カリーナ 分岐点

.prevert様


 甘利佐和(あまり・さわ)はガレージの扉を開けた。
照明のスウィッチを入れると、暗がりの中に鮮やかなガーズ・レッドのクーペが浮かび上がった。
 
 フェリー727C…。佐和の愛車だ。
ドアを開け、レザーの芳香に満ちた車内に乗り込む。
シートの上を佐和の紺色のミニ・スカートが滑ってゆく。
ステアリング左にあるスターターにキィをさし込み、右に捻る。

「パコッ、、、クゥーーン……」

 一呼吸おいて更にキィを捻る。

「ヒュンヒュンヒュン…」
「ブハッ!」
 エンジンが目覚めて、ガレージに乾いたサウンドが満ち溢れた。
ドアを閉めると「カンッ」と硬質な音が響く。
シートの後方からバルクヘッド越しに「ドッドッドッドッ」とエンジンのビートが伝わってくる。

 佐和の一番好きな時間が始まろうとしていた。


 少しストロークの長いシフト・ノッブをローに入れて、アイドリングのまま、そっとクラッチを繋ぐと727は路上に滑り出した。3000回転でゆっくりシフトアップしながら、走行暖機してゆく。
727を扱うときのエチケット…。油温計の針が三分の一まで上がるのを待って、スロットルを煽る。

「ガヒュルルルル…」

 インパネ中央に鎮座した大径の回転計の針が一気にトップエンドに上り詰めて、シフト・アップを催促する。
佐和は日曜早朝の空いた環状八号線を北上し、用賀インターから東名高速道路に入った。本線合流地点手前で、ダブル・クラッチを踏んで3速から2速にシフト・ダウンする。エンジンが鋭く反応すると、727は早くも追い越し車線のトラフィックスをリードしていた。
 広い三車線の高速道路をゆっくり流してゆくと、トラックや家族連れのワン・ボックスが時折現れては行く手を遮ぎる。佐和は動くシケインを右に左にかわして、その間隙を駆け抜ける。

 「ヒュン、ガヒュルルルルルー……」

 追い越し様に、ワン・ボックスのドライヴァーが好奇と嫉妬の入り混じった目線を送って来た。スロットルを床まで踏み込むと、佐和の真っ赤な727は緑に彩られたハイウェーを更に加速する。バック・ミラーの中でワン・ボックスが小さくなってゆく。

 何時もそうなのだ…。
 佐和は、男友達が車の話題を持ち出すと憂鬱になる。

 「佐和って車が好きなんだって?で、何にのってんの?」
 「えっ、え、ええ…。     …フェリー727なんです。」
 「えっ!?マジかよ!凄いじゃん!」

 そう言いながらも、彼らの顔には「女のくせに727に乗ってんだ…」という台詞が書いてあるのだ。佐和は純粋にスポーツカーの運転が好きなだけだ。だから、走って楽しい727に無理をしてでも乗っている。しかし、他人はそう思ってはくれない。

 「生意気!金持ち!どうせ女には乗りこなせないだろう!」
 彼らは一方的にレッテルを貼って来るのを常とした。
 確かに、独身で31歳の佐和は、ベンチャー業界にその名を知られる武田電子技研に勤める優秀なシステム・エンジニア。同年の大卒サラリーマンより高給取りではあるし、独身貴族の気ままさもあって、可処分所得も多い。今の愛車は、何台も727を所有する七つ年上の兄に泣きついて、その中の一台を格安で譲ってもらったものだ。他人から、嫉まれても面妖しくはない。

 しかし、これでいいのだ…。
 上を見ればきりはないし、下を見てもきりはない。
 スポーツカーは好きだが、フィオラーノ360ベルリネッタにまで乗りたいと思ったことはない。これが自分に与えられた「分」というものなのだと、佐和は思うことにしていた。他人がどう思おうと、無骨な727と至福のひとときを過ごすことが出きればそれでよいではないか。

 佐和は車好きであっても世間好きではない。自分の車を見せびらかしたいのなら、ゴットリープLS600にでも乗って、パシッシング・ライトを連射しながら高速道路の右車線を我が物顔で猪突猛進すれば良い。スロットルさえ踏めばスピードは出るのだから…。
 
 御殿場インターで高速道路と別れ、246を東京方向に少し戻って、小山から明神峠を経て、山中湖へ至るのが今日のメニュウ。山道に入ると、佐和の右足が727のスロットル・ペダルを踏み込んだ。

 「シャン!ガヒュルルルル…」

 727はリアを沈み込ませる独特の姿勢で加速する。コーナー手前でブレーキを蹴る。荷重を前輪に残してターン・イン。リアの荷重が抜けて後輪が滑り出す瞬間、ここを先途とステアリングを少し戻し気味にして、スロットルを開ける。後輪に荷重が移動した727は、内側前輪を浮かせ気味にして猛然と加速しながら次のコーナーに向かって行く。

 佐和が最も「シビレル」瞬間だ。
 
 きつい登り勾配の大小の複合コーナーをクリアすると、峠のパーキングが見えてきた。車を停めて、しばらくクール・ダウンした後で、エンジンを切った。佐和の耳が、まだジンジンと鳴っている。
 少し暑さを感じて、車から降りると、佐和はぴったりと身体に合った、スカイブルーのアクリル生地の薄いY‐ネック・カーディガンのボタンをはずした。
 「プルッ、プルッ、プルッ、プルッツ」
 前身ごろがはだけると、白いポリエステルのシャツ・ブラウスに風が吹き込んで「スーッ」と体温を奪ってゆく。
 「ああー、気持ちイイ。」
 緊張から解放され、心地よい疲労感が佐和をやさしく包んだ。西に目をやると雪の帽子を被った富士の山腹から綿雲が湧きあがっては消えてゆく。佐和は身体にパワーが充填されてゆくのを感じた。
 背伸びをしながら、ふと、走ってきた方向を見ると、道路が二股に分岐している。
来る時は、雑木林に隠れていたのか気が付かなかったが、西の尾根に向かって、二車線のワインディング・ロードが伸びている。アスファルトやセンター・ラインの感じからみて、割と新しい道だ。いかにもμの高そうな、きめの細かい真新しいアスファルトだと佐和は思った。

 「変ね…。こんな所に…。」

 佐和は、ツーリング・マップを出して、パラパラとページをめくったが、こんな道は出ていない。
 「まっ、イっか!」

 佐和は、アスファルトの誘惑に負けて、軽い気持ちで727に乗り込むと、エンジンを始動して、ウインカーを右に出して走り出した。

 「カチッ、カチッ、カチッ」
 「ビョーッ、ブハッ、ガヒュルルル…」

 道の両端から張り出した広葉樹の枝が作る新緑のアーケイドの中を、佐和の727が疾駆する。対向する車も、無神経に道を塞ぐ中高年登山者の車もいない。ジャングルに解き放たれた野獣のように727のエンジンが咆哮する。

 「ガヒュン、ガヒュルルルルルルッ」
 「イイ!この道、サイコー!」

 一気呵成に登り詰めたところで、トンネルが現れた。道路は、尾根の直下をくり貫いて、須走方面に向かうようにもみえる。佐和はヘッド・ライトを点灯して、トンネルに突入した。青みを帯びた白いキセノン光が闇を切り裂き、トンネルの壁に727のエグゾースト・ノートが反響する。
 「シャオオオーン、ガヒュルルルガォーーン」
 
 トンネルの中ほどを過ぎて、少し下り勾配となってくる頃、急にトンネル内に灰色の霧が立ち込め始めた。それまで、はっきりと見えていた出口の光が朧に霞んでゆく。

 「いッ、痛ッ!」
 突然の頭痛が佐和を襲った。稲妻に撃たれたような衝撃を感じて、気が遠くなった。
耳が「キィーン」と鳴る。
目の前でキラキラと無数の星々が煌いて、視野が周辺から狭くなった。佐和は、ステアリングを握ったまま意識を失った。

 しばらくして、佐和はトンネルの中に立ち尽くしている自分に気が付いた。気を失ってからの時間感覚が全くなくなっている。数分のようでもあるし、数時間に思えたりもする。今まで、車に乗っていたはずなのに、車はどこにも見当たらない。どこで、どうやって車から降りたかもわからない。頭がひどく痛む。
 「とにかく、ここから出よう。」

 佐和は、出口と思われる方向に向かって歩き出した。

 「カツ、カツ、カツ」

 トンネルの中に佐和の靴音が響く。
 しかし、どれだけ歩いても、霧の向こうの出口は、逃げ水のように距離を保ったまま、一向に近づいてこない。

 その時…、
 「グオーッ、ゴゴゴゴゴッ、グオーッ、ゴゴゴゴゴッ」

 地鳴りのような音が、佐和の背後に起こった。振り向くと、たった今、通って来たばかりのトンネルの壁や天井が、陽炎のように揺らめきながら、トンネルの内腔を狭めるようにせり出してきている。ちょうど、佐和の通ってきた時系列の空間が、過去から未来に向かって、漏斗のように変形してきているようにも見える。まったく予測不可能の事態に陥った佐和は、背筋に冷たいものを感じて、本能的に歩を早めた。
 「カッ、カッ、カッカッカッ、」
 「…!!」

 走り出そうとした時、佐和の足元にも陽炎が迫ってきた。膠のようになったアスファルトによって、佐和は足を取られてスタックした。いかにもがいても前に進めない。

 「なッ、何!?コレ?」

 グレーのクリーム状になったアスファルトが、佐和の黒いパンプスに絡みつく。

 「ジュジュジュジュ…」
 「あッ!ああーっ」

 佐和は、つま先に焼け付くような痛みを感じた。足元を見ると、パンプスから白煙が上がっている。足の痛みに耐えかねた佐和は、身体のバランスを崩して尻餅をついた。

 「ジュ、ジューーッ」

 尻が接地した瞬間、佐和のミニ・スカートからも白煙が噴き出した。

 「キャッ!」

 臀部から股間にかけて激痛が走り、佐和は身体を仰け反らせた。カーディガンの裾にもアスファルトがねっとりと付着する。カーディガンの裾に引っ張られるようにして、佐和は上体を更に仰け反らせると、仰向けに倒れこんだ。

 「ジュルルルルッ」
 「きゃああああああーッ」

 カーディガンとシャツ・ブラウスを穿孔して、アスファルトが佐和の背中に襲いかかった。膝を立てたまま、仰向けに横たわった佐和の身体から、激しく白煙が上がり、フライパンの上にのったバターのように、佐和の身体が溶け始めた。辺りにプラスティックを焦がしたような異臭を充満させながら、青いカーディガンと白いシャツ・ブラウスの繊維が、煮詰まった水飴のようにどろどろと軟化して混ざり合いながら、崩れ落ちてゆく。虚ろに目を見開いたまま、後弓を反張させた佐和の身体中から、黄褐色の泡混じりの液体が噴き出して、「佐和という形」が次第に崩れてゆく。

 「助けてッ!誰かァー!」
 「グッ、グホッ、たっ、たす・け・・て…。い…」

 身体の分解によって生じた高温のメタンガスが空気に触れて、ポッ、ポッと断続して青白い炎を上げ始めた。佐和の身体は液化し激しく沸騰しながら、泥状のアスファルトの中へと呑みこまれて行った。僅かに残っていた着衣の断片もやがて朽ち果て、佐和の痕跡は完全に消滅してしまった。

 佐和を呑みこんだアスファルトは、しばらく余韻の楽浪をたたえていたが、何時の間にか、元のアスファルトに戻って静まりかえっていた…。たった今、ここで起こった惨劇は幻だったのだろうか。後部座席ではしゃぐ子供達を乗せた家族連れのミニ・ヴァンが、何事もなかったかのように通り過ぎていった。

 「ビョーーオオオッ、バフッ、ビョーッ」

 佐和は、夕方の渋滞の始まった環状八号線を南下していた。やっと少し動いたかと思うと、すぐに目の前の信号が赤に変わる。青になって、少し動くと、今度は陸橋の登りでまた止まる。前のワゴンが、一度停止した後でクリーピングしながらのろのろ進む。

 「…ったくぅ、イヤな止まり方ッ!」

 前に一台分の空間が開いたが、佐和はクラッチを労って動かない。

 「ビッ、ビィーーーッ」

 後ろでタクシーが前に詰めろと怒っている。
 
 佐和はそれを黙殺して左側の景色を眺めていた。
 この辺りは新旧各モデルのフェリーを扱う専門ショップが道路沿いに軒を連ねている。横目で見ると、煌々とスポット・ライトが照るショールームの中程に、737と名前を変えた新型がディスプレイされていた。フェリー社が満を持して投入した新型。ぐっとモダーンに洗練され速くなったが、モデル・チェンジによってかつての野性味を失った新しい737に佐和は少々幻滅していた。

 「やっぱり、フェリーはコレに限るわ…。」
 「バフッ、ブハ、ビョオーー」

 サイド・ブレーキを併用して、アイドリングのままで器用に坂道発進する。やっと動き出した環状八号線の雑踏の中を佐和の727は泳いでいった。


 田園調布交差点で左折して、奥沢の自宅に辿りつくと、佐和は727をガレージに入れた。エンジン・オイルをチェックした後で、キィを捻ってエンジンを止める。辺りがしんと静かになった。高熱に曝されていた727のエンジン周りが冷えてゆく音がする。
 「パチ・パチ・パチ…パン、パチ・パチ…」

 自室に戻った佐和はノート・パソコンのメール・ボックスを開いた。
 「あら?板垣さん…」
 冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出すと、ボトルに口をつけながら、佐和は画面を覗きこんだ。

 佐和ちゃん、こんにちは!
来週日曜の走行会ですが、サーキット・ホテル、予約しといたからネ♪
土曜日11:30、海老名SAにて合流。
                               板垣 信介@727

  佐和は、にっこりと画面に向かって頷いた…。

 …佐和は知らない。もう一人の自分がトンネルを通過するときに溶けてしまったことを…。人は、遠い過去から未来に向かって歩いて行くとき、無数の運命のカリーナ(分岐点)を通過する。それを意識することもあれば、そうでないこともある。「もしあのとき…」という経験は誰にでもあるはずだ。現在ここに在ると意識する自分とは別に、無数の少しずつ異なる自分が、無数の時空の中に平行して存在して、我こそは唯一無二の自分であると思いこんでいるだけ…なのかもしれない。もう一人の佐和は、その分岐点で、隣接するパラレル・ワールドに行き損ねて、時空のエネルギーに押しつぶされてしまったのであろうか…。

                 (完)

この物語は全てフィクションであり、登場人物、団体は架空のものです。地名や施設名も実在のものと関係ありません。また、実在する自動車メーカーやモデル名を連想させる表現が一部にありますが、一切の関係はありません。