no title, no name

遠く唸り声が響いてる。
染み付いた防衛本能がおれを静かに覚醒させた。

「………」
風がカーテンを揺らしてる。明るい戸外がどうしようもなく贅沢な、良い午後だ。おれは伸びとあくびを同時に片付けてやる。
寝室から抜け出すと、リビングには家主の背中が見える。ふーん、今日は「オシゴト」じゃないわけだ。
毎度、いいタイミングで振り返る奴は、おれを「起きたのか」って目で見てる。ええ、ええ、見ての通りでございますとも。

大きいのが自慢の目をパッチリ開いてアピールすると、長い前髪の向こうから、無言でじっくり目を合わせてくる。これで別に怒ってもいないってのが、詐欺みたいな男だ。

それでなくても、こいつは無口な人間だ。ホントに無くしたって支障がないってくらいに口を開かない。おれが付き合いのいい男だったことに、感謝したほうがいいね。やわな野郎じゃ窒息死しそうな沈黙だ。まぁ、こいつにべらべら喋りかけられても、おれだって困るけどさ。…そこ、意外そうな顔をするなよ。こう見えて、割と静寂を尊ぶ性質なんだから。
それが証拠におれの視線はあいつの手元に釘付けだ。安眠妨害の元凶。地を這って響く絶え間ない音が生産されている。
「……。すぐ済む。向こうへいっていろ」
そう言って、奴はクリーナをフローリングに滑らす作業を再開した。こいつが掃除好きだってのは、同居してみて分かる一つ目の誤算だったね。おれはどうもあの音が好きになれない。
しゃーねぇ、向こうで顔でも洗うか。

軽い散歩から戻っても、例の音がお出迎えだった。 なんだよ、今日はやけに念入りなんじゃねえか? あくびを噛み殺してると、ようやく音が止んだ。早速、様子を見に行く。なぁ、お前、おれのメシ、片付けただろ。食ってねーだろうな?

奴の掃除は寝室にまで及んでた様子だ。シーツがぴんぴんでベッドメイクは完璧。枕カバーを替えて柔らかく置き直したりしてる。

「………」
腕組みして、長々と、奴はしわ一つ無い白いキャンバスをじっくり眺めてる。

何見てんの。
「………」

おーい。
おれはごく控えめに存在をアピールしてやった。
お取り込み中すみませんけど。おれ、メシ、外で食ってきたほうがいいの?
「…………………」
奴さん、おれに気づくと、しばし沈黙したあと、無表情のままベッドに本だの資料だのを積みだした。一山、二山…って、おいおい、それじゃお前もおれも寝る場所ねーだろ。重みで早速乱れきったシーツに、おれはすっかり呆れ顔だ。同居して間もないせいか、こいつに関しちゃさっぱりな部分もまだ多い。
まぁ、良いけどね。こういうことは追々分かるってもんさ。
ひとまず今のところ差し当たっては、おれのメシ……

-ピンポン

くそ、なんだってんだ。
ドアベルがなった途端、あいつはインタフォンへ飛んでいってしまった。

-ピンポーン

おれが不満タラタラでダイニングへ向かうと、奴はインタフォンのモニタを見たまま棒立ちになってる。
お前さぁ。今日はまた一段と不審な行動が多いよ。

-ピンポン
-ピンポーンピポピンポーン

だー、うるせぇ!
何してんだよ。もう、さっさとドア開けてやれよ。
騒音公害におれがいい加減キレそうになってると、ようやくゼンマイが巻かれたおもちゃみたいに、家主がゆったりドアへ向かった。ああ、うっせぇ。さっさと追い払ってくれ。

ガチャンというロックの外れる音が、おれを追い立てる騒音をかき消してくれる。ほっとして下げかけた耳に新しい大音声が飛び込んできた。
「おっ前、いるんならさっさと開けろよな、ヒイロ!!!」

おれは名前がないくらいで、自分のことを我輩、なんて呼ぶような猫じゃあない。

「よ~、ハジメマシテ。お前、名前は?」
今日のおれには、さしずめ音難の相が出ているに違いない。おれに顔を摺り寄せんばかりのお客人の声は滅法でかい。
だからさ、そんなこと聞かれても、おれはおれだとしか応えようがないんだよ。
「ノラだ」
え?そうなの???
びっくりして振り返ると、家主はそらっとぼけた顔でコーヒーなんて淹れてる。まぁ、こいつはいつもそらっとぼけた顔してるけどもさ。
「『ノラ』はねーだろ、ヒイロさんよ」
対するお客人は表情筋が活発だ。伸びやかな眉がきゅうと寄る。どうやら気の毒がってくれているようだが、名前なんて、こっちは一向構っちゃいないんだがね。

そうそう、名前といえば、ここんちの主は、ヒイロって言うようだ。おれがここに居ついて数週間。こいつを訪ねてくる人間も特にいなかったし、自己紹介をしてくれるような人間じゃあ勿論ないから、知る機会なんて全然なかった。お互いが、名乗り合いなんてセレモニーをすっとばした、実にカラッとした付き合いってやつ。おれはさ、生来そういう後腐れのないドライな関係を好む性質なわけだ。

ところが、そんな当人のポリシーを差し置いて、お客人はパッと大きな笑顔を披露する。
「よっしゃ、じゃあ、おれがもっといい名前考えてやるよ」
「デュオ」
おれが抗議する前に、ヒイロが呆れたように口を挟む。
「余計な世話だ」
全くその通り。何人かいた元飼い主の中にゃ、いい名前って言いながら、チビなんてつけやがったガキもいた。人から与えられるアイデンティティなんて軽はずみなものに付き合ってられるほどおれも暇じゃない。
それにしても、ヒイロ、そんな抑揚のある声、出せたんだなぁ。ちゃんと呆れてるって感じに聞こえる。
おれが家主の新たな一面に感心していると、客人の顔の輪郭がぷくっと大きくなった。
「なんでだよ。飼い猫がノラって、お前、そんな冗談みたいな名前、付けられた奴の身にもなってみろよ」
膨れて睨み上げる客人を見て、すこーしヒイロは目を細めてる。え~と、あれだ。今日、ベッドを見てたときの顔に似てるな。
「ヒイロ?」
「…。飼ってるわけじゃない」
目を逸らして、しれっと説明なんかしてるけど、なんかまた一瞬固まってたぞ、あいつ。

まぁ、でも、そうだよ。おれは飼われている訳じゃない。雨宿りに入ったのがきっかけで、最近、ちょっと寄らせてもらったりしてるだけ。あくまでここは仮の宿りってわけさ。
客人は…デュオはああ、そういうこと、と納得したように頷いた。
「まぁなー。おれら、動物飼えるような生活じゃねーしな」
知ったような顔で、顎下を擽ってくる。おい、よせ、喉が鳴っちまうだろ。
媚びた真似はキャラじゃないので、邪険に首を反らせてやったのに、こいつは気にした風もなく、今度はおれの前足を捕まえてきやがった。こら!
「に、してもこいつ、面白い柄だよな~。ほとんど真っ黒なのに、足先のほうだけ白くてさ。なんか靴下はいてるみたいじゃねえ?」
検分するようにして前足を開いたり閉じたり、肉球をつついたり。えらく楽しげだが、こっちはたまったもんじゃない。
コノヤロー。この床、ただでさえ踏ん張りがきかねーんだぞ!
「おっと」
いい加減嫌になって、手の甲をしっかり引っかいてやった。どうだ、参ったか。
なのにこいつときたら全く平気な顔でおれを抱き上げる。くるっと抱えられて、おれは慌てて猛烈にもがいた。胸を上り、肩に手をかけると、デュオはニコニコ顔を摺り寄せてくる。耳の辺りが柔らかい感触に覆われる。実はちょうどその辺が痒かったので、ちょっと気持ちがいい。
「いい加減にしろ」
ヒイロが首根っこを掴んで、デュオからおれを回収する。背後のキャビネットの上に避難させられて、ほっと息をついた。ありがたいからいいんだけど、これはおれを背に庇っているのか、間に割り込んでんのか、どっちだ?
やつはおれに背を見せつつ腕組みして言う。
「まさか、猫と遊びに来たわけじゃないんだろう」
「まーさか。一昨日連絡した時にゃ、お前、家に猫がいるなんて言わなかったじゃねーか」
教えてくれてりゃ、キャットフードくらい買ってきたのにと笑うデュオに、ヒイロはイライラ来てる。

あ~、ヒイロ、無理無理。このタイプはお前の下手な皮肉で太刀打ち出来るような相手じゃない。野良街道を驀進してきたおれの人間観察眼がそう断言してるね。お前とこの兄ちゃんは、犬とおれたちみたいなもんさ。生き方のルールが違いすぎる。

ヒイロも多少はそれを感じてるのか、ため息をついて前髪を掻き揚げる。こいつの性格からして、このまま会話を放棄してしまう…かと思いきや、不機嫌そうに問いかけた。
「じゃあ、一体何をしに来たんだ。またおれの部屋を宿代わりにするつもりじゃないだろうな」
「ええ?いいや」
きょとんとした顔が横に振られる。同時にぴくり、とヒイロの肩が僅かに揺れたとおれは思う。
「今日の宿はちゃーんと抑えてっから心配すんな」
「………。そうか」
デュオは床の上で片膝を抱えると、少し背を丸めて笑っている。
「そうそうお前のベッドにお邪魔してちゃ、お互い暑いしな」
「……べつに」
「そーかぁ?こないだなんかは、深夜になんだか気持ちよさそうに擦り寄ってきてたから、お前のほうは案外寒がりなのかと…」
「お前には関係ない」
ぴしゃりと言い切ってるが、いや、擦り寄られるんじゃ関係あるだろ。と、猫のおれでもそう思う。が、なぜかその場はそれもそうかと落着した。なんだこりゃ。

僅かな風を感じてベランダ側を見る。窓から差し込む日差しは、ご機嫌な角度で眠りを誘うけど、ああ、それにしても、腹減ったな。おれはヒイロの硬い背中をじっと見る。微動だにしない肩越しに、明るい声が苦笑した。
「今日は、お仕事のついでにお前の様子見に来ただけだから、そう警戒するなよ」
「…用がないなら、さっさと仕事に行け」
へいへいと適当な返事をしながらも、デュオは本当に腰を上げたようだ。
おれは大きくあくびした。
人間ってやつは良く分からないと思うのはこんな時だ。
デュオの動きに伴って、ヒイロの白い横顔が見えた。
帰れ帰れと言いながら、おれの視線に気づかないほど、ヒイロはデュオに集中してる。動きを見てる。聞き耳を立ててる。
気に食わない相手だってなら、なんで全神経を注いでる?
…まぁ、おれはようやくメシにもありつけそうだし、文句なんて一言もないがね。

「あ、そうだ」
さっさと玄関に向かいかけたデュオがくるりと振り返る。
「おれの部屋、来る?」
「………。なに?」
まともに驚いてるヒイロにおれが面食らう。気づかないデュオは、そうか、こいつがどうかしてるんだな。
「いや、今回の宿ってのがさ。クライアントが五つ星のスイートに泊まるってんで、SPのおれらにも同じ階の部屋取ってくれたんだ。それがまたすげーのなんのって。ゴージャスなリビングにゃ、ウェルカムのシャンパン冷えてるし、風呂はジャグジー!!ミニバーまで付いてんだぜ!」
言いながら段々興奮してきたのか、身振り手振りを交えながらデュオは言う。パチリと片目を瞑ってみせる行為の意味が、おれには分からない。
「ルームサービスまでクライアント持ちだってのに、一人じゃもったいないだろ」
「飲む気か。仕事中だろう」
「明日の2130時までは契約どおりの仕事をするさ」
ニヤリと笑って、足を靴に叩き込んでる。ここんちは、割とルールが多い。土足厳禁はその第一条だけど、進入口さえ定まらないおれは、先だってついに特例が認可された。
「だから明日の晩……あ、なんか、予定ある?」
デュオが靴のかかとに指を引っ掛けながら、顔を上げて、ヒイロを伺い見る。上目遣いは嘘でも縋るような色になるから便利だよな。そんで、多分、ヒイロはコレに弱い。おれもまんまと居座りに成功したし。
「ヒイロ?」
「…別に」
「じゃ、決まりだ」
ほらな。
単純に嬉しそうな顔をするデュオは、左足のスニーカの紐の固さに負けてよろけてる。強引にかかとを踏みつけた。
「ささっと片付けてくるから、すっぽかすなよ?」
「調子に乗っていると、しくじるぞ」
「いいんだ」
背を丸め俯き、止めのようにつま先を床に跳ねさせながら、ふふ、と笑う。唇が一センテンス分、軽く動いた。
「…なんだ?」
「なんでもね」
聞き取れなかったヒイロにうっすら赤い顔で笑うと、デュオはするりと出て行った。

「………」
ヒイロはしばらくそのままドアを見つめて、ふとため息なんてついているから、こっちももう厄日だとでも思って諦めるしかない。いつもお世話になってる餌場を思い浮かべて、尻尾を振りながらベランダへと向かった。
耳がぴくりと動いて、背後からの言葉をまたひとつ拾う。人間の8倍は優秀な聴覚が捕まえてくるプライベートは、生憎だけど、人間語が喋れないおれじゃ、メッセンジャにはなれない。
おれは大きくあくびなんかして、さっきよりはハッキリした視界に挨拶。同じ事を呟きあう人間たちなんぞに目もくれず、明るい戸外へと身を躍らせた。