終末の構図

作:須永かつ代様

その絵は、5月27日から6月2日までの一週間、神田にある西沢画廊で掛けられていた。
 
この週、西沢画廊では「世紀末絵画の前衛たち」というテーマで、20数点の現代絵画を展示していた。
府中女子美術大学の2年生、升田麻里は、この一週間ずっと西沢画廊に通いつめていた。彼女は初日にその絵に遭遇して、何か抗いがたい力を感じ、魅せられたのだった。それは畳2枚ほどもあろうかという大きなカンバスの上に描かれた前衛画で、「終末の構図」と題されていた。
特集したテーマがマイナーだったことから、この週、西沢画廊は客の入りが押し並べて悪かった。最終日の6月2日などは、金曜日で、しかも展示が正午までということもあって、画廊を訪れたのは、麻里を除けば、40代前半の教師風の女性と27−8歳の男性だけだった。女教師は銀縁の眼鏡を掛けており、髪型はおかっぱボブ。銀色の飾りボタンのついた、グレーのダブルのブレザーとスカートのツーピース・スーツに、黒いタートル・ネックのセーターを着て、その上から
金色のネックレスをかけていた。一方の男性は、いかにも自分は絵を描いていると言わんばかりのファッションで、黒いベレー帽に灰色のスモックを羽織っていた。右手にはパイプを燻らせており、その匂いが女教師の顰蹙を買っていた。
麻里はと言えば、これはいかにも美大の女子学生に相応しい爽やかなパステル・カラーの装いだった。すなわち、前身ごろの部分に
花柄の刺繍のある、襟がやや広めの、真っ白なテーラー・カラー・ブラウスに、膝上まで届くやや長めの藤色のYネックのカーディガンを着、下にはすそにフリルが付いたえんじ色のロング・スカートをはいていた。長い髪の毛は大正時代のハイカラさん風に、前髪を少し額の上に残し、あとは後ろに纏めて鼈甲の髪留めで留め、そのままストレートに背中に垂らしていた。
 
麻里は、ずっとその絵の前に立ちつくしていた。
「終末の構図」はこの週、西沢画廊に展示された絵の中では最も大きく、画廊の一隅の壁一面を占めていた。絵のタッチや絵の具の色使いはゴッホの自画像を思わせる、骨太でやや粗暴な筆致だが、問題は構図だった。それはまさに世界の終末を表現していた。原爆か水爆か何かが落ちた後の焦土に、苦痛に苦しむ無数の民衆が溢れている。仰向けにひっくり返って口から泡を噴いているもの、うつ伏せに倒れ伏しているもの、しゃがみ込んで立ち上がれないでいるもの、呆然と立ちつくすもの……。だが、そのいずれもが、もはや人間のかたちを備えてはいなかった。あるいは炭状に焼け焦げているもの、あるいは焼け爛れて、あたかも肉体が溶け流れたように、身体から引きずっているもの、あるいは皮膚を失って骨を一部むき出しにしているもの……。だが、それらの人々は皆、まだ死んではいない。死にきれないでいるのだ。死にきれないで、誰かに向かって助けを求めている。苦しみ、悶え、そして助けを求めているのだ……。
それはさながら地獄絵図だった。骨太で粗暴な筆と絵の具の使い方が、この地獄絵に強烈なインパクトを与えていた。さらにまた、大きく歪んだ絵全体の構図から醸し出される恐怖と不安の印象は、エゴン・シーレやエドアルド・ムンクなどの作風をも想起させた。
しかし、身体が溶け、焼け爛れた地獄の中で、人々の眼はまだ「生きていた」。「終末の構図」の中で、人々は「生きており」、「生」を諦めてはおらず、人間の再生を待ち望んでいる。そのことが、まさにこの絵に生命を与えている……。麻里にはそう思えた。この「生の感覚」こそが、麻里を毎日、画廊に通わせたことの理由だったろう。
 
その一方で、麻里は「終末の構図」に何か不十分な点があることを感じていた。地獄の苦しみを味わう人々が視線を差し向けている、その対象がカンバスの中に見当たらないのだ。西洋近代絵画、例えばイタリア・ルネサンスの絵画ならば、カンバスの中のしかるべき位置に救世主(イエス)がいて、人々がイエスに救いを求めて手を差し伸ばすといった構図がポピュラーだろう。ところが、この「終末の構図」では、確かに人々は誰かに向かって救いを求める視線を送っているのだが、その視線が集まる先がカンバスの外に飛び出してしまっているのである。それがこの絵の唯一の弱点と思われた。
「イエスがいないのよね〜。」
麻里の後ろから肩越しに、女の声が・オた。例の女教師だ(いや、教師だかどうかは分からないが、まあ、教師としておこう)。喋り口がやや軽い。意外に年齢は若く、30代前半かも知れなかった。とかく女性の年齢というのは、判断を誤り易いものだ。
「そうですね。イエスか、聖母マリアがいたら良かったですね。」
麻里は相づちを打った。作者の思い入れはともかく、通常の美的意識からすれば、ここは確かに、構図の中心に救世主を加えるべきだった。
「まぁ、そこが前衛絵画の、意外性っていうやつかもね。」
女教師はそう言うと、次の部屋へ入っていった。次の部屋には「ノアの箱船の沈没」と言う、パロディともギャグともつかぬ愚作が展示してあるはずだった。画家を気取った男は(いや、本当に画家なのかも知れないが)女教師の後を追って次の部屋へ入った。麻里はハナから興味が無く、そのまま「終末の構図」の前に立ち止まっていた。
 
「た・す・け・て……」
かすかに声が聞こえた。麻里は、はっとした。
「助けて……、ここに来て……」
確かに、誰かが助けを求めているようだった。でも誰が? 画廊の中には、麻里と女教師、そして画家風の男しかいなかった。女教師はまだ隣の部屋にいたが、男の方は女教師にもう飽きたのか、さらに先の部屋に進んでいた。助けを求める声は、先の女教師のものとは明らかに違っていた。
「あ・つ・い……。身体が……焼ける……、溶けるゎ……」
もう一度、麻里は「終末の構図」に眼をやった。
絵の、向かって右側の片隅に、へたり込んで立ち上がれない女の形象があった。女は衣服を失い、両胸を曝け出していたが、その左半身は溶け崩れて、骨をむき出しにしていた。しかし、女は肉体の半分を失いながらも、あたかも渇きを癒す水を求めるかのように、両腕を斜め前方に差し伸べていた。顔の左半分も溶けて、眼球も無くなっていたが、残る右の眼の視線が麻里の方に向かって投げかけられていた。麻里はその場から立ち去ることが出来ず、女の唯一残った右眼をじっと見つめた。
 
ぴかっ!!!
 
突然、頭上が明るくなった。それは普通の光ではなかった。想像を絶するような明るさ、敢えてたとえれば、マグネシウムをガス・バーナーか何かで燃焼させた時に発するような、激しい白光色の輝きだった。これだけの激しい光の変化に麻里が気づかないはずはなかった。だが、苦悶し助けを求める女の姿に引き付けられていた麻里には、光の源に眼をやる余裕がなかった。麻里の眼の中で、原爆の閃光の中で苦しみ喘ぐ女のイメージが重ね合わさった。
だが、隣室に進んでいた女教師は、当然のことながら、思わず振り返り、激しい閃光の源を眼で追った。そして目も眩むような激しい光をまともに見てしまった。
 
「きゃーーっ!!」
 
けたたましい叫び声が画廊の中に鳴り響いた。麻里は、はっとして女教師の方へ向き直った。激しい閃光で、部屋中が真っ白になって見えた。女教師のグレーのスーツ、黒いタートル・ネックのセーターも輪郭の線だけ残して色を失い、彼女の銀縁の眼鏡やボブ・ヘアも真っ白になっていた。
 
「あ、あ、あああ……!!!」
 
女教師の声が次第に小さくなっていった。
やがて閃光が消えると、部屋は元の明るさに戻った。暫し目が眩んでいた麻里は、両目を瞬いて、もう一度、女教師を見やったが、彼女の身体は真っ白なままであった。身体だけではない、彼女が着ていたグレーのスーツ、黒いセーターも、
あたかも粉をふいたかのように真っ白になっていた。
「(え?)」
麻理は我が目を疑い、右手で両目を擦ったが、教師は真っ白な粉に覆われたままだった。画廊の部屋は元の配色を取り戻していたが、
女の身体だけが白い粉をふいていた。そのうち、真っ白なおかっぱの髪の毛から白い粉がサラサラサラ……とこぼれ出し、次いで頭、顔から粉が降り出した。いや、粉が降り出したのではない!! 女教師の身体が変化して粉末状になり、あたかも砂時計の砂がこぼれ落ちるように、そのまま崩れ出したのだ!!!
 
サラサラサラサラ…………。
 
女のスーツ、セーター、スカートを含む身体全体が静かに崩れ、砂状になって上から下へと落ちていった。そして、身体全体が崩れたあと、こんもりとした粉の山の真ん中から白い砂がすーっと伸びて、積もってゆき、白い柱を築いた。辺りには硫黄臭い匂いが立ち込めていた。麻理はまだ何が起こったのか分からず、ただ女教師が立っていた、そして今は白い粉の柱が立っている場所に近寄っていった。そっと右手を伸ばし、白い粉の柱に触れると、柱はパサッとあっけなく崩れた。手のひらに残った白い粉を、麻里は口元に寄せ、匂いを嗅ぎ、思うところあって、少し舐めてみた。粉は塩辛かった。女教師は塩の柱になっていた……。
 
「た・す・け・て……。ここに来て……」
再び、絵の中の女が助けを求めた。麻里は「終末の構図」の方へ向いた。
その時にな・チて、悲鳴を聞きつけた画家風の男が向こうの部屋から駆けつけた。そして、何が起こったのか理解できなかったのか、ただ「終末の構図」を真正面に見つめている麻理の姿を、後ろから見つめた。
「助けて……」「く・る・し・い……」「ここから……出して……」
絵の中の声は一つではなくなっていた。複数の、いや、無数の声が麻里に向かって発せられていた。のみならず、絵の中で苦悶する人々の視線が、麻理に向かって一斉に差し向けられたかのようであった。彼女はもはや絵の前から動くことが出来ず、言わば金縛りになっていた。
「あ、あ、……、と・け・る……」
絵の右端にへたり込んでいた女の身体に変化が現れた。すでに溶けて骨を曝け出していた左半身以外に、右半身も溶け出したのだ!
 
ずるずるずる……。
 
「溶ける、溶ける……。誰か、助けてぇ……!」
絵の中の女は断末魔の悲鳴を上げた。
「そ、そんなっ?!」
麻理は戦慄した。
絵の中で女が溶け出した。いや、絵が動くはずはない、絵そのものが溶け出したのだ。
 
どろどろどろどろ…………。
 
カンバス全体から絵の具が流れ崩れるように、「終末の構図」は溶けていった……。と同時に、麻里は目に見えぬ力に身体を引き寄せられた。
「(えっ?)」
引力は麻里の身体の自由を奪い、そのまま「終末の構図」の最前面へと引き寄せた。
 
「いやっ!離してっ!! 誰かっ、助けてぇっ!!!」
 
あたかも江戸時代のお女中が悪代官に帯を解かれて畳の上に転がるように、麻里の身体は錐揉みしながら、カンバスの真ん前に引き寄せられ、そのままカンバスの上にピッタリ立たされた。そして彼女は、あたかも十字架に磔されたイエスのように、両腕を水平に広げて動けなくなった。
 
「えっ?! いやっ!!うっ、ううっ……」
 
カンバスの上で大の字になりながら、麻里は自由を取り戻そうともがいていたが、その間も「終末の構図」は溶け続けた。溶けて流れ出た絵の具の滴が麻里の顔と両肩にかかった。
 
「ぶふっ!!」
 
まず黄土色の絵の具がひとすじ、麻里の前髪を垂らした額の上から右瞼の上、頬を伝って、顎へと流れ落ちた。
 
「う、ううっ……」
 
さらに赤茶色の絵の具が、藤色のカーディガンを着た彼女の右肩の上から、とろとろとろ……と流れて行き、前身ごろからスカートを伝って、床上に落ちた。次にはかなりの量の鶯色の絵の具が彼女の顔の左側をどろりと覆い尽くし、その上で顎から首筋、そこからテーラー・カラーの大きく開いた襟元へと流れ込んだ。
 
「うぐうっ……」
 
すでに顔のほぼ全面を絵の具に覆われた麻里は悲鳴を上げることも出来なくなっていた。その時、麻里の身に降りかかっている悲劇を冷徹に見ていた画家風の男がベレー帽を取り、スモックを脱いだ。その下から、頭がたっぷり絵の具を絞り出したパレットになっている怪人、が姿を現した。
「女っ、お前こそ、私が待ち望んでいた画材だ!!」
そう言うと、エノグバンバラは顔のパレットから、絵の具のチューブを一つずつ絞り出し、麻里の身体めがけて浴びせた。
 
ぶにゅうううっ!
 
赤い絵の具が浴びせかけられ、麻里のカーディガンの左胸の辺りを汚した。
 
「うっ!」
 
麻里は苦痛の声を漏らした。次いで黄色い絵の具が麻里の顔面を襲った
 
ぶにゅるぶにゅるぶにゅる……。
 
麻里の顔は鶯色の絵の具黄色い絵の具が折り重なって、まだら模様になった。
さらにエノグバンバラは、麻里の胸の辺り目掛けて
真っ青な絵の具を噴射した。
 
ぶちゅーーーっ!!
 
真っ白だった麻里のブラウスは、先に「終末の構図」から垂れ流れた黄土色赤茶色鶯色、そしてエノグバンバラが浴びせた黄色と赤と青の絵の具が混ざり合って、どす黒く、もはや形容し難い色彩に変貌していた。
 
「………!」
 
どろどろどろどろ…………。
 
エノグバンバラは執拗に、さまざまな色の絵の具で麻里の身体を覆い尽くしていった。
そのうち、麻里の身体はカンバスの中に、ずぶずぶ……と潜り始めた。彼女の肉体はすでに感覚を失っていた。彼女が着ていた藤色のカーディガンは形が崩れ、ブラウスもまた肩からずり落ちていた。麻里の肉体は絵の具の海の中に沈んでゆき、絵の具の中でどろどろに溶けて、あるいはどす黒い、あるいは黄土色の、あるいは赤茶色の絵の具に同化していた。
えんじ色のロング・スカートもボロボロに溶けていたが、崩れた衣服は麻里の肉体が同化した絵の具の粘性により、かろうじて骨格から滑り落ちないでいた。
 
じゅくじゅくじゅく、じゅうじゅうじゅう………。
 
麻里の肉体はさらに溶けて、骨格も何も残らなかった。ただ、絵の具のようにねばねば、ぬめぬめとして、どろどろとした粘性あるスライム状の物体に変化していた。それはカンバスの上でぐるぐるとかき混ぜられ、新たな構図へと配置されていった。もはや麻里には意識はなかった……。
 
画廊全体が明るさを取り戻し、カンバスの前に溢れかえっていた絵の具はすべてカンバスの上に戻った。カンバスの向かって右には、左半身が溶けて苦悶している、あの女がいた。女の視線はカンバスの中央にいる、ぼろぼろのマントを羽織った女性に向けられていた。いや、この女だけではなかった。「終末の構図」の中で苦しみ悶える人々の視線がすべて、中央にいるマントの女に向かっていた。
だがマントの女は、他のどの人々よりもさらに悲惨な姿であった。
彼女の肉体はほとんど溶けて、骨から崩れ落ちかけていた。羽織っているマントも、もとはまともな衣服だったのだろうが、終末兵器によりボロボロに焼け崩れ、かろうじて彼女のもとに残ったという体だった。彼女はそのボロボロのマントで、身近にいる悲惨な人々を包み覆い、彼らに暖を与えようとしていた。彼女の両眼はほとんど溶け落ちそうになっていたが、それでもなお、慈愛の視線をカンバスの外の世界に向かって投げかけていた。
それはまさに、終末の世界におけるマリアの姿であった。
 
(終わり)