Text - Movie


"Movie" Menu] ["All Movies"


猿の惑星 Planet of the Apes
●●●●●



 単純に楽しめる娯楽作です。メッセージ性・ドラマ性は希薄ながら、サスペンスに満ちた歯切れ良い展開で、観客を最後まで飽きさせません。
 ティム・バートンとしての作家性はあまり表に出ておらず、そういう意味で期待していた人にとってはやや肩すかしの内容かもしれませんが、ダークトーンに染められた美術の美しさや、シニカルでひねくれたユーモアセンスは、紛れもなくバートンならではのものといえるでしょう。

 この映画の見どころのひとつである、猿たちの造形もお見事。特殊メイクに頼ることなく、その所作や居ずまいなどで「猿っぽさ」を生みだしていた点は十分評価できます。この点では、オリジナル版『猿の惑星』より明らかに優れていました。
 とりわけ、猿の将軍を演じたティム・ロスが実に素晴らしかったです。この映画がピリピリした緊張感を全編に渡って維持できていたのも、彼の存在によるところが大だと思います。猿たちは基本的に全面特殊メイクですから、人間の“素”の部分が残っているのは目だけなのですが、ロスはこの目だけの演技でもって、凄まじい迫力を醸し出していました。将軍のキャラクターが立っていたからこそ、猿たち全体の恐ろしさも際だっていたわけですから、ティム・ロスがこの映画最大の功労者であるのは間違いありません。

 先にも書いたように、メッセージ性などが薄いのが残念といえば残念ですが、映画館の大画面で楽しむには絶好の映画に仕上がっているのではないでしょうか。

 さて、いろいろと論議をかもしている、謎めいたラストの解釈についてですが……

 (以下、ネタバレのため改行)

 誰しも頭を悩ますであろう、あのラスト。すなわち、

『主人公が地球だと思って帰ってきた星も、猿の惑星と化していた。しかも、敵役であったはずの将軍が、英雄として祭られていた』

 というラストです。
 自分なりに考えてみた結果や、ネットなどでの意見を統合してみると、あのラストの解釈はおおむね二つに分けられるようです。

 まず、ひとつ目。これは、『あのラストに合理的な解決など、そもそも存在しない』という説です。
 いきなり身もフタもない説のようですが、私はこれ、あながち外れてはいない気がするんですよね。つまりあれはバートンなりのブラックユーモアなのです。あのラストのために、それまで必死に孤軍奮闘してきた主人公の活躍がすべて無に帰してしまうという、その理不尽さ。それをこそ笑うべきなのです。

 観客の頭には、「これは『猿の惑星』なのだから、ラストには何かとんでもないドンデン返しが用意してあるに違いない」という先入観がまずあります。そのさらにウラをかくには、ありきたりなオチでは観客を驚かすことは出来ないでしょう。それならばむしろ思い切り無茶苦茶なラストで、観客をケムに巻いてしまおう――バートンにはそんな思惑があったのではないでしょうか。
 いかにも彼らしい、人を食ったユーモアで、変に合理的な解釈を求めるよりも、このように割り切って考えてしまった方がよほどすっきりすると、私には思えます。

 もうひとつは、あくまで合理的な解釈にこだわった説。こちらの概要を一言でまとめるなら、
『主人公が猿の惑星を飛び立った後、将軍もそれを追って宇宙に出、主人公が着くより遥か昔の地球にやってきて、猿による反乱を引き起こした』
 ――ということになります。

 この説の大前提となるのは、主人公が最初に来た猿の惑星とラストで帰ってきた惑星は別の星である、という点です。大気圏外から見た姿が地球とは似つかないものだったこと、月が二つあったこと、何よりバートン自身が「あれは別の惑星」と明言していることなどから、この点は確かとします。
 さてそうなると、将軍がいかにして地球まで辿り着いたのかが問題となります。ここで母船内の様子を思い返してみましょう。惑星探索のために射出されたポッド、あれはどれくらい用意されていたでしょうか? 一つや二つではなかったはずです。つまり、まだ多くのポッドが埋められて残っていた可能性は充分にあるわけです。
 主人公が猿の惑星を出発後、息を潜めていた将軍はあの母船から脱出、または救出されます。そして猿たちが母船の探索によって見つけ出したポッドを我が物とします。チンパンジーですら操縦できたポッドなのですから、その操縦は将軍にもさして困難なものとは思えません。あるいは、何らかの形でチンパンジーと意志の疎通を図り、操縦を教わったのかもしれません。
 とにかくそうした経緯でポッドを操り、めでたく宇宙へ飛び出した将軍は、磁気嵐を抜け、執念でもって一路地球へと向かいます。ところが実際に到着した地球は、主人公が帰るよりもずっと昔――おそらくは1800年代ころの地球だったのです。
 今さら帰るにも帰れない将軍は、この際だからと、人間に虐げられている猿たちの意志統合を図って動き出します。これはちょうど、本編で主人公が行った行動と逆パターンなわけですね。
 将軍たった一人で、果たして地球の猿たちをまとめ上げることが出来るのか、という点に関しては、本編で人権擁護派の女性猿が言ったセリフが伏線となって利いてきます。すなわち、
「地球の猿は、しゃべれないわけじゃない。しゃべれないフリをしているだけなのだ」
 つまり言語による障害はなく、将軍のカリスマ性をもってすれば、猿たちの一致団結を引き起こすのは決して不可能ではないのです。主人公がやってみせたのと同様に。
 そして猿による革命によって、あえなくも人間たちは淘汰されてしまいます。それから200年ほどののち、ようやく主人公が地球へ帰ってきますが、しかし時すでに遅く……

 ……というのが、『論理的解決』のあらましです。
 この説にも、かなり無理な部分が多々あるのは確かです。しかしあくまで整合性を求めるなら、これくらいしか解決の道はないでしょう。

 でもここまで言葉を重ねて解決を求めたところで、今まで以上にすっきりするわけでも、面白くなるわけでもないんですよね。やっぱり「ケムに巻かれた」感は否めない。
 それならむしろここは、やはり『ひとつ目』で述べたように、『不条理オチ』なんだということで納得しちゃった方がいいんじゃないかな。「チャン、チャン♪」って感じで。それが一番バートンぽいと思うなあ。

 (以上)



(01.08.20)