油たまご by グータラ・トレッカーMOROTO HOME

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日、油卵を食べた。
夕飯に野菜しか入ってないカレーうどんを作ったんやけど、蛋白質が足りないかなと思い油だらけの目玉焼きを作ってのせた。食べようと思ったら、なんや胸がきゅ〜んとしてきたの。匂いと旅の記憶が直結してるもんやから、ちょくちょくこんな事がおこるんです。
こんどは何を思いだしたんやろ。

一口食べてよみがえってきたのはネパールのジョムソン街道。1976年、二ヶ月の間に3回もトレッキングに行ったんやけど体力が無いから普通の人のペースについていかれへん。しかたがないのでポカラで地図を買って一人でブラブラ歩き始めるんやけど、街道沿いに点々とある茶屋(バッティ)を見つけるたびに、チャイ飲んでたばこ吸って休むから時間がかかってしょうがない。おまけにお昼時に見つけた茶屋でダルバート(定食)をたのんだら、出てくるのに2時間はかかる。もひとつおまけに3時ごろには歩くのをやめるから、ほんまに前に進まんかったの。でも一人っきりで歩くことはあんまり無かったな。いつも誰か道連れがいて楽しかったよ〜。

方向オンチなので道が分からなくなるとロバの商隊を探し、いなければロバのフンを確かめながら歩いた。

当時個室のある宿はほとんど無くて、ベットがいっぱいある部屋に男も女も関係なくいっしょくたに寝てた。みんなヘトヘトに疲れてるからあやしい関係にはざんねんながらなりにくい。それでも翌日の朝にはみんなでワイワイと出発するんやけど、休憩の多い私は気がつけば一人。そのうちポーターをいっぱい引き連れたテントで寝泊まりしてる人たちもやってくる。ドイツ人3人組のおじいちゃん達は、リール付きの釣竿持ってて川に近づくと竿を振ってるからペースの遅い私とちょうど合う。おじいちゃん達が雇ってたポーターの人達もみんな優しくて、増水した川をみてびびってると、だいじょうぶやからはよおいでとみんなが口々に声をかけてくれたり、手を引いてくれたりしてうれしかったな。

リュックの中はシュラフとTシャツ1枚、タオル、歯ブラシのみ。重い荷物は持てなかった。

ポカラとジョムソンとの中間地点タトパニでついに歩くのがいやんなって、スルジェロッジに3週間もいすわってしまった。ここの家族スルジェさん、平尾さん、ロミラとはいまでも続くずいぶん長いお付き合いになってます。この3週間の間に私とロミラはサギニ(義姉妹)となり客から家族待遇になりました。宿賃も食事代も受け取ってくれなくなったので表でお客の呼び込みをしたり食事の注文をとったり、いろいろ手伝ったりしたけどあんまり役にはたってなかったんちゃうかな。タトパニの意味は熱い水、温泉があるんです。川そばにある温泉浸かってのんびりしてるうちに、行きにいっしょやった人達がどんどん山を下りてきて、お前はまだこんなとこにおったんかとあきれてるんですね。やっと重い腰をあげて出発したんやけど、今度はジョムソンの少し手前のツクチェ村でひっかかってしまった。
ここにはカトマンズでお世話になったトゥラチャン一家のお母さんのやってるロッジがあって、目の前にでっかいダウラギリがそびえている。他にお客さんもいなかったので、お母さんが4才のバブ、親戚のおばちゃん達総勢10人ぐらいでヒマラヤの麓にあるりんご園に連れて行ってくれた。カレーとチャパティのお弁当もって橋の無い川を何本も渡ってやっと着いたりんご園を見た時は、ああ、ここが桃源郷やったんかと心底思ったもんです。

山ではチャイばっかりでコーヒーがあまり無かった。あっても高いのでインド製ネスカフェを買いたまに内緒でチャイにまぜて飲んだ。

だんだんパーミッションの日にちが残り少なくなってきたので、ジョムソンにはデンだけして帰りは飛ぶようにして下りてきました。トレッキングの間中ダルバートばっかやったけど、時々はぜいたくしようと、山では高価な卵を注文すると、油でべしょべょになった目玉焼きを作ってくれる。これがたまらなくおいしかったんです。あのころよりもっと体力無くなったけど、いつか又トレッキングに行きたいな。1996年記