の浮き浮きとした感情を良く表していた。

「ヒュ……。」

どこからか空虚な声がした。美津代は足を止めた。「……?」

「ヒュヒュー……。」

声がさっきより大きく聞こえた。「(どこから聞こえるのかしら……?)」空虚な声は美津代の背後から聞こえたようだった。

「ヒュヒューーーッ!!」

美津代は後ろを振り返った。
「あっ!」
彼女の背後の塀の上に、黒い人影が映って、ゆらゆらと揺れていた。
恐怖に慄いて、美津代は脱兎のごとく駆け出した。彼女は
赤いパンプスを履いていたが、これでは決して全速力で走れるものではない。美津代は息せき切って角を曲がり、すぐ目の前にあった公衆電話のボックスに飛び込んだ。彼女はすぐさま受話器を取り、ダイアルを回した。

じーころ、じーころ、じーーころころころ……。………。

まだ応答が無かったが、待ちきれずに美津代は受話器に向かって叫んでいた。
「もしもしっ!110番っ!警察ですか?! 助けてくださいっ!怪しい人に追われていますっ!」
受話器からは応答がなく、代わりに電話ボックスの中に恐ろしい声が鳴り響いた。
「良く来た、娘! この中は殺人ガスの実験室だ。おまえは死ぬのだ!!」
美津代は我が耳を疑った。
「(殺人?……ガス? ……実験室? この電話ボックスが? そんな……。私が死ぬ? どうして? どうやって……? どうして私が? まさか……)」
冗談に違いない、誰かが悪ふざけをしているのだ。美津代はそう思った。そう、思いこもうとした。そうして電話ボックスから出ようとしたが、ドアが開かなかった。美津代は全身から冷や汗が出るのを感じた。
「いやっ!助けてぇっ!ここから出してーーっ」
必死に叫ぶが、ドアは開かず、ドアの向こうの夜道に助けてくれる人影は見えなかった。

ぷしゅーーーーっ!

突然、受話器の送信口の細かい穴から、
赤い霧のようなものが噴き出した。
毒ガスだ!
電話ボックスの密室の中、
ガスはたちまち充満してゆき、ドアを背に受話器を見つめていた美津代の顔をもろに包み込んだ。
「ああーっ、あ! あ…、うっ! ごほっ、ごほっ、おっ、……」
美津代は赤いガスを吸いこんで、首元を掻きむしって悶え苦しんだ。
ブラウスの襟の中に押し込まれた
赤いシルクのスカーフが解けたが、美津代はなおも喉を掻きむしっ
ている。ブラウスの襟元が大きく開き、爪を立てて引っ掻いたような傷痕が喉の上に残った。
指の動きが鈍くなり、美津代の全身から力が抜け、両腕が肩からだらりと下に垂れた。
スカーフは解けて足元に落ちている。すでに美津代は空ろな表情になっている。
がくっと膝が折れ、ボックスのドアにもたれながら、美津代の身体がずり下がって、ボックスの床の上にへたり込んだ。美津代の頭は傾いてボックスの角にもたれかかり、両目は空ろに天井を見ていた。

ごろごろごろごろ…………。

空腹時の胃の音か、あるいは腹を下している時の音か、いずれにせよ美津代の腹の中で何かが発酵するような音とかすかな振動が感じられた。

ごろごろごろ………、ごぼごぼごぼ………。

腹の中の音は大きくなってくる。

ごぼごぼ……、しゅうしゅうしゅう………。

空気が抜けるような音と共に、美津代が着ているブラウスの身ごろの合わせ目、第1ボタンと第2ボタンの間から、
白い泡が噴き出した。いや、それだけではない。掻きむしって大きく開いたブラウスの襟元から、同じように白い泡が吹き出して、丸く大きな塊になっていく。

しゅうしゅうしゅうしゅう…………。

泡の塊は、ぼうっと天を仰いでいる美津代の顔を包み込んだ。さらに、だらりと下がった両腕の、紺色のカーディガンの袖口から、同じように白い泡が湧き起こってきた。

しゅうしゅうしゅうしゅうしゅう……………。

泡は掌を覆い、丸く包み込んだ。床上に座り込んだ美津代の、ダーク・グレーのスカートの中からも白い泡の山が盛り上がり、両腿から膝、脛、そして脱げかかっている
赤いパンプスから溢れるように広がった。

しゅうしゅうしゅうしゅうしゅう……………。

美津代の、洋服の外に出ていた身体の部分がすべて泡に覆われた。
いや、そうではない。彼女の肉体を構成するアミノ酸が毒ガス、すなわち極限化されたG酵素を吸し
て、一挙に分解したのだ。
ぼこぼこ……という腹を下したような音は、酵素がアミノ酸を分解し、泡状に溶けて崩れ出す、その音だったのだ。
美津代が着ていたカーディガン、ブラウスの胸のあたりの膨らみが萎み、彼女の頭があったところの泡の塊がポソッと前に落ちた。
同時に、もはや中味の肉体を失ったカーディガンとブラウスは、これもまた肉体の支えを失って平たくなったグレーのスカートの上にたたみ重なった。

しゅううううううう………。

泡は次第に水っぽくなり、電話ボックスの床上に水溜まりを作って、完全に消え失せた。
後には平たく折り重なった、紺色のカーディガンと白いブラウス、ダーク・グレーのスカート、そして白濁した水が中に溜まった、
赤いパンプスだけであっ
た……。

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実験は成功だった。G酵素が持つ、アミノ酸の分解力は立証された。
テーラー・カラーの
真っ赤なブラウスに、黒のブレザーとスカートを着た律子は、一人研究室の中で、モニター・テレビで事の顛末を逐一見ていた。
「やった……。殺ってしまった……。」
そうだったのだ。律子は自分の作業仮説を立証するため、絶対零度環境を作る設備を提供するという、黒いコートの男からの提案を受け入れたのだった。男が設備を提供する。律子はこの設備を利用して、G酵素の分解力を極限まで高める高分子化合物を生成する。男は設備を提供した対価として、律子が生成した化合物の販売権益を得る、……。
律子はこのような契約を男と取り交わしたのだった。
さらに男は実験用マウスも十分に提供すると約していた。マウス、すなわち実験台、それが律子の親友であり、恋敵でもあった美津代だった。そしてマウス=美津代は、律子が生成した
毒ガスを吸って、この世から完全に消滅した……。
「これで三上さんは……。」

ガーーッ。重い鉄の扉が開いて、黒いトレンチ・コートの男が入ってきた。男の右腕には普通の人間の掌はなく、代わりに赤い、先が二つに分かれた舌をちょろちょろ出している、蛇の頭があった。男は人間ではなかった。男はコブラ男だったのだ。
「はっ!」
初めて男の正体を見て、律子は思わず後ずさりした。
律子の頭上に
赤い光が点滅し、低い声が鳴り響いた。それは美津代が電話ボックスに閉じ込められた時に響いたのと同じ、あの冷酷な声であった。
「綾小路律子。実験は成功だ。もうお前には用はない。」
「何ですって?!」
赤い光を見上げて反問する律子。
「われわれはお前の生成した毒ガスをコブラ男の体内に組み入れるために、お前の腕を利用させてもらっただけだ!」
律子は顔面蒼白になって叫んだ、「騙したわね!あたしをっ!くそっ!!」
律子は思わず、右手を振り上げ、叩き付けるように振り下ろした。
「今ごろ気づいても、もう遅いっ。コブラ男よ、この女を殺してしまえっ!!」
「ヒュヒュウ……」コブラ男が律子の方に向かって進んだ。
「はっ!!」律子は美しい目を見張った。
「ヒュ……」コブラ男はさらに近づいてくる。
「……!」律子の顔は恐怖に脅え、声にならない悲鳴を上げた。
コブラ男は両腕を胸の前でクロスさせ、すぐさま開いて、右腕の蛇の頭を律子の方へ向けるとコブラの口が開き、口の中から
赤い霧のようなガスが噴射された。

しゅーーーーー。

「あ、ああーーっ!!!」

毒ガス
を避けようとして、律子は逃げ回るが、研究室も決して広くはなく、彼女の逃
げ場はなかった。
「ぎゃあああああっ!!!」
この世のものとは思えぬ叫びを上げて、律子の美しい顔が歪んだ。と、同時に律子は顔の皮膚に異常を感じて、思わず両手で顔を覆った。

ごぼごぼごぼ………。

律子の顔の皮膚が泡を吹き上げる。

しゅうしゅうしゅう・・・・・・・・・。

美津代の時は、電話ボックスという狭い密室の中で、コブラ男の毒ガスをまともに吸ったため、まず気管支、肺の組織が溶解して、胸元から泡が吹き出したのだが、律子の場合は毒ガスを吸うまいとして息を止めたため、代わりに彼女の目、鼻、耳の孔から毒ガスが侵入し、まず顔の組織から分解し始めたのだった。
「ああああああ・・・・・・・・・」
顔を覆う両手の隙間から白い泡が吹きこぼれる。次第に泡は大きく盛り上がり、律子の頭全体を覆った。
「・・・・・・・・・!!」
声帯が溶解して、もはや声を上げることもできず、律子は前のめりに倒れこんだ。

しゅうしゅうしゅうしゅう・・・・・・・・・・・・。

律子の赤い襟足から泡が流れ出し、うなじの部分を包み込む。黒いブレザーの背中が
萎み、丸く盛り上がっていた尻の部分もへこんでいった。最後に、スカートの下から
覗いてた細く長い両脚が泡をふいて溶けていった。顔から入ったG酵素が、一番最後
に足の先に回り、すべての細胞を崩した。

しゅううううううう・・・・・・・・・。

次第に白い泡の色が褪せて、水のようになった。黒のブレザー、スカート、
真紅のブラウスが、さきほどまで律子が着ていたそのままの形で、びちゃびちゃに濡れて残っていた。コブラ男がその上から踏みつけ、衣服をくしゃくしゃにしてから、蹴飛ばした。
「ヒュ・・・・・・、まったく女の嫉妬というやつは・・・・・・」

  (完)