『一人称単数』――英子の場合


作・須永かつ代様

ぶるるるるる……。バッグの中で携帯が鳴っている。

英子 「山崎ですが……、まぁ立花さん!」
立花 「奥さん、長いあいだ音沙汰無しですみません。実はご主人の消息が分かりまして」
英子 「まぁ!本当ですか?主人が、山崎が見つかったんですか?!」
立花 「まだはっきりとは言えないのですが……。電話で話すのも何ですので、これからお宅にお伺いしても宜しいでしょうか?」
英子 「もちろんですとも!でも、いま出先ですので……、3時ころで如何ですか」
立花 「結構です。あっ、いちおう外出する積りでいて下さい。3時に車で迎えに上がります」
英子 「分かりました。では3時にお願い致します」


あの人が行方不明になってから1年になる。立花さんは初めのうち毎日のように家にやって来て、途方に暮れた私に何やかや世話を焼いてくれたけれど、夫が何の研究をしていたのか、大学の研究室以外にどんな交友関係があったか、等々、根掘り葉掘り訊いて回った。それも半年過ぎたあたりでパッタリ途絶えて、ここ数ケ月はまったく音信不通だった。
それがどうやら何か動きがあったらしい。この1年、どんなに不安だったことか!いいえ、まだあの人が見つかった訳ではない。でも、何かの手掛かりでも分かれば…!


立花さんは約束通り、3時ちょうどにやって来た。私は取るものも取り敢えず、外に出た。風は強いが空気はそれほど冷たくない。春の嵐といったところか。コートは持たないのが正解だ。白の開襟ブラウスに水色のカーディガンを羽織っただけだが十分暖かい。春はもうそこまで来ているらしい。

英子 「県警に行くのですか?」
立花 「いや、港です。XX埠頭50号倉庫に山崎博士が身を隠しています」
英子 「えっ?では山崎は見つかったのですか?」
立花 「実はそうなんです。ただ、人目を避ける必要があり、すぐに御宅にお帰りに頂くことができないので、こうやって内々で奥さんをお連れすることにしたのです。さきほど電話でお話しなかったのは、電話や携帯では盗聴されたりハッキングされたりして、博士の居場所が漏れて、博士の身に危険が及ばないとも限らないので、それでこうして車の中の“密室”でお話している訳です」
英子 「あの人の身に危険が?いったい何があったんですか?山崎は誰に狙われているのですか?」
立花 「まぁまぁ、その話は倉庫に着いてから、博士に直接伺ったほうが良いでしょう。大丈夫です、博士には信頼のおける助手が24時間ついていますから」

車は4時半にXX埠頭に着いた。立花はゲートで車を停めると、英子に右手の倉庫群を指さした。

立花 50号倉庫はあの角を右に曲がって、5番目の建物です。私は車を駐車場に入れてきますので、先に行って博士にお会い下さい。積る話がたくさんあるでしょう、善は急げと言いますから」
英子 「あそこの角を右に曲がって、5番目ですね?」
立花 「そうです。倉庫の扉に大きく番号が書いてありますから、すぐに分かります」
英子 「分かりました、先に行って待っています」

立花をあとに残して、倉庫が並ぶ道を進む。だんだん早足になるのが分かる。早足と言うよりも小走りだ。

あの人に会える。1年振りで対面したら何を話したら良いのかしら?どこに行ってたの?いったい何をしていたの?私を置いて!駄目だ、そんなことを考えたら、涙が出てきた。何よりもまず元気だったかどうか。具合を悪くしていないかどうか、労わって上げなくちゃ…。

倉庫街の風は市中よりもさらに強く、夕刻が近づいてさらに冷たかった。何となく気分が沈んできた。右に曲がる、あそこだ、あの倉庫だ…。

倉庫の大きな扉の前面に、人間が通り抜けするためのドアが付いている。ドアのノブに手を掛けると、中で何か言い争っている声が聞こえた。

山崎 「……す、すまん本郷君…君を、君を私が協力者にえらんだために…」
本郷 「は、先生が僕をショッカーに推薦した…?」
山崎 「すまん、許してくれ本郷君」
本郷 「僕は、僕は…先生!」

「誰と言い争っているのかしら…」

ドアを開けるタイミングが計りづらい。相手はどんな男なのか?そのとき!

山崎 「ほっ、本郷君……!」
本郷 「先生!」

何?何があったの?いけないっ!中に入らなきゃ!
力を絞ってノブを回し、重い鉄のドアを押し開けた。

「あなた!」
あの人の首に白い縄のようなものが巻き付いて、そばで男が縄をきりきり絞っているように見えた。

「な、何をするのっ!」
思わず駆け出して、男の両腕にしがみついた。
「放して…、この手を放して…!」

白い縄のようなものが解けた。あの人は苦痛と窒息から解放されて、力が抜けて膝から崩れ倒れた。

山崎 「え、英子…」
英子 「あなた、あなたなのね!会いたかった!……大丈夫?苦しくない?」

大丈夫、呼吸は出来ている…。でも、この男は…!

英子 「あなたは誰っ!なぜ私の夫を殺そうとするのっ?!」
本郷 「ち、違う!僕は先生を殺そうとしたんじゃない!」
英子 「あなたが夫と言い争うのを聞き、そして私は見ました!私はこの目で、あなたがこの人の首を絞めているところを!それでもあなたは殺そうとしたのではないと言うのですか!」
本郷 「信じて下さい!僕と先生は味方同士です!僕は先生を助けようとして…」
山崎 「…え、英子…、ち、違…う…」
英子 「あなたっ、大丈夫っ?…まだ喋っては駄目!息を整えて!」 

うずくまっている夫の背中をさすった。痛かったでしょう、辛かったでしょう。
「あっ?」

いきなり男が私の身体に覆い被さり、あの人から私を引き剥がそうとした!

本郷 「危ないっ!」
英子 「何をするのっ?!」

シャーッ、カッ!シャッシャーッ!カッカッ!

何かが床に刺さった。

本郷 「危険だ!ここを出ましょう!」

腹が立った、もう許せない。

「この人の首を絞め、今度はまるで私を助けるようなことを言うのは、何の積りなの?!」

私は男から離れて、後ろずさりした。

「触らないで!」

 そのとき、あの人がうずくまっていた後ろの壁の窓がガシャンと割れて、黒い毛むくじゃらの腕が何本も突き出した。それはあの人の後ろから両脇の下に滑り込み、夫の身体を軽々と持ち上げて、窓の外に引き摺り出した。

英子 「あ、あなたっ!」
本郷 「しまった!」

何?今のは何だったの?あの人は?夫はどこに連れて行かれたの?

ガラスが砕け散って窓枠だけになった穴から、腕が左右二本ずつ、全部で四本ある、蜘蛛のような怪物が顔を出した。

「ばっ、化け物!」

私は尻もちをつき、そのまま後ずさりして逃げようとしたが、化け物の口(らしき部分)から何かが飛んできた。

「痛っ!」

 細い針のようなものが何本か、両脚の足首に刺さった。痛みはそれほどひどくないけれども、両脚全体が爪先から足の付け根まで鳥肌が立ったようにザワつくのを感じた。

ストッキングを履いているのに鳥肌が立つなんて…?
訝しく思って両脚を見ると、ストッキングの下で毛穴がザワザワ立ち上がって、皮膚が泡立っているのが見えた。

英子 「何、これっ?脚が…、脚から泡が出てる!脚が…泡になって溶けてるっ?!」
本郷 「しまった!」

 両脚は溶けてもう感覚がない。何が何だか分からない。何とか倉庫の外に出なきゃ…。さっき入って来たドアのほうに這って行こうとしたが、両脚を失った身体は仰向けになったまま言うことを聞かない。

シャッ、シャーッ!

ブスッ、ブスッ!

カーディガンとブラウスの上から、針が何本か胸に突き刺さった。

「うっ!」

今度は痛みだけでなく、心臓がバクバク動き始めた。針は腹の上にも降り注いだ。

「(いやっ!たっ、助けてっ!)」

声が出ない…。鼓動が激しくなり、息ができない。

カーディガンとブラウスの中で、胸からお腹の辺りに「ぞぞぞっ」と鳥肌が立っている。上体は痺れ始め、身体の毛穴と言う毛穴から白い泡が噴き出てきた。

「がぼ(顏)がっ…、ごほっ!…がぼ(顏)が…どげ(溶け)る…、がらだ(身体)が……ごぼごぼっ」

 顔が、胸が、腕が、脚が…、身体全体が溶けて、真っ白な泡に覆われて、何も見えない…。視界は真っ白になり……、暗くなって……。(ここで英子の意識は途絶えた)

***

失踪した山崎英子(年齢39歳)に関して、立花刑事は本郷猛に事情聴取を行った。以下はその抜粋である:

「あの日、倉庫の中でちょっと山崎博士と口論になったのですが、その直後、突然、通風孔から蜘蛛男の糸が飛んできて先生の首に巻きつきました。放っておけば窒息して死んでしまいます。私は必死で先生の首にへばりついた糸を取り除きました。

そこに先生の奥様が入って来て、私に飛び掛かりました。奥様は私に罵声を浴びせて、殺人鬼呼ばわりするではありませんか?私は先生を殺そうとしたのではない、先生と私は見方同士ですと説明しましたが、奥様は一向に聞く耳を持ちません。

そのとき、蜘蛛男が奥様に向かって恐ろしい毒針を発射しました。私は奥様を毒針から守るため、止むを得ず押し倒したのですが、それさえも奥様は信じてくれません。

蜘蛛男の奴はガラス窓を破って、倉庫の中に侵入し、先生を拉致して行きました。もちろん私は先生を助けようとしましたが、彼奴は毒針を乱射しながら逃走しました。

このとき運悪く、奥様の身体に毒針が命中してしまい……、あれはサソリの毒と同じで有機化合物を分子レベルで高速振動させて高分子結合を解き、人間の肉体を溶かしてしまう恐ろしい毒です。私は蜘蛛男を追い駆けるのに精一杯で…。奥様はお気の毒でしたが、あの毒にやられて、身体が溶けて泡になってしまいました。本当に私の力不足で、申し訳ないことをしました。」