IMFとアジア通貨危機・金融危機

〜タイ・インドネシア・韓国を比較して〜

T. はじめに

 最近、「『東アジアの奇跡[1]』は幻想だった。」と言われる。しかし本当に幻想であったのか、そしてもし幻想であったとしたら、それをなぜ経済状況把握のプロである投資家達が信じてしまったのか。経済状況の悪化で不況傾向になること、その結果の通貨切り下げなどはよくあることであるのに、どうして投資家達は一斉に引き上げてしまったのか、震源地タイからアジア諸国へなぜ飛び火していってしまったのか、そしてそれはなぜ1997年夏におこったのか。

また、「危機」の原因はどの国でも同じだったのだろうか。もし同じであると仮定すれば、IMFの支援プログラムで一国がうまくいきだせば他国もすべてうまくいくようになるであろう。しかし実際はタイ・韓国などの国々は回復傾向にあるものの、インドネシアはまだ経済的にも政治的にも不安定な状況にある。また、マレーシアはIMFのプログラムを受け入れず独自の方法で回復し始めた。そのようなことを考えると、「危機」の原因は各国で違っていたと考えられる。それでは、IMFの支援プログラムは各国の経済状況、社会状況にあっているのであろうか。

 このレポートではタイ、インドネシア、韓国の3カ国に焦点をあてる。この3カ国を選んだ理由としては、タイは今回の通貨・金融危機の震源地となったため、インドネシアはそれにつられて危機がおきたが、いまだにそれを引きずっているため、韓国はタイ・インドネシアと異なり順調かつ堅実に経済成長がおきていたと思われていたのに危機がおこったこと、そしてその危機がタイでの危機発生から4ヶ月もあとだったため、ということがあげられる。この3カ国を比較しながら、最初に通貨・金融危機の原因を分析し、その上でIMFの支援プログラムは適切なものであったかを分析していく。

 

 

U. アジア通貨・金融危機の発生要因

 東アジア地域では1980年代より高度経済成長を実現し、1990年代になってからも成長は続いていた。それに対し、世界は「東アジアの奇跡」と賞賛し、ラテンアメリカ地域などの新興市場とは状況が異なるとし、1990年代初めから中頃にかけて急速に多額の資本が流入するようになった。東アジア経済の特徴として、貯蓄率が高いこと、財政黒字であること、経常収支が良好であること、経済成長率が非常に高いこと、があげられており[2]、そのため経済状況が良好と判断されていた。アジアの経済を良好と考えていたのは果たして間違っていたのか、そしてなぜアジア通貨・金融危機が発生したのか。タイ・インドネシア・韓国の共通点と相違点を考えつつ、以下3つの側面から分析していく。

 

 

 

(1)      マクロ経済的側面

@          経済ファンダメンタルズ

   東アジア地域は長期にわたりきわめて高い実質経済成長率を維持してきた。

タイの実質GDP成長率は1990年に11%を超え、その後も8%代で推移していた(グラフU−1参照)。しかし1996年には6%代におちこみ、経済危機前に成長が鈍化していたことがわかる。それは輸出低迷(グラフU−2参照)によるものと考えられる。その要因としては、成長を先取りした賃金上昇、輸出の17%をしめる繊維、衣料品、履物が1994年1月の元切り下げにより競争力をつけた中国の市場進出により価格競争力を失ったこと、そして2桁台の輸出増加率を牽引してきた半導体やICが世界的需要の低迷に加え、アジアでの生産設備過剰による製品価格の急落により逆に輸出の足を引っ張ることになったことがあげられる。

インドネシアでは通貨危機以前に実質GDP成長率と輸出の伸び率の大きな変化はみられない。

韓国でもタイと同様、1996年に実質GDP成長率と輸出の伸び率が落ち込んでいる。輸出伸び悩みの直接的原因は半導体をはじめとする中核輸出産業の不振にあったが、プラザ合意以後の円高・ドル安基調が1995年後半に反転したことで韓国輸出産業は対日競争力を減退させたこと、そして1990年代に入ってからの国際競争力の弱化が遠因となった[3]

以上のように経済ファンダメンタルズにおいて、タイと韓国で1995年頃からかげりが見えていたことがわかる。

A          経常収支

   東アジア地域では国内投資比率と粗国民貯蓄比率はどちらも高水準を達成し維持していたが、国内投資比率が粗国民貯蓄比率を上回ったため、経常収支が悪化した。特にタイでは経常収支の悪化はひどく、対GDP比でマイナス8%に達することもあった(グラフU−3参照)。しかし、タイとインドネシアに関しては高い民間投資が高い民間貯蓄を上回ったのが原因であり、いずれは生産性を高め、輸出を増加することでこの投資・貯蓄ギャップを縮小して、外貨準備を蓄積することが予想されていた。

   現に、経常収支は悪化する傾向にあったが、資本収支が改善する傾向を示していたため、東アジア地域の外貨準備は1980年代から一貫して増加傾向を示している(グラフU−4参照)。このことは多額の資本の流入を意味し、特に、短期資本の流入が多かった(グラフU−5参照)。その理由として次の5点があげられる。第一に、東アジア地域のマクロ経済が安定していたため、豊富な投資機会が存在すると考えられていたこと、第二に、固定為替レート制度の下で、国内の高いインフレ率を反映して名目金利が国際的に高かったため、内外金利差が大きくなったこと、第三に、1994年から1995年におこったメキシコ危機によりメキシコに投資していた投資家がアジアに流れてきたこと、第四に、日本からの直接投資の増加、第五に、高成長を持続させるために東アジア地域各政府の海外からの借り入れ推奨政策をとっていたということである。このことは自国通貨に対する投機的攻撃がおこって資本流入傾向が突然逆向きになる場合に、短期対外債務額が外貨準備高を上回る状態に近いタイ、インドネシア、韓国では債務不履行になる可能性が高かったことを示している(グラフU―6参照)

   今回のアジア通貨危機では経済ファンダメンタルズのかげりを原因とする1996年のタイ企業財務状況悪化を、ヘッジファンドが見逃さずにいっせいに引き上げたためにまずタイが債務不履行になったと考えられる。

 

(2)      国際貿易的側面

@          為替制度

   東アジア地域は具体的な方法は国によって異なるものの、事実上の固定相場制を維持していた[4]。タイでは1984年より通貨バスケット方式を採用していたが、米ドルの比重が80%をこえていたため事実上のドルリンク制であった[5]。インドネシアでは名目為替レートを自国と米国のインフレ率の格差分だけ切り下げることで実質為替レートを固定する政策をとっていた。韓国では1990年から前日の市場レートの加重平均値を中心に一定の変動幅を許容する制度を採用した。

   固定相場制は多額の資本が流入した場合、マネーサプライの増大を抑制しなければならないという中央銀行のバランスシートの健全性を損なう可能性のある政策を行わねばならない。また、公開市場操作を十分実施できるほど債券市場が発達していない場合には、マネーサプライが貨幣需要を上回り、インフレ圧力が上昇して実質為替レートが上昇することになり、それが続くことになると、投機攻撃の対象になってしまう。

   実際、アジアの実質実行為替レート[6]1990年代前半は安定していたが、1995年頃から増価している(グラフU−7参照)。特に、タイとインドネシアでは増価傾向が強い[7]1994年から1995年初期にかけて米ドルは減価し、インドネシアやタイなどの米ドルに密接にリンクしていた地域では実質実行為替レートが減価して国際競争力が高まった。しかし、1995年半ば頃からは米ドルが円に対して増価したので、日本に対する輸出が大きな割合を占める[8]これらの地域の国際競争力は低下し、実質実行為替レートは増価したのである。この増価は均衡水準そのものの増価とは考えられず、この時期、アジアの実質実行為替レートは過大評価されていたと考えられる。そのため債券市場が発達していないアジアの国々では実質実行為替レートを一定に保つことは困難であり、一度崩れ始めると変動相場制にするほかなくなってしまった。

   今回、タイでは自国の為替制度を維持しようとタイ中央銀行がドルの供給を行っていたが、外貨準備が底をついてしまったために変動相場制に移行せざるをえなくなった。

A 過剰借り入れ(Over Borrowing

アジア通貨危機はマッキンノン=ピルのオーバー・ボローイング理論[9]にあてはまるとも考えられる。第一に、1990年代のアジアは国内産業の自由化、国からの独占的なライセンスの提供などで新技術を導入する投資機会が増大していた。第二に、1993年3月にBIBF[10]が設立されるなど、金融資本市場が自由化されることにより、アジアの優良企業は金利の低いドルローンを利用できるようになった。第三に、輸出産業などの一部の産業をのぞくほとんどの産業は外資出資比率規制などにより外資に制限的であり、地場資本が特権的に進出できた。さらに、「東アジアの奇跡」という言葉がしめすように良好な経済ファンダメンタルズに基づく「過剰な期待」とASEANにおける域内貿易自由化の促進、韓国のOECD加盟、APECにおける貿易自由化により将来予想されるアジア企業の産業覇権争いにむけての「焦り」という二つの要因により形成された「市場の失敗」が加わり、オーバー・ボローイングがアジアで発生したと考えられる。この状態下でもしその国の通貨が下落すれば、優良企業と金融機関は対外債務の支払負担から経営危機に見舞われ、その国の経済は混乱する。この現象は3カ国の中ではタイと韓国にみられた。

タイと韓国では、通貨安定の下、外国銀行による国境を越えた融資増大が顕著で、これが信用拡大(グラフU−8参照)、投資拡大(グラフU−9参照)を支えていたと考えられ、オーバー・ボローイング状態が発生していたと考えられる。タイではこれに1996年の企業財務状況の急変がおいうちをかけ、アジア通貨危機を招いた。一方、インドネシアでは、信用拡大があまりおこっていなかったためオーバー・ボローイングは発生していなかったが、国境を越えた外国銀行融資の増大(グラフU−10参照)はタイや韓国と同様であるため、通貨が下落すれば、企業の財務は悪化する状況にあった。そのためタイの危機ののち、伝染してしまったと考えられる。

 

(3)      不良債権問題

タイと韓国では、信用ブームの下での資産の質の悪化、1996年から始まった経済成長の鈍化、不動産市場と株式市場の低迷で、通貨・金融危機が発生し、銀行部門の問題が顕在化した。株価の動向に関してはタイでは1994年、韓国では1995年から下降傾向がみられ、特にタイでは大幅に下落したが、その一方でインドネシアでは株価は安定していた。

タイの銀行部門はBIBFを中心に外貨建てで資金を調達し、ノンバンクへ外貨建て貸付を増加させた。ノンバンクの融資は不動産に集中したが、輸出の不振と不動産市場でのブームの終焉によって実質GDP成長率が低下することで、これらの貸出債権が焦げ付き、不良債権比率が高まった上に、ノンバンクの経営が悪化し[11]、不動産バブルが崩壊した。

インドネシアではファミリービジネスなど採算性への考慮を欠いた過剰投資がおこなわれていたが、それを助けるために国家主導の貸付や政治的圧力による不健全な貸付が行われた。実際、1993年になると全貸付残高に占める不良債権比率は25%を超え、その後落ち着いたといえども、15%という高い水準であった。それにもかかわらず、政府は債務超過の金融機関に対して中央銀行の流動性支援を通して支援を継続したため、タイや韓国のように株式市場は下落しなかった。

韓国では、企業における過度な負債に依存した財務構造の悪化がおこった上、各財閥グループが傘下企業間で相互債務保証を行っていたために連鎖的な不渡りや倒産、中には黒字倒産まで招く事態となった[12]。そのため金融機関は多額の不良債権を抱えるようになった上に、外貨の過度な借入れをおこなっていたため、金融機関も次々と破綻していった。対外信用度は低下し、外貨資本は流出、それにより株式と為替は下落した。

 

(4)      まとめ(表U−1参照)

以上の3側面から分析すると、経済状況良好と判断されていたアジア経済は1990年代後半になると実はかげりがでていたこと、ヘッジファンドがそのかげりに気がつきタイから引き上げたことで、水面下にあった様々な問題が一気に表出してしまったこと、タイを震源とした今回の通貨危機は各国の事情によって主な原因が異なっていることがわかる。

タイではマクロ経済状況の不均衡が支えきれなくなり通貨市場における破綻につながっていった。インドネシアでは政情不安が広がっていた上に、巨額の対外債務が経常収支赤字を招き、それがさらなる対外債務を招くという悪循環がおこっていたが、タイ発通貨・金融危機によりそれが一気に顕在化したといえる。最後に、韓国は国内マクロ経済が安定しており世界からの信頼も得ていたが、構造的な欠陥から企業破綻、金融破綻がおき、対外信用度がおちてしまい、外貨資本が流出してしまったことで破綻をきたしたといえよう。

 

V. 3カ国に対するIMF支援プログラム

IMFは1997年8月20日にタイ、11月5日にインドネシア、12月4日に韓国と3年間にわたるスタンドバイ融資[13]協定を締結した。その後、インドネシアだけは1998年7月に拡大ファンド(Enhanced Structural Adjustment Facility, EASF)融資[14]に転換した。IMFの融資額は、それぞれ40億米ドル、100億米ドル、210億米ドルという多額なものであった[15]。アジアにおけるプログラムは詳細で包括的な内容となっていること、また、プログラム期間内に大幅に内容が修正されたこと、という二点が従来のプログラムと違う点である。しかし、経済状況はなかなか回復傾向にはならず、度重なるプログラムの変更が余儀なくされた。ここでは3カ国の通貨・金融危機の原因の違いを考慮しつつ、プログラム変更の変遷、プログラムの問題点をのべていく。

 

(1)      IMF支援プログラムの変遷(表V−1参照)

3カ国に対するIMF支援プログラムの当初の目的は通貨に対する信認を回復し、経済の安定化を図ることとされた。具体的なプログラムの内容は@変動相場制の維持、A通貨の安定化と無秩序な銀行への流動性支援の回避を目的とした金融引締め政策、B金融部門の構造的な問題の改善、C経済成長を阻害する構造的障壁[16]の撤廃、D財政引締め政策、を中心として構成された。特に、Bの金融部門の構造改革として、債務超過におちいっている金融機関の精算と閉鎖[17]、金融機関の正確な経営状態の把握、適切な規制と監督の強化、バランスシートの改善などが優先的項目とされた。ただし、タイ発通貨危機以前の為替相場は韓国ではタイ・インドネシアと違い安定しており、通貨危機発生後に為替相場は下落したものの、他の問題を解決すれば為替相場は自然と安定するものと考えられたため、@はプログラムに含まれていない。

しかし、このようなプログラムを実施したにもかかわらず、日本の景気後退の長期化、国内の政治的問題、近隣諸国への波及も重なって、3カ国の経済状態は改善しなかった。そのため、当初IMFが予想していた以上に経済状態が悪化し(表V―2参照)、プログラムの修正は不可避となった。また、各国の主導で改革を加速化することも必要となったため、タイでは1998年2月、インドネシアでは1998年1月、韓国では1998年2月に包括的な金融構造改革プログラム[18]が作られた。

1998年のプログラムにおける基本的な修正点は@増大する失業者や悪化する所得格差に対処するためのソシアル・セイフティネットの拡充、A金融部門の構造改革の加速化と包括化、Bソシアル・セイフティネットの拡充と金融部門の構造改革に必要な支出を維持するために財政政策の緩和、C金融政策の緩和、D企業部門対策、E市場メカニズム作用の重視、Fより開かれた市場への転換、などである。Aの金融機関の構造改革では、それまでのようにバランスシートの改善だけではなく、改革に必要な法律的・制度的側面の整備を行う必要性も確認された。

@については、各国の特殊な経済環境を反映してかなりの違いが見られる(表V−3参照)。ソシアル・セイフティネットが韓国に比べて不充分なタイとインドネシアでは医療・教育サービスの充実を図っている。また、失業保険制度が存在している韓国では、既存の制度の拡充と職業訓練の促進によって労働市場を柔軟化することが失業対策の中心となっている。それに対して、そうした制度が未整備のタイやインドネシアでは公共事業の拡大による雇用の拡大、既存あるいは新規自営業への融資が主要な失業者対策となっている。

なお、Bについては韓国では行われていない。これはタイ・インドネシアに比べ通貨危機前の経済ファンダメンタルズと経済水準がよいためソシアル・セイフティネットにそこまで費用を費やさなくてもよいからと考えられる。

Dについては当初のプログラムではあまり重要性が認識されていなかった点である。当初のプログラムから重要視されていた金融部門の構造改革が軌道に乗ったために、Dは強化されるようになった。特に、「ロンドン・アプローチ」と呼ばれる債権者と自発的な債務交渉に基づくデット・ワークアウトという方法が中心となっている[19]

この3カ国においては、構造改革の重点の置き方や取り組みの姿勢に若干の違いがみられる。タイでは、外資の参入自由化や中小企業の支援策に重点的な取り組みがなされている。インドネシアでは、国営企業の民営化及び民間企業の債務再編を重要課題とし、外国からの信用を回復することを目指している。韓国では財閥改革を中心とした企業部門の経営効率改善や労働市場改革、外資規制の緩和において進捗がみられる。

3カ国のマクロ経済情勢は次第に安定化してきている。特にタイと韓国では1998年前半から金融機関の不良債権問題や企業債務問題が深刻化したが、為替レートの安定化、金利の低下、株価の回復基調がみられている。すなわち、アジアは1998年を底とした「V字型」の経済成長を達成したとも言える。こうしたなか、3カ国の現在のプログラムは内容の比重がマクロ経済政策から構造改革に完全に移行している。

(2)      プログラムの問題点

問題点が6点指摘できる。

第一に、IMF支援プログラムは支援要請国に対する政策勧告に際し同一形態ではないとしても、現実的にはあらゆる国に対しほぼ同一規模の調整を実施しているということである[20]。東アジア諸国はラテンアメリカ諸国とは異なり財政黒字を維持しているにもかかわらず、IMFはラテンアメリカ諸国で成功したとされる緊縮財政政策と金融引締政策という伝統的アプローチにこだわって東アジアにも適用してしまった。そのため、東アジア諸国経済の再生は難しくなり、政府支出の削減は経済をさらに困難な状況に陥れることになっている[21]。特にインドネシアにおけるような厳しい構造改革を求める政策が通貨危機の渦中にある国の市場の信認回復に必要ではないと考えられる。今までの経過をみてみると、IMFはプログラム変更を繰り返すなど、各国の直面した危機の性質、回復状況などをある程度とらえて政策を決めようとしていることがうかがえる。ただ、それが状況をしっかりととらえられているかは疑問が残る。

 第二に、タイとインドネシアでは預金保険機構が未整備であるため、現在では政府が広範囲の預金者と債務者に保証を与え、預金者による預金引出しが急増するような有事の際には流動性支援を行っている。さらに、アジア通貨危機に対する巨大な公的資金投入で、自国がだめなら他国が助けてくれると思うようになっている。これらが意味することは二重にモラルハザードの危険性が生じているということである。早急に預金保険機構の創設をおこない、救済される部分とされない部分が存在するということをはっきり示さなければならない。

 第三に、金融部門の構造改革に必要な政府機関の創設や民営化、合併、外資参入などを可能にする関連法案の成立や実行が遅れていることにより、改革のスピードが決して速いとはいえないことである。遅れた理由としては、改革における制度的・法律的側面に対する重要性がプログラムの作成当初から認識されていなかったこと、インフラを整備するには国会の審議にかけなければならず、それには長い時間がかかることなどがあげられる。

  第四に、企業改革は企業債務問題への対処が中心となっており、企業の経営状態の改善、利益水準を引き上げる政策などは十分に行われているとはいえないということである。例えば、タイやインドネシアのプログラムでは外資参入規制の緩和や国営企業の民営化に焦点があてられ、中小企業の経営の建て直し、十分な融資の提供などが行われていない。

第五に、資本流入規制を行うべきではないかということである。そもそも今回の危機の主な原因の一つは資金の急激な流出だったのだから、このような危機を予測するには資金の流入を規制、あるいは少なくとも監視すべきである。マレーシアはIMF介入なしに資本流入規制を成功させてしまったが、IMFが監視あるいは規制をやるべきとも考えられる。

第六に、ソシアル・セイフティネットを早急に充実させることはタイ・インドネシアにおいて本当に必要なのかどうか、ということである。失業保険の手当を増やせば増やすほど失業者の失業期間が延びるなどのモラルハザード発生と同じで、タイ・インドネシアでソシアル・セイフティネットを充実させすぎると、国民自らの努力というものがなされなくなるというおそれがでてくる。財政政策を緩和させてまでそれに費用を費やす必要はないと思われる。

 

(3)      まとめ

以上のように、当初プログラムはマクロ経済政策面の比重が高く、通貨の安定が求められていたが、通貨が安定した1998年後半頃からは構造改革に重点が置かれている。IMFの支援プログラムは当初の想像以上の景気悪化によりたびたび変更せざるをえなくなり、結果としてプログラムの信頼性が弱まったと考えられる。すなわち、今回の危機におけるIMFの対応は政策の優先順位や順序付けを十分に検討しないままにプログラムを実行し、新しい問題が発生するとそれに対応するかたちでプログラムの変更を繰り返しており、その危険性が明らかになったといえる。

タイ・インドネシアと韓国とは通貨・金融危機以前の経済水準が非常に異なるため、IMF支援に大きな違いが出てきているが、タイとインドネシアでは多少の違いしか存在しない。しかしこの2国間には危機の原因、危機以前の経済水準などに違いがあり、これらの違いを無視したIMFの支援プログラムがインドネシアの回復がタイの回復より遅れた理由の一つとなる。例えば、インドネシアはタイのように金融機関の信用残高が高くないのにもかかわらず、早急に銀行を閉鎖してしまったため、預金者が銀行から離れてしまい、経営状況が正常であった銀行まで経営が悪化してしまったことなどがあげられる。このように、IMF支援プログラムはある一定の成果は認められるが、多くの問題点をかかえている。

 

 

W. おわりに

アジア通貨・金融危機は「アジアの奇跡」という言葉が示すようなアジア経済の良い面が隠していた様々な問題が急激に表出化したことによりおきたと考えられる。一つ一つの問題は決して大きいものではなく、やがては経済的均衡に落ち着くであろう問題だったと考えられる。それらの問題が一気に出現した場合というのは今までの理論経済学者、そして現在政策決定を行わねばならない人々の仮定をはるかに超えたものであった。だからこそ、その解決法は誰も知るよしもなく、IMFが支援プログラム変更を何度となく重ねたのは不可避であった一面もある。そしてその状況を作り出した一番の原因はヘッジファンドの引き上げであるが、1996年のタイの企業財務状況が悪化していたからとはいえ、なぜ急に引き上げてしまったのか、そしてなぜタイだったのか、いまだに疑問が残る。

IMF支援プログラムはある一定の成果をあげていることは確かであるが、多くの問題点を抱えている。その問題点の中には、想像もつかなかったものもあろうが、各国の危機のおきた原因や危機以前の経済状況を把握していれば生じなかったものが多い。この点からみればIMFの対応は適切だったとは言いがたい。

IMFのプログラムにおいて最も疑問が残ったことは、ソシアル・セイフティネットの拡充である。経済水準の低さは理解できるが、そのために財政政策の緩和まで行う必要がどこにあるのだろうか。モラルハザードがおきない程度に行うべきであり、IMFあるいは各国政府が重要視しすぎるのは間違っていると思われる。

現在、アジアは世界的なIT関連機器等の需要増と東アジア域内貿易の回復による輸出の大幅な増加や在庫調整の終了[22]、そして個人消費の増加により、1998年を底とした「V字型」回復を遂げている。しかし、現在の景気回復は必然ではなく、構造改革を推し進めなければこの成長は維持できないことは明らかであるのに、構造改革がなおざりにされ始めている。IMFはそれを阻止すべく行動すべきであろう。

今回のIMFプログラムに対しては様々な問題、批判がみられたが、中長期的な課題である構造改革に取り組むという姿勢を見せたことには一定の意味があったと考えられる。ただ、IMFも事後的評価で自ら認めているように、プログラムにおいて各国のその時々の実情を良く観察し、優先順位を明確にした上で長期的に問題に取り組んでいくことが重要である。第二のアジア通貨危機がおこったときに失敗を繰り返さないために、早急なIMFプログラムのガイドライン見直しが必要である。そして、経済が複雑化していく中で、IMFは世界銀行、各国政府、民間関係者などとのつながりを深めていくことが求められている。

 

 

X. 参考文献

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          長谷川慶太郎『アジアの悲劇‐見えない終末‐』東洋経済新報社、1998

          平田潤編著『検証アジア経済』東洋経済新報社、1998

          国宗浩三編『97/98アジア経済危機‐マクロ不均衡・資本流出・金融危機と対応の問題点‐』アジア経済研究所、1998

          福島光丘、滝井光夫編『97年アジア通貨危機‐東アジア9ヶ国・地域における背景と影響を分析する‐』(アジ研トピックレポート)アジア経済研究所、1998

          吉川久治「東アジア通貨・金融危機と資本勘定の自由化−タイ、インドネシア、韓国の経験を中心に(2)−」『アジア・アフリカ研究』第355号、2000

          白井早由里「IMF支援プログラムにおける構造改革」『アジア・アフリカ研究』第353号、1999

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          鄭章淵「IMF管理下韓国の経済改革」『アジア・アフリカ研究』第352号、1999

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          Bandid Nijathaworn「タイとアジア危機‐問題の展がりと政策対応に関する考察‐」『東アジアの動向と課題1999』国際開発高等教育機構、1999

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          玉木林太郎「アジア通貨危機とIMFの対応」『経済セミナー』日本評論社第521号、1998

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          FRI研究レポートメニュー http://www.fujitsu.co.jp/hypertext/fri/reports/main.html

          第一勧業銀行「アジア通貨レポート」http://www.dkb.co.jp/interest/asia/index.html



脚注

[1] 世界銀行が1995年に「アジアの奇跡」というレポートを発表したことにより、この言葉はよく使われるようになった。

[2] これに対して、同じように新興市場であるラテンアメリカでは貯蓄率は低く、財政は赤字となっており、また経常収支も赤字であった。

[3] H.スミスは韓国の輸出が1990年代前半にドル表記で増加が見られなかったとし、同時期の韓国国際競争力の低下を1997年経済危機の原因のひとつとしている。具体的には、実質実行為替レートの上昇、主要輸出品目価格の下落、相対的単位労働コストの上昇の3つを競争力低下要因としてあげている。

[4] 東アジアの国々が事実上の固定相場制に固執したのは、固定相場制は海外からの資本流入を増大させ、海外資本の流入が投資を増大させるという「ワシントン・コンセンサス」が影響していると考えられる。

[5] 通貨バスケットの構成比の決定にあたっては1984年当初、タイの主要貿易相手国貿易量加重平均によっており、当時の対米貿易の全体に占める構成比は14%程度でありドル以外の主要通貨の構成比が高かったことから1985年のプラザ合意以降の急激なドル安局面では対米ドルでバーツが上昇することになった。そのため、タイ政府は同年末に輸出競争力を高めるために通貨バスケットの構成比の決定にあたって、米ドル構成比の高い貿易決済通貨量の加重平均に変更してしまった。この変更により、バーツはより強く米ドルに連動することになり、事実上のドルペッグ制となった。

[6] 自国の物価水準を貿易取引諸国の物価水準を自国通貨で表示し貿易額で加重平均した平均物価水準で割って推計されるもの。

[7] 1995年中期から1997年中期の実質実行為替レートの累積増価率はタイで17%、インドネシアで15%、韓国で4%となっている。この差異は為替制度の選択と関連しているとみられている。すなわち、比較的厳格な固定相場制を採用したタイ、インドネシアでは実質実行為替レートの変動は大きかったが、名目為替レートの比較的大きな変動を許容する政策を採用した韓国では、そこまで大きな変動にはいたらなかった。

[8] 1996年タイの対日本輸出は全体の16.8%、インドネシアの対日本輸出は全体の28.8%をしめていた。

[9] 1994-1995年のメキシコ通貨危機を研究したマッキンノン=ピルは優良企業が新技術を導入するため海外に資金源を求めるようになり、一般企業の地場金融機関への資金アクセスが容易になると、投資収益率の低い事業やリスクの高い事業に資金が流れ、経済が実力以上に借り入れてしまうオーバー・ボローイングが発生すると主張し、3つの条件を挙げた。第一に、新技術を備えた投資を行う機会が到来すること。第二に、国内金融市場より低い金利の海外金融市場にアクセスできるようになり、開発途上国も金融抑圧の状態から解放されること。第三に、外国企業の参入に対して制限的な外資規制があること。以上の3条件に「過剰な期待」が加わるなど、「市場の失敗」が発生するとオーバー・ボローイングが発生するとしている。ただし、このモデルは通貨が安定しているという条件の下でのみ発生する。

[10] Bangkok International Banking Facilities(バンコク・オフショア金融センター)の略。

[11] 1997年6月にはノンバンク16社が営業停止命令を受け、さらに8月5日にはIMFの要求により42社が営業停止命令を受けた。

[12] 1996年には30財閥の純利益がゼロに近づき、1997年初めにこのうち6企業が倒産し、不良債権比率は1997年には14〜30%に達した。

[13] ブレトン・ウッズ体制下の1952年に創設されたもの。一時的に外貨準備が不足した加盟国の対外不均衡を修正することを目的とした経済政策から構成され、対象国は中・高所得国が多く、市場金利で融資し、プログラムの実行期間(融資期間)は1〜1.5年とされた。また、融資の継続を判断するプログラムのモニターのタイミングを四半期ベースとし、債務支払は融資を受けてから3.25〜5年以内に完了することと規定された。

[14] 石油価格の上昇による交易条件の悪化によって国際収支問題に直面する国が増加した1974年、生産、貿易、価格における様々な構造的なディストーションが原因で国際収支問題に直面する発展途上国に、構造的な内容を含めた中期プログラムを用意する必要が生じたためできたもの。市場金利の融資でプログラムの実行期間は3年とし、債務支払期間を4.5〜10年と長期化させた。

[15] IMFの支援の他にも次のような金融支援が決定された。タイには、日本40億米ドル、オーストラリア・香港・マレーシア・シンガポール各10億米ドル、インドネシア・韓国各5億米ドル、世界銀行15億米ドル、アジア開発銀行12億米ドル、総額172億米ドルがおくられた。インドネシアには、シンガポール50億米ドル、日本50億米ドル、アメリカ30億米ドル、オーストラリア10億米ドル、マレーシア10億米ドル、世界銀行・アジア開発銀行合計80億米ドル、金額は公表されていないが中国・香港がそれぞれ補完融資に加わった。韓国に対しては、世界銀行100億米ドル、イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・カナダ・オーストラリア・オランダ・ベルギー・スイス・スウェーデン・ニュージーランド合計231億米ドル、日本100億米ドル、アメリカ50億米ドルがおくられた。

[16]独占、貿易障壁、不透明な企業経営など

[17] タイでは1997年6月から8月にかけて営業停止処分にした58社の金融会社のうち2社を除いて同年の12月には閉鎖した。インドネシアでは1997年11月に16行の銀行を閉鎖した。韓国では1997年12月に14行の銀行を営業停止処分にし、1998年1月にはこのうちの10行を閉鎖した。

[18] 金融部門の構造改革を促進するために3カ国は必要な制度的・法律的な整備に取り組んだ。特にタイとインドネシアでは構造改革を監督・管理する政府担当局であるFRA(タイ金融再建庁、1997年10月設立)とIBRA(Indonesian Bank Restructuring Agency, インドネシア銀行再建庁、1998年1月)を設立した。

[19] ロンドン・アプローチとは、1989年からイギリスが採用している政府主導型の企業債務処理方法である。原則として、債権者が債務者に信用提供を継続すること、裁判所外での解決を求めて交渉を行うこと、債務者に関する情報は全ての関係者の間で平等に共有されること、再建の優先順位は先に発生した順位で決められることと定められている。

[20] この主張はハーヴァード大学のサックス教授らによるIMFプログラムへの疑問が皮切りになった。同じくハーヴァード大学のマーティン・フェルドシュタイン教授も「アジア通貨危機とIMFの誤診(‘Refocusing the IMF’, Foreign Affairs, March/April, 1998)」の中で「IMFは、東欧や旧ソビエトにとったのとほぼ同じ手法を現在、東南アジアと韓国に適用している。」とのべている。

[21] スティグリッツはラテンアメリカと東アジア諸国における経済的背景を完全に無視したIMFの処方箋の適用を痛烈に批判している。これに対し、IMFに支援を求める加盟国は政府の過剰支出に起因する深刻な国際収支赤字・高インフレならびに為替相場の過高評価とそれによる輸出不振と経済成長の停滞という「共通の困難な問題」を抱えていることで、選択される政策目標などは当然類似してくるといった反論もなされている。

[22] 通貨・金融危機が発生した直後から、国内の金融混乱や部品・原材料の輸入困難により、生産と在庫がともに減少するという在庫調整局面が始まったが、財政金融政策の緩和と輸出増から需要の回復が始まると、アジアNIEsでは1999年4〜6月期に在庫調整が終了し、ASEAN4でも1998年後半には生産の下げ止まりが見られ、1999年には在庫の減少が小幅になる中で、生産は増加している。


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