『一人称単数』――佳津代の場合


作・須永かつ代様

坊ちゃまは今日も帰って来ていない。

 奥様はお友だちのところに勉強に行ったとおっしゃってるけど、勉強なんかじゃない、坊ちゃまはドライヴに出かけたんだ。

 一昨日、坊ちゃまがお屋敷を出るとき、「なぁ佳津代、俺と一緒にドライヴ行かないか?」って誘ってきたけど、私には毎日お仕事がある。それに二人でドライヴだなんて、行った先で何をされるか分かったもんじゃないわ。車の中でだって…、いや車の中だからこそ危ないわ。そりゃぁ旦那様の息子さんだし、じゃけんにする訳に行かないから、「わたくし仕事がございますので」って愛想笑いして誤魔化したけど、本当は坊ちゃまと話をするだけでも気味が悪いんだ。




この間、買い物の帰りに変な外人たちにからまれたとき、坊ちゃまとお友だちが助けてくれたのは嬉しかったけど、私が着ていたカーディガンを引っ張られて、ブラウスの胸元が大きく開(はだ)けてしまったのを見て、坊ちゃまがぺろりと舌なめずりしていたのに気づいたの。あの時の坊ちゃまの唇と眼つき…、それに私を助け起こしてくれたとき両手がねっとりと脂ぎっていたことと言ったら…、思い出しただけでも身の毛がよだつわ。 

だからこの2-3日、坊ちゃまが帰って来ないのは、私的にはほんとうにホッとする。この穏やかな時間が少しでも長く続きますように。

今晩はお客様がいらっしゃる。立花さんと言って、さっき電話で聞いた話では、なんでも坊ちゃまが事故を起こしたとか…。アイツの運転なら、きっといろいろなところで引っ掛けたり、ぶつけたりしてるんでしょうね。まさかとは思うけど、人身事故でも起こしたのかしら?だとしたら大ごとね。あの癇の強い奥様が何て言うかしら…。あら、もうこんな時間。そろそろ立花さんがお見えになる頃だわ。

***

 事故の話だって言うから、てっきり示談でも求めて怒鳴り込んで来たのかと思ったけど、立花さんって意外に温厚な方だわ。連れの若い女性も素敵な人。それに一緒にいらしたお二人がナイス・イケメンで、私好みかも知れない。

 奥様は「最高級のコーヒーを出してちょうだい、相手に舐められないように…。そう、イタリアン・ローストの最上級にして」ですって。あれって、リッチで深みのある力強い風味だけど、1970年代初めならともかく、今どきスタバでも出してるんだから、最高級って言えるのかしら…。とにかく、まずコーヒーで気持ちを落ち着けて頂こう。

***

(ぶるるる…、ぶるるるる…)

 何の音かしら?玄関ホールには誰もいないけど。化粧室の方かしら?広いお屋敷だから、お客様が迷ってるのかも。

…………………。

 化粧室にも誰もいない。じゃぁお庭…? 
いけない、応接の前に置いたコーヒーが冷めちゃうわ。戻らなくっちゃ。


***

「ずいぶん待たせるわね」

「何をやっとるんだ…」

奥様が遅いので、皆さんだいぶイライラしているみたい。

「奥さん、まだですか?」

青いサファリ・ジャケットを着た男性が訊いてきた。

「もう暫くお待ち下さい、すぐ参りますから」

返事をしながら、私は「最上級の」イタリアン・ローストをお客様のカップに注いで回る。面倒な事故の話には関わりたくないし、そもそも関わりようがない。こういうとき家政婦という立場は好都合よね。
黒のライダー・スーツを着たもう一人の男性が何か言いたげに私のほうをちらっと見たけど、何も話さなかった。この人の方が少し強面かしら。

あ、奥様がいらしたわ。やれやれ、いよいよバトルが始まるのね。くわばらくわばら、退散しよう…。あ、いやいやいや、さっきの物音を確かめなくっちゃ。

***

(ぶるるる…、ぶるるるる…)

お屋敷の中じゃないわ。お庭のほうかしら。

(ぶるるる…、ぶるるるる…)  

「誰?そこにいるのは誰なの?」

植え込みの方で何か緑色に光ってる。何かしら?

「ぶるるる…、ぶるるるる…」

「きゃーーーっ!!!」

 何あれ、虫?!そんな、こんな大きい虫がいるの?!蜂?蠅?中に戻って、奥様に伝えないと…、誰か呼ばないと。違う、早く逃げないと!

「ぶるっ、ぶるっ」

 

「きゃっ」

いやっ、腕を掴まれた!

「いやっ、助けてっ」  

あのときと一緒だ!後ろから外人に追い掛けられて、肩を掴まれ、もう一人が私の前を塞いで、二人で私を押し倒した…、あっ、引っ張られるっ!

 「助けて、誰かっ」

誰でもいいから助けて!坊ちゃま!

「いやっ、いやっ、あっ、あっ!」

捕まった!何これ?気持ち悪い!この脂ぎった手の感触。身体が鳥肌が立つ…。いけないっ、真正面に向いちゃった!

「あっ?」

まさか…、この蠅のお化け…、あいつ?坊ちゃま?! そんな…。でも、この荒っぽい両手といやらしい口元。まさか、そんなことが…。

(ちゅうううううぅぅぅぅっ)

「んん…!」

何か顔にかけられた!何これ、ねっとりして…。いやっ、目が開かない、眼が見えない…。

(ちゅうううううぅぅぅぅっ)

「…んん…」  

いやっ、後生だから顔は止めてっ!…誰か助けて…。駄目だ、声が出ない。両肩を掴まれて動けない。力が入らない…、身体中の力が抜けていく。

坊ちゃまが手を離した?

今だ、逃げなきゃ…、助けを呼ばないと…。駄目、もう力が出ない、立ってられない。あぁ、倒れる、倒れちゃう…。植え込みに突っ込んじゃう…。起き上がれない…、もう何が何だか…。

  ***



(加納家の家政婦・須永佳津代(年齢21)が行方不明のため、以下は彼女の雇用主・加納奈津江の証言である)

ええ、庭の方で物音がしたので、何ごとかしら?立花さんたちがまた難癖つけに戻って来たのかと思って、玄関を出ましたところ、ポーチのところにあの…、一文字さんとか滝さんとか言う若い方たちが立っていて、庭の茂みの方を睨んでいました。私もそっちの方を見ましたら、お手伝いの佳津代さんの背中が見えて。佳津代さん、何だかふらふらしていて、茂みの方に行ったのですが、2-3歩目くらいにもうがっくりと膝が折れて、そのまま茂みの中に顏を突っ伏してしまいました。そしたら、何て言うことでしょう!佳津代さんの身体が爆発して、それはもう凄まじい光と煙で、粉々に吹っ飛んじゃったんです、本当ですよ。こんなこと、嘘を言ってもしょうがないじゃないですか。私、もうビックリしちゃって…。






…でも、あとのことは良く覚えていないんです。ただぼんやりと…、黒い覆面と全身黒づくめの男たちが現れて、その中に何やら緑色の毛むくじゃらの化け物が立っていました。見るだに怖ろしい…。それで私はそのまま気を失ってしまったんです。本当です、信じて下さい。

ああ、でもあのとき修ちゃんが家にいてくれたら…。いえね、あの子はああ見えて、とても強い子なんですよ。あんな連中なんか、きっと一発でやっつけてくれたと思います。

それにしても修ちゃん、どこに行ったのかしら?いつ帰って来るのかしら?

(終)