melt-snow
作.ZZZ様
「大分寒くなってきたわね。」
響子は一人つぶやいた。もう9月も中旬を過ぎ、郊外の通りを吹き抜ける風にも冷たいものをゾクッと感じるようになった。ましてや夜12時を回っている。初秋とはいえ昼間の暑さはもうすっかり影をひそめてしまった。混雑していた国道も自動車のヘッドライトがまばらに通り過ぎるだけで、その脇の歩道には響子の他は誰も歩いてはいない。響子のクリーム色したヒールサンダルの音だけがこだましていた。
「何かあったかいものでも買っていこうかしら。まだコンビニ空いているかな。」
今日は会社の接待で役員に付き合わされてしまった。響子は短大を卒業してから薬品関係の会社に勤めて5年。まじめな勤務態度で上司の評判もよく、また、キャリアというわけではないが、初々しさと愛くるしい笑顔で営業でも各方面から気に入られている。今夜は大学病院の教授達との接待に付き合うよう命ぜられてしまった。特に予定もなかったので受けたものの気楽な宴会ではない。緊張続きでついついせっかくの料理に手をつけずにいてしまったのだ。
「あれ?この辺りにあったはずなのに。」
国道沿いにコンビニがあることは普段の通勤に自動車でここを通るのでよく知っている。しかし今日は歩きなので距離感覚が違ってしまったのだろうか。きょろきょろ進んでいくと駐車場が見えてきた。しかしコンビニのマークのついたポールの先の看板には明かりがともっていない。
「やっぱりここって12時までだったんだ。失敗しちゃったな。」
それでも響子はコンビニの前に自販機があったことを思い出し、缶コーヒーでも買おうと駐車場に向かった。しかし、そこにあったはずのコンビニの建物は跡形もなく、だだっ広い駐車場と空き地が広がるだけだった。
「いやだ、ここの店つぶれちゃったの?」
長引く不況により、個人所有のコンビニ店舗が少なくなっているとは聞いていたが、大手チェーン店まで倒れてしまうとは思わなかった。響子は駐車場の中央にぽつんと残っていた自販機に歩み寄ると、小銭を出そうとバックの中の財布に手を伸ばした。
「あっ」
つい弾みで小銭を何枚か地面に落としてしまった。
「もう、どうしてこうドジなんだろ。」
響子はかがんで散らばった1円玉に手を伸ばそうとして、地面に何かが積もっていることに気がついた。
「あれ?うそ。雪?」
寒さを感じたからといって一気に冬に突入したわけでもあるまい。響子は夜空を見上げた。国道の信号機の光に照らされ、確かに何かが空から舞ってきているのが見てとれた。再び視線を地面に戻すと一円玉と一緒にその雪のようなものを掴んだ。
「熱っ!」
響子は思わず小銭から手を離した。雪のようなものの中に再び落ちた1円玉はジュッと音を立て、飴のように溶けていく。響子はアルコールに弱いほうではなかったし、今夜はワインをなめる程度しか飲んでいない。酔って見まちがえるはずはなかった。
「うそっ?いったい何なの?この雪は!」
響子が着用しているパステルグリーンのスーツの袖にも落ちてきた雪が触れ、生地の上でジワッと溶けていく。しかし雪の結晶が溶けると同時に響子のスーツにもポスッと小さな穴があいていった。
「きゃっ。服が…」
響子は小さな悲鳴をあげると自分の服を見渡す。すでに響子のスーツには無数の小さな穴が虫食いのようにポツポツあいていた。肩まで掛かる髪の先にもいくつか雪の結晶がついている。響子は体に付着している雪を手で払うと、慌てて持っていたベージュのハンドバッグで頭の上を覆った。
「どうなっているの?」
まるで大雪のように大粒の粒子が空から次々と降ってくる。見る見るうちに目の前の駐車場はそれらの雪で覆われていった。響子は以前ニュースでこのような光景を見たことを思い出した。火山灰だ。しかしこの結晶は本物の雪のように溶け、触れたものも一緒に、そして一瞬にして融かしてゆく。当座は雪の正体を詮索するよりもまずどこか屋根のある場所に非難しなくてはならない。響子は足を踏み出した。
シュウウウ…
「ああっ、熱っ!」
響子はつま先に高熱を感じて飛び上がった。降り積もった雪が、薄いナイロンのストッキングを溶かして直接響子の足に触れている。細い皮紐で足先と足首を固定しただけのヒールサンダルでは何も覆っていないも同じだった。まるで熱湯の飛沫がかかったように熱い。響子は急いで雪を踏み固め、その上に足を置いた。とりあえずしばらくは靴底が足の裏を熱から守ってくれる。そっとかかとから足を雪の上に下ろしながら、注意深く雪の中を響子は進んだ。
ジュッ、ジュッ、ジュッ…
一歩一歩進むたび、サンダルの底が悲鳴を上げる。薄いサンダルの底ではいつまでもつかわからない。
顔や腕など露出した部分にも降ってくる雪が容赦なくあたり、熱は痛みとなって響子に刺激を与え続けている。スーツの穴もしだいに大きくなり、所々内側のブラウスにも達してきた。とにかく駐車場から出て、屋根のあるところへ行かなくてはならない。このままでは服はボロボロになることは間違いなく、そればかりか体中火傷だらけになってしまうだろう。早くいまいましい雪がやんでくれることを響子は願った。しかし彼女の願いに反し、雪はさらに勢いを増してくる。国道沿いの歩道に向かったものの10メートルも進まないうちに目も開けられなくなってきた。
ガツッ!
「あっ」 響子は雪に隠れた側溝の金網にヒールを引っかけ、つんのめってバランスを崩しそうになった。
ブチッブチッ!
嫌な音がした。足元を見る。
「ああっ。サンダルがない!」
すでに響子の右足のサンダルは甲の部分のストラップが焼き切れ、脱げてしまっていた。振り返ると雪の中に転がったあわれなヒールサンダルがジュウジュウ音を立てて溶けている。フライパンのような地面の熱が靴を失った響子の足裏にも伝わってきた。思わず片足立ちになる。
ジュウウウウ…
「だ、だめ、サンダルが溶けちゃう…もう歩けないわ。」残った左足のサンダルもまるでラードのように、底からじわじわと液体化していく。
響子はその場に立ちすくんでしまった。と、その時、
「オマエハ、キプロスノヒトミヲ、モッテハイナイ。」
響子の背後から電子音のような声が響いた。
「な、何?」
響子は声のしたほうを振り向くと、降ってくる雪に隠れて白っぽい巨大な雪だるまのようなシルエットがぼんやりと見えた。
「キエロ!」
威圧するような言葉と同時に響子の上から猛烈な勢いで雪が降ってきた。まさに雪のシャワーだ。頭にかざしていたハンドバックは降り積もった雪の重みで響子の手を離れ、地面に落ちていく。その悪魔のような白い粉は頭から足まで響子の全身に降り注ぎ、あっという間に哀れな若い女性を雪像のような塊にしてしまった。
「きゃあああああ!」
その声が響子の最期の断末魔だった。
声が消えるとともに雪像はずるずると溶け出し、本物の雪のように水となって流れていくのに1分とかからなかった。
「聞いてるんですか?」
大枝の法律事務所ではアルバイトの山下がいきまいた。
「だから、もうどれも一緒でしょ?その何とかマンていうのは」
山下のヒーロー物の趣味には付き合っていられない。ミドリは帳簿の整理をしながら、軽く受け流していた。ここのところ事件は少なく、民事の軽度な揉め事について訴えがいくつか事務所に持ち込まれているだけだった。弁護士の大枝は顧客と電話で話しをしている。ミドリはふと半月前、怪人に溶かされそうになった後の大枝との会話を思い出した。
「これから忙しくなるね」
ミドリは目の前で一人の女性が文字通り消えていくのを見ており、大枝にもそのことを詳しく話したつもりだった。しかし、女性が何人も行方不明になっていた事件は、警察の捜査により失踪として処理されている。ミドリも警察に尋問されることはなかった。大枝がきっと口を利いたのだろう。警察のトップとも懇意だと以前客から聞いたことがある。だからミドリはあの後も通常の勤務を続けられ、これといった日常の変化もなく過ごしてこられた。
「おおい、ミドリ君。今夜ひまかい?」電話を置いた大枝がミドリに声をかけてきた。
「あ、はい。特に用事はありませんが、何かお仕事でしょうか?」
ミドリは事務処理の多い現状より、活動的に仕事がしたいと常々思っていた。もちろん時間外でもかまわない。それに、一人暮らしなので一緒に過ごす家族がいないのはもちろん、恋人も現在は募集中である。イスから立ち上がると大枝のデスクの横へ来た。
「いや、お客さんからいただいたオペラのコンサートチケットがあるんだが、今日は僕も用事があって行けなくてね。もしよかったら代わりに行ってくれないか?ずいぶん高価なチケットらしいからね。」
予想もしなかった大枝の言葉にミドリは驚いたものの、笑顔を隠せなかった。ミドリは古風な趣味と山下によくいわれているが、クラシックは大好きだった。このコンサートのチケットももちろん欲しかったのだが、インターネットでも発売と同時に売り切れてしまい、ミドリの手には入らなかった。
「ありがとうございます!」
「じゃあ、頼むね。」
ミドリは興奮して渡されたチケットを見つめた。そのため大枝がぼそっと笑顔とともにもらした言葉は耳に入らなかった。
「いよいよデビューか…。」
つづく