皇女和宮様御降嫁の行列

島崎藤村の小説「夜明け前」の中でも書かれています。

皇女和宮様の部分を下記に抜粋しました。

島崎藤村「夜明け前」第一部 上

 

・・・・・・・・前略・・・・・・・・・・

   第五章
・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・
 翌文久(ぶんきゅう)元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈(したへっつい)を置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残った味噌納屋(みそなや)の二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れて仮住居(かりずまい)していた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。
 旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮の雪隠(せっちん)を出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、寛(くつろ)ぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣の母屋(もや)の部屋(へや)部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、釘(くぎ)や金物の類(たぐい)を拾った焼け跡には、わずかに街道へ接した塀(へい)の一部だけが残った。
 さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてが仮(かり)で、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。
 京都にある帝(みかど)の妹君、和宮内親王(かずのみやないしんのう)が時の将軍(徳川家茂(いえもち))へ御降嫁とあって、東山道(とうさんどう)御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。
 宿役人一同、組頭(くみがしら)までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談(はな)し合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病の咳(せき)でこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。
 吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋の仮住居(かりずまい)から、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門は旧(ふる)い友だちを見て、
 「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとありますよ。」
 と言って、互いに額(ひたい)を集めた。
 本陣問屋庄屋としての仕事はこんなふうに、あとからあとからと半蔵の肩に重くかかって来た。彼は何をさし置いても、年取った父を助けて、西よりする和宮様の御一行をこの木曾路に迎えねばならなかった。

   第六章

     一

 和宮様(かずのみやさま)御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰(さた)のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としても未曾有(みぞう)、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。
 木曾谷(きそだに)、下(しも)四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬(おてんま)には限りがある。木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。それにはどうしても伊那(いな)地方の村民を動かして、多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。
 木曾街道六十九次の宿場はもはや嘉永(かえい)年度の宿場ではなかった。年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているような天保(てんぽう)年度のそれではもとよりなかった。いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。


 馬は四分より一疋(ぴき)出す。人足は五分より一人(ひとり)出す。人馬共に随分丈夫なものを出す。老年、若輩、それから弱馬などは決して出すまい。
 これは伊那地方の村民総代と木曾谷にある下四宿の宿役人との間に取りかわされた文化(ぶんか)年度以来の契約である。馬の四分とか、人足の五分とかは、石高(こくだか)に応じての歩合(ぶあい)をさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。もっともこの歩合は天保年度になって多少改められたが、人馬徴集の大体の方針には変わりがなかった。
 宿駅のことを知るには、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、継立(つぎた)てを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆる助郷(すけごう)だ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下の公役(こうえき)で、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。この課役を命ずるために、奉行は時に伊那地方を見分した。そして、助郷を勤めうる村々の石高を合計一万三百十一石六斗ほどに見積もり、それを各村に割り当てた。たとえば最も大きな村は千六十四石、最も小さな村は二十四石というふうに。天龍川(てんりゅうがわ)のほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らの鍬(くわ)を捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山(かざこしやま)の山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。
 旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代(さんきんこうたい)の諸大名、公用を帯びた御番衆方(おばんしゅうかた)なぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾の野尻(のじり)と三留野(みどの)の両宿へ、下組は妻籠(つまご)と馬籠(まごめ)の両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも助郷加宿にも送り、紛らわしいものもあらば押え置いて早速(さっそく)注進せよというほどに苦心した。いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷崩(くず)れ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。
 そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途(みち)に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉(ぐぶ)の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試(ため)さるるような日が、とうとうやって来た。

・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     二

・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     三

 旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると、定例の人足だけでは継立(つぎた)ても行き届かない。道中奉行所の小笠原美濃守(おがさわらみののかみ)は公役としてすでに宿々の見分に来た。
 十月にはいってからは、御通行準備のために奔走する人たちが一層半蔵の目につくようになった。尾州方(びしゅうかた)の役人は美濃路から急いで来る。上松(あげまつ)の庄屋は中津川へ行く。早駕籠(はやかご)で、夜中に馬籠へ着くものすらある。尾州の領分からは、千人もの人足が隣宿美濃落合(おちあい)のお継(つ)ぎ所(しょ)(継立ての場所)へ詰めることになって、ひどい吹き降(ぶ)りの中を人馬共にあの峠の下へ着いたとの報知(しらせ)もある。
 「半蔵、どうも人足や馬が足りそうもない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ。」
 「お父(とっ)さん、大丈夫ですかね。」
 親子はこんな言葉をかわした。道中奉行所から渡された御印書によって、越後(えちご)越中(えっちゅう)の方面からも六十六万石の高に相当する人足がこの御通行筋へ加勢に来ることになったが、よく調べて見ると、それでも足りそうもないと言う父の話は半蔵を驚かした。
 「美濃の方じゃ、お前、伊勢路(いせじ)からも人足を許されて、もう触れ当てに出かけたものもあるというよ。美濃の鵜沼宿(うぬましゅく)から信州本山(もとやま)まで、どうしても人足は通しにするよりほかに方法がない。おれは京都まで御奉行様のあとを追って行って、それをお願いして来る。おれも今度は最後の御奉公のつもりだよ。」
 この年老いた父の奮発が、半蔵にはひどく案じられてならなかった。そうかと言って、彼が父に代わられる場合でもない。街道には街道で、彼を待っている仕事も多かった。その時、継母のおまんも父のそばに来て、
 「あなたも御苦労さまです。ほんとに、万事大騒動になりましたよ。」
 と案じ顔に言っていた。
 吉左衛門はなかなかの元気だった。六十三歳の老体とは言いながら、いざと言えばそばにいるものがびっくりするような大きな声で、
 「オイ、駕籠(かご)だ。」
 と人を呼ぶほどの気力を見せた。
 宮様お迎え御同勢の通行で、にぎわしい街道の混雑はもはや九日あまりも続いた。伊那(いな)の百姓は自分らの要求がいれられたという顔つきで、二十五人ほどずつ一組になって、すでに馬籠へも働きに入り込んで来た。やかましい増助郷(ましすけごう)の問題のあとだけに朝勤め夕勤めの人たちを街道に迎えることは半蔵にも感じの深いものがあった。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くというほどの騒ぎだ。時には、半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人(けがにん)を載せた四挺(ちょう)の駕籠が三留野(みどの)の方から動いて来るのを目撃した。宮様のお泊まりにあてられるという三留野の普請所では、小屋がつぶれて、けがをした尾張の大工たちが帰国するところであるという。その時になると、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋(うず)め去られたようになった。和宮様御下向(ごげこう)のうわさがあるのみだった。


 宮様は親子(ちかこ)内親王という。京都にある帝とは異腹(はらちがい)の御兄妹(ごきょうだい)である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡(な)くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川(ありすがわ)家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。
 もともと公武合体の意見は、当時の老中安藤対馬(あんどうつしま)なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院(てんしょういん)といえば、当時すでに未亡人(みぼうじん)であるが、その人を先の将軍の御台所(みだいどころ)として徳川家に送った薩摩(さつま)の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱(いだ)いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難(かんなん)な時にあらわれて来た協調の精神である。幕府の老中らは宮様の御降嫁をもって協調の実(じつ)を挙(あ)ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経(へ)、関白(かんぱく)を通して、それを叡聞(えいぶん)に達したところ、帝にはすでに有栖川(ありすがわ)家と御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣(つか)わすのは気づかわれると仰せられて、お許しがなかった。この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱(いだ)いた岩倉具視(いわくらともみ)、久我建通(くがたてみち)、千種有文(ちぐさありぶみ)、富小路敬直(とみのこうじひろなお)なぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河(ほりかわ)の典侍(てんじ)を動かした。堀河の典侍は帝の寵妃(ちょうひ)であるから、この人の奏聞(そうもん)には帝も御耳を傾けられた。宮様には固く辞して応ずる気色(けしき)もなかったが、だんだん御乳の人絵島(えしま)の言葉を聞いて、ようやく納得せらるるようになった。年若な宮様は健気(けなげ)にも思い直し、自ら進んで激しい婦人の運命に当たろうとせられたのである。
 この宮様は婿君(むこぎみ)(十四代将軍、徳川家茂(いえもち))への引き出物として、容易ならぬ土産(みやげ)を持参せらるることになった。「蛮夷(ばんい)を防ぐことを堅く約束せよ」との聖旨がそれだ。幕府としては、今日は兵力を動かすべき時機ではないが、今後七、八年ないし十年の後を期し、武備の充実する日を待って、条約を引き戻(もど)すか、征伐するか、いずれかを選んで叡慮(えいりょ)を安んずるであろうという意味のことが、あらかじめ奉答してあった。
 しかし、このまれな御結婚には多くの反対者を生じた。それらの人たちによると、幕府に攘夷(じょうい)の意志のあろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防禦(ぼうぎょ)を誓い、国内人心の一致を説くのは、これ人を欺き自らをも欺くものだというのである。宮様の御降嫁は、公武の結婚というよりも、むしろ幕府が政略のためにする結婚だというのである。幕府が公武合体の態度を示すために、帝に供御(くご)の資を献じ、親王や公卿(くげ)に贈金したことも、かえって反対者の心を刺激した。
 「欺瞞(ぎまん)だ。欺瞞だ。」
 この声は、どんな形になって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津(おおつ)から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十二藩、道中筋の道固めをするもの二十九藩――こんな大げさな警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼(うがい)から信州本山(もとやま)までの間は尾州藩、本山から下諏訪(しもすわ)までの間は松平丹波守(まつだいらたんばのかみ)、下諏訪から和田までの間は諏訪因幡守(いなばのかみ)の道固めというふうに。
 十月の十日ごろには、尾州の竹腰山城守(たけごしやましろのかみ)が江戸表から出発して来て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見分し、御旅館やお小休み所にあてらるべき各本陣を見分した。ちょうど馬籠では、吉左衛門も京都の方へ出かけた留守の時で、半蔵が父に代わってこの一行を迎えた。半蔵は年寄役金兵衛の付き添いで、問屋九太夫の家に一行を案内した。峠へはもう十月らしい小雨が来る。私事ながら半蔵は九太夫と言い争った会所の晩のことを思い出し、父が名代の勤めもつらいことを知った。


 「伊之助さん、お継立ての御用米が尾州から四十八俵届きました。これは君のお父(とっ)さん(金兵衛)に預かっていただきたい。」
 半蔵が隣家の伊之助と共に街道に出て奔走するころには、かねて待ち受けていた御用の送り荷が順に到着するようになった。この送り荷は尾州藩の扱いで、奥筋のお泊まり宿へ送りつけるもの、その他諸色(しょしき)がたくさんな数に上った。日によっては三留野(みどの)泊まりの人足九百人、ほかに妻籠(つまご)泊まりの人足八百人が、これらの荷物について西からやって来た。
 「寿平次さんも、妻籠の方で目を回しているだろうなあ。」
 それを思う半蔵は、一方に美濃中津川の方で働いている友人の香蔵を思い、この際京都から帰って来ている景蔵を思い、その話をよく伊之助にした。馬籠では峠村の女馬まで狩り出して、毎日のようにやって来る送り荷の継立てをした。峠村の利三郎は牛行司(うしぎょうじ)ではあるが、こういう時の周旋にはなくてならない人だった。世話好きな金兵衛はもとより、問屋の九太夫、年寄役の儀助、同役の新七、同じく与次衛門(よじえもん)、それらの長老たちから、百姓総代の組頭(くみがしら)庄兵衛(しょうべえ)まで、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。その時になって見ると、金兵衛の養子伊之助といい、九太夫の子息(むすこ)九郎兵衛といい、庄兵衛の子息庄助といい、実際に働けるものはもはや若手の方に多かった。
 十月の二十日は宮様が御東下の途に就(つ)かれるという日である。まだ吉左衛門は村へ帰って来ない。半蔵は家のものと一緒に父のことを案じ暮らした。もはや御一行が江州(ごうしゅう)草津(くさつ)まで動いたという二十二日の明け方になって、吉左衛門は夜通し早駕籠(はやかご)を急がせて来た。
 京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも、半蔵には多くの人の動きを想像するに充分だった。宮様御出発の日には、帝にもお忍びで桂(かつら)の御所を出て、宮様の御旅装を御覧になったという。
 「時に、送り荷はどうなった。」
 という父の無事な顔をながめて、半蔵は尾州から来る荷物の莫大(ばくだい)なことを告げた。それがすでに十一日もこの街道に続いていることを告げた。木曾の王滝(おうたき)、西野、末川の辺鄙(へんぴ)な村々、向(むか)い郡(ぐん)の附知村(つけちむら)あたりからも人足を繰り上げて、継立ての困難をしのいでいることを告げた。
 道路の改築もその翌日から始まった。半蔵が家の表も二尺通り石垣(いしがき)を引っ込め、石垣を取り直せとの見分役(けんぶんやく)からの達しがあった。道路は二間にして、道幅はすべて二間見通しということに改められた。石垣は家ごとに取り崩(くず)された。この混雑のあとには、御通行当日の大釜(おおがま)の用意とか、膳飯(ぜんぱん)の準備とかが続いた。半蔵の家でも普請中で取り込んでいるが、それでも相応なしたくを引き受け、上の伏見屋なぞでは百人前の膳飯を引き受けた。
 やがて道中奉行が中津川泊まりで、美濃の方面から下って来た。一切の準備は整ったかと尋ね顔な奉行の視察は、次第に御一行の近づいたことを思わせる。順路の日割によると、二十七日、鵜沼宿(うぬましゅく)御昼食、太田宿お泊まりとある。馬籠へは行列拝見の客が山口村からも飯田(いいだ)方面からも入り込んで来て、いずれも宮様の御一行を待ち受けた。
 そこへ先駆だ。二十日に京都を出発して来た先駆の人々は、八日目にはもう落合宿から美濃境の十曲峠(じっきょくとうげ)を越して、馬籠峠の上に着いた。随行する人々の中には、万福寺に足を休めて行くものが百二十人もある。先駆の通行は五つ半時であった。奥筋へ行く千人あまりの尾州の人足がそのあとに続いて、群衆の中を通った。それを見ると、伊那から来ている助郷(すけごう)の中には腕をさすって、ぜひともお輿(こし)をかつぎたいというものが出て来る。大変な御人気だ。半蔵は父と同じように、麻の裃(かみしも)をつけ、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを取って、親子してその間を奔走した。
 「姫君さまのお輿(こし)なら、おれも一肩(ひとかた)入れさせてもらいたいな。」
 これも篤志家の一人(ひとり)の声だった。
 翌日は中津川お泊まりの日取りである。その日は雨になって、夜中からひどく降り出した。しかしその大雨の中でも、もはや道固めの尾州の家中が続々馬籠へ繰り込んで来るようになったので、吉左衛門も半蔵も全く一晩じゅう眠らなかった。
 いよいよ馬籠御通行という日が来た。本陣の仮住居(かりずまい)の方では、おまんが孫のそばに目をさますと、半蔵も父も徹夜でいそがしがって、ほとんど家へは寄りつかない。嫁のお民は、と見ると、この人は肩で息をして、若い母らしい前垂(まえだ)れなぞにもはや重そうなからだを隠そうとしている。
 おまんは佐吉を呼んで、孫のお粂(くめ)をおぶわせ、村はずれに宮様をお迎えさせることにした。そこへ来た新宅のお喜佐(おまんの実の娘、半蔵の異母妹)には宗太をつけて、これも家の下女たちと一緒にやることにした。
 「粂さま、おいで。」と佐吉はお粂を背中にのせて、その顔をおまんに見せながら、「これで粂さまも、きょうあったことを――ずっと大きくなるまで――覚えていさっせるずらか。」
 「なにしろ、六つじゃねえ。」
 「覚えてはいさっせまいか。」
 「そうばかりでもないよ。」とお喜佐は二人の話を引き取って言った。「この子もこれで、夢のようには覚えているだろうよ。わたしだって、五つの歳(とし)のことをかすかに覚えているもの。」
 「ほんとに、きょうはあいにくな雨だこと。」とおまんは言った。「わたしもお迎えしたいは山々だが、お民がこんなじゃ、どうしようもない。わたしたち二人はお留守居しますよ。」
 佐吉はお粂を、お喜佐は宗太をまもりながら、御行列拝見の人々が集まる村はずれの石屋の坂あたりまで行った。なにしろ多勢の御通行で、佐吉らは吉左衛門や半蔵の働いている姿をどこにも見いだすことができなかった。それに、御通行筋は公私の領分の差別なく、旅館の前後里程三日路の旅人の通行を禁止するほどの警戒ぶりだ。
 九つ半時に、姫君を乗せたお輿(こし)は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護(まも)られながら、雨中の街道を通った。いかめしい鉄砲、纏(まとい)、馬簾(ばれん)の陣立ては、ほとんど戦時に異ならなかった。供奉(ぐぶ)の御同勢はいずれも陣笠(じんがさ)、腰弁当で、供男一人ずつ連れながら、そのあとに随(したが)った。中山大納言(だいなごん)、菊亭(きくてい)中納言、千種少将(ちぐさのしょうしょう)(有文)、岩倉少将(具視(ともみ))、その他宰相の典侍(てんじ)、命婦能登(みょうぶのと)などが供奉の人々の中にあった。京都の町奉行関出雲守(せきいずものかみ)がお輿(こし)の先を警護し、お迎えとして江戸から上京した若年寄(わかどしより)加納遠江守(かのうとおとうみのかみ)、それに老女らもお供をした。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった。


 「いや、御苦労、御苦労。」
 御通行の翌日、吉左衛門は三留野(みどの)のお継ぎ所の方へ行く尾州の竹腰山城守を見送ったあとで、いろいろあと始末をするため会所のなかにある宿役人の詰め所にいた。吉左衛門はそこにいる人たちをねぎらうばかりでなく、自分で自分に言うように、
 「御苦労、御苦労。」を繰り返した。
 連日の過労に加えて、その日も朝から雨だ。一同は疲れて、一人として行儀よくしているものもない。そこには金兵衛もいて、長い街道の世話を思い出したように、
 「吉左衛門さんは御存じだが、わたしたちが覚えてから大きな御通行というものは、この街道に三度ありましたよ。一度は水戸(みと)の姫君さまのお輿入(こしい)れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡(な)くなりになって、その御遺骸(ごいがい)がこの街道を通った時。今一度は例の黒船騒ぎで、交易を許すか許さないかの大評定(だいひょうじょう)で、尾州の殿様(徳川慶勝(よしかつ))の御出府の時。あの先の殿様の時は、木曾谷中から寄せた七百三十人の人足でも手が足りなくて、伊那の助郷(すけごう)が千人あまりも出ました。諸方から集めた馬の数が二百二十匹さ。」
 「金兵衛さんはなかなか覚えがいい。」と畳の上に頬杖(ほおづえ)つきながら言うものがある。
 「まあ、お聞きなさい。今の殿様が江戸へ御出府の時は、木曾寄せの人足が七百三十人、伊那の助郷が千七百七十人、この人数を合わせると二千五百人からの人足が出ましたぜ。あの時、馬籠の宿場に集まった馬の数が百八十匹だったと思う。あれほどの御通行でも和宮さまの場合とはとうてい比べものにならない。今度のような大きな御通行は、わたしは古老の話にも聞いたことがない。」
 「どうです。金兵衛さん、これこそ前代未聞でしょう。」
 と混ぜ返すものがある。金兵衛は首を振って、
 「いや、前代未聞どころか、この世初まって以来の大御通行だ。」
 聞いているものは皆笑った。
 いつのまにか吉左衛門は高いびきだ。彼はその部屋(へや)の片すみに横になって、まるで死んだようになってしまった。
 その時になって見ると、美濃路から木曾へかけてのお継ぎ所でほとんど満足なところはなかった。会所という会所は、あるいは損じ、あるいは破れた。これは道中奉行所の役人も、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で行き倒れになった人足の死体も多く発見された。
 御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原(やぶはら)を過ぎ、鳥居峠(とりいとうげ)を越え、奈良井(ならい)宿お小休み、贄川宿(にえがわじゅく)御昼食の日取りである。半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野お継ぎ所の方から馬籠へ引き取って来た。伊之助は伊那助郷の担当役、半蔵も父の名代として、いろいろとあと始末をして来た。ちょうど吉左衛門は上の伏見屋に老友金兵衛を訪(たず)ねに行っていて、二人茶漬(ちゃづ)けを食いながら、話し込んでいるところだった。そこへ半蔵と伊之助とが帰って来た。
 その時だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語った。祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇(くちびる)をかんだことを語った。伊那助郷の交渉をはじめ、越後(えちご)、越中(えっちゅう)の人足の世話から、御一行を迎えるまでの各宿の人々の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲(ごうよく)な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。
 「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を巻き揚げて行くとは――実に、言語(ごんご)に絶したやり方だ。」
 と言って、金兵衛は吉左衛門と顔を見合わせた。
 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らなかった。黒船来訪以来はおろか、それ以前からたといいかに封建社会の堕落と不正とを痛感するような時でも、それを若者の目や耳からは隠そう隠そうとして来たのも、この二人の村の長老だ。庄屋風情(ふぜい)、もしくは年寄役風情として、この親たちが日ごろの願いとして来たことは、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威とし、それを子の前にも神聖なものとして、この世をあるがままに譲って行きたかったのである。伊之助が語って見せたところによると、こうした役人の腐敗沙汰(ざた)にかけては、京都方も江戸方もすこしも異なるところのないことを示していた。二人の親たちはもはや隠そうとして隠し切れなかった。
 六日目になると、宮様御一行は和田宿の近くまで行ったころで、お道固めとして本山までお見送りをした尾州の家中衆も、思い思いに引き返して来るようになった。奥筋までお供をした人足たちの中にも、ぼつぼつ帰路につくものがある。七日目には、もはやこの街道に初雪を見た。


 人一人(ひとり)動いたあとは不思議なもので、御年も若く繊弱(かよわ)い宮様のような女性でありながらも、ことに宮中の奥深く育てられた金枝玉葉(きんしぎょくよう)の御身で、上方(かみがた)とは全く風俗を異にし習慣を異にする関東の武家へ御降嫁されたあとには、多くの人心を動かすものが残った。遠く江戸城の方には、御母として仕うべき天璋院(てんしょういん)も待っていた。十一月十五日には宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩(さつま)生まれの剛気で男まさりな天璋院にもすでに御対面せられたはずである。これはまれに見る御運命の激しさだとして、憐(あわれ)みまいらせるものがある。その犠牲的な御心の女らしさを感ずるものもある。二十五日の木曾街道の御長旅は、徳川家のために計る老中安藤対馬(あんどうつしま)らの政略を助けたというよりも、むしろ皇室をあらわす方に役立った。
 長いこと武家に圧せられて来た皇室が衰微のうちにも絶えることなく、また回復の機運に向かって来た。この島国の位置が位置で、たとい内には戦乱争闘の憂いの多い時代があったにもせよ、外に向かって事を構える場合の割合に少なかった東洋の端に存在したことは、その日まで皇室の平静を保ち得た原因の一つであろうと言うものもある。過去の皇室の衰え方と言えば、諸国に荒廃した山陵を歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平(がもうくんぺい)や、京都のさびしい御所を拝して哭(な)いたという高山彦九郎(たかやまひこくろう)のような人物のあらわれて来たのでもわかる。応仁(おうにん)乱後の京都は乱前よりも一層さびれ、公家の生活は苦しくなり、すこし大げさかもしれないが三条の大橋から御所の燈火(あかり)が見えた時代もあったと言わるるほどである。これほどの皇室が、また回復の機運に向かって来たことは、半蔵にとって、実に意味深きことであった。
 時代は混沌(こんとん)として来た。彦根(ひこね)と水戸とが互いに傷ついてからは、薩州のような雄藩(ゆうはん)の擡頭(たいとう)となった。関ケ原の敗戦以来、隠忍に隠忍を続けて来た長州藩がこの形勢を黙ってみているはずもない。しかしそれらの雄藩でも、京都にある帝(みかど)を中心に仰ぎ奉ることなしに、人の心を収めることはできない。天朝の威をも畏(おそ)れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として外国に通商を許したというあの井伊大老ですら、幕府の一存を楯(たて)にして単独な行動に出ることはできなかった。後には上奏の手続きを執った。井伊大老ですらそのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致(いた)したり、あるいは御剣(ぎょけん)を奉献したりした。
 一庄屋の子としての半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の『大日本史』に、尾張の『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』に、あるいは頼(らい)氏の『日本外史』に、大義名分を正そうとした人たちのまいた種が深くもこの国の人々の心にきざして来たのだ。南朝の回想、芳野(よしの)の懐古、楠(くすのき)氏の崇拝――いずれも人の心の向かうところを語っていないものはなかった。そういう中にあって、本居宣長のような先覚者をはじめ、平田一門の国学者が中世の否定から出発して、だんだん帝を求め奉るようになって行ったのは、臣子の情として強い綜合(そうごう)の結果であったが……
 年も文久二年と改まるころには、半蔵はすでに新築のできた本陣の家の方に引き移っていた。吉左衛門やおまんは味噌納屋(みそなや)の二階から、お民はわびしい土蔵の仮住居(かりずまい)から、いずれも新しい木の香のする建物の方に移って来た。馬籠の火災後しばらく落合の家の方に帰っていた半蔵が弟子(でし)の勝重(かつしげ)なぞも、またやって来る。新築の家は、本陣らしい門構えから、部屋(へや)部屋の間取りまで、火災以前の建て方によったもので、会所を家の一部に取り込んだところまで似ている。表庭のすみに焼け残った一株の老松もとうとう枯れてしまったが、その跡に向いて建てられた店座敷が東南の日を受けるところまで似ている。
 美濃境にある恵那山(えなさん)を最高の峰として御坂越(みさかごえ)の方に続く幾つかの山嶽(さんがく)は、この新築した家の南側の廊下から望まれる。半蔵が子供の時分から好きなのも、この山々だ。さかんな雪崩(なだれ)の音はその廊下の位置からきかれないまでも、高い山壁から谷まで白く降り埋(うず)める山々の雪を望むことはできる。ある日も、半蔵は恵那山の上の空に、美しい冬の朝の雲を見つけて、夜ごとの没落からまた朝紅の輝きにと変わって行くようなあの太陽に比較すべきものを想像した。ただ御一人の帝、その上を措(お)いて時代を貫く朝日の御勢にたとうべきものは他に見当たらなかった。

・・・・・・・・以後略