のめり込みな人生(宝探しはオモロイ・で)
やめられない、とまらない。興味をもつと、頭がパンク、お金もパンク、時間もパンクするまで止まらなくなるこの性格。歳とともにおさまるかと思いきや、ますますのパワーアップ。無いもの探しも大好きで、歩きまわって膨大な時間を使って、やっと見つけたときのあの興奮、たまりません。ほんま宝探しやで。こんな自分の人生、振り返るのも怖いけど、反省を込めつつプレイバックです!!
その1 旅行編(インド・ネパール・中国・N.Y.他いろいろ)
1976年、お金も無いのにひょんなことから行くことになってしまったネパール。ネパールはインドの首都?と、ぼけた知識を持ったままカトマンズへ。三日もたつと、100年も前から住んでたように同化してしまい、帰国の時にはネパールを離れたくないと、涙ポロポロの逆ホームシック。帰ってからは脇目もふらず旅費集め。仕事をしまくり、食費は1週間500円(週の半分は友達に食べさせてもらってた)、服は全部貰い物、家具はほとんど拾いもの。一年後貯まった小金を握りしめ、大好きな汽車に乗りたいという理由だけでまずインドのボンベイへ。汽車とバスを乗り継いで、陸路でネパールの国境越えをした時は感動でブルブル震えました。(あまりの感動に味をしめ、この後ルートを変えてのインド・ネパール歩いて国境越えを、3回もやってしまった)。
カトマンズで、ポカラで、タトパニで家族同様に接してくれるやさしい人達に囲まれて、あやしげなネパール語をあやつり暮らしているうちにお金も無くなり帰国。母親や友達には、一ヶ月、長くても二ヶ月で帰ってくるでと言って出たけれど、その時にはもう半年が過ぎていた。以後何年も同じことを繰り返す。
その2 タンカの本を探して何千里(ネパール〜中国)
3回目に行ったネパールで、タンカ(チベット密教の宗教画)の描き方を記したお坊さん用の珍しい教則本を見つけた。嬉しくて同じ宿に泊まっていた信州大の先生に見せびらかしたら、2,3日後もっと珍しいタンカの本を探してきて自慢されてしまった。他にいっぱいあるタンカの本と違い、西蔵自治区文物管理委員会編というだけあって内容がすばらしい。欲しい!その日からカトマンズはもちろんパタン、バドガオン等近郊の街にも足をのばし本屋さんを片っ端からまわったけど見つからない。
日本に戻ってからもまだしつこく探し続ける。2年後内モンゴルへ行くことになり、本場中国で探さんとどこで探すんや、と思いっきりもえた〜!!途中立ち寄った町々の本屋にも寄りまくり、大都会北京では何十件まわったかもう分かりません。本に載ってた住所をたよりに、北京にある出版元にもおしかけたけど在庫無し。日本へは鑑真丸で帰るため上海へ移動。船に乗るまでの2週間、これが最後のチャンスとがんばったかいあって、ついに発見!あんなにしつこく探しまくった本屋さんではなく、なんの気なしに入ったお土産屋さんの隅っこに、埃にまみれてころがっていたのでした。
その3 中古レコード屋数珠つなぎ(ニューヨーク)
1984年作品を数枚かかえてニューヨークへ。いろんな所へ行って絵を見て貰ってるうちに、なんか忘れてきたことに気が付いた。アピールが命のアメリカで一番肝心な作品を持ってきてない。たった一枚アメリカで使用された、メンフィスのバンド、アメージング・リズム・エイセスのレコードジャケット。出たのは1976年ごろ、もちろんとっくに廃盤やから、探すとしたら中古レコード屋しかない。とりあえず借りてたアパートの近所にある、あやしげなレコード屋に行ったけど無い。中国でのタンカ探しで学習してるから、行き当たりばったりにレコード屋回るまわるようなアホなことはもうしません。店のお兄ちゃんに置いてそうな店を紹介して貰い、無ければそこでまた別の店を紹介して貰う。こうして次々レコード屋を巡り続けるうち、いつしか14件ものりっぱな中古レコード屋リストのできあがり。結局見つからなかったけど、リストはずいぶん友人達の役にたちました。
その4 ドアーズ何もかも知りたい病(しつこく長年にわたり)
DOORS、全盛期は高校の時。LPは高すぎて、買えたのはシングル盤だけ。情報源は数少ない音楽雑誌(ミュージックライフ、ヤングミュージック等、ミュージックマガジンはまだ創刊してなかった)とラジオのみ。訳詩を読んでみれば、漢字だらけの意味がよく解らない小難しい内容。雑誌やラジオで知るドアーズは、ステージ上で警察に捕まったりコンサートのたびに暴動がおきたりと、ものすごいインパクト。破滅型のかっこよさにどっぷりはまってしまいました。ジム・モリスンは年々顔も体型も変化してゆき、71年に突然向こうの世界に行ってしまった時には、私の興味は明るく爽やかな西海岸の音楽に移行済み。
ドアーズ熱が甦ったのはビデオデッキを手に入れてから。10数年を経て突然発表されたライブビデオ。初めて動くドアーズを見たとき当時よりもっと深くキレてしまったのです。オフィシャルのビデオ、海賊盤ビデオ、海賊盤レコード・CD、本(訳本も原書もすべて)。いくら集めてもまだまだ知りたい。特に海賊盤CDは買いのがすと2度と手に入らない事もあるので、大阪、神戸、京都あわせて30件ぐらいの中古レコード屋を、毎週取り憑かれたようにまわりました。残ったメンバ−の一人、レイ・マンザレクがビデオを小出しにして発売してるけど、膨大な映像がまだあるはずや。出し惜しみするんやな〜い!!目標は、ドアーズのコンサートデータがすべて知りたいのでインターネット上にのせて全世界から情報を集めたい。(2004年追記・たった数年でこんなに簡単に検索できるようになるとは!!!)できればライブテープは、いやほんま全部欲しい!!
その5 おもちゃ・ガラクタ
おもちゃ、ガラクタは部屋にあふれかえってます。この項おわり。
その6 番外編(赤井英和〜キンキキッズ)
ナニワのロッキー赤井英和さん、試合後のインタビューで怖い顔して訳わからへんギャグ言うところも大好きでした。再起不能の新聞記事を読んだ時のあの衝撃。今思い出しても胸が痛い。映画「どついたるねん」でまた表舞台に出てきた時はほんまに嬉しかった。どついたるねんエキストラ募集のチラシは大事な宝物。赤井さんが出てはるテレビは全部見てます。
そしてキンキキッズ。別世界やと思ってたジャニーズ系アイドルに、初代ジャニーズ以来30数年振りにはまってしまった自分が信じられない。関西弁の小さくてかわいらしい二人が、大阪のテレビに出始めたころから目がはなせなかったけど、実は大きな勘違いをしてたのです。おもろい事ばっかり言うし、二人組やし、てっきり吉本興業の新人やと思いこんでしまい、歌って踊れるりっぱな漫才師になるんやでとずっと応援してたのに(一年間ぐらいは勘違いしてたかな)、ある日突然ジャニーズのタレントやと判った時はひっくり返りました。赤井さんキンキキッズ、大好きな3人が人間・失格で共演すると知った時は、この配役を決めたテレビ局の人にお中元送ろうかと思ったぐらいです。しかし放送された番組は暗くて悲惨な物語。3人とも本人とあまりに違うキャラクターのギャップに、毎回ウーウーうなりながら見てたものです。キンキキッズ熱はまだまだ冷めず今年の夏には、友人の子供からコンサートに連れていってあげるというありがたいお言葉もいただき、持つべきものは子持ちの友人。でも浮くやろなあ。(2004年追記・この文章を書いたのは97年春ごろ。その年の夏に無事初キンキコン体験。衝撃でした(^^;)。そしていまも堂本剛君大好きです。ドラマ見てるよ〜。剛君のソロCD通常盤に入ってたボーナストラックのスクリーンがすごく良い。聴いてると安らぐな〜。)
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