メルトラン2000の驚異

作:ZZZ様

由美はオフィスのパソコンの電源を落とし、帰宅しようとショルダーバッグを抱えた。

「もうこんな時間・・。」

時計を見るとすでに夜の11時を回っている。
自宅が郊外のため電車に乗るにはもうぎりぎりの時間だ。これを過ぎると明日の朝までここにいるしかない。
研究チームで出された課題を書類にまとめていたのだが実証事例が少ないため、なかなか考察が進まない。明日の8時にはチーム主任に提出せよとの指示のため、遅くまでパソコンに向かうしかなかった。

「しかたないわね、朝早く来てプリントアウトするしかないわ。」

部屋の電気を消すと暗闇が広がる。由美は「ふう」とため息をつくとドアに向かった。

「きゃっ」

由美は何かにつまずきよろめいた。右の中ヒールのパンプスが脱げかかっている。どうやらヒールにコードリールを引っかけてしまったらしい。床には増えすぎたパソコンをつなぐためのコード類が無造作に這っており、気をつけないと足を引っかけ転んでしまう。由美はパンプスを履き直すと慎重に歩を進め、ドアに近づいた。ドアのノブをゆっくり回す。

「あれ?…」

ドアノブが回らない。何度もガチャガチャ試してみるが結果は同じだった。30秒ほど続けて由美は同僚が帰り際に言ったことを思い出した。

「そういえば、このノブって調子がよくないんだっけ。」

由美はオフィスのもう一つのドアに向かった。
目が暗闇に慣れてきたためか、今度はつまずかずにたどり着いた。そのドアは商品をテストしたり、撮影をしたりするスタジオにつながっている。廊下に出るにはそのスタジオを通ればよいのだ。ドアを開けると十畳ほどのガランとした空間が広がり、
非常口を示すライトだけが点灯している。今は特に器具なども置いておらず、ホールのような空間だった。
初夏だというのにここはいつもひんやりして冷たい。由美はいつもこの冷たさを感じるたび、ここの会社のクールさを思い出す。
今回のプロジェクトもその利益優先による不十分なままでの発表の危険性を感じて、由美は何度も主任に変更を求めたが、たかだか20代中半の駆け出しの言うことなどに耳を貸してはくれない。

「メルトラン2000か…。」

由美はふとその開発商品のコードネームを声に出した。
衣料素材を総合的に扱うこの会社では、その処分とリサイクルに画期的な物質の開発に成功した。未だ日本では景気が低迷しているとはいえ、大量の衣料品がゴミとして家庭や企業から出され大型の炉で焼却されている。
石油化学による合成繊維や合成皮革を再び使用可能の物質に変換すれば、ゴミ問題や環境汚染に一つの答えがでるといってよいだろう。
しかし現在の科学ではリサイクル費用がかかりすぎる点がリスクとなって実用に踏み切れずにいる。
この
メルトラン2000は衣料品などに使われている化学物質を分解し、もとの油系の物質に還元する溶剤なのだ。
開発チームの主任はこの溶剤について社長の命を受け、商品化を急いでいる。1ヶ月後にはラインに載せ、出荷したい計画だ。
しかしチームの一員の由美には二つの懸念があった。
一つはこの溶剤を使用すると化学物質を溶かすだけでなく副産物として粘性の物質を発してしまう点。ゴミとして大量に出された衣料品を溶かす釜はベタベタの状態になってしまうという予測である。
もう一つは人体への影響。
メルトラン2000は家庭への販売も目指している。これが普及すればそれぞれの家庭で手軽に古着やナイロンのゴミを溶かすだけでなく、プラスチックの容器なども処理できるようになるだろう。洗剤のように使用されることを考えれば、溶剤が人間の肌に触れることは当然予想される。これだけ強力な溶剤だ。完全に安全とはいいきれない。由美はさらにテストを重ねるべきだと主任に申し出た。しかし由美に帰ってきた言葉は予想通りだった。

「そうだよね、人体実験なんかできないものね。」

由美はドアを閉めると反対側のドアに向かって進んだ。

カツーン、カツーン…

リノリウムの床に由美のパンプスが響く。

カツーン、カツーン、ピチャッ

「え?」

水溜まりのようなものの感触があり、由美は驚いて足を止めた。こんな所に水気があるはずがない。足元を見るが、非常口の緑のランプだけではよくわからない。

コポコポコポ…

どこからか、液体が流れている音が聞こえる。何かが漏れているのかもしれない。由美はスタジオの蛍光灯のスイッチに向かった。

ベタッ、ベタッ

由美が歩くたび、ガムテープを踏んだような音がする。パンプスの靴底についた液体は粘着性のあるものらしかった。蛍光灯のスイッチを入れる。グローイングランプのバチバチッという音とともに部屋が明るくなった。

「何?これ…。」

リノリウムの敷き詰められた床の中央から緑色の液体がわき出てきている。それは部屋全体に広がりつつあり、由美の立っているところまで押し寄せてくる勢いだ。

「まさか?これは…」

その液体は由美のよく知っているものだった。

メルトラン2000!?どうしてここに?」

しかも、今足下に流れてきているものは濃い緑色。何度もこの溶剤をテストした由美は理解した。間違いない。

「これは原液だわ。どうしよう、このままでは部屋中ベタベタになってしまう!」

商品化しようとしているのは原液を何百倍にも薄めたものだ。
それでも危険性があるというのにここに流れているのは…。
すでにリノリウムの床は溶け始めている。由美は何かで湧き出ている穴をふさぐことを思いついた。だがこのスタジオには何もない。オフィスに戻って使えるものを取ってくるしかない。迫ってくる液体をよけながら、まだ乾いている床に歩を進め、入ってきたドアにたどり着いた。ドアノブに手をかける。由美はそこではじめて戦慄を覚えた。

「まさか、閉じこめられたの?」

ドアは全くびくともしない。由美はパニックになりそうな気持ちを抑えながら冷静になろうと努めた。液体はどんどん迫ってきている。

ガシャン

反対側のドアに鍵がかかった音がする。
間違いない。由美は故意にこの部屋に閉じこめられたのだ。いったい誰が何のために?しかし今は詮索するより外へでる方が先だ。

「そうだ。携帯!」

由美はバッグから携帯電話をとりだした。警備室に連絡がつながればきっと助けにきてくれる。由美はシステム手帳を抜き出して契約している警備会社の番号を探った。そこに電話すれば、きっとこの会社に常駐している警備員に連絡がいくに違いない。メモをめくる手がふるえる。
靴の先数センチまで
メルトラン2000はじりじりと進んできている。わずか十畳足らずの部屋だ、あっという間に床の全面を覆ってしまうだろう。

「えっと、05…」

リリリリッ!

「きゃっ!」

突然携帯電話が鳴りだし、思わずびくっとした由美ははずみで携帯を放り出してしまった。

バチャン!

由美から2メートル半先の液体の中に携帯は落ちた。その衝撃で呼び出し音が止まると今度は人間の声がする。

「君はテストがしたかったのだろう?人間で。」

聞き覚えのある声が携帯から流れてきた。研究開発チームの主任だ。由美は恐ろしい考えか頭に浮かんだ。

(私で実験するつもり?!)

「そんなことは言っていません!」

「ふふふ、まあいい。見物だね、私たちの研究に異議を申し立てる度胸のある人間がこれから泣き叫ぶ様を見るのはね。」

「どういうことですか?」

「君もメルトラン2000の原液がどういうものか知っているだろう。一時間もすればその部屋いっぱいになる。石油系で作られたものはすべてドロドロさ。タンパク質、つまり人間もどうなるかは君の体で試させてもらうよ。ま、精一杯健闘したまえ。すべて記録させてもらうよ。それとも君自身がレポートをまとめるかね?ははは」

ブチッ

そこで主任からの音声はとぎれた。

「殺す気なの?」

由美は主任の言葉に唖然としたもののまだ冷静さを失っていなかった。こうなる事態がいつかくることをうすうす感じていたのかもしれない。

ピチャッ

足下はすでに液体に浸かりはじめている。助かるには外部に連絡するしかない。まだ液体の深さは数ミリなので、携帯は溶けてはいないようだ。意を決すると、由美は携帯に向かって液体の中へ足を踏み出した。ハネをとばさないようにつまさき立って慎重に進む。

ベチャッ、ベチャッ…

糊の中を歩いているようで思うように足が進まない。リノリウムは溶けて粘着質になり由美のパンプスに絡みつく。あと1、2歩で携帯に手が届く所まできた。

「うっ。」

ついに足が床から離れなくなった。足下を見る。

「ああっ!いやっ。く、靴が…」

ベージュ色の中ヒールのパンプスはラバー加工の底から溶けだし、緑色に染まった床と密着しはじめていた。
春先に買ったものでまだ新しく、由美のお気に入りであったが、合成皮革のため溶剤の餌食となってしまったのだ。買ったばかりの時、右のかかとにこすった傷跡をつけてしまっただけでも悲しかったのに、このままでは飴のように分解され、使い物にならなくなることは必至だ。右足に力を入れて左の靴を持ち上げようとする。

べた〜

水飴のようなネバネバした糸が無数に靴底から床に伸びる。わずか10センチほど床から浮いただけで前には進めない。逆の足で同じことを試みる。

スポッ

靴が粘液に引っ張られ脱げそうになる。由美はあきらめて足を床におろし、腰をかがめて携帯に手を伸ばす。しかし指先をどんなに伸ばしてもあと10センチほど足りない。液体はどんどん溜まっていく、携帯もあと数分で溶けてしまうだろう。もう一歩踏み出すことさえできれば…

「きゃっ」

由美の体が揺らいだ。何とかバランスを整える。

ジュブブブ…

「ああっ、ひどい。ヒールが…」

見ると右のパンプスのピンヒールが蝋燭のように溶けてしまった。ヒールを失った靴はべったりと床に貼りつき持ち上げることさえできない。しかも靴の中へ溶液がはいりこみはじめていた。

「この靴はもうだめだわ。高かったのに。」

由美は手を伸ばしできる限り携帯に近い緑色の液体の中にショルダーバッグを置いた。
バッグは本革の製品なので合皮より溶けにくいはず。もしかしたら溶けないかもしれない。由美はパンプスをあきらめ、靴から右足を抜いた。染み込んできた溶剤により、足の裏はところどころ
ストッキングが溶け、素肌がのぞいている。そのまま踏みだしてバッグの上につまさきを置いた。携帯に手を伸ばす。

「よし」

携帯は幸いにもまだ機能していた。もっていたメモを見ながら警備会社のダイヤルを押す。

すぐに応答が来た。

「こちら警備保障の山田です」

「私、リードケミカル社の平岡といいます。3階の303号室から出られなくなってしまっているんです。すぐに来てください!」

「もう一度。お名前を」

「平岡由美です。開発部の」

「お待ちください。おかしいですね、平岡さんは登録されていませんが。」

「そんな!?と、とにかく来てください、私、殺されるかもしれない!」

「わかりました。とりあえず警備室に連絡しておきましょう。」

「おねがいしますっ!」

ブチッ

由美が言い終わらないうちに電話は切られてしまった。ちゃんと伝わったのか。殺されるというのは大げさだったかもしれない。いたずらだと思われたらどうしよう。とにかく何にしても警備会社だ。こんな不振な電話を受ければ見回りにくることは確実だ。でもいつになったら・・。

ジュブウウウウ

由美は足下を見た。革のバッグもすでに液体に沈みかけている。脱ぎ捨てた右の靴はもう原形を残していない。

「いけない…」

まだ履いていた左のパンプスは液体にどっぷり浸かっている。形がドロドロに溶けてグニャリと崩れて大きな穴があき、由美の素足が見えていた。慌てて足を引き抜こうとする。

ネバアアア

ストッキングに染み込んだ粘液は直接足にくっついてからみつく。

「うっ。はなれないわ。」

ピチャ

「あ、こっちも。」

バッグの上に置いた右足にも液体が触れた。つまさきのストッキングが溶けてバッグに糸をひいている。液体から引き離そうとして何とか右足を液体から持ち上げることはできた。しかしもはや足をおろす場所がない。バランスを崩しかけ、右足は液体の中へ。あっという間にくるぶしまでストッキングが溶けて裸足になった。靴を失うとなんだか無防備になったようで心もとない。
ふと(裸足で帰ったら恥ずかしいな)などという考えが心に浮かんだ。それよりも今は生きて還れるのか真剣に考えなくてはならない。足に力を入れる。

「だめだわ、動けない。」

ゴボゴボゴボ

突然液体の流れ出る量が増した。由美のくるぶしからひざまでどんどん溜まっていく。半透明の液体をのぞき込むと、ストッキングのところどころに穴があき、広がって見る見るうちに溶けてなくなっていく。今のところは脚に痛みは感じない。溶けるのは化学製品だけのようだ。しかし新たな恐怖が由美を襲った。

「いっぱいになったら、たとえ私が溶けなくても溺れてしまうわ。」

液体は今やひざを越えスカートに達している。

ジュウウウウ

ベージュのスカートも化繊でできていたのだ。液面が上昇するたびスカートのすそからどんどん溶かされていく。

「このままじゃ裸にされてしまう。なんとか足を床から離さないと。」

必死に液体に沈んでいる足を動かしてみた。
しかし両足を床にかたく縛りつけられているようで、全くはがれない。まるで足の裏と床が一体になってしまったようだ。
腰をひねったり体を前に倒して体重をかけたりしながらなんとか前に進もうとする。床のぬるぬるした感触が裸足に伝わり、気持ち悪い。足も溶けているのだろうか。液面はすでに足の付け根まで達している。

「もう!絶対弁償してもらうんだから!」

由美は極端に短くなってしまったスカートの惨めな姿を見つめ、悲しみから怒りがわき上がってきた。

「んんっ!」

怒りにまかせ足を引っぱる。と、その時急に足が床から自由になった。リノリウムが全て溶け、粘着性を失ったからだ。

「きゃあ!」

由美は思わぬ事態にバランスを崩し、液面に仰向けになって倒れ込んだ。

バシャアアアア

新たなエサを得たメルトラン2000は容赦なく由美の服に襲いかかる。ドロッとした感触が由美の全身にからみつく。由美は必死に液面の上に顔を出そう手足をばたつかせた。このままでは窒息してしまう!なんとか上半身を起こす。

ジュウウウ!

生き物のように液体はまとわりつき、どんどんと由美の衣服を飴のように分解していく。

由美はその粘着性のため、動きがままならない。薄ピンクのジャケットはいまやトリモチのようにドロドロになり、由美の腕の動きに合わせゴムのようにグネグネと伸びたり縮んだりして形を崩していった。

「いやあああああ!」

由美は悲鳴を上げた。
液体に引き戻されつつも立ち上がると、ドアに向かって歩き出す。もはや衣服だったものは液体と同化し、由美が動くたび体から糸をひきながら流れていく。半裸の状態で腰まで浸かりながら粘液の重みを引き離すように足を進める。床はぬるぬるしてすべり、一歩踏み出すにも渾身の力がいる。

「もう、いや・・・。」

由美は半泣きになりながらドアに向かった。顔は液体にまみれ涙なのか溶剤なのか見分けがつかない。美しかった自慢のストレートの髪は、べっとりと緑色のゼリー状の液体が付着し、乱れて肩にくっついていた。回るはずのないドアノブに手をかける。

「きゃあああ!」

ノブにふれた手が溶け落ち、液体に落ちた。ポチャンという音を耳にすると、張りつめていた気持ちがどこかに飛んでしまった。由美は意識を失った。

ジュウウウウウ

再び液体に倒れ込んだ由美はメルトラン2000によって次第にその形を失い、消えるように液体の中に溶け流れていった。


「ここは?」

由美は目を開けると、白い天井に気がついた。見たことがない。病院なのだろうか。ベッドに横たわっている状況は理解できた。

「気がついたかね?」

声のする方を向く。白衣をまとった背の高い男・・。由美のチームの主任だった。その姿を見ると、色々なことが脳裏を巡り、由美は起きあがろうとした。

「ああ、そのままでいい。」

主任は手で制すと言葉を続けた。

「荒っぽいまねをしてすまなかったね。大丈夫、夢ではない。記憶を消そうとも思ったのだが、君は有能だ。理解した上で再び我々に協力して欲しい。」

「え?」

由美は主任の思いがけない言葉に一瞬とまどった。

「データを取らせてもらったよ。君の思考もね。われわれの目的はメルトラン2000の開発だけではない。物質の液体化とその再生だ。その応用範囲は君ならいくつか予測がつくだろう。」

「・・・。」

「まあいい、今は休み給え。一週間の有給休暇だ。またしっかり働いてもらうよ。ふふふ」

由美は混乱して何をどう整理してよいかわからなかった。わかったことが一つ・・・。

(やはり私は溶けたんだ・・。)

「体が動くようになったら、車で自宅まで送らせよう。」

そういって主任は部屋から出ていこうとした。

「そうだ、君は服のことを心配していたね。当然相応のものを用意するよ。いや、何でも欲しいものを言うがいい。とりあえず今日のところはその服を着て帰ってもらおう。安心したまえ、裸足で帰すなんてことはしないよ。ははは」

主任が部屋から出ると、由美はあわてて自分の体を探った。下着類は身につけているらしい。ベッドから起きあがって足を床に着ける。ひんやりとした感触が伝わり、自分の足が存在していることを自覚した。足下を見る。

「あれ?わたしの靴・・・。」

そこには溶けたはずの由美のパンプスがそろえて置いてあった。そっと足を入れ、動かしてみる。大丈夫だ、どこにも溶けた形跡がない。よく見ると確かに右のピンヒールに傷跡がある。間違いなく由美の履いていたものだ。振り返ると枕元のハンガーに由美の身につけていたものが全て掛かっていた。

「うそみたい。物質の再生は可能なんだ。」

由美は自分が溶かされたことも忘れ、その技術に感心した。もしかしたらだまされているのかもしれない。クリーニングされたてのようなジャケットに触れ、少しほほえんだ。

「面白そうね。」

由美は研究者としての好奇心と並はずれたお人好しさから、主任を許そうと感じ始めた自分に気づき、思わず笑ってしまった。

「私って馬鹿だな。」

窓から朝日が射し込んできた。


(終わり)