人喰い蛾、再び


作・須永かつ代様


第1章

水江美津子(みずのえ・みつこ)はアストラ・ケミカルの本社人事部に勤務している。
まだ派遣社員のステータスだが、ここで働き始めてから2年9ケ月たっており、次の契約更新時期の3ケ月後には勤続3年になるので、社員として正式採用されることがほぼ決まっていた。
今日は金曜日。アストラ・ケミカルは契約社員にもフレックス勤務を認めている。
7月上旬のこの時期は比較的時間に融通が利くので、美津子は「プレミアム・フライデー」にかこつけて16時退勤を決めていた。週末、研究本部主任の播次郎(ばん・じろう)と一緒に逗子でクルージングする約束をしていたからである。
次郎とは半年前から交際しているが、彼の所属するプロジェクト・チームが昨年、画期的な研究成果を発表したことから、先週支給された夏のボーナスは特に増額されていたらしい。奮発した次郎は宿泊できる小型クルーザーを借りて、二人で祝杯を上げようと美津子を誘ったのである。

二人だけでクルージング!それも泊り掛けで!
LINEで誘われたとき、次郎は何やらモジモジして落ち着きがなかったので、「ひょっとして、プロポーズ?」美津子のほうもソワソワと落ち着きをなくしていた。
会社を出たあとそのまま海に行くので、今日は涼しげな麻織りのシャツ・ワンピースを着てきた。橙色と茶色のチェック柄のノースリーヴで、大きくV字に開いたテーラー・カラーの襟元からは、もう少しで豊かな胸が覗けそうだったが、襟の合わせ目から膝上10p丈のスカートの裾まで、「秘所」を護るかのように7粒の白い大きなボタンが縦一列に並び、ワンピースの前身ごろをしっかり押さえていた。駅に着いたとき、美津子は「ちょっと肌が出すぎかな…」と思ったけれども後の祭り。せめて勤務時間中はカーディガンを羽織って二の腕を隠しておこう…。

第2章

美津子が出社したとき、人事部は大騒ぎだった。
次郎のチームの上長である服部俊平(はっとり・しゅんぺい)が亡くなったらしい。
慶弔事のお世話は人事部の大切な仕事の一つだが、服部は我が国のバイオテクノロジー分野ではかなり有名な研究者であり、次郎にとっては良き指導者であり理解者でもあった。
美津子はまだ知らなかったが、次郎は彼女と結婚するときは、服部に媒酌人になって貰おうと考えていた。

「水江くん」

美津子が席に着くと、今まで課長と話していた部長が手招きしている。
美津子は部長席に向かった。

「部長、課長、おはようございます」

「ちょっとこっちに来てくれるかな」

部長は課長と美津子を奥の来賓室に招き入れ、ソファーに座るよう勧めた。

「これはまだ内密にして欲しいんだが、一昨日、川崎に向かう国道に止まっていた車のそばで、バイオ・プロジェクト・チームの植田俊平くんが死んでいるのが見つかった。……警察は昨日の朝には現場検証を行っていたが、腑に落ちないことがあっため、我が社への連絡は昨日の夜10時になって、私のところに電話が入った」

「……」

美津子は部長の話を聞きながら、特別ボーナスを受け取ったときの植田の晴れやかな表情や、次郎の顏を思い浮かべた。

「次郎さん、植田さんが亡くなったことをもう知ってるのかしら?だとしたら、どんなに落ち込んでいることか」

「助手席にあったセカンド・バッグから、プロジェクト・チームの服部俊平くんのIDカードが発見された」

「…、はい」

「死体が着ていたスーツについてチーム・メンバーに確認したところ、一昨日服部くんが着ていたものと一致することが分かった」

「……、はい?」

「最終的にはDNA鑑定の結果を待たなければならないが、死体は服部くんのものと見て、まず間違いないと思う」

「……ちょっと待ってください、良く分からなくなりました。植田さんの死体が見つかったと仰いましたよね?それは間違いなく植田さんだったんでしょう?それでDNA鑑定ってどういうことでしょうか…? あっ!そんなにご遺体が損傷していたんですか?そんな…」

美津子はショックを隠し切れなかった。

「そうなんだ。このことはまだ外には伏せておいて欲しいが、死体は泡を吹いて溶けており、半ば白骨化していた」

「……!!」
 
あまりの話に、美津子の顏はほとんど固まっていた。

「泡を吹いて…溶けた?」

「遺体は科捜研に回されて、今も調査中だが、死因やその他もろもろ…、何が必要になるか分からんが、とにかく荼毘に付せる状況になるまで、この件は部外に漏らさないようにして欲しい」

「……、あの……、プロジェクト・チームの人たちは…」

「プロジェクトの進行に影響するので播くんには伝えたが、すぐに緘口令を敷いた。人事部のほうは植田くんが死んだことは皆知っているが、死体の状態について話したのは播くんと君だけだ」

「どうして私に?」

「君が播くんと交際していることは知っているよ。」

課長に言われて、美津子は顏が真っ赤になった。

「こういうことは、誰にも言うなと言っても守れないかも知れない。特に播くんは植田くんの直属の部下だったから、人一倍ショックが大きい。彼が不用意に身近な誰かに喋ってしまうかも知れないことを考えて、あらかじめ君に釘を刺しておくことにした。この件について播くんから聞いても、あることないこと尾ひれをつけて広めないよう……」

「あたし、喋りません!」美津子はムキになって、つい大きな声を出した。

「静かに。…すまなかった、疑うようなことを言って。我々も少なからず動揺してるんだよ。狼狽してると言ってもいい。とにかく今は、警察の捜査の進展を待つしかないんだ」

「……分かりました。誰にも言いません」

「播くん以外には、ね」

「……はい」


第3章

 課長に次郎との関係を見透かされて、ちょっと複雑な気分で美津子は来賓室を出た。あんなことを言われた以上、植田の死について、そして死体の異常な状態について、誰にも話すわけには行かない。次郎を除いては。でも、それよりも、こんなショッキングなことがあったばかりで、次郎さんは今晩、クルージングに行けるかしら?

給湯室でティーカップを洗いながら物思いに耽っていると、「美津子」と聞き慣れた声が背中に呼び掛けた。


「次郎さん…!」

 次郎の顏は明らかに憔悴していた。

「次郎さん、あの…」

「聞いたろう、君も」

「植田さんのこと?ええ…」

「…昨日、人事部長から君には情報共有しておくって。どうしても、その…、愚痴を言いたくなったら、君とだけは話して良いから、と」

「次郎さん、あの、こんなときになんだけど…」

「クルージングのこと?」

「ええ」

「行くよ…、いや行こう!こんなときになんだけど、こんなときだからこそ…、週末アパートで一人籠っているよりは話し相手がいたほうが…、君といっしょに過ごしたい」

美津子は嬉しいと思うと同時に、自分が苦悩する次郎の話し相手にならなければいけないと決心した。

「分かった。じゃぁ予定通り、16時にロビーでね」



第4章

 17時半すぎ、美津子と次郎は逗子のヨットハーバーに着いた。レンタル手続きが終わると、18時にはもうクルーザーに乗り込んだ。
小振りな船だが、デッキには折り畳み式キャンピング・チェア2個とテーブルが置いてあり、下のキャビンには簡単なキッチンと、奥の部屋にはセミダブルのベッドが装備されている。飲み物はあらかじめコンビニで買って冷凍冷蔵庫に入れてあるし、食事は船に乗る前にピザとオードブルをケータリングした。

18時15分出航。19時少し前に陽が落ちたが、その頃には船はもう沖合に停泊していた。風はほとんどなく、外はまだ暑かったので、会社から持って来た黒の半袖カーディガンを羽織ることはないだろう。

「もう少し召し上がる?」

 美津子は近い未来の新婚生活を想像しながら、ウイスキーを勧めた。今晩はこのまま泊まるのだから、次郎が飲酒運転を心配する必要はない。

「うん。……今夜は植田さんの供養だ。とことん飲もう」

「ええ…。私はそんなに飲めないけれど」

「あの人は呑んべぇだったなぁ…」

「そう言えばこのスコッチ、植田さんの好きだったブランドね」

「よせよ」

「……ごめんなさい。……あら、もう氷が無いわ」

「冷凍庫のなかにかち割り氷が入ってるよ」

「あたし、取って来るわね」

そう言いながら、美津子はキャビンに降りて行った。

カモメの声が聞こえた。船は穏やかな海の波間にゆらりゆらりと浮かんでいた…と、にわかに海面がざわついた。

「?」

 サーチライトで海を照らしてみたが、魚群が見えるわけでもない。…とそのとき、海面に複数の水しぶきが上がった。

「うわっ!」

「イーッ、イーッ!」

 黒い覆面をした男たちが4-5人、海の中から跳び上がり、船のデッキの上に飛び乗った。

「だ、誰だっ、お前たちは?!」

 黒づくめの男たちが答える間もなく、それまで明るく照っていた満月がにわかに掻き曇り、バサバサッという音とともに、何者かが空から降ってきた。

「ムササビ?…蝙蝠か?!」

ドンッと大きな音を立てて、両腕に羽根のある怪しい人影が次郎の前に仁王立ちした。

「な、何者だっ?!」

「ショッカーの改造人間、ドクガルダー様だ!播次郎、お前をこれからショッカーの秘密基地に連れて行く!」

「イーッ!イーッ!!」

黒づくめの男が二人、両脇から次郎を羽交い絞めにした。

「ショ、ショッカー?何だ、それは?俺はショッカーなんか知らん!用はない!」

「お前に用がなくても、こちらはある!お前は植田俊平から預かっているものがあるだろう」

そう言われて次郎はハッとした。確かに彼は植田からあるものを預かっていた。それは例の特別ボーナスに与った試薬を、さらに高分子化して生成した新薬の化学式だった。

「大人しく化学式を渡せば危害は与えない。ショッカーは優れた科学者を求めている。お前をショッカー科学陣の幹部にしてやろう」

「し、知らんっ!化学式なんか知らない!植田さんは一昨日死んだ。おおかた彼が墓場まで持ってったことだろうよ」

「そうだ!我々は奴から化学式の書かれた論文を奪おうとしたが、奴が持っていたアタッシュ・ケースはダミーだった。我々がケースを奪うと同時に、奴は仕掛けていた火薬を点火し、ケースごと論文は燃えてしまった…。ショッカーに立てつく奴は生かしてはおけない。だから、このドクガルダーの毒鱗粉でドロドロに溶かしてやったのだ!」

「何っ?すると貴様が植田さんを殺ったのか?!」

「どうしたのっ?何かあったの?」

間の悪いことに、このとき氷で一杯になったアイス・ペールを持った美津子がキャビンからデッキに上がって来た。

「はっ?!」

毒蛾の姿をした異形の怪人と、黒づくめの男たちに羽交い絞めになっている次郎を見て、美津子はその場で凍りついた。

「あっ、あなたっ…、次郎さん!」

「だっ、駄目だ、美津子さん、こっちに来ては!」

次郎は絶望的な叫び声を上げた。

「に、逃げるんだ、ここからすぐに!」

だが、逃げると言ってもここは海の上だ。
飛び込んで泳ぐしかないが、彼女は泳げなかった。

シュルシュルシュル……シュッ!

ドクガルダーの口元から蔓のような触手が放たれ、大きく開いたワンピースの襟元から長く伸びている美津子の細い首に、くるくる…っと巻き付いた。

「くっ…、く、苦しい…」声にならない悲鳴を上げる美津子。
だが、彼女の首を締め上げながら、ドクガルダーは非情な言葉を吐いた。

「ショッカーは女子どもに用はない。用のない者は殺す!」

「美津子さんっ、みっ、美津子〜っ!」次郎は絶叫した。

バサバサバサッ!

ドクガルダーが白い羽根を大きくはためかせると、真っ白い細かな粉が美津子の顏に降り注いだ。

「うっ…、おごっ…、じ、次郎さん、じろぅ…」

ドクガルダーの鱗粉をまともに顔に浴びて、美津子は膝から倒れ込み、呼吸できずにデッキの上で転がり悶えた。

神経系がやられたのか、仰向けになった状態で四肢が突っ張り痙攣したり、あるいは体操のブリッジのように天に向かって下腹部を突き上げたり、文字通り、七転八倒の苦しみである。
そして癲癇の発作のように口から泡を吹き、泡はVネックのワンピースの襟元に流れ込んでゆく。
いや、白い大粒のボタンでしっかり留めていた前身ごろの合わせ目からも、ふっくらとした白い泡が噴き出てきた。
それどころかノースリーヴの両脇から伸びていた白い両腕も、ミニ・スカートの裾からニョキッと突き出していた両脚も、衣服の外に露出していた皮膚という皮膚の表面が、鳥肌が立ったようにざわめき立ち、次いで沸々と泡立ち、じゅくじゅくと溶けて崩れて、白煙を立ち昇らせた。

「あっ、あぁ〜〜〜っ!」

呼吸困難と全身の皮膚の糜爛に悶えていた美津子は、突然、腰が砕けたように下半身の力を失い、仰向けで山なりに盛り上がっていた下腹部がデッキの上で一気に萎んだ。
それはちょうど、さきほどまで男女の間に吹き荒れていた嵐が過ぎ去り、押し寄せた波が一気に引いて、下半身の力が抜け、全身が弛緩して行く、そんな感覚だった。

しゅうぅぅぅぅ……。

デッキの上には白濁した液体が人間大に広がり、その水溜りの中にさっきまで美津子が着ていた茶色と橙色のチェック模様がまだらに浮かび、見え隠れした。

「美津子さん!みっ、美津子―っ!!」

黒づくめの戦闘員に羽交い絞めされた次郎は、そのまま拉致されてショッカー基地に連れて行かれた。
脳改造手術を受けたあと、彼はショッカー科学者チームの一員となり、生涯、ショッカー怪人の武器・兵器の開発に従事したと言われている。

(完)