溶解醜女(ぶす)T
作:須永かつ代様
第1話 佐藤 碧(みどり)の場合
「いってらっしゃい」
初秋のある日、碧は会社に出勤する慎一をいつもと同じように送り出した。
佐藤碧は今年22歳。製薬会社に勤める夫・慎一と、さいたま市にある2LDKのマンションで暮らしている。二人は大学のサークルの先輩・後輩の間柄で、碧が入学した時から付き合いを始めて、この春、彼女の卒業と同時にゴール・インした。まさに新婚ほやほやのカップルであった。
ここのところ慎一は新薬の開発プロジェクトのため残業の連続で、帰りが深夜になることがしばしばであった。新妻にとっては不満のたまる晩が続いたが、プロジェクトも終盤に近づいたらしく、夫は「今晩は早く帰るから」と言って家を出た。碧は久々の「夜」を期待し、夫を送り出す声も嬉々として、弾んでいた。
「今日はご馳走作るからね」
「はは、期待しないで待ってるよ。……、あ、いけない!忘れてた」
後ろ手に玄関のドアを閉じようとして、慎一は急に碧の方に向き直った。
「碧、ぼくの部屋の机の上に青磁の壷を置いたんだけど……」
「(壷?……慎一さん、そんな趣味あったのかしら?)」碧は一人ごちた。
「あの壺の中には……、えっと、その、……新薬のサンプルが入ってるんだけど、あれは劇薬だから、決して近づいたり、触ったり、口に入れたりしてはいけないよ」
「(劇薬?……口に入れる?……そんなこと、するわけないじゃないの)」
心の中でそう思いながら、碧は夫の言いつけに対して殊勝に答えた。
「うん、分かった。大丈夫よ」
慎一は家を後にした……。
夫が会社に出かけた後、朝食の後片付け、寝室の片付けに続いて、リビングの掃除機かけ、洗濯など、専業主婦の午前はたいへん忙しい。慎一の書斎の掃除が終わって、碧が時計を見上げると、もう11時半を過ぎていた。そろそろ昼食の用意をする頃合いであった。
普段ならば昨晩の残り物で済ませるところだが、あいにくこの日は何も残っていなかった。「カップ・ラーメンでも食べようかな……」と思ったが、それも買い置きが尽きていた。
「どうしようかな、これから買い物に出るのも面倒臭いし……」
しかし、人間の身体というのは非情なものだ。碧がエプロンを外したとたん、彼女のお腹がクウ〜ッと情けない音をたてたのである。
この日、碧はこげ茶色の地に花柄の刺繍をあしらったニット・アンサンブルを着て、ベージュ色のスカートをはいていた。彼女はかなり肉付きが良い方であったが、家事・雑用を終えて、この時ばかりはインナーの丸首セーターがペッタンコのお腹に貼りついて、その上に羽織ったカーディガンがいかにも所在なく、パタパタとはためいていた。
「お腹空いたなあ……。なんかお菓子なかったかしら……?」
その時、慎一の机の上にある青白い大きな壷が、碧の視界に入ってきた。
「劇薬だから、決して近づいたり、触ったり、口に入れたりしてはいけないよ」
夫はそう言って、碧に注意を促していた。
「(でも……)」碧はふと考えた。
「(今まで、あの人が会社の薬を自宅に持って帰ることがあったかしら……?)」
「(劇薬ですって?なんでそんなものを、わざわざ家に……?)」
「(近づいちゃいけないって?触っちゃいけないというなら、まだ分かるけど…)」
「(口にいれちゃいけない?そんなの当たり前じゃないの、劇薬なら……)」
そこまで考えて、碧ははっきりと疑いの念を抱き始めた。
「(新薬を、よりによって青磁の壷に保管するなんて、変だわ。あの人、何か隠してるんじゃないかしら……!)」
夫が隠し事をしている!!愛し合って結婚した夫が自分に秘密を持っていると思ったとたん、碧の心は大きく揺れ動いた。
「(許せない、私に隠し事なんて……!)」
と同時に、碧の心の中に、別の考えが頭をもたげて来た。
「(あの壷の中には何が入っているのかしら……?)」
それは高さが30cmくらい、蓋の径が20cmくらいの広口の壷だった。見たところ新しく、いわゆる骨董品ではあり得なかった。薬壜でもなく、骨董としての価値もなさそうな青磁の壷に新薬を保管するというのは、どう考えても不自然であった。
「(きっと慎一さん、私に見られては困るものを、あの中に隠しているんだわ。例えば……裏ビデオとか、ヌード写真とか……)」
そう考えると、碧はむしょうに腹が立って、夫の秘密を暴き立てずにはいられなくなった。
「(中をあけて、突きつけてやるわ。あの人、どんな顔をするかしら……)
それはここ数ヶ月、一人さびしく夜を過ごさなければならなかった新妻の、ちょっとした復讐のようなものであった。復讐と言っても陰湿なものではまったくなく、むしろ女子大生が恋の鞘当てをするような、キュートな感情に拠るものであったが。
碧は壷の口に手を当てて、蓋を開けようとしたが、そこで一瞬、思いとどまった。
「(まさかと思うけど、ひょっとして本当に劇薬だったら……?蓋を開けたとたん、劇薬が粉塵のように舞い上がって、それを吸い込んだりしたら、本当に死んでしまうかも?)」
そう思ったとたんに、碧の右手はビクッと弾けるように壷から離れた。
「(どうしよう、開けない方が良いのかしら?)」碧の心はちぢに乱れた。
その時、碧はふと思いついた。
「(そうだ!吸い込まないように、団扇か扇風機で風を送れば良いんだわ……)」
そう考えると、碧は押入れにしまったばかりの扇風機を持ち出し、ファンを慎一のデスクに向けて、首振りは無しで、弱風のスイッチを入れた。敢えて弱風にしたのは、強風にして、反って部屋中に粉塵が舞ってしまうことを警戒したからであった。
ぶーん……。
静かな音を立てながら、扇風機は緩やかな風を青磁の壷にぶつけた。碧は改めて壷の蓋に両手を持っていった。蓋はすぐに開いた。
何の変哲もない壷であり、蓋だった。光が入らない青磁の壷の中は暗く、ひんやりとして、不気味でさえあった。碧ははじめ遠巻きにして壷の口を見ていたが、そんなことでは暗い壷の中身は見えなかった。やむなく碧は、恐る恐る壷の口の方に顔を近づけていった。
ほんのり甘い香りがした。
「(青酸カリって、ほんのり甘酸っぱい、アーモンドに似た匂いがするんだよ)」
婚約時代に慎一から聞いた話をふと思い出し、碧はあわてて壷から顔を背けた。退き際に、彼女は壷の中に、何やらこんもりとした白い塊を見たような気がした。
「(……、粉じゃない。じゃあ、青酸カリじゃないわね)」
劇薬の専門家の夫人もまた、劇薬に詳しくなっていた。碧はこれまでになく安心して、青磁の壷の中を覗き込んだ。中には白い、ふんわりとした、ホイップ・クリーム状の物質がたっぷり入っていた。
「……、これは……何?」
もはや目視だけでは、この白いクリーム状の物質の正体を突き止めることは不可能だった。
普通の主婦であったならば、それ以上深入りすることはなかったであろう。しかし碧は、普通の主婦と言うにはあまりに幼く、キャピキャピしており、好奇心が旺盛だった。彼女は壷の口ギリギリのところまで顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぎ、自分が持てる限りの知識を駆使して、劇薬の正体を突き止めようとした。
「これって……、ホイップ・クリームじゃないのかしら?」
考えてみたら、碧はここ数年、ホイップ・クリームを口にしたことが無かった。彼女が大学に入ったばかりのころ、友達とケーキ・バイキングに通って、1週間で体重が20kgも増えてしまった苦い経験があるため、慎一と付き合うようなってから、碧はダイエットのため、ケーキ類を一切断っていたのである。それだけに壷の中身がホイップ・クリームなのか、そうではないのか、彼女には俄かに判断できなかった。判断するには、もはや食してみるしかほかなかった。
「ソムリエみたいに、ちょっと口に含んでみて、すぐに出してしまえば、大丈夫よ、きっと」
根拠のない判断に基づいて、碧は壷の中の白いまったりとした物質をティー・スプーンで少量すくい、口に含んだ……。甘かった……。
それは明らかにホイップ・クリームに他ならなかった。
「ちょっと、これ、どういうこと?」
碧は憮然とした。どうして慎一はホイップ・クリームを劇薬と称して、碧に隠そうとしたのか?
しかし、碧には思い当たることがあった。まさに自分が、ダイエットのためにケーキ類を断ったのだった。しかも彼女は、自分だけでなく夫の慎一に対しても、成人病予防のためと称して、甘いものを制限していた。
「あの人、ひょっとして、私に隠れて甘いものを食べたかったのかしら……」
まさにその通りであった。プロジェクト推進のため、ここのところ毎日、深残が続き、慎一はかなり疲れていた。疲れている時に甘いものを摂取することは、健康維持の観点から有効である。
恐らく慎一は、碧に隠れてこのホイップ・クリームを舐めていたのだろう。碧がダイエットのためにこれを敬遠しているだけに、慎一としてもおおっぴらに食べることが憚られたのだろう。夫が深夜帰宅して、一人書斎でホイップ・クリームを舐めている姿を想像したら、碧には夫が実にいじましく感じられた。
その時、再び碧のお腹がクウ〜ッと鳴った。時計はすでに1時を回っていた。碧の空腹も限界に達していた。
「いいわっ。私もこれ、頂くわっ」
そう言うと、碧は壷のホイップ・クリームを今度は大匙で取り、口に運んだ。
「……、おいしい……」
久々のホイップ・クリームは碧の空腹を満たすのに十分であった。それどころか、甘味類に対する彼女の本能的な嗜好を呼び覚ました。彼女は次々とスプーンを口に運んだ。
いつしか碧は、右手の人差し指を壷の中に突っ込んでいた。人差し指でクリームをすくい、そのまま可愛くすぼんだ桃色の唇の中に白い泡状の塊を放り込んだ。
もはや碧の食欲はとどまることを知らなかった。人差し指では飽き足らず、彼女は壷の中身を右手の手のひらで救い、口いっぱいに頬張った。
「あむ、あむ、あむ、………」
ニットの右手の袖口や、唇のまわりを真っ白にしながら、碧は夫のなけなしのホイップ・クリームを食し続けた。半時間もしないうちに、クリームは舐め尽され、壷の中は空っぽになった。碧の空腹もようやく満たされた。
その期に及んで、碧はハタと我に返った。自分に隠し事をしていたとは言え、それは夫にとってかけがいの無い栄養補給剤だった。それを、一時の怒りに任せて全部食べてしまうとは!
しかも、慎一がこれを秘密にしていた原因の一端は自分にある。
そう考えると、碧は慎一の言いつけを守らず、壷の中身のクリームを食べつくしてしまったことを後悔し始めた。
夫はがっかりするのではないか、いや、ひょっとしたらせめてもの楽しみを奪われたと言って怒り出すのではないか?碧は心配になって、急にそわそわし始めた。
「どうしよう、慎一さんになんて言って謝ろう……?」
いくら後悔しても、舐め尽くしてしまったものは返らない。ここは一計を案じて……。
土壇場で碧は、女の武器に訴えることを思いついた。泣き落としである。男は女の涙に弱い。ここは一芝居打って、夫の同情を引き、許してもらおう……と考えた。
そこで碧は、まずクリームだらけになった口のまわりをナプキンで拭き、カーディガンの袖口に付着したクリームも拭い去ると、ホイップ・クリームが入っていた青磁の壷をおもむろに床に叩きつけて割った。
あとは夫の帰宅を待つばかりだ……。
慎一は約束通り早く、午後7時には帰宅した。だが、妻が待つはずの家の中は電気もついておらず、真っ暗だった。慎一は何か起こったのかと心配になった。
リヴィングの明かりをつけると、碧が眼を泣き腫らして、一人佇んでいた。
「ど、どうしたんだ?何かあったのか?」
驚いた慎一が尋ねると、碧は泣きながら答えた。
「あなた……、ごめんなさい……」
それだけ言うと、碧はテーブルの上によよと泣き伏した。ますます訝しく思った慎一は、碧の肩にそっと手を当てながら、優しく問いかけた。
「何があったんだい?怒らないから言ってごらん」
「(かかった!)」
心のうちでそう思うと、碧は予定通り、芝居を継続した。
「……、お昼間、あなたの書斎を掃除しようと思って、はたきをかけていたんだけど……」
「……、それで?」
「……、私、うっかりして、机の上にあった青磁の壷にはたきを引っ掛けて、落としてしまったんです」
「何だって?!」
案の定、夫は気色ばんだ。しかし碧はひるまず、迫真の演技を続けた。
「ごめんなさいっ!私、あなたの大切な新薬のサンプルを台無しにしてしまって……!」
新薬のサンプルを台無しにした、と聞いたとたん、慎一の身体はびくっと硬直した。碧は夫の反応を見逃さなかった。
「(案の定、バレたかと思って動揺してるわ。行ける、私の勝ちね!)」
「あなた、許してぇ〜(よよと号泣しながら)。私、あなたの大事なお仕事の邪魔をしてしまったのよぉ〜(再び、テーブルの上に泣き伏す)!」
「あ、あの壷は……、あの中には……」
夫の動揺は隠しようがなかった。急に面を上げると、碧は思いつめた表情でこう言った。
「あ、あたし……、死んでお詫びをしようと、壷の中にあった劇薬を飲んだの!」
「な、何だって?!」
慎一は素っ頓狂な声を上げた。それには構わず、碧は続けた。
「あれは劇薬だったんでしょう?あれを飲めば死ねる。そう思って、あたし飲んだの!壷の中身を!」
「あ、あ、あれを飲んだ……?」
虚ろな声で夫はつぶやいた。
「そう!私、飲んだの!あの白い薬を!……でも、駄目だったの。飲んでも飲んでも、薬の効き目が現れないの。私、どうしても死ねなかったのよ。あぁ〜!(再び、芝居がかって泣く)
「……飲んだ……。あ、あれを飲んだ……」
「飲んだのよ!飲んだの!……。でも死ねないの!死ねなかったの!……私、死んでお詫びしようと思ったのに〜〜!わ〜〜っ!!(絶叫)」
「……」
「(呆然としている夫を横目に窺いながら)……、結局、壷の中の薬を全部飲んだんだけど、駄目だったわ。薬は効かなかったの。あなたの新薬は失敗だったのよ!」
自分の名演技に酔いしれて、碧は余計なことを口にしてしまった。「失敗」という言葉を聞いて、それまで呆然自失していた慎一は、全身に電流が走ったかのようにびくんと痙攣し、再び正気に返った。
「碧……、君、あれを全部飲んでしまったのか……」
碧はそろそろ種明かしをして、夫と和解しようと考えて、こう答えた。
「あなた……、あれ、私にはどうしても劇薬とは思えなかったわ。どう見てもあれは……」
しかし慎一は、碧の言葉を最後まで聞いていなかった。
「碧!君っ!!あれをいつ、……何時ごろ飲んだんだっ?!」
「……!」
慎一のあまりの剣幕に、碧はしばし言葉を失った。
「えっ?!何時ごろだいっ?何時間前に飲んだんだいっ?!」
激しくなじるように慎一は碧に詰め寄った。さっきまでの形勢が逆転したように、碧は萎縮して、小さな消え入るような声で答えた。
「……、あ、あの、……ごめんなさい。……昼前、……いえ、1時頃かしら……。あ、あなた……、本当にごめんなさい。私、どうやって謝ろうかと……」
「1時!!……(時計を見て)今7時半!!6時間過ぎてるっ!!!だっ、駄目だっ、もう駄目だ〜っ!!!」
慎一は髪の毛を掻きむしって絶叫した。碧は目を丸くして驚いた。
「あ、あなた……、どうしたの?6時間過ぎてるって…、もう駄目って……、どういうこと?」
夫の狼狽する訳が分からず、碧は不安になって尋ねた。
「……、碧、君……、なんともないのか?」
「……、だから……何があったの?」
長い沈黙の後、慎一は唇を震わせながら説明した……。
「碧……、あの壷の中に入れていたのは……」
「分かってるわ、私。あれ、ホイップ・クリームでしょう?」
慎一は一瞬、ぽかんとして口を開けた。
「……?、ホイップ・クリーム?……違うよ。確かに形質は酷似しているけど、あれはトリカブトの根をすり潰して、某物質と化合させて練り上げた新薬で「附子」という劇薬だ……」
「……?、ぶす?」
「……、そう、ぶす。……。もともとは筋萎縮症を治療するために、敢えて開発した劇薬だが、患者が分量を間違えて服用した場合、ある一定の潜伏期間をおいて、皮膚や皮下脂肪、筋肉組織ばかりか、骨格までも軟化してしまう……。まだ臨床では実験できていないんだが、ひょっとしてひょっとすると、軟化させるだけでなく、細胞組織を溶解させてしまう恐れがある」
「……、ヨウカイ?」
碧は事態が飲み込めず、虚ろに聞き返した。
「そう、身体が溶けてしまう可能性がある」
「……!」
ようやくことの重大性に気づいた碧が問い返した。
「あっ、あなたっ!……、せっ、潜伏期間っていったいどれくらい……!」
「……ジャスト、6時間だ……」
碧は目の前が真っ白になった。自分がホイップ・クリームを舐め始めたのが昼の1時頃、舐め終わったのは確か1時半頃だったはずだ。今が7時半だとすると、ちょうど6時間が経過している。
「あっ、あなっ、……、慎一さんっ!ぶっ、分量って、どれくらいまで飲んで大丈夫なのっ?!」
慎一は悲痛な面持ちで答えた。
「あの壷には、成人女性5人分の致死量が入っていたんだ……」
碧の身体がぐらりと傾いた。反射的に彼女はテーブルの上に右手をついたが、傾いた身体を支えることはできず、そのまま床上に倒れてしまった。不審に思い右手に眼をやると、ニット・アンサンブルの袖の先にあるはずの白魚のごとき手の代わりに、白い泡状の塊がこんもりと盛り上がっていた。ギクッとして左手を見てみると、手があるべきところには右側と同じように白いクリームの塊が沸き起こっていた。
「いっ、いやっ……!」
両手に付着した白い粘液を洗い流そうと、碧はあわててバス・ルームの方へ駆け出していった。しかし、蛇口に手を伸ばそうとしたところで、再び彼女は倒れてしまった。今度は何事かと思って脚を見ると、両脚もまた、全体が白い泡に覆われて、じゅくじゅくと音を立てて溶け始めていた。
突然、碧の腹の中から甘酸っぱいものがこみ上げてきた。
「ぐふっ!!」
ホイップ・クリームをさらに緩くしたような、白い粘液上の嘔吐物が碧の口から吹き出た。彼女の顔は、ちょうど6時間前、遮二無二に空腹を満たそうと口いっぱいに「附子」を頬張った時と同じように、口のまわりが真っ白になった。
碧はやっとの思いで身体を起こし、尻餅をついたような格好でバス・ルームの中にちょこんと座った。しかし、それ以上、身体を動かすことは不可能であった。
「み、碧っ!!」
バス・ルームまで追いかけてきた慎一は、愛する妻の変わり果てた姿を見て絶句した。碧の顔面はまったりとした白い粘液に覆い尽され、表面は異様に光沢を放っていた。ニット・カーディガンの袖口からは夏の日のソフト・クリームのように溶けてドロドロになった液体が流れ落ち、袖自体は中身の腕を失ってぺたんと垂れ下がっていた。ベージュ色のスカートの裾からもべしゃべしゃと白い水溶液が溢れかえり、もとのふくよかな下肢の原型をとどめていなかった。カーディガンとインナーのセーターの前身ごろが合わさった、胸のところの膨らみもまったく萎んでしまい、アンサンブルもスカートも、碧が身に着けていたものすべてが平ぺったく潰れてしまった。
ただ、ニットの丸首の上に、白いクリームのボールのようにブクブクになった頭だけが残り、粘液の海の中で息を継ぐように、口(があったところの穴)をパクパクさせながら、必死に言葉を発した。
「……、あなた、愛してるわ……。あなた……」
薄れゆく意識の中で、最後に、夫の愛を確認したかったのか、碧は慎一に問いかけた。
「私、きれい……?」
だが、断末魔の消え入るような声は慎一の耳に届かなかった。夫は妻の断末魔の言葉を聞き洩らし、その代わり、今更ながらに自分が開発した新薬の効き目の恐ろしさに戦慄していた。
「この附子が……」
「このブスが……、ひ、ど、い、……」
それが碧の最期の言葉であった。死の瀬戸際で、愛する慎一の救いのないような言葉を聞き、碧はショックのあまりそのまま絶命した。
「この附子が……、碧をドロドロに溶かしてしまった……、碧……、愛していたのに……」
だが、慎一の言葉は碧には届かなかった。
後には白い粘液の海に漬かって、べちゃべちゃになったこげ茶色のニット・アンサンブルとベージュ色のスカートが残るだけであった。