白い泡の恐怖

作:須永かつ代様

蒸し暑い夏の夜、博子は終電で、自宅に最も近い「霧が丘」駅に降りた。
近いと言っても、博子の家は駅から徒歩約20分のところにある。バスのある時間帯な
らば8分で帰れる距離だが、終電のこの時間ではバスはもう走っていない。深夜遅
く、これから20分も歩いて帰らなければならないかと思うと、毎日のこととは言え、
博子もやや気が重かった。

博子は某テレビ局のスポーツ・キャスターを務めていた。彼女が出演するのは夜9時
からのニュースの中のスポーツ・コーナーである。放送自体は10時に終わるのだが、
放送後、ダメ出しや翌日の打ち合わせなどをしていると、局を出るのはどうしても0
時頃になる。毎夜、終電に飛び乗って、家に帰りつくのは午前様という生活だった。
しかし、もともと好きで始めた仕事であるし、ようやくメインの時間帯に出演できる
ようになったことから、彼女にとって毎日が充実していた。

この日はとりわけ暑かった。博子は
麻地の、テーラー・カラーのノースリーヴ・ワン
ピース
を着ていた。ワンピースはオレンジとブラウンのチェック柄で、5つの大きな
白く丸い四つ穴ボタンで前を留める、前身ごろが全開するタイプ
のものだ。スカート
部分は膝上10cmと非常に短い。大きく開いた襟と言い、前開きタイプと言い、この日
の博子のファッションは涼しげであると同時に、男性の同僚たちにとってかなり艶っ
ぽいものだったろう。

駅から10分くらい歩くと、霧が丘団地の2号棟と3号棟の間の通りにさしかかる。バス
だと表通りを行くのだが、徒歩の場合、これが近道なのだ。
コツーン、コツーン、……。人気の無い団地の中の通りを、博子の
赤いハイヒール
音がこだました。街灯が照らす真っ直ぐな道の先には人っ子一人いなかった。

しゅーー……。

博子は、車のタイアから空気が抜けるような音を聞いた。
「(何かしら?)」博子は歩みを止めて辺りを見回したが、それらしき車や自転車の
姿はなかった。「(気のせいかな?)」博子は再び歩き出した。

しゅーーー………。

またしても空虚な響きがした。
「どこから聞こえるのかな?」博子は思わず声に出して言った。

しゅーー、しゅーーー、………。

今度ははっきり聞こえた。彼女が向かう道の少し先の方から、その音は流れていた。
コッ、コッ、コッ、……。博子は足を速めて、音のする方に向かって行った。20mく
らい進んだところに、黒々とした大きなマンホールがあった。

シュー、シュー、シュー、……。

空虚な音はこの下から聞こえるようだった。

さーっ!
博子はハッとした。蒸し暑い空気の中、人心地つくようなさわやかな夜風が流れたの
だ。「あぁ、気持ち良い……」博子は少しホッとしたような気持ちになった。
その時、黒々と光るマンホールの蓋の上に同心円状に並ぶ空気取りの穴から、何やら
白いものが顔を出した。博子は思わずマンホールの蓋を覗きこんだ。

シュッ、シューー………。

空気取りの穴から白い泡のようなものが湧き出てきた。石鹸の泡のようでもあり、白
いホイップ・クリームのようでもある。

シューー、シューー……。

白いクリーム状のものはどんどん湧き上がり、盛り上がってくる。ねっとりとした木
目の細かさから言えばホイップ・クリームに一番良く似ているが、でもマンホールの
穴から噴き上がってくるとすれば、やはり排水から湧き起こった石鹸か何かの泡だろ
う。

シュウウウウ…………。

クリーム状の泡はどんどん溢れてきて、マンホールを包み込み、真っ白な水溜まりを
つくった。「どうして、こんな時間に石鹸の泡が……」博子は思わず眉を
めた。そ
の時!

シュボッ!!!

マンホールの下でガスでも噴き上がったのだろうか、泡の塊の一部が弾けて、近くに
寄っていた博子の左の
ハイヒールねを上げた。「きゃっ!」博子は思わず声を上
げた。急いでハンドバッグからハンカチを取り出し、
を拭おうとしたが、彼女が
バッグを開ける間もなく、2回目のねが上がった。

ブシュッ!

今度はかなりの量の泡が噴き上がった。泡は博子の両脚の
にかかった。「いやっ、
汚いっ!」博子は思わず下がったが、泡の噴き出す勢いは収まらない。

ブシュッ、ブシュッ、ブシュシューッ!

泡は塊から噴き出て、博子の膝上にまでかかりそうな勢いを見せた。博子は慌てて後
ろずさりして、地面にかかった泡に足を取られ、尻もちをついた。「きゃっ!」博子
の左足から
ハイヒールが脱げた。「痛……」

ブシュ、ブシュ、ブシュシュウウウウウウ……………!!!!

泡の塊がさらに湧き上がり、山のように盛り上がってきた。地面を覆う泡の溜りはも
う人間の大きさくらいにまで広がっている。
「(え?)」博子は我が目を疑った。クリーム状の泡の塊が、
ズッ、ズズズッと持ち
上がり、博子の足の方に近寄ってくる。「(まさか?!)」
ねっとりとした白い泡が、博子の右足に残った
赤いハイヒールに纏いついた。

ベチャッ!

「そんな……、まさか……。そんなことが?!」もはや疑う余地はなかった。クリー
ム状の泡の塊は博子の身体めがけて襲ってきたのだ。

ズズズズ…………。

白い泡は博子の足からへと移り、さらに膝の上まで覆い被さっていった。「い
やっ、誰か、たす……」

ズルッ!

博子が助けを求めて叫び声を上げようとした瞬間、悪魔の泡は移動の速度を急激に速
めた。粘液のような泡は博子の膝上から下腹部にまで流れ込んだ。泡はまず膝から太
股伝いに、博子の
ワンピースの裾の中へと潜り込んだ。「うっ!」悪魔の泡はワン
ピースの中をそのまま恥部、そして腹、胸へと流れ込んでゆこうとしたが、細く

た博子の腰のところで動きを遮れた。

ズブズブズブ………。

代わって、白いクリームはワンピースの上を這うように流れていった。「ああっ!」
粘り気のある泡が博子のチェック柄の麻地のワンピースを、裾から襟もとにかけて白
く染め上げて行く。ワンピースにアクセントをつけていた白く大きいボタンは、ク
リーム状の泡を被って、見る影も無くなっていった。「あっ! あっ! ああーーっ!
!!」

ジュルジュルジュルジュル………。

白い泡は
ノーズリーヴのワンピースから、さらに伸びて博子の両腕も覆い尽くした。
博子は全身に浴びた泡を払いたくとも、両腕の自由まで奪われて、どうすることもで
きなくなっていた。

バシャッ!!!

ついに粘液のような白い泡が博子の顔一面に
ね上がった。「ぶふっ!ん、ん、ん
んーーーっ!!」博子は足の先から頭のてっぺんまで白い泡に覆われて、息もでき
ず、全身を痙
痙攣させていた。しかし、それも長く続かなかった。痙攣は止み、博子は
薄れゆく意識の中で自分の肉体がひどく柔らかくなるのを感じた。「(あたたか
い……)」ところどころチェック柄の斑点を残していた博子のワンピースはすっかり
白い粘液の中に浸り、彼女の肉体は溶けて、白い泡の塊と同化していた。

ジュクジュクジュク………。

白い泡の塊は次第に萎んで薄べったくなり、ねっとりとした白い液の水溜まりとな
り、それも最後には地面に染み込んでいった。

………………………。

暗い夜道の静寂の中に残ったものは、博子だった肉体が纏っていたオレンジとブラウ
ンのチェック柄ワンピースと、その裾から点々と散らばった
赤いハイヒール、黒いハ
ンドバッグだけであった。