関根町の由来      ※由来碑より(片原公園に設置されています)

水と緑に恵まれた関根町の誕生は利根川の移り変わりと大きくかかわっている。

利根川の流れが今の形になったのは、今から約450年前といわれている。それ以前は赤城山と
榛名山の山麓から流れ出た利根川は関根町の北端辺りから、関東平野に流れ出した所に広がる
緩斜面の台地と、「廣瀬川低地」と呼ばれる細長い沖積低地の中央を不自然に南下していた。
それが、現在のような河道になったのは、天文年間(1532〜1555)の洪水により移ったとする説
が有力視されている。(群馬県史通史編第一巻)また、当時の様子を知る文献として『前橋風土記』
がある。風土記が出来たのは、貞享元年(1684)でそれによると、元斎堰は「勢多郡関根村に有り、
利根川の水を分かちて、廣瀬の水に流し、勢多・群馬・那波等の諸郡を過ぎ、田用の水となる」と
記述されており、関根村の名前もこの堰の所在(堰の根)に由来すると言われている。
(前橋市史第三巻)

関根町には赤城神社(戦国時代元亀2年・約430年前建立)と金剛寺(江戸時代初期の建立)が
ある。人間が住むようになってから創建されたものである。なお、それ以前に関根町に人間が住んで
いたと言う遺跡は見当たらないと言われていた。しかし、平成17年8月からの国道17号(前渋バイ
パス)の改良工事に伴う発掘調査により、関根町新町の北端東側に隣接する田口町田尻地区から
古墳時代前期の竪穴住居と見られる遺跡から遺物が発見されている。それにより今後の調査に
よっては関根町にもそれに近い遺跡が発見される可能性もある。


天明3年(1783)旧暦7月8日昼四つ半、今で言えば8月5日の午前11時に浅間山頂を焼き
破った大噴火の被害が関根町にも禍根を残している。関根町北部から廣瀬川の西側の土地には
当時の噴出した溶岩が焼き石となって埋没していた。また、当時の庄屋さんが適切な誘導をして
村民を守ったということでその苦労を称えて水神宮(桃の木橋東南の一遇)として祭られている。
(平成23年現在は赤城神社)

関根町の赤城神社と金剛寺の中間に寄居と呼ばれている地区がある。寄居とは地侍が構えた
小堡(砦)で南北80m・東西60mあり、北部は二重堀構えとなって本郭を構成し、戦国期構築と
考えられる。

旧桃川小学校は明治6年12月日輪寺に開校された。更に、昭和48年に荒牧小学校が分離
独立して開校された。また、町の中央には国道17号が明治22年に開通する。明治24年(1891)
関根町の戸数は79戸であった。

かつては、前橋から沼田に至る江戸時代に発達した沼田道が関根を通っており、この街道沿い
には「問屋」と称する旧家があり街道にかかわる業務に携わっていた。なお、国道には明治45年に
小型電車(通称チンチン電車)が開通し、爾来40数年間開通していた。当時使用していた線路が
関根町公民館で車止めとして現在も利用されている。

また、関根町は水に恵まれていたので、人間が定住するようになると農業が盛んになり桑園が
開発され、蚕の飼育が盛んに行われるようになった。明治3年(1870)には、前橋藩士であった
深澤雄象等によって藩営の器械製糸所が作られ、更に、明治8年には関根町の片原地区に
研業社を開業した。明治13年当時の建坪合計は351坪と県下の器械製糸所では富岡製糸所
に次ぐ規模を誇っていた。

明治維新の際の廃藩置県によって関根は勢多郡南橘村大字関根と呼ばれるようになり、その後、
昭和29年(1954)9月1日前橋市に編入し前橋市関根町となる。
更に、昭和43年9月荒牧(第一区)(群馬大学周辺)の区画整理事業を初め平成19年まで
三次に亘る約40年間の区画整理事業によって町の様相も一変し、桑園を中心とした農村地帯の
関根町も街路の整った住み良い住宅地として整備された。

町には群馬大学(昭和54年移設)をはじめ群馬県総合スポーツセンター(昭和56年新設)の
文教施設も建設され、更に、各種の公園等も整備された。廣瀬川・桃の木川も改修整備され、
平成16年2月には町の中央部に町民各位の協力により新公民館が落成した。
平成19年7月現在の戸数1,290戸、人口3,130人に増加している。
これからも益々環境豊かな住み良い町として発展が期待される。


ここに、区画整理事業により整備されるに当って、関根町の由来を示す碑を建て、この地の
更なる発展を祈る。

                   平成20年1月吉日  関根町自治会・由来碑建設委員会

 
由来碑正面
 
由来碑背面
  
研業社跡地の碑
 <関根町自治会> TEL&FAX.027-232-9085 〒371-0047 群馬県前橋市関根町525 関根公民館内