張り込み


作・仮面らいだーぶいすりゃぁ様


今日で4日目。奴はまだ姿を見せない。

だいぶ日が傾いて、夕刻の公園にもはや子供たちの姿はなかった。そんなところで、いい年をした男が一人ブランコに揺られているというのも不自然ではあったが、公園の中で、唯一、ブランコの脇にある街灯だけが電球が切れていた。黒っぽい身なりでブランコに腰掛けている私の姿は夕闇に溶けて、誰からも見咎められる心配がなかったのである。

公園の前の通りをはさんで反対側にあるマンションの2階の一室を、私はずっと見守っていた。
張込みを開始してからすでに4日、正確に言えば3日と17時間が経過している。

マンションの部屋には若い女が住んでいる。
この女が以前、奴と付き合っていたことは先週第2班の調べで分かったのだが、果たして今も奴が女のところに現れるかどうかは定かでなかった。

だが一昨日、マンションの隣の部屋に住む主婦から耳よりな情報を得た。
1
週間に一度か二度、女のところに若い男がやって来て、少なくとも一晩は部屋に泊まってゆくと言うのだ。

主婦の名前は市村芳枝。
銀行員の夫と小学4年の息子との3人暮らし。10歳の子供がいるとはちょっと思えないほど若く見えるが、それもそのはずで彼女はまだ31歳。高校を卒業してすぐ銀行に就職し、2年後には同期入社の夫と社内結婚したと言う。

聞込みのために私は芳枝を公園に呼び出した。
その日、芳枝は明るい
レモン色のカーディガンを着ていた。陽ざしの強い日で、公園の砂場に太陽が照りつけて眩しかったが、照り返す春の日光を浴びて、彼女の体は歩きまわるたびに軽い毛糸の下で明滅する若い線を惜しむことなく私に見せていた。

芳枝によると、隣の部屋の女は歩いて15分くらいの距離のところにある女子大学に通っている。何かスポーツをやっているらしく、いつもスポーツ・バッグをぶら提げ、背筋を伸ばして颯爽と歩いている。生活態度はきわめて真面目で、毎朝8時にアパートを出、夕方5時半までには帰宅している。

「でも……」と、芳枝は一瞬、口ごもった。

「何か変わったことでも?」

「いえ、決して変なことではないんですが……」
1週間に一度か二度、若い男が彼女のところにやって来て、少なくとも一晩は部屋に泊まってゆくと言う。

「私から聞いたなんて言わないで下さいね。でも、決して変な関係じゃないと思うんです。その男の人とは一度目を合わせたことがあるんですけど、ちゃんと『こんにちは』と挨拶してくれて。明るくて、とっても爽やかな人でしたから、きっときちんとしたお付き合いをしていると思います」

週に一度、女のところに泊まっていって、きちんとした関係というのもどうかと思ったが、女を庇おうとする芳枝の表情には打たれるものがあった。

「そうですか、きっと真面目な交際なんでしょう。良いですねえ、若いってことは……」

そうお茶を濁すと、芳枝はそれまでの不安気な表情から一転して、ほとんど相好を崩したと言っても良いくらい、満面の笑みを浮かべた。

「良い女性(ひと)だな……」

正直、心底からそう思った。芳枝の若々しい体の線もさることながら、にっこりと微笑んだときの表情がこの上なく温かみを感じさせる。それは彼女が着ているカーディガンの毛糸の感触に近しかった……。

それから2日。そろそろ奴が現れてもいい頃だ。女はいつものように、533分に帰宅している。

暗くなってから、だいぶ風が強くなってきた。春とは言え、夜の風はかなり冷たく、私は思わずコートの襟を立てた。

そのとき、女の部屋に近づく男の姿が見えた。

「奴か?」

私は思わず目を凝らした。男は私と同じく黒い服を着ている。背格好は奴に似ているが、あいにくここからでは顔が見えない。

男が呼び鈴を鳴らすと、すぐにドアが開いて、嬉しそうな表情をした女の顔が覗いた。

「奴だ!」

私は直感した。男がドアの向こうに消えるや否や、私は脱兎のごとく走り出し、マンションの階段を駆け上がった。2階に上がり、渡り廊下の奥から2番目が二人のいる部屋である。

渡り廊下に足を踏み入れたとき、私は意外な光景を目にした。

「(……ん、んんっ……!)」

「(うぉおおお!!!)」

猿轡をされた女と男――奴だ!――が、別の黒づくめの男たち4人に拉致されようとしていた。
奴と女は声にならない叫びを上げようとしたが、男たちに鳩尾の辺りを殴打されて、渡り廊下に崩れ倒れる。


だが、私が狼狽したのは2人に対してではなかった。
ちょうど2人がドアの中から連れ出されようとしたとき、その手前の隣の部屋のドアが開き、芳枝がサンダル履きで出てきたのである。
彼女は一昨日と同じ、
レモン色のカーディガンを着ていたが、この間は首もとから裾までボタンをすべて留めて、前身ごろがぴったりと体に密着していた――そのため、薄い毛糸の下にまだ若々しい体の線を仄めかしていた――のだが、今日は白いブラウスの上に羽織るように、ボタンを留めずに着ていた。

恐らく芳枝は、夕食の支度をし始めて、調味料か何か足りないものがあるのに気づいたのだろう、近くのコンビニまでちょっと買い物に出かけるといったふうで、家にはまだ夫も、塾に通っている息子も帰っていないようであった。芳枝は階段の方に向かいかけて、渡り廊下の端に立ちつくしている私の姿を見てちょっと驚いた顔をした。次いで、私が彼女と、彼女の後方に視線を投げかけていることに気づき、何の気もなく後ろを振り向いた。

「……!なっ、何っ?これは?!」

大きな声を上げる間もなく、黒づくめの男の一人が芳枝の首を締め上げた。

「……、くっ!」

「よっ、止せっ!」

私は思わず男に駆け寄った。男が芳枝の首から手を離すと、彼女は意識を失って、渡り廊下にうつ伏せに倒れこんだ。

黒づくめの男たちのうち、一番奥にいた一人が口を開いた、

「……見られたか。見られたからには、このまま放っておくわけには行かない……。お前も一緒に来い!」

私は男たちに従った……。

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2時間後、私たちは山奥の秘密基地の中にいた。

私と芳枝、そして奴と例の女は10畳くらいの暗い一室に押し込められた。連れ込まれたとき、3人はまだ気を失ったままでいたが、まず奴が、次いで女が、最後に芳枝が意識を取り戻した。

「奥さん、大丈夫ですか?」

私は芳枝の体を気遣って尋ねた。芳枝はやや力なく答えた。

「……大丈夫、だと思います。……ここはどこでしょうか?」

「ここは奴らの秘密基地です。僕らは拉致されたんですよ」

「拉致?何であたしたちが?!いったい誰がそんな?」

今度は女が尋ねた。

「分からない。何で奴らが君まで攫ったのか」

「君まで?と言うと、彼女は予定外ってことか?じゃあ、連中は俺を攫うつもりだったのか?」

奴が問い返した。

「……。そうだ、狙われていたのは君だ」

私は奴の目を真正面に見据えてそう言った。

「なぜ?なんで俺が拉致されなければならないんだ?!」

私が口を開こうとしたその瞬間、暗い部屋の一隅が緑色に点滅し始めた。

ピーン、……、ピーン、……、ピイーン……。

高い壁の一隅に、体に蛇の絡まった鷲の紋章が見え、その中央の緑色のランプが点滅しているのが見て取れた。

「ようこそ、ショッカーへ……」

ショッカー!世界征服を企む、あの悪の組織!!かつて仮面ライダーによって壊滅的打撃を受け、もはやこの世には存在しないと信じられていた悪魔の軍団!!!

そのショッカーが生き残っていたのだ!私たちは今、ショッカーの基地にいるのだ……!

「君たちはショッカーに選ばれた人間だ。今から君たちに改造手術を施す。君たちは改造人間となって、ショッカーのために働くのだ!改造人間が世界を支配し、その改造人間を私が支配する……」

「ショッカー?改造人間?世界を支配するだと?へっ、馬鹿々々しい」

奴が吐き出すように言った。

「そう言っていられるのは今のうちだけだ。脳改造を受ければ、お前はショッカーのために働く、忠実なるしもべとなるのだ!」

「あたしはっ?!あたしもなのっ?!」

女が叫んだ。

ピーン、……、ピイーン、……。

「そうだ、蒲原真由美。お前も改造人間となるのだ。器械体操を通じて鍛えられたお前の柔軟で強靭な肉体は、ショッカーの女戦士に相応しい」

そうだったのか!

今さらながら、私は気づいた。黒づくめの男4人組が拉致しようとしたのは奴ではなく、女――真由美の方だったのだ。
確かに真由美は長身で、颯爽としていて、しなやかな肢体の持ち主と思われる。
運動神経・反射神経も優れているのだろう。何よりも、今の危機的状況にあって、女性とは思えぬ気丈さを維持している。

ふと、私は芳枝に視線を落とした。
残念ながら、芳枝はこの非常事態にすっかり錯乱して、目の焦点はうつろで唇はぶるぶる震えている。失禁していないのが不思議といった体である。可哀想に!私はこれから迫り来る運命を慮って、嘆息した。

「蒲原真由美、今からお前に予備注射を行う。普通の人間ならば、副作用でショック死するが、器械体操で鍛えられたお前の体には、かえって改造手術に対する抵抗力を植えつけるものだ……」

部屋に白衣を着た数人の男たちが入ってきた。白い帽子を被っており、医師らしいが、顔一面に青や赤の隈取りがある。

「いっ、いやあ〜〜っ!!」

真由美が悲鳴を上げるが、医師たちに取り押さえられて身動きすることも出来ない。

「あっ、ああっ、ううんっ!!」

張りのある二の腕に筋肉注射が為され、彼女は意識を失った。

「……それでよし。女を手術室に連れて行け!今からこの女の改造手術を行う!」

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私の足元には憔悴しきった芳枝がうな垂れていた。

真由美が連れて行かれてから数時間後、今度は奴が手術台に向かった。奴は真由美と同じくスポーツ万能、しかも城北大学生理学研究室の秀才だったから、ショッカーが奴を狙ったのは当然と言えば当然のことだった。でも、なぜ奴が……。俺は何のために……。

「……あたしたち、どうなるんでしょうか?」

私の足元で芳枝が力なく呟いた。

「……分かりません。……、あなたは彼らのように特別な体力を持っているというわけではありませんから、恐らく改造されるというようなことはないと思いますが……」

だが、ショッカーが改造しない人間をただで置くだろうか?あり得ないことだ……。

「……家に帰りたい……、真彦のところに帰して!」

哀れな!しかし、ショッカーのことを知った人間が生きて我が家に帰れる確率は限りなくゼロに近いのだ……。

ピーン、……、ピイーーン、……。

ショッカー首領だ!恐らく奴の改造手術が完了したのだろう。

次は芳枝の番か?彼女をどうするつもりだ、彼女はどうなるんだ?

「市村芳枝、お前はショッカーの改造人間にも戦闘員にもなれぬ屑だ!」

何ということを!こんな美しい、善良な人間を捕まえて、屑だとは!!

芳枝は自分がこれからどうなるのか、わけも分からず、ただガタガタ震えるばかりだった。

「先の2人は改造手術により、それぞれ蜂女、蝙蝠男として生まれ変わった!いずれも強靭な肉体と優れた知能の持ち主だったからだ。それに比べ、お前は体力・知力とも、2人とは遥かに劣る、劣等人種だ。ショッカーは優秀な人間しか必要としない!」

芳枝は放心状態で、何のことか分からないといったふうに、首を傾げている。

「ショッカーの科学陣はこの数時間、この部屋にいながらにして、超音波照射によりお前の筋肉組織を分析した。その結果、お前はショッカーの工作員、奴隷としても役に立たないことが判明した!」

私は電撃に打たれるようなショックを受けた。ショッカーの奴隷にもなれない者を待ちうけるものは……。

「……ショッカーは奴隷にもなれぬ女子供に用は無い。用の無いものは殺す!!」

今度は芳枝に、電撃が走ったような驚愕の表情が現れた。彼女は絶望の眼差しを私の方に向けた。ああ、ついに……。

「戦闘員たちよ、その女を死体処理室へ連れて行けっ!!」

首領の冷たい声が轟いた。と同時に、鷲と蛇をあしらったエンブレムの緑色のランプが静かに消えていった。

「た、助けてっ!お願いっ、殺さないでっ!!」

「奥さん……」

私は芳枝の顔を直視できなかった。哀れな……。だが、それがショッカーの掟なのだ。ショッカーの秘密を知り、なおかつショッカーの役に立たない者には死があるのみだ。

「刑事さんっ、助けて下さいっ!逃げ道を……!」

ピーン、……、ピイーン、……。

再び首領が口を開いた。

「女っ、お前が刑事と思っている男は、ショッカーの一員だっ!」

「……!」

その瞬間、芳枝の顔から人間のしての感情が消え失せたように思われた。2秒ほどして、周囲にアンモニア臭が漂った。芳枝が立ったまま失禁していた。

「戦闘員ナンバー7号、早くその女を殺してしまえっ!!」

それが首領の最後の言葉だった……。

そうだった。私はショッカーの戦闘員だ。私は改造人間要員として、奴の捕獲を命じられていたのだった。だが、たまたま奴が、同じく女改造人間要員であった蒲原真由美と交際していたために、彼女を捕獲する別働隊とバッティングしたのだった。市村芳枝はと言えば、彼女はまったく偶然に、ただまったく運悪く、拉致現場に遭遇したために、口封じのため連れて来られたに過ぎない。何という哀れな……。

私はもう一人の戦闘員とともに、芳枝の両脇を抱えて、基地の中の暗く細い廊下を歩いていった。廊下の果ての扉の向こうに死体処理室がある。

ギ、ギイイ〜〜ッ!

重い鋼鉄の扉を観音開きに開けると、比較的明るいが、やや鼻をさすような臭いの充満した広い部屋に入った。5歩ほど進んだ先に、10メートル四方の窪みがあった。近づいて覗いてみると、それは深いプールになっており、私たちが立っている床面から約2メートル下に黒ずんだ液体が溜められていた。

「刑事さん……」

芳枝はまだ未練っぽく私を呼んだ。

「助けて、下さい……。家族のところに帰して……」

彼女の大きな目には大粒の涙が溜まって、今にもこぼれ出しそうである。

「……濃クローム硫酸のプールです。濃硫酸と重クローム酸加里を混合すると、恐ろしい溶解力をもつ原液ができます。これに漬けると、いかなる有機物でも溶解してしまいます。人間一個の死体をこの原液に漬けると、一晩で肉塊は消失してしまうでしょう……」

そのとき私ともう一人の戦闘員は予期せぬ抵抗を認めた。目前に死が迫った芳枝が最後に必死の抵抗を試みたのだ。だが、哀しいかな、改造人間には劣るものの常人の数倍の筋力を持つわれわれに両脇から、万力のような力で押さえつけられているため、微動だにできない。

せめて真由美ほどの筋力があったら!

そう思ったのは私だけではなかったろう。
当の芳枝が一番それを感じたはずだ。体力が足りなかったばかりに、改造人間に失格し、今、死体同然にこの世から抹消させられようとしている。いや、死体の方がまだましだったかも知れない。
芳枝は今、生きながらにしてその肉体を溶解させられようとしているのだ。
目の前には
漆黒の闇に似た液体が満ちみちている……。

「はっ、離してっ!いやっ、お、お願いっ!!助けてちょうだいっ!!」

芳枝の抵抗はまだ続いている。
さっき両目に溜まっていた涙が、左右に振り回された頬を伝って、床の上に迸る。

……ふと、私は彼女の脇を押さえつけている腕の力を抜いた。
それに気づいてか、もう一人の戦闘員も彼女の腕を放し、死体処理室の外へ下がっていった。処理室には私と芳枝の2人だけになった。

「……、た、助けてくれるの……?」

それまで恐怖にゆがんでいた芳枝の顔が緩み、目じりと口元にほのかな笑みが戻ってきた。

「……、刑事さん、助けて下さるのね?」

はっきり芳枝の顔がほころんだ。

「……奥さん、そういうわけには行かんのです」

少し身を屈めると、私は芳枝の体を抱きかかえ、ブランコを揺するかのように弾みをつけて、そのまま彼女を放り上げた。

「……ひっ!」

空中で、芳枝の着ていたカーディガンの見ごろがふわっと膨らむのが見えた。続いて茶色と赤のチェック柄のプリーツ・スカートもふわっと膨れ上がり、黄ばんだ下ばきがちらりと見えたような気がした。

とっぷ〜〜ん!

思ったより軽い、甲高い水音がした。と同時に、黒々とした液体の表面に油が煮えたぎるような大きな泡が沸き起こり、水面から恐ろしい勢いで白煙が立ち昇った。

「ぎゃああ〜〜〜っっっ!!!」

奈落の底から、この世のものとは思えぬおぞましい悲鳴が上がった。恐ろしい刺激臭で呼吸することもできぬ状況ながら、私は処理室に据付けの防毒マスクを急いで装着し、奈落の底を覗きこんだ。

水槽の中に錐揉みするように回転する物体を認めた。沸々と湧き上がる水泡に隠れてよく見えないが、物体が一回転するごとに、かつて柔和な笑みを浮かべていた芳枝の顔が水面に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。

「ぐあ〜〜っ!……がぼ・ごぼ・ぐぶ・ごぶ・うぶ・……」

現れるたびに、彼女の顔色は赤黒く変色してゆき、そして灰色になっていった。

奈落の底の叫びが次第に静まってゆく……。

水面に転がる肉塊には頭髪はもはやなく、蝶が羽を広げたような印象を与えた黄色のニットも炭化して、未練がましく立ち昇る白煙と沸き立つ水泡の中に、白くごつごつとした無機質の骨格のみが深く沈んでいるのがようやく見えた。

この骨格さえ、明日になれば完全に消滅して、後には何も残らないであろう。

あとは芳枝の家族が、彼女の捜索願を警察に提出することだろうが、果たしてその願が正式の捜索ルートに届くかどうかも、また別の問題である。

(完)