江の島事件」教訓は何か
               田岡俊次 社会部/朝日新聞2002年1月14日
 
 10日の衆議院国土交通委員会で扇干景大臣は「江の島に不審者が上陸した」と海上保安庁に虚偽の通報をした41歳の男に対する出動経費の損害賠償請求を検討中、と述べた、巡視船艇17隻、航空機4機が出動するカラ騒ぎを起こさせた男の不届きは言うまでもないが、それに振り回された海上保安庁の判断能力の方が、大きな問題だろう。
 
 通報の内容は第一報でウソと分かるものだった。「江の島南岸から30〜40メートル先の海面に管状の船が浮上し、ウエットスーツを着た5,6人が泳いで上陸し、船は再び潜没した」との内容だったが、江の島南岸は200メートルほど沖まで海底に岩礁があり、付近の水深は5〜10メートルだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型潜水艇でも船底から司合塔まで8メートル近くはあるから、岸から30〜40メートルまで潜航して接近するのは不可能だ。一方数百メートル沖に浮上したなら冬の夜7時には見えまい。しかも1キロほど沖には定置綱がならび、江の島を母港とするヨットの艇長や漁師以外は夜には抜けにくい。潜望鏡に頼れば綱にかかる公算が大だ。
 また城ケ島沖約4キロに停泊していた北朝鮮貨物船ソナム号は、翌日船橋港に入港予定だったから、工作員が上陸するなら船橋でひそかに下船すればよく、潜水艦を使う必要はまずない。少し後には、ソナム号が城ケ島沖に投錨したのは6日の午後6時40分と分かった。江の島に潜水艇が”出現”する20分前だ。この間に25キロを走るには時速75キロ、水中速力40ノットの”超高速潜水艇”が必要だ。実際には北の潜水艇の水中速力は最大8ノットだ。
 
 この通報はまるで「強盗が幅1メートルの路地を大型の現金輸送車で逃走した」というほど漫画的で、海や船の知識がある人はまずだませまい。もちろん海上保安庁にも海図はあり、相模湾に詳しい人もいて、通報を疑問視する声もあったようだが、通報から9時間も後にも組織としては虚報と気付かず、翌日6時15分に「江の島不審者対策室」を設置した。船橋に入ったソナム号の捜索も行ったが何も発見できなかった。
 通報者が本当の住所、氏名を明らかにしてウソの通報をするほど非常識だったこと、偶然北朝鮮貨物船が城ケ島沖に停泊していたこと、そして先月22日の不審船撃沈事件の直後の緊張感が冷静な判断を妨げたのだろうが、現実の有事の際には偽情報や誤報が乱れ飛ぶのが普通だ。第−次大戦では英国が米国に参戦させようと、独Uボートの行動に関して偽情報を流した例すらある。危機管理は単に迅速に行動すればすむものでは全くない。多数の情報の真偽を冷静に検討しつつ的確に行動する必要を示した一種の演習だつたと言えよう。
 
 
公海の自由」と不審船対策
    田岡 俊次(社会部)
     (2001年12月30日/朝日新聞、田岡俊治氏)
 22日、東シナ海で起きた不審船事件の後、こうした船に
対し一層厳しい措置を取れるようにする法制の必要が論じ
られている。だが沿岸12カイリ(22キロ)の領海と200カイ
リ(370キロ)の排他的経済水域(EEZ)との根本的な違いを無
視するような説もある。
 領海内は日本が主権を持つ領域だが、国連海洋法条約に
よるEEZ内では沿岸国は漁業や鉱物資源の探査などの経済
活動を規制できるにすぎない。今回最初に不審船を発見した
のは奄美大島の北北西約150キロだから領海のはるか外の
EEZ内だ。それが沈没したのは日本から400キロも離れた
中国の寧波沖だ。
 不審船が工作員を上陸させることを狙ったり、覚せい剤
を密輸しようとしたりしても、本来日本の警察権の及ばない
公海で取り締まりはできない。そこで、不審船が漁網を積まず、
本当は漁船でないと知りつつ、漁船の船型であるのを口実に
漁業取り締まりの名を借りて停船を命じた。相手が逃走を
はかると射撃して火災を起こさせ、強行接舷で乗り込みを
図ったのに対し相手が反撃すると、186発の機関砲射撃を
加えて沈めたか、自沈させた。
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が関わりを否定したか
ら国際裁判にはなりそうにないが、これが先例となり、EEZ
から逃走する外国船に対し船体射撃を行わないと「弱腰」
と非難されることになれば、いずれ大問題を起こす可能性
がある。また不審船が漁船の型でなく、貨物船などならEEZ
内での取り締まりの口実もなくなる。
 EEZの中で不審な船に対し、もっと容易に射撃できるよう
に法改正しては、との論も出るが、本来取り締まりの対象
となりうるのは漁業などの経済活動だけだ。日本が海洋法
条約に反する国内法を制定することはないだろうが、沿岸
200カイリまでを事実上の領海視するような言説や行動は
「公海の自由」の原則を危うくし、日本に不利だろう。
 従来、開発途上国は概して領海幅を拡大しようとし、海
軍力や海運、漁業で優位に立つ先進国はできるだけ制限し
ようと努めてきた。年間7億トンの物資を輸入し、便宜上の
外国籍船を含めると有数の海運国である日本にとって「公
海の自由」は死活的国益だ。
 海洋大国の日本が事実上領
海を拡大するような動きを示
せば、一部の国の軍艦・公船
はしめたとばかりにEEZ内
の公海を通る外国船に言いが
かりをつけて停船させるよう
な行為に出かねない。
 国際法を誠実に順守するこ
とを国是とする日本としては、
不審船が領海に接近するのを
できるだけ確実に把握する情
報態勢を整えて監視を続け、
相手が領海に入ったところで
取り締まりに着手する方が法
的にすっきりする。