【第四楽章】
Bottle PARAISO
under the sun

 
 


 
 
 午後5時52分。
 いつもより30分早い電車は奇妙なまでにすいていた。
「旦那、そこの旦那」
 僕を呼んだのは、向かいの席に腰掛けた、ずんぐりと肥った男だった。
 男、というのは声から判断しただけのことで、沈む陽を背に受けたその姿は、ただ大きな玉子のような影をなすばかり。容貌など判るべくもない。
「誰そ彼」とは云ったものだ。夕陽の眩しさに眼を細めながら、僕は彼が何者であるかを見定めようとした。
「おや、そんな顔なすって。旦那、随分眼がお悪いですな」
 そう云うと男は、どこからか取り出した、やけに分厚いレンズのついた眼鏡を僕に差し出した。
「これこれ。この『瓶底眼鏡』。旦那にはこれが丁度いい。どうです、お安く致しますよ」
「…間に合ってるよ」
 僕は云い捨てた。何かと思えば、押し売りとは。
 しかし男はなおも言葉を続けた。
「これはただの瓶底ではございませんでして。この瓶底が底だけではなく歴とした瓶であったころ、その瓶の中には何と楽園が詰まっておりましたのです。その証拠に、ほら、何がご覧になれますかな」
 彼は僕の目の前に、その眼鏡を突きだした。
 僕は思わず息を呑んだ。 一対のレンズの向こうには、確かに美しい庭園が広がっていたからだ。
「ものは試しでございますよ」
 僕は眼鏡を受け取り、男の言葉に従った。
「いかがですかな」
 その瞬間には、すでにそこに男の姿はなく、ただ声だけが遠く聞こえた。
 僕は楽園を見ていた。いや、楽園にいた。
 その景色を言葉で表すことは到底できない。写真で見た外国の王侯の宮殿すら較べものにならない。人の手になるとは思えない、しかし自然のものとも思えない豊かな空間…。 ただ甘やかな香りと涼やかな風、僕は楽園の空気を、確かにこの躰に感じていた。
「素晴らしい世界でしょう。皆さまにご満足して戴ける品でございますから」
 男の声が耳鳴りのように頭の中に鈍く響く。
「お代はほんの少し……いえいえ、金子などと、そんな下世話なものは必要ございません。ただその辺に…… ちょっと美味そうな木の実なぞございませんかね」
 見れば、いつからそこにあったのか、腰の高さほどの木々には熟れた果実が溢れんばかりだ。
「そいつを2〜3個……いえ勿論それより多くて困ることは何もございませんが……とりあえず何個か、 こちらに寄越しては下さいませんか」
 云われるままに、僕は抱えられるだけの果実をもぎ取った。
「これをどうすればいいって?」
 見渡す限りの光溢れる光景。
 しかしそこには道も無く、僕はこの先どうすれば良いのか考えあぐねていた。
「何、簡単なことでございまして。それをしっかり持ったまま、眼鏡を外して戴ければよいのでございますよ」
 僕は男の言葉通り、片腕で山のような果実を抱え込み、片手で眼鏡を外した。 そのはずみで積み上げられた果実が微妙なバランスを失い、足下へと崩れ落ちていった。
「ああ、勿体ない、勿体ない」
 ふいに、男の声が間近に、ひどく現実味を帯びて僕の耳に飛び込んできた。

 今や楽園の風景も匂いもどこにもなかった。
 僕は先ほどと同じ、古ぼけた電車の中にいた。ただ、床の上には僕が楽園から持ち帰った果実が転がっている。
「いかがでございましたか、夢の世界は」
 男はそれを拾い集めながら云った。
「夢の世界…?」
「そう、夢でございます。我々は皆様方に夢を提供させて戴いております。 その代価に、こうしてお客様方から『夢のかけら』を頂戴いたしておりまして」
 男は座席の下に潜り込んで、最後のひとつを拾い上げた。
「これは我々の主食にして最大の嗜好品なのでございます。 しかし、残念なことに我々自身ではそれを作ることも採取することも叶いませんでして。 そこでお客様方に夢を楽しんで戴き、その美味なるかけらを我々も享受させて戴くという。 ギヴ・アンド・テイクとでも申しますか、実に単純な商売でございます」
 拾い集めた果実を鞄に収めながら男は云った。
「世知辛い世の中でございましょう、ほんのひとときの夢を楽しむその眼鏡は、 お客様の人生に潤いを与えること間違いなしです。どうです、お持ちになりませんか」
 僕は、男から渡された眼鏡を未だに握りしめていることに気づいた。
「勿論、夢は愉快なものばかりとは限りません。寓意や啓示に満ちた予知夢などというものもございますし、稀にではございますが悪夢をご覧になる方もいらっしゃいます。 しかし、ご心配には及びません。万が一悪夢をご覧になった場合、その夢全てを引き取らせて戴きます」
 そこまで云うと、男は声をひそめた。
「いえ、実はここだけの話。好事家と申しますか、そういった珍味を嗜む者もおりますので、 悪夢というのはなかなかどうして需要が高いのでございますよ…」
 僕は眼鏡を窓から差し込む陽にかざしながら、フレームの向こうにかすむ遠い楽園をぼんやりと眺めていた。 レンズの上でキラキラと飛び散る金色の光は、果たして現実の黄昏の陽光なのか、それとも楽園から零れ来るものなのか……。 これが悪夢を呼ぶことがあるとは到底信じられない。 僕は再び夢の中に落ちていくような軽い目眩を覚えた。
「おや、駅に着いたようですな。わたくしはここで失礼しなくては」
 その声にふと我に返ると、彼はすでに列車の重い扉を開けようとしているところだった。
「ああ」
 と、男は振り返った。
「眼鏡はどうぞお持ち下さいませ。お代は折々頂戴しにあがりますよ」
 そして軽く頭を下げると、見覚えの無い駅の景色の中に歩き去っていった。
「……………」
 僕は眼鏡を手にしたまま、半ば呆然としながら男の丸い背中を見送った。
 そういえば、とその姿を眺めながら僕は記憶の中を探っていた。
 僕は彼を知っているかもしれない。逢ったのは今日が初めてだったかもしれないが……。
 あれは何と云ったか。
 ……ああ、そうだ。あれは、
   獏
 とか云ったかもしれない。

■END■
(Jan 13,2003)

 

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