「当たり前の医療」を求めて 序章   今、「当たり前」の医療とは   一色隆夫 第1部 第1章  医局より <まきび医療>における役割と発見   佐野晋 第2章  看護より この4年間の変遷   松田 茂 第3章  相談室より 内なるものを視つめて   梶元紗代・新谷実 第2部 第4章  栄養より 療養の場における食事とは   守屋美穂子 第5章  薬局より ジャリンコチエ奮戦記   三浦純子 第6章  事務局より 秋山佐久子 第3部 第7章  「私のとっての精神医療」1   里見ユリ 第8章  「私にとっての精神医療」2   児玉純三 第9章  劇団<憂鬱座>   永原 敬 第4部 第10章  私の履歴書   三鼓栄子 あとがきにかえて   池永洋宜 資料  まきび病院前史  創立から現在まで 統計  (1)外来受診者統計(1982年〜1985年)  (2)入院者統計(1982年〜1985年)  (3)受診経路(1985年)  (4)入院者地域別構成(1985年)  (5)入院者年齢別構成(1985年)  (6)入院者疾患別構成(1986年3月8日)  (7)入院期間別構成(1986年3月8日) -------------------------------------------------------------------------------- 序章 今、「当たり前」の医療とは 1 原イメージとしての「当たり前」の医療  私にとって「当たり前」の医療の原イメージがある。  1974年のことであった。開店したばかりの鶴形診療所に夜、大勢のお客さんが来たことがある。F市のI高校の定時制の教師と生徒たちであろうと思った。10人以上いたであろうか。小さな待合室はヤングの熱気と活気にあふれ返り、人間はかくも騒々しく生きのいい生き物かと改ためて感心しながら、私は何事が起こっているのであろうかと診察室の椅子から立ち上がっていた。誰が誰なのかさっぱりわからない。  午前中、勤務先のT病院にTと名乗る男から、「F市のI高校の定時制の教師だが、I医師から一色さんのことを紹介された。生徒のことで相談に行きたい」という内容の電話があった。F市からであれば倉敷でお会いするのがよかろうということで、鶴形診療所で会う約束となった。その人たちであることは確かなのであるが、いかなる状況かまったく不明瞭であった。  T教諭が1人の女生徒を診察室に連れて入り「A子です。よろしく」と言う。この「よろしく」という言葉が深い意味をもっていたことは後でわかった。  私とA子なる女生徒が、2人残された。外ではガヤガヤと賑やかである。16歳の小柄な少女であった。うつむいている。緊張している。怯えと焦り。ぽつりぽつりと言葉が出てきた。私は何故彼女が皆に注目され周りがこんなにも動き回っているのか不思議であった。待合室にたむろしている連中は、彼女にとってはどうも不愉快な敵のようにとらえられているようであった。ここに連れて来させられたのは彼女にとっては不本意なことであり、今彼女は何かとてつもない恐ろしいことが起きつつあるように感じ、それをくい止めるためか、身を守るためか、行動に移しており、それを周囲が心配して止めようとしているらしい。周囲も労働組合、会社側、学校の教師、友人、先輩たちがいて、これらは彼女の行動を止めようとするために敵として映っているようであり、味方は某宗教団体と某やくざの親分であるらしかった。  とにかく何か大きな争いが起きつつあると彼女は直感的に感じ、それをくい止めようとして必死に動こうとしているらしかった。十分まとまりのない言葉の中から、また周囲に対する過敏すぎる反応から、また空耳に耳を傾けている表情から、彼女は今「混沌」とした状況の世界に独りぼっちで投げ出されているかにみえた。 「孤立しているんやね」 と私が問うと大きくうなずいた。夜も眠れていない。  さて、どこが彼女にとって安心して休める場所か。今彼女は九州のY市からTバス会社に就職して定時制高校に学び、会社の寮に生活しているらしい。ここ数日は先輩のアパートを渡り歩いているらしい。実家の方もいろいろ問題を抱えているらしかった。  さてどうするべきか。彼女は、私を待合室にたむろしている複雑な立場の人とは違う、「医者」という立場の人間として少しばかりは信用してくれているようでもあった。  いつものことながら、ぶっつけ本番で待合室の人たちに診察室に入ってもらい状況をよく見ながら治療過程を組み立てていくこととした。  新たに登場した人物たちは、大の男が4人であった。定時制高校の30代前半の教師が2人、Tバス会社の若い労働組合員1人、Tバス会社の会社側の中年の労務課長1人であった。いかような関係になっているのか、彼女にとってはいずれも敵ということになっている。私は、よく見定めて医者というカリスマ的役割をとりつつ彼女にとって良い判断を示さないといけないと思った。  私よりまず口火を切った。 「A子さんは疲れているから仕事を休んで休養しないといけない。さて、どこが良いでありましょうか」  A子は、大人たちの話を傍らでうつろに聞きながらも彼女にとって誰が味方か、敵か判断できないでいるのは自然の姿であった。労務課長は帰郷させるか、どこか病院に入院させようとしていた。彼女はいずれも拒否。私はとにかく仕事は当面休むことが必要であり、薬の力も借りないといけないこと、入院に関しては保護義務者の同意を得ないと無理であること、当面入院を考えないでやっていこう、と提案する。問題はどこで休養をとるかであった。会社の寮で休養をとりしっかり夜は眠ることを目標とすること、昼間は学校に行きたければ行くこと−労務課長は彼女を寮で休ますことに不安を感じていたので、昼間学校で教師たちが面倒をみるということに少しは気持が楽になったようである。労働組合のTさんは寮での生活を労働組合いとして配慮するという役割を引き受けることになる。母親にも連絡をとることとする。入院予定が入院しないことになったらしい。こうして皆不安な気持を抱きながら夜遅くF市へ帰っていった。  ところが、この方針はもろくも翌日から崩れていくこととなる。  彼女が、仕事に出ようとしバスに籠城する。さらに寮を出て行方不明となる。再び、T教諭らが生徒やOBとともに彼女を捜し回るという羽目に陥る。数日後、彼女は元先輩宅で籠っているところを発見される。  1週間後再び鶴形診療所にて、初回のメンバーに会社の常務、赤ん妨に乳を含ませながら九州から新幹線で駆けつけた母親が新たに加わって今後の方針を立てる場をもつことになる。母親は圧倒的な迫力で会社側を追い詰めていった。 「この子は長女で外に出したくなかった。地元で就職させるつもりであった。そこにF市からTバス会社の人が来て、立派な車掌にさせ高校も卒業させ結婚準備の習い事もさせます、といってきた。私は反対であったから、担任の先生にたのんでTバス会社の人にはっきり約束をしてもらった。不安な気持でこの子を送り出した。こんなことになったのは会社の責任だ。元の元気な娘にかえしてもらいたい。」  九州の地の言葉で畳みかける女の勢いはすさまじかった。おまけに、1過間前に薬を管理する役割を負わされていた労務課長が、薬をもって帰るのを忘れてしまったという事実が明らかとなり、常務も狽狽せざるをえなかった。  さて、どうすることが披女にとって今いちばん良いことなのかを考えないといけない。療養の場をどこにするか。いろいろ話した結果、母親の判断を仰ぐことになった。母親は、私の勤務しているT病院に入院して治療を受けることが良いという結論を出し、A子も同意した。こうして、またもや夜遅く彼女を病院に運ぶことになった。この後、T教諭から聞いた話は次のようであった。  A子は4人兄弟の長女であり、父は山炭坑離職者でありアル中で胃潰瘍と肝臓が悪くて病院生活を繰り返しており、母親が働いて一家の生活費を稼いでいたという。彼女は長女として新聞配達をしながら家事と妹と弟の面倒をみ続けたという。ここで近所の親切なおばさんから某宗教団体に入ることを勧められ入信したらしい。弟は、今ある精神病院に入院しているらしい。さらに、母親は最近赤ちゃんを産み、忙しそうであるという。A子は金の卵としてY市からF市に就職したのであった。  高校の入学式のとき、T教諭はA子のことが印象に残った。ぼつんと集団から離れ、うつむいていたという。何も話せなかった15歳の少女であった。Y市から備後の土地にきて言葉があまりにも違いすぎ、異国の土地に立って独りいるという不安が痛々しいはどT教諭には伝わったのであろう。A子は生真面目な労働者であった。彼女は車掌になるための訓練を受け車掌になる。言葉のハンディーは大きかったと想像される。先輩にもかわいがられ、学校でも少しずつ交流関係を広げていくようになっていった。  T教諭たちは夏休みに九州の実家を訪れ、彼女の生い立ちを聞き、彼女の中学時代の教師にも会っている。この高校の教師たちにとっては、夏休みの九州出身の生徒の家への家庭訪問は自前でやることが慣例になっているらしい。  しかし備後に来て9ヶ月目に発病し、会社側の薦めるU病院に強制入院となる。教師の面会も、労働組合員の面会も許されなかったという。病状がやや落ち着いて帰郷、しかしTバス会社は赤字路線を抱え、人員削減つまりワンマンカーヘの転換を図っており、もはや車掌は不要となっていた。このため彼女の復職に関しては労働組合の強い支援が必要であり、定時制高校の教師の動きも活発であったらしい。  そして今再び彼女は明らかに体調を崩してしまった。会社側は仕事の性質上車掌の仕事から彼女をはずし、U病院に再入院させようとしていた。教師たちは前回の事態でU病院を信頼していず、中国電力火力発電所設置反対運動のときに医者として共闘していたI医師に信頼できそうな精神科の医師を問い、私を紹介されたという。  入院後の彼女は鉄格子と鍵のかかっている空間で苛立ちを訴えつつも結構友人もつくったりして耐えていた。某宗教団体会長が広島に来るとき焦りは極点に達した。教師たちもよく見舞に来てくれていた。母親も九州から赤ん妨をおんぶして見舞にやってきた。会社の常務も見舞にきた。彼女は誰を信用してよいのかよくわからないようであった。ただ、私を信頼し、私の判断を待ってくれていた。会社側は彼女の病名を何であるのか厳密に教えてくれとしつこくいってきた。前に入院していたU病院と診断名が異なる。仮に回復しても復職させずに解雇の方向にもっていこうと考えているようであった。ついには院長に面会を申し入れ、新しい診断書を書いてもらおうと企み始める始末であった。彼女の回復過程を見守りながら、いつ次の場へ生活を移すべきかを私は考えていた。とにかく彼女の希望は退院し車掌の仕事に早く戻り、観光バスのガイドさんになることであった。自分の仕事に誇りをもっており、仕事のことを話すときの彼女は生き生きとしていた。学校にも当然行きたがっていた。私からみれば、あまりにも朗らかすぎることが問題であった。  我慢強い彼女が耐えられなくなったとき、私は学校の教師たちと相談し次のような方針を出した。これ以上病院内で耐えさせることに治療的意味があるとは思えない。自宅が近くにあれば通院治療で十分やっていける段階にきている。実家が九州であること、職場と学校がF市であること、F市の寝泊りするところが会社の寮であること、会社側が解雇のチャンスをねらっていること、これらのために医療側も防衛的にならざるをえない気持に追いやられ彼女の希望をかなり無理して抑え、彼女に辛抱を強いていること。今の彼女は就労は無理であるが、就学は可能ではないかと思われる。一度、学校に彼女を連れて行き様子を見させてもらいたい。就学可能と思えたら会社の寮を使わせてもらってもよいのではないか。これは、生徒の就学権をどう保障していくかという問題でもある。  ある日、公休の看護婦Y嬢を伴って、私は彼女を車に乗せF市のT高校に向かっていた。彼女ははしゃいでいた。車掌の口調で話し私たちを笑わせながら、学校に今日から戻れることを信じて疑わなかった。F駅の裏にあるT高校に着いた。その後の彼女は水を得た魚のようにT高校に溶け込んでいった。まず、職員室に行きその雑然とした雰囲気に私は感動した。生徒たちが実に伸び伸びと振る舞っており、過去私が生徒として体験してきた学校の職員室とはあまりにも異質な空間であった。教師たちもざっくばらんで教師臭くなく生きがよかった。人間どうしが寄り集まり、解放され、本音で付き合っているようにみえた。私は負けたと思った。精神病院こそこのような雰囲気をつくり上げていかねばならないのにまるで反対ではないか。  彼女には看護婦のY嬢がついて教室に入った。私はT教諭やK教諭と話していた。労働組合のTさんもやって来た。教頭が来て校長室に案内された。私は教頭に今日の目的を話した。しばらくすると会社の常務と労務課長がやってきた。私は2人にA子の回復ぶりを報告し、彼女の希望を伝えた。会社の2人はその希望はのめないと語った。「A子が完全に回復し、入院が必要でなくなった時点でないと寮は使わせるわけにはいかない。A子の就学希望のみで、外泊というかたちで使わせることは規定上無理である。A子の就学の権利など会社としては関係ない」というものであった。私はA子の主治医として、教頭に立会人になってもらい、彼女の願いを理解し協力してもらうために会社側の人間と論争する羽目となる。最後に、私は会社側の2人に対して、どうしても彼女の希望を認めることができないならばただちに彼女にそのことを伝えてもらいたいと語る。彼女は学校に寮から通えると信じているのであるから。  私は校長室を出て職員室に行きA子を捜す。校長室での話合いが長時間すぎたので皆心配してくれていた。私は手短に会社側との意見の食い違いを説明しA子に自分の意思を会社側に伝える気持があるかどうか尋ねた。彼女は直に伝えると言う。  彼女に私が同伴して校長室に入る。彼女は緊張しながらも真っすぐに立って常務と労務課長の顔を見ながら 「私は車掌が好きです。決してやめません」 と言葉を出した。そして彼女と私は部屋を出た。このあとT教諭、K教諭、Tさんらが校長室に入り、会社側の2人とまたまた大論争を展開していった。3人の男たちが戻るまで私たちは職員室でどうするか話していた。久しぶりに教室に入り授業を受けた彼女はとても嬉しかったようである。しかし、校長室で今何が起こっているかはよく理解できていなかった。16歳の少女にとってはやむを得ないことではあった。  日が暮れて3人の男たちは戻ってきた。会社側の姿勢は厳しくついに妥協しなかったようである。 これからどうしていくか。教師たちが彼女を引き受けると言う。当面1過間の外泊とする。彼女を卒業生のアパートに住まわせてもらうことになった。T高校の近くのラーメン屋で私たちはラーメンと餃子を食べて別れた。  しかし翌々日には彼女はT病院に教頭の車で戻ってきた。落ち着かずあちこちさまよい、教頭は事故が起きたらまずいという判断をしたもようである。十分落ち着いていない病人を無謀にも病院の外に連れ出し学校に通わせるという非常識な医者として私は教頭の眼に映ったのかもしれない。またもや失敗。  しかし、この外泊をとおして彼女は急速に落ち着いていく。誰を信頼したらいいかも学んできたらしい。私ももはや不安をもたなかった。T高校の解放的な雰囲気、彼女の会社側にとったりりしい姿、そして彼女を守り馬鹿みたいに闘う3人の男たち。なんとしても彼女を再度仕事場に帰そうと思った。そのためには彼女が病院の外で普通の生活を送ることができているという実績を会社側に見せつけないといけない。  土曜日の宿直を終えた日曜日の朝、私は彼女を車に乗せ岡山駅に向かっていた。岡山駅から山陽新幹線に乗り博多に向かい、博多から西鉄に乗り換え有明海に面するY市に着いた。  ここが彼女の育った町である。駅から彼女の家族が住む市営住宅に一緒に歩いていった。彼女は落ち着いていた。Y市の風景に溶け込んでいた。生い立ちを何度も聞き想像してきたのであるが、そんなことはどうでもよかった。今彼女はまったく自然にここにいるということが嬉しかった。家に着く。母親が 「そろそろ今日ぐらい帰って来ると思っていた。」 と呵呵と笑う。彼女は長女になっていた。父親がいて挨拶をし、酒をすすめてくれる。酔わさぬようにと思いつつ、父親からいろいろな話を聞かされる。妹も出てきて挨拶をする。今精神病院に入院しているという弟と、この背のスラッと高く顔立ちがよくて成績が良いという妹を、母親代わりに育ててきたという彼女はこの家の中で長女として蘇る。私は安心して彼女を母親に返した。母親は、 「A子も元気になったし、弟ももうすぐ退院できそうだ。赤ちゃんも生まれたし今年はいい年になりそうだ。赤ちゃんはこの家の希望の星よ」 と言う。この家の苦しみ、悩みも今赤ちゃんとして存在している末っ子を中心にして逆転させんとする母親の大戦略に私は感心する。会社側との闘いもしょせんこの偉大なる女によって戦術は立てられたのであり、私たち男はその助っ人であるにすぎないという安心感がおそってくる。 「明日仕事がありますので」 と言って私は帰る。彼女と妹がY駅まで送ってくれる。  A子は、その後、労働組合と定時制の教師たちの闘争の支援をうけて、母親の見通しどおり見事に復職し復学し卒業した。今は九州に戻り、結婚し赤ちゃんを産み育てている。節目節目には報告の電話をしてくる。父親が亡くなったという。結婚した夫は私より1歳年上であり、夫は「わしは早く死ぬが赤ちゃんがいるからお前は大丈夫だ」 と言ってくれるのだという報告が最近あった。赤ちゃんはいつも苦境のときの逆転劇のシンボルとなるのであろうか。  これが私にとっての「当たり前」の医療の原イメージである。  なぜA子と共に揺れ動いていた状況に医者として関わらさせられたときが、私にとっての「当たり前」の医療であるのか。  1つは、16歳のA子は臆することなく正々堂々と自分の主張を語り続けたこと。  2つは、A子が核におり、彼女の母親が戦術を提起し、教師、組合、医療が助っ人という立場でありえたこと。  3つは、助っ人たちはそれぞれの仕事場で闘っていたこと。助っ人たちはA子の生きざまと各人の労働現場をつなげさせることにより現場の仕事のあり方を問い続けざるを得なかったこと。A子を切り捨てることが果たして許されることなのかが内部で問われ、共に闘うという方針をだしたこと。  4つは、土壇場での責任は母がひきうけたこと。  5つは、本人が自立していったこと。  私にとっては自分が蘇り自分らしくやれたという仕事がなさすぎるせいであろうか。苦しいとき、いつも、好条件に恵まれていたA子の復職と復学の闘いのことを思い出してしまう。  これ以後、広島の定時制・通信制の高校の教師たちに気にいられ、彼らの野方図な教師としての生き方、仕事ぶりに圧倒されながら、生徒さんが病んだときには呼ばれて一緒に仕事をさせてもらっている。私にとっては運命の女神ともいうべきA子であった。 2 医療へのロマンを求めて  1978年、石川信義先生の『開かれている病棟』が出版された。この人は医療現場の人間だと感じた。評論家風の精神科医の書物の洪水にいささかうんざりしていたというより、病者の生活現場に足場を定めていないアカデミズムの学者たちに怒りを感じている私であった。  私は、やりきりたいにもかかわらず中途半端な妥協で終わっている当時の私たちの仕事を極めてすっきりと行動に移している石川院長に無性に会いたくなり、同時に三枚橋病院のありのままの姿を自分の目で見たいという衝動にかられ、さっそく電話をしてしまった。  私と佐野は三枚橋病院に行き石川院長に会った。「隘路は何ですか」との問いに、私は、古い管理体制に妥協せざるを得ないこと、このままでは後退させない形を造ることはできても次の治療活動の展望が見えずしょせん現状維持にとどまることなどを話したように思う。  私はまだ若かった。先が見えたままで腐った施設の中間管理者として生き長らえていくことに耐えられず悶々としていた。  やらねばならないことがまだまだあった。不安は、独立して資本の論理の中で精神医療へのロマンを追い求め、ちゃんと帳尻を合わす力を自分がもっているかどうかということであった。結論は「やりなさい」であった。三枚橋病院誕生までのノウハウをたっぶり伝授され岡山に戻った。  新しい病院を創ると高らかに宣言して協力者を求め、動き回った。  まこと苦しき道中であった。医療改革派というのは仲間内のみで通用するものであり、世間からはいかように条理をつくし理想を語っても特異なレッテルを貼られている医者にすぎなかった。人が病んだときに医療側として病んだ人およびその人を取り巻く状況にまっとうに関わりたい、そして生活者としてまず生きている人にとって必要な療養の場を過去の実践経験から創らせてもらいたいという願いを語り続けた。背水の陣を私たちは敷いていた。精神障害者に対する偏見・差別、彼等に対して加えてきた国家の社会防衛的政策、隔離収容を根底に置いて平然と酷く扱い続けてきた今までの医者どもの付けが今回ってきているという実感を嫌というほど味わうことができた。  有難いことに、行政は協力的であったし、積極的に支援して下さる方々も多く、縁あって真備町に生活と繋がった療養の場を創る土地を得ることができた。 3 自己完結しない医療の場であるために  1981年6月1日、「まきび病院」は確かに誕生した。そして今もなお存在し続けている。「まきび病院」をつくったことを後悔はしていない。医療を提供する場としてまだ必要であると思っている。  昔々−拘禁施設を患者さんの声を核にして現場のスタッフと共にできるだけゆっくりと治療の場に変えていこうとした、長期に拘禁されていた患者さんと共に一般社会で生きる場を求めて倉敷市内に地域診療所をつくり再発を未然に防ごうともした、地域の保健婦さんと共に患者さんを地域で支えようと努力もした、入院を前提にしないで病んだ人が望む生活の場で治療を組み立てていこうともした、患者さんとの交流会ももとうともした、地域家族会の強くなることを期待し協力しようと努力もした、単身者の労働者を支えようとボランティア・ラナという夜間診療所つきの<たまり場>をつくったこともあった、社会精神医学という集まりをもって施設・職種の枠を越えて日常の医療現場の問題点を出し合い改革しようともした(資料:まきび病院前史年表参照)。  しかし、いくら頑張っても家庭と診療所だけでは支えられないこともある。家庭と診療所以外にも安心して療養できる場は必要となる。  医療機関として提供できる役割があるとすれば、1つはよろず人生悩みごとに医療者として相談に応じる力をもっていること、2つはちょっとしんどすぎて行き場がないときの一時期の<たまり場>を提供できる力をもっていること、3つは急性期、再発時期に的確な医療的処置を行い、生命の死・社会的な死を防ぎ、人の、病から回復していく手助けをする<泊り場>を用意する力をもっていること、4つは苦しみ・悩みの現場に駆け参じて一緒に次の方向を模索する機動力をもっていること−くらいであろうか。  しかし、1つ1つの役割がきちんと果たせるためには、状況に合わせて動ける柔軟な管理体制とその役割を担う医療側の人間の力量がたえず問われ続けていなければならない。過去の医療機関はこの点を十分に考え工夫していたとは思えない。<まきぴの医療>は次のことを大事なこととして組み立てようと暗中模索してきた。いわば、<まきびの医療>のへそである。  第1は、<異>を内包している状況に関わらされているということをはっきりと自覚していること。 <異>とは、人が自分の普段意識しないでいる我身にたいして違和感をもち、かつそれが当人にとって苦痛と不安を伴うものでありときには死への恐怖さえも伴うという「個人の身における<異>」と共に、ある集団において個人が<異>と抽出されている「状況における<異>」も同時に意味している。私たちは「状況における<異>」をただちに「個人の身における<異>」に翻訳させる専門家として訓練を受けてきたが、重要なことは、何故私たちは<異>を内包しているという状況に呼ばれ、いかような役割を果たすことを期待されているかを改めて考えることである。状況をしっかりと分析し状況をまず安定させることが最初の関わりにおける最重要課題である。  第2に、<異>を内包しているという状況において、個人の身の<異>を認めかつそれがその人において病ととらえざるをえぬとき、病を自然の過程と見ることが重要である。個体と境界の相互関係のある時点での解決の1つのあり方としてとらえるということである。  第3に、治療者と患者という関係を自明のこととしないで、あくまでも個人と個人の互角の関係を前提として対しあうことである。私は対峙から始まる医療と呼んでいる。  第4に、人が病んだときの脆さ・弱さを素直に認めあうところから治療関係が始まっていることを知るべきである。人は病んだとき苦しみ・悩みから解放されたいと願望する。すなわち癒えることを切望し<治してくれる何物か>を求めてしまう。人の病んだときもたざるを得ない<治癒願望>・<治療への幻想>は、現代社会においては国家が主宰する近代西欧医学に向かっている。この病んだときの人間の弱さを認めるところから治療が成立していく。  第5に、治療とは、個体と環界の相互関係のある時点での解決の1つのあり万を、個体にとってより楽な新しい関係へ導く道筋を、病んでいる人と共に求めていく作業であるといえる。自然治癒力とは、個体と環界の解決の1つのあり方があくまでも一時的なものであり、より新しい関係の結び方に進む方向性を個体は有しているという事実を認めている概念である。発病とみなされたときの対応は的確でないといけない。自然治癒力がうまく作動するように最大限の配慮と共に最小限の医療的侵襲行為にとどめるように努めなければならない。  しかし病いは人にとってどのように進展するのであろうか。痛いが常態化した場合、人はそれを引き受けねばならなくなる。精神的変調は誰もが陥る自然の過程であることをいやというほど見せられる現場において、このとき私たちはどうすべきなのであろうか。 「まきび病院」が保健医療機関として認可されこの5年間、社会的機能をいかほど果たし得たのかは疑問である。しかし、先に述べた5つのことを大事にして動いてきたのも事実である。  管理者としては、「創生期」が施設の未来を規定してしまうという認識はもっていた。ロマン(夢)と現実のギャップ、それをいかに知恵をしぼってその場をしのぎつつ夢に近づけようとしたことか。患者さんをあくまで中心にして動いていける組織をつくること、そのためには優秀なスタッフが必要であり、古典的なスタッフの再教育も必要になってくる。特に私が強調したいのは、「看護の力量をいかにつけるか」を最大の課題にしてきたことである。国家が主宰している精神衛生体系における末端の医療機関に要請されている役割を相対化でき、かつ患者さんを真中において仕事をしていく医療者が輩出してくれることが私のスタッフヘの期待である。  有難いことに皆頑張り屋が多く、ゴタゴタしながらも新しい空間で、ある意味で実験的な実践を開拓していった。医療を利用する人たちにとっても使いやすい場所として生活の中に位置づけられていったように思える。  これらは、以下の章で各部署からの報告として語られているとおりである。  現行の精神衛生法体制下においても、いろいろ知恵をしぼっていけばこのくらいのことは可能である。管理者が巨大な責任をとらされる法律であるがゆえに全責任を独りで被るつもりであれば、逆に自由に医療機関を人が病むときに安心して使える施設に転化させることが可能である。もちろん、一緒に組んで働いている誠実なスタッフがいることが前提ではあることはいうまでもないが。  私は人と、人がつくりだす小状況さらに想像の世界で描く大状況しか見えない視野狭窄の臨床医である。  私は四季の感覚がまったくといってよいほどない人間であった。ここにきて四季の感覚を幾分なりとも教わったように思える。  そして今精神衛生法改訂の季節を迎えようとしている。冬は冬らしくもっと寒くなればよい。そう言っては自分や他人を今までおちこませてきたようにも思える。医療側にどれほどの闘いが行われたというのであろうか。病者においてどれほどの闘いが行われたというのであろうか。病者の家族においてどれほどの闘いが行われたというのであろうか。法曹界においてどれほどの闘いが行われたというのであろうか。いずれも闘いというよりは地を這うような忍従の期間であった。冬の時季でもおのれの納得できぬことは止めるという意思を少数者が持続させ続けたにすぎない。怒りを押し殺し続けて生きていくと自分に怒りというものが過去にあったのかさえわからなくなってくる。全体状況は変わったとは思えない。あいかわらず私にとっては冬である。冬に咲いたあだ花といえば聞こえはよいが、ますます障害者に対する管理の構造が巧妙になっていき、偏見・差別の実態が不明瞭になり、若い人たちにとって見えにくくなっていくのではないかという不安がよぎる。実状はほとんど変わっていないのである。人間の解放に向けての闘いはまだまだこれからであり、ましてやおのれの血に向かわねばならない闘いにおいては、戦の出発点を再度確認しあう節目にきたと思うだけである。差別は厳然としてある。差別者が被差別者をつくり、被差別者がさらに被差別者をつくり続けていくという連鎖を打破していく道は遠い。  なぜ、今「当たり前」の医療を問うのか。  なぜ、「まきび病院」は自らの課題を「当たり前」の医療をもとめてとしているのか。  少なくとも医療に従事している者には問いたい。私たちが挑戦しているのは<各人の当たり前の医療観=既成の医療観>であり、およびその担い手としての医療従事者のみならず人一般に対してである。各人の抱いている「当たり前」と刻印されている医療観を相対化せよと主張しているのであり、この課題を「まきび病院」は追求し続けていこうとしているということである。  この課題を現場で問い続ける作業の中からしか人間の解放を視野に入れた仕事は生み出すことはできないのではないかと思っている。永久に、近代合理主義の枠内で自己完結しない医療の場であるために。 第1章 医局より <まきび医療>における役割と発見 1 医局4年半の軌跡 「まきび病院」の医局の位置と構造は変則的である。医局の位置は南北に長い病院建物の北の端、正面玄関からいうと最奥郡に当たり、そこは職員通用門からいちばん近い場所である。通用門を入り、狭い踊り場を渡って正面の防火用鉄扉を開くと医局空間に入る。大方の医療機関において、医局の占める位置・空間は陽当たりが良く環境に恵まれ、そしてその施設の機能的重要部門としてふさわしい場所を与えられているものである。しかし、「まきび病院」には、そういう「城」はない(医局に限らずどの部門にも「城」となる空間は用意されていない)。医局にいて北側のアルミ戸を開けると、小鳥のさえずりと風情ある竹林の佇まいを楽しむことはできても早朝の一刻を除いて陽光が差し込むことは望めない(最近は北側の空地に倉庫用プレハブが置かれて竹林を見ることもできなくなってしまったが)。中庭に面した南側の小窓は病棟ロビーの窓からの視界にさらされているため、終日開けることがないので日中でも薄暗く換気も悪い。並列する2つの6畳の和室・4畳半のダイニングキッチン・団地サイズの浴室とトイレ、それが医局のすべてである。元来設計図面上では「医師住宅」としている場所を「医局兼宿直室」としたもので、文字どおり生活の場なのである。開院当時医局に用意された家具は、小型冷蔵庫、電気洗濯機、ガスコンロ、組立て式書架と寝具ぐらいで空調設備は省かれていたため、携帯用除湿器が住人の健康管理上貴重な備品となっていた。住人である院長、副院長、事務長の3人は、はじめの1年間のほとんどをそこで起居した。  真備町はまったく未知、不案内の地であった。よそ者の我々をどのように迎え、どのように認めてくれるのか。開院前の緻密、周到なる準備をした上にも不安はやまなかった。新しい精神医療実践の拠点をつくるという気構えよりもむしろ未知の土地で果たして生きてゆけるだろうか、何が何でもその地へ住みつかねばならないという不安、緊張感のほうが大きな精神的重圧となっていた。土地がなければ病院は建てられない。土地を与えてもらい、そこで受け入れてもらえなければ病院は生き延びられない。以前土地捜しの段階で出会った、某地域住民による病院設立反対運動の体験は、そのことを身にしみて敢えてくれていた。「精神障害」に対する社会の偏見、素朴なしかし強固な忌避感情は、まず我々に向けられたのである。地域住民は自分たちの「健康」を守ってくれる身近な医療の場を求めてはいたが、精神医療とは、彼らにとって無縁の、否日常生活を脅かす恐れのあるもの以外の何物でもなかった。 「まきび病院」は、はじめから「精神科」の看板ではなく「心療内科・内科・小児科」を標榜科名として揚げていた。  開院式の日、地元住民の方々に院内を見学してもらい、外来も病棟もすべて案内したが、見学団は明るく広々とした開放的空間に好感を覚えてくれたようであった。 <まきび医療>はこうしてスタートしたが、開院以後待っていたのは、まさに汗まみれ、泥まみれの臨床現場であった。 <まきび医療>の創生期は全職員の献身的熱意と努力に支えられたという事実は、何度いってもいいすぎにはならない。小人数(16名)ながらひとりひとりが発揮した力は、その何倍もの力に匹敵し、噴流したエネルギーは莫大なものであった。平均年齢31歳の小集団のがむしゃらさが、新しい施設をこの世に押し出す原動力となるのは、我々の場合が特殊であったとはいえないだろう。過去いくつもの医療機関においても(もちろん、医療以外の分野でも)、1つの個性的な事業の創始期を担った人たちが情熱をささげたプロセスと共通する体験であったと思う。問題なのは、そのプロセスで何をいかに発見し、独自の作品としてどう後世に残していくかという点である。いずれ終焉に向かうであろう創生のエネルギーを、あえて管理的に操作せず、あらかじめ指定された方向へと収束させる誘惑に耐えながら、創造の息吹の跳梁する流動状況を維持し続けることが可能であったのは、<まきぴ医療>のプロモーターたる一色院長の人間的大きさであったと思う。試行錯誤の中にこそ、新しい発見とオリジナルな動きは生まれてくる。「混沌」こそ創造の母体である。  開院当初の動きはとにかく目まぐるしかった。時間の流れは、時計が刻むような静かな歩みではなく、人々が動き合い、感じ合いまた動く、その後から追いかけてくるかのように感じられた。各人の役割は、以前の施設で与えられてきたような固定的なものではなく、何でもこなさなければならなかったが、皆それを引き受けてやり続けた。生まれたばかりの赤ん坊を育てる母親のような気迫をもって。  新しい建物がありそこへ癒えと安らぎを求めてくる人がいる。我々にとっても、患者さんとして訪れてくる人にとっても、そこは新しい出会いの場であり生活の場でもある。そこは住みやすく安心して暮せる場でありたい。環境は静かで清潔で明るいほうが良い。そこで待つ我々は、病む人の苦しさを受けとめ和らげられる存在でありたい。医療者という以前に人を迎え入れるためには何をすればよいのかという想いが、当時の我々には強かったように思う。  医局の役割は、新しい場を治療の場としてフルに機能させてゆくところにある。そのためにするべきことはたくさんあった。医療・看護用器械・器具その他備品の選択と購入決定。あらかじめ用意していた診療録・処方箋・指示箋などの書類を実際場面で使いやすくするための改良。薬品の選択・購入交渉などの実務的な作業。開院時集まってくれた職員の半数以上は精神医療の素人である。毎日の診療の流れを円滑にするためには、基本的な事柄から始め様々な決定と指示をしなければならなかった。  外来者の数は少なくても、開院したてのときにはひどく神経を使うものである。近隣の住民の内科・小児科診療に適切に応じてゆくには自らを再教育する努力もする。医者自ら処方し調剤分包磯を操作し、X線撮影、脳波検査をこなした。地域サービスの1つとして無料住民検診もした。病棟詰所にも医局の指示は大胆かつ細やかに行わなければならなかった。薬物療法の意味、検査・処置の仕方、そしていちばん大切な患者さんへの接し方。医局が指示し、自ら行動モデルとなった。惜しまず、愚痴をこぼさずよく働く看護者たちには息抜きも必要である。そのため、開院後初めての年末・年始には病棟詰所で宿直兼病棟夜勤を行った。  休日といわず夜間といわず外来診療には応じた。深夜の小児科診察、近所の老人の往診、急患の往診、月に1度はけたたましくサイレンを鳴らして救急車が飛び込んできた。急性心筋梗塞、胃潰瘍穿孔、イレウス、外傷、急性ガソリン中毒など。それらに対してもプライマリーケアの任は果たさなければならない。当直スタッフで対応できない状況には、公休の看護者も駆けつけて手伝ってくれた。よく訓練された外科経験をもつ看護婦たちの機敏な介助処置に助けられたこともたびたびあった。救急救命の状況は入院中の人たちにも当然訪れることがある。入院している人たちにとって身体ケアの保証があることは、大きな安心感となっていたようだ。  開院後数カ月間の最大の不安は、いつになれば満床に達するかということである。我々は、過去勤めていた医療機関を辞めて1年間は、小さな夜間診療所をボランティアとして運営していた以外、精神医療の現場を離れ、臨床医として自らの修業をしていたのである。臨床医としては「手持ち患者」零からの出発であった。我々を信頼してくれる人たちからの新規紹介を期待した。 6月−38人、7月−32人、8月−30人、9月−25人、10月−25人、11月−23人、12月−34人、1月−24人、2月−24人、3月−31人、4月−24人、5月−28人  これは開院から1年間の新規入院者実数である。有難いことにこの人たちの多くは、総合病院精神科、精神科診療所、精神病院からの紹介であった。地元の一般病院の紹介、口コミで来院される人も徐々に増えていった。引き受けた以上、紹介してくれた人、施設に対して絶対迷惑をかけない、という方針で臨んだ。投げかけてくれた信頼に応えなければならないという気持は強く、それは使命感さえ帯びていた。開院して3カ月たった頃、県内の精神病院の大先輩から陣中見舞いともいえる激励の電話を頂いた。同じ頃、ちょうど来岡中の三枚橋病院石川先生が訪ねて下さった。<まきび医療>は、決して我々の力だけで成り立つものではないということがわかったと同時に、我々を見守ってくれている先輩、知人、友人たちの好意が骨身にしみた時期であった。<まきび医療>は、安易な仕事であってはならない。どんなことがあっても、仕事の上での言い逃れをしてはいけない。それが信頼してくれる人たちへの仁義であると思った。そしてそういう状況へ自らを追い込むことが自らの責任であるとも思った。  当然のことながら、患者さんを選ぶことは許されなかった。入院依頼は満床でない限り断らぬという原則は今も続いている。深夜になると生き生きと動き回るせん妄の老人、脳炎の高熱でけいれんの止まらない知恵おくれの女性、ジアゼパム50mg・ハロペリドール20mgを静注してもなお全館に鳴り響く叫びをやめない躁病の女性、病院の自転車で飛び出してゆく人、アルコールせん妄、自殺企図を繰り返す人。今から思うと当時は特に手ごわい人が多かったようだが、開院後4カ月間は保護室を使用せず、すべての人を開放空間で引き受けたのである。この状況で、過去習得し病院・診療所で通用してきた(と思っていた)薬物療法をはじめとする治療技術は、その限界を越える場面に何度も遭遇させられた。看護スタッフもとにかく小人数であったため、家族の付添い、治療場面への参加をお願いすることもよくあった。家族はそれを当然のことのように引き受けてくれた。痴呆老人の介助にはその奥さんが始終付き添った。興奮、昏迷のわが子に食事させるために母親が何日も付き添った。重症強迫神経症の中学生は母親と離れることができず、約10ヵ月間母親と共に入院生活をした。我々は、家族のいる前で治療・看護をするということが「当たり前」のことと思うようになった。  新しい場では、新しい出会いが可能である。  新しい空間に入院し、そこで生活するひとりひとりの人に我々はいつも新しい出会いを体験した。ひとりひとりがよく見えた時期でもあった。この人は何故我々のもとを訪れなければならなかったのか、ここに来るまでにどんな生活を送ってきたのか、何を悩み苦しみ、何故こんなにも大きな不安に陥ったのか。迎える我々はこの人に対して何ができるのか。求めに応じるとは何をすることなのか。出会いにはいつもそういう問いが自分自身に向けられた。我々は動いた。その動きはやみくもであったが、出会いとぶつかり合いの中で学び得たものは大きかった。  某大学病院から紹介されてきた抑うつ神経症の若者がいた。彼は大卒後初めて就職した中堅企業で挫折を体験して以来何度も転職したが不満足感、自己不全感から逃れることができず、遷延した抑うつ気分、焦慮と希死念慮を主訴に入院し3カ月が過ぎていた。何とか抑うつ状態を抜け出し退院の日程が決まったある日、彼はこう言った。 「ここの人たちはとてもよく働くのですね。看護婦さんも先生も休んでいるのを見たことがない。ぼくも昔はそうだったのに、この2年間本当に無為に過ごしてしまった。生き生きと本当に懸命になって動いている人たちを見て自分もこんなことをしていでは駄目だという踏ん切りがつきました」  また発病してもう20年近くになるKさんは、家庭の受入れが悪いまま漠とした幻覚妄想状態のただなかにあって終日臥床の生活を送っていた。そのKさんの生活が少し活動的となり、珍しく自分から問診を希望してきたとき語ったことがある。 「病室で寝転んで空を見ながら宇宙のことばかり考えていました。ある日検温の看護婦さんが部屋に入って来たとき、ぼくに笑いながら話しかけてくれたんです。その笑顔を見て皆の中へ入ってゆこうという勇気が湧いてきました」  当時、心身の疲労を癒やすときもなく働いていた我々にとって、彼らの言葉は救いでもあり、日々の診療業務に追われ忙しさの中に埋没していた自分自身を、治療者として客観的に見直す目を呼び起こしてくれるものであった。病いのしんどさを抱えた人、病む人に付き添っている家族、皆ドタバタと動いている我々に優しかった。我々の苦労は、彼等との信頼が生まれてゆく中で報われるようであった。創生期、我々を支えてくれたのは、他ならぬ患者さん・家族の人たちであったのかもしれない。  1981年12月30日の深夜、片麻痺と精神症状のため入院していた脳動脈硬化性痴呆の老婦人が突然消化管出血によるショックに陥り数時間の処置も空しく息を引き取られた。「まきび病院」において初めて迎える1つの生命の終蔦であった。遠方から車を駆ってきた御主人も娘さんも臨終に間に合わず、広い病室でひとり我々だけに見守られながらの死であった。我々は人との新しい出会いにも、永遠の別れにも立ち会わされる。ここは医療の現場である以上に、人間の生きざま、生と死が繰り広げられる場なのである。遺体を乗せたワゴン車の後を見送りながらそんな感慨が手を合わせた胸に込み上げてきた。  1981年12月末、入院者数は79名。入院期間が短いため入院者数はまだ定床を満たしていなかった。しかし、いつ満床になるのかという力みと焦りは、もう我々の不安を駆り立ててはいなかった。「まきび病院」を訪れるひとりひとりの人に対して責任のとれる、信頼される治療の場を提供してゆくにはどうすればよいのだろうか。先のことはわからなかった。しかし短い期間ではあれ、全職員が全精力を傾けてきた臨床実践の過程で発見し感じたことの貴さは、言葉にしなくてもわかっていた。それは誰に指摘されなくても、<まきび医療>を守り育てていかなければならないという想いを逞しくするのに十分な心の糧であったと思う。 「まきび病院」の創生期の患者さんたちとの出会いとぶつかり合いの中で体験したことは、過去の病棟開放運動、反入院主義を掲げた診療所での地域活動、夜間たまり場運営などで感じたこととはどこか違った異質なものであった。病者の人権を守る側に立つとは。差別された病者の生活と治療を保障することとは。それらの重い課題への取組に、精神科医としてある種の罪悪感に基づいたものがなかったとはいえない。それは、強者から弱者へと、与える側の論理から生まれる心情の範囲を越えるものではなかったのではないか。  24時間自分自身の生活の場をまるごと臨床現場に置いてみて病いに苦しみ、病いと闘っている患者さん・家族、そして手探りながら彼等を懸命に支えようと寄り添う看護者、職員たちと生活を共有するとき、その状況の中で見えてくるのは病いそのものの姿よりもひとりひとりの人間の生きざま、生の有様であった。医療現場とは人間と人間、人間と状況が出会う契機となる(社会における)一つの場であること、病いが癒えていくというのは、患者さんと家族と我々の間でなされる共同作業の過程であるという事実も見えてくる。我々は与える側では決してあり得ない。「共に生きている」という言葉が、卑屈な後ろめたさを覚えずに使ってゆけると感じる体験であった。  医局のスタッフは3名。院長と副院長は、外来と病棟診療を1日交替で担当した。初診医を主治医とすることに決め、その後も一貫して主治医として責任をとる体制とした。外来は月曜日から土曜日まで毎日午前9時から午後6時までの診療としていたが、夜間、休日の診察も少なくなかった。夜間宿直は、1年間は院長が週7日、副院長が週6日行い、小人数の看護部門を支えた。心療内科に限らず内科、小児科でも主治医は来る者拒まずの方針で臨んだことは、患者さん、家族に大きな安心と信頼をもたれたようであった。また、職員の患者観にも少なからぬ影響を与え、決定づけたようであった。  外来には、処置室を挟んで2つ診察室があり、医局にデスクをもたない2人の医者は、そこをおのおのの仕事部屋としていた。病棟には診察室と呼べる部屋はなく、広い看護詰所の奥の一隅に事務机を置き、診察用ベッドとカーテンで仕切りをして診察コーナーとしていた。  医者は診察するとき、いつもモデル演技を心掛けていなければならなかった。医者の患者さんに対する態度、言葉遣い、表情、一挙手一投足がその場にいるスタッフに影響を与え学習されていくのである。すべてが新しく、精神医療自体を未知のものとして体験している看護者の困惑や悩みは浅いものではなかった。日々、患者さんを目の前にして何をすればよいのか。経験のある職員でもその経験に頼ることはできない状況が展開する現場であった。  一色院長は当時、「添わせの三重奏」というスローガンで、看護部門がどれだけ患者さん、家族に合わせ彼等の不安や苦しみに添う動きを作ってゆけるかという課題を投げかけていた。悩み迷い続けながら、多彩な添わせの動きを独自に開拓していった看護部門の知恵と技術は、現在の<まきび医療>の中で生きているように思う。  病むということは苦しいことである。身体の痛み、不快はもちろん、心が病むということはおそらく耐え難い苦悩にちがいない。否、その懊悩が耐えられる限界を突破したがゆえに病む人となったのであろう。狂うことはその人にとって恐ろしいことである。狂いは、精神としての自己の存在を根底から覆してしまい、身体としての自己の有様も激変させてしまう。自分という存在が定立する基盤が根こそぎ損なわれてしまうことの絶望的な脅威と不安。病む人の世界を共有することはできなくても我々はどれだけ彼等の苦しさに添わせられる存在となれるのか。ひとりひとりの患者さんを前にしたとき、突き付けられる憂悶はいつも同じであった。創生期の巨大なエネルギーの渦に放り込まれながら、ともすれば自分自身の精神が危機にさらされているのを覚えることもあった。そんなとき、自分だけが狂気から守護されているという確証があると思えなくなる。  病む人の支えになろうと努めながら、自分自身が安全の神話の中に安住できなくなるときでも、その不安を凌ぐ力は自分自身の中に求めてゆくしかない。病む人との応対の最中にも、絶えず自分を安定させねばという緊迫感は消え去ることがなかった。  治療者は、依存的であってはならず、引き受けた責任を回避してはならず、これから展開されるであろう事態も冷静に予測しながら日常の臨床現場で病む人を前にして、安定した存在であり続けなければならない。そのような課題を自らに課すだけの緊張感があった。  病む人の不安をわかろうとすること、病む人の不安に添わせて動いてみようとすること、そこから初めて病む人との関係が生まれてくるという素朴な事実には深い真実がある。暗中模索。試行錯誤。ただ患者さん、家族にいかに添わせて動けるか。各自のもつ専門家としての知識と技術、そして個性と人間性をも武器にして全身でぶつかっていくしかなかった。その過程で、治療とは、看護とは何かということを各自が学び取っていくことを期待した。看護部門は、戸惑い悩みながらも数多くの添わせの動きを生み出し、技術として開発していった。病棟詰所を解放し患者さんたちとの語らいの場とした。詰所の奥の休憩室は、不安の強い人のベッドとなった。日に何度となく外へ駆け出してゆく人を追いかけては根気強く説得した。添い寝、喫茶店、マーケットへの同伴外出。面会に来ない家族への随時電話連絡。老人、身体的合併症をもつ人に対しては殊のほか気を配り、付添い家族の不安や心配を積極的に受け止めようとした。  医療機関として一応軌道に乗った頃から、一色院長は、「看護部門は病院のへソである。看護部門が力をつけなければいけない」と口癖のように言っていた。日夜、患者さんと生活空間を共にして日常の暮しに関わっている看護部門のあり方が<まきび医療>における最大の問題であると指摘していた。看護部門は「まきび病院」の中で最大の人数を配している部門でもある。  1982年4月、医療計画委員会が発足。1カ月ごとの治療活動の点検と翌月の方針が夜遅くまで話し合われるようになった。病棟では、看護者全員による5日間リーダーローテイト体制が敷かれるようになった。<まきび医療>の土台を支える看護部門の組織、体制作りの試行錯誤の始まりであった。目指したのは「看護の自立」である。  1年目、定床はほぼ満たされるようになった。毎日の外来受診者数30名。毎月の入・退院者数はおのおの38名と25名。病床回転率は、100床規模の病院として悪いものではなかった(数字は1982年6月)。患者さんを紹介してくれる医療機関もいつの間にか他府県に広がっていて、病棟内は岡山弁、関西弁、広島弁の会話が行き交う場となっていた。1982年6月からは休日の当直は大学病院の若いパート医に依頼し、常勤医は平日の宿直を隔日交替でするようにしたが、患者さんの数が増えるに従い日常診療に忙殺される毎日に変わりはなかった。主治医制は徹底したものだったので、外来でも病棟でも担当患者さんの要請に応じた動きをせざるをえなかった。  外部からの電話相談は頻回にあり、診察中でも主治医はそれに対応した。主治医は、病棟と外来を1日に何回も往復しなければならなくなっていった。毎年若い職員が入社してくる。スタッフの数は開院時の2倍にもなり、各部門の人員は充実していった。当然、各部門がおのおのの立場で患者さんとの関わりを作り出していく。医局は、それらの動きを保障し、若い職員を育ててゆく役割も負わねばならない。診察室で個々の診療を行いながら、病院内外で起こっている多様な治療状況を把握し、各部門の活動を点検しながら、より包括的にひとりひとりの治療方針を考えてゆくことが役割として要請された。  医局主導で院内学習会を提案したのは、開院から2年目である。最初に選んだテーマは心肺蘇生法で、某大学病院救急救命センターから講師を派遣してもらった。引き続いて、救急プライマリーケアについて開院後の体験を踏まえながら症例検討式の学習会を連続してもった。日常的に要請される内科・小児科の救急処置の知識、技術に関する看護部門の不安から出てきたテーマではあったが、精神科においても、看護部門がその基本のひとつとして身体ケアを重視したことは正しかったと思う。精神医療においても、身体の危機を伴ってくる人は多い。昏迷状態、様々な身体的合併症、心気症・セネストパチー、向精神薬の副作用(主作用)への不安、身体看護ができなければ、それらへの十分な対応はできない。それに、身体は初めての人と治療関係を結ぶときの手掛りとなるものでもある。拒絶・昏迷状態の人たちへの根気良い食事や排泄の介助と身体的清潔・安全の保護努力が、急性期を脱した後の患者さんと看護者との信頼関係を築く基盤になることは何度も体験した事実である。身体は、ときに言葉よりも強力で確かな精神療法の媒介でもある。  学習会で精神医学、医療に関する知識を体系的に解説し、問題意識を正面から投げかけたのは3年目の春であった。このときのテーマは、「医学概論」「精神医学各論」で、院長による連続講義。そして「人権と精神医療」「地域精神医療」「精神衛生法」「思春期精神医学」などであった。これらは、今後も反復して学習しなければならないテーマであるが、討論の内実を各自の体験に裏打ちされたものとする努力が必要であると思っている。  開院以来医局は、地域の様々な医療サービスにも応じてきた。これらのサービスは、この地で生きてゆくためでもあったが、我々の仕事が地域に受け入れられ、理解される上で決して無駄ではなかったと思う。小学校の校医、3歳児検診、老人保健相談、各種の予防接種、休日当番医は、今も続いて引き受けている地域での役割である。  1983年6月からは、平日にパート医1名、1984年6月からは同2名とし、休日当直はほぼ大学病院からのパート医で埋められるようになっていた。  1984年春、三鼓総婦長が着任してから医局空間は少し整備された。和室の一方を総婦長室、他方を医師宿直室とし、名称も医局兼管理室と改めた。ロッカーが備えられ、書架も大きく立派なものとなり、ダイニングスペースには上質の木製楕円テーブルとイスが置かれた。和室には初めて空調設備が取り付けられた。そして夜遅くまで、一色院長の人生談義に若い職員やパート医が聞き入る光景が毎日のように見られるようになった。医局への来客は開院以来少なくなかった。学生、若い医療労働者、教師、新聞記者、その他の市民。日本各地からいろいろな人が泊りがけで訪れ、精神医療と人生論を語り明かす場でもあった。  1985年春、常勤医1名新採用を機会に、開院以来続いていた主治医体制の再点検を行った。カルテ番号が通算3,000を突破した状況では、相談、診察を主治医がいつでも応じるという体制は既にパンクしていた。病棟回診の途中でたびたび外来診察や電話で呼び返されていたのでは、診療がゆとりあるものではなくなってしまう。3名の常勤医が、外来・病棟診療業務を曜日により分担し、主治医以外でも当日の担当医が、外来・病棟で診察することにした。外来の予約診療も以前より安定してできるようになった。徹底した主治医制に慣れていた患者さんには若干の戸惑いもあったようだが、治療上大きな問題となることはなかった。  看護部門では、看護主任4名の日勤常駐体制を敷き、外来には外来詰所を新設し看護婦2名を専従させた(これまで外来専従看護婦は1名で、もう1名はパート看護婦あるいは病棟から1カ月間のローテイトで回していた)。事務部門、相談室部門、薬局、外来詰所、医局から成る外来会議も新設、定例化した。さらに、毎週月曜日朝、各部門主任で診療会議をもって1週間の方針を話し合う場とし、他に医局と看護、医局と相談室の各連絡会議を持つことに決めた。これらの組織・機構上の改変・合理化により外来・病棟とも診療活動の流れは以前より円滑になり、情報交換も活発になった。以前からいわれていた「ゆとり」は生まれてきたように思う。ドタバタ動きの創生期は終わった。これまでに力をつけてきた<まきび医療>の真価が問われるのはこれからなのである。 2 <まきび医療>の舞台 「まきび病院」の設計プランは鉄格子のない病棟を前提としていたが、決して実験的あるいは冒険的な志を抱いていたわけではなかった。以前勤めていた病院で行った病棟開放化の到達点として、各50床の閉鎖・開放の2つの病棟を全面改築し、100床の全開放病棟にする作業に携わったことがあるし、地域診療所では反入院主義を掲げて、急性期の治療を入院という方法を選ばずにやりとおした実践体験もたくさんあった。三枚橋病院の病棟も見学させて頂き、鍵と鉄格子がない病棟こそが治療空間として本来のものであるという認識が自然のものになっていた。そういう前提のもとで、過去関わった人たちの様々な治療状況を再度考え、自分たちの力量も再点検しながら、新しい空間に必要な条件を想定してみた。無断離院はいかにチェックするのか。鉄格子のない窓からの飛び降りや転落事故は防げるのか。自殺防止のために死角はどこまで減らせるか。いや治療的意味から死角はある程度必要ではないか。事故を恐れるがゆえに抑圧的、拘禁的な管理空間を次々と作り上げていった過去の精神病院の思想に抵抗しながら、しかし考えれば考えるほど発想は萎縮し膨らんでこない。  事故は、本来避け得ないものである。そういう割り切り方に魅力を覚えながらも、しかし管理側として事故を未然に防げる状況を作る工夫をするのは当然の責任である。開放空間のもつ治療的特質を殺さず、しかも管理上の安全性を維持しなければならない。基本設計プランは自分たちで練り上げ、それを土台に作製してもらった設計図面をもとに何度も設計士と打合せを行って「まきび病院」はでき上がった。  建物は建築図面上は3階建であったが、山の緩斜面を雛壇状に造成し、各壇には2階建をつくり、低い壇の2階部分と高い壇の1階郡分が同じ平面になるようにしているので、地上からの高さはほとんどの場所で2階の位置にとどめることができた。こうすれば、転落による損傷があっても致命的とはならないだろう。  急性期の状態像をもつ人を受け入れる病棟はどうするか。そこは安静が保障され、いつでもすぐに看護者が来てくれるという安心感のもてる場所でなければいけない。そしてまた、病状回復の過程では全体から切り離されず、集団の中に自然に入り込んでゆけるような空間的配慮もされていなければならない。離院をできるだけ防げる設定も必要である。急性期の人を受け入れるために、保護室3床を含む計13床を治療観察空間として設定した。小ホールを四方から囲むようにして、病棟詰所、男女各5床の2つの観察室、保護室そして処置室を配置した。小ホールと詰所は機能的には同一空間とさせうるために、仕切り戸は天井までの高さとしいつでも全開できるようにした。天井に明り取りの窓を配した小ホールには応接セットを置き、壁には地中海の風景画が飾られた。詰所から小ホールを越して正面に保護室空間への入口が見渡せる。この治療観察空間から病棟のメインロビーヘの通路は、詰所と処置室に挟まれる形となっていて、そこには開き戸も取り付けられ一応のチェックができるようにした。もっとも、いちいち戸の開閉が不便だという理由で、この戸は閉じられることはまずなかった。  保護室は3床。T字型の通路を隔てて2室、残りの1室は斜めにくっついた形となった。各室は通路を隔てて窓に面しており、裏山の竹林が見渡せる。保護室はもっとも金のかかった病室である。床の材質、空調設備、採光、色彩は気が配られている。天井は石膏ボードのままとした。  病棟は機能的に、プライベートスペース、パブリックスペースに分けて考えられる。プライベートスペース、すなわち主に病室空間は2階建で南北に長い直方体の建物にすべて納まり、各階は中央廊下を挟んで1階8室、2階10室を配置してある。病室は、6床11室、5床6室、2床1室の和・洋室で構成され各階にトイレ・洗面所がある。なお開院後新たに、治療観察室間の小ホールから渡れる回廊に面して、4床と1床の2つの洋室を増床した。現在病床の使い方は、2階を主として男性、1階を主として女性と老人にあてているが、2階の2床洋室は女性用、1階の6床洋室は男性用、老人室(6床和室)は男女混合となっている。  パブリックスペースは1階部分に集中しており、病棟用玄関とそれに続く広いロビー、南向きにベランダを配した食堂兼デイルーム、ロビーと食堂をつなぐ通路の東側に並んである図書学習室と音楽室とからなっている。病棟用玄関は外来玄関とは別の屋外階段から導かれているものである。  詰所は閉鎖可能なカウンター方式をとっており、そこからロビーの全景、病棟用玄関、食堂への通路は見渡せるが食堂、音楽室、図書学習室は詰所の視界でカバーできない。  浴室は1つ。詰所の南側に面してある。浴室と観察室および保護室空間通路の窓にだけは目立たない水平格子が取り付けてある。  屋上には、病棟2階の洗濯室を通り抜けて出ることができる。そこは以前、大声大会と称して数人の有志が毎日の行事として裏山の山腹に向かって叫び声をあげていた場所であるが、現在は周囲を高いネットで囲い、物干場として使われているだけである。  詰所空間は広く、棚や掲示板が多数用意されていて、奥には3畳の休憩室がある。はじめは診察用ベッドとカーテンで詰所を2つの空間に仕切って、奥を診察コーナーとして使っていたが、最近このコーナーは、パーティションで仕切り詰所部分との区分を明確にさせている。  病室には何を用意すればよいのか。これは生活規制と呼ばれる、療養生活の有様を根本的に左右する病棟運営上の問題に関わることである。しかし我々の結論は単純にして明快であった。  原則として生活規制、代理行為はしない。治療上の必要が生じたとき、個別に取り決めてゆけばよい、とした。したがって病室には、私物管理のため鍵のかかる個人ロッカーは不可欠であった。床頭台(洋室用・和室用)、コンセント、ナースコール、和室には座卓など病室として「当たり前」の道具立ては皆揃えることにした。  外来は、駐車場に連なる正面玄関から入った階にすべてが配置されている(病棟詰所を1階とすると、外来は地階に相当する)。  広いガラス面をとった受付と奥の事務室、その向いに待合室。その奥にトイレ、X線室が並んでいる。事務室に連なって薬局、検査室、そして処置室(今は外来語所)を挟んで2つの診察室があり、これらの部屋と部屋の間には木製の引き戸があって、それを開ければ空間的に連続性を保てるようにしている。これらの各部屋の並びの向い側、廊下を挟んで玄関側より順に、相談室A・B・C(和室)と18平米のプレイルームが並び、プレイルームからは63平米の中庭に出ることができる。  相談室およびプレイルームは相談室部門のスタッフ6名が分担管理しており、インテーク面接、個人・集団心理療法=心理テスト・勉強会あるいは各種のミーティングに使っているが、外来の患者さんの一時休養や点滴処置の際にも使われることがある。また思春期を中心とする患者さんたちの気軽なたまり場にもなっている。  プレイルーム・中庭は、はじめ幼児、年少児の遊戯療法を行うつもりで用意したのであるが、開院当初の一時期を除いてその需要はほとんどなく、結局若い人たちのミーティング、ボディトレーニング、行事の際の控室、あるいは喫茶店やお化け屋敷として多彩な用途をもたされる空間となった。中庭にぶらさげられた大きなサンドバックを打ち鳴らす響きは中庭の壁面に反響し医局の窓をビリビリと震わせることもある。  設計土は、我々が望む治療空間の意味と、実際場面で生じるであろう状況への対応の問題をよく理解してくれ、基本プランに肉付け具体化してくれた。その空間を我々は四年半の間、フルに使い続けた。与えられた空間をいかに使い切るかは、治療上の課題でもあった。  現在、開かずの場所となっている所が1カ所ある。それは病棟の南端、1階と2階を結ぶ螺旋階段である。そこを開けてしまえば1階と2階は、今以上に自由な交流が可能となるであろう。しかし現在でもその交流は十分できているように思う。果たして、螺旋階段が開かれるのは、どんな必要性が生じたときであろうか。まだ残しておきたいこの建物の可能性部分である。 <まきび医療>の舞台は、もちろん病院内だけにとどまるものではあり得ない。病院を取り巻く自然の環境、そして運動場、テニスコート、体育館、温水プールなどの公共施設はいうに及ばず、屋外キャンプ、合宿、離島でのサバイバルキャンプ、<憂鬱座>院外公演……といくらでも広がっていくのである。 3 開放空間であることの意味  4年半の<まきび医療>の実践は、精神科入院治療において、大部分の患者さんは開放空間での治療が可能であるという事実を証明するものである。彼等のほとんどは、格子や鍵によって自由な生活を奪われる状況へ隔離される理由はなく、開放された病棟で治療を受けるべきである。  満床になってからも、「まきび病院」では患者さんを選択するということは原則としてしていない。病棟運営が容易でない状況に、さらに急性期の人を迎え入れるための苦労は限りなく味わったが、皆の意地と工夫で乗りきってきた。今では、どんな状況でも何とかなるものであると思えるようになってきた。治療的環境、雰囲気は決して損なってはいけない。入院者数が定床を越えたときには、病棟のざわめきが増しいろいろなトラブルも増える。気分の沈みがちな人には耐えがたいような賑やかさが思春期の人たちによって醸し出されることもある。しかし、「まきび病院」を選んでくれた人を拒みたくはないし、信頼にも応える責任がある。いくつもの相矛盾する課題に出会いつつも今まで何とかその困難を凌いで、医療の質を保つことができたのは、しんどい状況を逃げずに踏んばる職員の熱意と根性であった。  開放空間での治療は、誰に、何をもたらすのであろうか。過去精神病院に入院歴のある人たちは、「まきび病院」をとても気に入ってくれる。病室にひとりひとりの床頭台があること、一方的代理行為などの画一的な生活規制がないこと、そして何よりも療養生活が鍵によって管理されてないこと、それらの暮しの自由さを喜んで語ってくれる。それは、普通の人として認められることへの喜びであろう。精神医療は、こんなにも人間の自然の感性を奪い貧しいものにしていたのかと思う。もちろん、「まきび病院」で初めて精神医療と出会う人たちにとっては開放病棟が治療の場として当然のものと受け取られ、その環境に初めから感謝の意を表してくれるわけではない。彼等やその家族は、社会一般の通念、文化、価値観に従って、治療を受ける側の当然の権利を要求する。家族が入院すれば、どんな場所で生活するのか、どんな人が同じ病室にいるのか、看護婦さんはよく来て話を聞いてくれるのか、食事はおいしいか、お風呂にはいつ入るのか、主治医はよく診てくれるのか−−等々、知りたいものである。そういう要求を満たせてこそ、本当に「当たり前」の医療をしているといえるのだろうと思うが、そのすべてを満たすことはなかなかできるものではない。  精神医療にはどうしても技術上の特殊性はつきまとうものである。経営・管理上の問題もあり納得してもらえない事態も生まれる。誤解から生じる不満もある。が、どんな場合でも「当たり前」のことを要求する患者さん、家族に対してできるだけの説明をすることを怠ってならないと思う。些細なことでも、治療を受ける側の不満や不信感に対して治療は敏感でなければならない。 「まきび病院」は精神科とは異なる医療機関だとの認識を抱いて来る人もいる。彼等は、精神病院入院によって貼られたレッテルを十字架のように背負い、差別、偏見に満ちた社会で身を潜めるように生活している日本の何十万人という「精神障害者」の重苦しい状況を共有することはないかもしれない。あるいは、「まきび病院」の社会における評価が「収容所」と異なるものである限り、現在日本の精神医療が引き受けている人たちのすべてに関われるわけではないかもしれない。しかし、それでよいではないかと思う。「まきび病院」は、日本の精神医療界において1つの基準、1つの証明を示しているという自負はある。たかが107床の医療機関が関わり切れる人数は知れたものであろうが、まきび流の「開放空間での精神科治療」の方法と技術が、今後日本の精神医療の中に1つの水準を提示できればよいと思っている。  開放病棟、それは何を意味するのであろうか。開放=解放なのであれば、それは何からの解放なのであろうか。精神医学・医療の歴史は、そのまま人間を分類、隔離、収容してきた人類の歴史でもある。言い換えると、隔離収容体制の中で築き上げられたのが、近代精神医学・医療であった。そして同じ隔離収容の歴史が産み落したのは、例えば「宇都宮病院事件」で見られたような凄惨をきわめる反人間的状況であったにちがいない。閉鎖病棟と、その体制を支える鍵と鉄格子。それらは隔離収容のための日常的道具立てである以上に、過去から今日に至る精神医療状況の象徴であった。開放病棟はその象徴をひっくり返したところに最大の存在意義がある。  開放病棟では、人を閉じ込めているという治療側の罪悪感はない。かつて精神病院で見た患者さんの不安、恐怖、興奮という症状の中には、社会から隔絶した場所に閉じ込められることへの拘禁反応がかなりあるということもよくわかった。  閉鎖病棟には家族が立ち入れない場合が多いが、入院した人に家族が付き添うのも、そして治療、看護が家族の見ている前で行われるのも、それまで社会人として生活していた人が病み、それを癒やす状況では当然のことだと思う。家族の面会は入院後一定期間禁止という精神病院によくあるルールは、何を根拠にしたものだったのか。他にも治療上の禁止事項という名目で行動の自由、人権の制限が許されている例はいくらでも存在する。通信・面会の制限、一方的代理行為、様々な生活上の制限と禁止。非常識の常識が、治療と保護の名のもとに公然と罷り通る社会が日本列島の中には多数存在しているのである。閉鎖病棟は、人権の侵害状況を容易に生みだし、それを管理する側の感覚を麻痺させる。一方開放病棟では、無意味な治療上の禁止や制限は当然のごとく否定されてしまう。  臨床医は、治療を求められる状況があるとき初めて、その状況へ関わることができる。そして医療は、病む人の生活、状況へその一部分として入り込むことは許されても、病む人の生活、状況を医療の中へ取り込むことは許されないのである。閉鎖病棟の存在は、精神医療に対する社会的偏見・差別を助長し再生産していると同時に、医療者自身の病者観、疾病観、治療観を特殊に規定してゆく。さらにいえば、閉鎖体制の中で生まれるのは、人が人を抑圧・管理する技術の向上だけである。 「まきび病院」の鍵も鉄格子もない病棟には、いつでも外の息吹が、いろいろな人たちによってもち込まれてくる。外の地域社会から遮断されていない場の計り知れない安堵感。内で生活している人たちにとっても、外から訪れてくる人たちにとっても。子供連れの家族、友人、同僚、上司、教師、牧師、皆気軽に病室を訪れ見舞の会話を交わしてゆく。  外来通院している人達にとって病棟は診察を待つ間の憩いの場である。診察が終わってからも、食堂で昼食を注文しあるいは病棟のレクレーションに参加して帰るのを常としている人たちもいる。ロビーでくつろぐ彼等彼女等は、退院後の苦労、悲哀、充実感、悩みを顔見知りの看護者に話しかけてくる。もちろん、患者さんどうしそれぞれの病室であるいは喫茶店に出かけて友好を交わし励まし合う。再発の不安を抱えながら市民としての生活を守っている単身者には、ときには短い休息入院も必要である。行事、集団活動に参加するため、あるいは一時家庭から距離を置くため、1泊入院もよく利用される。 「まきび病院」では年に2回、病院空間を地域に開放する機会がある。8月夏祭りと秋の文化祭のときである。院内に設置した展示場、バザー会場、喫茶店、お化け屋敷、その他趣向を凝らした催物に患者さんと家族はもちろん、近隣の人たちにも自由に参加してもらっている。当日は院内も駐車場もたくさんの近所の子供たちの広い遊び場となるのである。  開放病棟での大きな問題は2つあると思う。1つは患者さんのプライバシーの保護、もう1つは開放空間で起こる事故の問題である。  これまでに個人のプライバシーの問題は生じていないが、外部からの出入りが自由な病棟では、人の出入りを冷静な目で見続ける人間が必要である。  入院している人たちの人間関係は多種多様に展開されるから、機を見てそこへ介入しなければならないことも多い。敵対、恋愛、友情、失恋。そこでは人間社会で起こる事が当然起こってくるのである。  事故のうちでいちばん気になるのは自殺である。開院以来、院内での自殺は皆無で、事故死した1名を除けば無断離院が自殺に結びついたケースもない。未遂は(必ずしも自殺を目的としたものではないものも含めて)、2階の窓から飛び降りた人が5名。近くの池に入水した人が1名。入水の人はすぐ救出されたが、飛び降りた人のうち、1名は顔面骨骨折の重症であったが、他の4名は踵骨骨折など完全に回復する損傷で事なきを得た。無断離院をして家へ帰ったり、その途中で発見され迎えに行ったり警察に保護されたりした人の数は確かに多い。深夜近隣の民家に電話をかけさせてくれと土足で上がりこむ人、泥酔で保護される人、よその自転車に勝手に乗って行く人、離院したまま7日間行方不明となり裏山を捜索してやっと発見できた人。肝を冷やされることは何度かあったが、大きな事故に至らずにやってきた。単に黙って家へ戻るというのは事故のうちには入らないであろう。  人間が集まって生活する場で事故を完全に防ぎきることは不可能である。ある程度の事故は起こるものだと想定した上での仕事なのである。事故を未然に防ぐ配慮は当然しておかなければいけないが、その口実に鉄格子や鍵の援用を正当化する論理は間違っている。本来、個別的な存在で、それぞれが個別の人生を生きる権利をもつ人間を、マスとして画一的な環境の内に閉じ込め管理することの弊害は大きすぎる。  自傷行為やその他の事故についてその予側がどこまでなされているのかというのは、治療側の観察能力・判断能力、つまり治療、看護の技術と能力の問題でもある。「まきび病院」では、自傷や離院の可能性の強い人、あるいは周囲へ治療阻害的影響を与えすぎる人に対しては、マンツーマン看護を採ることが多く、また開放されている詰所内での関わりを濃厚にしている。  人力の及ばない事故の責任は誰にも問うことはできないが、起こってしまった事故後の処置については責任を回避することはできない。何よりもまず身体的安全の確保、場合によっては一次処置後の救急病院への転送。病棟に与える事故の影響はどの範囲かという把握。家族の状況を考慮しながらの電話連絡。近隣への影響への配慮。そして何故、事故が起こったのかという点検も治療的な立場から行わなければいけない。我々は、事故を恐れているものの、事故という現象に面と向かうのを避け曖昧に処理しがちである。不運にも事故の現場に立ち会わされた職員のためにも(彼等は大きな道義的責任を1人で抱えて悩んでしまう)、看護方針、治療方針、治療環境の問題として点検作業をする心要があると思っている。  最後に保護室のことについて触れる。「まきび病院」には3つの保護室があるが、それなしで治療ができないだろうかと思うことがある。周囲の刺激を遮断し、行動の自由を物理的に制限してしまうことが一時的には治療上有効であると思える状況にある人は、現在の精神科治療技術の範囲では確かに存在する。自傷他害の可能性が切迫している人の一時的保護のため保護室を利用する状況もある。しかし我々の経験ではそういう人たちの数は圧倒的に少数であるし、使用する病室は保護室でなくても、安全の工夫がなされた個室であってよいと思う(「まきび病院」では、病棟処置室の隣にリカバリー室と称する部屋を置き、この意味での個室として使っている)。  また、1日中誰かが付き添えれば、保護室を使用する人はもっと減らせることができるだろう。  ところで、「まきび病院」の保護室は過去3回破られたことがある。この3名の患者さんは皆躁状態の男性で、夜間だけの一時保護の目的で入ってもらっていたのだが、彼等は見事に格子を昇って天井の石膏ボードを剥がし、天井裏を伝ってホールに降り立って夜勤の看護婦を驚かせた。その後、そのうちの1人は入院説得を聞かずに退院してしまい、他の2人には戸を開放したままで保護室を個室として使用してもらった。この3人は皆外来通院へつながり現在は社会復帰している。  安静を保ち、身の安全を守るための個室は必要である。ときには備品も何もなく、ただ眠るためだけの最低限の空間と、濃厚な関わりが治療上大きな意味をもつこともある。それにしても保護室という空間はもっと改良されるべき病室であるにちがいない。  開放病棟。そこで初めて生活者としての患者さんに出会うことができる。本来の症状も、その人を取り巻く状況の問題も自然な形で治療の場へもち込まれてくる。そのとき初めて、我々は病いそのものにも関わっていける道を見出すことができるのだと思う。  開放空間を前提とすること、隔離拘禁的管理を否定するところから、精神科医療は始まる。まきび流の開放病棟における実践は、まだささやかではあるが、確かな足跡を残して生き延びようとしているのである。 4 自由入院であることの意味 「まきび医療にはモデルはなく、まきび医療がモデルとなるのである」という一色院長の言葉は、<まきび医療>を育ててきた原動力であったにちがいない。しかしモデルのないところで新しい実践を開拓してゆくのは随分と骨の折れる仕事である。  入院治療の方式を自由入院だけでやりきるという実践にもモデルはなかった。  自由入院という、一般には聞き慣れない用語は精神医療でのみ使われている特殊なものである。周知のように、精神衛生法に規定された入院治療の形式には、措置入院(法29条)と同意入院(法33条)しかなく、ともに患者さんの意志に関係なく入院の決定がなされるいわゆる強制入院の方式である。自由入院とは、これらの法に規定された入院方式と区別するために用いられる精神医療特有の慣用語で、『精神衛生法詳解』によると、「精神障害者が自己の精神障害の存在、その症状をよく理解しており、健常者が通常の疾病について行動するように、自己の意思によって精神病院に入院することをいう」と解釈されるものである。そして同じ『詳解』の中で、法33条の要旨として、「同意入院は、本人の同意がなくともその者を強制的に精神病院に入院させる制度であるから、その運用には格別の慎重さが求められると同時に、本人の同意が求められる症状であればできるだけ本人の自由意思を尊重して、いわゆる自由入院の形式を採るべきであろう」とあって、一見人権への配慮から自由入院を勧める解釈がなされている。しかし、日本の精神医療の現状と精神衛生法の運用の実情をいくらかでも知る者にとって、それは何の力も意味ももたない「解釈」にすぎないものであることは明らかである。  このような「解釈」とは別の次元で、しかしながら自由入院という方式は<まきび医療>の現場では、治療という関係性において重要な意味を有するものであった。  開院時、すべての入院を自由入院の方式で行うということに懸念がなかったといえば嘘になる。過去、精神病院で体験した強制収容の情景が脳裡に浮かぶ。躁状態の人。幻覚妄想を伴う興奮状態の人。病的酩酊。家で暴れる子供たち。傷害事件を起こした人の往診。入院治療を進んで受ける人たちのほうが少なかった。往診先の家庭で、あるいは夜の診察室で、何時間も入院説得の時間を費やしたこと。入院(=排除)を期待する周囲のまなざしを一身に感じながら患者さんと対峙し続けたこと。そして最終局面での格闘と押さえ込み。それらの、走馬灯のごとく思い出される精神科医としての体験は、回避できない精神医療の宿命なのか。  しかし、精神衛生法に順応した医療機関となるか否かの選択は、<まきび医療>の根幹に関わる問題であった。精神衛生法は、病者の人権と治療を保証する役割よりもむしろ、社会防衛にその立場を貫くものである。「障害者の治療と保護の為に……」という条文のもとに病者への人権侵害は合法化されてきた。 <まきび医療>は、あくまで病む人の側に合わせて運営される治療の場でなければいけない。そのためには、患者さんの自由意思に基づく治療、すなわち自由入院の方法を採用するしかなかった。様々な不安はあった。どこまで患者さんの自由意思の確認が可能なのか。下手をすれば、精神医療の楽な上澄み部分だけしかカバーできない施設になるかもしれない。また、自由意思の確認を怠ると逆に人権侵害で告訴されることが起こるかもしれない。そんな危惧を抱きつつも、とにかく医療機関として 「当たり前」の手続き、すなわち本人の入院同意書と保証人の承諾書だけによる方法で始めることにした。保健所から送られてきていた保護義務者の同意書の束は、机の奥にしまいこんだ。  精神衛生法に規定されない自由入院とは、「通常の疾病による入院」、すなわち診療契約に基づいて行う入院治療の形式である。社会通念上、診療契約とは、「医師と患者またはその保護者との間に病気を治療して患者の健康を回復または増進することを目的として締結される双務契約である」(『病院医院経営管理質疑応答集』第一法規)と解されている。この契約に基づく医師側の義務は、「(一)、善良な管理者の注意義務をもって、誠実に患者の治療に当らなければならない。(二)、患者の求めに応じて診察、治療をなし、かつ、適切な指導、助言を与えること、(三)、患者の秘密を守り、患者の利益を擁護するよう行動すること、(四)、診療契約の内容をなすところの診療、その他療養、助言を行うこと」(同上掲載書)であり、これに対し患者さん側の義務は、「(一)、医師の指示・助言を守り、誠実に療養に努める、(二)、入退院をはじめ病院または診療所の施設の利用は、契約者の定めるところに従う、(三)、治療費は、契約者の定めるところに従って支払を履行しなければならない」(同上掲載書)とある。さらにこの診療契約は、「契約書を作成するわけではなく、また履行期限を求めることもなく、慣習に従って疾病を治し、元の健康体に復することを目的としてその手段方法については、医師の自由裁量に任せるという性質を持つ」(同上掲載書)ものである。  我々は日常の診療を、精神衛生法にではなく「当たり前」の医療行為を規定した法的基盤においてすることにした。これにより、「精神障害者」の番人としての立場からは解放される。少なくとも、臨床現場という状況の中ではそう思える。病む人との出会いには、あくまで治療を求める側と、それに応ずる側が、個人対個人という対等の立場で臨めるのである(もちろん、国家という状況の中では、精神科医はある役割を期待された存在であることに変わりはないが)。それは出会いの場を規定する形式であったが、人間の社会的行為がいかなる形の中でなされるかは重要な事柄である。形がその行為の内容と、そこに成立する関係のあり方を規定する。規定されてしまうとまではいかなくても、精神衛生法という形に依拠する限り、いかにその枠組みを批判し、抵抗したとしても見えてこないものがあるのではないか。病者を生活者としてとらえる視点、たとえ病んでいたとしても誰からも犯されることのない、個の尊厳をもつ存在としてとらえる視点は、精神衛生法の枠外に立とうとする医療実践の中でしかもちえないという判断は、主観的すぎるだろうか。 <まきび医療>は、従来からいわれているような、「自由入院で治療できる軽症者」の対象を少々広げたのではない。厳密な意味で精神科治療が必要とされる人たちの診療を、あくまで同じ人間として対等の立場で行うことに挑戦したつもりである。  我々の武器は、薬物療法、精神療法、そしてその基盤である治療関係を形成するための技術と人間性である。  外来を訪れ入院してくる人たちは、紹介によってあらかじめ入院を前提として受診する場合も多かったが、決して過去の医療機関で出会った人たちと比べて異質ではなかった。不承不承家族に連れて来られる人。騙して受診させたと憤る人。警察官同伴で受診する人。泥酔、昏迷、興奮、せん妄など意識の障害をもつ人。受診を拒否するため家族が往診依頼に来る人。これらの人たちに対してももちろん、診療契約の原理に基づく治療行為を果たすという原則を曲げずに対応しようとしてきた。  そのためには、診察場面で随分気を遣ってこなければならなかった。臨床医としての診療技術、診断能力はもちろん、人間と状況の全体を見渡し評価、判断する能力が試される場面であった。そしてもし介入すべき状況、状態があると判断すれば、その必要性を説き、治療を任せてもらえるのか否かの相手の意思を確認しなければならない。  もし精神病院の診察室でこういう行為をすれば、その努力は限りない徒労に終わるかもしれない。しかし「まきび病院」は、病む人にとって療養のための当然必要な設備と環境を用意している所なのである。それでも入院か否かの患者さんの意思決定には時間をかけている。診察の途中で病棟内を見学、療養生活のオリエンテーションをした後で決めてもらうこともある。どうしても入院拒否を変えない人には、少なくとも外来での治療継続を説得し、入院治療への意思が生まれてくるまで状況の煮詰りを待つ。その期間、ときには随時往診の保障をすることもある。時間と誠意をかけての説得に対して、「まきび病院」を療養の場として選んでくれる人は思ったよりはるかに多い。病む人は誰しもその苦しさからの解放を望んでいる。  意識の障害のために、客観的な状況判断能力を喪失している人の場合は、保護者として認めうる人との診療契約となることは、合法性がある。また、精神症状のため、心身の保全が差し迫った危機状況にあると医学上判断すれば、保護者との契約に基づき、その同意を得て注射その他の医療行為をしたり、一時保護室へ保護する行為も、違法性を阻却する医師の自由裁量の範囲である。  もちろん、これらの判断を下すとき、事後に生じる責任を臨床医として負わねばならないのは覚悟の上でのことである。治療が誤った専断的行為になっていないかという自己点検、もしそれが第3者にとって違法な行為と解された場合には、治療的正当性を明証できるだけの説得力が要請される。自分自身の臨床医としての力量、外来診療の状況、病棟の状況、それらをすべて考慮した上で、入院のための診療契約を結ぶか否かを判断している。診療契約が結べず、治療を引き受けることができないという事態は、稀には存在した。  我々の論理は、患者さんの切捨てにも、すくい上げにも両用される危険性を孕んでいることは承知の上で、対等の立場での診療契約・自由入院にこだわり続けてきたのは、開放病棟が精神医療の抑圧管理体制をひっくり返す形であったように、自由入院(患者さんの自由意思による治療をできる限り尊重する)が病む人の人権侵害を可能な限り防ぐ形となると信じているからである。診療契約を成立させ、維持するためのしんどさは臨床医として引き受けなければならない。病む人は必ず、病むことの苦しさから逃れたいと念じている。「病識がない」幻覚妄想状態の最中に置かれている人においてもである。治療側は、その事実を確かに受け止めていかなければならない。  それにしても病む人が治療を拒否する第1の要因は「病識のないこと」(患者さん側の問題)ではなく治療側の問題としてとらえられるのではないだろうか。<まきび医療>が、日本の精神医療が抱えてきた矛盾と苦悩のすべてを包括して引き受けているとうぬぼれた事はない。しかし、精神医療の上澄み部分をすくって自己満足しているのでは決してない。いずれにしても、この評価を下すのは我々白身ではなく、病む人とその家族なのだと思っている。 5 治療の展開 − 病棟  全開放の病棟と自由入院。そこでは画一的生活療法も行われず、生活規制もない。面会・通信は自由、私物管理も保護室以外では本人任せ。代理行為は状態に合わせて本人、家族の了解のもとに行っている。公衆電話2台、売店、玄関先には郵便ポストまで用意されている。  開院以来、各部門が考案してきた多彩な集団活動。毎朝のジョギング、大声大会、屋外スポーツの日、町内ソフトボール・テニス大会への参加、ボディトレーニング、月例野外キャンプと冬期の合宿、料理教室、料理勉強会、保健指導(養護担当)、藤手芸クラブ、絵画教室、かよう会(音楽教室)、夕暮の勉強会、そして春、秋の県外公演まで定例化させた劇団<憂鬱座>、季節ごとの行事、高齢者のドライブ(紅葉狩)、綱引き大会参加等々。数えてみれば限りがない。その中のあるものは捨てたり、また新しいものが生み出されてゆく。  現実吟味、社会復帰訓練のための外勤作業。ワゴン車に農機具を満載して出かけてゆく農耕グループ。入院を隠して地元企業へ通勤する人。看護部門も栄養部門もその人たちの生活リズムに合わせて動いている。  相談室部門の主催する集団療法の場面も、思春期、青年期、外勤者、アルコール依存者の各グループワーク、そしてまる4年間続けている心理劇、と揃った。長期入院あるいは慢性化による社会復帰阻害、そして日夜対応に頭を悩まされ続ける思春期の人たちへの関わり方は、<まきび医療>にとって大きな課題である。それらに対しては看護部門と相談室部門のメンバーで構成するプロジェクト会議を月1回開催して取り組んでいる。  よくもこれだけのグループ活動がありえたものだと感心するが、これらの治療活動が数多く開発されなければならなかったということは、それだけ多種多様の問題、課題が存在するということでもある。  病棟の入院者構成を紹介しよう。これは1985年5月現在のものである。  定床は107床。そこで101名の人たちが療養している。時期によって異なるが、ほぼ100名から110名の範囲で推移している。このうち外泊者は常時10名はいる。  入院者構成で特徴があるといえば、年代が若いということがまずあげられるだろうか。10歳代6.9%、20歳代33.7%、30歳代25.7%、40歳代7.9%、50歳以上25.7%。 しかし疾患別では、思春期の精神医学的問題(不登校、神経症性障害、性格障害)を抱える人が多いことを除けば、一般の精神病院のそれと大差はない。  分裂性障害63%、感情障害6%、老年期および器質性精神障害9%、あとは性格障害、神経症性障害、アルコール症、精神遅滞の順になっている。  1985年の平均在院日数は93日。月度の入退院者数はおのおの約35人。数字だけから見れば病床規模の割に回転率は良いと思うが、再入院者の割合が徐々に増えていること(69%)、取り残される長期在院者数が確実に増えていることなど、精神医療が抱える問題から逃れることはできない。  新しい患者さんの需要にできる限り応じることが、<まきび医療>の使命である。そのためには入院の受入れ体制は常時整ってなければいけない。長期在院者の処遇と、新入院者の受入れの工夫は簡単に解決の着くことではない。何でもこなしてきた<まきび医療>の役割と能力を維持し続けることは、同じ規模を保つ限り困難な課題なのかもしれない。しかし拡張すれば現在到達している治療の質を低めることになりはしないか。そろそろ<まきび医療>の役割と位置は限定される時期にきているのであろうか。その選択は間近に追っている。  入院者構成上もう1つの特色は県外からの入院者が23%と多いということであろう(1986年1月)。このため、県内5紙以外に、中国新聞、神戸新聞の各紙を1日遅れながら病棟で定期購入している。 <まきび医療>の内容で特徴的なことは3つあげられると思う。1つは、急性期の治療を開放空間でやりきっているということである。診療要約を結び治療方針を立てれば、あとは看護に任せることができるようになってきた。看護も任されることを恐れなくなってきている。病む人とその家族を支えることを自分たちの役割と引き受けて、根気よく人間関係を作る方法を模索する。拒絶、昏迷の人には徹底して付き添い、細かく身辺の介助をする。無断離院、自傷の可能性のある人には、終日マンツーマンで付き合う。衝動的な乱暴や激しい拒否に遭遇するときには、困惑しつつも患者さんの回復力を信じて、家族を支えながら待つ。医局はそういう看護の自立的動きを保障・支持しながら病棟全体の治療環境、治療能力を絶えず点検する役割を果たしてきた。現在病棟で起こっている最大の問題は何か、長期化して解決できてない問題は何か、そしてそのことが病棟の治療環境にいかなる影響を与えているのか。個々の動きを見据えながら全体の流れ(状況)に気を配る。それは舞台の演出家の作業にも似ているであろうか。  各病室ごとの状況の把握も必要である。急性期の人を受け入れる病室(観察室)に余裕がないときには看護の動きにも余裕がなくなる。病室をやりくりして受入れ体制が常時可能となるようにする。病状に応じた病室の使い方。集団力動を考慮した入院者の配置。これらの検討と情報交換は、毎日医局と看護が入院者掲示板と睨めっこしながら進められていくのである。こうした日常の細かい病棟状況を把握し、治療的に操作して病棟運営に介入していくことは、医局の重要な役割であると思う。もちろんそれは看護との共同作業なのであるが。日常的に病棟運営が治療的になされているか否か、それを阻害する要因があるのか否か、もしあるとすれば解決の方法は考えられているか否か、などのチェックを継続的に行うことは、前にも述べた事故を未然に防ぐためにも、病棟の治療能力を引き出すためにも不可欠の作業である。看護部門のリーダーローテイト(5日間)体制と、リーダー最終日に行われる反省会は、マンネリ化しない、そして全体状況を見られる看護を育てていっている。 <まきび医療>の特徴の2つめは、内科的・外科的合併症をもつ人の精神科看護をよく引き受けてやってきたということである。一般の病院で既に見放された脳梗塞後遺症の老人。膀胱癌の女性。また専門科での治療にますます不安を募らせてしまった尿閉の男性。人工肛門形成術を受けたヒステリーの女性。骨盤骨折後のリハビリを要する人。幻覚妄想状態に陥った重度脳性麻痺の人など。身体的ケア濃厚に行いながら精神科治療を行わなければならない人をかなり引き受けた。難しい課題を1つ1つ乗り越えてきた体験が、厄介な状況を抱えた人でも最終的には何らかの目処が立つものであるという信念を生んだのであろうか。頑固な身体的異和感、不快感を訴えるセネストパチー、転換ヒステリーの人の治療にも当たったが、身体的なものが看れるという自信は精神科看護をする上でも余裕を生むようである。痴呆、寝たきり老人に対して看護は殊のほか親切である。食事、排泄、入浴、移動の介助を本当に厭わずよくやるものだと感心する。老人の部屋にはテレビ、電気コタツ、ポータブルトイレ、ソファーが置かれ、襁褓たたみをしながら老人たちに笑顔で話しかけることを忘れない。まめな排泄訓練によって、回復困難と思っていた尿失禁が改善された老人もいる。尿失禁がなくなることは、家庭看護がやりやすい状況を作る大きな条件の1つである。老人の入院は長期化しやすい。看蓑は担当者を決めて、疎遠になりがちな家族との接触を図る。入院中の人に重篤な合併症が現われることもある。イレウス、ヘルニア、消化管出血、糖尿病性昏睡、骨折など。バイタルサインの見方と救急プライマリーケアはいつでも発揮できる技術として習得されていなければならない。身体を看られる技術があってはじめて、精神科薬物療法が安全に行えるといってもいいすぎではないだろう。慢性便秘、褥瘡も看護上の大きな難問であるが、看護の試行錯誤はいろいろな工夫を生み出してきた。  3つめの特徴をあげれば、それは現在<まきび医療>の看板ともなって一定の評価も受けている思春期世代の人たちの入院治療である。彼等に対する個別的・集団的関わりは、主に相談室部門が責任をもって行っている。一口に思春期といっても、精神医学的問題はひとりひとり異なっている。統計上は50%近くが分裂性障害、感情障害の人たちであるが、割合は少なくても性格障害、適応障害あるいは複雑な家庭・教育上の問題を抱えてくる人への治療的関わりには膨大な労力を要するものである。彼等の治療に対応するために早期から思春期プログラムを用意し、その後思春期プロジェクト会議も作られたが、なお彼等の内蔵する厖大なエネルギーを吸収するためには、個々のスタッフの精神・身体のぶつかり合いの場面を数多く必要としているのである。思春期の人の親たちへの対応には大変気を遣っている。自責と他罰。親もアンビバレントな感情の波に揺れ動いていることが多い。その不安をゆったりと受け入れ、子供の成長を見守る余裕をつくるのは主治医の役目である。  思春期の人たちにとって開放病棟、禁止の少ない生活空間は、どんな意味があるのだろうか。現実社会と、医療という枠に守られた環境との区別がつけられず羽目を外しすぎる人。大人たちの悪い習慣を覚え喫煙、飲酒に強い関心を示す人。治療側に激しい同一化、投影を繰り返す人。叱られることの中で初めて人間関係の確かさを感じる人。ひとりひとり本当に難しい課題を背負っている。しかも彼等は、心の葛藤を生活の場=病棟において行動で表現してくるのである。成長・発達する力が<まきび医療>という人生の1つの経験を経て、彼等を自立へと導いてゆくのを根気よく見守るしかない。しかし思春期の人たちは老若男女が生活する病棟に、大きな活力を与えてくれる原動力になっていることも確かである。行事、レクレーションは、彼等のパフォーマンスで大いに盛り上がるのである。  以上、病棟の状況とその運営、そして<まきび医療>で展開される特徴的な事柄を概括してみたが、100名余りの人間集団が生活し、息つく場所を、おのおのの人に対していかに治療的に編成するかという課題はどこまで追っても果てのないものであると思う。看護を中心として病院のすべての部門が、この課題に試行錯誤を重ねながら取り組んでいくしか方法はないのである。  なお、1985年春より、毎週月曜日朝礼の後、診療会議を開き1週間の病棟状況の報告と情報交換を各部門代表者で行っている。時間は約25分間。そこでほぼ1週間の見通しと方針が立てられるようになった。  最後に、病棟内のトラブルでいちばん悩まされながら解決の方策が立てにくい問題に触れておく。それは盗難問題である。盗難は些細なことのようであるが、頻発すると病棟全体が不信感の塊のようになり、大きな治療阻害因子となる。「まきび病院」では、鍵付ロッカーがひとりひとりに用意されていること、貴重品、現金は希望すれば詰所で管理することを理由に、盗難あるいは紛失の責任は取らない建て前でやってきたが、それで割り切れない場合もある。盗難問題は入院している人たちの良心に訴えるほかないのかもしれないが、盗癖は治療上の問題でもある。個々の申出に応じて一緒に捜したり、院内放送で呼びかけたりしているのが現状であるが、盗難が続発し入院者どうしの不信、敵対が露になった1985年10月開院以来初めて病棟集会を呼びかけ食堂で患者さんと職員の話合いの場をもった。集まった人数は3分の1にも満たず、盗難自体の解決策を煮詰めるという事はできないなごやかな集会となったが、療養の場での人間信頼の期待を説く院長の話は、皆の胸に届いたようであった。 6 治療の展開 − 外来  閉院以来、年に3〜4回外来に健康診査を希望してくる老人がいる。老人といっても肉体的にはなお往時の壮健さを残している近所の農夫である。彼は病院設立の準備段階で、我々が訴えた医療の趣旨に賛同し、惜しまず協力をしてくれた人なのだが、好酒家である上に高血圧症という慢性疾患を生来のものとして抱えている。特に治療は受けておらず酒も若い頃ほどには飲まないのだが、耳鳴りその他の老年期症状があり、部落旅行の前や農繁期の後には、 「先生、ちょっと診てくれ」 と言って外来を訪れるのである。尿検査、血糖検査、心電図検査と1通りの身体診察を済ませ、「特に異常なし」を確認してからが彼の本番である。若い頃の思い出話から始まって彼が活躍した時代のこの地方の風俗、社会的事件が、訥弁と自嘲する口から、しかし途切れることなく語られる。広い診察机の隅に段々と高く重ねられるカルテの山を横目に、時々腕時計を盗み見ながら、初めのうちは興味深く相槌を打っていたこちらの笑顔も、老人の話が30分も過ぎるとこわばり始める。そして頭の中には次に診る人の処方変更のことが浮かび、今続いている話をどこで打ち切るかを密かに計算しはじめる。そんな医者の気配を読み取ってか、老人は、 「いやあ、お忙しいのに無駄話をしてしもうた」 と詫びの言葉を残して立ち去っていく。そして診察室には次の人が看護婦に名前を呼ばれて入ってくるのだが、遅れた時間を取り戻そうと手早く診療をこなしているうちにふと先はどの老人の話をこちらの都合で打ち切ってしまったことへ後悔めいた想いが浮かんでくる。  厳密な内科健診なら彼の自宅からそう遠くない所に最近開業した専門医がいる。「まきび病院」の、この地元での評価は既に「精神科」と下されているにもかかわらず、健康チェックを依頼して来てくれたのである。老年期における生への不安は小さいものではないはずだ。おそらく彼は、ただ自分の身体の医学的評価の精確さだけを期待しているのではなく、少し大袈沙に言えば、医者に診てもらうという行為の中に、もっとトータルな生への安心感を求めようとしているのではないか。診察を丁寧にするだけでなく彼の雑談にもっと耳を傾け、込められた思い入れを理解しなければいけなかったのではないか、と思われてくる。もしかしたら老人は、同じ土地に住み移ってきた我々に、過去を伝承するという世代としての責任において、わざわざ語部として来てくれたのではないかという妄想さえ湧いてくると、この次に受診したときには、ゆっくり話を聞かなければと考えてしまうのである。あるいは定期的に往診に行っている別の老人は 「最後の脈は先生にとってもらうから」とまで言ってくれたことがある。このような老人の想いを、医療に対する素朴な幻想といってしまえばそれまでだが、その中に「死に至る病い」を生きる人間の・貫い脆さをみるのである。  心を病む人の場合でももちろん、医療という場にもち込まれる期待・幻想は同じものである。ただしかし、この国の文化、社会の中で与えられた精神医療に対する見方の特異性の故に、その期待・幻想はもっと複雑に屈折したものにならざるをえなくなっているが。<まきび医療>は、そのような期待や幻想に対して、真面目に応え返してゆける場でありたいという大きな夢を抱いている。  内科・小児科を併設し、精神科ではなく心療内科を看板に掲げた「まきび病院」の外来にもち込まれる期待や幻想はまさに十人十色、様々な内容をもっている。おかしく思われるかもしれないが、内科・小児科の診療体験は、生活者としての人間が医療という場に抱く幻想がどんなものか教えてくれたと思っている。「精神科」という「特殊体験」としてではなく生活の一部として医療と関わりをもつ人たちは、それぞれの文化的社会的価値観に基づいて、それぞれの生活の中に「医療」を位置づけている。それは「精神障害者」というレッテルが一生続く重い枷となる状況とは、遥かに遠い世界の現象である。ところで、「心療内科」という言葉は「精神科」よりずっと受診する側の心理的抵抗が少なく、それだけ窓口の広い医療が可能となるものであるが、精神医療の現場としては、このような外へ向けての構え方は曖昧なものと映るかもしれない。しかし、この曖昧さが<まきび医療>の幅を膨らませてくれたのではないかと思っている。何故なら、曖昧さが許される場では人と人との出会いの可能性がひろがってゆくからである。  内科23.6%、小児科4.8%、心療内科(精神科)71.6%。これが現在(1985年12月)の外来受診者の割合である。開院初期は内科・小児科受診が占める比率はもっと大きかった(1982年6月で48.4%)が、病院の評価が定まってゆくに従い、あるべき姿に近づいていったといえる。内科・小児科=心療内科としてスタートしたことは、<まきび医療>にとって大切な意味をもった選択だったと思っている。その理由は3つほどあげられる。1つには、「まきび病院」はあくまで治療の場であり、収容のための場所ではないという認識を対外的にわかりやすく示す上で有効であったということである。精神医療は、病む人を社会から排除・隔離するという要請が向けられる役割をもたされているが、そのような場合でも医療側として、収容ではなく治療という視点からの方針を対置・説得しやすい状況を設定できる。ときにはその中で、家族の病いに対してさえ抱いてしまう「精神障害」への内なる差別意識に変革の契機が訪れることだってある。もちろんこれらのことは、単に看板のあり方だけによるのではなく、<まきび医療>自身のあり方によって初めて可能となることはいうまでもないが。2つ目の理由として、来所者の不安や戸惑いを和らげているということがある。「精神病院」と比べたらとにかくかかりやすいのであるそれは患者さん・家族として訪れる人たちにとっても、それを取り巻く状況に関わる人たちにとっても同じことがいえる。乳児検診、風邪ひきの子を連れた母親、たまり場のごとく想う近所の老人たち、そして入院見舞の人たちが出入りする待合室の雰囲気は、地域の医療機関として普通のものである。もちろんそれだけで「精神科」受診が換起する隠匿的なイメージを払拭できるとは思わないが、そこには近代化された総合病院精神科外来や、工夫された精神科診療所の待合室とも違う雰囲気がある。それは少し誇張を許して頂ければ、人が「医療」に対して抱く、「取り込まれる」不安や脅威を和らげ、「医療」がもっと身近で安全なものとして受けとめられる雰囲気といってよいかもしれない。こういう外来での印象は、自由入院、診療契約関係を原則とする形態を維持、展開する上で大切な要件となっている。3つめの理由は、心身両面から診るという方針が多くの人に安心感をもってもらえたということである。病棟での治療活動で述べたような身体的ケアは外来でも行われている。また内科・小児科診療を求めてくる患者さん・家族の中にも精神的葛藤、混乱に遭遇している人は当然いる。慢性疾患を抱えた人、育児不安、家族問の葛藤などの精神衛生相談は、診断・治療上欠かすことのできないものであろう。もともと、病むということを心と身体とに分けて診ること自体が不自然なことである。家族や友人連れで受診する人、患者さんとして来た人の口コミ、紹介で受診する人が少なくないのも、「まきび病院」の外来の特徴かもしれない。  外来は<まきび医療>の最前線である。スタッフは、受付事務3名、薬剤師1名、相談室スタッフ6名、看護婦2名が、1985年春から1、2カ月に1度外来会議を開き、医局を含めてチームとしての動きを円滑にするため日常業務の点検をしている。受付窓口で生じる問題、通院・訪問している人の状況報告、治療中断者への対応、部門相互間に起こる問題、医療サービスのあり方などが話し合われる。看護部門では、外来←→入院の看護が一貫したものとなるよう相互の情報伝達が細かく行われる。あらかじめ入院が予測される人の外来診察には病棟看護者が1名同席する工夫もしている。  外来の治療場面は診察室だけでなく、相談室部門の参加で多面的に行われている。集団活動(レクレーション、グループワーク、勉強会など)に参加するために来る人、ケースワーカー・心理療法土の個別面接を求めてくる人も大勢いる。思春期の人たちに対しては外来でも相談室スタッフが担当制で受けもち、個別面接、訪問、家庭・学校との連結や調整作業を行っている。  開院1年日の夏に自然発生的にもたれたOBキャンプは毎年恒例となった。これは以前「まきび病院」に入院し現在は外来通院している人のための行事であるが、参加者の中心メンバーは、単身者およぴ思春期の人達である。夏が近づけば、「今年のOB」キャンプはいつあるの」という声が外来で聞かれる。1985年の夏は参加者が少なく(10名)担当者の間ではキャンプを継続していくかどうかの議論も出ているが、社会復帰をしておそらく再発の不安と闘いながら生活を守っている人たちにとって、数少ない心の解放の場となるなら病院行事としてこれからも存続させなければならないものであろう。  毎日40数人の外来診察、そしてその間に行う入院中の人やその家族との面接と、外来担当の1日は緊張の連続であることが多い。時には夜の更けるまで過大の期待と幻想を投げかけてくる人を前に、じっと座って見守り続けるだけしかできないこともある。そんな毎日の繰り返しであっても、人間にとっての「当たり前」の医療を目指す<まきび医療>の最前線は各部門が力を合わせて守り続けていかなければならないと思う。明日からもまた……。 7 「当たり前」の医療という課題が突きつけるもの  開院以来、一色院長が提起してきたスローガンはいつも刺激的かつ挑発的であった。各部門のスタッフたちは、その言葉に大小の違和感と抵抗を覚えながらも不思議にそれによって鼓舞されて、結果的には新しい動きのエネルギーを自らの内部に生み出していったようであった。「当たり前」の医療というスローガンは、その言葉から受ける印象は決して誇大的とはいえないが、創生期以来モデルのないところでの実践を手探りで模索してきた<まきび医療>の従事者たちにとって、これほど対自他ともに挑戦的なものは他になかった。掲げられたスローガンは、まず自らへの問いかけを強請したが、スタッフの多くにとって、「これで良いのだろうか」といつも悩み、そして迷い続けている日常現場において「当たり前」の医療という課題はあまりも遠大なものであったにちがいない。まきび流の開放空間での治療・看護が、現在の日本の精神医療界では、より良心的なそしてより積極的な治療の場をつくり出しているという認識は、県内・県外の施設見学を通じて生まれてきてはいたが、自分たちの実践が「当たり前」としてのモデルであると言明できる自信は到底もてそうになかった。ただ医療を受ける側、すなわち患者さん・家族にとって「当たり前」と思ってもらえる治療・看護のあり方を考えていくしかなかったのである。 「当たり前」の医療は、今も課題=夢であり、これから先もそうであり続けるだろう。そして<まきび医療>に関わる者に、たえず「当たり前」の医療とは何かという問いを発し続けてゆくだろう。  医療とは何か。人間にとって「当たり前」の医療とは何か。日常の医療現場で問われている問題である。医療とは病む人のためにあり、それゆえ病む人の側に立つものでなければいけない。病む人とは、ひとりひとり異なる状況を抱えた個であり、それぞれの生活を生きている個である。医療は、その個の生活の側に立たなければいけない。では、医療が病む人の側、その生活の側に立つとはどういうことなのか。そもそも医療が存立する基盤とは何か。この社会において、医療はそれを求める個あるいは状況が存在するがゆえに存在する。医療は、それ自体で無条件的に存立しえず、求める側が存在して初めて成り立つものである。医療をなすとは、個あるいは状況の求めに応じることである。すなわち医療の本質は「求める」と「応じる」という関係性の中にあり、決して医学という科学や、「なおす」と「なおされる」という関係の中にあるのではない。その関係の中で医療は何を求められているのか。それに応じれてこそ「当たり前」の医療といえる。個あるいは状況は、医療に対して何を求めているのか。個あるいは状況が1つ1つ異なるように、求めるものも1つ1つ異なっているはずである。そして医療に求められるものは、何よりも生活の中からの要請である。医療側は、その個別性と生活の中からの要請に対して敏感でなければならない。求められたときにのみ、医療はその個あるいは状況と関わることができる。そして、その個あるいは状況によって許される範囲で介入することができるが、個あるいは状況、すなわち人間の生活そのものを医療化してしまうことは許されない。  精神科臨床において、これらの医療の原則を守る努力は今までどれだけなされてきたのであろうか。現代医学によって、難治・不治のラベルを貼りつけられても、個とは生活者なのであり、多様な関係性の中でこの社会にある存在である。このことの意味の重さは、個の精神身体の存在様式が、医学的にいかに評価されあるいは疾病として分類されようとも、変えられることはない。  しかし、精神科においてのみならず、例えば慢性疾患や感染症の場合でも、病む人の生活の大部分を、医療側の論理で包括してしまう状況が社会の中に存在している。医療とは、1つの関係性であるが、それを成り立たせているのは社会である。医療は社会における機能の1つでもある。そしてその機能と役割は、その社会が(存立するために)規定し、要請するものである。医療とは、それを求める個あるいは状況の存在に依拠し、そして社会(のあり万)に依拠している。すなわち、医療は、そして臨床医とは、求める側の存在と、そこで関係を成立させうる社会の存在とに2重に依拠した上に存立するものであり、それ自体独自で存立する基盤はありえない。医療に携わる者は、この意味で社会をも問うていかなければならないのである。 <まきび医療>は、「人間にとっての当たり前の医療」という課題を負うて、これからも問い続ける存在であろうとしている。医療を、病むということを、社会を、そして人間を。まだまだ数多くの発見が、待ちうけているにちがいない。 第2章 看護より この4年間の変遷  病院組織の中で最も多い人員を抱える看護部門の動きを、1人の人間がまとめて書くということは危険なことであると思われる。それゆえいろいろな集まりの場で、何回か「今までの動き」の整理を試みたが、なかなか困難な作業であり、話し合えばあうほど様々な事柄が浮かび上がってくる。  結局、十分煮詰まらぬまま書き始めようとしているのだが、任された人間は、看護部門の中では一番ぼんやりしている人間であるゆえに、以下に記すことは、当院の看護のごく1部分であり、多分に偏よった視点からの「整理」である。  病棟の日常の状況の具体的な事柄に関しては、ほとんど書けていなくて、非常に漠然とした内容になってしまった。 1 第1期 合理化幻想の時期(1981年6月〜10月)  1981年6月1日、「まきび病院」はスタートした。当初の病床数は60床であった。スタッフは、総婦長、婦長、看護スタッフ7名の総勢9名であったが、6月はまだ婦長が都合で勤務できず、実際の病棟スタッフは7名であった。勤務体制は、外来は1週間交代、病棟はリーダーを1名置いて役割分担をし、夜勤は1人夜勤の当直制であった。院長、副院長、事務長は泊りこみ体制…こんな陣容で始まったのである。  このオープンな空間で、入院して来る人たちと我々は、どんな風に生き合っていくのか、不安と緊張と期待が入りまじった不思議な心境であったように思う。初めのうちは、入院者も少なく、十分な時間をかけて対応することができ、出会い方も緊張を孕んだ新鮮さがあった。何もかもが初めて。こまごまとした物品を揃えることも、病棟の掃除も、すべて看護の仕事として引き受けていた。詰所内には大きなテーブルが1つ置かれてあるのみ。そのテーブルの一端で看護婦が記録をしたり雑務をしたりしており、他の端では、医師が患者さんの診察をしたり話を聞いたりしていた。当然、詰所内も患者さんの出入りは自由である。検温なども、ひとりひとりとじっくりと話をしながら回っていた、「検温回診」などという呼び方も生まれたぐらいであった。夜勤もゆったりとしており、眠れない患者さんと十分に話をすることもできた。  外出に関しては、三枚橋病院流の「赤マーク方式」は採らず、外出届に患者さん自身が必要事項を書き、医師のサインを直接もらうようにした(この方式の利点は、患者さんが直接書くということによって、患者さんの「現実感」がどの程度のものであり、また行動範囲がどの程度のものであるかが、よくわかり、サインを受けに行く際に医師に直接会うことが多いために、医師も、その患者さんの入院生活の状況の一端を知ることができるという点にあったと思う。ただ欠点としては医師が外来診察中に割り込んで行くような場合があり、医師が多忙になってくると、困ることが時々あったようである。かくのごとく6月は、緊迫した場面もあったが、大体において、ゆったりとして動いていたように思う。  7月には婦長が1カ月遅れで勤務に就いた。婦長は精神科で勤務するのは初めてのことであり、しかも、こんなオープンな病棟であるゆえ、いささか戸惑ったようである。詰所に患者さんが自由に出入りすることにも違和感を覚えていたようである。 「閉鎖病棟」での就労経験のある看護者には、このことはむしろ新鮮なこととして受け取められていたように思う(しかし、後に入院者数が多くなり、詰所に患者さんがたむろし雑談する場所のようになってくると、我々もいささかうんざりするような状況が出現するようになるのだが)。  入院者、外来受診者もわずかずつ増え始めた。そして、急性期の患者さんも入院してき始めた。中でも躁状態の患者さんの言動や、薬物の副作用の出現には驚き、戸惑う場面もあった。しかし、患者さんはある意味で、のびやかに動いていた。外来の空間や事務所までもが、その行動範囲に含まれるようになった。  ある日、こんな出来事が生じた。ある老女が自殺を企て大量の薬物を服用し入院して来たときのことである。我々職員はその老女の方に関心を奪われてしまい、他の注意しておくべき患者さんから一瞬、目をそらしたのである。Bさんが居なくなってしまったのである。病棟内、病院周辺、裏山の中などを必死で捜すがBさんは見当たらない。夜間も懐中電灯を照らして捜し続けるが、いっこうにBさんの姿は見えない…Bさんの両親が駆けつけBさんの近隣の町内会の人たちも駆けつけ、裏山の捜索をしたり…。そして約1週間後Bさんがようやく発見された。すり傷程度の負傷で、職員全員ほっと胸をなでおろした。この出来事があってより後、病棟奥のドアは閉じられたままである。オープンな空間にも「死角」があり、まだこの空間を使いこなせぬ看護の失敗でもあった(Bさんは発見されてからは順調に回復して退院して行き、今は自動車を運転して精神衛生センターに通院している、とのことである)。  7月からは、ソーシャルワーカーを中心として、思春期を対象としたグループワークが始まった。看護からも継続的に1名が参加することにした(このグループワークは現在、心理に引き継がれている)。当時、思春期といっても、高校から大学ぐらいの年代の患者さんが中心であった。  8月には、新たに看護婦1名、保健婦1名が参加してきた。徐々に入院者、外来受診者が増え続けていた。  開院して初めての「盆踊り」が開催された。職員数が少なく、大がかりなことはできなかったが、丁度その頃、精神医療に関心のある医学生たちが調査研究のためにやって来ていたので、その人たちとも一緒になってこじんまりと、ほのかな暖かみのある「盆踊り」ができたようであった。日頃病棟内では見られなかった姿を発見したり、また、中高年の人たちの長年の労働で身につけた技術を披歴してくれたり…地域の断酒会の人達が応援に来てくれたり…しかし途中に、ボートの船外機で下腿を負傷した人が血だらけの姿で運びこまれるというハプニングがあったりしたが…(最初の頃は、救急車でよく急患が運びこまれることがあった)。 すべてが試される 「盆踊り」が終わった頃に、第1回目の 「全体会議」が開催され、スタート以来の動きの点検がなされた。急性期の患者さんが増えてきており、我々の動きも多忙になり、緊迫する場面が多くなってきたのもこの頃からであった。  そして9月、ある女性の患者さんの入院によって、病院はスタート以来、初めての大きな試練に立たされ始めた。その患者さんは過去の拘禁的施設での入院体験の「恨みつらみ」をすべて吐き出すかのように身悶え、激しい「アクティング・アウト」に訴え、この空間と我々職員を試そうとしていたのであろうか。他の人院者にも大きな影響を与え、病棟は緊迫した。職員も動揺した。しかし、病棟の緊迫した雰囲気を解きほぐさねばならないしまた、その患者さんが外に走り出れば追いかけ、体当たり的に必死に引き止め抱きかかえる、1人夜勤では、守りきることができず日勤者も遅くまでその患者さんに関わる、また、早朝も日勤者が来るまでは事務長までもが看護の手助けをしてくれたり…どうにもならず、かなりの量の薬物が与薬されたり…それでもなかなか病勢は治まらず…医師も看護婦も途方にくれるような感じであった。そして、職員の中にもネガティブな感情が噴出する場面もあった…。9月某日、その患者さんへの対応をめぐり主治医とある看護者が対立し、2名のスタッフが辞職するという出来事が生じた。試練であった! 管理職としての婦長も、大きく動揺し困惑していた。しかし、残った看護婦は、どこまでふんばれるか、やりきれるかを試すかのように必死で動いた。保護室を使用することなど考えもしなかった。 10月、このように激動し緊迫する状況の中で、ガソリンを大量に飲み自殺を企てた患者さんが救急車で運びこまれた。この患者さんの対応をめぐって、婦長とあるスタッフが対立し、婦長の方が、この病院の状況に耐えきれなくなったような状態で辞職してしまった、これで3名の看護者が辞めてしまったことになる。病棟スタッフは5名になってしまった!絶対的人員不足の中で、なんとか病棟を守るためには、勤務表は公休にしておいて、出勤するということもあった。とにかく必死であった。しかし、手一杯であり、体力的にも限界に近いような状況になってきつつあった。  この時期、医師はついに保護室を使うことを決断した(それまでは施錠され閉鎖されていたために、保護室の存在に気付かない人も多くいた)。看護側は、そのことに抵抗感があったが保護室という名称の空間が拘禁的ではなく、まさに治療的に使いうる空間であることを、身をもって知った瞬間でもあった。保譲室を使い始めても、看護者は距離をおいてしまうことはせず、関わり続けていた。その患者さんは保護室の中でも様々な「身悶え」を続けていた。病棟は、さらに入院者が増え、他の急性期の患者さんも増えて来ておりそれぞれに、しんどい世界を抱えていた。医者も看護者も文字通り必死であった。  このような状況の中で、「婦長役」が不在となったことは大きな問題であった。このままでは看護の動きに収拾がつかなくなるかもしれないと懸念されたのであるが…残った看護者は、誰もが管理的な役割を嫌っていた。皆同じように懸命に動いていたのだから。苦肉の策として、院長が日勤者のうちの1人をリーダーとして指名するという、きわめて変則的な看護体制を取ることになった。リーダー役は、ほぼ1日交代であった。  このように、当初、構想していた「ごく普通の看護管理体制」は、早くも消え去ったのである。ゆえに、この時期を「合理化幻想の時期」と名付けたのである。まさに、幻想は引き裂かれ、厳しい現実に突入して行かざるを得ない事態に立ち至ったのである。 2 第2期 「混沌」たる試行錯誤の時期(1981年11月〜1984年3月)  病棟の状況は、ますます多忙になってきていた。急性期の患者さんには「体当たりまるがかえ」的に看護をしていたが、しだいに高齢者の入院も増えてきており、介助を要することが多くなり、またひっそりと身を潜めるようにしている患者さんへの関わりも忘れられなかったし、自殺企図が心配される人もいる。雑務的業務も増加してきた。こんな状況の中で、看護者たちは言葉多くは語らずとも、互いに動きを目配りしつつ、気持ちが通じ合うかのごとくに動いていた。役割分担も自主的に決まっていたのは当然のことである。「1人夜勤」は殊に重労働であったが落ち着けず眠れない患者さんなどに対しては、詰所奥の休憩室で「添い寝」をしたり、また多忙すぎてあまり話がでない患者さんと仮眠時間を割いて話し合ったりしていた。  しかし、このペースのままでは持続しない。この状況に少しでも余裕を生み出す工夫をしなければならない。まず、病棟の動きの中心としての役割を担うリーダーをローティションしていく。いわば自主管理体制である。次に、詰所空間の改造。今まで1つの空間としてあった詰所を看護用の空間と、診察用の空間に区分する。これによって病棟内にもきっちりと医師が対応できる場を作る。  さらに、人員補充の問題。身辺介助は当然のことであるが、掃除洗濯も看護の仕事として引き受けていた。入院者数は多くなっていくが、看譲者数は少なすぎた。そこで、パート看護婦が1名、いわゆる「看護助手」的役割をしてくれる人が2名、参加してくることになった。当院では「看譲助手」とは呼ばず、「ナースヘルパー」と呼ぶことにした。ナースヘルパーの業務は要介助者の身辺介助と洗濯、食事介助、病棟内の環境整備が主体であった。重労働である。看護者は大いに助けられた。また、保健所よりの研修として保健婦1名、ボランティアとして看護婦1名、が週に1度くらいの割で、病棟に来てくれることも心強いものであった。  11月、相変わらず病棟の状況は看護者にとっては多忙をきわめていたが、10月初めの混乱は、やや落ち着きかけていた。そのような中で、ソーシャルワーカーを中心にして、初の「文化祭」が行われた。大がかりなものではなかったが、不思議となごやかな雰囲気であった。単調な療養生活の中でこのような「行事」のもつ意味が再確認されたようであった。  当院では毎月1回、歓迎会と称して、新たな参加職員を歓迎する飲み会を開いていたがそこで、精神医療の「現場」に初めて入って来た人の感想を尋ねてみるに、「どう対応したらよいかわからないことが多い」、「難しい…」ということが多かったように思う。確かに、どうしてよいかわからないと思い悩むことがほとんどである。まさに 「手作り」的に1つ1つの場に対処していかねばならない、ましてや、こんなにオープンな空間で入院者は「闊達に」動いているのであるからには…。60床という病床数では、早くも「入院需要」に対して、対応しきれないような状況になってきた。11月下旬、増床申請がなされた。12月、98床の認可が下り、いよいよ満床という状況が遠からず到来することが予想されるようになってきた。思春期の入院者もしだいに増えてきた時期である。看護者の人員不足は歴然としていたが、とにかく必死で動いていた。1日交代のリーダーもなんとかこなしていた。この時期を振り返ってみて 「どたぐるい的に動いた時期」と称したいような気がする。しかし、多忙さの中にあっても極力時間を作り出して、個々の患者さんに関わろうとしていた。また、そうした看護者を支えてくれる患者さんもいたし、付き添っている家族も支えてくれる人が多かった。このような支えがなければ、この時期を乗り超えることはできなかったかもしれない。  また、若い患者さんにはよく動く看護者の姿が、労働者の1つのモデルとしても認められていたようであり、患者さんと看護者の関係は固有名詞で呼び合うような関係の方が多かったようである。病棟の雰囲気は多忙であったけれども、ある意味で親近感のある雰囲気があったのかもしれない。とは言うものの、どのように対応してよいのかわからない状態の患者さんや、病勢が悪化しどうなるのか見通しの立たない患者さんもいたのである。  12月下旬には、入院者数は80名を超えた。  年末年始の期間は、正月外泊として、おもいきって患者さんに多数外泊してもらった。そして、職員も交代で休むことにした。  しかし、ほっと一息ついた途端にオープン以来初めて死をみとるという場に直面されられた。どの医療施設にも見放されていた老女が消化管出血のために息を引きとったのである。すぐまた後に、外に走り出て、溝に落ち、顔面を負傷する患者さんも出た…重苦しかった。「まきび病院」では、元気になる人はあっても、死んだり、怪我をする人が出るなどとは、愚かしくも思っていなかったのである、本当に…。  1982年1月、正月3ケ日は、少しでも看護者に休息をとってもらおうと医師が交代で病棟詰所に泊り込み、1人夜勤をしてくれた。外泊できなかった人は、病状がおもわしくない人、帰る場所がない人、家族の受け入れが整わない人、などが20名程度であった。  ただ、おせち料理は、まことに豪華版で残った患者さんたちは、それによって、少し気分的には癒されたようであった。風呂も、3ケ日の間は毎日、朝から入れるようにした。 新人来たる  前年末より看護婦1名が新たに参加してきており、年が明けてから、看護者3名(うち男子1名)がさらに参加して来た。仲間が増えることは、気分的にも少し余裕ができるような感じであった。  正月外泊から患者さんが帰ってくると、病棟は再び、賑やかになった。不安定になっている人、消化器の調子をくずしている老人などもいた。冬の寒さで老人は風邪をひきやすく、肺炎をおこしたりして、その看護も大変であった。思春期の患者さんは増え、その動きも目立ってきており、闊達にやっていたが、彼等にふさわしい治療的な場面はまだあまりできておらず、個別的な関わりが中心であった。  ある日、思春期の患者さんの仲間が何人かで、スーパーマーケットで万引事件を起こし、警察に保護された。この事件を契機として思春期の患者さんに対する在り様、地域社会に対する在り様を問い返されることになったのである。  1人夜勤はやはりきついので少しでもその負担を軽くすること、そして準夜帯の不安定になりがちな状況に対応するために、男子職員を1名、午後出勤にして準夜帯まで居残ってもらう形にした。これはかなり有効であった。  1月中旬より、看護部門での「自主的勉強会」が始まった。精神科の臨床が初めての看護者は、患者さんの「言動」に驚き、戸惑うと同時に薬物療法の副作用にも、かなり戸惑っていた。医師より薬物療法の講義を受けたり、また何をおいても身体的な看護をきちんとやりきることができねば、ということで「バイタルサイン」についての勉強も始めた。医師も必ず参加してくれ、わかりにくい点は丁寧に教えてくれた。  2月、外来の状況もしだいに忙しくなってきており、パート看護婦が午前中は専従になり、午後は病棟の看護婦が外来へ行く、という変則的な体制をとった。  この時期相談室は、外勤・先を開拓し始め、外勤者を送り出そうとしていた。このような状況にある患者さんも少しずつ増えてきていたのである。病棟看護婦は、とにかく多忙であった。そして、疲労も目立ってきた。新人看護婦との齟齬も生じた。  3月、新人看護婦2名参加(そのうち1人は1カ月で辞めてしまう)。1人夜勤では、朝の仕事は、あまりにも多すぎた。1人落ち着かない患者さんがいれば、それで他のことは何もできなくなってしまう…オシメ交換、身辺介助、バイタルサインのチェック、検査、採血、記録…とにかく1人では、あまりにも余裕がなさすぎる、ということで早出勤務者をつけることになる(朝7時から夕方4時まで)。これで少し朝の動きは楽になった。夜勤の看護婦は、早出の看護婦が来ると本当にほっとしたものである。病棟の状況は相変わらず雑然としており、活動内容もまだ、その場その場での思いつき的な動きが中心であった。個別看護も曖昧になる傾向にあった。新人看護婦は患者との対応に戸惑い、病棟業務の雑然さに戸惑い、責任者がローテイトすること等々戸惑っていたようである。このようなことが、最初から参加している看護婦との間に齟齬を生じせしめていたのかもしれない。とにかく、ごちゃついていた。何とか整理し、方針を出さなければ…このまま惰性化するのはまずい。 医療計画委員会はじまる  そこで、院長により、「医療計画委員会」(以下、医計委と略す)が召集された。参加者は院長の指名による。以下、そのときの討議内容を箇条書き的に述べてみる。  医計委の役割は、翌月以降の診療及び看護活動の基本計画を立て、現実化させていくことにある。      ***** @日常業務の再点検と明確化 i.外来業務の明確化 ii.病棟業務の明確化 iii.物品の点検、請求、管理 ※スタート以来、とにかく動きに動くという中で、業務内容が雑多になりすぎ、曖昧になっている部分が多かったのである。これを整理し、新人看護婦に伝えることは重要であった。 A陽春を迎えて新しい治療活動の準備 i.作業を媒介とした治療活動 ・園芸、農耕、焼物、など ii.合宿等可変的な小グループ編成可能な治療活動 ・野外キャンプ、能良帰本塾との連携 iii.相談室を中心とした院内院外を包摂する交通整理的治療活動(ソーシャルワーカー) ・保健婦の参加、心理療法士の参加 iv.外勤作業の開拓 ※多忙さの中で、なんとか関わろうとしながらも十分なものではなかった。思春期の人、孤立した人、現実の生活に帰るのに足踏みしている人、閉じ込もる人等々。様々な体験の場を経ることによって人と出会い、自分を捉え直し、そしてなんとか現実の中へ帰って行きその関わりの中で看護者も自分を問い返し、そのような治療活動を…と考えたのである。 B研修計画 i.症例検討会 ・詰所にて、毎週木曜日、年後2時〜3時。レポーターはローティト。 ※症例検討会では、看護婦が受けもっている患者さんの問題を整理発表し、みんなで考え合う。「まるごと人間を見る」が基本である。ゆえに話は、生活の問題、家族の問題、地域社会の問題、行政の問題などに発展した。 ii.研修会 ・相談室Cで、毎週水曜日、午後6時、7時。 ※バイタルサイン、基本的技術、心療内科など、最初は『看譲のためのばバイタルサインの知識』(医学書院)をテキストにすることになる。 C寮の確保 D衛生行政とのタイアップ i.3歳児健診、予防接種、精神衛生相談など。 E対外発表の準備 F四月よりの勤務表を作成するための諸条件 i.日勤リーダーの6日間固定 ・医師の指示はリーダーを通す、リーダーの医師への報告必務 ※これは看護体制を構想する上で、1番のポイントとなった。これまでの1日交代のリーダーでは、病棟の状況に対応できにくいことが多くなってきたのである。情報を集中し、医師との連絡をとり交通整理的に動く看護者が必要とされた。しかし、この案に対して看護婦側には抵抗があった。「リーダーをするには自分は適さない」「管理的役割は嫌だ」「患者さんとの関わりがうすれる」など論議があったが結局、6日間を5日間に短縮し、なんとかやってみようということになり、5日間リーダーローテイトがスタートすることになる。(この方法は画期的なことであると思われる。現在も、このリーダー制は継続している)。 ii.外来看簑婦1カ月間固定 ・2人の看護婦で交代で。 ※外来の状況も多忙になりつつあり、通院してくる患者にとって、看護婦がかわりすぎることは好ましいことではなかった。継続して見守る役割の看護婦が必要とされたのである。また、外来での再教育的側面もあったのである。 iii.夜勤可能者の増員 ※夜勤の回数を減らさないと肉体的にもたなくなってしまう。新人看護婦にも夜勤に入ってもらおうとしたが、新人看護婦には大きな不安と戸惑いがあった。まだどうしてよいかわからないことが多いのに、況や1人夜勤に入ることをやと、そこには、新人看護婦の多くが主婦労働者であるという条件も関係していると思えたが、夜勤への導入は、経験者と新人がペアーで何回かやってみて、慣れた所で1人立ちという方針をとった。 「看護は夜見出される」「全体状況を見る力を養う」「自分を鍛えなおす」等々、とアジテーションされたりしていた。 iv.早出可能者を増やす v.新職員の勤務への導入の仕方 ※このオープンな場の、様々に動く人々の状況の中へ新職員をどのように導入していくかは重要課題である。3月末より新たに看護婦2名、心理療法土1名が参加してくる。殊に、心理療法土を看護部門に投入することによって、看護の動きに刺激を与えると同時に、心理療法土自身にとっても、かつての型のようなものを相対化してもらおうとする。 看護婦については、まず、ひとりひとりの患者と出会っていく中から、業務の流れを覚えていってもらう。業務からではなく、出会いから入っていくのである。具体的には、検温を介してひとりひとりの話を聞いていく、というやり方。 vi.男子2名の勤務の配分 ※2名の男子職員が4月より看護学校に通うため、勤務が変則的になる。半日は日勤帯に、もう半日は準夜帯にという形。これによって準夜帯(夜の10時位まで)は少し余裕が出てくる。2名はどう動くか…? 詰所内の雑務を引き受ける動きと、病棟内を自由に動き、患者さんの動きに「添わせて」新しい活動を作り出してゆく動き。 当院の準夜帯は時にホテルのロビーのごとき雑踏の芽囲気になることがある。消灯(21時)を過ぎても、このような状況が続くともう、お手上げのような感じになってしまう。 vii.当直室での仮眠体制 ・医師1名、看護1名  以上が3月の医計委で話し合われた議題の主なものである。これらの条件をすべて満たすような勤務表を作るのは、かなり細かく神経を使う作業になってきていた。医計委の役割は、医療の基本の緻密化と、動きの合理化、そして新しい治療活動を創出していくことであり、とりわけ病院内での最多人員を抱える看護部門の質をどのように変えていくか、そのために看護の試行錯誤をどう保証していくか、にあった、この意味で、リーダーローテイト体制に期待がかけられそれを引き受けることになった。以上のようなことを話し合い方針を出して4月を迎えることになる。 リーダーローテイト体制はじまる  4月、「5日間リーダーローテイト」を始めた。リーダーをする看護婦は5名であった。病棟業務の中心として全体状況を見つつ、看護者の動きを配分する、そして詰所の中での雑務をこなすという役割はきつい。看護婦相互の遠慮もある。言いにくいことも言わねばならないときもある。人を動かすことは難しい。  患者さんはかなりのびやかに動くゆえに全体状況を見るのは難しく、思わず自分から足を運ぶこともある、すると詰所が空く、またすぐ詰所にとってかえさねばならない。医師からの指示、また報告、外来からの電話…業務は、まだ曖昧な部分が多くいろいろと工夫をこらさねばならない。  リーダーは、自分の1日の仕事にけりをつけて帰るのには定時では無理なことが多く、夜の7時〜8時になることもしばしばであった(このことが主婦労働者には負担で、家庭争議のもとになることもあった)。準夜帯の状況は男子二名の参加により、少し余裕が出てきた。患者の動きに添わせた活動を創り始めていた。  4月上旬、「野外キャンプ」を初めて行った。参加者は思春期の人達10名程度。病棟空間とは違った場での違った出会いと発見が期待された。相互に言いたいことが言い合えるような「裸の出会い」が期待された。確かにキャンプは職員、患者双方にとってかなり新鮮であった(以後、毎月1回定例化することになる。参加者は、その都度、キャンプの体験を介して何らかの変化を期待しうる患者さんを中心として集め、準備段階からグループ活動として意図的にスタートさせた)。  症例検討会も始まった。受持患者について今までの経過をまとめ、今何が問題であり、どうすればよいのか…などみんなで考えあった。ケースカンファレンスであると同時に、実際に即した教育的な意味もあった。かくのごとく4月はいろいろなことを始めたが、病棟状況は「満員」で思春期の患者さんも活発に動き、一層その雰囲気に「賑やかさ」を加えていた。そして、98床という空間を効果的に使うにはどうすればよいのかということも問題になり始めた。地域への広がりも考えねばならない。4月より、精神医療に長年関わってきたベテラン保健婦が、当院と倉敷にある診療所をかけもつ形で参加してきた。地域への広がりは、まずはベテラン保健婦の動きに期待された。 1カ月後の点検  4月の医計委では以下のようなことが討議された。 @「5日間リーダーローティト」について  今まで新看護婦はどうすればよいのかと困ったとき、誰に尋ねればよいのかに戸惑っていたが、リーダーが決まったことで、それが減少した。しかし、リーダーは役割分担に苦労する。相互の気遣いがあったり、臨機応変に動いてもらいたいときがあったり、リーダーが押さえておきたいと思う事と皆の動きがかみ合わなかったり、まだ有機的なチームワークができる所までには達していない。状況を捉える目の違いが、そこには大きく関与しているようであった。どうすればよいのか…。リーダー可能な人員を増やすことが必要でリーダー経験によって力をつけていくこと。 A夜勤に関して  多忙な状況は幾分軽減したが、やはり緊張を要することが多く、肉体的にもかなりハードである。2人夜勤はどうか、このままの1人夜勤で続行するか、とにかく夜勤可能者を増やさねばならない(この時点では9名)。しかし、夜勤の間隔が長くなると夜のあいた時間に、じっくりと語り合える場が少なくなり、患者さんとの距離感が出てくると言う看護婦もいたりした。 Bレクリエーションなどの集団活動もうまく配分していかなければならない  看護婦は病棟業務、日常的なケアをこなすのが手一杯の状態であるからには、男子2名の動きを、うまく配分し、かみ合わせていくことが必要である。この時期、ジョギング、ソフトボール、園芸などが定着し始めていた。 C病棟空間が手狭に感じられてきた  空間の利用の工夫として、思春期の患者さんの部屋を設定してはどうか、玄関ロビーを改造してみてはどうか、という声も出た。 D急性期の患者さんの関わりは、きわめて大切である、ということはわかっていても、どたばた状況では、なかなかゆとりをもった関わりができないという悩み、どうすればよいのか。 E受持看護をどのようにしていけばよいのか。ケースバイケースで、個々に受けもっていく、ひきこもりがちな患者さんには、殊に目を向け、動きをつくっていかなければならない。 F入院が長期化する人、なりそうな人が増えてきたこと  各患者の課題を明確にし時間をかけて関わっていく、外勤の導入、職親制度の利用も考えてみて はどうか。 G病院の状況を外から見る、ということも必要である。  その他、と盛りだくさんであった。  5月、リーダー可能者が7名になった。新たにリーダーに入った看護婦は緊張していた。また、主婦労働者であるがゆえに、仕事が遅くまで長引くと家庭に負担をかけることにもなり、仕事と家庭の板挟みの状況で悩む看護婦も出てくる。夜勤の初体験も非常な緊張を要し、このことも疲労を加え始めた。 1周年……  6月、1周年を迎えた。この1年間、とにかく必死で動いてきている。これからどのようになっていくのか、じっくりと考えるには日常の状況があまりにも多忙であった。看護部門の人員は、看護者18名になっていた。  7月、8月は、七夕祭り、定例キャンプ、OBキャンプ、「盆踊り」、と大きな行事が連続した。必死でやり続けるという感じであった。OBキャンプは、退院した患者さんに呼びかけて、一種の交流会のようなものを意図したのである。入院するほどでもないが当院とのつながりを保っておきたい人、友人や職員との再会を望む人などが多かったようである。「盆踊り」はかなり大がかりになった。男子職員2名の動きによるところが大きかった。  9月、暑い季節に次々と行事をこなし、あわただしく動く患者さんと付き合うなかで、看護婦の疲れが目立ってきた。マンパワー不足が歴然としていた。けれどもふんばらねばならない。 10月、ナースヘルパーが1名増えた。病棟内の環境を整えるには、ヘルパー2名でも手一杯であったのである。しかし、ヘルパーが3名になったことに依存してしまう傾向もでてきたり、疲れも相まって、看護者間の関係がぎくしゃくすることも増えてきた。  11月、男子職員2名の動きを中心にして「まきび病院」としては、大がかりな「文化祭」が開催できた。工事現場の足場の材料を購入し、それで屋外舞台を作った。地域の人々が病院の中を見てくれる機会となった。ボランティアも手伝ってくれた。人々の交流があった。この文化祭に際して劇団<憂鬱座>が誕生した。心理療法士と1人の女子患者さんとの出会いから始まり、その他の患者さん、職員もまきこんで出き上がったのである。この「文化祭」以降も劇団を存続させ、活動を継続しようということになり現在も、思春期の患者さんを中心とした大きな活動となっている。またこの「文化祭」を機に、家族との交流を深めようとのことで、ソーシャルワーカーを中心に「家族会」がスタートした。  11月末、文化祭も一段落してほっとした雰囲気になったとき、劇団<憂鬱座>の名付親であった女子患者さんが、退院してまもなく自殺するということが起こった。重苦しい雰囲気に包まれた。  12月、新薬剤師が参加してきた。当院での職員の研修はまず、病棟の臨床現場を肌で経験することからスタートすることになっていた。当然薬剤師も1カ月間病棟に配属され掃除、洗濯、身辺介助などをしながら患者さんと関わった。  12月の医計委では1982年の全体的な反省がなされた。 @人員不足は歴然としている。 看護スタッフの確保は絶対に必要である。確保の可能性はあり、求人も続けているがなかなか参加してくる人が少ない。春から参加していた看護者が何人か辞職するということもあり、再び人員不足になっていたのである。 A夜勤可能者を増やさねばならない。  なんとか2人夜勤にできないか、今の人員では無理である。 B日曜祭日にも自由にやってくる外来者への対応の問題。  オープンであるために、遊びに来る人も結構あり、その人たちが入院者のためのスペースを占領してしまったり、いつのまにか一晩病院に泊っていたり、そんなこともあった。また、電話は24時間外線を受けることができるので、日曜祭日にも結構相談が多く看護者では対応しきれない場合もあり悩むことも多かったのである。 C「まきび病院」の現状を根本的に問い直さねばならない。今の我々の動きと役割を明確化し点検しなおすことが必要である。  今の病棟の状況はきわめて繁雑であり、個々の関わりが浅くなり、なんとか満床を維持する、ということのみで精一杯になってしまっている。このままでは職員の疲れが増大しパンク状況になってしまう。これでは当初目ざした「まきび病院」の「理念」から大きく後退してしまう。なんとしても体制を立て直さなければならない。そして「医療」「看護」とは叫体何であるのかを各人が深く問い返さねばならない。  1983年1月〜2月、年末年始は外泊者も多く、また学生アルバイトの参加もあって病棟の状況は落ち着いていたが、それが過ぎると再び騒然としてきた。身体的重症者も増加し、その介助も増え看護者は駆けずり回っていた。夜勤明けの看護者が老人の点滴の介助のために昼頃まで付き添うようなこともあった。開院より懸命に動いていた看護者が寝こんでしまった。肉体的にも精神的にも「限界」であった。医師との間にもしばしば葛藤が生じた。また看護者間にも「意識」の差によって心的な葛藤を増していた。  3月、またある1人の看護者が悲痛な涙を流した。もう看護のエネルギーは限界に達してしまったのか。<憂鬱座>の初の院外公演が近づき病棟状況は緊張とあわただしさが増していた。  3月の医計委では以下のようなことが話し合われた。      ****** @日常業務はなんとかこなしているが人員不足の中でレクリエーションをし、さらに<憂鬱座>の練習も重なって、バックアップにかなりの負担がかかっている。 A日曜日だけでも2人夜勤にしようという案は実現できなかったが、なんとかこなしてきた(日曜日には非常勤の医師が当直することが多くなり、その分看護の気分的な負担も増加していたのである)。 B全体的に見て、関わる必要のある人に十分関わりきれていない。「疲れ」が原因なのか、それともそもそも関わりの必要性が見えていないのか。 C勤務の調整に苦慮し一部の人に負担がかかり過ぎた(主婦労働者が多い看筆部門は、どうしても独身者が無理の効く者として負担をかぶることが多かったのである)。 D今までの動きの総括、春からの体制づくりに関してはまだ十分できていない。 総括そして展開  そこで、医局よりの総括と将来にわたっての問題提起がなされていた。 @個別体当たり的動きをやってきたこと。 これは距離を見失いズブズブの関係に陥り第3者としての位置を忘れ治療的関係を作り出すことができない。依存関係の中で職員が傲慢になっていく。この事態は真に戒めなければならない。 A保護室を保護的目的で使えることができた(多くの精神病院では今なお監獄的に使われているのである)。 B保護室を管理的な目的でも使えるようになった。 例えば、自己抑制が利かず周囲への悪影響が多く、かつまた、本人のよくない状態を他人の前にさらけ出してしまうのを避ける、といったような場合など。 C身体的な介助を媒介にして看護のきわめて一般的、普通とされていることをとおして自然な形で患者と接近してきたこと。 精神医療では、この「当たり前」さが非常に新鮮な行為であることは、よく自覚しておくべきである。 D個別寄添いの動き。 困難な状況にある患者には介入の適否を見極め、無難にかつねちっこく関わり続ける。 E患者の日常の動きに添って大きな流れを作ってきたこと。 文化祭、<憂鬱座>など。 Fあらかじめ場面を設定し、そこに治療的場面を作り出してきたこと。 野外キャンプ、サイコドラマなど。 G患者の外に出たいという、思いつき的願望に添った動き。 これは治療的意義はどの程度まであるのか疑問ではある。 料理教室、ボウリングなど(現在の料理教室は患者の生活に即してのプログラムを組み、大分治療的意義を高めてきているようである)。 H物作り、作業を媒介にして治療的な場面を作っていく。(未完成ではあるが)園芸、薬草づくり、農耕など。 I中高年者などの動きの少ない患者に対して、思いつき的に外へ出すことによって新しい経験をさせる。 ドライブなど。 以上の10項目が上げられ、さらに我々の動きの基本的な姿勢として院長より以下のことが提示された。 “他者の世界に関わっていくことの「恐さ」を自覚することは真に重要なことである” 1 同情的関わりは自他の状況を見失い治療的関係を成立させることはできない。 同情的関わりの中で医療者の行為は、きわめて傲慢なものになっていく。これは真に戒めるべきである。 2 共感的関わり。 他者の世界を感じつつも、距離をおくことの重要性。治療者として、第3者としての位置付けの重要性。一生懸命というあまりに、このことがしばしば見失われる。 3 患者を取り巻く人間関係、生活史、経済的な基盤などの状況を認識し、それに対する配慮が重要である。 4 辛抱強く見守り介入の時期を見極めることが大切である。   「いかにかかわらぬか」ということも重要なことである。 5 職員自身、自分のおかれている全体状況を認識し、無難に対応していくことが重要である。 6 職員自身、己れの「世界」を相対化することの重要性。関わりつつ見る、とはこの意味を言う。 7 患者の動きを保証するなかで、我々の動きを、それに合わせて作り出すこと。   出会いの中から戸惑いながら作り出すこと。言葉の世界の空しさを自覚すことは必要である。  この基本的認識を踏まえて我々はこれからの精神医療及び医療を再構築していくことが必要である。以上が医局からの総括の要点である。具体的な点に関しては以下のごとくである。 @「リーダーローテイト」(5日間)は継続していく  婦長もしくは主任的役割の人を決めた方がよいのではないかという意見も出ていた、しかし、まだその時期ではない。「サークル的自主管理運営」のこの柔軟な動きの中での看護の可能性を伸長していくこと。ひとりひとりの動きも保証していくこと。しかし、この体制でもれていく部分に関しては医計委でバックアップしていくこと。 A医計委に関して  1カ月ごとに全体の総点検を厳密に行い、問題点を明確にし、具体的方針を出していくこと。  看護の動きを保証し可能性を伸長すること。  メンバーは固定メンバーと新人看護者のローティション参加。 B全体会議に関して  医計委での討議内容、方針を全員に徹底すること。 C勤務表作製に関して  A、Bを踏まえて勤務体制を調整していくこと(男子看護者2名で)。  これまでは院長と看護婦2〜3名で作ってきていたのであるが、調整役としての責任がはっきりせず、多大の心的負担を一部の看護婦に負わせていたのであった。 D〈まきび医療〉研究会  今までの症例検討会、勉強会を総合する。日勤帯で行わなければ参加者も少なく主婦労働者には負担をかけるなどを考慮し毎週木曜日午後1時〜3時まで、<まきび医療>研究会を行う。  @.情報交換の場として、めまぐるしく動く患者さんの状況を捉えるには、職員が集まり意見交換することは是非必要である。  A.状況に応じた問題検討の場、相互批判の場  B.ケースカンファレンスの場 E朝礼も情報交換の場とする。 F外来に関して  責任担当看護婦を1名固定する。  @.確実に入院時の情報を病棟へ伝える。  A.新人看護婦の指導。 G病棟詰所に関して  @.朝の申し送り時、必ず外で患者さんに対応する看護者を1名おくこと(詰所はガラス張りで看護者が一同に会するのが患者からは丸見えである。このこと自体異様であろうし、1時間程度も、そうしていると様々に反応する患者も出てくる。用事があるのに聞いてもらえぬ、自分の悪口を皆で言っているなど)。  A.回診には看護者1名を付けること   今までは医師が適当に回ることが多かったのである。  B.診察の介助   今までは多忙さゆえになかなか付けなかった。  C.往診に付き添う看護者はリーダーが決定   経験の場として重要。 H医師への報告を規則的にする  今までは多忙さが大きな要因であったのか、どことなく甘えがあったのであろうか、医師ならわかっているであろうと報告が曖昧になっていた。 I新職員のガイダンス  @.集中かつ継続して行う。  A.ガイダンスをすることを介して、今までの我々の動きを総括し問題点を明確にしていく。  ソーシャルワーカーより、リーダー相互の申し送りをきちんとしてほしい。リーダー交代による流れの中断があるようである、との批判があった。  これに対しては、「リーダー反省会」をもち、リーダー申し送り簿を作成することによって、流れはかなりスムーズになったと思える(現在も継続し定着している)。  しかし看護者側から、リーダー業務には雑務が多すぎ、本来の業務をするのに余裕がなさすぎる、医療秘書的役割の人がほしいとの意見が出た(これは要検討課題としてしばらく考え続けることになる)。  事務部門よりの批判もあった。看護者に医療請求について知ってもらいたい、看護の行為がどのように具体的に経済的側面に関係しているのかを知っておいてほしいと。確かに実務的側面に関しては不徹底な所があり記録もれも多かったのである。後に、医療請求事務に関しての講義が開かれた。  薬局よりの批判もあった。薬物療法の重要性も再認識してほしいなどなど、多くの事柄が話し合われたが、看護者たちはともすると話合いの場では沈黙がちになり、相互の意見交換が少なかった。各人各様に戸惑い、しんどさを抱えながらも。  やはりこの時期、「まきび病院」は大きな節目にさしかかっていたのかもしれない。医療の質を変えるためには看護をどう変えるかが根本的なテーマであった。しかし看護は、多忙さと戸惑いと疲労感と個々の悩みなどが錯綜し、全体の動きがギクシヤクし、他部署との連携もうまくいっていなかった。けれども、1人夜勤とリーダー経験によって力をつけてきつつはあったのだ。 養護教諭参加す  4月、看護者2名、養護教諭2名、心理療法士1名が看護に新たに参加してきた。看護部門では今までの動きを総括し研修要項のような資料を作成し、それに基づいて新職員のオリエンテーションを行った。新職員は戸惑いながらも懸命に動き始めていた。青年期のグループワーク、農耕など新しい活動も始まり、入退院もかなり頻繁になってきていた。  4月末の看護の総括は以下のごとくである。 @各リーダーによっていろいろと工夫がなされつつある  @.スペース別に担当を決めてやっている。   観察室(急性期の患者さんの空間)あたりは、よく看れるようになったが、2階(男子の患者さんの空間)の動きが十分には看れていないが、心理療法士2名によってカバーされている。  A.マンツーマンを試みている。   要観察の患者さんなどに対して、関わりの深まりもみられるようになってきた。  B.診察介助、医師への報告も大分できるようになってきた。医師と話す機会も増え教育的効果もあるようである。  C.朝の申し送り時、外で看る看護者を配置したことは有効であった。  D.夕方の申し送りは今までリーダーが行っていたが、入院者が多数ゆえに、リーダー1人の情報だけでなく、検温係の看護者にも申し送りをしてもらったりしている。  E.各役割の継続   今までは、その場その場で各役割を決めていたが、もう少し継続してみないとまさにその場限りになってしまうのではないか、と懸念されていたのである。 A新職員のガイダンスはどうであったか  大体においては評価しうると思えるが、新人にとっては、細部の具体的なことがよくわからなかったのではないかと思われる。 B夜勤帯について  準夜帯は男子職員の居残りによって負担は軽減してきたと思えるが、朝、人員が少なく多忙である。朝の勤務体制の工夫が必要である。 Cナースヘルパー業務について(4月にはナースヘルパーは再び2名になっていた)  入院患者が多く、今パンク状態になっている。基本的看護業務とは何かを考え直す中で、ヘルパー業務を再検討すべきである。初めからいる看護者は掃除も看護者の大切な仕事と考えていたが、新人は掃除のような仕事は看護の仕事ではないような感じ方が強かったようである。検討の結果、病棟内を分割して、ヘルパーと看護者で掃除をすることになった。 D看護詰所内での情報交換について  連絡簿、リーダー申し送り簿等々の作成により大分よくなってきたようである。リーダー反省会が定着してきており、この中で細部の点検ができるようになってきた。 E各患者の方針についての曖昧な点  外来診療も多忙になり医師はまさにきりきりまいであったが、看護者は医師の方針がどうであるのかがわからず戸惑うことがあった。殊に新職員にとっては、それが大きかったように思える。このことは医師と看護者の関係をギクシャクさせる要因となっていたのかもしれない。 F定期的な行事は、ほぼもれなく定着している。 G新職員に対しての批判  @.患者さんとどのように関わったらよいかわからない、ということは理解できるが、看護の仕事には患者さんに直接関わることばかりではなく環境をも含めた側面があることを考えてほしい。身辺介助も大切な仕事である。  A.時間的空白での戸惑い   枠決めされた業務がないと動けぬというのはどういうことか? もっと自分なりに考える看護をする必要があるのではないか。  B.役割外のことはしないというのはどういうことか、役割というのは必要最小限の仕事である。自ら発見していくことも必要ではないのか。  C.確かに、まだ時間は必要ではあるが、医療とは何か、看護とは何か、を考えてもらうことも必要ではないか。なんとしても積極的に取り組む姿勢がほしい。 H他部署より  @.電話の取り方など、実務的なことは早く覚えてほしい。  A.話す機会をもっと作るべきである。考えよ、と言うだけではなく、一緒にやってみることも必要ではないか。 等々、細かな点ではいろいろと問題であるが4月の動きに関しては医局からは希望されたことが実現されつつあるという評価をえた。  病棟の状況は、高齢者が増加しかつ、重症化している。部屋の余裕がなくなってきており工夫が必要である。取り残されている人々が目立ち始めた。院内では何とか過ごせても外の世界に帰って行くきっかけが、なかなかつかめない人々に対してどのように関わるか。  思春期の患者さんの中にも取り残されている人々がいる。その人々に合わせた動きを作る必要がある。また新学期が始まり、新たな入院者があると予想される。  詰所周辺で保護する患者さんが増加してきた。かつ、観察室の余裕がない、どうすればよいのか。かくのごとく、やはり病棟は雑然とし、かつ緊張を要する状況が続き、看護者はどたばたと動くことが多かったのである。  5月、確かに人員的な余裕はできてきたのであるが、では患者の動きに即した的確な看護ができてきたか? まだ否である。何故か。業務をこなすことにとらわれすぎたり、看護者という既成のイメージにとらわれすぎたり、自分のしんどさにとらわれすぎたり、わからなさの中でうずくまっていたり、どうも患者さんの動きや状況に目が届ききらない、ひとりひとりの看護者が個々の患者さんの状況を見、全体の状況を見る中で、主体的に関わっていくことが必要であると思えるのだが、余裕ある動きは、押さえるべき点をしっかり押さえることによって可能になるのではないか。  新職員は、まだ戸惑い悩みつつも、しだいに病棟の雰囲気には慣れてきている。しかし業務を覚えることに力点が置かれすぎているようである。もっと個々の患者さんとの出会い、関わりに努力すべきではないのか、先輩看護者にもっと尋ねたり、ぶつけたりしてみてはどうか、どうも自分の「位置」を求めすぎているのではないか、賃金労働であるにしても、それのみに終始していてよいのだろうか、当院が、どのようにしてここに至ったのかをもっと各人は知るべきではないのか。  先輩看護者よりの批判が出てきた。看護業務の再点検をしてみた。 @スペース分担に関して  2階(男子の患者さんのスペース)への目配りは以前よりよくなってきた。しかし観察室はもっとよくみるべきである。スペース別分担をすることによってリーダーの負担が軽くなったという側面はあるが、まかせきりで全体状況を見ることがおろそかになっていることがある。また、検温係が記録のために詰所にたまってしまうことがあるのはどうしてか。  申し送りは詳しいが時間的ロスが大きすぎる。リーダーは小遣い金の管理、出し入れに追いまくられ煩雑すぎる(6月より金庫が設置されることになる)。 A環境整備に関しては、看護者とナースヘルパーが分担して行っているが、徹底していない。看護業務の基本を考え直す契機として捉えることができたかどうか。また、個々の看護者によって掃除の仕方にも違いがある。 Bマンツーマンで見守り、関わる人がいるのに、リーダーはそこにうまく人員配置ができていないことがある。  新人に対しての教育的配慮も必要である。それができる人とできない人がある。  そして、リーダーは大変しんどいともらすようになってきている。しかし、リーダーの役割の重要性、責任性をどう認識しているのか、楽になることを考えすぎているのではないか。入院時の緊急対応なども予測しておく必要がある。目前のことのみにとらわれていてはいけない。 Cリーダー反省会は井戸端会議であっては何も生まれない。問題点、疑問、具体的意見、工夫などを出し合い、もっと討議すべきである。 D夕の申し送り時、交代時の気のゆるみは、厳に戒めるべきである(この時間帯に事故、トラブルが多く生じていたのである)。 E4月中旬より、2人夜勤が実現したことは画期的なことである。確かに夜勤での余裕はできてきたが、もう少し動きを工夫した方がよい。  それにしても、バタバタ動きがあまり変わらないのは何故なのか。看護の動きがギクシャクしている。ポイントが押さえきれていない。勤務体制に関しても5月は公休数が多く、かつ月日曜祭日の公休希望が重なり、日曜祭日は極端に日勤者数が減少する。何故か。医療従事者、その仕事の意味は一体何なのか。「リーダーローティト」というサークル的運営の問題なのか、ひとりひとりの人間としての資質の問題なのか、方法の問題なのか、リーダーをする人をむしろ限定した方がよいのか、中間管理職を配置すべきなのか、どうすればよいのだろう。医療看護という仕事に関わる根本的な姿勢の問題か、等々。悩みが探まる。  4月よりの課題は、形の上ではでき始めていたが、内容的にはまだまだ未完成であった。何かしら、スタート来の看護者、次に参加した看護者、そしてこの春に参加した看護者その他の職員、と3つの世代の層が形成され始め、その関係が複雑にからみ合っているようでもあった。この時期、ある人は次のように怒りをぶちまけている。 「楽をして給料をもらいたいのならいくらでも他の職場を捜せ。まきび病院は、きりっとしまって、きびきびとやらねばならぬ所である。自分がやろうと思えば、いくらでもやらねばならぬことはある。やらないでおれば何もない」 と。  どうすればよいのか。組織運営の形を明らかにすべきときなのか。病棟内では盗難事件が頻発するようになり、このことも頭痛の種であった。  6月、看護の動きには、あまり変化はない。新職員は業務にはほぼ慣れてきたようであるが、どこか動きに持続性がない感じである。人間を見る目の問題なのか。看護業務のあり方の問題なのか、<まきび医療>の問題なのか、内部だけでなく外の状況も関係した問題なのか。質的に、いかにして深めればよいのかをひとりひとりが考え、かつ討議すべきではないのか、しかし、それもない。  危機感を覚える時期であった。リーダー役の看護者もどうしてよいかわからぬという悩みが増大する。しかし集まって話し合う場面ではあまり意見が出ず重苦しい雰囲気になってしまう。確かに、それぞれに工夫しようとしているのに動きにむらがある。どうして患者さんの中へいくことが少なくなるのか。  個々の看護者の生活状況によって仕事に全力投球しきれない人もいる。しかし、患者さんと深く関わるときには、どうしてもオーバーする動きが必要になってしまうときがある。これをどうわかってもらったらよいのか。リーダー役は過重負担になるといってリーダーをしたくないという人が出てきている。  刹那的な動きが多く連続性がもちえないのは何故か、夜勤の過重負担感が原因なのか、個別受持看護をもっと徹底してみてはどうか、スペース別分担を徹底してみてはどうか、朝の申し送りを短縮してミニカンファレンスをし、そこで、その日のポイントを押さえてから仕事を始めるという風にしてみてはどうか。リーダー反省会を、病棟状況、個々の患者の動きを点検する場とすべきではないか。  病棟の状況は、老人の発熱者が多く、準夜帯の雑踏的状況が続いている。観察室に停滞している人が多い。長期化している人が目立つ等々。  男子職員の動きが曖昧であるという批判も出る。準夜帯は、詰所を守る役割の人が1人いてほしいと(詰所は相変わらず、出入り自由にしてあるので、特に用もないのに雑談しに来る人や、臨時薬を希望に来る人、小遣いを出してほしいという人が来たり、電話が鳴ったり…大変な状況になるときがあるのである。)疲れが目立つ。看護の動きをどうすれば賦活することができるのか。  養護教諭たちの動きにも戸惑いが見える。業務の流れはわかってきたが、初めての臨床現場であり、まだどうしてよいかわからぬことが多い。自分なりの仕事をどうしたら見出せるのかわからぬ等々、かくのごとく看護は混迷していたのである。  組織図示さる  このような状況下で、「まきび病院」の組織図が示された。今まで、曖昧であった組織運営機構の明確化である。いわば「褌の締め直し」である。  院長から、主任ローテイト1ヵ月間と、「リーダーローテイト5日間」を組み合わせてやってみてほしい、という要望が出されたが、看護部門は、まだそのような形は無理ということで、「5日間リーダーローティト体制」の現状維持でいくことになった。  7〜8月、七夕祭り、海水浴、定例キャンプ、OBキャンプ、盆踊り、盆外泊、とあわただしく夏の行事に追われ、病棟は動いたが、やはり煩雑な状況にはあまり変わりはなかった。  9月、ナースヘルパーが1名になってしまい、たちまちヘルパーの仕事がパンク状態になってしまった。  夜勤帯では、不眠者の対応に苦慮し、疲労感が目立ってきた。睡眠が必要な人、注意して見守っておかなければならない人、急性期の人がいる一方でただ眠らずにたむろし雑談する人、夜になると元気よくはしゃぐ人など、このような状況をとりしきっていかなければならないのである。ストレスはいやおうなくたまってしまう。激しく落ち着かぬ患者さんが1人いて、その対応だけでもエネルギーをかなり費やさねばならなかったのだから。  リーダーの煩雑さは相変わらずで、秘書的役割の人がほしいという要望が高まっていた。日曜祭日のリーダーの責任の負担感は依然として大きかった。  医師は外来診療に追われ、病棟へ来る時間が少なくなり、患者さんの不満も看護者の不満も高まっていた。看護者だけではどうしてもおさめきれない場合があった。  看護職員の退職者、休職者が目立つようになった。疲れゆえか、配慮役が不在だからか。常任委員(医計委)のあり方が曖昧であるという批判も出てきた。看護の中心でもない、一体何者なのかと詰問されたりした。人間相手の仕事であるからには、管理的な規律で強制することは暴力的であり反治療的であるとして、<まきび医療>は別の方法論を模索創造しようとしてきているのだが、職員の疲れは確かに目立ってきた。  看護の活性化は、いかにすれば可能なのか…我々はあえて、「リーダーローテイト」という柔軟な体制の中で、看護の可能性を伸ばそうと考えてきたのであるのに一体、何が問題なのか、人員不足ゆえの疲れ、それはある。しかし、100床規模の病院では、患者さんをある程度かかえなくては経営的に困難なのだ。職員をかかえるには限界がある…。職員のエネルギーは診療報酬にならない部分に多大のエネルギーが費やされる。しかしこれは、やむをえぬ。  遊びのメニューは増えてきたが、個々の患者さんの抱えている悩みや問題を煮つめることはあまりできてはいない。夏の疲れというには、それ以上の何かが存在しているようであった。看護者ひとりひとりの仕事に対する姿勢、意欲の問題なのか。労働条件の問題なのか、しかし、労働条件のみで今の状況は変わるのか。婦長的存在が不在だからか、看護者間の人間関係の調整、仕事に対しての歩調合わせのために、婦長的存在があればそれで解決できることなのかなど。  この時期、医計委より以下のことが要検討課題として提起された。      ****** @ナースヘルパーが1名になり、その人が1人で頑張っていることは大きく評価すべきである。しかし現実には負担が増大している。そこで、パート看護婦の動きとからませてみてはどうか。 A清掃業者の導入  実施してみてよくなければやめる。この際、今までのナースヘルパーという役割を再検討してみる必要がある。まず、物理的清掃をしなくてよいことによって、余力を患者さんの介助へと振り向けることが可能ではないか。ナースヘルパーという呼称自体が疎外的であり、この呼称を変更し、看護業務の役割分担の中で位置付けるはうがよいのではないか。 B秘書について  どのような呼称がよいのか。業務内容、役割はどのようなことを期待するのか。どのようなパーソナリティーの人がよいのか。 C受持看護の必要性  いつのまにか非常に曖昧になってしまっている。患者さんの回復過程を見守り、長期化させないように関わるのは絶対に必要である。 D長期在院者の問題  ベッドの割振りを高齢者、再入院者、「のろのろ神経症」的な思春期の患者さん、急性期の患者さん、他との兼ね合わせの上で考えていかねばならない。切り捨てずに引き受けるのが基本である。そして退院後のケアも必要である。 E家族会の再検討  Dと相即して、地域に向かっての動きを作っていく機関として位置付けうるか。その必要性はある。 Fインテリアの問題  手狭になった空間の使い方を再考すべきである。玄関ホールを治療空間として改造する必要はあるのか。 G夜勤可能者の確保  これは来春に焦点を定めるが、しかし当面どのようにしていけばよいのか。また、どのような人材が必要であり、その労働条件はどのようにすればよいのか。 H祭り、行事などの運営の仕方  長期展望で考えていくこと。 I白衣をもっと動きやすいものに変えてみてはどうか。      ***** …しかし、我々には、どのような展望があるのか?今の病棟状況はどうなるのか?看護体制はどうあるのがベストなのか?人材は確保できるのか?経済的な余裕はあるのか?…このままではパンク状態は必至である!  10月、「看護部会」は今月より、月に1回、定例的に開催されるようになった。病棟内は、文化祭の準備と<憂鬱座>公演の準備で、相変わらずの賑やかさが続く。  11月、「文化祭」、<憂鬱座>公演という2大行事をやりきる。その後、看護から他の医療施設を見学にいきたいという要望が出され、県内の精神医療関係の施設の見学が実施された。外から見て「まさび病院」の状況がどうなのかを、とらえ返そうとしたのである。  病室は過密になり、スタッフ用の空間も、病室として改造し、増床申請がなされ、107床になった。この手狭な空間に患者さんと職員がひしめき合うといった状況であった。  とてもつらい冬……  12月、多忙と疲労感の中でも各職員はふんばっていた。しかしこのままでは限界に達してしまう。確かに病棟の開放的ムードは大分定着してきており、外来受診者も増加してきている。しかし同時に高齢者、長期在院者、再入院者の問題も増大してきている。看護者は体当り的に頑張り、「個性」を中心とした吸引力で、なんとかやってきた。しかし組織的に動くことはまだ不十分であり、個々の患者さんの現実吟味段階での煮詰め作業への関わりが、まだ不十分であった。看護者相互の軋轢、医師との軋轢もしばしばあった。「リーダーローテイトの自主管理方式」には長短があった。個々に動きはあっても、それを組織化していく力が不足していた。どうすれば様々な「個性」が生き合い、かつそれが有効なエネルギーとして発揮されるのか、そのためにはどんな組識運営が必要なのか、リーダーを限定し、主任「ローテイト」を導入するべきか。外来の重要性も増大している。外来での看護者の再研修ということも考えてみる必要がある。  医計委では、冬場をどのように過ごし、春に向けての地固めをどうするかが討議されることになる。      ***** @相談室と看護の協同で、「長期在院者対策プロジェクトチーム」を編成 A心理療法土を中心として、「思春期患者対策プロジェクトチーム」を編成 B受持看護を徹底する。  この3つの活動をベースにして、まず内部の動きを充実させようという方針が提案された。  激しい討議がなされた。激しい感情もいきかった。この提案は、前々から出されていたものの再提示にすぎなかったが、それがどうしてもうまくやれてこなかったのである。 「まきび病院」は、今までは孤立的状況の中での実験的な動きをしてきたが、このままでは閉塞状況に陥ることは必至である。これを打開するためには、内部を固め、外との相互交流を広め、<まきび医療>を活性化していかねばならない。その中から人と人とのつながりのネットワークを創り出していかねばならない。看護は、県外研修などのプログラムをきちっと組み、外との交流をし、内部状況を相対化、強化することをやらねばならない。様々な研修の場を求めて積極的に動かねば視野狭窄になってしまう。  医計委からの提案は看護者に大きな反響をもたらした。みんなぎりぎりの所でふんばっていたのである。久々に活発な討議がなされ、このことを介して、なんとか再度がんばろうという看護の「意地」が高まったのである。  法人化とは何か  1984年1月、医療法人社団造山会「まきび病院」として再スタート。法人化に際しての不安をもつ者もあったが、むしろ我々の動きが保証されること、活動状況も数字として、かなり明確化されるということであった。そして以前から要望されていた就業規則の明確化もなされた。  2月、しかしやはりなお、看護の自主管理体制は限界に近いような状況のままである。どうしてなのか。医局による集中講義が始まった。再度、基本的なことを踏まえる必要があり、看護者の力量のバラツキが懸念されていたのである。  この1年間を振り返ると次のように表現できるかもしれない。  新しい世代の看護者の参加があり、この中で新旧の看護者の層形成がみられ、相互に葛藤が生じ、<まきび医療>看護の現実をどうとらえるかにも相互の違和が生じ、相互の不満疲労がわだかまり、しんどさを増した時期。そして看護体制を根本的に再検討させられる時期でもあり、<まきび医療>にとって、看護はどうあるべきかを深く悩み、看護者各人も自分にとって<まきび医療>との関係を考え直さしめた時期である、総じて、「模索と混迷の時期」であった。  3月、ついに、「総婦長主任体制」を導入する方針が出された。これによって、看護体制は新たな局面を迎えることになる。 3 新たな構築の時期(1984年4月〜今)  院長より、「総婦長主任体制」を導入することがいい渡され辞令が出た。「混沌」とした状況の中での自主管理体制のデメリット部分として、責任の所在の不明確さ、情報の伝達処理判断の曖昧さがあり、これらを補強すること、この体制の中でやりきれていないことを看護の動きの中軸を定め、じっくりと腰を据えてやりきっていこうとするものとしての「総婦長主任体制」を導入する。  看護部門では、やはり「リーダーローテイト」との兼合わせが大きな問題であった。「リーダーローテイト」をなくしてしまうことは看護の柔軟な動きを、一挙に管理的な動きに変えてしまうものであり、それには大きな抵抗が予想された。「リーダーローテイト」を残し、その柔軟な動きを保証しつつ、主任は全体状況を把握するなかでポイントを押さえ補完していくこと、そしてリーダー本来の役割を遂行しやすくし、看護の力を蓄えていくことなど、このような大まかな構想をもって4月を迎えることになった。  4月、新職員の参加、看護者2名、養護教諭2名。今まで看護部門に属していた心理療法士2名が相談室部門へ人事異動された。「まきび病院」始まって以来の丁寧なオリエンテーションが1週間かけて実施されたが、新職員には気の毒なくらいに病棟はざわついていた。不眠者も多く、スタッフの疲れも相変わらずであった。  日勤帯での動きは大きな変化はなかったが、新体制が発足しての緊張感によるのか、少し引きしまった感じになっていた。  看護部会では「自分にとって看護とは何か」という問いかけがなされた。様々であった。総婦長はスタッフひとりひとりとの個人面接を始め、ひとりひとりの悩みをくみとり、良い仕事をしてもらいたいという願いを託していた。自分のあり方を問い直し相対化すること、常にこれを言い続けてきた。そして、病棟のざわめきを、我々と患者さんの関係の在り様の問題として、とらえ返しておかなければならない側面があると。  5月、盗難事件が発生し病棟はざわついていた。代理行為の問題に悩まされた。  総婦長よりの提案で、月に1回、看護者2名は研修に出ることになった。外から「まきび病院」をとらえ返すために点…。 まだ3周年……  6月、3周年。  看護者19名(うち男3名)養護教諭4名、ナースヘルパー1名、というスタッフ構成になっていた。  7月、1つの空間を多様な形で意味づける患者さんたち急性期、安静、休息、長期の生活の場、逃げ場、群れ、出会いなど、ざわめきは続き、たびたびトラブルも発生する。様々なあり様を一面的に見るのは危険なことであるのだが、どうすればよいのか。この頃より地域の保健婦としての経験豊富な総婦長に先導され、訪問活動が徐々に始められる。  8月、ざわめき変わらず、スタッフのなんとなくしまりのない雰囲気、何故こうなるのか、患者との妙に慣れ合った関係が目につく。  若いスタッフには精神科の臨床現場は困難すぎるのか、<まきび医療>の歴史を理解してもらうことは無理なことなのか、ひとりひとりとの患者との関わりを深めることの中から、体験的にわかっていくより仕方ないのか。  新旧スタッフの間には時代状況の変化が大きく介在しているようではある。看護の活性化はいかにすれば可能となるのか。  下旬に、三枚橋病院見学団派遣。外来研修を復活、一方月交代でみっちりと勉強しなおす。精神医療に関わることの重さとその意義の認識、そして自己変革は、いかにして可能となるのか。  9月、三枚橋病院・千葉病院見学団派遣。 やはり人員不足、パート看護者の採用をどうするか。情報交換が不徹底、〈憂鬱座〉公演のバックアップ、その役割分担の不徹底さ。ボヤ騒ぎあり、その対処のまずさ。戸惑う。  10月、養護教諭から独自の活動プランが提案されてきた。肥満対策、新聞の発刊、性教育など。  パート看護者の参加があり、午前中は人員がかなり充足してきた。しかし午後はまだあまり変化ない。「飲酒」「盗難」「男女の恋愛」が問題となる。スタッフのしんどさを主任たちは、わかっているのかという不満も高まる。  11月、文化祭、〈憂鬱座〉公演でバタバタ動き。  12月、病棟のざわめきはあまり変化せず、何故なのか。  1985年1月〜2月、冬場の病棟のざわめきは続く。「総婦長主任体制」を導入し、複雑に変化する状況に対応しようとしてきたが、どこまでできたのか患者さんの「まきび病院」に対するあり方も、変化してきたようにも見えるが、どうすればよいのか。  以下、院長による総括と方針の文章を大幅に引用する。      *****  看護の動きはズルズルと日常は過ぎていくもバタバタ動きで、肝心なものが押さえきれておらず「ルーズ」と「甘え」「謝罪」することを知らぬ者の群れ。精神医療の現場で今、何が問題であり、この現場から逃げないで生き続けることの重さを彼らは知らない。 「とり残されつつある人々」が目立ってきた。ベッドは自在な動きを封じられつつある。@痴呆老人、A再発をくり返し受け入れ状況が狭まってきた人たち、B病状改善されず残ってゆく人たち、C思春期で次の方向が見出されず長期化する人々。これらの人々の中で@はやむをえぬとしてもA〜Cの人たちは、その人の可能性に関してきちっと点検できていず、問題があるとわかっていても医療側として、ぶつかりきれず逃げていた。私(院長)の方針が「自由」を第一にしているという錯覚のもとに対決を回避する職員。自発的な動きがどう出てくるかを見守り、動きを見出したらそれに添わせて動く。その中でいろいろな体験を共にしつつ、次の方向を見出す、であったはずである。土壇場の現実に向けての吟味挑戦段階が、いい加減に処理されていたようである。  看護の病院全体状況を見る眼は甘い。 @急性期の身体的ケア、社会的保護が必要とされ、かつ緊急対応が要求される人たちこそ、第一に押さえられていなければならない。 A急性期を脱して回復しつつある人には、ゆっくりといろいろな体験をしてもらう場を用意せねばならない。本人の不安に対しては、支持的であるのは当然。 B現実社会に生きる場を見出した人は、不安緊張を覚えている。しかし、それをはねかえして、退院へのふんぎりをつけさせねばならない。 C「思春期」を対象とした動きは、現在、まきび流の治療プログラムをほぼ完成させつつある。しかし「思春期」の若者にとって、労働者のモデルは医療現場で働いている私たちである。私たちがいい加減であるならば彼らは現実とますます遊離してしまうであろう。 D時に休息入院が必要な人々もいる。  急性期の人たちへの対応が第一に優先されねばならない。しかし、今の当院ではそれが用意できているとはいえない。特に夜勤帯では急性期の人たちへの対応が的確に行われるように看護体制を点検すべきであろう。 ・患者さんの協力も得るように努力すべきか。 ・やはり看護においては個別担当を引き受けさせ、療養生活は、療養者と医療労働者の共同作業によってつくられる、ということを確認させるためにも、互いに点検しあう場を用意すべきなのであろうか。 ・また、最小限の療養生活の約束として定めている決まりも毎日放送し、定着させる努力をしないといけないのであろうか。      −中略− 医療現場を変えんとする動きをねちっこくする時、施設全体の管理体制が当然問題となってくるが、同時に、その管理体制のもとで日常現場を平気で過ごしている看護自身の資質も問題として浮かび上がってくる。「監獄」をモデルとしている精神病院において、治療などあり得るはずがない。金沢学会以降、精神医療従事者の自己変革が問われ続けてきたのは当然と言わねばならない。岡山の地においてもそのような者はいた。      −中略− しかし、この冬の動きをみると、今の動きを整理し同時に、各職員にゆとりをもたせないと限界がきてしまう。ようやく精神医療の現場の深さが、わかってきた時期でもある。  今春以後、5年目の方針。  “内をかためて余力を残しやりきっていない仕事に取りくみ、一年後の選択をする”  この取組みのために、3つの方針を提起する。 「第1に情報伝達、処理、判断の中軸を定める」 ・看護部門において病棟および外来に日勤常駐者を専従させ、上の任務を果たさせる。 ・病棟詰所に院内専用電話回線を設置する。 当院は患者の24時間常時対応という形、自由に外線とつなぐということで回線がパンク状態である。 ・診療ミーティング 各部門より1名ずつ参加。毎週月曜日、朝礼後20分間以内で行う。その週の治療戦略をたてる。 ・申し送りの内実の変更。 日勤帯から夜勤帯への申し送りは、情報が集中している日勤常駐者より夜勤者に対しての問題点指摘と指示をする。夜勤帯から日勤帯への申し送りは、前日の常駐者への報告とする。ハプニングが起きたときはもちろん報告する。それまでの申し送りは、患者の様子を細かく報告し、その夜のしんどさを共有するという1人夜勤の名残りが多分にあったため、自然に長い物語り風な申し送りになっていた。 「第2に病棟全体の雰囲気のベースを急性期の人々、身体的ケアの必要な人々におき、的確な緊急対応が行える状況をつくっていく」 ・最小限の入院生活の決まりを定着させる。院内放送も利用する。とりちがえた「自由」から、醸し出された、だらだらした雰囲気から、当然あっていいはずの「当たり前」の決まりの確認である。 ・男子寮は仮眠体制をとる。 夜間の緊急時の対応のためである。 ・病棟内詰所診療コーナーを改装する。 自由に詰所内に患者が出入りできるため、治療空間としての位置が不明確になっていた。 「第3に日勤帯に治療活動の重点をおく」 ・まず、とり残されつつある人々の総点検をし、対決しなければいけない人には対決していく。積極的働きかけが必要な場合は新しい集団治療活動の場を作っていく。 ・男子看護者5名のチームプレーおよび役割分担は重要である。 女子ではできない部分をカバーし、主婦労働者にはできない動き、細かく患者の状況を点検してゆく作業をするためである。 ・相談室の男性心理が主宰していた集団活動はもっと整理し、男子看護者にバトンタッチしていくことが必要。心理の余力づくりのためにも。 ・看護者には「個別担当」を引き受けてもらう。そんな無理を強いているわけではなく、生存の確認だけでもいいというところと、ある程度、方針、役割を明らかにした上での担当だから随分楽なはずである、等々。  とにかく、当院は、永久に自己完結できぬ動きが続く施設であらねばならないのである。      *****  以上、院長の総括と方針に基づいて、3月には具体的な煮詰めを行い、4月には、外来詰所、「日勤常駐体制」をスタートさせた。  4月、おもいきった対応を始め、病棟の状況は今までにない落ち着いた雰囲気となり、夜間の「不眠者」も少なくなった。しかしまだ、日勤帯での活動は十分なものができてはいない。「リーダーローテイト」と日勤常駐者とのコンビネーションもなんとかうまく機能しはじめた。医局と看護の連絡会も始まった。  5月、詰所内の診療コーナーの改装が完成し、休憩室も洋風に改装された。この月より、外出許可に関しては、日勤常駐者の判断でするようにと院長より指示された(ただし、難しいケースは医師に相談する)。入院している人々には大きな影響は出なかった。養護教諭たちも、週1回は会合をもち、その独白の活動に本格的に取り組み始めた。  6月、4周年。看護者24名(うち男子5名)、養護教諭4名、ナースヘルパー1名、というスタッフ構成になっていた。4周年を迎えて、今までの我々の実践を総括し、世に問う、ということで「出版委員会」が発足した。  7月、著さのためか病棟の雰囲気は、再び少しぎわつき始めた。  8月、養護教諭が主体となって、「夏祭り」が行われた。地域の子供たちが大勢遊びに来てくれた。この経験をとおして養護教諭たちも少し自信をつけたようであった。  9月、再び、思春期の人たちの闊達な動きが目立ち始め、夜もざわめきが再燃してきた。  そしてまた、新体制での息づまり感が出現してきた。これは、今までの息づまりとは何か質的に異なるような印象がある。それにしても、まだやりきっていないことがありすぎる。どうすればよいのか。この今を、「社会状況の混迷と即応し、<まきび医療>も、混迷と模索を続けているがどうすればよいのか、という息づまりが増大して来ている時期」と呼べるかもしれない。  かつての拘禁施設のごとき管理ではなく、緻密な動きをしつつ、各人の可能性を引き出せるような柔軟な看護体制を創出していかねばならない。ゆえに「新たな構築の時期」と称する次第であるが。      *****  実際、いろいろとやってきたようであり、しんどい想いをしてきたようでもあるが、眺め直してみると当初、<まきび医療>に託したことがまだ、しっかりと組織化され、各人に根付いたものになってはいないのでは、という感慨が押し寄せてくる。これは、筆者1人だけの感想なのであろうか。  しかし、嘆息をいくら重ねてみても、事態は変化しない。地道な日常実践を積み重ねる中で、少しずつ「当たり前」の医療を具現化していかねばならない… 第3章 相談室より 内なるものを視つめて 1 相談室の構成 「相談室」という名称は、院長の「何でも相談屋であれ」というイメージからつけられ、医療の中で欠くことのできない場所であるということで、「相談室A・B・C」と3つも用意してくれた。開院スタート時は、ソーシャルワーカー・非常勤の心理療法士2名だったので、A室B室をそれぞれが使用することになった。この時、1つの部屋に職員がまとめて入るという方法をとらなかったのは、「ここにくるといつも誰々がいる」という、各自の部屋に個性をもたせた方が面白いだろうという発想からである。2ヶ月後に保健婦(非常勤)がA室に入り、1984年4月に男子心理療法士2名が「相談室」に看護部門から移ってくるということで根本的に部屋を考えなくてはいけなくなった。外来の流れが変化すること、自分たちの動きをそれぞれどう形づくるか、患者さんの病棟と相談室への動きが活発になるなど考えた揚句、「相談室A」に男女の心理療法士、「相談室B」にワーカー、「相談室C」に保健婦、プレイルームに心理療法士を配置することにした。これはあくまでも最初の○○さんの部屋というイメージに固執するための部屋割りである。1985年4月に男子ワーカーがB室に入り、もういよいよどの部屋も満員になってしまった。それぞれのもっているケースの面接と、インテークと談話室としての機能を、狭い6畳ばかりの部屋で精一杯工夫し合いながらやっている。 「まきび病院の相談室」の特徴は、そのスタッフの数の多さと職種の多様さであろう。ワーカー2名、心理療法士3名、保健婦1名計6名で1つの部署を構成している。それぞれが一応違った専門性をもっているのだが、概してそう変わりはない。個別担当制となると、心理であろうといったん担当となると家族調整・訪問・仕事捜しなどその人に必要な動きは自分でやらなければいけないし、ワーカーもカウンセリングをするし、時には心理テストもする。保健婦と一緒に訪問もすれば、保健婦も外勤先開拓に駆けずり回る、というように相互に重なり合うような動きになっており、しいて違いを出せば、最初の問題のとらえ方の視点が、心理的側面から入りやすいのか社会的側面から入りやすいのかということと、それぞれの個性がまったく違うということであろうか。 保健婦の活動−−−−−−− 2 歩くパイプ役として  真備町は約23,000人ほどの人口で倉敷市圏内のベッドタウンである。地元の人は9,000人程度でその他の多くは水島工業地帯に務める人とその家族で「団地」と呼ばれる過密住宅地が田んぼの中に点在している。主な産業は、温暖な気候を利用して果物(桃、ぶどう、柿)の栽培や、竹の子であり、小さい縫製工場や電器組立工場が多数ある。  保健婦は町の出身で、長い間町役場に勤務していた。退職と同時に当院に就職、現在週3日来ている。主な活動は「訪問活動」であり、対象は外泊者(単身者、老人)「外来中断者(可能者も含む)、退院した老人、町内居住者が多い。人数としては1日平均2名くらいで定期的に訪問をし、服薬を確認したり、薬を持参したり、検査をしたり、食事指導や家族調整をしている。範囲は近隣市町とかなり広い。訪問対象の決定は、主治医と相談したり、長期在院者プロジェクトチームで話し合ったり、かなり厳密に選んでいる。保健所の保健婦と同伴訪問もしているが、最終的にはなるべく地域のスタッフに引き継ぐように心がけている。  先にも述べたように、保健婦が町の出身者であり、役場の保健婦をしてたこと、公民舘の茶道クラブ・華道クラブの指導もしてることから住民の信頼は厚い。町内の隅々をよく知っているし、何よりも他の人とのつながりが強いので、病院に対する忌憚のない意見が聞けれるし、またこちらが地域に対していろいろお願いするとき、保健婦をとおして依頼することが多い。今までも外勤の開拓に事業所を紹介したり、一緒に頼みにいったりもした。料理教室の場所を借りるために老人福祉センターに交渉したりいろいろと動いている。地域と病院の動くパイプ役として、地域情勢のすばやい把握と、病院の中に真備町をひきずりこむ役割を果たしている。 (1)検診・保健所とのつながり  3歳時検診・乳児検診の介助と院内での検診や栄養指導・離乳食の指導もしている。 また、保健所のデイケアに華道を教えに行ったり、保健婦とも連携しながら動いている。 (2)家族会活動  家族会は最初、1982年11月に開始された。保健婦と看護者2名にて隔月1回、対象を老人家族にしぼり、土、日交替で集まっていた。ただ集まるだけでなく、昼食を老人と一緒に食べそのとき、食事介助の勉強や、実地をしてもらったりしていた。1983年1月に長期在院者プロジェクトチームが結成され、そのとき「家族会」を活性化しようということで対象者を広げた。そのため、チーム全体で会の活動を行うこととなった。家族がお年寄が多い中、年輩の保健婦のおっとりとした司会は安心感を与えるようである。 (3)院内クラブ活動  クラブ活動として、茶道・華道を週1回行っている。茶道は無料だが、華道は前期・後期あわせて300円材料費を負担してもらっている。ときには材料費を浮かすために、野原の草花を摘んできたりしている。参加者はあまり固定せず、そのときやりたい人がやるという形をとっている。職員の華道クラブも担当しており、花を生けながら人生相談をしている。保健婦の部屋は畳の部屋なので時々、不安の強い人や寂しい人が訪ねてじっくり座りこんで話を聞いてもらったり、点滴をしながら相談をしたり、町民が来て話しこんだり、家庭的な雰囲気をもった空間である。 ソーシャルワーカーの活動−−−−−−− 3 私にとっての「当たり前の医療」  これが「当たり前」の医療ではないか、といいきるためには、自分の中にこういったところがそうで、ここは違う、という比べるものがなくてはいけない。私の中で比べられるものといえば、5年間のある精神病院での就労経験である。23歳で就職したその病院は医者達の努力の結果、県内でも・良心的な部類に入る病院につくりかえられていた。それでも、その時点で比べるものがなかった私には何とおかしな場所に移ったことか。自分たちでお金をもてない、自分の小遣いがいくらあるのか知らない、自由に電話がかけられない、タバコの本数が制限されている、喫煙時は電熱器を使う、手紙はすべて中身をチェックする、雑誌類は刺激するからと女性のヌードは破って渡す。さらに驚いたのは、同じように興奮するからとチョコレートが食べられなかったことだ。確かに、この人にはこれはまだまずいということはあったが、それがすべての人にあてはめて考えていることに驚いてしまった。そして、それらのことになんら治療上の意味も見出せなかった。現金はもたせないから、保護受給者で小遣いが何十万円もたまっている人は大勢いた。私の最初の仕事は、小遣いの残額を本人に連絡することと、面会に長い間来ない家族に、代理で電話をかけることだった。人間が安易に、人間を管理できる場所だった。社会的地位があっても、面白い人生を歩んでいても、その人の過去にはまったく関係なく「精神病」というレッテルで精神病院に入った途端、ズボンのバンドをとりあげられ、衣類に名前を書き、すべてをチェックされて、ガチャンとドアに鍵をかけられ、後は職員という肩書きのついた人間に管理されていく。そういったものが、医療というベールでおおい隠されて、当然のこととして行われているのが、不思議でもあり、腹立たしくもあった。  純粋に医療に必要な制約だけ残し、この人にはここが駄目でもこれは大丈夫という個別性がもてたら、もっともっと「自然」な日常生活が入院中でも送れるのではないだろうか。人間として普通の入院生活、社会で生きてきた日常の生活から、180度かわった生活でなく、1つの流れとして位置づけられる入院生活、それを保障する医療。あえて「当たり前」という名前をつけるのは、ほとんどの精神医療が意味なき制約を医療という名前で行い、それが「当たり前」として定着していることに対し、そうではない!これが「当たり前」である!という旗を掲げることが精神医療の中で、「まきび病院」の動きが「当たり前」でないというレッテルを貼られていることに対しての反撃であると思っている。そして、それをふまえて、あえて「当たり前」の医療といい続け、「まきび病院」の形が広がれば、私たちは「当たり前」という看板を降ろすことができる。それまでは「当たり前」でないことをするしんどさを隠して「これが当たり前よ」と涼しい顔をしていい続けなければいけない。自由にタバコを吸っている、トイレには鍵がついている、赤電話で話をしている、買い物に気ままに出かける、これらのことがなんら問題なく自然に流れていってることに、やはり前の病院を思うと感慨深い。私自身の中で比べるものをもっていることは幸いだったと思っている。多くの職員は、精神医療を過去に体験していない。「まきび病院」が初めての精神医療なのである。細かな事にこだわることなく、スーッと入っていける感覚は、それでより「まきび病院」の「当たり前」さを確実にしてくれる。でも私はやはりこだわれない、見えない部分が恐い。「まきび病院」が「当たり前」で安住するばかりで、苛酷な精神医療の実体があることが感じられない。まきび流の医療を創り上げている裏に、つぶされるか残れるか刃の上を歩いているような闘いがあることが理解できない。それはやはり、私には怖いことである。「まきび病院」で働いているから良心的な職員であって、閉鎖的な病院に務めればそのままそこの顔をもった職員でおさまることができるのではやはり、他の医療状況を批判する資格はないだろう。比べるものをもった人間がいかに精神病院くさくない場で、精神医療の抱えてる問題を明らかにしていくのか、私自身に課せられた問題であると思っている。  精神病院らしからぬ「まきび病院」の中で、実際には精神医療を行っているし、外から見れば「精神病院」として見られている現実がある。時々は入院中の人もここが精神病院であることがわからない人もいる。お金は自由にもてるし使える、電話や手紙も自由、鍵もかかってないし鉄格子もない、職員の対応も丁寧な方である。マッチや煙草も自由にもてるし入院時の身体チェックもしない。そういった日常生活が何1つ疎外されずに営めることの裏に、何か問題が生じたらどうころんでいくかわからないという、綱渡りのような状態が潜んでいる。そのことをどれだけ認識して、職員も日常の業務をしているのか、1つ1つ何ともなく過ごされている行為や規則の少ない生活の背景にそういった賭のような現実が横たわっている。事実、現在の精神医療の実態はどうなのか、いつも問題としてあげられながら表面的には動きがないようにみえる「保安処分」についても、法務省はいつでも法案を提出できる体勢を整えた。一連の精神障害者(過去、医療にかかってただけでもそう決めつけられる)の事件のセンセーショナルな新聞のとりあげ方は数も、少ないと認めていながら、1度起きると凶悪であると説明しているし、動揺する世論の動きなどにうまく便乗して、必ず強引にまた引っぱり出すにちがいない。そういった情勢を見すえながら、「まきび病院」の中でさりげなく見過ごされている日常の中で、精神医療の抱えてる問題に目をそらしてはいけないのだ、ということを明らかにしていくにはどうすればいいのか。一見して、自分達の周りの環境とはかけ離れているような「宇都宮病院事件」が、実はそうではないのだということをどう伝えていくのか、どこまで共有できるのか、平穏に流れていく日常の中に埋没してしまわないよう、今後の動きを見きわめていきたい。 「まきび病院」が、地域の中で開かれた病院であり続けたい。その人の生活の中で、「病む」ということがあり、たまさか入院があり、それらの過程が、通り過ぎていく1つの流れとしてとらえていけるような医療でありたいと思い続けているが、現実にはやはり、病院という枠の中で、どうしても目の前にいる患者さんとの個としての関わりが重点になり、その背後の生活や、家庭・地域社会といったものは見えにくい。病院職員としてどうしても医療中心の考えになってしまう。その中で「相談室」というのは多分、1番外部との接触が多い部署ではないかと思う。入院相談・電話相談・福祉事務所・保健所・町役場・会社・施設・病院・児童相談所・学校・診療所・その他様々の機関との情報交換・連絡・訪問・いろいろな形で接触がもたれている。ややもすれば閉鎖的になりやすい医療の中で、ちょうど病院と地域との間にぽっと浮いた「異次空間」のような場所である。様々な情報や状況に接することにより、嫌が上でも医療に対して外からの目・家族の立場・各機関の立場など、周囲の思惑やらがぶつけられ、本人は本人で自分の想いを主張して、間に挟まって身動きできなくなることもある。が、そのかわり病院の周りからどうとらえられているのかがよくわかる。少しつき放した目で全体を見る時、よく内部が見えてくる。自分自身が開院以来籍を置いているということで人一倍愛着心は強い。よりよい医療を創り上げる立場と、外部からの目を通して医療を批判し続ける立場と、両方の視点に立ってあり続けなければいけないと思っている。これを私は単眼ではなく、とんぼの目のような複眼で見る立場性だと認識している。内から外から創り上げることと、批判者としての存在と、柔軟な頭でい続けたい。 チーム医療の中で  概して「相談室」は単独プレーをしがちだが、看護との個別担当制が重なったり、各プロジェクトチームがあったり、ジョギング・レクレーションなどの役割分担があったり、結構他部署とチームを組むことが多い。そうでなくてもあまり専門性が明確でない形で関わってることが多いのだが、そういった中でのソーシャルワーカーの果たす役割といえば、入院してくる1人の人間が、単に患者という言葉でまとめられる人ではなく、その後ろに生活があり、家庭があり、社会がありといった「生活していた中で病んだ人」であるということをもう1度確認し合い、その見えにくい背景をできる限り提示し続けることではないかと思っている。そのことにより、時に陥りやすい患者ごっこ、職員ごっこから生の人間として患者さんを認識することができるのではないかと思う。日常業務の中で、つい目前にいる対象のみをとらえてしまいがちである。まだまだ一面的ではあるが、インテーク時に生育史にふれる事により、総合的にクライエントをとらえる機会が多い。そういったところから、何回もいい続けていきたいと思っている。 クライエント主体の原則  何度も使われた言葉で、何も今さら改めて掲げなくてもいいくらいのテーマだが、実は最近、私はこれを忘れていることが多い。多分これは自分自身の職歴が、だんだん長くなり変に経験主義的に陥っているからではないかと思っている。ひとりの人をめぐる問題がある程度見え、その対応策が読めだすと、本人の意向や意思を後回しにして、パッパッと片付けようとしてしまう。はっと気がついて、しまった走り過ぎた、と反省することが多い。経験主義に流れると結局その人のもっている力が出てくるのを待つことができない。頭ではわかっているのに、やっていることは越権行為のようなことをしてしまう。独善的な動きに走るようになってしまう。これだと何もしない方が最良の方法ということになってしまう(最近はしみじみとこの言葉をかみしめることが多い)。  例えば入院相談に立ちあった時、本人は入院を嫌がっているが、家族は非常にしんどいところまできている。福祉事務所や役場とかは地域の立場にたって入院を希望している。そのとき本人の側に立ちきって「入院したくない時はしなくていい」ともいいきれない場合もある。家族の話を聞けば、もうクタクタでくたびれてる、休ませないと親亀がこけると子亀までもという状態である。地域もこのまま放っとくと増々強硬になってしまう。結局、気持はわかるけどとりあえず入院するほうが最上の方法ではないかと思わず動いてしまう。調整役としてはまことにうまくいき何とかまとまるのだが後味はすこぶる悪い。これで良かったのだろうか、あそこで入院したくないという気持を尊重したらどうなったのだろうか、それなりに収まったのではないかなどと何日も考える。  また、私の悪い癖で相手の話を聞いているとすぐその相手に共感してしまい、わけがわからなくなってしまう。いつも「クライエント主体」という原則を押さえてないと、医療上必要である、という自分自身や周りへの言い訳と思いこみによって、犯してはならないことをしてしまう。最近、しまった、と思った例としてこういうことがあった。中学時代より養護教諭を通じて学校との連絡や協力関係がスムーズだった人が、高校に入学し再発した。しばらく外来で学校と連絡をとりながら様子を見ていたが、とうとう外来ではもたなくなり、入院となった。そのとき、私はすぐ担任と養護教諭に連絡をとり事情を説明したが、何と両親は、学校には親類宅に行ってる、とだけいい入院したことは隠していた。結局は入院が長引き両親のほうも学校に事情説明することになったが、やはりこちらの走りすぎだったのだろう。他人の秘密に慣れ過ぎてしまうと医療上の立場性という思い込みで、とんでもないことをしてしまう。何度自分自身に警告しても足りることではないだろう。 他部署との関連  ソーシャルワーカー・心理というのは、大体がよく浮いた存在になりやすい。ピタァーとうまくいっているという所は少ないのではないだろうか。大体他部署からの相談室の評価は「好き勝手にしている」「情報を返さない」「いい時だけに関わる」とかよくいわれる。この他にも多分もっといろいろあるだろう。私も若かりし頃はいつも看護や管理職にかみついてさぞかし扱いにくい人間だったろうと思う。今は変に主任役なんかやってるので、自分が年をとったような勘違いをし、随分客観的に見れるものである。確かに心理の職員も、看護に在籍してたときより相談室におりてからの方が看護とは離れてしまったとはいうが、籍があったときから「どう扱っていいのかわからない」とか「何で看護に心理がいるの」とかぶつぶついわれてるのを他人言のように聞いていた。相談室と他部署との「甘い関係」などというのは永遠のテーマだなとつくづく思う。が、それでもまだ「まきび病院」ではいいほうなのだろう。何故いいほうなのかというと、他職種というだけで訳もなく嫌がられるというのではなく、ちゃんと理由があって、その理由に基づき文句をいわれるということである(もちろん勘違いや、いき違いもたくさんあるが)。最近は少しずつその理由をとり除くことで改善されてきた。まずたくさんの連絡会ができたことである。第1に医局との連結会(隔月1回)。この導入の目的は、個別担当制により、担当者と主治医との情報を密にし、方針を一本化すること。と、院長のスーパーバイズを受けることといえばカッコいいが、要するに院長のもってる精神医療論というか、人間観をなるべく若い人たちに受け継いでもらおうということである。これにより、少しは担当者の走りすぎとか不安とかが解消されるし、酒飲みながら話す院長の話も伝説化しなくてすむ。第2に外来会議がある。これにより随分いろんなことが相談室に注文された。例えばいつも飛び回っていないことが多い。肝心の用事があるとき捜し回ってるうちに捜す方がみじめになってくる。インテーク時にいない。外線が多いが部屋にいないので捜すのに時間がかかるなどのことである。そのため、事務所の中にミニ白板を用意し、そこに外出先などを記入し、居場所と帰院時間をわかるようにする、インテーク、外来中断者のミニインテークに備え、担当曜日を決め部屋に常駐するなどを決め少しは外来との関係も良くなりつつある。その他、看護連絡会(婦長・主任)をもち意見などをあげてもらっている。この時にはジョギングに必ず相談室スタッフがついてほしい、個別担当者(特に思春期)は情報を返してほしい、相談室にゴロゴロしている連中にどう対応しているのか、いたずらに対して看護だけでなく担当者に注意してほしいなど一杯でてくる。他にも挨拶しても知らん顔とか、勝手気ままで傍若無人とかいろいろ陰でいわれるが、これはもう他施設で鍛えられていない人間のいい加減さということで「皆で育てよう若い力」という姿勢で考えてもらう他はないと思っている。それでもまあまあうまくいってると思うのは、朝、夕の申し送りに参加し、なるべく情報を返していく、カルテや看護記録に記入していく、各プロジェクトやグループワークでチームを組む、「先生」と呼ばれないように努めていることなどによるものであろうか。ソーシャルワーカーが開院以来在籍しているということもあるかもしれない。 4 日常業務をとおしてのソーシャルワーカーのあり方  多分、他の施設とあまり変わらないのではないかと思う。基本的には「何でも相談屋」である。病棟と相談室がコンパクトにセットされ、こちらの意識もたまり場のような相談室だから、しょっちゅう人は来るししかも入りびたりである。わいわいと何人かで話し合ってるうちに、1対1で話したほうがいい人が来たり、来客(家族とか福祉事務所とか)が来たりすると、他の人に退室してもらって話す。その間に電話が何本もかかってくるのでそれをさばく。外来・入院者の定期面接が入る。時には病室を回ったり、福祉関係の書類がたまるのでデスクワークもする。インテークが入るとそれをすませ、グループワークや職員会議に出席する。訪問のため外に出る。こういった日常のサイクルがあるわけだが、少し業務を整理すると次のようになる。 @入院家族相談(電話、または面接)  役場・保健所・福祉事務所・他院・施設など他機関入院相談  入院時インテーク面接  福祉関係書類作成(入院要否意見書・公費負担申請書など) A個別担当(身のまわり一切に必要な援助も含む)  カウンセリング  家族調整  他機関連絡調整  訪問  入院費など社会資源相談(障害年金、傷病手当、雇用保険、継続保険など)  外勤紹介(アルバイト相談も含む)  各グループワークの導入 B登校準備調整  社会復帰に向けての動き(職捜し、アパート捜し)  単身者アパート整理 C退院時他機関連絡(転院、他施設入所手続きなど)  外来面接  自宅・学校訪問  家族カウンセリング  地域受け皿捜し(民生委員、保健婦、ヘルパー、近隣者など)  その他院内見学者案内、思春期・長期在院者プロジェクトチーム、外勤開拓、断酒会、アルコール・外勤者グループワーク、家族会など基本的にはあまり変わらないと思う。 インテーク面接の意義  インテーク面接は医師の下請けになりやすく、あまりしたくない仕事であったが、「まきび病院」では随分重点をおいている。 @入院者・家族の不安をなくす。恥しいとか、劣等感など複雑な気持を受け取める A問題をある程度明確にする(何のための受診か、何が問題か、病状の把握) B本人との関係づくりができそうなら個別担当に引き続く C診察にスムーズに流れる様に配慮する などの事を留意してやっている。思春期・老人対象に関しては独自のインテーク用紙を作成、それを使用している。老人に関してはときには看護のほうでインテークすることもある。所要時間は20分〜1時間くらい。ミニインテーク(外来中断者)は、外来の看護も余裕があるときはしているが、こちらも情報が把握できるのでやっている。当院の医者は、生育史の把握、全体像のとらえ方、どれも一枚上手なので実に勉強になる。インテークの段階から次の方針まで煮詰めてほしいという意向もあるが時間的にもちょっと無理なので、よっぼど明確にわかる場合、例えば家族のみの相談の場合はしている。 情報処理について  あえて「情報処理専門家」という看板を揚げるのはこのことに関しては自信があるからである。相談室の位置が各機関とつながっていたり、「何でも相談屋」という立場上、あらゆる情報が飛びかっている。その情報を整理し、どこに返すか、どういった形で返すか、どう処理するか、どう発展させるか判断して処理する。かなり経験が役立つといっていい。必ず相談室に入る情報はどこかに返す必要がある。ワーカーが胸におさめるものではないといいきかせている。そうしないとあまりの量と雑多さに重要性が薄められてしまう。安易に必要、不必要と判断してしまいがちである。また、間接的に「A→B」へ話を伝えるとき正確に的確に伝えるのは結構技術がいる。申し送りに伝えるとまったく違った形で伝わってることもある。いちばん頭を痛めるのは、患者さんにどういう風に返していくかである。「内緒にしてほしい」という家族の要望や、地域の動きはやはり直接的には伝えにくいし、福祉関係の処置や書類はわかりにくい。詳しく説明してかえって不安にしたり、混乱を招いたこともある。それこそ時機と機会をみて話すという判断が必要だろう。「専門家」と称する以上は「情報」を単なる「情報」としてでなく、その中からできるだけ問題点を拾いあげながら考えをふくらませて、現実に切りこんでいきたいものである。 個別担当制について 「まきび病院」の相談室の関わりの特徴に「個別担当制」がある。これは前にも述べたように“ゆりかごから墓場まで”ではないが入院から退院、場合によっては退院後まで一貫して担当する。「担当」というと口はばったいが、一緒に考えたり、悩んだり悪戦苦闘していくわけだ。こちらが勝手に医師の依頼、もしくはこちらの興味や相性、いつのまにかの必然性で決まるのだが、医師の依頼の場合は相手に否定権はまったくない。もっともその点は当院の患者さんはわきまえてて、職員に結構あわせてくれるし、一応受け入れてくれる。どうしてもお互いの関係が成り立たない場合は、別の人と交替するがそういうことはあまりなかった。  私はこの「個別担当制」で随分考えさせられたし、いろいろみせてもらった。前の病院のときも一応、担当したことはあったが、そのときは意識の中に以下のことがあった。精神病院という閉鎖的でしんどい空間に入院しなければいけないという状況から、まず患者さんが可哀いそうである。できる限りのことをするのが私の役割(そこの病院の1職員であるということの罪ほろぼし)で、患者さんは共に闘う存在であるというようなことである。その頃は、病院医療に対して怒りとか許せないとか正義感が一杯であったし元気もよかった。“こんな所に入れられて気の毒!そして、私は何ができるのか”というパターンであった。そういう気持が根底にあっての患者さんとの関わりは、病院に反抗する肩代わりとして相談室を解放し(談話室のように)やりたい事(キャンプ、忘年会など)はなるべく実現していき、個別の動きになるべく一緒に行動した(外に出ることはまったく禁じられてたが職安に付き添ったり、訪問したり)。それらの動きのほとんどが、その人にとって私が援助することがどうなのかということより、自分自身が動くことによって、少しでも今の状況からよくならないか、というほうに重点がおかれていた。病院医療の問題にばかり目を奪われ、クライエント個人の問題がどうなのかということがじっくり煮詰められなかったというべきだろう。自分が動き回ることによって患者さんにとっての問題解決はスムーズにはなっただろうが、多分本人の力はついていってなかっただろう。代理行為を自己満足的にしたにすぎない。最後にはいつまでも変わらない管理体制と医療体制の中で疲労感だけが残った。結局無理じゃないのか、いろいろ思ってもと、もうあきらめの気持で勝手に結論をだしたりしていた。私自身はやれるだけはやったけれど、肝心の患者さんはどうだったのかといわれると、私1人だけがきっとつっ走ってたのだろう。「まきび病院」に来て「壊す」ということから「創る」という形にかわった時、個別担当は以前とは随分違った。まず正面向いて患者さんと向き合える。私たちを隔ててる壁は前より薄い。向き合う前に“おかれてる立場云々”はあまり考えなくていい。人間と人間としてつきあうことが前より自然にできる。そして私は「人間」という存在の難しさ不思議さを思うことができた。今頃、改めて知るのだから世話ないが向き合うと見えてくるのである“自分”が。本来、私の思考パターンは内側に向かう方である。いつも“自分はどうなのか、自分だったらどうするのか”と問い返す。最終的には“自分自身”“おのれ”にかえってくると思っている。相手と向き合い、考え、共有しあう、共感しあったとき、おのれを見ることができる。以前のような能動的な動きではあまり見えなかった自分がやっと見えるようになってきた。自分自身は本当に弱い、苦しい、しんどい、とても人の相談を受けたり、悩みを聞いたり解決したりできる人間ではない。それでも目の前にいる事で(自分の意思でいるのだから)逃げることはできない。自分自身でさえ、よくわからないのだから、まして他人なんかわかろうはずがない。こんな葛藤の中で、もつれあい、離れたりしながら一緒に過ごしている。そして5年目、最初は理想のワーカー像としていつも安定してて、変わらなくて、すばやく物事を判断できて優しい、そんな人間を演じようとしていた。それが必要だと思ってた。クライエントを受容し、つかず離れず適当に距離もとって、しんどい状況を抱え、差別と偏見に満ちた世の中に出ていくのだからせめて理解者は多く、ゆっくり休養してもらおうと。もちろん、そういう気持が心から自然に湧き出るような人たちにたくさん出会った。が、最近はやや変わりつつある。本当にこの「演じる」ことでいいのだろうか。無難な役割を果たすだけでそれだけでいい人もいる。が、もう少しつっこんで相手に主体として生きてほしいということを望んでもいいのではないか。“本当にそれでいいのか”“本当にそう思っているのか”という問いかけと、私も1人の人間でこう生きてきた、こう思う、これは私の主観だがあなたはどう思うかという問いかけ、主観と主観のぶつかりあう共主観の場面があってもいいのではないか。“ここはおかしい、やっぱり私はこう思う”という投げかけがあってもいいのではないかと思い始めた。ぶつかりあうのは怖い。いい人に見られていたい。誤解を招きやすいし病状に発展するのでは、病気が悪くなったらといろいろ思い惑うことは正直ある。そのため距離をとった無難な関係が楽である。が、あえてこういう付き合い方があってもいいのではないかと思っている。ただこの事にはいくつかの問題点がある。それは私が望む望まないに関係なく、職員であるということで形として相手より優位に立ってるという現実である。患者さんは患者さんとしての役割を演じる、そして時に“あんたのやっていることは仕事としてやっているのか1人の人間としてか”と揺さぶってくる。こちらが横の関係といくら思っても、そう簡単にはいかないだろう。そんな中でこちらのつきつめはときには相手にとってしんどい状況になるだろう。そこをどれだけ自覚してやっていけるかだろう。やはりこれも自分自身に返ってくる。 5 「差異」を求めて−具体的な動きをとおして− 「差異」とは何だろうか。各施設でやってることはどうしても微妙に違ってくる。特にコ・メディカルスタッフなどという病院の理解のみによって存在している職種の内容は、やはりそこの施設の方針や条件によって違ってくるはずだ。そのため、共通の言葉で語ることがなかなかできなかったり、マニュアル化することもできなかった。今だに日常業務の点検という言葉がよく出るのもそういったためだろう。またそのことが1つの逃げ場や隠れみのにもなり、うちではここまでです、こういう形です、で済まされたり、批判の対象にすらならないし曖昧模糊となっている。また、相談業務とか、外勤作業、作業場、共同住居、社会復帰活動に関することとかいうように、大ざっぱな言葉で表され、その言葉によって何となくわかったような認識したような錯覚をしてしまう。が、今からはそういった曖昧になってしまった日常業務を明らかにし、厳しく点検していく必要があるのではないかと思っている。どこが何と違っているのか、その違いは何なのか、果たしてそこが違っていていいのかどうか、今まで安易に説明し一般化した業務をもう一度掘り下げてみたい。 外勤について  院内作業は、あまり意義が見出せないということでしていないが、外勤作業は、社会復帰の目的のみでなく、病院生活の中で、社会にいちばん近い場所として、様々な形で利用できるのではということで早くから準備をしてきた。ソーシャルワーカーがやみくもに駆けずり回っても外勤先は見つからないので、保健婦に大体の見当をつけてもらい、そこに一緒に頼みに行ったり、病院に出入りの業者に頼んだりいろいろした揚句、ほとんどの可能性のある事業所総あたりで20事業所、外勤を受けてもらった。事業所のほとんどは零細企業であり、労働力としてあてにされ求人の波もある。忙しいときはいいが仕事がないときは受けてもらえない。こちらの状況とリズムがあわないことが多い。また1度受けてもらってあまりにもしんどかったら2度と受けてもらえない。現在残っているのは養鶏所が2カ所、自動車整備工場、電器組立工場計4カ所残る所が残った。場所は病院より4キロくらい離れているので自転車を貸し出している。賃金は全額本人渡しであり、一切プールしていない。金額は就労状況によって個人差がある。卵拾い(半日)で少ない人で1時間215円はど、1日中の鶏糞とりで3,000円から3,500円(ベテランのおばさんで1時間320円程度)整備工場は1日いくらとは決めていない。毎日真面目に行って月4万円くらい。仕事にならない場合ははっきりお金にならないと申し渡す。卵もそうだが、やはり拾うのが遅いし、洗車も、もう一度従業員が洗い直したりと、外勤先もよくやってくれている。休む場合は自分で連絡し、病院は一切タッチしない。昼食は弁当をとる人もいるしパンをもって行く人もいる。お金が安い、と文句のある人は、自分でバイトを探している。また事業主と直接、賃金交渉する人もいる。  過去受けてもらった外勤先は、トラック運転手助手・木工所・養鶏所、整備工場・ダンボール工場、英語塾・セメント工場・ビニール再生工場、自動車部品組立工場・電子工場・わりばし工場などであり、これにクルクル寿司、喫茶店、縫製工場など自分達で捜しあてたバイト先が入る。この他、アパート掃除のアルバイト(1カ月2、3回くらい)があり、これが仕事も楽で弁当付き1日3,000円で人気がある。外勤者の就労平均日数は1カ月、長期在院者は1年、3カ月間行くと長く行ったなあ、という感じである。利用する目的は、体ならし・社会勉強・暇つぶし・小遣い稼ぎ・就労準備など目的は様々である。導入はひとりひとりの個性にあった外勤所捜しから始まった。どこでもいいというのではなく、この人にはこういう仕事が向いてる、こんな仕事ならできる、というところから捜すのだから大変である。いちばん最初に受けてもらったダンボール工場は、たまたま外来に来てた地元の有力者を介して頼んでもらった。それから後は、外勤先の事業所の紹介でまた増えるということもあった。商工会議などで話が出るらしい。こちらとしては、1回きりで後は引き受けてもらえなくてもいいというくらいの気持だった。理由は、こちらのペースと患者さんの条件を優先して仕事をすることを厳守したためである。そうすると、1つの外勤先に次々と送り続けることはできないし長く仕事をするということもできない。こちら側の要求を出せば出すほど、事業所とはくい違ってくる。あえてそれを承知でやってきた。もう1つの理由は「外勤」という形にこだわったためである。いくら町内の最低賃金が安い、といってもやはり外勤は安い。また、行ったからといって、そんなに社会復帰に役立つとは思えない。続かない人でもすぐ社会で働ける人は大勢いるし、1日も休まず行った人でも就労できないときはできない。この資本主義社会の中で「作業療法」は果たして意味があるのだろうか。結局、外勤に適応するために長期化する場合も過去みてきたし、何年も行ってる人も知っている。そういうことが意味があるのか疑問である。その頭があるからどうしても「外勤」がすんなり入ってこない。「働かざる者食うべからず」を押しつけているような気さえする。そこで、外勤とはすっきり働くためのみでなく、何かを得たり、体験する場で、気に入る人だけが利用すればいい、という考えに落ち着いた。そのために前にも述べたような非常に多目的で利用している。が、現実は今残ってる外勤先のみがそれを受け入れてくれてるだけである。これからは病院からのアルバイトという形を勧めたい。自分で捜した職場はやはり皆大切にする。今まで7、8カ所あったがほとんどうまくいった。それと、就労だけでなくボランティア活動もさせてもらった。県社協にお願いし、幼稚園のボランティアをしたが、高校生なんかにはもっと体験してもらいたいと思っている。 長期在院者プロジェクトチームについて  メンバーは婦長、保健婦、看護婦2名、外来看護婦1名、ワーカー1名計6名で何と開院2年後に発足した。この会は、実に自然に各部署からの強い思い込みでできあがった。長期在院者が院内に蔓延し、自分たちでつくりだしておきながら、もう手の出しようがなくなってしまった状況、上澄み層しか動いていない慢性的な雰囲気、そういった状況を嫌というほど見てきた職員と、初めて精神医療に携わり、その人たちのおかれている地域での差別や偏見の実態、血のつながってる家族でありながら簡単に本人を切り捨てる現実を知り、病院が安住の地になり、残されていく。まして、「まきび病院」がより住みやすい環境をつくればつくるほど、現実の社会に帰るのが怖くなってしまうのではないかという不安、ホスピタリズムは案外早いと再認識した職員との想いが入り乱れて“やっぱりやろうや”ということになった。対象は一応9ヶ月以上の在院者と、老人、長期化の可能性のある人、多問題家族、単身者にしぼり約38名くらいになった。主な活動は、訪問と家族調整、ケースカンファレンスが中心で、病院ということにこだわらず広い視点で動き、地域から医療をとらえる姿勢でやっていこうと意気ごみは大きかった。最初は、老人病院の見学とか、家族関係の再検討、訪問活動と意欲的に動き、月1回会の報告をまとめ各部署に配布したりと活発であった。ところが、母親が老人ホームに入所、結局従姉にしか面倒みてもらえない環境の患者さんで、従姉に1年に1回盆外泊を依頼した。そしたら外泊を称して他病院(閉鎖病棟のある病院)に連れて行き、そのままそこに入院させてしまった。その時のショックはもう言葉にはいい表せない。1年に1回の外泊も従姉には負担だったのか「帰れ帰れ、といわない病院に移しました」という言葉をどう受け止めたらいいのか。それ以来、積極的に動くことの慎重さを感じずにはいられない。やはり長期の問題は簡単にはいかないし、じっくり時間をかけていかなければいけないと思い知らされた。現在は月1回か2回、病院と家族と地域と本人を総合的に見た動きをしている。いちばんの思い入れは、何とか老人を自宅の畳の上で死なせてあげたい、家族に見捨ててほしくない、こちらも頑張るから御家族も頑張りましょう、という気持である。が、やはりあまりいうと転院という結末になり「家族」とは一体何なのか難しいものである。これからは外泊時に訪問をさせてもらい、病院の中と家庭の中での本人の違いや環境をじっくり見させてもらいたいと思っている。プロジェクトで大体ひとりひとりのとりあえずの方針と大きい視点での方針を出していくが、主治医と意見がくい違うことや、チャンスだと思う時機が一致しないことがままある。話合いにより調整していくのだが、医師を納得させるほどの力がまだ私たちにはない、と思っている。 「家族会」について 「家族会」の発足と形に関しては、前に述べたので省略するが、やはり全体的には低調である。入院すると同時に強制的に会費を徴収する所もあるが、当院では対象別の「家族会」(老人、長期在院者)であるし、人数も20名くらいとわずかなので(そのうち参加者は7名程度)病院の持ち出しで行っている。例会は隔月で家族会だよりと行事も花見くらいである。「病院家族会」が何故育たないのかいろいろいわれているが、病院に対する遠慮もあるだろうけど、やはりなかなか家族が主体となって動けない、ということだろう。どうしても病院におんぶし自分たちの力で何かやろうということが見出せない。会に出席すること自体、まだ抵抗があるようだ。案内を出すと予定日の2、3日前にあわただしく面会に来たり、退院の話が出始めると出席しだす家族もいる。もう少し形にとらわれず、私たちが死んだらこの子たちはという考えからちょっと離れたところでやってみたい。もっとも、まだ歴史が浅いし入退院の回転も早いのでどろどろしたものを家族が吐き出す場にもなっていない。じっくり聞き出すことから何か始まればいいがと思っている。形にとらわれずいろいろやってみたい。 アルコールグループ  全開放では無理なのか、と思ったりもするがやっている所もあるのでやはり病院側の取組み方の問題であろう。毎週1回、看護婦の参加でやっと定例化されてきた。入院者は7名くらいで、単身者が多く酒をやめる以前の問題が山積みの人と、何とか家族がくっついてるような人とかいろいろである。内容は、話合いが中心で、その他、断酒に関する本の読み合わせとか、ビデオ、外泊中の訪問、地域断酒会への参加などをしている。全開放の中で酒が欲しい時機に自分でそれを制するということは本当に大変であるが、やはり1人意欲的に断酒に対して取り組んでいる人がいると随分グループが引っ張られていい方向に向かうようである。これからは、外来通院者にどう関わっていくかが検討されねばいけない。  その他外勤者対象のグループワークと社会資源勉強会のみぎわ学級。必要ない時は休んだりまったく流動的である。 院内見学者の案内  見学者はまあ多いほうだろうか。大体神戸広島方面が多い。その他、1カ月および数カ月の実習(医学生、作業療法士、心理療法士、学生)を入れるとばたばたといつも出入りがよくある場所である。案内はソーシャルワーカーの仕事として任されている。大体病院の特徴を説明して院内を見学してもらう。それで病院のイメージが決まってしまうから大事な仕事である。「まきび病院」を知ってもらうのはやはり2、3時間の見学ではなく、汚い医局に泊ることである。夜は遅くまで観迎会をし相手が迷惑でもお付き合いをさせてもらっている。  まきび流の特徴は、いつでもやりたいことが好きなときにできるということだろう。これが必要だ、これがしたいと思えば即実行することができる。対象者の要求やこちらの問題意識に即して、いろいろなグループや動きができ、必要なくなったら消えている。この「自由」さが様々なレクレーションやグループワークの取組みの根底にある。だからいつも斬新であり、新鮮であり続けなければいけないという宿命を背負っている。そしてあくまでもクライエント主体が原則である。強制的なものは何1つない。いつでも形を創ってとり壊していくことができる。新たな挑戦ができる土台があり、それを患者さんの自然な動きに合わせてつくっていく。こういった状態から醸しだされる雰囲気は自然に他施設との「差異」を生じさせるのかもしれない。 6 今後の方向性 「まきび病院」が真備町の中であって「当たり前」のような存在になるのはいつのことだろうか。私個人としても地域の中に溶けこむことが必要だろう。「ソーシャルワーカー」という外国語で、しかもわかりにくい職業柄なかなか理解してもらいにくい。以前、町内と隣町の民生委員会や福祉関係職員への講演をさせてもらったが、この頃の職種は大体共通点が多い。変に分化しているが、理念や、やってることもよく似ている。これらをうまくつなぎ合わせる役割がワーカーには必要なのだろう。最近になって、病院近辺部落の40名くらいのボランティアの方たちに老人対象の遊びや、話相手になってもらう話がワーカーを中心にまとまり、月1回の割合で行っている。何かと閉鎖的な病院医療の中で、外の目にさらすことで地域の中に受け入れてもらうきっかけや機会が多くなればいいと思っている。最近、医療ソーシャルワーカーが増えたといってもまだ少ない。そういった職種の人間をうまく地域の中で役立ててほしいと思う。たまさか小さい町に2名もいるのだから(心理療法士も入れると5名にもなる)病院と地域との共通の資源として大いに利用してもらいたい。「当たり前」の生活を目ざして、精神医療は少しずつではあるが変化してきつつあると思う。現状の医療の延長では先が見えてる気もするが、厚生省でも精神障害者関係予算が新しく在宅ケア、共同住居調査費、ナイトケア推進事業費を決定しているし、デイケアや病院と一体となったナイトケアに力を入れている。良心的な病院では自分たちの努力で、共同住居、共同作業所を作ってきた。中には利用者自身が管理するところまで力をつけている所もある。退院してぶらぶらしている人たちに家族は作業所を望み、それが地域作業所になった。長期化した在院者を退院させるのにワンステップがどうしても必要なこともある。  何かのテレビで見たが、外国の共同住居の紹介で、まったく他のアパートと変わらない住居で地域にも自然に入り、受けとめられているように思えたのだが、利用者はインタビューの中で「何か望みたいことはあるか」という問いに「ええ、あります。普通の生活がしたい」と答えた。どんなに立派で、いたれりつくせりでも、やはり与えられた場所は「管理された場所」であり「普通の生活」ではないのだろう。「自由に生きる」とは、一般の人と同じアパートに入り、地域にとけこみ、医療との関係は自分が望む時に、最低限にと思うだろう。以前、10年近く入院してた人が、ワーカーの後押しで退院した。1人暮しの不安と寂しさで、病院に入院しようか、1人でやってみようかという複雑な気持で、最初はよく病院に遊びに来たり、ワーカーの家に来たりしていたが、そのうち町で自由に歩き回ってる姿を見かけるようになった。再入院のとき「やっぱり自由な暮しがいい、早く退院する」と何ヶ月かでまたアパートに帰っていった。同じ地域に住む退院者の人が集まって、ときにはお互いが泊りあいながら結構寂しくなかったようだ。共同住居・共同作業所・ナイトケア・中間施設などは結局病院の延長になる恐れが十分ある。そこに溜った人たちは次々どこヘ行くのだろうか。困難ではあるけれどひとりひとり丁寧に地域で1住民として生活できるように帰してあげたい。そのための受け皿や協力者は一石二鳥にはつくれないが。しかし、人間の要求や本心はとても測りしれないものがある。  今だに「社会復帰」というテーマでは気になる患者さんがいる。その人は単身者で40歳。入院中に突然解雇になり、寮を出されて行き場がなくなった。外勤に行きながら職捜しを続けたが、何度も面接で失敗しとうとう退院する意欲をなくしてしまった。病院での生活は楽である。自由だし、院内では若い人たちにも人気があった。そのうちたがもはずれて、万引きや地域でのトラブルも増え、外勤も行かなくなってしまった。それでもと、尻をたたいてやっと就職し、寮に入ったが1ヶ月もたたないうちに日曜日に院内に入りこみそのままずるずる入院となった。本人にしてみれば病院から出ることが怖い、寂しいということで必死で逃げ込んだのだろう。このままでは益々退院できなくなると入院期限を3ヶ月にきった。どんな動きをするだろうと見ていると、知合いの工場主に頼み仕事と住む所を相談した。最終的には社長の自宅より工場に通勤し、アパートが見つかれば移るということになった。地域の保健婦にも連絡を取り何とか頑張ってもらおうと思ったがやはり続かず、社長の1日1時間でもいいという条件にもかかわらず強く入院を希望し、紹介先の診療所に荷物をもって座りこんでしまった。当院で受けるべきか随分迷ったが、結局、他病院に入った。この人にとって共同住居があれば救われたのだろうか、それとももっと長い時間が必要だったのか、「まきび病院」での2年半は短すぎるのだろうか。でも結局は、周りがどんなに焦っても一生懸命になっても何にもならない。最終的にはその人の「生きる力」を信じて待つしかないのかもしれない。  人間はやはり十把一からげにはいかない。ひとりひとりの要求や要望、希望は違う。生き方も個性も。あえて医療がどうしても肩代わりしなければいけないのなら既製の概念や、今まで形づくったレールをとり壊し枠をはずさなければいけない。施設に合わせるのでなく対象者に合わせてどれだけ創り代えられるのか。共同作業所の作業内容が何種類もあったり、時間が自由で、人によって段階があったりしたら…。共同住居がアパートであったり、一軒家であったり、夫婦で住めたり、1人で住めたりいろいろなパターンがあったら…どれだけ多様な「場」を開拓できるかが必要である。まきびでは、しんどいけどひとりひとりが地域で生活する目標でやっている。どんなに厳しい社会でも、偏見に満ちた地域でもやはり生まれた家に帰りたい。ぼろアパートでもそこがいちばんだ、という。入院すると地域ぐるみで排除しようとする動きが多い中で、現実と向きあいながら帰る準備をするのは容易ではない。中にはどうしても帰れない人も出てくる。すぐ退院するのにはちょっと不安を抱く人もたくさんいる。自炊はできるのか、1人で生活できるのか、仕事はどうか心配である。料理教室や包丁の使い方から始める料理勉強会へ、外勤からより社会に近いアルバイトヘとよりきめ細かく具体的にその人に合わせた動きができていけば−地域の中では民生委員や愛育委員の他にもっと隣に世話好きなおばさんはいないか、退院したCさんの家では近所のおばあさんがよく面倒みてくれてた。  どうしても医療が手を出さなければいけないのなら、もっともっと多くの種類のいろんな形の「場」をつくっていきたいと思っている。 7「まきび病院」でわからなくなり、   再びようやく浮かびあがったソーシャルワーカー像  過去の私は精神医療の現場におけるソーシャルワーカーの仕事をある程度明確に位置づけていた。閉鎖性が強く、拘束し収容することが勝ってる病院、その中で入院者のおかれてる状況は、権利も何もない医療以前の問題であり、その中で私のすべきことは、少しでも患者さんの問題意識を高めると共に闘っていくことであった。考えれば随分無茶をしてきた。入院してることを内緒にしてほしいという患者さんとの約束のため自宅に下宿してることにし、電話が入っても家族でつじつまをあわせ後で嘘をついたと事業所に非難されたり、以前の病院の外勤先に就職し、しんどい生活を送るためにもう入院したいと泣きつかれ、「まきび病院」に連れて行った途端、社長から入院患者を増やすために連れ込んだと責められたり、今から思えばよくやったものだ。今の医療状況を変えるにはこのくらいやらなければという意気込みがあったからできたのだろう。  その頃は、社会福祉と医療は切っても切れないもので、医療が生活全般をとりこんでしまった以上、それらのとりこんだ代償を支払うべきであり、自分たちでつくりあげた長期在院者の問題は自分たちで解決せぎるを得ないと思っていた。そのためにソーシャルワーカーとして医療の中で存在する役割が1つにはあり、仕事以前にも1人の協力者として目の前に存在する人間でいてもいいと思っていた。自宅の電話番号を教えまくり、夜中でも応需だった。そういった中で多分私という人間像ができつつあったのだろう。病院の中で相談室は一種のお助け小屋のようなものだった。しかし、「まきび病院」に来て5年目を迎え、私は今すべてが揺らいでいる。まず精神医療の奥の深さを思い知らされた。全開放で、何もかも取っぱらって快適な環境をつくったがその中にもやはりホスピタリズムはある。長期化の問題は起こってくる。昔からの偏見と差別はまったく変わらない。医療の改革だけではどうにもならない厚い壁がある。人間とは難しい。じっくり向き合うことによって過去の自分のやってきたことすべてが勝手な思いこみの世界で動いてたように思えてきた。ワーカーとは一体何だろう。自分自身があえてソーシャルワーカーでございますと名乗ることによって専門性を外から批判してもらうこともあるわけだが、白衣を着て存在することによって医療の中で1つの場を与えてもらえる。それだからこそ相談室に座っていられる。そうでなく私自身1人の人間として存在しろといわれたとき、果たしてここにいられるだろうか。とても自信がない。患者さんと向きあうということがやっとできるようになったとき、自分自身を見るということのしんどさ、自分にさえ手を焼いているのにまして他人の人生に少しでも「関わっていく」――最大限距離をおいた表現としても――ということの恐ろしさと、ことの重大さに自信がない。何で人間相手の仕事を選んだのかと自問してしまう。この5年間はこんなことの繰り返しであった。患者さんから「どうせ仕事でしてるのだろう」といわれたりするとそれはそうだけど何か腹が立つという複雑な気持になり、単身者のアパート入居に結局保証人になり問題をおおい隠すだけでは、と反省してみたり「他に頼る人がおらんのよ」といわれるとよしまかせろという気持になったりまったく単細胞である。  そんな悩みの中でやっと見つけ出されたものは、人は自分で生きてゆき、そのことに必要な様々な選択は自分ですべきであるし、また自分で選択していく力があるということである。それを信じて「待つ」、それがいちばん大切なことだと。「待った」上での相手との「対峙」の中から何か見えてくればいいと思っている。それらのぶつかりあいは「仕事」云々の問題ではないだろう。 8 「社会福祉」雑感  現在の社会福祉の方向に対して危機感をもっているものの、その中身に対しては私自身十分整理ができていない。しかし、ソーシャルワーカーといった以上、せめて日常の実践の場で感じていることくらい述べないと格好がつかない。  私には、自信があるところが1つだけある。それは「直観力」である。これだけは結構鋭いし的を射ていると思っている。この「直観力」だけで社会福祉の動向をとらえるのだから頼りない話だが。  私が社会福祉を学んだ70年代後半は「オイルショック」を契機に一転して「低成長時代」に移行した変動の時代であった。その頃から「福祉見直し」「福祉の転換」が叫ばれるようになった。それでもまだバラ色の夢はさめてはいなかった。あれから10年、時代の流れは早い。「社会福祉」も変わってきた。「権利」としての社会福祉もお金を出さないと権利として主張できなくなり、いわゆる貧困者や母子家庭、身体障害者など福祉の対象となっていた人たちから「対象規定」を国民一般にまで広げるという形で「福祉サービス」という言葉が盛んにいわれるようになった。有料の「サービス」なのである。私にはどうもこの「サービス」という言葉が企業の使うサービスと重なってしまう。福祉労働者側から出されたサービスとはとても思えないのである。端的にいうならば福祉=有料であるというイメージを、サービスという言葉を使用することによって私たち国民に定着させようとしているのではないかとさえ思える。また、社会福祉施策の整備を政策としてあげ、ただ数だけ増やしていた施設も中身が問われ多様化し、かつ「分化」されてきたきらいはある。一方地域(市・町・村)においては、民生委員・愛育委員・精神薄弱者相談員に母子担当・身体障害者と窓口が専門分化し・かつ横のつながりがとれていないという状況がみられるにいたった。意図して分断化されているとしたら、その狙いは一体何だろうか。大声で「権利」として主張させないためなのか。「制度」は充実してきたとはいわれるが、本当に福祉を必要とする人であってもその「制度」に決められた条件を満たすことができず、利用できないといったケースも少なからずみうけられる。「制度」が分化することにより、福祉の対象は規定され本当に援助を必要とする人が利用しにくくなっているように思える。 「医療」と「福祉」は切っても切れないものである。生きている人間が「病む」のは自然なことであるが「病む」ことによって今まで送っていた「生活」から治療のために切り離されてしまう。日常生活を維持することが困難になり医療費、生活費など様々な問題が生じてくる。ふだん、マスコミや時代の風潮によってつくりだされている「中流意識」をもっていた人でもそういった状態に陥るとたちまちぶちあたる問題である。ましてや年金制度の改訂により負担金は増える一方であり、保険料の自己負担の増加(何故かこの場合だけ男女平等を謳っている)など生きづらい状況はどんどん増えている。これらが「受益者負担」という言葉によって「国の責任の放棄」が進んでいる。まして「精神病」というレッテルを貼られたときその人の人生に与える影響たるや大である。生存そのものを脅かされることもある。精神医療のつくり上げてきた閉鎖性や拘束性などにより、病いに対する偏見と日本の地域社会がもつ独特の差別意識は簡単にはとれていかない。自分たちでつくりあげた長期在院者や「生活しづらい状況」をカバーするために共同住居、共同作業所、リハビリテーションセンター、中間施設ができてきた。が、大切なのはそれらを何故つくらねばならなかったかである。精神医療を純粋な医療の場とせず、社会秩序統制に手をかす施設という役割を果たす限り、次から次へ「補完物的」に医療が「生活」をひっかぶってしまうのではないだろうか。 「社会福祉」や「社会保障」の名で様々な施策が掲げられているがどれをとっても矛盾だらけである。「生活保護法」にしたって各自治体への高額補助金カットということで福祉事務所はケースをきることか区域外に出てもらうことばかり考えている。これでは昭和28年代に問題になった公的扶助の稼働能力者の引き締めと医療扶助に対する抑圧という動きとなんら変わりない。今の社会情勢に応じた対策がとれてないから、単身者や多問題家族などへの援助に手が出ないのである。生活保護にかけるかどうかの査定のみが重点となり、後の自立へ向けての働きかけはできていない。制度と現実の狭間で必死につなぎ合わそうとしてるのがワーカーだろう。 「社会福祉」全般が「適応」か「権利」か揺れ動く変動期ならソーシャルワーカーの仕事も転換期を迎えざるをえない。今まで現場のソーシャルワーカーたちが、構築しようとしてきた運動の引き継ぎができていない。「形」ができた「医療」の中に入って自分たちの足元や現場はこれでいいのかという客観的な問いつめが薄れている。「技術」や病院内外での位置づけに重点が置かれつつあるのだろうか。下手な「専門性」より「人間性」のほうが問われるべきなのだが。 「社会福祉」に果たして展望があるのだろうか? やはり簡単には答えはでないだろう。社会福祉が社会現象に影響を受け国民の生活問題から切り離すことができないものである以上、社会福祉の展望を今問うていくことは、私たち国民の将来を大きく左右することになる。  これからの「社会福祉」は多分、「国家」と「国民」との責任の所在をめぐっての闘いとなるであろう。ニーズの多様化に対する施策の遅れを、不確実な時代の流れの中で、当面の対応策として「受益者負担、高福祉高負担」を段階的にばらまかれようとしているが、これでは問題は解決しない。人が、「生きる」という問題を時代を見きわめながら「主体は個人である」という主張を明確にしていかなければならないのではないか。新しい「社会福祉」の体系化は「人間として当たり前の生活」を要求する学問として現場から積み重ねていこうと思っている。(梶元) 心理療法士の活動 9  病棟からのスタート 「寄り添い」の動き  現在、思春期中心の動きをしている心理2名は、大学卒業後すぐに就職した男子である。永原が1982年3月より、新谷が1983年3月より勤務しており、病院の方針“自由な動き”にのっとった動きを基本に今日に到っている。 「思春期」を表看板に掲げた「まきび病院」には永原が就職したとき、既に思春期グループワーク、屋外レクリエーション、屋外キャンプのプログラムが組まれていた。永原に期待されたことは@プログラムに集団精神療法を1つ増加させること、Aとにかく思春期の患者さんと寄り添い付き合うこと、であった。病棟看護に所属し看護学校に通い、不規則勤務を続けながら永原は現在の動きの基礎を作った。  まず日々の生活における集団精神療法として様々な病態の人々がいる中で、急性期を脱したすべての人を対象として、病棟での日常生活(本来の自分)から離れて劇の中の役割として、言語レベルでも身体レベルでも自己表現のできるサイコドラマを導入し、病棟での様々な人間模様に接し、入り込んでいき、みんなと一緒になって動くうちに「群れ」ができあがりその力動の中からいろいろな動きが生まれた。  心の揺れ動き、アクティングアウトに付き合うだけでなく、病室でトランプをしたり、相撲をとったり、「天気がいいからソフトボールに行きたいな」という話になれば、同好の士を募り病院の車を使って高梁川の川原のグランドヘ行くなどまさに生活に寄り添って彼らの“お兄ちゃん”役として動いていたのである。  思春期の人々は心が過剰となり内的世界が増大するだけでなく、運動(活動でもある)欲求も強い。また、自分自身を見つめ孤独を愛するとともに、警戒しながらも深い対人交流を望み「群れ」の仲間に入り安心するようでもある。生活に付き合い、心に寄り添い、心を汲み上げ、他の者を巻き込んでいくというパターンから、いろいろな活動が生まれた。現在までの例をあげると、卓球大会・大声大会・オリンピックゲーム(年齢を問わず参加できる“ストローの槍投げ”といったゲーム大会)・雑声合唱団MKC・町内のソフトボール、テニス、卓球大会への参加・駅伝・〈憂鬱座〉他。  このようにして生まれた活動の中で、毎日の行事として、朝のジョギング、夕方のトレーニングが定着した。少しばかり、各々について述べようと思う。  ジョギングは「気が弱く、何でもうじうじと考える女みたいな性格」と自分を思いみ、身体を鍛えることで男らしさ≠求めようとしていたD君の発案で始まった。1984年4月までは相談室職員1名で行き、以後は看護者1名と計2名で行っている。病棟申し送り終了後、病棟の全体放送で呼びかけ、続いて直接声をかけて回る。活動を担当する者が直接声をかけることで関係もとれやすく、参加する人の安心感にもつながり行動を促進する面もあるようである。病院を起点として出発するし、半分散歩がてらなので集団行動に抵抗を感じる患者さんでも参加しやすいようでもある。療養生活をしている患者さんにとっては、生活リズムとして朝の仕事初めになる。多いときで30名近く、少なくて数名、簡単な準備体操の後、走る人は病院前の県道から竹林を横切る農道を約1.2キロ走り、歩く患者さんは病院前の大きな池の土手から農道に合流して、終点まで行く。我々はときに患者さんのライバルとして競争し、すぐくじけてしまう患者さんには檄を飛ばして1.2キロ走る。終点到着後は次々とゴールする人をみんなで迎え、道路端に座ったり、あれこれ話ながら休憩する。帰りは歩き、この道程で患者さんの近況を聞いたり、相談を受けたりする機会にもなっているようでもあり、屋外の解放された空気の中で遊びもかねて交流する場でもある。ただし、一般車両の行きかう道を通り、水深5メートル、周囲1キロはあろうかという池の端を各人各様に走ったり、歩いたりするので危険も伴う。出発時、集まった人々を見渡し、状態の悪い人には遠慮してもらうが、できる限り参加してもらう方針なので、万一を予想して緊張したジョギングになることもある。  D君は罪業観念が強く、いつも肩をすくめ首を縮めてうつ向いており、お菓子を買ったり、ジュースを飲むのもいけないことと考えていた。希死念慮はない。家庭は両親が離婚し、時々不安定になる母と妹の3人暮しで、発病後3年あまり「年輩の患者さんばかりの閉鎖病棟は若い子には疑問」と児童相談所の紹介で入院したケースである。同世代の集団の中で安らいでもらい、生きていく力をつけてもらおうとしていた。いろいろな行事に誘い、〈憂鬱座〉にも参加した。ジョギングも毎日していたが我々としては心配で、最初は一緒に走ったり歩いたりしていた。ときも経ち集団になじむと、注意してはいるが我々も少し気をゆるめ離れて行動するようになっていた。ある冬の日、D君は仲間達とジョギングの帰路の池の辺りを歩いているとき突然、池まで走り、飛び込んでしまったのである。後で尋ねると死にたかったわけでなく、あの瞬間に池に飛び込まなければ皆に許してもらえないと思ったということであった。  このような一歩間違えば重大な結果を招いてしまうほどの危険が伴うのは事実であるが、入院している人々、特に思春期の人にとっては、人格を保ち、発展させるためにもできる限りの活動をしてみることが大事で、そのためには細心の注意を払うことが我々の義務であろう。もう1つ、行動を抑えてばかりいては従来の閉鎖病院と同じことになってしまう。病いをもちながらも人間として普通の自然な営みを送ってもらいたい。幸いなことにこれまで大きな事故もなくすんでいる。  ジョギングが1日の仕事初めなら、トレーニングは仕事納めだった。これもジョギングの発案者と職員の交流の中から生まれたのだが、連日夜の7時〜7時30分の柔軟体操、腕立て伏せ、腹筋運動などのパワーアップトレーニングとバーベル、サンドバッグを用いての運動には我々のほうがもたず、1984年秋より月2回ほど倉敷市のトレーニングセンターに通い、いろいろな器具を用いての活動に変化した。院内で行っていたときは美容体操もかねて、女性も多く参加していたがトレーニングセンターに通うようになってからは、人数の制限もありめっきり女性が少なくなって残念である。  身体的自信は精神面に大きく影響する。Eさん27歳は自称マザコンというとおり、障害に弱く、何事も理論、理屈で知性化しようとする傾向の強い人であった。頭脳はすばらしく、著名大学の英文科を卒業している。初診は高校時代である。入院生活は最初部屋にこもりきりであったのが、ジョギングで走り始め、個人でひそかに身体を鍛えていくらか自信をもった所で皆と一緒にトレーニングを始めた。ジョギングで3カ月連続してトップを奪う頃には、トレーニングで鍛えた身体は見事な逆三角形となり、腕立て伏せだけでも150回もできるようになった。若い患者さんの羨望の的となったEさんはクラシックギターの名手でもあり、三拍子揃った人物として表情も自信に満ち、少々のことではくよくよせず交際範囲も広がり、対人関係もスムーズになっていった。現在は塾の教師として頑張っている。Eさんの場合は彼自身の能力もあったのだろうし、刺激と場を提供したにすぎないだろうが、思春期的課題を少し遅れて達成したのかと思う。  身体運動は、克己、鍛練的意味もあり社会的に肯定されるカタルシスの方法でもある。それ以上に基本的には“楽しみ”であるはずである。思春期の人は気分で参加を決めることが多く、何か問題があるとすぐくずれるので、熱心さ、安定感はさすがに職場復帰をめざす年輩の人が上である。しかし思春期の人のストレートさ、不安定さが我々に過去の哀愁を感じさせる。  ただし、ジョギング、トレーニングのような自分を酷使して社会的に肯定される価値を求めようとしない人とか、物事を正面からとらえず、対人関係も表面的ではなかなか深まらないとかく逃避的な人々は、あまり参加したがらないのでこの状態でいいのか、内容を考えなおすほうがよいのか、他のアプローチがよいのかなどといろいろ考えてしまう。  最後に「寄り添い」の動きを少しまとめてみよう。  我々が病棟看護に属してその動きを見つつ、それに支えられて自由に動かせてもらい患者さんとともかく接するなかで、それこそ千差万別の動きが生まれ、あるものは消滅し、あるものは続いている。ここで大切なのは単に動きをつくり出そうとしているのでなく、日々彼らの喜怒哀楽に接し、自己模索に付き合い「寄り添い」彼らから、我々から、あるいは相互交流の中から、発生したという点である。彼らが「何を欲し、何を求めているか」「それは何故か」。生活を共にしているといっていいほどの「治療者−患者」という権威的構造を幻想的に破棄した関係の中で、彼らが幾分でも「生」の姿を見せてくれたと思う。 「群れ」と「祭り」  1984年夏まで思春期部屋と称する病室が男性にも女性にも1部屋ずつ意図的に設けられていた。日常の出来事や自分達の問題に対して互いが興味を寄せ関係し合っており、この群れの中で様々な人間模様が繰り広げられていた。自分たちの抱えた状況を語り合い、支え合い、ときには張り合う。もちろん、けんかにもなる。泣く者、笑う者、怒る者、慰める者、たしなめる者、仲裁する者、皆が様々に役割をとり、交流しあっていた。職員との関係も同様で、心理療法士が“お兄ちゃん”なら看護は“お母ちゃん”“お姉ちゃん”だった。つながりの深い家族的雰囲気で病棟が存在していた。  思春期の人々にとって深いつながりをもち、大きく影響し合う関係は重要である。相互作用の中でいろいろな社会的役割を身につけるだけでなく自己表現し、受容され、矯正される体験をもち、少しずつ自己を明らかにしていくようである。この過程を最も明確に示しているのが、劇公演を目標につき進む<憂鬱座>であろう。  集団への参加は「まきび病院」の治療ステップであり、治療観の根底を流れるものといえる。様々な人間が様々な姿で登場する社会に生きるには集団体験は欠くことのできないものである。幼い頃より周囲に違和感を抱いて生活した者、集団の中で低位置にあり満ち足りない想いをしている者、恨み、つらみをもった者にとって自分を解放するのは大変なことである。個人面接など個人へのアプローチとともに、他者に関心をもつ受容的な集団が存在すべきではないだろうか。  病棟集団の雰囲気と同様に重要なのは患者さんに活躍してもらうことのできる場の提供である。文化祭、夏祭り、七夕祭り、クリスマス、四季折々の行事、1月に1回の屋外キャンプ、「能良帰本塾」での合宿、1週間に1回の屋外レクリエーション、1週間に1回の思春期・青年期グループワークなどを用意している。  ここにあげたプログラムのうち「祭り」類は病院全体が動く大きな行事である。しばらく「祭り」について記述する。  運営は実行委員会方式をとり、ポスターや声かけで希望を募り、集まった人々でどのような祭りにするかを決定する。実行委員会には看護、相談室中心に余裕のあるときは栄養も加わり、職員が5名くらい、患者さんが10〜20名くらいで構成される。  祭りの主眼は「皆でつくる」こと、「巻き込む」ことであった。多くの人を巻き込んでアイディアを出し合い、皆でつくった祭りの場を共有する。患者さんにとっては自己表現の場である。これらの祭りには外来の患者さんも地域の人も楽しみに来てくださる。  開院後1〜2年は病院が一丸になって「祭り」をつくっていたが入院患者さんも増え、病棟が忙しくなると、活動性の大きい思春期の人々と彼らに付き合っている心理2名に負う面が大さくなった。1984年および1985年は病棟のまとまりや家族的雰囲気がうすれ、依存、自律性の欠如のみられる人々が認められ始め、昼夜逆転、病棟でのはしゃぎすぎなど生活の乱れが激しくなる思春期の人々もいて「病院に遊びに来ている」「自分のことをしないで遊んでばかり」という見方が病棟で問題となっていた。ひいては「祭り」に対しての疑問がクローズアップされた。  この頃入院していたY君18歳は、家族に対して憎悪が強く、家族は自分のことがまるでわかってくれず、一方的に文句をいう、しかも家族は口では自分にあれこれいうくせに行動はまるでいうことと違うと、激しい怒りを示していた。病院でも大人の傲慢な態度や、決めつけ、見下げた態度に強烈に反発し、生活の乱れもすさまじかった。昼夜逆転、生活のリズムは無茶苦茶、幾人かの女性と交際する、病室は足の踏み場もないくらい、おまけに皆の使う部屋を占領する、所かまわず大声で話す、注意すると理屈で打ちまかすか、上手に逃げてしまう。とかく影響力が大きかったので、職員の見方も厳しくなってしまった。  彼に代表される思春期の患者さんの見方はこれまでの病棟での集団のとらえ方、接し方を考えるきっかけとなった。開院初期の緊密な人間関係をストレートに望む思春期の人々が少なくなり、我々との関係もとりにくく、これまでの互いの接点から動きをつくる、「寄り添い」に危機がきたのである。  この煩悶のさなか、1984年3月永原は看護学校を卒業し、4月から我々病棟心理は動きを明確化していくため相談室所属となった。 10 相談室に所属して  相談室所属となり、これまでの不規則勤務が日勤体制となり、永原はプレイルームを面接室兼たまり場の発想で改造しデスクを置き、新谷は非常勤勤務をしている岡崎と同室の相談室Aに移った。それに伴ってこれまでも要求されていた、外来初診インテーク、外来受持ちもぼつぼつ始まり、担当の入院患者さんとも面接室での面接を始めた。  活動の内容は特に変化があったわけでなくこれまで同様、病棟の日々のスケジュールをこなしていた。病棟にいる時間を減らし、課題、問題があるとき部屋に来てもらうという受け身の構えで患者さんの自発的動きを誘おうと生活空間と治療空間の枠をいくらか考えたのである。2年経過した現段階でもまだ是非は問えないが、「まきび病院」の治療体系の1つの動きである。  我々が相談室にいることが多くなり、思春期の人々の行動パターンも変化した。病室で相談をとることもなくなり、暇だと相談室にやってくるようになった。  病棟での思春期の患者さんのあり方はその時々にいる人のタイプでどうやら変化するようであるが、全体的傾向として群れ集まってことを成す人々とのストレートな接触、深い人間関係を求めるタイプの患者さんが減り、集団になじめないか、希薄な人間関係の集団をつくるタイプの人が増えているようである。現在、急激に後者のタイプの患者さんが多くなっているのではないか。社会の現状と重なって見える。  集団の構成員が情緒的、行動的に影響し合う凝集性の高い「仲間集団」のニ−ズが少なくなったと共に、我々としても集団に介入して、日常生活の中でより緊密な「仲間集団」をつくろうという幻想的アプローチが絶えず問い直されている。現在は仲間集団的幻想の名残り、典型として<憂鬱座>が存在しているといえる。  相談室には大勢の思春期・思春期延長者がたむろするようになった。単に暇つぶしや遊びたいから、という理由の人々が多くなり、一面ではよいことなのだが面接中でもかまわずやってくる現象をみると社会的現象とも考え合わせて少し首をかしげたくなる。  生活の場から離れると生活維持という管理的側面が少なくなり、患者さんを見る視点が変に歪められなくなるがそれだけに病棟看護との関係が大切になる。情報の交換や方針の打ち合わせなど難しい問題である。  また、集団で動くプログラムを看護の状況と関係して十分に広げることができず、職員内部に下地ができないまま、活動性が低下している感もあり、今一度、「まきび病院」の治療体系をとらえ直すときとも思える。現在も混沌とした状態が続いているが、この期間に生まれた動きとして勉強会、思春期プロジェクトがある。おのおのを紹介しておく。 「勉強会」  学校に籍のある患者さんにとって、勉強の遅れは重要な問題となることがある。実際には勉強の遅れというより学校教育を受けている同輩からの遅れ、あるいは社会のレールからはずれていることによる焦燥感、不安が本人や両親にとって問題となる場合と、本人と両親の学校に対する意識の違いが問題となる場合がある。共に学校教育に適応するための問題を意識してのものであり、自分自身の向上のための問題となる例は、学校教育を通過し自分に不全感をもつ思春期的課題をもち越している人にみられる。 「まきび病院」では1984年春「勉強会」が一高校生の意見をもとに発生した。我々としては本人の不安の緩和と、逃避的傾向のある人々に直面する問題を実感してもらうべく意図したものだった。  最初は、心理2名とケースワーカー1名が交代で先生役を務め、中学、高校に在籍している人々を誘ったが、時間的に余裕もなく運営に困難をきわめ、その年の5月より岡山大学の学生2名に英語、国語の家庭教師をお願いした。  当時学力が低く、勉強が嫌いで仕方ない人がいた。よほど忍耐力が強靱である人はそうでもないかもしれないが、勉強以外で自分の活躍の場のない人はおおかた学校では問題児となり、地域でも手を焼く状況になってしまうことが少なくない。  中学2年のF君がそうであった。母、兄の3人暮しで生活破綻家庭といっていい家庭で、マンモス中学の問題児であった。様々な場面で現実問題から逃避する傾向があり、学校に対してもそうであった。その傾向を改善すべく問題に直面させ、頑張らせ、「勉強会」にも参加を促した。「勉強会」では場を乱すので別室で勉強してもらうと面白いもので「皆と一緒に勉強をしたい。仲間はずれみたいでいやだ」と皆と同室を望んだりする。  こんな人が何人かいるので集まって勉強というのは無理な話かとも思えたが、現実をとかく忘れがちな「まきび病院」の雰囲気の中でのせっかくの現実を見つめる「勉強会」を絶やしてはならぬ、と学生2人と協力して存続させた。  教師役のAさん、Oさんは実に有能な教師で、お姉さんであり、集会のリーダーであった。真剣に皆のことを考え、雰囲気に気を配り、様々な相談事も引き受け、皆に付き合ってくれた。皆も2人を慕い、深い人間関係のできた人もいるが、「勉強会」の場面では、とかく乱れがちで、職員が実務的に参加できない状況もあって、2人の先生たちに苦しい想いをさせてしまった。  まとまりのない病棟にも続けるうち「勉強会」をとおして集団ができ、「勉強会」を円滑に運営するためまた、日常の集団活動が少なくなっていたのでレクリエーションも計画した。  第1回レクリエーション、6月、海水浴、シャコ狩り。  第2回レクリエーション、9月、大山登山を目的に岡山大学の山小屋を借りて2泊3日の合宿、費用自己負担。2泊3日の合宿、登山は病院としては初めての試みでいろいろ危惧があったが、それを吹きとばすかのように、皆が主体的にいろいろな役割をこなし、準備していった。汽車やバスを乗りついで行く山小屋の合宿は、合宿自体を「M(マルエム)王国」とし、法をつくるなど遊び心を発揮して、皆で協力して様々な仕事をこなし、付近の散策をしたり、する事成す事が貴重な体験になった。  早朝、暗闇の中での大山登山も天気に恵まれ、足を痛めているが頑張り屋のGさんも登頂できて感涙し、すぐくじけてしまう前出のF君も青息吐息ながら登頂した。山頂から日本海、夜見が浜、島根半島、中海、隠岐、南は瀬戸内海も見え、久しぶりに気持を入れ替え、すがすがしくなったようである。  このような試みもしたが、「勉強会」自体はその時々の在院者の質により左右されるので、浮き沈みがある。それにもめげず職員も時々問い直しながら、学生さんに手伝ってもらい内容も単に学校教育的勉強にとどまらず、先生がたの個性で情操教育をもち込んだり、人間関係を大切にしたりして、「勉強会」は存続している。 思春期プロジェクト  この会は1984年春、看護1名、養護教諭1名、ソーシャルワーカー1名、心理療法士3名で構成された、1週間に2〜3時間の集まりである。  発足の主旨は、これまで心理療法土2名が牛耳っていたかのようになってしまった思春期の患者さんについて、病院として全体的に取り組み、情報交換、ケースカンファレンスをとおして、部署間の連携をとり、動きを広め、関わりを多くの眼をとおして検討しようというものであった。医局からは「全国的視野で思春期を考えていけ」との思い入れがあった。  もっぱら、ケースカンファレンスは看護、養護は病棟生活中心に、特に母親の眼でとらえ、若輩の心理療法士2名は関わりの中で浮かび上がった内面と置かれた状況をとらえ、ソーシャルワーカー、非常勤心理療法士各1名が病棟内での全体状況、彼らの置かれた状況、彼ら自体の問題点を経験と知識を生かしてとらえていく。ケースだけでなく、時々の病棟での集団のあり方、「勉強会」、思春期グループワークの現状など検討していく。これまで記述した内容、今後記述する内容のいくらかはこの会で話し合われたものをもとに構成されている。<まきび医療>の特色である「拘束のない自由な雰囲気」の中での思春期をクローズアップしてとらえ、スタッフの相互研修と共に、<まきび医療>を問い直す源動力となるべき会である。  会の現状を見ると、会合の時間をとることによって、日頃忙しさにかまけ、ないがしろにされがちな職員ひとりひとりの見た人物像やそのもととなる情報の検討がされ、緻密な関わりをめざすための保証手段とも見える。1985年秋より、広く思春期というもの、取り巻く学校、社会を考えていく試みもされている。この動きの中で「まきび病院」の思春期治療体系に現状のプログラムを再構築し、何らかのマニュアル化をするか、あくまでひとりひとりを大切に「形」をつくらずいくかといった問題も考えていかなければならないだろう。 11 思春期の動きの修正  1985年4月、混乱状況から改めて思春期集団を問い直す動きが始まった。1週間の思春期グループワークに単に部屋で自分たちで決めたテーマを話すだけでなく、そのメンバーで行動するレクリエーションの企画を始めたことである。職員の業務上の都合で、ある程度の期間、2〜3ヶ月置きのレクリエーションではあるが前年の「勉強会」での動きの体験から、思春期単一集団で行動することの意味を明白にしたのである。  当座の主眼は「自分達で計画し、実行していく」自発性、主体性、責任感に着目したものである。これまでの「寄り添い」の動きから、ひとりひとりの自己表現の場と受容的雰囲気は用意されているので、もう一歩強く厳しく教育的意義を持ち込んだのである。  立案、企画、準備、実行、これまで病院に頼りがちだった費用も自分たちの責任で主体的に行うことを提示し“職員におんぶ”という依存性をなくし、自律的要素を表面に出したのである。  この第1回レクリエーションは以上の要素を加味して、当時親密な集団体験が少なく、人と深く接することの少なかった人を巻き込んでの動きにしようというものだった。低迷していた集団の活動に目的をはっきりさせることで新しい息吹が吹き込まれたのである。  母が蒸発し、アルコール依存症の父と2人で狭い借屋に住み「本当の私はお金持の娘、恵まれていて家族もたくさん」というすり変え妄想と被害関係妄想で発症したHさんは、情緒的に未発達で自分のしたいことしかせず、注意されると必ず反発し欲求がかなえられないと爆発する16歳の女の子だった。レクリエーションの計画中も無理矢理退室しようとし、自分の好かない内容だと意地になって反発していた。  レクリエーションの当日もかなりすったもんだの出来事があり、担当の養護教諭が一所懸命寄り添う。計画のとき、彼女の望んだゲーム≠フ時間となると、彼女の姿は一変し、皆の中にとけ込んで生き生きと遊び出した。病院の集団の中で初めて協調する姿をみせ「集団に受け入れられ仲間になる」体験だったようである。  これをきっかけに、担当の養護教諭との結びつきは深くなり、彼女の治療方針も決定した。「受容的寄り添い」である。以前の「寄り添い」の動きの価値が再発見された。  その後もレクリエーションを続けたが、なかなか主体的活動とならない。  Hさんは、妄想はあまり変化しないが感情は安定し始め、人格的問題が表面化した。性格は依存と反発の極端なものだったが関係ができたので、ときには叱責したりもして、本人の洞察をかなり強引に進めた所、次第に周囲を配慮する姿勢がみられ、いよいよ自立性、責任感を重視して接することになった。  第3回レクリエーションにのせて、彼女を変化させようとしたが、このレクリエーション自体が集団を十分組織できず、無責任きわまりないものとなってしまった。後の反省会で、メンバーの洞察を深めていた所Hさんは退室しようとして皆にきつくなじられ泣き出す場面があった。  このような体験をとおして、彼女は自分を内省し、自分の欠点に立ち向かうようになっていった。妄想は完全に消えるものではなかったが彼女は現実に立ち向かい、実生活に戻っていこうとしている。我々にも集団での体験が思春期の人々には大切とこの事例をとおして再確認された。  また、これらの企画をとおして「人育て」の視点について、現実に対峙する力を養うことの大切さを知った。  病院というものが入院という形で必要とされる場合、個人にとって「休息の場、逃げ場」であったり「現実吟味の場、現実に立ち向かう場」であったりする。誰がどの場を必要としているか我々が、きっちり見定めることによって、活動の有効性ひいては療養生活の有効性が決定される。集団を排除して個人だけに焦点をしぼれば、まだ簡単だろうが人は自然に集まるものであり、深く人と結びついたことも集団体験も少ない人が多いので、従来いわれている発達観を念頭に置いたとしても、病院であればこそ思春期の人々の集団の体験は欠かせぬものと考えられる。それにしても、“休息、逃げ場”⇔“現実吟味、現実に立ち向かう”この両者の段階移行の見極めが難しい点である。  基本的には本人が自ら気付き変化していくのを、我々はじっと見守る姿勢が大切のようであり、このあたりに本人に添わした「寄り添い」の意味があるのではないだろうか。 12 心理療法士って何だ  これまで思春期の動きを大きくは時間を軸に、トピックス的に時々の中心となる事象と我々の意識変化の過程を大まかに列挙してきた。  もっぱら病棟での集団の変遷に伴う活動について書き並べたが、閉鎖されていない日常の中で集団というものを治療構造として見る場合、当然個人を見てひとりひとりと関わらなければならない。どれだけ個人と関わり、つながりきれるかが、重要な要因となる。ひとりひとりが一応用意されたプログラムの中にどのように入ってくるか、あるいは入って来れないかを冷静に見ていかなければいけない。  「まきび病院」での一応の治療プログラムは、個人面接と並行してジョギング、屋外レクリエーション、思春期グループワーク、サイコドラマの毎日、1週間に1回病棟の日常生活の中で言語的身体的に自己表現し、自己を省み、他者と交流し、<憂鬱座>を最終ステップとして、関係の深まりと共に人間模様を経験し、再び社会に出ていき自分の人生を切り開いていく力を蓄えることにある。様々な年齢層、経歴の持ち主と交流することで新しい価値を知ったり、父性、母性を求めたりして思春期の人々は変化していく。  ただし、この場には危険な材料もある。規制のない環境の中で、抑制がとれ大人たちの真似をしたり、生活のリズムが乱れたりすることがある。我々としてはこれも成長の1つの過程、あるいは本人の問題と考えているが、子供を入院させた家族にとっては、単に悪影響を受けたとだけうけとられることもある。  とはいっても、家にも、学校関係や社会の中で自分のくつろぐ居場所が見つからない人々にとっての療養生活がどんなものであればよいのか、難しい問題である。  医療従事者、社会の中に生きる者に関係する第3者としてのあり方、医療とはどこまでのものか、ひとりひとりを大切にするとはどういうことか、若輩の私にも考えさせられる。治療という言葉、適応という言葉、これを明確にしていかなければならない。  とりあえず、現代社会における学校の存在とは何か、を問う必要がある。社会構造の中でステイタスとして、学校は位置付けられ、今や不登校さえも一般的な言葉として使用されるくらい、学校は大きな存在感をもつ。学校教育を通過することは、社会の大勢の流れからはずれることの不安解消、将来の生活の不安解消といった消極的意味合いが強いようであり、学校教育の内容は十把ひとからげに子供を集め、画一的に勉強という名目のもとに人間性まで支配している。異端児排除の風潮は強く、善良な先生たち、周囲の人々はこの流れになじめないものを感じながらも、時間的にも余裕なく、大勢の圧力に押され、自己の感性を失おうとしているかのように見える。構造的にマス管理システムにならざるを得ない学校教育体制の中で、大人も子供も異端とならないように強迫的不安の中で生活させられているようである。  こうした現象は社会の中にも蔓延し、誰もが脅えながら生活し、自分が最も一般的な人間であるという幻想の中で自己を表出せず、ますます狭い枠の中に閉じこもり、互いに本当の交流がなされなくなっている。しかも子供たちは先の強迫的不安と、自己中心性の成す快楽原則に支配され、例えばファミリーコンピュータに埋没し、大人以上に人間との交流の道を閉ざされている。いい古された言葉かもしれないが、まさに人間疎外の他何ものでもない  というようなことを考えながら、「まきび病院」で仕事をしているわけだが、ここで思春期の人々にとっての治療、適応という言葉を考えなおすと、社会にただ帰っていく、症状がとれるというだけの意味でなく、人間性を崩壊させている社会に真向からいどむ力をもって欲しいと夢想しつつ、異端であることを保障するという意味が与えられるべきではないだろうか。  一介の病院での幻想であるが、様々の状況の中でもがき、苦しみながらも自分自身が生きるべく戦い続ける人々に、自分を捨てず、おろそかにせず、それこそ「自立」を求めていって欲しいと望み、社会の中で強く逞しく生きるように願って、医療に従事しており、幻想と現実を点検しながら、模索中という現状である。ただし、現場はあまりに厳しく、白い旗を揚げては降ろす連続である。  以上思うままにつらつらとこれまでの動きを「まきび病院」での心理療法士として意見を並べた。実際の泥くささ、細かな部分は書けずきれい事ばかり並べてしまったようである。筆の足らない部分は想像力を逞しくして読んで頂きたい。 「まきび病院」の存在は実に自然なものであるだけに、現代に対してのアンチテーゼとなるのはもちろんだが、その中で働く者にも、生きざまを大いに考えさせられる場である。“医療バカ”という言葉があるが、「まきび病院」では“人間バカ”が必要のように感じられる。せいぜい職員のほうが不適応となりすぎないように注意したいと思っている。 (新谷) 第4章 栄養より 療養の場における食事とは 1 食堂空間の設定 現場の生きざま報告から・・・  「まきび病院」の食堂は院内のいちばんすばらしいところにという副院長の思い入れから1階の東南を占め、北側を厨房と接する。少々騒がしくもあるが、風光明媚でもあり、詰所からもすぐの距離にある。卓球台、テレビ、お湯、お茶、冷水のサーバーもあり、手芸の場、行事のときのパーティー会場や催し会場ともなっている。日常はデイルーム的であるが、唯一週1回サイコドラマの場所として、午後から夕食時間前まで、シャットアウトされる。厨房は朝から夕までほとんど窓口は開かれていることが多い。日頃の連絡も厨房窓口を通じてが多いため、サイコドラマのときは連絡も電話が主となり、患者さんは窓口を訪れることもできず、厨房内の賑やかな物音、話し声も押し殺し冷暖房の恩恵も断たれることになり、夏場は蒸し風呂、冬場は極寒地と一変し、気温の面でもいかにオープンな厨房がすばらしいかを痛感する。 セルフサービスについて  当食堂の特異点として、(県内でも「まきび病院」のみではないかといわれる)セルフサービスについて触れると、食堂まで歩行可能で、手でお膳がもて、人の中を怖がらずに食事を自分の意思で食べに来られる患者さんは、ことごとく窓口に並ばれている(それ以外の介助者や食堂までなんらかの理由で来れない方には配膳車で病棟・病室にお膳が運ばれる)。窓口では、「御飯どのくらい?」の栄養メンバーの声かけがあり「大盛り」「少し」「普通」などと、患者さんとのやりとりがある。その場がスムーズにいくとばかりは限らず、流れを乱す方、自己主張のかなり強い方など、窓口では1年365日朝・昼・夕ごたごたと忙しい。営業時間は朝6時30分〜夕6時、食事時間は朝7時30分、昼12時、夕4時30分と一応決まっており、この食事時間は院内の唯一の生活リズムの軸であろうという一説もある。  シビアな面として、常に患者さんと直接触れ合わなければならない状況がある。正直なところ、厨房が今の場所から、院内の離れ小島とかチベットと呼ばれるような場所に移転し、そこから中央配膳するとする。少し冷めること、少し干からびることには目をつぶる。納膳も、食器と残飯が分けられたものが病棟から帰って来るのを待ちうけ、自動洗浄機にかけたい。喫食率や嗜好が少しつかみにくいことには目をつぶる・・・。“たまには楽かな”と正直思うこともあるのだが、「御飯どのくらい?」を問い続け、納膳口では「はあーい、よろしく」「食べれた?」などの声かけと共に残食をチェックし、不満や賞賛の声を聞き、全食の方が多ければ“おいしかったからかな”とか、残食が多ければ“口に合わないからだろうか”“品数が多すぎたから”“最近食欲ないからかな”などの様々の想いを胸に抱きつつ、日々のシビアな反省をしていくわけである。その反省がシビアに迫ることについては「当たり前」として日々のリズムに組み込んでいる。しんどい面でもあり、まきび流のすばらしい面でもあり、栄養メンバーと患者さんが直接接触するセルフサービスからくる特異な面でもあると思える。反面ルーズすぎることは、セルフサービスの問題点と思える。こちら側が「さあ食事よ」とはりきって食堂を見渡せど、ガラーンとした空間に少しのお客しか見えない“閑古鳥現象”のこともあるし、ひとりまたひとりとポツリポツリ来られ続けることもある。そうかと思えば、ワッとするほどの大盛況のこともあり、そのときにより様々な様相を呈する。きわめつけはいつでも食事を出さなければならないところだと思える。朝食をパスして昼食時に「朝の牛乳ちょうだい」という若い患者さんも多いし、昼直前でも、「朝のを全部」のといわれるのもたびたびである。夕は9時ごろまでも「御飯ちょうだい」が続き、6時から9時ごろにかけては夜勤者や準夜勤者の手にかかってしまっており、とにかくこのルーズさは悩みの種となって、長く尾を引いて現在もなお問題としてあり続けている。  問題はあっても、すばらしい面も宣伝しておきたいと思い5点あげることにしてみる。  @窓口で温かい御飯を希望量よそってあげられる。  A汁物も同様に温かくしてあり、希望量注いであげられる。  Bおかずも希望を聞いて、個人差もつけてあげられる。可能な限り適温にしてある。  Cおかわりも可能(当然不可能な品もあるが)。  D栄養メンバーが、患者さんひとりひとりの顔と好みを覚えている。 以上はセルフサービスであるから、例外はあるにせよ一般にはとても中央配膳や病棟配膳ではできにくいこともなんとかこなせているのだと思える。 メンバーの紹介  病院の食事の偏見というものは計り知れず、人々の意識の中でどんなものかが語りつがれ、入院経験のない私でもどんなものかをわかったような気になってしまったりもするほど、そのイメージは定着しているようである。「まきび病院」という舞台、大きな風呂敷の上でこれまでやれたということは、何も知らなかったからなのだと、今となっては思うわけである。理想に忠実にやり通している栄養構成メンバーについて少し掲げてみることにする。まず人員は、栄養士3名(いまだ20代前半)、調理員4名(30代後半〜40代前半)、いずれのメンバーもことごとく個性人(どこの仕事現場でも同じだと思われるが)。身体的にも精神的にもかなりハードで、しかも365日朝昼夕無休のフル回転で機能し続けなければならない。当然のことながら超健康人としてあり続けられない弱みを抱え、それぞれが生身の身体と精神をもちながら家族を抱え、かつ仕事現場でマンパワーを要求され、提供し続けてゆかなければならない。それが栄養のパワーとなってゆくことは、開院当初から、様々な紆余曲折を経て今に至る過程から実感している。いつもいつも100%健康で、仕事意識も充実しているとは限らないにしても、「仕事をさせてもらっている意識」、「向上し続けよう精神」、「おいしい!!とひとりでも多くの方にいわれたい願望」をそれぞれがもち、「いいかげんさを許さない厳しい姿勢」、「いいたいことをいえる場をもち」、「チームワークをがっしりと組み」、日々の業務をこなす。これは何はさておき栄養のカラーであると思う。  業務分担については、原則は皆均等ということにある。公休のうち日曜祭日は1〜3回、他希望の休みは、ほとんど例外なく組み入れられる。勤務時間についても多様でこれも均等、日々の勤務分担についても多様、食器洗い、その介助、窓口での御飯つけ、最もいやがる職員側のウエイトレス、当番(検食や、休み時間の間のウエイトレス役)、栄養士の申し送りなどがあげられる。献立も現場人員に見合わせて立てられ、動きのベースとなる。これらの分担は最低限であれと思っている。特に合理的でスムーズな動きであるためには、きっちりとした枠ではなく、ある程度の枠組みの中でのマンパワーによるものが重要であると思える。それぞれ得意とする仕事を、自由な中で保障していきたいし、しかも自分の担当は自分で責任をもってやりきること。これらが、「まきび病院」の栄養流と思う。女ばかりの職場で他人への批評・批判が先に立ち、足の引っ張り合いなど、没個性となりやすいような枠組みだけはつくりたくないと思い続けている。ひとりひとりがオールマイティーに動け、それぞれが得意分野をもち、家内工業的で、人間疎外などみじんも関係なく、それぞれが大切な役割をになっているという実感があるすばらしい職場であると思っている。  院長からの評価として、「まきび病院」の栄養は “誇り高き”“怖さ知らず”“モデルなし”の3つを与えられた。  まず“誇り高き”について・・・。どこらへんが誇り高いのか、ない頭をふりしぼって考えると、外部からの刺激にピーンと張りつめた反応をするところ、それをメンバー皆でくそまじめに考える。そして外部に対し、うやむやでなくきっちりと返していこうとする。そのあたり誇り高いのかな・・・とも思う。加えて、自分たちの実践していること、やろうとしていることを声を大にして言い続けていることがあてはまるかと思われる。  “怖さ知らず”について・・・。栄養士が若いがゆえに、周りをあまりにも知らないままでやっていることからかと思う(反面、より理想に忠実に取り組めるとは思うが)。献立においても病院食をふまえないからか、ときに病院食らしい献立のできあがったのを見て、「病院らしいね」という評価を受けることがあったのを思い出すしだい。こうして、何も知らないままのスタートからここまでくることができたのも、各方面の方々、他部署の方々の協力があったからこそだと思う。忘れてはならないのが調理の方々・・・。これらの含蓄をこめて、″怖さ知らず″の評価を受けとめたいと思う。 “モデルなし” については、勉強不足のために全国の病院がどうなのか知らないためよくわからないのが正直なところで、実際どこも違うのが当たり前だとも思う。  周りを知らないことは怖いことで、今後どんどん勉強させていただきたいと思っている。勉強させてもらい、「まきび病院」の栄養のいいところは伸ばし、曖昧な点は話合いを重ねて煮詰め、問題点は改善してゆく姿勢でありたいと思っている。とにかく誰もが未経験であり、病院側がそれをマイナスとしてではなくプラスの意味の可能性として引き受けてくれたことを感謝し、院長の「ずいぶんな冒険やったなあ・・・」という言葉が少しわかるようになった気がする自分たちを、もう一度見つめ直すことがこれからの課題かと思う。 2 栄養の理念・方針・迷いについて   メンバーの姿勢    まず、メンバーの姿勢がまじめ、まっとうであり続けていること、これはスマートさを身につけていないせいかと思う。不幸にもまじめに「くそ」がつき、また「バカ」までつくようで、もう目もあてられないなとつくづく思っている。5年間何を懸命にやってきたのかを問い直すと、「食事がおいしい」を聞きたいがため、病院だから冷めているのは仕方ない、味も薄味なのは体にいい、夜間おなかがすくのは病院だから仕方がない、自分たちの意向が聞いてもらえないのも職員の都合もあるし仕方ないなど、数多くの「仕方ない事項」について、“ここはレストランではないけれど、なんとか考えないといけませんね”とか “うちの病院ではこうしていきたい”の姿勢が、メンバーに根づいたのではないかと思う。「なんとかせんといけない」の問題意識は、誰しももっていると思う。それを原動力としてフルに活用してゆくこと、ビジネスとして成立させ、このすばらしい部分を普遍化させてゆく努力こそがどこにおいても大切なのではないか、と思うしだいである。当然患者さんサイドに主体をおいて業務をこなすことは当然様々の困難にぶつかるわけだが、また後で触れようと思う。 食品事故 食品と食中毒とは、切っても切り離せない問題としてつきまとうことは運命で、今まで大した問題も起こさずやれたことも、“運が良かった”で片付けてはならないと思う。これで大丈夫かどうかは、夏であっても冬であっても春秋であっても、いつも注意されなければならない。清潔と清潔でない区域をはっきりさせ、用途により器具を使い分けること、消毒済みの食器でなければ絶対使用しない。手指の傷、生ものの取扱い、調理してからの、またするまでの時間の経過、献立の工夫 ――― 神経質になればきりがないのは事実である。病院では朝昼夕とあるため、学校給食のように半日消毒に費やすことは無理かと思うが、食べ物に関わる以上、いつも神経質になっていなければならない。“厨房をきれいに”“ひとりひとりが気をつける”“商売道具の手指を大切にする”など、食中毒を出さないよう、いつ保健所の人が来られても、あわてないようにいい続けているが、忙しさが邪魔をし、整理整頓と衛生についてはいつも頭を痛めている。調理に関わるメンバーは、月1回の検便と年1回の健康診断が義務づけられており、その他の情報交換も日常的でまきび風和気あいあいの中、その日の健康状態、手指に傷があるかどうか、手荒れの状態、うんこの具合、中には聞くのが恥しい言葉も交じえつつ、コミュニケーションをもち、おかげさまで日々何事もなく過ごさせてもらっている。  食事を介してのもう1つの危険は感染ということである。患者さんと直接関わる看護者においてはなおさらのことなのに、栄養では中途半端な知識のため 「恐い」が先に立ち、我先に血液検査へ走り、今後の不安を訴えるなど乱れに乱れた・・・。騒動はなんとか、ガイドラインを読む事により収まりをみたが、この問題も今後もつきまとう問題であると思える。ただ感染源をもつ人を「区別」するのではなく、「予防」する方向に目を向け、日々の業務を行ってきている。自己の健康管理、消毒の徹底、正しい知識、これを周囲の人にも波及させれば、感染源をもつ人に対し、その偏見を克服することになるのではないかと思う。原因として自分たちの知識のなさや、管理のずさんさが食中毒の原因となることが多いと思われるため、まず自分が食中毒をひき起こすこととなりやすいことを自覚し、衛生に心がけなければ、と思われる。 質とコスト  次に、「赤字」について。栄養士がまことにつたないもので、経理をあずかる人に大変迷惑をかけており、食費提出の際には毎月肩身が狭いのだが、病院側としては「給食費で利益をあげようとは思わないが、おいしくて質も良く、できれば低いコストならいうことはない」との病院側の意向で、ほっとしたり、“努力せんといかん”と思ったりで、栄養士3名頭をつき合わせているわけで、質は落としたくないし、コストは落としたい、とにかく無駄を出さないようにしていこうと、とりあえずの結論を出した。注文の無駄、調味料の無駄、安い物を使いこなし、盛りつけ量の無駄などをなくすなどかく努力目標をもち、細心の注意でやっているわけである。調理の人も同じように目標をもち、いかに無駄なくこなしてゆくか、やっかいな質とコストを相手に奮戦中である。 目的とは・・・  栄養は、「母的存在」でありたいと思ってきた。他からの二−ズになんとか答えたいとしてきた。農耕とのつながり、レクレーションとのつながり、患者さんとのつながり、外来や看護とのつながりなど開院当初からの混沌とした中で、何やら引き受けてきていたことも、5年もたった今周りもすっきりとしてくると、食事以外の余分な仕事は切り捨てようとする動きが当然出てきたように思える。しかも内部から・・・。新たに、線引きをしやすい段階になってきてしまうわけで、何とかストップをかけなければと思っている。このままでは規則づくめの固いイメージになると・・・。  反面、しっかりした栄養であれば、それだけ他者が依存的となる状況をつくりやすいのではないか、「甘え」が出やすい下地づくりを栄養内部で行っているような気がする。偏食に例をとれば、「魚が食べられない」→「魚のほかに違うおかずある?」→「何か用意してあるのが当たり前」となってくる。しかし主体を相手側、喫食者側におくと、「魚のほかに何かない?」は単なる甘えとかわがままとかで片付けてしまえるかどうかの疑問にぶつかる。調理する側がどこまで相手の偏食を受け入れていかなければならないのか・・・。とても「一筋縄ではいかない問題」であろうし、確かに20歳〜老年期の方に“直しましょう”、“認めません”と一律に声かけをしても修正不可能なことが多いように思われる。今までに出会った偏食のいちばん印象的だった例をあげると、父母が亡くなったときから、肉魚は一切食さなくなり、ちりめんや、ツナ、ソーセージやコンソメブイヨンもだめ、少し姿を見ても吐気がするといった様子。ある程度健康な私たちの尺度で見たら、食の分野の病いとしか思えない人だった。5年間のうち、いろいろな人に会う機会があったけれど、その都度、きっちりと線を引くことはできないと痛感し、それよりもひとりひとりにアプローチしていく細かな対応がどうしても必要となってくるような気がするわけである。しかし偏食も種類が多様で、「申し訳ない」という気持のひとかけらもない人もおられ、ほかに何か別の料理があることに慣れっこになっている現状がある。「自由さ」「柔軟さ」を踏みにじり、その上にあぐらをかくことが、目に余るときもある。とても頭にくる。そんなことはどの社会にもあると思うけれど、その問題意識を、やはりなおざりにはせず、アプローチしていきたいと思う。何かを食べられないことは、栄養的にもいいことはないし性格形成の上でもマイナスであると思える。「おいしい」と人が食べる物を食べられないことは不幸だとも思い続けている。反面「・・・が食べられない」理屈もわかる。実際、自分自身偏食があるため、後でゆっくり暴露したいと思うけれど、とにかく「まきび病院」の偏食対策は書くだけの価値があると思う。そしてきっと様々の批判を受けるだろうと思うが、この件は後の実践報告に譲ることにする。 メンバーの資質  次に職員の資質について触れてみたいと思う。患者さんと対するときも、仕事を続けていくにも、いちばん大切なのは資質の問題かと思われる。頭にくることもある。「仕事だから」と割り切らなければ、やっていられないこともあるが、頭ごなしに言い放てないケース、疎通性のないケース、常識という定規で対応したはうがいいケースなど、様々なケースがあり、様々あって当たり前なのだが、ときどき栄養のメンバーも「仕事をさせてもらっていること」を忘れる日がある。“嘆かわしい”“どうゆう性格してるのか”“今まで何を食べて生きてきたのか!!”など、そんな愚痴が出ることもあるし実際がいやにもなる・・・。しかし、食べることは大切なことで、生きてゆくことに不可欠である。日々「食べること」に関して仕事として関わり続けていくことを放棄してはいけないのだと言い聞かせ続けている。これは自分たちの仕事人としての資質の問題となると思える。ひとりひとりの患者さんと継続的に関わるために、一方では申し送りに参加し、情報を収集するようにしている(1985年4月以降)。1日何も食べないで体に影響がなくとも、何日もそれが続くと大変な問題となる。内科疾患の患者さんは少ないかわりに拒食傾向の強い方、偏食傾向の強い人、朝夕逆転の人や不眠のため朝昼夕が遅い人も多く、必ず一律にはいかないことが多い。特に病院での枠決めは極力しない方針であるため、健康な私たちの尺度でいう「当たり前」で画一的な規則には、ストップをかけ続けなければならない。自分自身、規則づくめの方向に走っていないか問い続けないと、ややもすれば職員のやりやすいような方向に走りがちだということを自覚しながら・・・。  栄養のメンバーは、当然のことながら仕事場と家庭とをもち、生身の身体ををもち、プライバシーをもつわけだから、ひとりひとりが安定した仕事人であり続けることは、かなり至難の技なのだが、そこをやりきること、これが重要かと思える。そのためには、勤務上のやりくりをする。栄養士もいっしょになって現場を勤めている。お互い相手のしんどさをわかろうとする姿勢・・・。書くのは簡単でも、実際となるとかなり至難であり、先は長いように思う。申し送りでその患者さんの側面をわかろうとし、情報を返していく。このことは1985年春から今に至り、今後も続けていけたらと思う。1つ1つ思うことを確実にこなしていけたら、いつか理想に近い姿になっているかもしれない。栄養という集団自体、求めるものをもちどんどん変わっていけたらと思うし、またどんどん変わってほしいと思う。 3 こだわり続けたもの  実践報告として、「まきび病院」でのみつくり上げることができた栄養としての動きを、内容はバラバラだが、報告していきたい。 行事食 季節感をとり入れる  食事の内容をいきなり取り上げようと思うが、まず、行事食。1年のうち、正月から始まり七草、節分、春祭り、七夕、夏祭り、お盆、桃祭り、文化祭、クリスマス、大みそか、それぞれの祝日、開院記念日、他に毎月1日の昼は赤飯にしてあり、それに季節の野菜、果物やあるいは雰囲気をとり入れ、農耕の季節の作物をプラスして、なんとか食文化をたどっているつもりになっているのだが、なかなか日々の業務プラスアルファは繁雑でもあ る。「まきび病院」は自然の中にあるため、春はわらび、つくし、筍と自然の恵みがひき続くため、厨房内はテンヤワンヤになってしまう。とにかく言葉に尽くせない。箭田の筍は天下一品の美人なので、味付けはどうあれ1度食べに来てはどうかと思う。夏はどうしてもあっさりと食べたいため、そうめんとか、冷し中華や冷奴も手を変え品を変え出される。たまには汗を流して熱々のうどんやピリッと辛いカレーなど、秋にはいただき物の松茸をあてにし、芋だの栗だのきのこだの、寿司だのジャンボおはぎも出される。冬になると、クリスマス、お正月と忙しく、形ばかりでなく本音でもリッチと思えるローストチキン、お正月には、様々の地方の雑煮をつくり、毎年毎年趣向を凝らし、お正月を祝いたいと努力している。どうも凝りすぎの批判もあるが、正月ぐらいはリッチにいこうと食費のひももゆるめがちになる。しかし豪華さをいくら追求し、いくら行事性を表そうとしても、どんな具合に患者さんに伝わっているのか、実際喜ばれているのだろうか、セルフサービスにしても声として返る部分が少なすぎ、反響も具体的に届かず、実際私たちの知りたいことは闇の中にある。 レクレーション活動に参加  また、レクレーンョン活動に栄養として参加し続けてもいる。日頃の業務をふまえた上で、祭りでの出店、パーティー料理、キャンプ、合宿への参加(1度きり<憂鬱座>を内部から見させてもらったこともある他)その動きは、都合をつけて普遍化するように努めており、調理の方々にも無理をお願いしている。出店に使う器具や材料についても、業者さんや地域の方の協力で集まり、様々なレパートリーもこなせるようになり、大変ありがたいと思っている。「まきび病院」の栄養が、地域サービスを形に表せるときでもあるし、いかに自慢できるものを作っているかを宣伝する場でもあると思う。患者さんに関しては、寄合い所帯ではあるけれど、何とか祭りの雰囲気を、食べ物を通じて伝えることのできる場であると思う。仕事といえどもかなりハードなこの動きを、主婦でもある調理のメンバーがはりきり頑張るさまは、頼もしくもあり、いつも頭の下がる想いがしている。キャンプや合宿参加も1985年1月からだと覚えている。自分中心に意義を見出そうとすると、まず自分たち自身新しい経験ができること、日々の仕事を離れることにより、次からの仕事の活力を蓄えることだってできること。患者さんと違った面で関われるなどいろいろな意義があると思う。今も印象に残るのが、私が初めて参加した広島県の能良合宿である。いろりを囲んで遅くまで語らったこと、おかげでまっ黒になったこと、帰る直前に肥え汲みをやるはめになったこと。雪の白菜畑に畝をつくり例のものをまく。静かに慎重に。初めての経験だった患者さんも多かったらしく、私自身も半分面白くも感じ、これが昔どおりのやり方だと思い、半分今の生活に問題も感じたことを覚えている。レクレーション参加となると慣れぬ栄養士なので、大変さが先に立つけれど、しんどさばかりでなく、“楽しむことも忘れたくないな”と思うわけである。できるだけ続けていきたい動きである。 料理教室、料理勉強会  次に料理教室について。ことの始まりは1983年1月の頃、町の栄養教室の調理実習に参加させてもらったことからである。「まきび病院」でも患者さん対象にできたらどうか、と思い相談の結果ゴーサインが出て、途中いろいろあったが1985年12月で36回を数えるに至っている。院内で自給自足的に行える設備をあえて作らず、外に出て地域と触れ合うことや理解の場をもつことができたら、という想いでずっと他施設を借りている。内容、対象者についても様々で、日頃病院で食べられないもの、ぜひ覚えてもらいたい基礎料理、デザート、簡単に作れておいしいものなどが毎回希望や栄養士の独断によって選ばれ、月1回、調理1名、栄養士1名、看護1名、ときに相談室1名と患者さんの側の希望者、・・・単身者、主婦、若い人たちなど総勢10名程度とで、病院を離れて、作ってから食べて話をし、片付けるまで、ほぼ午前中いっぱい使って行われている。勉強というよりかなりレクレーション的な色合いが強いため、最近ひとりひとりが手がけることを目的として取り組んでいる。例えば、自分の食べるオムレツを焼く、肉を炒める、冷凍のコロッケを揚げてみるなど、慣れれば簡単でも、50〜100点の方はわりに少なく、まるっきりできない方の多いことに驚かされる。やはり作るプロセスを大切にしなければ・・・。内容もより家庭的でなければいけないと思い改めている。おかげでいろいろなできばえに毎回驚かされている。しかし月1回が患者さんにとってこの場を継続して体験することは大変だという点がずっと問題としてあがってきてはいる。  継続とは別に、料理教室ではあまりにもギャップがありすぎて(技術的にも、人との関係についても)、どうかすると何のために参加しているのかわからない人たちがおられる。1985年春から考えあぐねて動きを企画し、ゴーサインを得て、1985年7月、「料理勉強会」というありきたりの名前をつけ、実践に移した。栄養士1名、看護者1名、対象患者さん5名程度で月1回午後帯をあてることにした。場所は院内のプレイルーム、ガスレンジを2台置き、後はままごとを想像していただくとよいかと思われる。“栄養士がこんな料理を指導するの?”の疑問符つきでも背に腹はかえられぬため、単身の方、今後単身が予想される方、家で料理を作らなければならない方など差し迫った方々と奮戦するわけである。「料理教室」では、ハンバーグとポタージュスープの基礎を覚えてもらい、サラダと牛乳でつくるデザートの基礎まで登場するが、かたや「料理勉強会」ではゆで卵、いり卵、鮭の塩焼き、御飯の炊き方、ここまではなるほどと思えるが、次にくるのが「即席ラーメン+なんとか野菜でも炒めていっしょに食べましょう」「レトルトパックのカレーライスのあたため方+御飯を炊いてなんとか野菜でも食べましょう」という具合。いずれの会も大変深い意義があると信じて疑わず、今のところ毎月1回分担を決めて行っている。欲をいうなら勉強会は月2回から10日に1回できたらと思う。今のところは手を広げすぎないようにしているが、いずれは継続させられればいいし、対象者も、おしつけではなく自発的にその気になられればいいがと思う。またいずれの企画にも栄養と結びつく担当看護者、相談室の協力を得ている。ほんとに栄養だけでは何もできないことは、これもまた当たり前のように思う。 肥満について悩む・・・  他部署との結びつきで忘れてはならないのは養護と肥満について話す機会をもてたこと。養護はローレル指数算出をして、実態調査を行った様子。栄養とのタイアップは、残念ながらお互い連絡不足のため、いま一つ実現されないままである。肥満についてはまことに身にしみてわかる気がするが、実際今のところ手をこまねいているしかない。若い女性にとっても、若い男性にとっても、年齢の高い方々にとっても、『標準体重』という言葉が、いかにいやな響きであるか・・・。いやでない方もおられようが、それらの方々にも、この苦労談を読んでいただきたい。  医者からも、「なんとかしてあげて」とおがまれ、本人からも「何とかして」とおがまれる。しかしいい手が見つからない。そんな悩みの渦中、県北の病院を勉強のため見学させていただいた。ある精神科のベテラン栄養士さんも、「肥満は長い歴史をもち、まして精神科では切っても切れないものでしょう」と言われた。「まきび病院」でもカロリー制限食を食べている患者さんが何人かいる。制限食を食べていても、病室ではおかしを買い込んで食べているケース、ほんとうに制限を続け運動も少しは始めた様子でも、3キログラム以上いっこうに減らないケースもある。すっきりやせた方の例は、「まきび病院」の栄養からは報告できない現状である。申し訳なく思っているが、減量はそう簡単にはいかないことはご存知と思う。腹の肉を胸にだけほしいと思っても、うまくいかないものだと思う。減量の専門家に彼、彼女らを紹介し、短期間にすっきりやせさせてあげたい。ホルモンや精神面の異常を起こさず、苦しみもなくやせられる妙薬があれば、飲ませてあげたい。しかし現実は厳しい。生きてゆくためには、食べて寝て排出するリズムは必要不可欠、あるとき病的に食欲が異常をきたすと、本人にとってもかなりやっかいな拒食症状、反対に過食症状を引き起こす(勉強不足を露呈して開き直れば、詳しくはまったく知らない)。しかし、ノーマルな食欲が障害されると一筋縄ではいかない状況になることだけは、心にとめている。肥満対策で栄養指導する際、眠らなかったらやせるとか、主食を抜いたらやせられる、3食きちんと食べないほうがやせられるなどの言い分を聞く。「何をいっとんのか・・・」といってはみても、本人の意志強固で歯が立たない。自分としてはその反対に、ノーマルな食欲が障害されないままの状態を保ち、3度はきちんと全食し、原則として間食は駄目、コーヒーより何も入れない紅茶やお茶にして「なんといっても適度に動く!!」「規則正しい生活をする!!」などと、まるっきりやせたい方には不満足の指導しかしないのだが、まず食事には100%期待をかけないこと、やせ薬にもあまり依存しないこと、なんといっても「きびきび動く!!」食べて、ゴロ寝して、また食べるのではいいことないんじゃないかというところに気づいてほしいと思う。なかなか妙薬への依存、食事療法への依存は強いようだが、人間の体の機構が簡単に解明できるわけはなし、カロリー制限しても計算どおり減量できるわけでもなし。何もかも通りいっペんではないことを思い知らされている。私たちが未熟ながらできることは、ひとりひとりの訴えに耳を傾け、勉強し、ていねいに関わっていくことしかないのではないかと思う。栄養指導となると、日々コンプレックスを感じ続けている。栄養士の勉強不足に尽きる。要請があったとき、自分のひけらかす知識などないため、話を聞かせてもらい、少々の口添えを行うばかりである。その人その人の家庭に沿って、本の上の説明だけではなしに・・・。栄養指導は栄養士にとって大切な分野なので、今後経験と勉強を重ねて行きたいと思う。 展望など  将来設計については、1人の栄養士は外回り専任、もう1人はプライマリーケアのチームに、もう1人は内部固めに就き、周りの動きと1つになり、「当たり前」の医療(食事)とは何か、勉強していけたらと思う。専門の知識や、世渡りの知識雑学、それなりの経験、信頼される人柄、安心感があればなお良く、地元の保健婦さんや栄養士さん、県や市、役場の方々、医療や施設に関わる方々とのつながりをもち、進めていけたらと思う。「まきび病院」で誰が何をしているのかご存知ない方々が多いと思う。この場を借りて外に向けて何もしていないことを明らかした。しかし、しっかり今後の展望も書かせてもらってしまい、後には引けない気もするが、ぼつぼつ実現していきたい。 新人研修  ところで、「まきび病院」の新人栄養士の研修について少し。古株1名は、開院から5年目の春やっと10日間の病棟研修をさせていただいたのみだが、開院から3年目の1名の栄養士は採用が決まってからキャンプヘ参加、次に1ヵ月間看護(主にナースヘルパーの仕事の手伝い、種々の介助、検温・処置の介助など)、次の1カ月間は厨房の現場、3ヵ月目から栄養士の分担に組み込まれるというハードさ。4年目の1名は病棟研修1ヵ月の間に医局、薬局、事務、相談室と1通りの研修もあり、次の1ヵ月は厨房現場、3ヵ月めから同じく栄養士の業務が入ってくる。その間他部著の先輩、同輩とのつながりもできたりして、結構盛りたくさんのようでもあるようだし、視点を外に向けるためにも経験されたことはとてもよかったのではないかと思う。  ハードではあるが、自分を生かせる場を利用してどんどんすばらしいことを実現させていってもらいたいと思っている。 4 日々のこだわり 適 温  適温(適温給食)という言葉をご存知だろうか。すでに購入された病院や施設もあると思われるが、近ごろ保温トレーとか保温配膳車なる高価な商品が発売され始めている様子で、「まきび病院」でも事務長から提案があり、その価格を調べてみることにした。結構な価格なので「ふ−ん」とひとこと、保温トレーの話はすぐ止んだ。しかし保温トレーの存在を知る以前でも、「まきび病院」の栄養では発泡スチロール容器、クーラーボックス、オーブン、二畳ほどの冷蔵庫1台を駆使し、人力をつぎ込み、冷たいものは冷たく、ラーメンやうどんは熱々を、天ぷらやフライもほかほかをと、頑張ってきた。もちろん汁物や御飯はあったかくしてある。文章にすると何行かで済んでしまうが、実際配膳のときの戦争じみた忙しさは、この適温ゆえなのだと気づいた。夏場の1食を例にとる。「御飯+ささ身のチーズフライと生野菜+ココア寒天アーモンドのせ+白玉ふのすまし汁+牛乳」。まず御飯はあったかくしておく、汁物も同様、お膳の人は直前に手分けして盛り付ける。フライはオーブンで弱い火力で保温する。生野菜もできるだけ冷蔵庫に入れておく。出した後も乾燥しないように注意してラップなどでカバーする。牛乳は発泡スチロール容器に氷を入れて冷たいままを保つ。ココア寒天は前日から用意して冷やしておく。これを配膳の2時間も3時間も前に盛り付けざるをえない条件のところもあるかと思うが、幸い「まきび病院」ではセルフサービスなので、取りに来れる患者さんには盛り付けながらでもやっていける。運び膳は多少数に変動はあっても15〜20%。この方々は少し気の毒だけれど、熱々→あったか、冷たい→やや冷たいぐらいになってしまっているのではないだろうか。だからできるだけ食堂に食べに来てほしいと願う。目の前で適量を盛ってあげられるし、おいしいと思われる状態で用意してあるつもりだから・・・。  1度栄養士と調理の人2名で他院を昼食時に見学させていただいたとき、皆うちの厨房とはまるっきり違うと思った。整理整頓された清潔な厨房内、呼び声、話し声さえあまり聞こえない、いつの間に配膳されたのかさえわからなかったという感想をもった。「まきび病院」も、いずれはバタバタもなければ叫び声もない厨房になっていくのだろうかと思った。作業が合理化され、熟練してくれば見渡すほど広くない厨房内だけれど、戦争の後のさまを見ることもなくなる・・・。しかし今のバタバタのあり方は、決してなくしてほしくないと思う。「まきび病院」でつくり上げられた姿なのだし、少しでもおいしいと思われる状態で食事を出したい願望と理想に忠実にやっているのだから・・・。しんどいことはわかっている。内容を向上させながら、仕事の能率も良くしていくためには道具、機具も必要かと思う。人手も必要かと思う。でもいくら上を見てもきりがない。欲をいってもきりがない。何とかやりくりしてやっていけたら、と思う。適温の徹底!を文字にすると感嘆符つきでも6文字。たった6文字でも実践となるとずっしりと重い。果たしてこの感じが患者さんに届いているのかどうか。よくわからずである。 選択メニュー  さて次に選択メニューについて。世間を知らない私でも、他施設でも行われていることをすでに知ってしまったため、選択メニューまきび流として報告したいと思う。事の起こりは1983年新春ぐらいからで、ある患者さんは、話の中で「このお正月は、僕が50数年生きてきた中でいちばんお正月らしいお正月だった。おいしい料理をありがとう」と泣かれ始めた。こんな感じで受け取ってくれる方がいるんだと思い、お正月の疲れもどこかに忘れたように思う。もう少し話を聞いていると「かす汁が飲みたい」とか、「ちらし寿司が食べたい」「洋風の味付御飯は好かんから、炊き込み御飯を一度でいいから作ってほしい」などいろいろ出てくる。“ちらし寿司”は一般受けするが“炊き込み御飯”とか “かす汁”は若い人には喜ばれない傾向があるし、“かす汁”となると嫌いな人も多い。というところで、両方とも作ったら満足する人も多いだろうと思った。希望献立を聞けば、ピザトーストだの、麻婆豆腐だの、シチュー、酢豚、サンドウィッチが多く、だいたい自己主張の強いタイプの若い層から帰ってくる。仮に麻婆豆腐を主菜にあてたなら、残るほうがはるかに多いと予想される。実に中年層の方々は、嫌って食べられないのである。思えば斬新な献立となると必ずそれを食べない方、いやいや食べる方がどうしてもある。それを考慮するとひたすらノーマル趣向に走ってしまう。現にカレーの味付けにしても、辛口と甘口のように辛みも工夫している。手元で調節できるものには、その時々で調味料やコショウ、七味、タバスコを出し、ドレッシングやソースを作って出したりして自分で好みの味にしてもらう。しかし調味料は常時出してはいない。原則として「食べられないような薄味にはしていないから、どうしても口に合わない方は塩なりしょうゆなり自分で買って来てどうぞ!」という方針にしている。今のところ、しょうゆをもち歩く方は1〜2名でごく少ない。  選択メニューの実施は、栄養士は今のところ1名しかしていないが、何日に1回とは決まっていない。厨房の人員数と相談して決める。スパゲティと和定食、魚の塩焼き定食と肉の生姜焼き定食、納豆またはきんぴら、麻婆豆腐の甘・辛、カレーはもちろん甘・辛・中辛、酢豚とジャガ芋の煮ころがしなど・・・。だいたいどちらかが売り切れ、最後に食べる栄養メンバーは、希望とはうらはらの食事になることも結構ある。食費とか、残りを心配する職員も多いが、要は手間である。残りは無駄にしないよう還元しているつもりだから・・・そうまでしてなぜ選択メニューをやり続けるのかこじつけ論を一言二言。  @何かを食べるのに、何にしようかと迷うぜいたくさ。それを病院内でときに可能にすることができた(どちらが食べたいかは、その場で決めていただいている)。  Aこれが食べたい!!を満足できるぜいたくさ。  朝に納豆、生卵、大辛のカレー、焼きたてのピザトースト・・・。きりがないと思えるけれど、以上2点のぜいたくさは必ずしも高価ではなく、好みに合う意味の満足感だから、事務長も今に至るまで特に何も言わないのかと思う。「まきび病院」の患者さんと職員(1部を除いて)はとにかくカレーが好きで、栄養士も10日に1度ぐらいは手をかえ品をかえ献立に組み入れる。そのレパートリー、形態や中身にしても、20種はある。前日切り出した具を朝早くから炊き始め、昼前までめいっぱい煮込む。メンバーにもかなりの意気込みが感じられる。自負のほうもたいそうで、「おいしかろうがな!?」「レストランよりうちのカレーはおいしいもんなあ・・・」「どんなん!?。今日の味は!?」とむりやりおいしいを言わせてしまう傾向も感じられるが、とにかく大した自負であると思う。これは「まきび病院」の栄養のすばらしい自慢である。「お口に合わないかもしれませんが、まあどうぞ」と勧めるような控え目な人たちには、ずいぶんな感じに見られるかと思うから、選択メニューとカレーの話はこれまでとする。 偏食、このやっかいなものたち  「偏食について」に移ろうと思う。不思議なのはヨーグルト。「何故牛乳が飲めないのに、牛乳の腐ったのなら食べれるんやろ」と思う。また、「どうして寒天デザートを食べないのか」「中高年のおとうさん方はあのおいしいさつま芋を何故嫌うのか」その他取りあげればきりがないように思うが、誰でも大なり小なり好き嫌いはあってしかるべきと思う。何を隠そう栄養士3名、調理員若干名について、はたから見てもそれとわかる偏食を年の順に暴露する。まずは人参、チーズ大嫌い、油ものは少量におさえ、里芋大好き1名。人参、牛乳、甘口カレーいまひとつ嫌い1名。しい茸、脂身大嫌い1名。ねぎ、玉ねぎ、イカさしはだめで、納豆は大好き1名。きわめつけは白和え、ちらし寿司、おから、栗は食べられない(まだまだあるように思うが、思いつかないのが歯がゆい)1名。しい茸が食べられない職員の話を例にとればわかりやすいかと思う。いかに人の目の前でおいしそうにパックリと食べていようとも、いわく「形がいや」である。なめくじ形しい茸を丹念により、皿のふちにのれんをつくる。他のきのこ類は、好きでもないが食べる様子。何がいやか。なめくじ形がまずいけない。舌ざわりもだめ、においもだめ、みじん切りにしてあってもだめ、とにかくしい茸は嫌い、と理路整然と答える。なんとなくなどという方もいる。どうしてもと努力を表明する方もいる。原因としては、幼児体験、人から生理的にいやな印象を受けた、職業上これだけは食べられない、学校給食の苦い体験、製造調理過程を見てしまった、添加物が入っているなどなど・・・。 こだわりの姿勢が偏食にはつきまとうと思う。 「まきび病院」では「〇〇が食べれない」となると、原則として何か他に用意することにしている。魚がだめならイカや卵焼きや豆腐など他の蛋白源で代用する。そうして、何とか丸残しとならないよう極力配慮しているつもりだったわけである。それが昨今批判を浴びることとなっており、ここを読まれた方でも「こんなにしないでいいんじゃないか」と思われる方もあると思う。こじつけ論だが、3点あげてみたいと思う。  @食べられないことを知っていて知らないふりはできない(正義感がある)  A食べられるものだけででも、なんとかバランスのとれた食事をしてもらいたい(職業上の義務感がある。主に肉とか、魚嫌いに対して思う)  Bきっちりと線を引いて切り捨てたくない(そのような体制への反抗心?もある)  今批判を浴びている偏食対策についても、実に複雑な想いが入り込んでいるわけである。ただ今、対応している「〇〇嫌い」をあげてみる。鶏肉、青身魚、魚全般、肉全般、カレーライス、寿司全般、洋・和風まぜ御飯、牛乳、ヨーグルト、チーズ、牛乳入りスープ、刺身、揚げ物、パン、卵・・・。こちらが良心的であればあるだけ、その配慮され整えられた対応の上に、喫食者側として “どかっ”とあぐらをかく人たちが最近問題となってきている。栄養が患者さんたちの気まぐれ、嗜好の多様さに振り回され、腹の立つことしばしばである。ひとえに職員の資質の問題だけでもない。実に手に負えないことが多すぎるように思う。やはり食べられないというひけ目・謙虚さも、つくる側に対する思いやりも食べる側にあっていいのではないか。人としての美徳がなくて当たり前のはずはないと思う。どこまで病いとして認め、どこまで社会人として認めたらいいのか、悩みのまっ最中である。 デザート問題  もう1つ、悩みの種としてデザートに関することがある。そのレパートリーも自慢の1つではあるが、批判されることの1つでもある。季節感や行事性を出すため、また食欲のない方に対しても食べやすさが魅力でもあると思う。栄養士もデザートの研究は熱心である。クリスマスには、柊を飾りペパーミントでババロアを作ったり、栗ようかんやきんとん、スイートポテトやクレープ、種々の寒天やゼリー・・・。ぶどうや、しそのジュース・・・。おかず以外に何か楽しみをもたせたいとの思い込みによる。ところが手づくりとばかりいかないことがある。人手の問題、冷凍庫・冷蔵庫の都合、バラエティの問題、アイスクリームやプリンやヨーグルトは市販のほうがかなりおいしいとも思う。容器の都合もある。最近職員側から「まきび病院では、お金を出せば自由に外に出て買うこともできるし、下の売店や販売機でも買えるので、手作りデザート以外必要ないと思う」という意見が出た。月に1度定例の栄養研究会でもいろいろと話し合われ、とりあえず、必要以上に出しすぎと思われる点を改善していこうという方針が出された。この話合いは、市販デザート、手作りデザートだけの問題に尽きることなく、「まきび病院」の今の食事のあり方全般を問われるという、広い意味あいをもっていたようだった。塩分、カロリー、過食、美食、コストなど、ついにその時期がきたようで、どうやら栄養のやってきたことも行きすぎのところまで到達したのか、と感じた。この1985年夏をきっかけに、栄養も自分たちなりに問い直し、煮詰め直す姿勢に変化してきていると思う。  実践報告としては内容が抽象的になりすぎるが、適した食事形態をとり個人の適量をつかむことや、様々な対応について書いてみたい。 集まる情報  調理のメンバーの恐るべき情報量に対しては、栄養士は顔負けである。申し送りに参加するにも関わらず、何故ならば彼女らは患者さんといちばんよく話をしているからである。栄養士は、事務期間は現場から隔離された部屋にこもるため、その時期存在感がなくなる。調理の人々は現場でずっと働くので、名前を覚えてもらえるのも早い。顔と名前、食事形態、それにやっかいな好みまで最低限覚えなくてはならない。あわせて、一歩ふみこんだ情報も、申し送りにより知ることが可能になった。申し送り内容や院内のことは院外には漏らさぬよう、マル秘事項は固く厳守する。患者さん自身のことを、職員が知っていてはまずいこともある。情報に関しては、特に十分の配慮が必要である。申し送りには、1985年春から都合をつけて栄養士が1名夕方に参加する。専門の言葉はいっこうにわからないが、食事に関することや退院・外泊・帰院、患者さんの状態のこと、入院紹介その他様々の情報をメモする。栄養からも食事のことその他で情報を返してもいく。食事内容もよく変化し、しばらく現場を離れていると、わけがわからなくなることが多い。先ほど粥といった方が、もう並を食べていたり、元気にしているのに流動食だったりする。「これは固いから刻んでほしい」という希望があったりその同じ方が「見た目がいやだから、並でいい」とか、一般にえん下困難があったり内臓が悪かったり、食欲がなかったり、歯が悪かったりしても、食べたいものがあれば出す方針である。絶対流動食しか食べていない長期の患者さんがこのお正月、看護者の慎重な介助でお餅を食べられた。表情が違ったそうである。歯のない方でもお寿司は食べられる。カレーのときは、日頃粥の方も皆カレーである。とにかく、いろいろなのがまきび流だと思う。治療食の患者さんには、食べられる範囲でいろいろ楽しみや、満足感も盛り込むようにする努力はしているが、カロリーなどの一線ははずさない方針である。  いろいろなのがまきび流であるが、例えばお寿司のとき、運び膳の方については、本人が窓口に来られないため、食べられるか否か部屋に聞きに行ったり、看護者が情報を返してくれたり、こちらが予測したりで、大混乱となる納膳口では喫食率をチェックする。運び膳で手つかずだったり、残食が多いお膳があると、ただちに “どなたの?”“どんな感じで食べられないんですか?”との質問が飛ぶ・・・。心療内科だからそうなのかどうか、とにかく個人個人食事に関してはきりがなく、5年たった今でも厨房の大混乱は収まらない。ひとりひとりをいろいろ見ていくと、自然と型にはまらないことが当たり前のような気がする。対応についても同様・・・。自分を振り返ってみてもまた同様に思う。  今まで長々と書いてきたが、いったい栄養業務とは何か、という問題でしめくくりたいと思う。思いつくことをあげれば、まず食中毒を出さない。役所、保健所の基準をパスする。おいしいといわれる食事をつくる。すみやかに片付ける。企業として成立するためコストを考慮しながら、向上しつづける。勉強もすべき、指導もすべきことなど。まきび流はこの5年間で食事内容の中に集中して生み出され、生かされてきたと思う。メンバーも向上に向けて歩んできたと思う。ときにはコケる。7人という所帯だから、何事もないはずがないと言い聞かせる・・・。ずいぶんな試行錯誤の連続だったと思う。しかし自分たちの自負するところはチームワークである。こだわる姿勢である。まっとうに取り組むことでもある・・・。「当たり前」の食事とは何か。このテーマについては、ただ今模索中である。  「まきび病院」の栄養については、いい意味で「流れ」をもちたいと思う。柔軟で暖かく、また涼しくもある、そして何より前向きであれと思う。  たどたどしく長い文章となってしまったことや失礼をおわびしたいと思う。とりあえずの実践報告は以上で終えることとしたい。 5 問題提起と今まで抱えている問題点 サバイバルキャンプから  1985年盛夏、当時23歳の栄養士1名、猛暑の季節に瀬戸内海の島にての自給自足作戦に参加した。私たち他メンバーの心配をよそに・・・。しかも2泊3日の強行軍でもある。その経験から得られたいくつかの想いを報告し、問題提起をするつもりである。まず海水の塩分の味での食事と、病院の食事との違いについての問いかけがあった。 「“生きるために食べること”これは切っても切れないシビアな関係であると自分の身をもって体験できた」と彼女は感想をもらした。1日2日で生きることを語るのは大それた話かと思われるだろうが、サバイバルをいろいろな意味で身をもって体験した方は、食べることの重大さを痛いほど理解されると思う。彼女は、純粋サバイバル派で、獲れた魚と貝、持参の米以外はロにしなかったらしい。しかも2泊3日の間やり通した・・・。「本来 “ばっかり食 ”は昔からの食生活のあり方だったのに、自給率のまことに低い日本でお金を出せばどんな食品でも料理でも手に入ること、季節はずれであっても、それがどこの地方や国でとれた食べ物であっても・・・。欲求は限りないもの・・・。何か歯止めのきかない状況になっているのではないだろうか。自分の足場を見失う恐さを感じる」と。  今の世代は企業側の企画した味に慣らされている気がする。スナック菓子にしても、うどんやラーメン類、既製のレトルトパックの食品類、缶詰、インスタントの汁までも。「私は、サバイバルキャンプでそのもののもつ味に塩・味噌の味付けだけで食べたとき、素直においしいと感動できた。まだ毒されきっていないのかなと思うことができた。 メンバー中、必ずしも感動できない数名もあったことが気にもなる」と。そして「まきび病院の食事は色とりどりで味付けに凝り、季節もごちゃまぜの気がする」と言った。「輸入野菜のコバルト照射、農薬のこと、空気、土壌、河や海。ことごとく汚染されているのではないか。それに加えて種々の食品混入物・・・。島一つをとってみても、ゴミの打ち寄せる砂浜で貝を拾い、食事をつくり、泳ぐ。また眠る場所もゴミの山。食べ物の中にどのくらい危険があるのか、また汚染されているのか。私たちの知らないことが多すぎると思う・・・。彼女の経験から知らされたことは大きなテーマであり、混沌としすぎていてわからないと思った。私たちはとにかく未熟すぎる。  人の欲望に歯止めのきかない状態を飽食とするなら、そして豊かな食生活を豊食とするなら、少なくとも「生きるために食べる」というラインを冒とくすることなく、あまりの飽食に慣らされることなく、何が真に人にとって豊かなのか、これから先ずっと考え続けていかなければならないテーマだと思う。 感動をもてているか  次に、こだわりを捨てきれない姿勢から、“感動をもつ” ということについて考えてみたい。何かを食べる際、スーパーからできあいを買ってきて食卓に並べるとする。そして作る過程をパスして楽においしく食べられたとしても、食べる心情はイージーであってはいけないと思う。食品1つをとってみても、口に入るまでどれほどの苦労が注がれてきたのか、わかろうとする人は自ずから何か感動があるのではないかと思う。「1粒のお米にも、7人の神様がいるんだ」と、ある患者さんから教えられたことがある。私事を引用するが、イカ釣りの漁り火を暗い海にいくつも見たことがあるし、山陰の漁村で、一夜干しを干している風景も見た。雄大な大山のすそ野に広がる大根畑、暑いさなかのちりめんのてんぴ干しなど。何かを食べるとき、買うとき“これはどこでとれたもの?”と、いつも思っている。そんなところにこだわる人もずいぶんあるかと思うし、世間が、「あっ!?珍しいな」とか「もう〇〇の季節なんだな」とか「ありがたい」とか「もったいない」ということを忘れてしまっているのかもしれないと思う。宴会の後の残りものの山、乱雑な食べ散らかし、食事に対する苦情の内容・・・。お年寄はよく「こんな所にいても、遠いもんまで食べれる。ありがたい、ありがたい」と言われる。量産、低コスト主義、季節感の消滅、独自性の消滅、新鮮さ・安さ・手軽さ第1主義でお金を出せば何でも食べられる。品物があふれている時代、昔からの食べものが嫌われ、食事は多様化し、風習も億劫がられる。家庭料理の中に既製品が幅をきかせてきている。外食が多くを占め始めてきている。5年間病院で「食事とは何か」を問い続けてきて、10人のうち9人はだいたいおいしいと思えるだろう食事を求めてきて、今いったい何がどうなのかという壁にぶつかり、やっと「当たり前」の家庭的という問題が見えてきている。  食事とは何かを考えるとき、いちばんの単位は家庭であると思う。病院の食事などは虚構でしかありえない。最高に極めるとしても、「まきびレストラン」としてであろう。決して母ではない。人の欲求に甘い誘いをかける外食産業、インスタント、できあい・・・。それに惑わされず、しつかりしてほしいと思う。おいしい料理を専門に食べさせてくれる店、旅館、小料理屋、その他どんどんあってほしいと思うが、家庭の肩がわりをしてほしくないと思う。イージーで安価は、ときとして大きな不幸を招くこととなるかもしれない。ある小学校教諭が嘆かれていた。小学校1年の子供の誕生パーティーに、その友達を近くのファミリーレストランヘ連れていき、“さあ食べなさい”が彼らへのもてなし方法だそうである。「どんな母親か」と思われたそうである。このことが何故・・・普通じゃないのか、かえって疑問を感じる人のほうが多いかもしれない。私たちの視点がずれているのだろうか。ずいぶんと商業ベースに乗っているのではないか、手間暇かけることをお金で代用し、真心をどこかに置きっぱなしなのではないかと思うこと自体、偉そうなことだけれど、しかしこだわってしまう。 「まきび病院」に置き換えてみる。5年間の大まかな変化を追ってみると、満足のいく食事=食べられるものがある→いろいろ品数だけは用意する→自分の食べたいものがある(おかわりもできる)→おいしく食べられる→満足のいくだろう食事となるのではないか。そして身体的・生理的嗜好の面でも食べられるものを用意し、味としても温度としてもほど良くしてあり、食事に何か楽しみをもてるような工夫をと、頑張ってきたつもりである。病院食という枠をいかに崩し、満足を感じてもらうか、病院でもおいしいのが「当たり前」なのではないかなどの試行錯誤。それには100%ではないにしても、いくぶん到達したのではないかと思う。それに飽食という問題提起がからんでくると、安いホルモンの肉を食べているようであり、その問題は噛んでも噛んでも口の中で大きくなり、いつまでも飲み込めない・・・。重ねて、「まきび病院」は家庭ではないことが新たに問題となる。食事時間は朝昼夕と決まっている。微々たる配慮として、食事時間からはずれて来られても、極力適温で出す。せめてものサービスという点は、病院内部だけに限っていえば、調理の人々看護の人々の協力を得て、ずいぶんと完成に近づけたと思う。 おわりに きまざまの問題点を残して・・・  あるケースが私たちに問題を投げかけた。退院後、単身でのアパート暮し、ガスのつけ方がわからず、爆発させてしまったこと。また中学生の男の患者さんが外泊中に母親と食事の件でけんかをする。「病院のほうがおいしい。もっとおいしい料理をつくって」「病院がおいしいわけはないでしょう!」と・・・。「病院におったときのほうがいろいろ食べれるけど、帰ると食べたくても作るのがめんどう」と言う方もある。夜間おなかの空くという問題もある。「お金がない。でも何か食べるものが欲しい。」あまりに知らなさすぎる問題、ぜいたくすぎる問題と、病院と家庭とのギャップ、食べることにまつわることは、とても重大で難しいと思える。私たちにもそうした自覚が必要だと思う。栄養士として何ができるのか。自分たちの味覚を磨くことも大切。食べることを糸口として家庭につなげてゆくことも大切。健康であり続け、人の言葉にも耳をうまく傾けられる姿でいつもあること。その他、何もかも今後の修行の必要性大であろう。どんなときでも、少なくとも問題意識に忠実でありたいと思う。  例えば食事時間を今の朝7時30分、昼12時、夕4時30分をもっと人間本来のリズムに合わせていけないだろうかという問題意識をもっている。看護の動き、栄養、医局、外来、事務、薬局、相談室・・・、様々な部署の動きを考慮して、開院当時から今の食事時間に決まっている。特に夕食は、6時提言も虚しく、4時30分でなければならなかった。思えば未経験栄養士の暴言だったかもしれない。決められた食事時間に沿って仕事をからめていき、だんだんと身動きのとれない、断固動かせない「食事時間様」ができあがっていく。どこの病院でも夕食は早い。それは仕方ないことなのだろうか。患者さんの要望の中にも「仕方ない」「どっちでもいい」「ぜひ遅らせてほしい」などいろいろある。実際、いつも遅く来られる方は決まってきている。特に若い男の患者さんに多い。確かに4時30分から翌朝の7時30分まで15時間ある。この夜の長さを少しでも縮めていけないか。ぜひそうしていきたいと思い続けている。ずいぶんな反対意見やら、一応納得するが現実的には難しいとする意見やらが現にある。しかし世間では、病院食でも6時にする動きも確かにある。これから食事時間や内容も変わっていくのではないかと思う。こちらはただ今充電中である。だからどんどん実践報告も聞かせていただきたいと思う。  また、食事、食べ物に対する喫食者側の努力・心構えということを述べたいと思う。  お腹いっぱいの上に食べる、気が進まないが食べる。おいしくなさそうだが食べる、食べて自分の身によろしくないなら、内科疾患など特別の場合を除いては、自分である程度セーブすべきではないかと思う。目が欲しがるときもあろう。どうしても食べてしまうこともあろう。だが食事に対するとき、「さあ食べよう!」というときと、「また食べなければいけない・・・」というときはずいぶんと違いがある。作る側もおなかいっぱいなら作る意欲も低下してしまう。間食は認めなくはないが、食事への意欲を低下させる食べ方は控えたほうがいいと思う。食事をおいしく迎える努力、ベストコンディションで食べる努力、ゴロゴロと寝続けないで、少しは動いてみたらどうか。お酒がすぎると食事が食べられないなら、お酒の量を少しにしてみたら・・・。間食を主食のようにして食べ続けないで、食事の大切さを認めようとしてみたらどうかと思う。食事は大切、内科疾患の方にはなおさらであろう。なんとかして、体によろしく精神的にもよろしくお迎えする努力、これはぜひ必要と思う。 第5章 薬局より ジャリンコチエ奮戦記 1 「まきび病院」との出会い 大学時代からの希望であった薬剤師として働きながら、患者さんと日常的に接することのできる職場はそう簡単にあるものではなかった。ましていわゆる精神科の病院に務めたいと思っていた私にとってはそれはますます、難しいものだった。  そんなある日、「まきび病院」を紹介された。病院で開催される文化祭に参加することになった。この文化祭は、とても病院の文化祭とは思えないものだった。空いた病室が文化祭で使う小道具の製作室になっている。廊下一杯に布を拡げてみんなで横断幕を書いている。それが前夜の夜半まで続く。当日も朝早くから掃除をしたり、花を飾ったり、大忙しである。そんな中で、自分たちのお祭りのごとく、生き生きしている職員たちの姿に私はすっかり魅せられてしまった。何かものすごいエネルギーを感じたのである。そして、是非ともこんな人たちの中にまざっていろんな勉強をしたいと思ったのである。そして1982年12月より、幸運にも職員の1人として参加させてもらうことになった。  最初に経験したのは約1ヶ月間の病棟研修だった。当時、病院の清掃は病棟勤務者の一業務であり、とりあえず床そうじ、風呂そうじ、病室そうじと掃除に明け暮れた。元来、働き者ではない私にはそのとき、お世話になったナースヘルパーの人々の働きぶりに目を見張った。掃除というのはすごい重労働だ。3階建の「まきび病院」を当時3人のナースヘルパーが、なめまわすがごとく、丁寧に掃除をしていくのだ。そして、同じ病棟にいる、看護婦たちの休みのない動き。これはまた目を見張るものだった。例えば、食事の摂れない患者さんに対してすぐに点滴その他の処置をとるだけでなく同時に、何とかこの患者さんが食事できる方法はないものかと生活人としての知恵をもって患者さんに臨み、患者さんをとり囲む苦悩のひとつひとつを患者さんと同じ立場にたって自ら悩みながら、取り除こうと努力する。これは病棟のあらゆる場面でみられる光景だった。そんな中で、では私はこの病院で何をすべきか、病院から私に何が求められているか、が私のテーマとなっていった。  私は薬剤師で、「まきび病院」における薬剤師は私1人である。約20平米の薬局というスペースが私の主な仕事場となった(薬局を簡単に紹介すると、真ん中に分包機が据えられ、部屋の両側には薬棚がある。この薬棚は同種の薬が1区画に入るよう、さいの目状に縦横区切ってあるという使いやすいものである)。  まず、第1に取りかかった仕事は「まきび病院医薬品集」づくりであった。「まきび病院」は地域医療サービスの拠点である、という位置付けから、心療内科に内科、小児科を併設しており、従って薬も多種に及ぶ。それら薬についての基本的な情報として “わかりやすく、しかもコンパクトに!!”を目標につくった。病院自体の医療品集というと、どこの病院にもあるものだが、大学を出て間もない経験のほとんどない私にとっては最初の大仕事であった。しかし、約3年経った今、やはりいろいろ、未熟な点が見出され、自らつくり直しの必要に迫られ、第2版製作中である。  病院において、患者さんと薬はなかなか切り離せない関係にある。ものを食べると同様に薬を毎日、絶え間なくのむことになる。しかし、食事ならば食欲という自然な欲求により食べるのであろうが、薬に関しては少なくとも最初はのむことを強いられるのである。逆に医療者側からみると精神科において現在のところ、薬物療法が最も有効であるとされているのであるから、何とか患者さんを楽な状態に近づけるために治るし治すという患者さんとの治療関係のベースとして薬をのむことを患者さんに指示する。となると、ひとつひとつの薬ひとりひとりがのんでいる薬が環境という枠の中で大きな存在となってくる。だが、現実には様々な医療スタッフの薬に対する理解は不十分であるように思う。これには、薬剤師という職のものにでも薬に関する妥当な情報が系統だって入ってはこないという現状もあるが、一方では薬剤師から他のスタッフヘの情報提供がなされていないという気がする。これは当然、薬剤師としての反省であり、そこで医薬品集とは別に様々な形で他のスタッフ、特に看護スタッフヘの薬の情報を考えた。「まきび病院」で主に使われている、抗精神薬の主作用、副作用をわかりやすくまとめたり、内科薬の頓服としての服用の仕方、外用薬の具体的な使い方を表にまとめて看護詰所に置いたりした。また新しく購入した薬についても、その情報をコルクボードに貼るなど工夫をした。それ以外にも1984年春から月1回、スタッフの学習の場にあてられている時間を頂いて薬に関する″講義″を行うこととなった。講義というにはあまりにも未熱なものであるが、1回ごとにテーマを例えば「薬の保存の仕方について」、「高血圧症に使われる薬について」などとしぼり行った。これはあえて専門家を名乗り、他スタッフに情報を伝える中で自らがより深く知識を得る場となりえた。さらに終了後質問なども出され、日常出てくる個々人の疑問を皆で考えることもできたし、次回への拡がりともなった。 2「薬局」in「まきび病院」 「まきび病院」には看護、相談室、事務、などといったように他の病院でもあるような職務による仕事分担がなされてはいる。しかし、その分担が曖昧なままとされているという特徴がある。つまり、1つの仕事を部門を越えた協同作業として行うことが多い。一般に病院勤めの薬剤師は薬局業務以外、病院には認められていない。要するに一歩も薬局の外には出られないのである。患者さんに接するのは薬局のあの小さな窓を通じてのみ、ということになる。  「まきび病院」では薬局でもその他の治療活動に大いに参加してもよい、という保障が与えられている。かなり前から、患者さんにじかに接してみたいという希望(今から思えば、恐れ多いことだが)をもっていた私には願ってもない職場であった。そんな理解のある中で、週1回のレクレーション、月例キャンプ(合宿)に参加したり、ボーリング大会を企画したりと病院内のレクレーション活動に参加していった。その中で患者さんと病院を離れる責任の重さも味わったが、一方でレクレーションで知り合った患者さんが気軽に薬局を訪れてくれるようになった。ここでまた1つの問題に出くわす。薬局には当然の事ながら多くの薬が置いてあり、病院の中でも危険な場所の1つである。だから、患者さんにオープンにしている病院薬局など聞いたことがなかった。しかし、せっかく訪れてくれた人にドアのところで対応するわけにもいかないではないか。そこで、薬局内の1つの空間(これは非常に狭い空間であるが)を患者さんにオープンにすることに決めた。これはかなり私の独断で決めてしまい、周りのスタッフにも心配をかけたように思う。またそれに伴い、しゃれたテーブルと椅子を購入してもらい、灰皿、雑誌も用意して今まで「どなたでもどうぞ」という雰囲気を保っている。  薬局内にこのような空間をつくって2年あまりになるが、その間に大学に進学したいという患者さんが勉強する場として使い出し、私もまじえて小さな勉強会が行われたりした。また訪れてくれる人の中には、挨拶をしていくだけの人もいれば、「退屈やなあ」とふらっと立ち寄っていく人もいる。「ここは静かで落ち着く」という人もいれば、今、自分がのんでいる薬のことを聞きにくる人もいる。外来に来られる人の中にも必ず立ち寄ってくれる人もいて、私のほうも楽しみにしている。  私が暇なときは、座ってゆっくり話をすることもできるが、忙しいとなると調剤をしながらの応待となり、私の注意力もあっちへ半分、こっちへ半分、といった具合で来てくれた人に申し訳ないなあと思うことも多い。そんなとき、「毎日、そんな暗い仕事してて…ようやるわ」と逆にそんな私を気づかってくれる人もいる。  このように、薬局のスペースは病棟にはない「空気」が漂っているのかもしれない。あえていえば、それは病院より社会に近い「空気」なのかもしれない。また患者さんと対峙するとき、自分とは一体何なのかと絶えず、自問しなければならなくなった。そして、患者さんにより近いところに自分を置かなければならなくなった。そこで、看護スタッフが主に行っている受持ち看護へ参加してみることになった。受持ち制とは1人の患者さんに数人の看護者がチームを組んで重点的に関わっていくもので私も今まで1年半、1つのケースに関わらせてもらった。ここで詳しく述べるのは避けることにするが、患者さんが抱える困難な状況をなんとかしなくてはとあせるあまり、患者さんと自分との関係を冷静にみることができず、大きな失敗も味わった。患者さんと近しい関係を築きながら、なおかつ、状況判断を冷静にしていくことの難しさを体験することができた。  他に活動として1983年春、病院の近くにまったくのご厚意で畑を借して頂いたことから、農耕クラブをつくってそこに参加している。現在のところ、週1回午後から総勢20名弱で出かけて、春にはじゃが芋を植え、トマト、なす、すいか、きゅうりを育て、秋には大根、白菜の種を蒔き、さつま芋を収穫し、また来春に備えて玉ねぎの苗を植える、といったように1年を通じて活動している。作業時間は2時間ほどだが途中で休憩時間を設けて、お茶を飲み、お菓子をつまんで楽しんでいる。またかなり広い畑地で収獲物もかなりの量になるのでできたものは栄養課にもっていって病院の食卓に並ぶことになる。またすいかなどは冷やして畑にもっていき、休憩時間にワイワイいいながら切って食べたりしている。他のレクレーションとは違って、この農耕は若い患者さんにとっては汗を流して働くしんどい体験をする場として、また中高年の患者さんにとっては今まで得てきた知恵を生かし、他の者に教え伝える場、すなわち自らを表現する場として意味があるのかもしれない。最初の段階では私たち職員が中心に企画し、患者さんは作業に参加するだけであった。1年過ぎて何とか徐々にでも患者さん独自のクラブとして患者さん中心に動いていくにはとミーティングなどを開き、具体的な作業計画、2時間の作業時間の使い方などを検討したこともある。しかし、何ら手応えを得られないまま、これらミーティングは私の息切れで中途で終わっている。  だが、今では別の形で患者さんの積極性がみられるように思う。例えば、日々病棟で農耕常連メンバーと出会うと「そろそろ大根を植える準備をせんと。うちでもこの前、植えたそうな」と早くも次の計画づくりをしているし「病院でブラブラしとるより、いい汗をかいてからだを鍛える方が気持いい」と若い患者さんがいってくれたり「きょうは暇だし、畑の草が気になるから草ひきでもします。道具を借して下さい。」と作業日以外にもいってきたり。こちらが意識的に行ったミーティングなどより、ずっとすばらしい結果が今のところ出ているように思う。 3 今までを振り返って 私にとって、この3年間は暗中模索の中、思いついたことは何でもやってみようという時期であった。そして今、あまりに多い反省点、問題点につきあたるとともに少しずつではあるが仕事に対する実感を味わっている。一般的に薬剤師の職能として(1)医薬品管理と供給、(2)調剤・製剤、(3)試験・研究、(4)医薬品情報の提供、(5)病院内他部門への協力、(6)患者さんとの関係、があがる。この中で私が特に大事だと思っていることについてふれてみる。  まず、(1)医薬品管理と供給がある。先にもふれたが、「まきび病院」の薬は多種に及ぶためそれらをいかに回転よく仕入れ、使用していくかが問題となる。購入は1ヶ月単位で考えていくが在庫はほとんど置かないというスレスレの状態にしている。医薬品は大変高価なもので、またその価格のしくみ自体も不可解でこうなると自分で薬をつくるしかないのではと思うぐらいだが、病院での様々な活動資金づくりのためにも、無駄のない購入計画が必要となる。現在、医局との連絡会をもって大まかな薬の使用状況の把握、使用医薬品の削除、追加などの決定を行っている。  次に(4)医薬品情報の提供である。これは先にも述べたが、今のところ、あくまで基本的な情報しか、他スタッフヘ提供していないのが現状である。抗精神薬においても新薬が次々と出され、また既存のものを含めて作用がクリアカットに解明されておらず、用量においても患者さんまた使用者によって大きな幅があることなどからも、もっと専門的な情報収集がこれからの大きな課題である。  (5)病院内他部門への協力も大切な問題である。「まきび病院」では看護業務の繁雑さは並大抵のことではない。私なりの理解では、他部門への協力とは看護者がその業務の繁雑さから少しでも開放され、ゆったりと患者さんのそばに居続けることができるよう、できるだけ目配りしていくことだと思う。これは日常的な忙しさからついついおろそかになりがちだが、いつも基本において仕事をしていかなくてはならないだろう。  最後になるが、(6)患者さんとの関係は最も難しい課題である。薬局を開放している分、患者さんからの薬についての質問は多い。また電話での問合わせも少なくない。そんな時、すべて明確に答えるのが原則である。ただし、頭には本人に医師がどんな説明をしているかが浮かんでいるし、相手が不安を抱かないよう注意が必要である。先にもふれたが、服薬は医師と患者さんの協同作業である。第3者として、薬剤師として、相手が私の許へもってきた薬に対する不安のみを取り除き、余計な事はしない!!を念頭においておかなくてはならない。  以上、3年間の実感として述べてきた。文章にするとどれも「当たり前」のことだが、3年間の月日と共に私にとっては大きな成果である。ただ、これだけのことが私に本当に成し得るのか、大きな疑問として毎日私を苦しめてはいるが。  不幸にも、大学に入ってから薬学に関わる仕事にまったく興味を失ってしまった私にとってこれからの一生、何を仕事として生きていくか、零から考え直さなくてはならなかった。  そんな中、たった1つしてみたいこと、そしてそれは現代の就職状況では不可能と思われたが、それがかなえられる職場を得たことをひどく有難いと思っている。そして、私の望むようにこの職場、「まきび病院」で過ごさせてもらった。これは日常的な周りのスタッフの援助があってこそできることだし薬剤師がレクレーション活動に参加していくことが、また患者さんに接することではプロとはいえない私が患者さんに関わっていく中で他のスタッフに大きな不安、迷惑もかけてきた。自由な舞台でのびのびとふるまわせてもらう中で、私はやっと一生、していくべき仕事を自覚できたように思う。 第6章 事務より 1 当院における事務の役割 暗中模索のうちに開院を迎えた事務であった。事務所は医療事務、経理事務、受付、売店、電話交換、院内保守管理、車の管理、薬局助手、レントゲン助手、地域との折衝などをしてきた。院内における無資格の業務は栄養部門を除いてはすべて事務所の受持ちとなった。 企業感覚あり  全開放だ!「当たり前」の医療だ!等々の「まきび病院」の謳い文句の中で集まってきた有資格者、医師、看護士、看護婦、薬剤師、栄養士、それに相談室部門の人たち。問題意識をもってきた人たち、院内で問題意識をもたされた人たちの共通点は医療馬鹿になりやすいということだ。医療の技術的向上はきっとあるに違いないが、人間的に普通の人でない人、なくなっていく人たちが多々見られる。対数字、対金銭、対患者、対普通の人(と本人は思っている)など、対象は種々雑多であり、頭と精神の切り換えをうまく行い、時にはつまずきながらも毎日を切り盛りしている。どのようにすばらしい施設と優秀(ばかりでなく、ユニーク)なスタッフが揃っていてもそれが数字として表れない限り企業として成り立つことはできない。ロの悪いスタッフからは「点取り虫」といわれてもスタッフの生活は事務所が支えているのだ、と自らを鼓舞して甘んじて受けている。これまでずっといい続けてきて、これからもあく事なくいい続けていくであろう、一点を大切に!! ちょっと不思議な受付 「まきび病院」の受付とは、トンネルの入口と出口に似ている。暗黒の世界に入る前の不安と緊張を少しでもやわらげる役目をし、ほっとして出てきたときの安心感を助長させる役目。かなり大袈裟に、大胆にいえばであるが。  受付は病院の顔であり、来院者が院内で初めて顔を合わせる人間であり、場である。来院者の多くは自身の病気に不安をもち、家族たちはどうか良い先生であり、安心できる雰囲気の病院であることを切望しているはずだ。我々は時として無理をすることはあるものの、ごく普通の気持と態度で対応する様心がけている。  外観は他施設と少しも変わることはないが、やはり心療内科という看板を掲げた施設である。心療内科の患者さんに対する見方は偏見によるところが大きい。はっきりとある種の言葉を遣って「ここへ入院している人は全部の人があれかな?」とか、中には「ここで注射してもらったら良く効いて疲れが取れるんじゃけど、病気が伝染するんじゃないかと心配じゃあ」など。何と40代の男性の言葉である。私自身とて以前は似たり寄ったりの考えであったから単に批判はできないが・・・。その中で地域のお年寄や子供たちが受診してくれることは、「まきび病院」にとって重要な意味をもつ。乳幼児の泣き叫ぶ声、待合室を走り回るスリッパの音、躁状態の入院患者さんのとめどもない大声のおしゃべりと歌声、その中でじっと順番を待って下さるお年寄のちっとも不思議そうでない顔。当院を初めて訪れた患者さん、特に他施設の精神科を経験した人にとっては驚きではなかろうか。これこそスタッフ全員の願いである地域に根を下ろした、真備の風景の中に溶け込んでしまう、この地に建っていて「当たり前」の「まきび病院」になりきった、とはいえないまでもかなり定着している施設、その度合いがいちばん良くわかるのも受付である。  最初は自分自身ずい分と無理をした。未経験のことではあり、やはり心療内科という特殊性をもっている場である。まず危惧感、刃物をもった人がくるのではないか、暴力を加えられるのではないか等々、自分自身虚勢を張っていたこともあるが、でも振り返ってみるに懐かしく思い、自分にもやれる、という自信をもてるきっかけになったのは、なんと流涎激しい患者さんである。  開院して間もなく岡山市よりTさんという方が来院した。顔は赤く流涎が激しい。受付のカウンターにタラリ、タラリ、飛び退きたいのを我慢する。拭きたい気持もこらえる。「S先生に診てもらいたいんじゃ。調子が悪いんじゃ」またもやタラーリ、タラリ。たったこれだけのことでと思われるかもしれないが私にとっては大問題、この人で少し自信が着いた。少々のことではぐらつかないという自信である。懐かしい気持の良い患者さんであった。1度院外でバッタリ出会ったことがある。「Tさん」と呼びかけてみた。憶えていてくれた。「まきび病院の受付のお姉さんかな、元気かあ」Tさんは外来は他施設へ通院しているのでもう2年以上お会いしていない。その他酔って玄関先に寝転んだ人、待合室で喧嘩をする人、あまりの待時間の長さに憤慨して帰った人、いろいろな人がいるが私にとってTさんは今でも時折思い出す人である。そして5年目までこの仕事を続けられたという恩人といえるかもしれない。 2 ふれ合いの受付  「まきび病院」の受付が他施設と大きく相違する点の1つに受診券がない、という点がある。そのため、顔と名前とできれば病気の内容をある程度把握していて、次回来院時には「〇〇さんですネ、いかがですか」と、こちらから呼び掛けができるようにと心がけている。2〜3ヵ月に1度来院、という人もある。「こんにちわ。お願いします」「こんにちわ。あまり時間はかかりませんから少しお待ち下さい」にこにこと挨拶を交わした、がさて名前が出てこない。え〜と、え〜と誰だったかな相棒がいればいいのに、今日に限って休み(相棒は記憶力がとても良いので大いに助かる)。今更「どなた様でしたかしら」などと聞きにいけもしない。確か、カルテ棚のこのあたりからいつも出していたような気がする、頭をフル回転させる、早く捜さないと順番が来る。「あっ、あった、この人だ」もう汗びっしょり、1度や2度ではない。診察が始まってから、カルテが違っていたということもあった。診察が終わり会計をして薬を渡しながら「よかったですネ、薬が少し減りましたヨ」我事のようにうれしくなってしまう。「まきび病院」の受付では心療内科の患者さんには「お大事に」という言葉をなるべく遣わないようにしている。いかにもあなたは病人ですよ、という気持を当人に植え付けてしまうような気がして遣いたくなかったのである。そのかわりとして「お待たせしました。お気を付けて」という言葉を使っている。受診券がないという事はそれなりに苦労はあるものの人と人とのふれ合いがあり、患者さんたちがより身近に感じられるように思える。  そしてもう1つの点は、初めての患者さんに訴えの内容をお聞きすることである。「今日はどうなさいましたか。どこかお悪いんですか」など、大ざっぱな内容をカルテに記して診察室へと回して行く。この内容次第でインテークのため相談室へ、またはすぐに医師へとなるのである。 はい、まきび病院です    午前8時30分より、午後6時まで電話交換手でもある。この間約70〜80件、医師に、相談室に、詰所にと大忙しである。患者さんより医師にかかる回数も相当な数に上る。その中ですぐ医師に回す必要のある相手、外来診察が終わるまで待てる相手、看護婦と話せば納得する相手、と実に様々である。患者さんの最近の状態と声の調子、それと診察中の患者さんの状態を考慮して電話をつないだり掛け直してもらったりしていく。そのためにも外来患者さんの状態をある程度認識しておかねばならない。他施設で当院を紹介されたが来院前に少しでも知識を得たいと思い、遠方より電話をかけてこられる御家族もある。どのような病院か、診察は毎日どのようにしてあるのか、カウンセリングは、作業療法はあるのか、病室は鍵がかかっているのか、等々我が息子我が娘をまかせるに足りる内容の施設であるかどうかを聞くためである。その気持に答えるべく、大袈裟にならぬよう誠実に事実だけをお答えしている。声だけのやり取りは実に難しいと思う。  病院までの距離はバス停より歩いて約15分、入院患者さんにとって当院は静かで見晴らしはとても良い所なのだが反面、不便な場所でもある。いちばん近い食料品店はバス停のそばにある。そこでおやつ程度の食料品や日常生活品を少しずつでも置いてみては、ということで1982年3月より始めてみた(タバコは最初から置いていた)。特別に売店の場所が取れないので、玄関、待合室、廊下のスペースにショウケースとアイスボックスを各1台ずつ、事務所内の棚のあいている所にも洗剤や歯ブラシなどが所狭しと並んでいる。売店とは名ばかりの極小規模の店である。また遠方よりの患者さんが多いため、公衆電話の頻度が高い。便宜を図って100円硬貨、10円硬貨に両替していたのだが入院者数も増え、その回数もうなぎ登りとなったため現在では両替機を待合室に設置している。  そしてもう一つ患者さんに便利なようにと私設ポストを玄関横に設置している。それ以前は預かった郵便物を職員がポストに投函していたのだが郵便局がバス停のそばにあったので毎日この作業が大変な労働となり郵便局にお願いしてポストの設置となったのである。  以上いろいろと開院からのことを思い起こしてみれば枚挙にいとまがないが、現在まで事務所が行ってきたことを列記してみた。「まきび病院」の「当たり前」の医療の中での「当たり前」の受付役、売店のおばさん役がほぼ抵抗なくできるようになったのが開院3年目くらいからだろうか、「当たり前」の医療の意味が少しわかりかけてきた頃からであった。そして5年目の今この気持を継続させていくことの難しさをしみじみ感じている。 第7章 「私にとっての精神医療」1 1 「チチ、クルウ」  ある年の正月、「チチ、クルウ、スグカエレ」という電報を受け取った。大阪では、珍しく重みのある、勢いをもった雪が規則正しく降る日だった。送別会をもってくれた友人たちにそっくり持ち物を分配し、大阪を引き揚げ岡山に戻った。  山合いの、小さな集落の隅っこで、<どこかの馬の骨>に、耐え続けてきた父に、限界がきたのだと、私は父の狂いを素直に納得した。私たちは、故郷喪失者であり、他国者であった。子供の頃の私は、「戦争さえなかったら・・・」という母の嗚咽をたびたび聞いたし、ボロ布のように、寡黙で、無抵抗な祖母の背に、訳もなくわびるような心情になったし、朝鮮焼酎で魚のうろこのように虚ろな父の目が突然、カッと血走るのを見て戦いていた。  ある時、父が、行き倒れになった親子連れをかつぎ込んできた。「メシ!!」「湯!!」「火を焚け!!」父の声が矢のように激しい。母は訓練された兵隊のように、無駄なく、音なく、てきぱきと動いてく。  回復した親子連れが礼を言いながら何度も頭を下げて、峠を下った日、米櫃はカラになり、乏しい生活は、底をついていた。腹をすかした3番目の弟が、たった一言、 「おなかが、すいた・・・」 と言った途端、父の平手打ちが弟の頬にとんだ。2番日の弟が、 「貧乏は、僕等のせいじゃあないわ!!親に甲斐性がないけえじゃあ!!」 と体ごと叫んだ時、父は寂しさと怒りを気配に残して出て行き、 「親を馬鹿にするのは、まだ早いよ」 と言って、母も口をきいてくれなかった。赤い腰巻き1枚で山越えをしてきたとなり村の気のふれたオッサンと、囲炉裏を囲んで、酒をついでやったりしていた父。−正直者が馬鹿をみる−という世の中の、不敵な棲息を、父を通してでなく、生きることの中で納得し始めていた当時の私にとって、狂った父が何人もの人の力で登ったであろう病院に続く白い坂道を、ゆっくりと登りながら、これでもか、これでもかというほど後を断たない思い出が、くずおれそうになったり、かたくなになったりして、歩行を乱していた。坂を登りきった所に立ち、呼吸を整えた。これから会う人たちは、父にとって、私にとって、敵だろうか、味方だろうか、祈りたいような挑みたいような、混乱した緊張が続いていた。受付の小窓の向こうで何人かがヒソヒソとやりとりを交わし、盗み見るような視線が、私を撫でる。症状が悪いということで、父の面会はさせてもらえなかった。  外来の診察室に呼ばれ、妙に老け込んだような、まだ若いような姿勢の悪い医者の前に通された。病名は、アルコールセイゲンカクモウソウと説明されたが、素人の私には、当時聞き慣れない言葉で、父の狂いのイメージにはつながらなかった。私は医者に 「キチガイですか」 と率直に聞いてみた。医者は、私の質問に対して、 「はい」とか、「いいえ」とかいわないで、「おとうさん、ずいぶん頑張って来はったんですねえ」と言い、「ご長女ですね、下に弟さんが3人居られて、おかあさんも、頑張ってはるんですねえ」という具合に、父が『キチガイ』であるのかないのかという核心からはずされていった。  明らかにされなかった父の症状については、何回目かの医者との面接の際に聞くこととなるが、一面識のおりに私の質問に答えなかったのは、母からの希望であり、医者の配慮であったことを私は後日知る。「おとうさん、ずいぶん頑張って来はったんですねえ」といった医者の、大阪言葉が消えずに残った・・・。  その年の秋、私は父の入院している精神病院に勤めた。とにかく父の状況が知りたかった。どんな細かい情報でもいいから欲しかった。1日も早く、面会許可をもらって、自分の目で、父を確かめたかった。全体が固く荒削りの感じがする建物、底冷えのする湿気た暗い廊下、ズッシリと重く軋んで開き、ヒンヤリと後押しされているように閉る鉄扉、そのなかに疲労と倦怠が蠢めき、錆びかけた鉄格子の向こうから、冴えきった活気が、転々してくる。(「おとうさん・・・」)どんな苦労にも耐えてきたつもりだったけど、来る所まで来てしまった。ほんとうの意味での苦労は今、始まったのかもしれない、そんな想いにならざるを得ない状況の中にすでに足を突っ込んでいた。汚い仕事、重い仕事、危い仕事、寒い仕事がいくらでもあった。ピラミッド型組識の底辺で好奇の視線を感じながら、父の面会を支えに働いた。  初めての面会の日、父は痩せて、目を窪ませ、髭が伸び、爪が伸びて、涎をたらしていた。すき透った手の甲に蒼白い細い血管が弱々しく浮いて見え、10本の指先は小刻みにふるえていた。涙が出そうになるのを奥歯を噛みしめて、じっとこらえた。「精神医療とは何ぞ」という想いが突き上げてきた。腰に鍵の束をぶら下げた看護士が、「里見、この人、誰かわかるか」 と立ったままの姿勢で父に聞く。父は看護士の声の下で、よくまわらない舌をもつれさせながら、 「ム・ス・メ・ユ・リ」 とおどおどしながら答える。私は座ったままの位置から看護士の腰の鍵の束をじっと見ながら、父が医療者に「里見」と、呼び捨てにされたことの、激しい怒りをかろうじて抑えていた。面会を辞する私を励ますつもりであったろう老看護婦の「平ちゃん、よかったなあ、娘さんにありがとう、いわにゃあ」という言葉がもう、私を駄目にしていた。ここでは、父は「里見」であり「平ちゃん」でしかない。私は、何かにつまずき、何かに搦めとられていく。覚悟が必要であった。 「『開放、開放』と言うて、患者にばあ味方をしている医者が居って、困っとる」という話を同僚から聞かされたのは間もなくのことで、その医者は一色といい、大阪言葉が抜けきれない街人間だと教えられた。  ある日、父に面会に来た人がいるがと事務の受付から私に、問い合わせがあった。会ってみると、どこか見覚えのある中年男性が、こっちに向かって、ていねいに頭を下げた。父がまだ景気のよかった頃、使っていた若い衆であった。「親方が悪いと聞いて、とんできた」という。親戚でさえ、まだ父を見舞ってくれていなかったのに、昔、父が使っていて一寸面倒をみたというだけの人が、父を見舞ってくれた。そして、その若い衆から父のことを聞いて知ったという「親方には世話になった」「親方には恩がある」という、突然の来訪者があった。まだ、空に星が残っている頃、仕事に出かけ再び、空に星が出る頃まで働いて帰るという、ギリギリのふんばりにいた母や、途方もなく虚ろで声のかけようもなくなっていた弟たちにとって、若い衆から「奥さん」といわれ、「ぼん」といわれていた、昔のままの律義に出会うことが、どれほどのぬくもりであったか忘れようもない。この時私は、「知る人ぞ知る」を、よしとする人生を決めた。  それから10年近く私は、医療者側の看護婦であり、患者側の家族でもあるという、2つの立場に狭まれて、激しく、爆発しそうな感情を、おのれの手で捻じ伏せ、窒息しそうな状況をおのれのたましいで抑圧していった。 2 病む人たちとの出会いの中で  Jさんが、急性期治療病棟に入院して間もなく、幻聴によって詰所のガラスを割るという行為があった。Jさんは病棟の東の廊下の突き当たりの保護室に入れられた。Jさんの病名は忘れたが、入院して来たときから何かに脅え続けていた。薬を服用しても不眠がちの夜が重なっていた。幻覚が激しくなると、Jさんは狭い保護室の中を、ありとあらゆる角度に体をぶつけながら、悲鳴をあげ、両手を合掌し床にひれ伏し、またとびのいてひたすら逃げる。私は格子の裾にしゃがみ「大丈夫よ」という声を、みはからって時々かける。発作のような恐怖の波が引くと、Jさんは「居ってくれたん」と、すずしい目になる。「看護婦さんの仕事、えれえなあ」とJさんがいう。「Jさんの仕事も、大変よねえ」「僕の仕事は、誰かさんのタマよけじゃ」といって笑うと、素朴な顔に苦い想いが見え隠れする。Jさんは、私と同世代の年齢で、職業は機動隊員。出身は県北の農家で、お父さんには1度お会いしたことがあったが、正直一筋、真面目に働いてきたであろうことを思わせる説得性が、風ぼうの中にあった。狂いの中で病むことはJさんにとって初めて、精神病院も初めて、入院も初めて、保護室も初めて、幻聴と妄想の波がわずかに、引き潮の兆しをみせる安心と安堵の束の間の時に、Jさんはそういっているようなまなざしで、こっちを見るのである。  被毒妄想が強くなると、Jさんは運んだ食事に戦く。トイレの水をかけたり、小便をコップに汲みおいて、箸や食器を毒よけのまじないをする。神経を琴線のように張りつめて、病いの中で疲労し、痩せていくJさん。1食でもいい、安心して腹に足る食事を食べてもらいたい。Jさんは私に食べてみてくれという。トイレの水や、小便で、毒よけの儀式がなされるためにいじくりまわされた食事、ためらいはある。素人の私には方法がない。私は、箸の上にたっぷりの御飯をのせて頬ばり「ほら、なんともないよ、おいしいよ、食べよう、食べて元気を出そう」と言う。Jさんは「もういっペん」「もう一口」といいながら、凝視している。やがて、Jさんは私の手から箸をとり上げ、ガツガツと食べていく。シャツや、パンツまで裏に表に返しながら、敵が仕掛けた罠はないかと確かめないと更衣のできなかったJさん、Jさんは人に対して敏感に反応し、スタッフに対しても警戒心の強いところがあったが、何故か私を受け入れてくれた。  ある年の9月23日の朝、Jさんは穏やかに目覚めた。歯磨と洗顔を、格子越しに介助する。シャツとパンツを更衣するとき、Jさんは、 「恥しいからいいというまで、見ないようにして」 と言う。その朝のJさんはそのまま、仕事に出掛けても少しもおかしくないほど落ち着いていた。「今日は、気分がいいよ」「よく晴れてるよ」と、挨拶を交わす。狭い通路を、へだてた格子入りの窓を開けると、サーッと秋の風が周りを一巡する。急斜面になった、土手の青草が、朝露を払ってゆれる。少しでも外に触れようとするかのように、格子にぴったり体をくっつけて、思いっきり、背伸びをするJさん。こみ上げてくる看護婦としての充実感。  深夜勤務を終えて帰った私に、同僚の看護婦から電話があって、午前11時××分、Jさんが縊死したことを知らされる。茫然自失のしばらくの後、私は、Jさんのいった言葉、症状の中での行為、穏やかなときの思慮深いまなざしと、あれこれを忙しく自分の中に掻き集める。しかし、なんにもならない。「何故」と「無念」が、私の中の力を抜きとっていくばかりである。1人の患者さんが自死したと、事を断つには、Jさんの1つ1つは、壮絶すぎた。看護婦のいちぶんも果たせなかったとわびるには、軽薄すぎる。雑用に追われる日々の中で、病むという症状をもつ人の苦しみと向かい合い続けて、苦労もし、あせりもし、疲労もあったが、喜びという手応えをハッキリ感じた今朝が最後になったという、この打ちのめされ方は、「・・・とは」と、いう多くの問いを、四分五裂にして私の中で横たわったままである。  ある夜、Kさんという1人のお年寄が亡くなった。元気な頃、入浴介助をする看護婦たちに、背中から二の腕にかけての刺青を自慢したり「極道のなれの果てじゃ、すまんなあ」と、涙もろかったり、どこかひと味違うお年寄であった。老衰で死期迫るある日、 「息子に会いたい、大阪にいる息子に会いたい、あの子も体が弱くて仕事も不調で、呼ぶまいと思うとったが、会いたい」 と看護婦の手を握って、咳込みながら泣かれた。心のふるえが、手から手に伝わってきて、ゆさぶられた。臨終に、息子さんが間に合ったか、少し遅れたか覚えていないが夜、息子さんは、病院に来られた。息子さんに問われるままに、Kさんのことをお話した。息子さんは質素な背広のポケットから、ハンカチを取り出し、長いこと目をふさいでおられた。先輩看護婦が、チリ紙に包んだ物を私の白衣のポケットに入れて、もらっておけという合図を目やら、手でするので、一応いわれるとおりにした。無性な腹立ちと、言い難いさみしさがあった。チリ紙の中に、500円札が1枚、4ツ折りにして包まれていた。Kさんの息子さんの臨終の世話をした看護婦への気持だという。  朝、夜勤明けに霊安室に向い、Kさんのお焼香をすませ、昨夜の包みを供え、 「お線香をあげていただけたら」 と息子さんにいうと 「親父が、喜びます」 と深く頭を下げられた。「少しいいですか」といわれ身の上話をされた。複雑、多難なKさんの生涯を初めて知った。息子さんとKさんには血のつながりはなかった。Kさんの義理と人情の生き方の上での息子さんであった。息子さんはKさんの比類ではなかったが、誠実な人であった。「ごらんのとおりで、たいした所に住んでませんが、大阪に来られたら是非、寄って行って下さい」とニッコリ笑った顔が忘れられない。  病む人、イコール廃人であるようなそんな馬鹿げた空気が漂いよどんでいる中に、永くいすぎたという想いにかられ始めていた。 3 退職  営利的、保守的、管理組識下にあっては一介の看護婦の論理や実践が、どれほどの苦労を土台にしてのものであるかなどという正統論などまかり通らぬことを頭のいい人は、しっかりと心得ている。自分の宣伝と評価と、存命と延命のためには、昨日の味方は今日の敵という、見事な変身術も見せられた。人としての誇りも、看護としての意地も、御上の体制に迎合していくとき、すんなりとしなやかであった。そんな中で父が世話になりながら、しなやかになれなかった私の頑固さを嘆く母がいた。葛藤して力んでいる私に、肩の力を抜けと励ましてくれる同僚看護婦もいた。下積み10年の私のありようを、受けとめて泣いてくれるナースヘルパーもいた。親のために、踏みとどまれ、やがてあんたたちの時代が来るとさとしてくれる中間管理職もいた。病院単位、あるいは詰所単位という集団組織の中では決して見せないその人の「個」の、もち分のよさに出合った数は多い。  父の病気は、急性から慢性へ、慢性からコルサコフ症候群へと移行し、治癒の望みは断たれたが、疎通のいい日の面会が私を体の底から炎にしてくれることもあった。精神障害者の父と、その病む者を父とする娘が、看護婦として、決して目をそらさず、見続けていかなければならないという憑依のようなものが、私を直線的にしていた。父は、不幸にして精神障害者であるが、父そのものの存在がまるごと障害者になりはてたわけではないという熱い想いが、私の思考の底を這うことがある。私の中に、父の生きざまが確かにあって、臨床現場の看護の中で、とても難しい状況で患者さんと相向かわねばならないときでも私は、私のほうから後ずさりしたり、人の背に隠れて、ものいうなどすまいとふんばる。昔、父が気のふれたとなり村のオッサンと、囲炉裏を狭んで酒を飲み、オッサンが赤い腰巻きで奇妙な踊りを始めても、けむたがりもせず、手拍子を打っていたのを思い出すと、決して怖いとか、けむたいとか、うっとうしいとか、面倒くさいという壁を、こちら側から作ってはおしまいなんだという、父の声がするからである。  あんなことはすまいぞという気持と、こんなことがしてみたいという気持の均整が、私の中でとれなくなってきていた。そして、何よりも「患者の味方ばあして、困っとる医者」が、すでに現場から姿を消してしまった後、病む者の側に立って叫ぶ声などビクともしない壁があった。1981年4月退職した。6月、全開放病院として開設される、「まきび病院」にとび込んでいった。 4 開院当初  開院当初の私の驚きは、まだ見ぬ世界を見たという想いであった。一色隆夫という人間の足下に集まった人間は少数であり、私を含めて素人衆と、精神医療のイロハを少しばかりならという半素人衆という具合に、決して精鋭とはいかなかったにしても、集まった面構えは、精神医療という複雑多岐な問題をしっかりと自分の中に引きすえて、一歩も引かずという人間衆であった。苦悩することを知っており、奥悩した挫折を秘め、明暗掻き分けて戦うことを知っており、どしぶとく自他の足場を固める忍耐をもっており、許すことと許さぬことの機微を心構えている人間衆であった。人間に視点を裾え、精神医療の遙に展望をおき、病む者を地球的視野で、洞察していた院長一色の苦悩や、それを深く共有していた副院長佐野をはじめ、支える衆の抑圧的思考など、汲みとる術もなく、私たち看護婦はまこと素人芸を駆使して、多忙をきわめていった。 「人間にとっての当たり前の医療とは」という、暗中模索の火蓋は、病む者と、病む者をもつ家族と、病む者と共にあり続けようとする医療スタッフとそれらを支えてくださろうとする人たちの上に、切って落とされたのである。  こと精神医療ということに関しては、初舞台に等しい私たち看護婦であった。新しい場所での新しい出会いの詰所であった。伝統もなく、体制もなく、規則というほどのものもなく、そして空間は格子なき開放病院であった。入院のための荷物を両手に下げた家族に狭まれるようにして訪れる患者さんを迎えるとき、私はキューンと胸が熱く痛む。病院に続くこの坂道を、どんな葛藤と、抵抗と説得と恐怖と絶望と、混乱と願いと祈りが、患者さんと家族の気持の中をゆきかったのであろうかと思い「お願いします」といって、両手の荷物を置いたとき、その方たちの人生の重みをドサッと、手渡されたような衝撃を感じてしまう。看護婦とはを手探りし、人間が人間としてあるということはを自問自答し、私たちはどうあればいいのかの投げかけをやり合い、きわめてクソ真面目な、手間暇のかかる看護が始まった。1人1人が=1人立つ=の覚悟のいる抜き差しならぬ状況であった。  食欲のない患者さんには、せめて好物をとふかし芋を作ってきたり、季節はずれの果物を看護婦が自前で買ってきて食べさせる。不眠の患者さんには、一晩中付き合い、不安の強い人には添い寝をする。幻聴で外に走り出る人がいると、その人がその行為をしなくなるまで夜昼、毎日追っかけて行き保護する。詰所は、日夜オープン。詰所の椅子を患者さんに占領されてしまって、看護婦は、立ったまま記録をする。患者さんにゆったりと、のんびりと、伸び伸びとしてもらい元気が出てきたら、自分の生き方を決めていってほしいという気持が、看護婦の中にあって、狭さも、忙しさも、賑やかさも、苦としない。日勤者5〜6人という勤務は、常識論からいえば過酷であった。患者さんを受容し、病むという症状の至近距離にい続けるために、昼食も取らないまま働くという体験を草創の看護婦たちはしている。夜勤は一人。何があっても一人だ。急性期、アルコール依存、お年寄、思春期、内科の入院を全部ひっかかえ、24時間体制の電話を引き受け、夜間の緊急入院と救急車での外来も対応する。添い続ける看護婦、動き続ける看護婦に、思春期の患者さんが「飲みねえ」とコーヒーをいれてくれる。患者さんに付き添っているご家族が「何か手伝うことがあったら、遠慮せんというて下さい」と詰所に来られ、そのまま話し込むということもある。  ともあれ、私たちは幸か不幸か、狂いという症状、病むという人の前には何1つとして、もち合わせるものがなかったゆえに、ご家族や患者さんから「看護婦さん」という、あの畏怖のこもった呼びかたをされたことがない。ご家族にも、患者さんにも、まったく違和感なく「○○さん」と気楽に呼んでもらっている。一方、素人ゆえに患者さんや、ご家族から、私たち未熟者が学ぶことは多い。私たち看護婦の成長は看護上で、抜き差しならぬ必須条件となってくる。助っ人は、不眠不休に近い医者たちである。当時、外来の看護婦は、医者が食事を摂るのも、トイレに立ったのも見たことがないと医者の体を心配していたし、病棟の看護婦はこれ以上、医者に無理はさせられない、せめて自分たちでふんばれるところはふんばりきろう、と言い合っていた。小粒な私たち看護婦がおのれ自身の限界に負けまいとして、意地だけでやみくもに走った時代だったといえる。「まきび病院」の看護婦に期待していてくれた人があったとしたら、私たちは、申し訳ないほど、力量不足ではあったが弱音だけは吐かずに、病み狂うという症状をもつ、底知れぬエネルギーに対峙し続け、素人なりに前を向いて、踏み分けて歩いた道があったと言いたいのです。 5 転換期  患者さんが外来も入院も急増しスタッフの方も補充、補充で狭い物理空間に人が膨れ上がってきた。1人が何役にもこなしていた仕事が専門化され、細分化され、多様化していった。それは、徐々にというなまぬるいものではなく、急激に変化していく力をもっていた。心を病んだ人たちに対して、熱い想いしかもち合わせていなかった素人の私たち看護婦は、自分たちの熱と力で作り上げた古き良き時代に1部しがみつきながら、新しい激流に足元が決壊して、指標の見えないまま、押し流されていきそうだった。違和感が想い想いの溜息の中に漂っていた。  はしゃぎ、騒音、不眠、トラブル、盗難、限りなき甘えと依存、理解しがたいルーズとエゴ、そういうものが底知れぬパワーで濁流し、日常生活の中で問題として浮沈する。看護婦たちの申し送りは悲鳴に似て、(「私がやらにゃあ、誰がやる」)という、草創の息吹は消失し濃い疲労の中に、混乱の憤怒があった。「ゆっくり休みたい」「もう無理じゃ」と、喘ぐ声が続いた。私も寝込んでしまった。  頭痛と不眠の続く布団の中で、天井をにらみすえて、「何故」「何が」と、堂々巡りをしていた。「夢でしかないのだろうか」と逡巡する。「しょせん、共存とか、共有とか、病む者と共にあり続けるなんてこたあ、できゃあせんことなのだろうか、人の苦労の上に胡座をかいて、スーパーマンじゃないんよ、こっちだって生身の人間なんよ」言訳がこみ上げてきて仕方なかった。人は深く思い沈んでいるときがあれば、爪先で歩いていることもある。そういう面ではスタッフとて同じ悩める人間である。接触はあるときはみっともないほど脱線したり、黙りこくって返事が出なかったり、お互いに気持の中では、相手の非を撃ち合いながら、まろやかな交渉を成り立せ、硬い微笑を共有し、拘わり残った疲労は、ますます意志の疎通を沈滞させ、飴にまみれたような不快感がまとわりつく。スタッフ間の歩調の合わない看護、患者さんにとって入院しているということは、何がどうなのかということが見えなくなった看護、病むに至ったその人のあまりにも長い歴史、狂気に至ったその人のあまりにも重い命の深淵、患者さんを人間としてまるごとみてとれる看護の誇りは、わずかに何人かの看護婦が意地と執念で、もちこたえているにすぎない。  一方、患者さんも症状そのものは消滅し社会復帰の可能な人も、へばりついたように動かない。若い思春期の人たちも、次の段階の方針に乗っかかれず群れをなして開き直る。闇夜に提燈なしであった。このような想いに転々しながら、現場に一歩を踏み出すことのできない日が続いていた。「精神医療とは何ぞ」という想いが呟きとして出てくる。  ある日、手紙の整理をしていて、L君の手紙が、私の中途半端な気持を猛省させてくれる。  母よどうかこの私を許してやってくれ。私は小さい頃からずっと「鍵っ子」だった。兄はいたが仲が悪くいつもけんかばかりしていた。私はその頃夜遅く帰ってくるあなたたちを見て、くやしくて情なかった。友だちの家の「おかえり」がどんなにうらやましかったか。しかし私が大きくなるにつれ、事情も飲みこめた。  しかし、批難するわけではないが兄は大学にストレートで入り、私は路線を外しつつ心の病いを治すため病院に通院し、入院した。そして今も入院している。昔から兄のほうが何かと親に迷惑をかけず、逆に私は迷惑のかけっぱなしだった。いつもあなたたちとけんかばかりしていた。否、今でもさらにエスカレートしてけんかしていた。もう私はどちらが悪いなどということは、どうでもいいはずだと思っている。何故ならば、私はあなたたちに金を使わせ、近所の人に対する面目を丸つぶしにさせ、そして何よりも心の傷を限りなく負わせた。そういう風にさせたことはこの私に責任があるからだ。今は悔やんでいる。悔やんでも悔やみきれない。ええ、もちろん今から悔やんでも、もう間に合わないということなどわかりきっている。しかし、この私のパーソナリティでは、こんなものなのだ。  これから私はどんなちっぽけでもいいから親孝行していくつもりだ。これ以上私に親に迷惑をかける権利はない。そりゃあ、中にはこの望みどおりのこともできないかもしれない。しかし、私は私なりに精一杯あなたがたに、今現在このとき、18年間のお礼をするつもりだ。母よ、どうかこの私を許してやってくれ  2年前の夜勤の時、L君が詰所に来て、おのれを語った後、私の膝に伏してオイオイと泣いた。その時、同世代の他の思春期の子が「私なんかも・・・」とか、「僕かて・・・」と口々に語った光景を思い出す。L君が泣きやんだ後に、親への本当の気持は、一生かかってもいえないだろうからと、代理の母に伝えておくといって書いたものである。  激しく自他を嵐にさらして、伸びようとするゆえの途轍もない強靱さと純粋さが、何故ここまで屈折し、遠回りをし、苦悩せざるを得なかったか。大人たちが、おのれの中の傲慢さをえりを正すことによって、すりきれるほどに軋んだ道のりが、どんな理論や方法よりも明確な道のりにしてくれはしまいか。  無性に子供たちに会いたくなった。気持を一掃して立てば、看護詰所は第2のふるさとのように落ち着ける場所でもあった。「まきび病院」の看護とは、という手探りの中でのおぼろげを、沸騰しそうな想いのたけを語り合わねばと思う。視線の端に映るは、それぞれの生きるテーマの違いの中で、忙しさだけが、唯一共通に見えて、−独りぼっち−という、恐ろしいまでの孤独感に放り出されている自分を見るという、発作のような無力感に襲われた。半端者には半端者の生きざまがあっていいと、弱音をえぐり返して、開き直るしかなかった。暗い疲労が愚痴につながるのを恐れた。  私にとって当時、自分をひきたたすのに、パート医の出会いと存在が幸いした。やたらと横文字をしゃべる医者や、今まで出くわしたこともない問診のやり方に、うんざりする日もあったが、無口で無愛想な医者がトラブルを押さえ込み、互いの人格が成り立つようにしてくれた見事なお裁き、小柄でマンガの主人公のような医者が自傷行為を起こした女の子にかけた時間と額の汗。「センセ、遊ぼ」に本気で半日も遊んでしまった二枚目先生。パート医の訪れる日祭日は、世間にさらされたときの自分は、いかほどの人間でしかあり得ないかを自分の中の倦怠と傲慢を打ち払うのに役立ち、患者さんたちもニックネームをつけて待つようになった。ひとりひとりが揺れ動いた転換期だった。 6 台本なき役者として 「人間にとって当たり前の医療とは」というタイトルの臨床現場という舞台で私たち看護婦は、台本なき役者を演じてきた。旅館の女将であったり、駆け込み寺の和尚さんであったり、掃除のおばちゃんであったり、代理の家族であったり、看護婦であったり・・・。  私たちは今、「よくぞ、ここまで」という気持と、「ここまでだったか」という想いを反すうしている。器量もない、クソ意地だけの人間を、さも器量あるような錯覚に引き込み、気長に待ってくれた医者たち、灰汁ばかりが強くて、はなもちならぬ人間を「お前だけの個性」として受容し、見守り続けてくれた医者たち、がむしゃらで怖さ知らずの看護婦たちを、ゆっくりと開花させてくれた医者たち、精神医療の看護が歴史づくってきた人間不在の既成の概念を打ち破り砕きどこまでも人間が「当たり前」に人間らしくを追求し模索してつくり上げた、手づくりの看護、ひとりひとりの看護婦にやらせてくれた「まきび病院」という医療施設。そこで出会った様々な患者さんたち、そして、ご家族のもつずっしりと重いその人の私史、そこで縁した様々な人たち、院長一色隆夫を筆頭に描いてきた様々な人間模様。  台本なき私たちのドラマは完結なく続く。私たちの人生は、まだまだ希薄だ。私たちの経験は、まだまだ幼い。三鼓総婦長を迎えた私たちは、彼女の中から多くのものを伝承せねばならない。精神医療を問い続け、人間に拘わり続け、病む者の側に立ち続けた三鼓総婦長から学ぶことの多さに、時に気絶しそうになりながらの日々が続きまくっている。 7 「チチ、シス」  昨年の10月14日の夜半、私と3人の弟たちは父の入院している精神病院に向かって疾走していた。それぞれが「チチ、キトク」を胸に、あふれくる感情を何度も飲み下しながらの道のりであった。父は1人で死んだ。精神病院の壁と格子と鍵の中で自分を終えた。3人の弟は、まるで申し合わせたように 「間に合わんかったか・・・」 といって伏してしまった。私は父の耳元で 「お父さん、永い間ご苦労さま、ありがとう」 といって、もって行ってた白いソックスをはかせ「足元に気をつけて行くんよ」と、細った2本の足を撫でながら、自分の中が空っぽになっていくような発作に耐えた。父の死は急死であった。  戦前、営林所に勤めていた父は戦後、兄が戦死してお国のためになったのに、自分は不甲斐なくも生き残ったことと、都会育ちの母と結婚したことの負い目から、故郷を捨て山師として中国地方を転々とした。  標高1000メートルという山奥で父の最盛期の頃、父が集めたり、父に集まって来たりした男衆は60人近くいた。流れ者もいれば、訳のありそうな者もいれば、大学卒のインテリもいるという、どえらい集団であった。酒とけんかは日常茶飯事であった。荒くれ者のドスの抜き合いにも、インテリ同志の激した理論合戦にもヤバイ、と思う瞬間まで顔色も変えずにいる父が、「お前等、もう止めんかいや」というと男衆が、ピタッと静かになるあの理屈抜きの、すがすがしい人間関係がたまらなく好きだった。  山師の父は、山を買うときは、決まって私たちを連れて行ってくれた。「何町歩」とか、「何平米」とかという売人と番当のやりとりなど聞くふうもなく、父は、鉢巻きをキリキリと締め直して、山の前に立って腕組みをし、目を閉じて立つ。「この山、もろうた」といったときには、腹巻の中から、金をつかみ出し、「止めや」といったときには、売人も番当も捨ておいてもう、前に歩き出しているのが常であった。「儲けるのも、損するのも、痛い ことも、痒いことも、あうんの呼吸で、付き合うもんや」というのが、父の哲学だった。  男衆の使い分けも多くの言葉は用いず「お前に、まかしたぞ」と「お前の出番やぞ」だけで、勇み立つ若い衆と父との関係に、子供心にも女である自分が腹立たしかった。  山の1日の仕事が終わると、男衆は街にくり出る。幼い弟たちも若い衆の肩の上に乗っかって夜の街を見物してくる。母が、教育云々で止めると「ガキでも、男は男ぞい、見しといたらええんや」という。  深夜、唄声と奇声が入り交って山の坂道を這い上がってくる。時には、街の芸者衆が、車で送ってくることもある。母は、顔色1つ変えず、ていねいに挨拶する。母の横に立って、私も芸者衆に「気いつけて」とお辞儀する。父に教えられた「こもうても、女には、女の務めがある」という習わしであった。  私が小学校の高学年の頃から父の仕事が、坂道を転がり始め、アッという間のドン底生活に堕ち入った。2度と再び這い上がることのできなかった父。長い長い精神病院での生活。そしてあまりにもあっけなく引き受けてしまった死。通夜から葬式にかけて、体のぬくもりをもち続けた父。誰もが、「よかったなあ」と安心してくれた、なんともいえない豊かで温かい臨終の父の顔。葬儀の後も父にゆかりの人たちが、父の遺影に語りかけてくれたあふれる涙と、素朴な溜息。客と台所を行ったり来たりしながら、私の頭の中を「チチ、クルウ」「チチ、キトク」「チチ、シス」というカタカナがくるくると回り続けていた。 8 「私にとって精神医療とは」  純粋で素直でありながら、不信と怨念にひきずられて葛藤する患者さんの表裏を見てきた私にとって、精神医療の現場を立ち去ろうとするとき、いつも引きづりもどされてしまうのは、人が生することの強烈さである。人とはかくも限りなく自己主張し、自己表現し、人とはかくも浸透し合わずには生きていけないものかという強烈さが理路整然と割り切ったはずの立ち去る決意を掻きまぜてしまう。思春期も、お年寄も、急性期も、再入院も近づけば近づくほどメラメラと強烈である。1歩、ご家族に踏み込めば、そこはドロドロと強烈である。  病むという症状そのものに対しては、素人なりにまだゆとりをもって張り切ることもできるが、その人の環境や背景に立ち入らざるをえないとき、私の目の前にあるのは症状ではなく、人間であり、生そのものである。そこにはめまいに襲われそうな不可解な生が、立ちはだかっていて、自分の無力をあざ笑い、逃げ場のない息苦しさと、やりきれなさが、じわじわと締めつけてくる。自分を正統化する格好のいい言葉を見つけて、背中を向けたいと私の中の私が焦っている。十分にやったじゃないかという励ましといたわりの言葉に、どこか弱さのある私の中の私の声。目を凝らしすぎるからしんどい、もっと軽やかに行きましょうよと誘うみじめに企んだ私の中の私の顔。気がついてみたら結局人間に拘わり、生に拘わり、自分に拘わり、病むという症状を見続けている自分の存在に納得している自分に出会っているのである。しかし、またそこから、新しい疑問と底知れない不安がよじ登ってくる。自分という存在が、他者という患者さんに与える影響に恐れる。患者さんの前では、できるだけ物質だけでありたい。無臭無害でありたいと思ったり、関与を避けたいと思ったりする。患者さんの症状だけをキッチリ看て、指示の薬物を投与して、生きざまの淵に引きずり込まれたくないと思う。そこから先1歩向こう側にはメラメラと、ドロドロと不可解な人間の生の底なし沼があって、その沼を渡りきるための援助まで引き受けるかまえになったとき、医療者が関わりゆくサービスは、いったいどこまで続くのかというほど広がっていくし、費やすエネルギーに保障はあるまいと思ってしまうのは、素人ゆえの無知なる早計さであろうか。人間が人間らしく「当たり前」にということは、つきつめていくと自分の生は自分で成しとげていくという終生的な孤独な作業を個というおのれの大事業として受けとめ、その作業過程にある終生的孤独感が、絶対的孤独感たるほんの一瞬の束の間を、付き合いたいと思うようになってきた。患者さんが患者さんらしくなってしまわないために、人間が「当たり前」に人間らしくあるために、人間本来の孤独感を自分の中に認識し、本当の意味での依存ではない共存を破壊ではない健康を考えねばと思うようになってきた。展望という延長線上での徒労はいとわないが、空転だけは避けねばと思うようになってきた。具体的なイメージにまで達してはいないものの、漆黒の闇にあり続ける努力は惜しむまいと思う。自然のリズムは闇の次には、朝という明るさを運んでくるという原始的な開き直りで、日常現場の病むという症状と、生という人間の至近距離にふんばっている。 「私にとって精神医療とは」を思うに、いつも自分の中に父をおいて、父が父であり、私が私であるための確認作業のように思う。私には父がいる。私は父のない子ではないのだという確認作業、いくつになっても、その幼さから抜けきれない頑固な拘わりとエネルギーが、たまたま、精神医療という現場が格好の場所として吸引力となったということなのかもしれない。  今後の私自身の身のおき場が、精神医療の現場でなくなったとき、父子分離できた私が、父のない子を納得して、新たな人生を背負って生きているはずである。ゆえに、はなはだ申し訳ないが、「私にとって精神医療とは」あまたのプロのように、専門化に徹するなどとうていできないところの非常に単純で、陰影に満ちた私自身の解明への場所でしかないのである。プロでもなく、ビジネスでもなく、私自身の問題として臨床現場の看護詰所はある。どこまでも素人として・・・。 第8章 「私にとっての精神医療」2 はじめに  男が医療に、しかも「看護者」として、さらに「精神医療」に携わることは今の社会ではまだかなり特異なことではないかと思う。時々「何故そのような場に自分を置いたのか」といった意味のことを聞かれるが、特別そうしたいという自らの強い意志のもとにそうしたのではなく、「たまさか緑あって」大工を辞め、そうしたのである、と他人には言っている。  そのように「たまさか」という言葉を使う自分が「精神医療」という場に我が身を置いて4年が経とうとしている。「まきび病院」がその活動の中間報告として本を出すについて「いつも逃げてばかりいないで自分を語ってみろ」とのお言葉があり、ある意味で意識的に「ちゃらんぽらん」「いいかげん」「しょうがない」(悪い意味で使われることが多いが)という言葉を口にしている自分というものを、現在自分の中で大きな位置を占めている「精神医療」との関わりを述べる中で、その曖昧さを明確にしたいと思います。 こだわり  自分が、当たり前と思われている社会常識、習慣の意味すること、そしてそれによって規定されてしまう社会、自己の在り様について「ちょっとおかしいんじゃない」と懐疑的になり、そのような「社会常識」に支えられて生活している集団から距離をおくようになる中で、「こういった人間になりたい」「ああいった人間になりたい」といったことを考えるようになったのは17歳頃だったろうか。その頃から「変わり者」と他人からは見られていたようであるが、それ以後今日に至るまで、社会内存在としての人間の、自己の在り様について(ある時期までは「こうあるべき」的観念的なものであったが)、こだわり続けている。ただ「まきび病院」が仕事の場となってからは、ぼんやりとその在り様について想いをめぐらすことが少なくなってきているが。ぼんやりすることがいわゆる仕事に多くの時間を費やすなかで、これは自分にとってはあまり喜ばしからぬことではあるが。  思うに人間として、できうることなら一生を楽しく、ある種、解放感をもって送りたいものであるが、類的存在である人間の個としての在り様は、歴史的社会内存在として規定されると考える自分にとって、社会の、個の在り様に疑問をもちこだわるとき、差別し抑圧し、差別され抑圧される自分というものに気づいたときから解放感を味わえない、何か心に引っかかるものをもち続けているのである。今の社会で最も差別され抑圧されているのは、いわゆる「障害者」と呼ばれている人ではないだろうか、今の社会がそのような人の存在の在り様との「つながり」「関係性」を断ったところで動いており、社会内存在としての自分は、しかし、その「つながり」「関係性」を抜きにしては、自己の解放化はなされないのである。自分自身決していわゆる「ヒューマニスト」ではないが。  そのように社会内存在としての自己の、人間の、社会の在り様にこだわっている自分は、他方で、いつの頃からかその背後に、ある種、「超越的なもの」の存在・力(それはある人にとっては、「宗教」「神」といえるものかもしれないが)を感じるのである。そして、その存在を意識することによってかろうじて自分を傲慢さから救い、「混沌」としている自己の世界を成り立たせているのではないかと思うのである。  ただそのような想いにかられながらも、「まきび病院」までの自分は、運動体の中に積極的に身を投じ、その中で他者との関係性の拡がりを、自己の拡がりを求めようとはしなかった。当事者でない者が、声高に、時にヒステリックに、他人にその在り様のおかしさを、不当性を、言葉(理屈)でもって提示することのおこがましさ、後ろめたさ、そして自己の責任回避。さらに「組織」に対する違和感。個を押しつぶしてしまう圧倒的力、圧迫感、一糸乱れずとはいわないまでも、ある種の陶酔感を伴う統一的行動をとるときに感じる違和感、その中に入り込めない自分。さらにその中にあって、自己の相対化がなされず、運動体の思想の中に私的な自分を埋没させてしまい、運動体の思考とおのれの思考の対峙がなされず、自分では運動体の思想とおのれの思想はつながりがあると思っているが、その実、つながりがまったくない人への嫌悪感、反面、その圧倒的力の中で自己を主張できない自分の弱さを感じる中で。そしてその運動のあり方に目を向けたとき、「ボランティア」という言葉でもってなされる行為、社会への働きかけはあまり好きになれないものである。「ボランティア」という形式を借りるとき、その運動体、そしてその思想の力は弱められ、ぼかされてしまうのではないか。そこにおいても自己の相対化はなされず、対峙はなく、自己のあり方は脇におき、感傷をもって「同情」し、「〜のために」といわゆるヒューマニズムの名のもとになされる、それはある種、軽い心地好さをもたせる行為でしかないのでは。  そのように組織に対する違和感と、脇から運動体に参加することへの抵抗の中で、その在り様に疑問をもち、行動をと思いながらも積極的に他者との交わりの中で、その在り様について想いをめぐらし行動化することなく「大工」という「物」との関係の中に身をおいた。自己と対象との「あり方」「関係性」ということを考えるとき、そこには通じるものがあるが。  以上、自己の「在り様」、そしてその自己と関わる対象の「在り様」にこだわり続けていると述べてきたが、その具体的内容を詳しく文章化するまでには至っていない自分なのであるが。そして、そのように、自己に、そして自己と関わる様々な対象の在り様に、それとのつながりにこだわり続けるとき、しかしながら「生きる」ということはなかなか自分の思考どおりにはいかないもので多くの要素が絡み合っており矛盾を生み、かといって立ち止まることができないとき、関係性をもち続けなければならないとき、よく「この混沌とした自己…」とか「この混沌とした社会の中で…」とか「混沌」という言葉を口にする自分なのである。 出合い  冒頭で「たまさか縁あってまきび病院に」と書いたが、社会の、人間の、自己の在り様にこだわりつつも、組織の在り様に対する違和感などのため運動体の中に身を置かなかった自分が「まきび病院」という1つの組織に加わったのは、一色先生に出合い、その感性に通じるものを感じ、その動きに共感し、目的に向かう人間の情熱に、そして1個の「個」というものを感じさせられたことと、「まきび病院」が単に医療施設というのではなく、精神医療改革という明確な目的意識をもった1つの運動体であり、さらに初めて施設を訪れたときに受けた印象によるものであろうか。  一色先生と初めて会ったのは、病院が開院される約1年前の夏の夜、あるパチンコ屋の前であった。後にふれるが、病人となった兄が鹿児島から岡山に転勤となり、岡山の会社紹介の診療所に通院し、小康状態を保っていたがそのうちに次第に病状不安定となり、家族の不安も高まる中、ある夜、兄からの家族への電話の様子に、いたたまれなくなった身内が、義兄の教員仲間の間で良心的医者として名がとおっていた先生にまったく面識もないのに電話したことによる。兄の状態を説明するに夜であるにもかかわらず往診を引き受けて下さり、パチンコ屋の前で落ち合ったのである。今でもそのパチンコ屋の前を通ると、そのときのことを思い出してしまうのである。そして寮まで約1時間車をとばしたのであるが、気分が張りつめている兄との対面に家族としては、会社の寮に、いわゆる精神科のしかも初対面の医者を連れて行くということでその反応にずいぶん不安だったのであるが、家族に対しての対応がそうであったように、兄に対してもいたわりと配慮のなかで、不安、緊張をしいるようなものではなかった。気真面目なところと、ざっくばらんなところ、何かその態度に通じるものを感じたのである。  そして再度、先生に電話して往診を願ったのは、それからしばらく後の、再び夜のことであった。兄の寮にそのまま付き添う形で泊って一緒に過ごしていたが、再びもたらされた緊張による自分自身の不安の極致での電話であった。先生はまずその電話にて指示をされ、再び真夜中であるにもかかわらず来て下さった。この2度の行為は、何故それほどまでにできるのか、という疑問を生む一方で、1人の職業人の姿勢を感じさせると共に特別な人としてではなく身近な存在として精神科医を感じさせ、家族を安心させるに十分であった。そして、それが緑で兄は、かの岡山診療所「ラナ」に通い始めたわけであるが、昼間の仕事が終わってからの先生の医療活動を見るにつけ、「この先生もちょっとすごいなあ」という想いと、その考え、感性に惹かれ何か自分と似たものを感じるようになっていた。  毎週1回、車で2時間の道を通うようになって10ヵ月あまり経った5月のある日、「まきび病院」の開院前夜祭への招待状が舞い込んできたのである。ある種の驚きと期待を胸に私は、小高い山の山すその竹やぶに囲まれた「まきび病院」を訪れた。まずその建物は違和感を与えるものではなかった。そしてその「祭り」に加わったとき、院長の、そしてスタッフの、そして彼らを取り巻く人たちの精神医療改革に対する、さらには医療に対する、社会変革へのロマンが、息吹が我が身にしみこんできたのである。そして自分はその祝いの席で「…孤立無援の戦いとならないように」と述べた記憶があるが、今その戦の中に我が身をおいているのだが。  「まきび病院」開院前夜祭のとき、院長はその酒の勢いをいよいよ増し、酩酊(泥酔?)する中で私に「来ないか」という言葉を吐き、私は院長の体を支えながら「この人はわかっていってるんだろうか」という気持を抱きつつ、その酔いに誘い込まれ、すぐにもこの運動体に加わりたい想いと、酔ってはいかん、明日は仕事がある。朝5時には病院を出なくては、という想いとが複雑に絡み合っていた。  それから半年間、何回か病院を訪れ、ときに飲み会に加わらせてもらい、院長やスタッフと接し、建物に触れるうち、ロマンを掲げそれに向かって動き始めた人たちの熱気と輝きに自分の気持も動き出していた。そして運動体に対してもっていた自分の違和感を思うとき(まきび医療)という1つの精神医療改革をめざしたそれは、基本的なところで自分に違和感をもたせないものであった。社会の中での「個の在り様」に想いをめぐらす自分にとって。 兄とのこと  今、自分は精神医療の現場にその身を置いているのであるが、その現場での自分の物の見方、動き、さらにはいわゆる精神病者、精神医療についての考え方には少なからず兄の存在の影響があるだろう。  兄がいわゆる「病人」になってから7年が経とうとしている。この間自分は付かず離れずしてきたわけであるが、今も兄のことをそして精神医療という人との関わりを仕事としている自分が思い起こす事がある。  7年前、会社の転勤で京都から鹿児島に7月に移った兄と時に交わす電話での話しぶりから少し話し方、その内容が変わったなあ、と思うようになったのは10月頃だったろうか。そして正月休みに帰省の兄を駅に迎えに行ったとき、私は明らかにはっきりと兄の様子にそれまでの兄と違うものを感じた。「もしかしたら病気では」と思い、家での過ごし方で家族はますますその気持を強めていった。兄が鹿児島に帰ると追うように自分は遊びと称して鹿児島へ、そして兄の行動を観察し、会社の人にも会い、病院で診察してもらわなければと焦りを覚えながら思った。しかし本人にはそのような意識はまったくなく、私は会社の上司と一緒に本人をだますようにして病院に連れて行ったのである。自分自身まったく見知らぬ土地であり、兄の様子に対する不安の中で選んだ病院はより良い病院、ということで大学病院であった。しかし、入院の必要性はあるものの大学病院には入院できないと何故か言われ、私立の病院を紹介され、その病院からの迎えの車に不安を抱きつつも再びだますようにして乗り込んだのである。  その病院は小高い丘の上にあり、今自分自身が精神医療に携わっていろいろの病院を見聞きしたことを踏まえて思えば、ごく普通の閉鎖病院であったように思うが、ほんの短い診察のみで私とは別室で、アッという間に注射を打たれて眠らされ、そのまま顔を見ることなく別れ、兄は閉ざされた病室に送られたのである。そして「しばらくは面会しないほうが良いでしょう」と言われ。そのようにして病人となり格子の建物の中に送られた兄を見送った自分には、ある種の「覚悟」を強いるものであった。それでもしばらくして兄との面会が許可され、しかし当然のことながら兄が寝起きしている部屋では会えず、面会室で看護婦がそばにいる形での面会であった。そして面会が終わり、車でその病院の坂を下りかけたとき、ふと見上げた建物の格子の窓から自分に向けられた兄の表情は一生忘れることができないだろう。だますような形でそのような建物に入れてしまった自分に対して向けられた、1個の人間としての誇りを、対等の関係を剥ぎ取られ、閉じ込められた不安と恐れの中で、だまされながらも頼るしかない、圧倒的力をもっている外の存在者である自分に向けられた弱々しい笑い顔を。入院までの自分のとった行動は決して兄本人中心のものではなかった。その状況を真正面から受ける力、勇気のなさの中で、ある種のごまかしを自分の心の中にもち、その行動を正当化しているところもあった。そしてそのときに抱いた自分自身の気持、周囲の人に対する、病院に、社会に対する気持は多くの家族がもつ気持と変わらなかったように思う。ただあえて言えば、人間の、社会の在り様について自分なりに考えていた自分にとって、その新たな状況、兄の在り様はそれとして大きな抵抗もなく自分の中に受け入れられたのである。  2カ月という短期間の入院後、兄は会社に復職するが、休みがちな状態の中で岡山への転勤が決まった。正月以来約半年あまり一緒に過ごした鹿児島を後にした。  岡山において再び自分にとって忘れられないことが起こった。不安定ながら会社にも通勤してた兄が再び調子をくずし、心配した自分が会社の寮に一緒に泊っていたある夜のこと。その日は夕方頃よりイライラし、しきりに外出したがっていたのをなんとか押し止めていたのだがそのうちに、「海に行く」と言い始め、止めようとすると殴りかからんばかりになった。そのときの自分は寮の人に助けを求めようか、しかし今の兄の姿は見せたくないという気持と、兄の思うままにさせてみようという気持が絡み合っていた。結局、自分自身やけくそ気味になる中、兄に付き合ってみよう、その行動を見とどけてみようと思い、夜、車を海に向けた。しかしその目的地の海岸に兄自身1、2度、自分はまったく初めて、岡山の地理にも詳しくなかった。私は、隣りでイライラし、せっつくように行き先を言いたてる兄を乗せ大型トラックがビュンビュン行きかう国道を可能なかぎりとばしたのだが、その行為は命がけであった。そのときは死を覚悟していた。何故そうまでしたのか、無謀な行為だったとも思うが。約1時間あまり車を飛ばし海に着き、なんとか兄を納得させ、押し込むようにして車に乗せ寮に帰った。そして途中何度かもうだめだ救急車を呼ぼう、という状況に合いながら、ただただ少しでも寮に近づきたいと必死になって運転していたのだが、今思い返しても不思議に思うのだが、何故かしだいにうとうととし始めたのである。それでも不安が去らない自分は、やっとのことで寮の近くの消防著に車を横付けし、助けを求め、既に落ち着いていた兄を寝かせ、真夜中であるにもかかわらず一色先生に電話をし、先生は来て下さった。  この一連の出来事は自分に人間に付き合うときに求められる覚悟、決断を、そして先生の動きより人間相手の仕事をするときの覚悟を感じさせた。人の思い出の中には後で振り返るとき、笑い話としてしまうことのできるものが多くある。そしてそうしてしまえることは喜ばしいことであると思うが、笑えない思い出が増える事は悲しい事である。 最後に  以上、「私にとっての精神医療」とはどういう意味をもち、思い込みがあるのかを、自己の解放に向けて社会内存在として自己の、人間の在り様にこだわっている自分、そしてそういう自分が出合い、さらなる拡がりを求めて加わった1つの運動体として精神医療という形で社会変革を成さんとしている一色先生と「まきび病院」に対する想い、さらに自分が現在その精神医療の中で働くとき、その姿勢を思い返させてくれる兄のことについて 書いてきた。しかし仕事として携わってきた「まきび病院」での4年間についてはまったく述べていないがまだ文章化できるほど相対化できていない。ただ、入院されている人々の様々な在り様とそれに関わる人々の在り様を眺めているだけ、といえるだろうか。せめて邪魔をしないように。そのような中で、一方で病者の在り様に、つまり病んでいるのは人間としてのその人の一部分ではないのかとの自分の想いとは裏腹に、病人になりきってしまう人、ならされてしまう人の在り様に対する疑問、他方ある意味で観念的であった自分の考えがより多くの関係性を求められる場所で、積極的に、具体的に関わらざるをえなくなった自分の在り様に悶々とし、さらに、病気とは、病むとは、病人とは、看護とは、社会での病院の役割とは、と想いめぐらすのではあるが。  人に関わる仕事をするとき、関わる自己の生き様もいつも問い返されねばならず、病者(他者)と向かい合うとき、その状況がぎりぎりの状況であればあるほど、裸の自分をさらけ出さざるをえず、しかしさらけ出してしまうことの怖さを感じ逃げ出してしまいたくなるのである。わずか4年間しか経ていないのに、しんどさに逃げ出したくなっている自分が、かろうじてその場に存在しているのは、せめてその存在を邪魔しないで自分が存在しえているのでは、という想いと、自分というものを意識し、社会の、自己の在り様というものに目を向けたとき以来、感じている「負い目」「後ろめたさ」ゆえに解放的気分になれない、自分を含む社会状況の変革を夢みているためであろうか。 第9章 劇団<憂鬱座> まえがき  この劇団<憂鬱座>の名前は、幾人かの方には知っていただけたかと思うが、まだまだ市民権を得ることのできない、1つの小病院の中にある、1サークルである。しかし、その内部にて、真剣にとらえ、やり続けてきたことは、決して恥しくない、我々の劇団実践であると思う。  1982年8月に、ひそやかに結成されてから、はや3年を過ぎてしまった。この間、計7回にわたる春秋年2回の公演を(観て下さる方が、多い少ないは別としても)してきた。7回続けてきたことが我々の財産であると思う。何が劇団であるか、何が演劇であるのか、何を我々は求め、そして何が必要なものであるかを悩み続けて、今までやってきたのである。その間の実践の報告およびその間に我々が気づき、また作り上げてきたことを以下にまとめてみたいと思う。 1 起源  1982年8月、ある1人の少女との出会いにより、劇団の結成が試みられた。彼女との出会いは私にとって、とても大きな出会いだった。  彼女は当時17歳で高校3年であったが、病いに陥り、高校を休学し、当院に入院してきた。数カ月間の入院療養生活を経て、急性期を脱し、何とか安定を取り戻した。しかし、これで彼女のすべてが解決されたわけではない。思春期の中にある者が病いを抱えた場合、その病のみが安定することで、解決とはいかない。そこには、思春期らしい、発展途上人らしい様々な問題が、生じてくるのである。彼女にしても、しかりであった。現実に帰ることを考えたとき、多くの不安が彼女を襲った。それは、何事につけてもやりきることのできぬ自分、すぐに他の人々の言動に揺れ動いてしまう自分、こうした不確かな自分では、これから先本当にやっていけるのだろうかというものであった。彼女と話すたびに、このことが話題のテーマとなった。  その頃の私の仕事について述べておかなければと思うが、職種としては心理士を名乗っていたが、看護学校に行きつつ仕事をしており、仕事の起点となっていた場所は詰所であった。詰所を中心にあらゆる場所に出かけ、その場でカウンセリング、いや話し込むことが多かった。さらに業務として、レクレーションにも関わっていた。要するに何でも屋であったといえよう。  こんな日常の中で、彼女と出会い話した。その中で、彼女の不安に対して何か経験的に、体験的に、退院に向けての課題となるものはないか、乗り越え課題となるものはないかと考えていた。そして、その1つとして私が以前やったことのある劇を彼女に提案し、自らが企画実行者となってやってみることを勧めた。募る不安はあったらしいが、自分の課題としてやってみることを決意し、自ら知人に声をかけてメンバーを集め、シナリオを選び、練習へと入っていった。  毎日毎日、夕方からプレイルームを練習場所とし、役者(入院者4名、職員3名)それ以外に演出、見学と名乗る人々合わせて10名ばかりが集まって行っていった。作品は『探偵小説』(松本和子原作)を選んだ。  練習を続けるうちに、メンバー間で様々な夢が拡がっていった。劇をやるんだから、劇団として名をもとう、のぼりも作ろうなどなど…。このときに、劇団<憂鬱座>と名付けられたのである。さして深い意味があるわけではない。ただ、このときには、この言葉のもつ響きが、メンバーの気持と、どことなくしっくりきていたのだった。  そして連日練習を続けてゆくなかで様々なことが起きてきた。吃音をもちながら、火中へ飛び込む気持で参加していたM君が、人前に立つことの苦しみから練習を休んだり、やめるといったり、時々N君が、周囲が変に見えて不安になり、練習に出られなかったり、途中で、最年長のOさんがやめてしまったり、うまく進む日のほうが少ないくらいだった。もちろん、座長を引き受けた彼女も、周囲の変化に動かされたり自らの問題で悩んだり、動揺は続いた。  こうした中で、我々が考えさせられたことは、悩み不安を抱えた人々に対して、寄り添うということだった。できないのならやめるんじゃなく、「どうしようか」と共に考え、寄り添い続けることだったのだ。こうした職員の動きが、そのまま今の<憂鬱座>にも通じる精神を作り上げていった。事実、メンバーの間で「無理するな。またできそうなときに来いよ」といった意味の言葉が、使われていったのである。「苦しいときは、自分を守れ。できるときはやろう」この精神(いや、このときはまだ精神といえるほどのものではなく、雰囲気であったと思うが)のもとに、第1回旗揚げ公演は、1982年11月7日、「まきび病院」文化祭において、成功のうちに終えることができたのだった。このときの公演は、まさに傑作だった。アドリブだらけのドタバタ劇。唯一誇れるものは、誰もがエネルギッシュであったことだろう。すでに、<憂鬱座>の劇は、当たり前をぶち壊していたのだと思う。こうしてわずか30分の劇は、エネルギッシュに沸き立ったのだった。 2 <憂鬱座>は、どうなってきたのか  第1回の公演をきっかけに院内に「再び<憂鬱座>を…」との声が起こってきたのだった。1983年1月、新年を迎え、やがてくる春を前に公演をやりたいとの声だった。春、若者にとって春とは、やはり再起のときなのだろう。  第2回公演に向けての動きは、それぞれの人々に何らかの課題となっていったように思える。この回は、第1回に不安を抱えながら参加したN君が、座長となった。彼にとって長い1年におよぶ入院生活から別れを告げ、自分の現実に向かうためのやはり総仕上げだったのだ。20歳を迎え、今だに定時制高校の2年生。物が妙に見えるという症状も完全にはとれぬまま、これからの生活に向かっていくジャンプ台の役目を、<憂鬱座>に求めたのだろうか。前回、参加のM君の2度目のチャレンジ。途中でやめた中年男性Oさんも参加。彼にとっても、何ら変化のない悶々とした日々の中での変化だったのかもしれない。Oさんの生き生きとした表情は、ついぞ見たことがなかったのだ。  第2回めには、第1回にない新しい拡がりがさらに加わった。1つは、演劇をやるのであるなら、もっと本格的にやろうということで、裏方を加え、照明、音効、スライド、舞台装置と拡がっていったことだ。このことにより、舞台に出るには、少々抵抗があるが興味がある、集団の中で何かやってみたいと参加できる人の参加の仕方の範囲を拡げていったのだ。このことを言い換えるするならば、それぞれの才能を発揮できる場所を拡げたともいえるのではないか。また、参加へのプレステージを用意することにもなるだろう。  そして、もう1つ、大きな賭けがあったのである。それは、外部で公演をやろうということだった。この時は、随分と迷った。まだまだ、旧態然としてある差別に対して、また参加するひとりひとりの気持に対して迷ったのだ。しかし、「演劇をやる以上、少しでも多くの人々に観てもらいたい」というしごく「当たり前」といえる座員の声に従うことになった。我々がやろうとしているのは、演劇であり、演劇である以上、そこに観客が存在するのは、当然のことであると確信できたからである。連日の練習、裏方作業を経て、1983年3月27日、総社消防署3階ホールにて、『コモンセンス』(青森県弘前高等学校原作)を掲げ、総座員数20数名により、初の外部公演を行ったのである。案内を出しておいた各医療機関の方々、OBの方々が多く観に来てくれ、エンディングでは、役者、裏方、観客入り乱れて、「蒲田行進曲」を歌い踊り、共有感を味わいながら終えたのだった。公演終了の後、N君、M君ら、多くの人々が、退院していった。第2回を総括していうならば、「卒業」「劇団<憂鬱座>外に出る」がテーマであったといえるであろう。  前2回の中で、発足時に大切にしてきたことは何であったのか。それは、個人寄り添いの動きである。演劇に何らかの課題をもってやってみようとする人、やりたい人が出てきたとき、その人に寄り添い続けることからスタートし、その人を中心に劇団を発展させてきた。第3回においても、1983年9月、Pさん19歳女性に寄り添い、彼女を大切に発展させていこうとした。彼女は、『祭』というシナリオを選んだ。出演者がたった4人、変化のない、味わいを大切にしなければならない演劇であった。  ここで大きな問題にぶつかった。第2回までに、知らず知らずのうちにできあがっていた<憂鬱座>の精神は、何であったのか。それは、シナリオにとらわれすぎず、我々の感性と感覚で自由に劇を演出していくことであった。言い換えるなら、「自由に演ずる。自らを解放的に演ずる」となろう。これからすると、彼女が選んだシナリオは、この精神にのっとり、やっていくことの難しいものであった。少人数で構成され、変化の乏しい演劇は、素人が自らをあますことなく表現していくには、難しすぎる面がある。ならば、書き換えようと思えども崩し難さがある。こんな想いから、Pさんの選んだものを意図的に換えていった。彼女は、自分を大切にしてくれると思った人が、裏切ったとつらがった。私自身もつらかった。  しかし、この時を境にして、<憂鬱座>の向かう方向はまた一段と定まったように思う。彼女に対しては、こちらの想いを伝えて、互いに何度となく話し合った。そうした中で、彼女は、最終的にどうなっていくのか見届けると、この劇団に参加していった。  こうして、1983年11月、『星の王子様』(寺山修司原作)を掲げ、「まきび病院」の文化祭を皮切りに、岡山・広島県福山での公演、岡山大学祭にて「福祉を考える会」による招待公演と4カ所、20日間にわたる初の巡業公演を行っていった。我々の拡がろうとする力は、止まるところを知らず、この第3回公演では、「まきび」雑声合唱団(M・K・C)、バンドTHE EVIDENCEも加わり、総勢40名にのぼる大集団となり、行っていった。広島県福山方面から入院して来る方も多いということもあって、福山で公演をはかったが、観に来てくれた方は、わずか20名ばかりとステージの上の人間のほうが数・勢いともはるかに勝っていた。岡山大学での公演は、狭いホールに我々を感動させるに十分な観客が来てくれ、満足感を得ることができた。何はともあれ、第3回は、<憂鬱座>の方向を見定め、とてつもなく拡がろうとしたといえるだろう。  第4回、この回から、明らかに<憂鬱座>の進む方向は変化し、定まっていった。前回を踏まえ、スタート時より、個人寄り添いによるスタートではなくなっていた。一般公募を院内で行い、やりたい人たちが集まった後、シナリオはどうするか、いつ、どこで公演をするか、等々メンバー全員で検討していった。考えてみると、個人寄り添いスタートをやめることによって、メンバー全員に対する視野が開けたともいえよう。  その中で、またまた新しい展回が起こってきた。それは、<憂鬱座>内部の組識作りをしていったことである。座長・副座長をトップに、マネージャー、宣伝、大道具、衣裳、音効、照明と役割をもっていったのである。職員もこの中に共に加わっていくと同時に、事務局として位置付けていった。今までにもいくらか役割はあったが、これほど明確ではなかった。こうして、入院者、職員共に慣れぬ手つきで、それぞれの部門をより深めようとやっていった。  進めてゆくにつれ、またも大きな話がもち上がってきた。神戸に行こうというのである。当病院には、神戸方面から来る方が随分といる。また、今回<憂鬱座>のメンバーの中にも3分の1ばかりは、神戸方面の方である。彼らは、「地元で是非やりたい。親や自分の知っている先生たちにも観てもらいたい」という。自分たちが非痛な想いで過ごしたしがらみの多い土地にあえて帰り、舞台をやりたいというのである。むしろ、悲痛な思い出があるからこそ、憂さ晴らしをしたいのかもしれない。その場所に錦を飾るとでもいった気持であるのかもしれない。こうして神戸公演の話は、全員一致で決定された。数回参加しているメンバーは、自分たちのやってきたことが、拡がっていくと喜んだ。あるメンバーの言葉では「憂鬱座が地方区から全国区になっていく」と語られた。この回、確かに神戸へと活動範囲が拡がることは、とても喜ばしいことであるかもしれない。しかし反面、ただ単に喜んではならぬといった想いが強くあった。それは、何のために活動範囲を拡げていくかということである。このことは、今後も考え続けていかなければならないことであると感じていた。  作品についても新しい試みが行われた。今までは、規制のシナリオを頼りにやってきたが、今回は自分たちのあくまで手作りでいこうというのである。私が、呉承恩の書いた『西遊記』を元に脚色し、その後、全員で練習を続ける中でさらに脚色を深めていった。そして、劇名も『ネオ西遊記』と命名した。全員で初めて創作を行ってみたのである。やってみて感じたことは、今までの規制のシナリオの中で、我々が感じていたどうにも崩し難い部分がなく、さらに、メンバー全員で検討していく中で、かなり細部にわたってまで、ストーリーを深めてゆくことができるということである。さらに、我々のめざす「自由に演ずる、自らを解放的に演じる」のテーマは実現されたといった感じを強くしたのである。こうして、いよいよ3月公演は、病院駐車場の特設ステージでの白中の公演を皮切りに、岡山県総合福祉会舘ホールでの公演を迎えた。今回活劇ということもあり、アクションシーンをふんだんに盛り込んでいた。さらに我々のテーマとして加わりつつあった「観客との舞台の共有」もあり、役者は客席におりていき、所狭しと走り回った。興奮のうちに舞台は終わった。私にとってたまらなくうれしかったことは、カーテンコール終了と同時に舞台の上でメンバーが、私の誕生日を祝い、胴上げをしてくれたことだ。個人的なことながら、たまらなくうれしかった。  続いて最終神戸公演は、朝7時に大道具を積んだトラックを職員が運転し、貸し切りの小型バスと共に出発、神戸へと向かった。神戸コンベンションセンターのホールは、750名収容と特に大きく、我々の肝を抜いた。テレビ局からの取材の話まであったが、「グリコ・森永事件」のため、我々は見捨てられた。舞台装置・照明の準備を終え、リハーサル、いよいよ本番。200名ばかりの観客を迎え、無事企演を終えた。客席を走り回って演技するには、あまりに広い会場だった。神戸の宿でその夜を迎えたメンバーは、まさに何かを成し終えた満足に酔いしれていた。こうして我々の<憂鬱座>という組識作り、演劇を創る、手作り劇団の公演はさらに神戸の地にまでその足跡を残すこととなった。  第5回公演、前回の流れを汲み、さらに充実を図らんとした回であると思う。さらに題打つとするなら、「思春期の憂鬱座」とも言えるのではないか。いや、もう少し言い換えたほうがいいのか。「思春期憂鬱座の暴走」とでもしたはうがいいかもしれない。私自身の暴走でもあるのだが。公募からスタートし、メンバーが集まった時点でシナリオについて考え、後、組識作りをしていった。シナリオについては、メンバーからメルヘン、特に『不思議の国のアリス』との声があり、登場人物、場所だけを借りて、脚本としてみた。組識内での各部分の活動は、なかなか大変なものであった。各部門ごとで何度となく集会をもち、検討を重ねていった。こうした動きは、まさに前回でき上がりつつあった動きを、さらに充実させていったのである。  この第5回の要は何であったのか、やはり素直にいうならば、酒に始まったのであろう。この回のメンバーの<憂鬱座>に対する想いは、強烈であった。学校という場で無力感を十二分に味わった子が、自らを解放する中で自己存在の確証をつかみ取ろうとしていくこのときの主役は、高校生の女の子3人であったと思う。彼女らは学校という場所で何を味わったのであろうか。先に述べたごとく正に無力であったろう。そうした中で、ちまちまと小さくこり固まっていた彼女たちが、病院という場で似かよった立場で出会い、孤独のあまり理解し合い、寄り添い合いたそうにする。しかし、またその中で互いの差異を感じる。感じつつも同じ集団の中で、自分をかけて競い合う。何故か競い合う。何故競い合うのか考える。これはまさに自己を明確にさせんがための戦いであるのかもしれない。彼女たちは、演技の上でも競い合い、情熱を燃やす。しかし、彼女らは迷う。迷ったときに自己を証明してくれる人を求める。それはときには職員であり、ときには男の子である。  こうした日々の中に<憂鬱座>強化合宿というプログラムが入ってきた。場所を驚羽山のユースホステルとし、昼から夜10時まで練習は続いた。ついで夜の祭りを恒例として行った。私はいつもこの夜の祭りに期待していた。少々、アルコールの入った中で、互いの気持を確認し、互いをぶつけ合うことをやっていた。前回においての通りである。今回もひとりひとりが、立ち上がり、<憂鬱座>参加についての意思および自分の想いを述べ、他者から疑問が投げかけられ、確認が行われた。その後ディスコパーティーとなり、全員が踊り狂った。  このとき、少々酔いがまわりすぎてしまい、1人の女性が、ユースホステルの海の見えるテラスから海に飛び込みたくなり、ついに飛び込んでしまった。彼女は救急車で病院に運ばれた。メンバーの気持の中から酔いは覚め、ついで訪れたのは何が起きたのか、そして、何故そうなったのかという想いであったろうと思う。幸い、彼女のケガはたいしたことなく、一応の検査の後、帰って来れることとなった。ここで出てきた私の不安は「どう彼女を迎えるか」であった。しかし、私の不安とは別に、他のメンバーたちの迎え方は素直で自然であった。彼女は、みんなにわび、終わりまでどんなことがあっても続けると切れた口唇で練習を続けていった。この事件から、職員の間で何度か酔いのカに頼りすぎていたのではないかということが話し合われた。その力なしでも、本来我々はもっとストレートに自分を語ることができるのではないかということだった。  こうした中で、公演の日がやってきた。初めの公演は、岡山県精神衛生センターの主催する、精神障害者、家族、関係職員合同1泊研修会での招待公演であった。全員、初の舞台でそれぞれの今までの想いを込めて、めいっぱいの公演を行った。公演の終わった後で彼女ら3人は、自分たちのやったことをどことなくしっかり見ていてくれなかったのではないかという不安な想いを私にぶつけてきた。この想いをもったままで、真備町、神戸での公演を行った。最終打ち上げの夜、会自体は、酒の酔いを借りずして、自分たちのやりとげたことに酔うことができたようであった。しかし、彼女らの、自分たちのやりとげたことはどう見られていたのかという不安な想いは、このときも解消はされていなかった。絶えず、確かめたいと欲求してきたが、求めても満足できるはどのものは、返ってこなかったようである。そのまま、次々と彼女らは自ら退院をしていった。今、どうやら彼女らは、何とかそれぞれの道でやっているようである。第5回、思春期の自己存在の確認、自己確立について考えさせられ、酔うということの意味について、考えさせられた回であったように思える。  第6回、この回のメインは何であったのか。 @それぞれの個々人に寄り添いつつの動きではあるが、募集はポスター方式による院内公募であること A<憂鬱座>内部組識を作り、活動を自らの手で進めていくこと B劇は創作を信条とし、共同演出を打ち出していること C酒による酔いをなくしたこと D地元で公演すること。神戸に公演に行くこと E<憂鬱座>のもつ、解放的に自らを自由に演ずること。舞台を共有することを打ち出していくこと 以上6点を総集しての回であったと思う。1つ1つについて少々考えてみよう。  @について、院内公募によるスタートは定着した。しかし、このことで個人に寄り添い個人を大切にするという我々の魂が失われたわけではない。1個人を大切にしすぎることをなくし、全体、つまりすべてのメンバーを個人として尊重しようとすることなのである。さらに、1個人を尊重ということの中では、この動きを真に生かしきれないとも感じたがゆえのことでもあるのだ。しかし、すべての個人に目をやることは、並大抵のことではない。昼間に日常業務をこなし、夕刻からの<憂鬱座>練習、その後の夜間の時間を使い個々人に付き合い、寄り添いの動きを転開していくしかない。まさに、体力と精神力の限界を感じつつの動きである。  A内部に組識を作り、職員が事務局となり、動きはスムーズになった。しかし、あまりにメンバーの経験を大切にしようと作為的になりすぎ、不必要と思われる部分もいくらか感じられていた。何を進めるにもその部門のメンバーを伴って進める。例えば、写真を受け取りに行くことから、宿舎の予約から、その条件の交渉、変更の連絡までとかなり細部にわたってまで行っていった。このためには随分と労力を使う。かなり時間をも必要とするのである。しかし、このことについて半分不必要と思いつつも、これが何かになればと思えて仕方ない。これだけのことをするのに、これだけの労力が必要であることをメンバーが知ることは、本当は大きな意味があるのかもしれない。  B劇は創作を信条としている。これは前にも述べたことと思うが、既成のシナリオでは、どうにも崩し難いものがある。さらに、自分たちが創り上げるものとしてやっていくことに意味があるように思える。これは、共同演出にしてもいえることではないだろうか。このときの作品も北杜夫氏の小説『船乗りクプクプの冒険』を元に、シナリオとし、様々に手を加えたつもりである。北杜夫氏にも一口乗ってもらおうと電話および手紙を出したが、葉書1枚に終わった。  C酒の持ち込みは、乾杯のときのシャンペン程度とした。今まで酒の席を借りて、何かを煮詰めていくことをしていたが、今回はその席を酒の酔いを借りずして行えたように思う。それは、今回のメンバーにもよることなのだろうが、たびたび内部から問題が提起され、何度となく話し合われた。その内容は、例えば、練習中、数名の者が遊んでいる場合、やっている者の身になり集中すべきであるといったようなことが、強く打ち出され、内部で話し合われていったのである。酒はなくとも心から酔えるのである。  D地元での公演を大切にすることが、前回から出されていた。自分たちの活動の拠点の人々に観てもらうことを大切にし、さらに神戸で公演することであった。神戸でも、我々の公演を見に来てくれる方がいる限り、やり続けようというものであった。  Eで書いたこの魂は、ほぼ定着しつつある。それは職員が大切にしているといったことだけでなく、<憂鬱座>経験者が、知らず知らずのうちに伝えていったものであるように思える。さらに舞台を共有する。観る者と演ずるものの役割の違いはあれど、共にこの時を味わいたい。相互の刺激があって初めて演劇は成り立つとの想いから出てきたものである。そもそもは、第2回カーテンコールのとき、蒲田行進曲にのって、観客をステージに上げ、共に歌い踊り、その場で感想をじかに語り合った。その感触を大切にとの想いが拡がっていったものと思う。この回では、さらにその想いは拡がり、演技自体も客席へと移っていったのである。  以上6つの点が総括され、第6回の公演は行われていった。それともう1つ、退院者の人々(何らかの形で、今までの<憂鬱座>に参加経験をもつもたざるにかかわらず)が、春休みを利用し、裏方の助っ人として加わったことである。この力を得て、さらに勢いづいた第6回であったと思える。  そして現在第7回が進みつつある。今回もまた、3つの点をクローズアップすることができると思う。 @<憂鬱座>心得試案の作成 A内部組識の活動の簡略化 B新たな演劇のジャンルヘの挑戦  @については、今回参加の職員が今までの流れを踏まえ、おのおのが試案を作成し、もちより、私の試案に沿ってまとめたもので、次の通りである。 一、我々は、劇団であり、演劇公演を最終日的として集まった集団である。 一、我々の演劇精神は、自らを自由にそして解放的に演ずることであり、公演に際しては、観客と舞台を共有したいと望むものである。 一、我々は、劇団の中において、自分のしたいこと、できることを最後までやり抜くものである。 一、我々は、個々人を大切にし、互いを磨き合い、高め合い、協力し合い、公演を成功させんとするものである。 一、我々は、自らも楽しみながら、諸事を行っていかんとするものである。 これをスタート時点で座員に伝え、途中および終了時点で、みんなで検討し作り上げたいと考えている。  Aについては、第6回のときにも述べたことなのだが、いつもの活動の遅れをなくすためと、職員の過度の多忙さ、いや限界をも感じ、あやふやな気持のままにやっているしだいである。  B今回の作品は、シェークスピアの 『ベニスの商人』を脚色し、宗教的色彩を取り除いたものなのだが、実に今までの動きの自由さを中心にやってきたものからいうと、感情の機微に富んだかなり難しい演技力を要求されるものへの挑戦なのだ。  このように、また今回のカラーをもった創作が行われているわけであるが、メンバーが1回ごとに変化することは、絶えず変化を示し、<憂鬱座>が古びてしまうことを防ぎ、より追求の道を与えてくれているように思える。 3 なぜ<憂鬱座>であるのか  今まで憂鬱座をやってくる中で、確実に「これでなければ」といった独特のものを感じてきたわけであるが、それはどういったものなのであろうか。流れの中で、事実、私が感じてきたこと、触れてきたことをもとに考えてみたい。  まず、「個人を大切にする」ということであろう。そもそものスタートは、個人寄り添いの動きから起こってきたものである。そしてメンバー全員に対して寄り添っていこうとしたことである。このことは、初め、この劇団に関わる職員が大切にしていこうとしたことであった。しかし、いつの間にかこの動きは、メンバー自体の中にも深く根をおろしていったように思える。少しでもこの劇団に加わり、何かをしていきたいと思うならば、いくらでも来て下さい、一緒に何かやりましょう。決して無理をする必要はない。自分のできることをやり、やりたいことをやりましょうといった雰囲気ができあがっていった。みんな実にうまく他者への配慮を行っていく。参加者にはその人にあった何らかの役割がみつけられていき、またその人のもつ何らかの光るものがあったとき、それが取り上げられ、大切に扱われていく。こうした中でまさにメンバーは大切にされていることを感じ、自分の存在を確認していくのだろう。しかもこのことは楽しみにつながっていく。自分の好きなことをやりつつ、しかもそれが全体にとっても有意義なこととなっていくのであるから、この上ないことである。すべての人にこのことが実現されているとは思わないが、その準備は十分にでき上がっていると思える。個人を大切にしていくことは、楽しみをも伴うことのようであり、存在感をも見出していくことのようである。そうしたことの拡がりの中で、バンドが登場し、踊りが登場し、<憂鬱座>の芝居自体にもバラエティが加わっていくのである。  次に卒業について考えてみたい。<憂鬱座>をやりきることに、卒業のイメージが伴い始めたのは、第1回のときからである。初代座長の彼女にしてもそうであった。急性期を乗り越え、自分自身の現実の姿、また自分の生活の場の現実を見たとき、悩み、病いを味わっただけに不安はとてつもなく大きい。その不安に向かっていくための準備体操であり、自分自身の退院前の卒業製作であったのだろう。他のメンバーの多くもまたそうであった。思春期の悩みを抱えた者にとっては、なおさらにそうした意味が強いように思える。当院に入院してきたとき、孤独であった者が、同世代の者と触れ合い、再び解放され、遊びを味わい、伸び伸びとし成長する力を取り戻していく。この過程の様々な場面を<憂鬱座>は、兼ね備えているように思える。あるときは、孤独であった者が、同世代と触れ合い、この活動をとおして解放されていく。またあるときは、我々の劇自体のもつ遊び性が、メンバーをのびのびとさせ、自らを様々に表現しつつ、それが認められることによってその人の伸びようとする力は補償されていく。そしてもう1つ、最後のジャンプ台である。現実に向かって戻って行くというジャンプ台である。「まきび病院」自体の日頃の活動の中にもこうした流れは、ごく自然にあるように思えるが、2カ月間の期間に渡って、その流れをもちながらやっていくだけに、その力はもっと強く、予想だにしなかったことが起きてくるのである。そして、それだけの経験が現実に戻っていく勇気を与えていく。つまりは、病院という段階を卒業し、次の入学先である現実に向かうということなのである。必ずしも1度の<憂鬱座>活動で卒業までこぎつけるわけではない。1度、2度、3度と回を重ね、徐々に先程述べた段階を経て卒業していくのである。  ここまで述べたことは、自由・解放ということが、その人本来のもつ力を助長していくといったことであったが、これのみで成り立っているわけではない。あるときはきわめて厳しく現実的な壁にぶつかることもある。演劇を公演し、多くの人に観てもらうという劇団としての最終的な現実がある。このことに向かっていくためには、前述したことだけでは足りないものがある。現にこうした点が多く活動の中で、メンバー自体から何度となく提議された。例えば、遊びの雰囲気が先行しすぎ、練習自体にまとまりがなくなったとき、「こんなことでよいのか」という声が上がる。パンフレットの製作をとおして、「何故、素顔、本名を使わないのか」と声があがってくる。こうした声を中心に話し合い、考え合うことによって、より深く全体・個人の問題が浮き彫りにされ、現実的な壁をも見つめていっているように思える。まさに実感を伴う活動なのである。  こういったことを含みつつ、<憂鬱座>は活動を続けている。しかし、決して仕組まれたものではない。職員・入院者が共に作用し合いながら、作り上げた共同作品なのである。みんなで助け合いつつ、1つのものを完成させていく。この共同体活動は、今の社会の中で、不足している部分を補償していくものといえるかもしれない。 4 外部からの眼  この<憂鬱座>活動を外部者はどうとらえているのであろうかと、ふと興味が湧いて 「いかがですか」と人に尋ねてみることがよくある。今まで尋ねてみた方の中では、さほど深く話してくれた方は、あまりないが、話してくれたことをまとめてみたい。  精神医療に従事していない、ほとんど知らない人は、こんなことを話してくれた。「患者をあそこまでできるようにするのは大変だろう。どうやって訓練しているのか」この言葉はいちばんきつい。我々のやっていることを職員による患者訓練ととらえられることは、何ともいただけない。私は訓練した覚えなどないのである。精神医療をいくらか知っているカウンセラーの方からも、これに近い言葉を聞いたことがある。このときはさすがにショックであったが、またこれが現実であるのかとも思った。  こうした見方とは別に治療といった側面からとらえてこられる方もいる。「治療効果はいかがですか。<憂鬱座>やって退院した方は、その後うまくいっていますか。」といった声である。現に我々の活動の拠点は「まきび病院」という医療の場にある。そうである以上、治療ということが付きまとうのもあたり前のことであることはまちがいない。しかし、それ以前に治療とは何であるのかということが問い直されるべきではないのかと考えさせられる。我々の活動は、今までの段階では治療ということを前提にしてきていなかったと思う。何らかのプラスは期待してきたには違いないが、治療するのではなく、共同体験の中で何かを得ていこうとする姿勢を大切にしてきたつもりである。しかし、こうした治療というとらえ方は、この声だけではない。新聞に<憂鬱座>の記事が載ったときにもこんな見出しがついた。「治療は社会生活の中で」「弱気な性格舞台で克服」「これぞ自然療法」といったものである。この見出しを見たとき、やはり治療であるのかと強い衝撃を受けた。また同時に良心的に我々の気持をつかんで書いてくれているとも思えた。ここで改めて治療について考えてみると、「する側される側に別れての関係」があり、それとは別にもう1つ「治療共同体」という考え方がある。これは「する側される側」の関係ではなく、まさに同じ位置に立ち、共同体の共同の作業として行われる。しかも、自然の流れをも含んだものである。こうしてもう一度新聞の見出しを見てみるとうなずける気がしてくる。「治療は社会生活のなかで」「自然療法」まさにそうなのだ。社会生活の中に、「当たり前」に治療的環境はあるべきであるし、それを受け入れるべきである。また、自然の流れにこそ治療はあるべきでもある。かえって治療という言葉にとらわれすぎていたのが、自分自身であるのかもしれない。  ここまで考えてくると案外、外部の方々はストレートに<憂鬱座>の活動を観、受け止めてくれているのかもしれないという気がしてくる。  これともう1つ、こうした医療とからんだ見方とは別に劇としてとらえてくれる方が、近頃、お便りをくれるのがうれしい。地元真備町での公演を子供と共に観たお母さんから手紙をいただいたときのことが印象深い。それは次のような内容だった。 (前略)  ここ田舎では、劇に出会うことは、あまりありません。本物の人間が劇をするということを味わわずして日々を過ごしております。テレビが劇の代理をするし、それを当然のようにして大きくなっている子供達、そして大人達、別に何ら不思議がりもせず、与えられるままの画像に見いって日常を送る日々です。一母親として、本物の劇を観せてやりたいと常日頃思っておりました折の貴方様の計画に出会いました。主婦として、無料というのが何とも魅力の1つでありました。  息子は入るやいなや、舞台に針づけになって唖然として観いっておりました。彼の友達も同じで、私の母もしばし口をポカンとあけて、観ておりました。その位、衣裳、メーキャップ、照明は、単調な日常生活を打ち破るすごい刺激だったのでしょう。 (中略)  なにはともあれ、最後のシーンには、皆様の一生懸命さに押されて大きな涙があふれ出ました。隣を見れば、さすが親子、母も涙しておりました。大変、楽しく感動的なひとときを過ごせたこと、御礼を申し上げます。来年も是非観せていただきたく思います。 (後略)  こういった方がいて下さると非常に安心を与えられる。医療を離れてしまうとこの劇団は生き残れない。対社会の中で劇団としては駄目なのか…という弱みを打ち払ってくれるような気がする。私は、劇団<憂鬱座>のあり方は、劇団のあり方、教育、今の社会に対しても通用するものであると思っている。このことに賛同を得たとき、真の<憂鬱座>が市民権を得ることができるときなのであろう。外部からの目を絶えず意識し続けることは、我々の活動を絶えず見つめ続けることでもあるのであろう。 あとがき この3年間の<憂鬱座>活動は、私にとっても自分を考えること、また人を考える上で大きなものを与えてくれた。現代における我々のもつ精神的ストレスは、ますます多様化している。これは、何故であるのかと考えさせられる。人の精神の世界は、とてつもなく深い。1度迷い込んでしまえば、いくらその中を探り続けてもめったに出口など見つかりはしない。では、何が出口へと導くのであろうか。それは実感であろう。実感がないところにおいては、真に精神の回復は望めないのではないだろうか。こうした意味において演劇は、舞台上では虚構という自由に受け止める力を持ちながら、必ずそのたびごとに実感を返してくれる。この実感を拾い上げる目だけをもち、大切にメンバー全体に返していけば、出口は見つかるように思えてならない。人の心もつれた糸をほどくことと、心が成長し、それが報われること、これを可能ならしめてくれるものこそこの劇団実践で得てきたものであろうと思う。これから先、この実践がどうなっていくのか。全くわからず不安である。しかし、わからないからこそ期待もできるのであろうと1人考えている。 第10章 私の履歴書 1 K町保健婦として  1960年9月1日付でK町保健婦となった。緊張のゆるまぬ3日後、結核住民検診場へ出かけるため衛生関係者2人と私とでジープに乗った。大雨の後カラリと晴れた気持よい日であった。標高300から400メートルの山々が連なり、山に囲まれた地形のK町である。日頃は水量もほとんどなく子供が泥遊びをするくらいの川であった。  当日は濁流が渦をまき道路すれすれにあふれていた。舗装していない、でこぼこ道を走るジープの上では、乗せていたパイプ椅子と人間が一緒になって飛び上がっていた。その小川にさしかかったときは、さすがの運転手もゆっくりといったにもかかわらず路肩がくずれ、アッという間に川へ横倒しとなり転覆してしまった。あーブクブク、パイプ椅子が重い、身動きできない、川の中の泥水は案外明るいものだ。もがいている私を誰かが引き上げてくれた。もう少し遅れていたら私は駄目だったに違いない。次の日はショック熱を出し休むことになる。このショッキングな出来事により、少しだけ名前が売れた。K町での保健婦としての仕事の初まりは、そんなところから出発した。  A郡内の町に保健婦が採用された第1号が私である。以後各町に次々に保健婦が充足されていき、同志が増えていったのだ。行政の中での公衆衛生は、掘り起こせばきりなく拡がり、疑問の積み重ねであり、しかも前へはなかなか進むことができない大小様々な関所がある。住民の要望として新しく目標を決め、工夫して設定しても難行する。それは、はるか明治に組立てられ形づくられ連綿と続けられてきている行政の「枠」である。やり換えることは、行政の中では至難なことである。さながら不沈空母に鉄砲を打込むようなものである。  さて保健婦はどう見られていたのか、20数年前の状況である。「ホケンフさん、ああ保険屋さんか、うちは入っています」といわれた時代である。当時の公衆衛生の中で取り組んでいた業務は結核と母子対策である。結核住民検診、精密検診、家族検診、妊婦検診、家族計画、乳児検診、育児相談、事後指導、対象者の把握、計画、日時場所の設定などきっちりはめこまれており、その中を縫うようにして訪問活動が行われる。その他、文書発送などの仕事もある。保健婦は何をするものぞといいたくなるほど、追いまくられて、うかうかしていると何が何だかわからなくなり、事務業務の中に埋もれてしまって自己嫌悪に陥ることがしばしばである。  末端行政の中での悲哀をかみしめるときでもある。また何でもやらされる、何でも屋の保健婦となっていき、「保健婦無用論」を出されたのも自らが招いたものなのである。そんな時、自分との対決の場面は幾らでも出てくる。思い悩む若い保健婦が、これではいけないと気づいては、勇気を出して思いきって上司にぶつけてみる。上司たちは何十年も居着いて来た苦労人である。よく理解して自分と同じ想いとして若い保健婦を認めてくれ、育ててくれる人もあるが、そう多くいるわけではない。その人たちもそんな戦にいつか疲れ果てて権力の中にしみこんで身動きできなくなってしまっているのである。いつの間にか気がついたら権力指向に傾いた保健婦になっていることになりかねない。何も見えなくなってくる。常に住民サービスを考え、コツコツと歩んで来たすばらしい保健婦さんが今も元気で働いている。その人たちの瞳はキラキラ輝いている。  結核対策の業務は10年以上続いた。これほど効果的であり成果の上がったものはなかったのではないか。徹底した衛生教育と検診、早期発見、早期治療、家族検診など、確かに死亡率は低下し患者数も減っていった。隅々まで行き届いていった管理体制は、すべてのものに当てはめられていくことになる。集団と個への働きかけは見事なチームワークがとれていた。保健婦もその一翼を担って個への働きかけへ全力をつくした。訪問になれていない住民は、はじめは、いろんな形で拒否反応を示した。一丁くらい離れた所に自転車を置いて制服を脱いでの訪問もあった。地区の人に知られたくない、他人のことは知りたい、住民意識もそのようなものであった。病いを治すよりもまず外見を飾りたい、前近代的な考えで占められていたのである。  その頃から少しずつ行政の中での働くコツが挫折を繰り返しながらも身についていったと思う。ルールを知らない、手順がわからない、建前社会が見えない、一直線上を進む幼稚さであった。  1人では絶対仕事はできないことを知った。予算がない、仕事を増やすと、うるさくいわれながらも、周囲の事務職員たちにも「住民のため」「住民サービス」という大義名分がある限り誰にも否とはいえない状況づくり、よい理解者を地域にも、職場にもつくりながら皆を巻き込んで効果を上げるにはどうするか。上から見ると、とても手におえない兵隊に育っていったのかもしれない。どうやって、人と組織を動かすか。人は皆、安易に流れやすいばかりではない、1人では何をするにも不安であること、根底には何かやり甲斐のあることを求め続け、自分を燃え立たせたい願望をお互いもっているものだと思う。そうでないと生きている意味がないではないか、感じて動く! 緊張する! 連続させる。  行政は評価され続けるところ、誰が何をした、誰がやったかと、とことん追求される。ことに末端町村では常に住民の眼があり、意地悪く批判する視線がある。その上、定着固定した複雑な人脈の中で私生活も見られ続けられる町村職員は、身動きができず、ミスさえなければという安易さに、ついついならされ、卑屈になり単調な日々にならざるを得なかったと思う。その点地元の外からの通勤者であった私は、えたいの知れぬ人脈も関係なく、かなり自由に振舞える環境におかれたとも言える。  結核予防法35条に基づき「ガフキー5号」の患者さんに療養所への入院を本人も家族も納得の上で3日後に追った日、大喀血して亡くなった男の人の顔は、今も忘れることができない。私の説得に何か不都合があったのか、と思い続けた。  また、1年間入院していた65歳の男の人が療養所から無断で逃げるように帰宅したという連絡があったことがある。本人は真面目で朴訥な人であった。多分、端的な私の質問に耐えかねたのだろう「別に理由はないが嫁さんに会いたかった」とポツリといった言葉から私はハッと気付かされた。家族の中に長期療養者が出ると、病院でも地域でも、いろいろと暗い話やまた一方では、華やかな波紋をえがいたときであった。改めて家族、夫婦、生活、経済的なことなど、人間であるがゆえに起こるであろう問題を丁寧に見ていくことの大切さを、いろいろな場面で教えられ続けた。ともすれば早期発見、早期治療の言葉に動かされ医療ルートに乗せてあげればよいという浅はかな行動で、傷つけたことだろう。病いだけしか見えなかったつまらない保健婦だった。  公衆衛生行政は最低10年以上かからないと効果らしいことは現れてこないといわれ、随分息の長い仕事である。行政の中でも目立たない見えないものとして、福祉行政と共に、ともすれば片隅に追いやられる。ゆり籠から墓場までを一手に引き受けなければならない職場では、繁雑な日々に追いまくられるため、事務職員にとっては嫌われるポストであったらしい。  人間にとっての生と死をもっとも身近に厳粛に受け持つべきであるのに、住民の支持によって選出された人たちは、常に支持された住民と票につながることが意識の中にあり、派手な行政に目を向け、弱者に対しては断片的な支援にとどまり、道路学校建設などへの目に見えるものへの予算導入がなされ続けた。保健行政の中での保健婦の存在は、うっかりしていると、その働き方によれば、飾りものにしかならない悲しい姿になりかねないのが当時の状況であった。  この頃より隣町同志の保健婦の横の交流が活発になり県下初めての「郡市保健婦会」が難産の末自分たちでつくり上げることができた。保健婦無用論に対するデモンストレーションとなる。お互いの問題、生きざまを共有できる場である。愚痴る一匹狼たちの憩の場でもあり、きっちり理由付けして、会則に基づき、少さいながらも予算も勝ちとり、1人でできないことを数人では力が出ることも体験した。また各市町の上司にとっても会としての意見、方針は文句の出される筋合のものではなかった。  それぞれの業務を振り返って、1961年、母と子の幼児クラブ(つくし会)が生まれる。子供をもつ母親が集まって、つくり上げた会である。20数年たった今も連綿と続き、自主的に運営が続けられていることは誠に見事である。  成人病対策について感染症に変わって病類別の統計上にトップにおどり出てきた慢性疾患は、やっかいな病いである。毎年検診が繰り返され、住民の中に浸透されていき検診も定着してくる。その事後指導としてチームをつくりきめ細く、小地区を歩いたことがある。1カ月20数カ所を車で移動するのだ。保健所栄養士、普及所普及員、役場職員、保健婦のメンバーである。資料づくり、スライドの買入れ、材料買出し、LPガスをもち最少限の炊事道具一式を積んでの移動である。実地に食事づくりをやってみるのである。物珍しい、コンビと内容で、ずい分みんなはりきって出かけた。とても好評であった。約5年ほど続いたが、もっと濃密な検診体制に入っていく。  多病世帯訪問。レセプトによる多病世帯を選び訪問したことがある。家族ぐるみの人間模様を様々な角度から見せてもらった。我が身に比べられる密度の濃い身につまされる内容である。冬は家族と一緒にコタツに入り、夏は涼しい場所で内職を手伝いながらお年寄の昔話、嫁姑の言い分を両方の立場で主張する様々な相剋、子育てのこと、病いのこと、夫婦とのことその他雑談が続く。私はいったい何をしているのか、帰路につくたびに考えさせられた。しかし無駄ではなかった。顔なじみの人が多くなり、いろいろな相談が持ち込まれるようになる。報酬をもらって人に語れない物語を聞かされる、そう思うことにした。訪問のしんどさからはかなり自分を楽にさせることができた。口ベたで話せない私は、ひたすら相手の話を聞かせてもらい続けたのである。  暑い日、訪問から帰り、一息ついていると、黙ってそっと冷たい麦茶が置かれることがある。何とやさしい心くばりか!若い人にもこんな気くばりの人がいるのである。時代が変わり世代交代があるとしても、こんな思いやりの心が素直に出し合えば、どんなに世の中が住みよくなることだろう。退庁時間を過ぎて訪問から帰ってみると上司だけが1人ぽつんと待っていることがある。「やっと帰ったか、やれやれ心配した」。たったこれだけの言葉の投げかけで兵隊は感激して単純に動く場合があるのだ。「わずらわしいことを避けて通るな」。ある上司の机の中に入れてあったメモの言葉である。その上司は毎日机の引出しを引くごとに、その言葉を読み続けていたに違いない。そんな人もいるのだ。  老人クラブにも呼ばれると出かけていった。昔話の中に私たちに伝えて下さっている数々の教えを思い出す。若い者に負けない知恵を残してほしいものと、いつも感じていた。私は幸いにも稼ぎながら誰よりも精神的に成長させてもらったのである。 2 行政の中での精神衛生活動  1971年頃から、保健所保健婦によるK町内の精神障害者に対する訪問が始まった。訪問カードによる家族の状況把握、退院後の生活指導、治療中断防止など、結核管理体制とまったく同じ流れであり、初期の調査訪問程度ではなかったかと思う。保健所保健婦と市町村保健婦との業務については、ことあるごとに、論争の的になっていたが、保健所を拠点とした公衆衛生業務の中の保健活動であり、常に転勤を意識させられた管理体制の中での動きは、とても苦しいことである。  また甘く見れば、逃げられるという安易さもうかがわれる。市町付保健婦は定着した場での動きであり、逃げられない状況である。「○○保健所の○○保健婦です」「役場の○○保健婦です」と訪問時の自己紹介をして住民と接したとき、保健婦を受けとめる住民側の価値判断によって、とても微妙なニュアンスの差が感じられるのである。劣等感と優越感の比べ合いといえば大げさで端的になるが、もっと根の深い問題であり法的なものが存在していても曖昧にぼかされている部分でもある。お互いが席を置いてみなければ、わからないことである。管理社会における縦割行政がつくり上げた名残りの1つである。くそ意地がある保健婦であればあるほど、お互いに当事者としてはよくわかる話である。  時がたつに従って命令系統が上から下へとご無理ごもっとも主義がとおらなくなってくるのである。各町のニーズの違い、要求が多様化している中で少しずつ下から上へと変革していく状況となってきていた。土着性を守りとおした市町村保健婦のねばり強い動きが少しずつ目立ち始め、住民に即対応できる体制づくりの時代がやってきたのだ。しかし所属の如何を問わず保健婦はお互いによく論じ、よく研究し、行動的な人が多い。家庭訪問を続けていくうちに家族ぐるみの話となり最初の目標が薄れていき、家族と一緒になって迷ってしまう。そしていろいろな人たちを引っぱり込んでいくようになる。生活する場に病いがあり病いが生活の中からつくられていくように見えてくる。結核の訪問が精神病院よりの退院者であったりして精神については、よけて通れなくなってくる。  しかし戦前の看護教育を駆け足で通り過ぎ、精神の知識もない私には不安は益々高まるばかりだ。同僚、上司に相談しても、「精神病はこわいよ。放っておくほうがよい。寝た子を起こすようなものだ」「保健婦がそこまでやらなくてもよいのではないか」いつも「あなたは、やりすぎだ」という答えばかりである。  ある日結核の精密検査を勧めるためにQさんを訪問した。玄関は開いているのに無人のようで、家の回りを歩いて様子を伺っていると人の気配があり、ふり向くと、当家のQさんの妻らしい人が佇んでいる。聞いていた情報によれば、妻は精神病院に入院中のはずなのに。この人に 「奥さんですか」 と聞くと黙ってうなずく。  家族は男の子が3人、成人したばかりの2人は大企業に就職、1人は高校生である。なるほど女気のない殺風景な家の中だ。縁側に腰をかけて話す。奥の部屋に布団の端がのぞいている。ずっと横になっていたらしい。初めての出合いである。自己紹介の後、うつむいたまま少しずつ話しだす。入院中であり、今外泊中であること。早く退院して皆の世話をしたい、しかし食事も作れない、家事ができない、その点が彼女のいちばんのつらさららしい。子供たちも話をしてくれない、夫はやさしくない。10年間入退院の繰り返しであったのだ。顔色の悪いおとなしい善良そうな人である。緊張はほぐれ誰でもよいから話をしたい気持のあることが伝わってくる。体は重そうで、しんどく何をする気力もない、病院はいやだといった。あまり深入りすることは私自身できないのである。わからないのである。  忙しさに取りまぎれ2カ月過ぎたとき、彼女の死を聞いた。わからないではすまされない、何かしてあげることはなかったか、あるなら、どうしてあげればよかったのか、悔やまれてならなかった。つらかった。  ある脊髄カリエスの45歳男子Rさんの家を訪れる。Rさんは近隣に聞こえた秀才である。私はRさんには軽くあしらわれて翻弄され続けて人間関係ができたようなものだ。医師から治療中断でいつも連絡があるのだ。Rさんのほうが医療についてはベテランである。自分の病いについては私のほうが教えられるくらいである。  Rさんに会いにいくのは、つけたりで同居していると聞かされているRさんの弟に会いたいのだ。近所の人の話では、牛小屋に入れられて見たことがないという。時々変な声が聞こえるという。Rさんは、いつも私を試しながら楽しんでおられる様子であった。ずい分見識のある人で、読書の中の話は、いつもなめらかである。それが弟さんの話になると不気嫌で、帰ってほしいと横をむく。またの日、Rさんが不在で母親が在宅していた。Rさんの父親はすでに亡くなり、Rさんの母親は年よりふけて見え、いつも黙って挨拶だけであるが、Rさんと長話をしている私をそばでじっと見ているので、間接的には親しみをもっていた。 「ご家族は弟さんもご一緒のようですが、一度もお目にかかったことはありませんが」 一瞬沈黙があり、  「見てやって下さい。あの子は気違いになっているんです」 老朽化した裏の長屋の入口に連れて行かれた。その中の一隅に昔使用した牛小屋があった。竹で編んだ明り取りの窓が上のほうにあり、「かんぬき」が5、6本くらい見える。3畳くらいの広さか、私には薄暗くて少しの間よく見えない。暗さに慣れた私の目に入った情景は今も忘れられない。隅のほうに、裸の男がうずくまって首をたれている姿が目に入った。私はいたたまれず外に飛び出した。明るさがまぶしく母屋で息をつく、間もなく腰をかがめて母親が入って来た。 「保健婦さん、見て下さったか、あれが息子の○○です、あなたなんかには、わからんでしょうなー。…私は、ずっとあの子の看病をしてきたんです。親類も、はじめは入院させたらといってくれました。そんなときもあったのですが私も強情で今日まで看てやっています。あんな状態ではとても入院させるなんて可愛そうです。家でああして人に見られずにいるほうが私にとっては安心なんです」 と淡々と話した。それから後は、この家へは行くことがなかった。間もなくその人は亡くなった、その後Rさんも母親も共に入院したと知らされた。 「あなたなんかには、わからんでしょう」の言葉は家族の心の奥深く閉ざされているもので、医療者も含まれた社会に対する無念やりかたない想いであったのかと考えさせられる。どこまでも続いていく病いに対する怨念の呟きであろう。  1973年であったか、1週間くらいの精神衛生研修会があり参加する。県立病院の実習も行われた。出席者は30人くらいだったと思うが町の保健婦は私1人であったと記憶している。  1週間や10日の研修で、すぐ役立つものではない、ただ病院実習では、地域にいる者にとって驚くことが数々あった。入院をいやがる人たちの言葉に嘘はなく、私もあの鍵をいちいちかけなければならない理由に驚き、ガチャガチャと耳に残る音に閉ざされていく中の人たちを哀れと思い、自由に外に出たときは、私自身ホッとしたものである。聞き慣れない閉鎖病棟、開放病棟の名前、ざわめく異様な雰囲気とその中の人たちのただならない風俗と顔貌、一体これは何なのか、とにかく、事実をもっと知ろう。時間を見出しては病院、医師連絡を続けながら独自に動いてみた。  K町は小規模な第二種兼業農家がほとんどで自家消費の米作と一部果樹栽培農家で中小企業が多く、町外に出る勤労者も多く、1年中忙しく、よく働く町民である。訪問しても留守の家が多く、思いきって休日を返上して訪問を続けてみる。病いといわれる多くの人や家族の人たちと出合っていく、研修会にも進んで発表し、皆の意見や指導をあおいだ。  倉敷地区研修会で症例発表のため参加したとき、助言者として出席していたのが現在の一色院長である。一見野人のような、医者に見えない医者との出合いであった。真面目な助言であったと思う。1974年2月であった。私の価値意識のくずれだした最初である。一色医師は散会の後、私のレポートを読んでいたが、ふと近付いてこられ初めて向かい会い、話が続いた。ここから世にもまれな行動がお互いに始まるのである。以来10数年間のお付き合いが続いている。当時彼の勤務していたT病院では開放化運動の真っ只中であり、そのようなことを知るよしもない私であった。  3月より医師と保健婦と同伴訪問が始まる。週1回である。4月よりS医師も参加、5月よりY医師も参加し同伴訪問が続く。当時私は、何と暇な医者たちだろうと思いつつも、若い医者たちに取り囲まれてエネルギッシュな雰囲気に突入していく。  そのときの行政側と私を取り巻く周辺はどうであったか、当時の精神衛生関係は県の出先機関である保健所が中心であった。それを飛びこしての行動である。批判、不満など大いにあったと思う。しかし、保健所も町側も十分とはいかないまでも理解ある協力をもってもらった。その理由としては、  @特権階級である医師が自らボランティア的に町内に精神障害者といわれ、皆に嫌われている人たちのために訪問してもらうということ。理解できない不思議なこと、医者に対する畏敬の念として何らその行為を止める理由がないことである。  Aそのときの理解ある上司であるK氏による町長への説明と、町職員としては異質な人柄と正義感をもつK氏の尽力にほかならない。 これ以後K氏とも行動を共にするのである。  役場内でだんだん孤立する保健婦への側面的な暖かい支援である。  病院の中にいてはわからない地域。一体地域ではどんな生活があるのか、どうなっているのか、ごく素朴な発想から、薬をもたない3人の医者たちと精神衛生のまったくわからない保健婦との奇妙な同伴訪問が始まった。  私の毎月の保健婦月報には、精神の訪問件数と時間数が、うなぎ昇りに上ってくる。地味な動きがだんだん派手に見えてきだした。  しかし、どこからも抗議を受けることはなかった。私は医者の権威に守られていたのである。「あの人がお医者さん」と一瞬、目をそばだてる病者の家族の人たちや周囲の人たち、医者らしくない3人の医者は、ごく「当たり前」であるひとりひとりの人間として不思議に思わす雰囲気をあたりにまきちらしていった。こうしてK町の精神衛生活動は始まり掘り起こされ続けるのである。  安易な入院をさせないで、地域で支えられるだけやってみよう。精神衛生法29条の措置患者を出すまいという目標を掲げる。同時に町報による広報活動も始める。S医師の所信として掲載された文面には「自分の中にある差別や偏見をどれだけ取り除くことができるか、そして精神病についての正しい知識をもち温かいいたわりと、やさしい受入れがあってこそ、患者がその中で快復する」という事実が、わかりやすく書かれていた。地域で長い年月、じつと息をひそめて、病者を抱えて肩身の狭い想いで、耐えながら孤立していた家族の人たちも、もう待てない状態であったのであろう。少しずつ自ら相談に来るようになる。本人を含めた家族や周囲の緊迫した中で、もう支えきれない、土壇場で入院しかないと結論が出たとき、医者たちが何時間も費やして本人を説得している姿に家族は驚き、患者の人権を守る、「当たり前」の行動を身近に見ることにより、その情景は深く心に感じていったと思う。安心して病人を委ねられる、ホッとした気持。「まかせて下さい」「一緒に考えましょう」こんな医者たちの言葉は家族にとって、どんなに心強い支援であっただろうか。そばにいる私も思わず同じようにうなずいてしまう。家族は病者自身の苦しみより、自分たちの苦しみしか感じられないようになってしまっていた。  家族会「希望の会」が生まれる。家族同志が話し合える集まりが始まった。医者たちも同席する。家族の要望で、日曜日、場所は町役場を離れた公民館である。ひっそりと集まりたい家族の心情である。1974年10月世話人会の集まりがやっとできる。自己紹介やら現在の病者の状態やらを語り合い、将来に希望をもつことを支える意味で「希望の会」という名称で誕生した。退庁後、家族の家に集まっては医師も参加しての深夜に渡る話が何日も続けられた。  発病のときの話、病者の結婚、家族兄妹たちの結婚、入退院の繰り返しのこと、親なき後の不安など、語ればきりのない年月である。 「あなたなんかにわかんないだろう」といわれた母親の叫びをまた、脳裏に思い浮かべながら、黙って聞き続けた。  世話人会の中にリーダー格のEさん(女性)がいた。ある教会の指導者である。的確な判断力、説得力は抜群である。病者のもっともよき理解者であり、歯に衣をきせない、迫力のある言葉は、ぐんぐん世話人たちを引張っていった。  こんな涙のくり言を何時までも言い合っても仕方のないことだ、病んでいる者たちは今後どうしてやっていったらよいのか、どこに生活はあるのか、どう治していけばよいのか、社会の中で少しでも住みよくしていくためにどうすればよいのか、そのためにどこかへ働きかけ、どんな動きが必要なのか。真剣に病んでいる者の立場で考える方向が出てくるようになった。会則をつくる、会長や役員を決める、県家連への加入をする、そして出席する。連帯感の中で少しずつ方針が決められるようになる、事業計画もでき上がってくる。 月1回の集まりが、始めは気が重く、Y医師と同じ想いで日曜日、出かけていった。会を重ねるごとに、この重い気持が薄らいでくる。病んでいる人も家族も表情が自然に明るく仲間意識のまじわりが濃くなってきたからだ。1974年8月、県南工業地帯に就職していった退院者と地域の夜間診療のために、倉敷市に鶴形診療所が開設される。  医者たちもそれぞれ行動範囲が拡がっていきK町への対応が困難になってきていたが、真剣に取り組む医者たちを慕って、病者や家族も数を増し、退院した人や、地域の人たちも自分の意志のままに診療所に訪れるようになっていく。家族の集まりは続いていく。「希望の会」の忘年会や新年宴会は楽しい思い出である。  皆いっしょにおでんを食べ、酒をくみかわして、歌い踊り、フトこの人たちは本当に病んでいるのかしら、長年苦しみぬいた家族の人たちなのかと一瞬感じることもある。ごく自然である。言葉の出なかったTさんが突然マイクをもって歌いだした。「高校三年生」の歌である。母親は、びっくりして「まあ、この子は歌を知っているのか」といいながら涙をふいた。Tさんは歌い続ける。遠い昔の青春時代であった思い出の歌であろう。集まることに意義があり、話し合うことに意義がある。そのことによって少しずつ変わっていくのだろう。病者も家族も地域のすべての人々も−。  内職場を行政側がつくった。精神病院に収容隔離され、社会から閉ざされた人たちは、どんなに自由がほしいことか、毎日の祈りにも似た気持で退院を待っていることと思う。その想いをもって社会に出てきた人たち、その人たちはほとんど床の中で終日暮していることが多い。何年間空白があったか、家庭にも居場所がないのである。そのつらさに耐えて、ジッとあたりを伺うように閉じこもるようになるのだと思う。例外はあるかもしれない。皆、敏感で感じやすい、やさしい心の持主である。外へも出ていけない、何もすることのない手持ちぶさた、行き場がない、仲間がない、誰もわかってくれないつらさ、就職しようと勇気を出して職捜しを始める人もある。  やっと見つけた職場で何となく違和感がわく、精神病院へ入院したことが差別されるように思われる。無口になる。馬鹿にされるように思う。トラブルが起こる。仕事をやめる。皆、同じ繰り返しであることを語ってくれる。社会の風はきつすぎる。もっと柔らかい風にあたることからの訓練が必要なのだ。  家族会のYさんの家の離れが内職場として提供された。1975年12月である。内職の斡旋は行政側が引き受けた。家から一歩も出られなかったUさんも思いさって勧めてみる、姉さんと2人で歩いて出てきた。1年後はUさんは誰よりも、きれいに手早く内職の仕事ができるようになっている。家からの開放が、見事になされた。残されていた可能性が少しだけ出てきた。1カ月間は家族や親たちが、当番制で内職の場へ通った。初めて家族から離れる不安、小社会での人間関係の心配、近所の人たちへの配慮など−。  内職場での各自の自立が少しずつ目立ち始めた。家族が世話をすることが、かえって自立心を失わせていくことに、家族自身が、気付いていく。家族たちは見守る態度に変わっていき、他の家族や病者の状態を距離をおいて見る余裕ができるようになってくる。病者への関わり方を相互に指摘し合えるような視野が広くなっていった。皆と食事ができるようになる。仲間同志が、いたわり合う。生きているという実感が出てくる。近所の人たちの理解もできる。日常の生活の中で身につける「当たり前」のことが閉ざされていたのである。恋愛も生ずる。いさかいも、皆の中から始まり、誰かに収められるという人間らしい展開が繰り広げられていく。  家にいて辛い、行き場がない病いをもった人たちが集まってくるたまり場のような場所になってくる。家族会も1つの集団としてK町内でも少しずつ認められるようになり、内職場としてどこかよい場所はないか、町当局(町長)に請願書をつくりお願いにいく。町議会にも、役員が揃ってお願いにいく。町議会を傍聴にも出かけて行く。病む子をもつ親たちの、ひたむきな団結の姿であった。  町内には立派な公共施設が、ぞくぞくとでき上がりつつある。弱者のささやかな願いはかなえられるのだろうか。議論が続けられた結果、土地はあった。建物も小さなものであるが、予算が取れた。2部屋とトイレと流し場つきの簡素なものである。しかし事はスムーズには進まなかった。完成が近いときである。  建物のできる地区の人たちに対する十分な話し合いがなされず、了解のないままであったことに不満が爆発し、突然、地区の住民の反対著名運動がもち上がったのである。25世帯のうち24世帯の署名が行政側に送られてきた。その内容には、差別的な言葉が当然のように羅列され、危険な精神障害者の集まる場所を当地へつくるとは何事だ、というわけである。  行政側の助役、担当課長と地元との話し合いがもたれ、何とか円満に解決したが、地元民に迷惑をかけないようにという要望が出たようである。障害者に対する処置は、何か起これば、治安維持の方向が明確に表わされるのである。病者を地域から排除し、病院へ隔離収容してしまう、地域に住めない状況を孕んでいる。  むしろ問題が起こったとき、どう対応していくかによって、閉ざしているものを明るみに出し続けて逆に理解を求める積極的な努力の苦しい課題があるのである。閉ざしてはいけない。地域の開放は、むしろ周囲の人たちの働きにかかっていると思われる。そうでないと病者が安心して生活する場はつくれない。 K町を去るにあたって  約10年K町における私の精神衛生活動は形の上では終わった。1982年3月末をもって退職した。しかし病いは、今もなお関係するすべての人に、しんどさは増え続けているのである。何と、やっかいな病いであろう。わずかに家族会、作業場は形として残った。  しかし定着してしまった感じである。次の方向が見つからないのである。だが、何もないより場所があるだけでもよい、行き場のない人たちにとって、くつろげる場所であり、拠点ではある。そしてこのままでは意味がないのである。あわれみの対象であってはいけない。  だが中には、病いをもった人と家族の人たちは出てこないで、それぞれ孤独の道を歩いている人々もいる。家族会、患者会、作業場を遠くから、じっと見つめながら自分の中へ支えとしてもち続けている人たち、逆に反感をもたれたり、自分のところは家族会に集まる人たちよりは病いは浅いのであると心に思い続けて会に出ない人など、多様な様相を呈している。いつの間にか会へこなくなって入院をした人たち、同胞の結婚話に目立った行動はできないと、去っていく人、家族会、患者会の発展は、強引なものでなく、自然に集まることでよいではないか。  苦労して始めた世話人などの親たちが亡くなっていった。親の死後、病いをもつ子供たちは病院へ逆もどりである。わずかな医療者の頑張りでは、もちこたえられない。せめて病院の中で人間らしい心をもち続けてもらいたいと願うのみである。しかし人間は一人では生きていけない。人間の弱さの支えを自らが取りもどしたではないか。少数ではあるが仲間ができ、生き生きとした生きざまを自分たちで作ったり、小社会でなされたではないか、そう思いたい。  まだまだ、どれほどの人たちが、かたくなに閉じこもって、見えない所で、あがき苦しみ、社会を怨み、病いをのろい、悩みにうずくまっていることだろうか。社会のすべての人が弱者を支えよ、生きている者の義務ではないか。そのような大きな、息の長い暗夜のような働きが残されているのだ。手探り、手作りで共に生きていく作業は続いているのである。  理解者を増やし、外から支えるメンバーになれるかは、私の中で疑問と課題として残っていった。 3 訪問深夜の出来事  秋の取り入れの忙しい時期であった。10月も終りである。それほど寒さを感じさせない心地よい夜であった。目的のその家は、刈入れのすんだ田んぼのあぜ道を通りぬけた野中の一軒家、それがV君の家である。家族は両親と妹の4人暮しで兄は就職して外に出ていた。  暗闇の中を歩いてやっとX君の家へたどりつく。先日来より母親の訴えが続き、親に金をせびり出し、しぶると次々に家具道具を壊し続けていたのである。3人の家族は恐ろしくて、いたたまれない状況である。X君はもう20歳にもなる。父親の給料日が近づくと言語、行動が激しくなってくるのである。言葉で言いつくせない緊迫した様子である。農家で田の字型の昔の家造りである。広い土間に洗濯機が横だおしになり、家財道具は皆壊れかかっているようだ。ふすまに穴があいている。裸電球が1つ、ゆっくりとゆれている。 X君が背を向けてテレビを見ている。  先日来より母親の言い分も十分聞き周囲の状況の判断もみすえた上で、私たち4人(医師2人と保健婦及びK氏)は、X君の言い分をよく聞いて、何とか今後の方針を共に考えてみようとの、まったくの善意から出た訪問であった。深夜でないとX君は不在が多いので、このような時間になったのである。  「今晩は」ゾロゾロと4人が入る。母親とはすでに了解ずみである。父親は昼夜2つの仕事をこなしている元気者で今夜も不在である。  母と妹が土間の一隅から、じっとこちらを見ている。周囲の人々に悪玉と見なされ病者に仕立てられているX君である。私たちの前に座ったX君は目鼻立ちの整った顔立ちの青年であるが、その目は、すさんだ暗い目つきである。  話は30分で終わった。話がかみ合わないのだ、長くなればなるほど、意志の疎通が開きすぎるばかりである。X君の気持の高ぶりを感じたのだ。誰もが、まずかったという想いをかみしめるばかりである「出て行け!!」という言葉に対し「夜分すみませんでした」という言葉を残してこの家を引きあげた。外は暗闇が増して、4人は一列になって、元の道をスゴスゴと歩む。ふと感高い女の叫び声!!「そっちへ行く!!早く逃げて下さい!!」振り返ると、我々の後に人影らしいものが見える。走ってこちらに向かっているようだ。X君が追い駆けてきているのだ。4人は足早に走り出そうとするが、暗い慣れない野道である。  「危い!!」誰かの叫びと共に私はドンと後から押され田んぼの中に横転した。後ろにいた者が田んぼの反対側の溝の中に落ちる。後ろ2人の動きはわからない、一瞬の出来事である。医師の1人がX君を、はがいじめにしている。X君の手に鋭利な刃物が光って見える。刃物を取り上げたとき、やっと母親が追いつき、X君を引っぱって何とか帰って行った。  やっと気を取り直したが、Y医師が眼鏡が飛んでしまったという、そして顔を手でおさえている。顔が黒く見える。田んぼの中に眼鏡は見つかった。血が出ている。車に戻って明りで見ると、出血は激しい、目の下鼻の横を刃物で切られたのだ。眼が開かない。2枚のハンカチは見るまに赤く染まる。私は気が遠くなるような感じがした。何もしゃべれない。K氏の運転で自動車は急ぐ。ある町内医師を尋ね、夜遅いが特別なはからいで簡単な応急処置をお願いする。「鼻の横でよかった。早く縫合しないといけない」といわれ、救急病院へ急ぐ。手当−帰宅、朝まだきであった。  それから後、4人共このことについて口を閉ざして話したことはない。Y医師はいう。「病者が病院の中で受けた数々のうらみはこんなことではすまされないだろう」と。  大人4人の行動に甘さや、傲慢はなかったであろうか。Y医師の眼鏡の下の傷あとは、当分正視できなかった。どう話したらよいかいうべき言葉は見つからなかった。何年も季節の変わり目には、あの傷は痛んだに違いない。その痛みと共にどう感じて過ごされたことだろうか、今に至っても話し合ったことがない。  X君は、おとなしい小学校時代を過ごし、よく働く両親の手伝いをしていた。ごく平凡な子供であったという。小学校高学年のとき近所のガキ大将に誘われ、万引をやってしまった。補導されたのはX君だけであったとか、ぶきっちょなX君が1人捕まったのだ。田舎では悲しい出来事である。この頃から近隣からも疎外され、何をやっても悪玉となってX君に降りかかってくる、無口なX君の弁解は逆に誤解されてはX君に返ってゆくのだ。  地域でも問題児としてレッテルを貼られ、学校でも同じ取扱いを受けた。両親だけのふんばりでは、どうにもならなくなるほど追いつめられていった。ある日、学校長、民生委員、福祉係その他関係者と親の話合いがもたれた。まもなくX君は少年院へ引き取られていった。大勢がそういう流れになってしまったのだ。もはや味方は1人もいない。X君の感じやすい心の傷を深く深くえぐっていくのである。  当時施設は建物はあっても入所する子供がいないので、関係者は子供捜しをしていた時期である。  教育とは何か、補導施設とは何なのか、X君を抹殺し続けた誤りは、どう取り返すのか、そのすべはない、教育者は逃げたのだ。親は、その人たちに負けたのだ。施設で中学卒業、X君は帰って来た。V君を見る人たちの差別的な視線をX君はどう受け取っていったのか。  X君は仕事捜しを始めた、履歴書が必要である。嘘を書いた。良心がとがめて、いつもビクビクしていたという、それが、いつとはなしに施設のことが、誰いうとなく人に伝わってきては、仕事への意欲がなくなり、やる気のない態度が現われ出す。上司から叱られ、上司をなぐり職場を追われる。どこへ行ってもその繰り返しである。無口なX君は益々孤立していく。両親とも話をしなくなる。閉じこもりがちになる。親のやり方が気に入らない。イライラする。現在の自分になったのは親の責任である。よし親に復讐してやる。家庭内であばれて物を壊していく、金を出せ、親は怖くて離れていく、仕方なくお金を出すそれも大金で30万、20万、50万、自動車を買う、パチンコに行く、事故を起こす、徹底的に反抗する。親は逃げるに逃げられない。  家のものはすべて壊す、金を出す、そのような繰り返しである。ついにたまりかねた母親は、民生委員、役場に連結する。狂っている、暴力を振るうという理由で寝込みをおそって警察が手錠をかけ、精神病院へ送られる。病いでないのに入院させられている。何とか病院を抜け出す方法はないかとX君は知恵をしぼる。ちょっとのすきを見て逃げて帰る。また迎えが来て、取り抑えられて入院、こんなことが何回か繰り返され、手におえない悪玉となってくる。X君は益々心がすさみ、おびえている。いつも取り抑えられる状況を考えながら逃げの姿勢のまま親へのうらみを放出し続けるのである。このX君自身の話は仕事を一緒に捜してみようといった福祉係の説明で明らかとなった。  病いでもない者を病人につくっていったのである。人間を憎み人が信じられなくなり、自分にも怒りたい、すべてに反抗する暴力青年になってしまった。  今もなお、精神病院の奥深くに長期療養者として閉じこめられ失意のまま、X君と同じように追いつめられながら病院の中で病人として仕立上げられていった人たちがいるかもしれない。社会が、健常者が、医療関係者が、教育現場にある関係者が結果だけの判断で、2度とX君を出してはいけないと思うし、病いをもつ人たちとの関わりにいかに謙虚な祈りにも似た心をもって、その人のそばに佇みつつ共に歩んで行くことを学ばなければならないかと1つの教訓として、とどめておきたい。 4 今の場所でやり続けてほしい春子さん  昨日K町家族会の内職場へ寄ってみた。2年ぶりである。なつかしい顔が笑って迎えてくれた。明るい雰囲気である。二間続きの部屋に内職のズボンが、うず高く積まれ、それぞれの位置で糸切りをしていた。内職は4カ所の企業から入っており、今日は糸切りである。この日は男子2名女子5名の参加である。午後からは半日パートに出ている男子2名が加わるそうである。部屋の一隅に春子さん(仮名)がいる。 「春子さんお久しぶり、お元気ですか」 「ええ元気です」 と手元を休めてニッコリ笑った。親しみのある目は輝いている。昔の面影はまったくない。よく太って顔も丸い。色つやもとても良い。仕上りがきれいで几張面な彼女はいちばんの稼ぎ手である。はじめは春子さんが最後まで内職場に残って掃除をしていたが、最近は当番制になったと聞いている。若々しく真面目な人である。  春子さんに初めて会ったのは、1974年の春である。現在春子さんは52歳だと思うから、およそ11年前の41歳頃であった。1973年末にK病院院長を呼んで家族が集まったとき、春子さんのお姉さんに会った。集まって話す場所があることをいちばん喜んだのはお姉さんである。お姉さんは春子さんより15歳くらい年長で、兄妹の一番上で、春子さんは末っ子である。2人の間に4人の兄妹がいたが、結核で2人、精神病で2人亡くなり、ずっと2人姉妹で生活している。両親は亡くなっている。お姉さんは近くの製麺所で働いていた。兄姉は4人とも亡くなり春子さんのことが気がかりであっても生活のためには働かねばならず、親身になって相談する人もなく、いつのまにか月日が過ぎてしまったようである。春子さんは中学を何とか卒業したが、あまり人となじまない内気な性格と思われていたのだろうか。何をするすべもなく家の中だけで毎日を過ごす生活となってしまい、夕方には姉が勤めから帰るのを、家の前に立って、ひたすら待ち続ける姿が外からは見られていた。20数年そのような行動だけを見られていたのだから昼間は誰も訪れる人もなく近所の人たちも言葉をかけようとはしなかった。「おかしい、変な人だ。肺病か、精薄か、精神病か」といわれてきたのだと思う。  お姉さんは、若いときから両親や四人の弟妹の看病や入院、また亡くなられたときに起こる数々の問題をただ1人で動き回って処理したのだろう。お姉さんの青春時代は、あっという間に終わってしまい、家族のために人生の大半を費やし、肩身の狭い想いの中で、身内にただ1人残された春子さんを生甲斐として守って今まで、やってきたのだ。春子さんは、何が起こってもお姉さんの回りをウロウロとついて回っていた。お姉さんだけを、たよりにする心細い想いは、姉妹を強い絆で結んでいったであろう。それにしてもお姉さんは、いつまでも、人ずれしない正直で純情な人であったことは、春子さんにとっても、ある意味で幸せなことであった。何もできない可愛そうな妹として、世間の波風にあてないで、すべて自分1人で引き受けてきたのだろう。昼の食事を作っておき、勤めに行き、待っている春子さんに夕食を食べさせ、家事のすべてをすませて、春子さんと一緒に休んでいた。 「いらん」「せん」「うん」と、うなずく。そんな簡単な言葉でお互いが通じ合う長い間の習慣の日々であった。  2人で消費する米作りと野菜作りは、休みの日のお姉さんの仕事であり、そのそばに春子さんは、ぴったり寄り添い、ときには、かたわらで草取りくらいはしていたらしい。 「ごめん下さい、おじゃまします」建付の悪い入口の戸を開ける。荒壁の家は、かなりいたんでいる。昔風の土間続きの部屋に、きちっと所定の場所に座布団が4つ置かれ、その奥の部屋から春子さん、裏のほうからお姉さんが同時に出てくる。医師との同伴訪問を今か今かと待っていたのだ。「春子さん体の調子はいかがですか」「うん、便も小用もよく出る」口をすぼめて手をこすり目を細めながら、ようやく答えをはっきり返してくる。  医師との同伴訪問を始めて1年後の彼女の言葉である。当初は3人の医師の週1回の訪問から始められた。お姉さんからの要請であったとしても春子さんにとって、かなり動揺があったり、きつい反撃もあるかと思ったが何も起こらなかった。多分、お姉さんの説得に素直に応じたのだろう。お姉さんだけがはらはらして答えは、もっぱら代理の説明に終わり、春子さんの表情は動かず、何十年の間に自分の世界をつくり上げたのか、時々1人でうなずくのが見られるだけであった。小さな声で「春子さん」と呼ぶ「はっ!!」とこちらへ視線が動く。そんな様子の繰り返しの中で訪問を続けた。短い髪のおカッパ、顔は小さく、胸幅のないのも気にかかる、軽い咳嗽もある、やせっぽちで栄養失調気味に見える。じっくりと毎日の生活を聞き、少しずつ春子さんの状態が見えてくる。訪れて向かい合っているだけでも目にみえない所でこの人たちは、自分たちの味方のようだという伝わりはあったようだ。同じ人間同志の付き合いが続いた。●何日も便が出ない、●夜睡眠がとれない、●日中には寝たり、起きたりだろう、テレビは見ない、●下着を着かえない、1カ月くらいはそのままである、●新しい服を買っても着ない、皆しまってしまい、お古しか着ない。●風呂も時々しか入らない、●咳が出て痰が出るのに出さない、●質素ではあるが、それなりの食事をつくっても偏食があり量が少ない(ごはんは3口くらい)、●洗濯、食器洗いくらいと思って頼んでもしてくれない、●独語があり、いつも1人でうなずいている、●頑固で自分の想いをとおす等々、「あの子は病気でしょうか。兄妹たちと同じでしょうか」お姉さんは日頃の心配を精一杯、いつまでも話した。  同伴訪問を始めてから数カ月後、医師は、幻聴のあること、治療が必要であること、身体的な病気があるかどうか近くの医師に診てもらうこと、日常生活を少しずつ整える。特に野菜を多くした食事量を増やすことなどを、春子さんを囲んで毎回根気よく話し続けた。  定期的な訪問によって春子さんも、お姉さん以外の私たちに親しみを持つようになってきた。表情がほころびてくる。視線を合わせてのうなずきが多くなり、目もとがやさしくなった。「便の後に血が出るし、痛い」という訴えがあり、そのときを境として服薬を受け入れるようになった。  家族会の家族同志の交流も始まっていたときでもあり、お姉さんと同じ悩みを話し合う人も多くなる。家との行ききもあり、春子さんも人になじんでくる。  初めて近くの開業医の門をくぐる、理解ある医師の診断で慢性気管支炎と軽い腎機能障害と診断されて一同ホッとした。この医師受診までの春子さんへの説得と医院内での応答もなかなか進まず、胸部]線写真を撮るのにも、医師も看護婦も困ったようだったが、春子さんにとっても多くの人に接触し苦痛な時間であっただろう。しかしそれ以後、開業医や看護婦たちからの理解や協力が大いに得られるようになった。お姉さんも、なりふりかまわずに妹が少しでもよくなってほしい一心で本当によく動いた。春子さんも身体的な安らぎを得ながら服薬に対する理解もふえ、回りを見渡すゆとりをもつようになった。  気持がのれば台所で手伝いをするようになるが、手助けになるほどでなく、ゆっくり時間をかけて待つことであった。 「春子さん牛乳を1日1本飲みましょう。卵も1個食べようよ」 「うん、うん食べる」 次回までの約束をする。「食べてる」「うん、うん」ニコニコしているが、なかなか思うようには受け止めてもらえない。しかし、家族会にお2人揃って出てきたときは驚いた。  顔なじみが多くなり、背から声をかけられ、恥ずかしそうであるが、ごく自然ななりゆきに見られた。人前では絶対に物を食べられなかった。家族の家の離れで内職場が開かれた。周りの人たちからのすすめでお2人は参加することを決める。 春子さんが1人で内職をやりたいという気持になってきたのだ。500メートルほどの近さであるが家の建て込んだ通りで商店も多く人通りもある。彼女も緊張する。大丈夫だろうか、関係者も不安であった。何日かは姉妹で通ったが、お姉さんの仕事もあることと春子さんは人前では食事をしないことで、朝はお姉さんと同行し、昼からは1人で家へ帰るようになる。  姉から離れて初めて彼女が1人で帰ったのである。町中を歩いた記念の日でもあった。弱電器の部品の小さい手仕事も少しずつ慣れていき、お姉さんに似て本当は器用な人であったのだ。何かをやることの面白さにようやくお弁当持参で参加するようになった。人中で食事をし、懸命に仕事をする姿は、お姉さんはどんなに嬉しかったことか。お2人にとっては、大飛躍なことであっただろう。家からの解放である。本人が何かしたくなった。その気持は尊いものである。簡単な言葉では説明できない2年間であった。  内職場は、関係者のいろいろな人たちの持寄りや寄附により、机、ストーブ、座布団、お茶道具、コーヒーセット、少しずつ器具が整っていく時期であった。いろいろな生活の流れや、リズムがお互いに混乱しては、ルールが決められていく。生活者のひとりひとりとして、この場所では、問題が起こっては解決されていく。家では、保護され、あるいは忘れられた存在であった者が同じ人間として意見が出され、守られていく、ごく自然に…。家族も医療者も、じっと見守り、時々は介入する。その中で春子さんは少しずつ1人の人間として独立していったのである。  人は集団の中での人であり続けられることが生きることか! どこにも起こる小社会での出来事が繰り返され自らが体験し成長する場所として存在していく。しかし、地域の周辺の人たちは、はじめは、何か起こるのではないかと、遠くから興味半分の差別的な見方であったが、さらけ出された障害をもつ人たちのささやかな内職をする姿に同情の心で見るようになってくる。同情は許せないが…。  道行く春子さんを、よけて通っていた顔なじみの人がときに声をかけ、声援を送り励ましてくれる人もできるようになる。春子さんの通行ははじめから目立っていたのだろう。  内職場にラジオが寄附され、音楽のメロディーが流れる。音が高いと苦情をいわれる。自転車の置く位置が隣地であると注意される。健常者だと思っている人からみれば、内職場に通う障害をもつといわれる人たちの、服装、周りに気をつかう表情など異様な雰囲気と取れるのも当たり前である。  隔離、拘禁の中での病院生活をした人たちや何十年人との交わりを断っていた人なら誰でもが、そのようになっていくはずであり、そのように見られる側のほうが、それ以上苦痛であるのに…。理解は、すぐできないことであろう。内職の部屋から出て、自転車のサドルに腰をすえて、カップラーメンを食べる姿は、普通とがめられても少しも弁解の余地はないと思う。食べている本人は、狭い所より気分はよく、空を眺めての、食べるさまは楽しいのではあるが。  数々の行動は、とても目につきやすい。少しずつ気付いては、軌道修正をお互いにしていく中で自然に、とけ込んでいくものであろう。これもまた、時間のかかることでもあった。春子さんもまた、もまれ続けていっただろう。  お姉さんの疲労が重なり、心臓病がやや悪化する。仕事をやめ家庭の人となったが、農業は禁じられ、家事だけをされ通院治療を続けるようになる。 「春子さん、買物に行こう」「お豆腐と、お揚げを買いに行こう。お姉さんはあまり動くのよくないよ」「うん、する、する」春子さんは心配な表情であるが、家事は難しいようだ。金銭の出し入れに、戸惑うのだ。長い間買物へは、行ったことがなかったのだ。  最近の話では、新聞の中にくばられている広告を見て、卵が安いといっては、お姉さんと一緒に買物に出かけるようになったようだ。1人で買物に行くのも、もう間近なことだろう。お姉さんも、遠出はできなくなったと共に春子さんの1人歩きは大きく広がっていっている。家族会の例会のお花見、海水洛、忘年会には、髪のセットをして熟年女性らしい服装で気軽に参加している。  仲間の中にいても、少しも不自然を感じない交わりができていっている。ご姉妹を中にして、さまざまな人たちがそれぞれの立場で人間同志のお付き合いが繰り返していった。  事実をふり返りながら書いてみたが、お二人の人生は、まだ続いていくだろうが、もし仮に春子さんが独りになったときを思ったら、今まで取り戻した現在の彼女の明るい生き生きとした生活ができて、それをどうやって自分で守っていくのだろうか。場所はどこになるのか、家で生活できるか、数々の不安と期待が交差する中で、ふっと春子さんが元気でいる夢を見る。場所は「まきび病院」の中である。現実に彼女を「まきび病院」の中へおきかえて見ることがある。 「まきび病院ならナー」と…。いや今皆で助け合って楽しそうだ。支える人も、たくさんいるではないか。  やっぱり今の場所で元気で何とか頑張ってほしい。 5 診療所の保健婦として  行政の保健婦から、現在の「まきび病院」に席を置いて、同時に倉敷市内の鶴形診療所の保健婦としても働くこととなる。常に経営の問題が意識の中にあり続ける。また診療所から地域と病院施設を角度を変えて見てみたいと思い、保健婦として新しく働く場所をつくりたいとも思っていたからである。平日17時30分退庁、土曜日半日、隔週休みという行政の中で働く人たちの、のんびりムードが、まず私の中に、はね返ってくる。  夕暮れどき、職場から帰って行く人たちを診療所の窓から横目で見ながら、これからまだまだ深夜まで続けられる診療を、改めて見直してみる。私の知っていた外からの診療所は、ほんの一部しか、知らなかったのである。まず診療体系に疑問をもつ、とにかく、丁寧に診ていこうという主義は、かたくなに守られ続けられている。くずさない医者である。  深夜の1時から2時まで続く光景を想像する。私は適当な時間に帰る。身体がもたない。後はわからない。患者といわれている人が、ただひたすらに自分の診療を待ち続け、じつと耐えているのである。なおしてほしい、とにかく痛いから逃げたい一心である。それがわかるから頑張っている医者だろう。  しなやかに見えていたY医師の身体も、そういつまでも若いはずがない、続くものではない。1983年夏から予約制とする。おかげで深夜までの診療の流れは、やっと少しは解消したようである。  約1年間、往診、診療所内でY医師と密着して共に行動してみる。診療所の保健婦として地域に出る。まず、その行動半径の広さに驚き、機動力の必要性を感じた。  家から動けない。診療所まで来られない。外へ出られない。幻聴、幻覚の訴え、食事に毒が入っている、殺される、死にたい、一言も語らず壁に向かって座り続ける病者の姿、様々な、入りくんだ理由の数々を見続け、聞き続け、往診の約束の時間は訪れる家ごとに遅れていく。地域の保健婦、民生委員あるいは学校関係者からの紹介があり、家族自らの相談もある。本人は、まだ知らない、出られない所での相談である。しかし周りの環境、本人の状況、生活の部分が明らかにされて医療行為が必要であることがわかり、スムーズに方針が出され、医師としては、次の動きがとても楽であると思う。それまでに至る本人や家族のしんどさを、早く情報としてすくい上げる関係の仕事ができる人が多いほど、診療所の医師は治療行為に専念できるし、快復していく道のりが短くなるのではないか。  診療所を拠点として地域に出る。地域にもあらゆる拠点ができて定期的な相談日に出かけて行く。とても理想的である。週2日の地域診療は各保健センター、学校定期相談日として、ぎっしり組みこまれ、余力は往診に向けられる。こんな日も、かなり1日が長い。ひっそりと周りに気をくばり診療所を訪れる本人と家族もある。口コミで来所する人がほとんどであり、それまでに各相談所病院の通院中であっても、長期となり、不安の中に一抹の望みを託して診療所へたどりついた難儀な人が多い。その人にとって最後の治療の場となり、もはや家族にとって、本人を支える余力がなくなっているようだ。住んでいる地域には無縁で、助っ人がいないのである。  その人たちに対する診療所側は医師も職員も一緒に疲れ果てていき、周りがわからず、医療者側も疲れが蓄積していく。家族が周りに助っ人を求めないのだ。むしろ地域に対して、かたくなな拒否である。地域における精神病者に対する見方がどうあるかの思い込みが、あまりにも固いのである。その強大さを知らされる。地域は健康、健康の合言葉のもとに、自分の健康は自分の手でと、叫び続けている。健康増進の言葉の裏側で、いつも取り残され続けていく精神病者と、とりまく家族も含めて、改めて焦点をあてて、社会が、心の健康と病いをもつ人を、より理解を深めていく働きかけは、強力に援助して行動していってほしいものである。保健婦として医師への介助、医療行為をより深めて広げていき、生活を見る目を返し続ける作業、病者への助っ人役に役立つため何をするか、1つの症例を追って反省してみたい。 病いがよくなったのか、去って行ったWさん夫婦  隣町に住む者同志の1つのカップルができあがった。音楽で結ばれた恋愛結婚である。すてきなWさん夫婦である(当時夫24歳、Wさん23歳)どちらの両親も、それぞれの主観的考えがあり、難行はしたが2人の情熱で押しきられ、しぶしぶの同意であった。両方の親元の中間地点に位置する一軒家を借り、新居をもつ。Wさんの夫は、2人の姉をもつ長男、当然古いしきたりからは後取り息子であるが、1人の姉夫婦は子供3人を抱えて実家の隣に居を構えている。小さな子供たちは終日実家で時を過ごすのである。実家の母にとっても楽しい日々である。Wさんの夫は技術屋のサラリーマンでWさんは家事専業である。休日には夫の実家を訪れるが、姉と子供たちで実家は占領されている。しかし両親は素朴でおおらかな人柄であるから共に全員を受け入れる。だが嫁としての要求のもとに、慣れない家風に懸命に立働くはめとなってくる。  楽しいはずの家族のコミュニケーションとは、かけ離れた、虚しい1日に終わり、休日ごとの訪れが苦痛になり出す。Wさんの夫は、両親、姉、Wさんの気持もよくわかり両方の板狭みとなり、悩みの種となる。Wさんのやさしい心は、黙って、それを受け入れては、重い気持でまた、2人で実家を訪れる。姉の態度が傲慢に見え、だんだん、我慢ならなくなる。両親の古さに腹を立てる。もう行かないとWさんはいう。  Wさんの実家はどうだろう。両親は、共に長いサラリーマン生活を終え共に年金生活に入った開放的に見える家庭であるが、やはり親世代の感覚は似たようなものである。兄1人、姉1人は嫁いで東京、Wさんは末っ子の甘えん坊として、のんきに育てられた。気立ての優しいお茶目な女の子でありOL生活を経て結婚、現在は両親と兄夫婦の4人暮しであるが、兄夫婦は結婚後4年ほどを経ているが、今だに子宝に恵まれず婦人科受診を続けながら夫婦共勤めをもって、よく2人で旅行に出かけたり、気ままな、優雅な生活でありその現代っ子ぶりに、溜息をつきつつも広い家で2つの核が割り切った同居生活を続けている。Wさんの実家としては、経済的にも時間の余裕もたっぷりあり、自分たちの娘が、稼いだ先で粗末にされていることと思い込み、憤慨して今まで以上に、密接に行き来して、何かと援助の手をさしのべ、交流が密になってくる。どこにでも最近起こっている家族同志の、いさかいが、少しずつ深まっていき続いていく。  Wさん夫婦はとても仲のよいお似合の夫婦であっても、取り囲んでいる2つの家族によって、情況は刻々と悪化していく。現代の若者は、そんな古いしがらみを断ち切りたいし、関わりたくない心情であっても、切ってしまわない。逃げられない、義理人情の世界が親世代以前から続いている歴史があるのである。ついにWさんは、うつ状態となる。それと同じくして妊娠した。そのときに診療所に相談に来たのである。当時のくわしい事情はあまり聞いていない。人工妊娠中絶後Wさんは、精神病院へ短期入院し、以後、往診から通院となり数カ月後でそのときは終わっている。  病いになったということで実家同志の相剋は以前より増していき、すっきりしないままWさん夫婦の苦悩は続いていく。特にWさんは初めての妊娠が病いによって消されていった事実は、永遠に忘れられない想いであり、再度の妊娠と病いの再発と共に診療所へ連絡が入った。Wさんの実家へ帰って療養が始まる。  Wさんは、子供を産みたいという。周りの支えとY医師の治療が続いて、病院で無事に女子出産、出産後病状悪化、不安、不眠、幻聴、被害妄想、食欲不振、退院後の実家への同伴訪問、そして私は初めて、その家を訪れた。医師はもっぱらWさんの面接治療、保健婦は育児、食事の工夫、産後の注意、その他Wさんのこまごまとした日常生活など、両親の話の聞き役も仕事であった。  はじめは保健婦に対し実家の母は好奇心と対抗的な態度であったが、回を重ねるに従って同世代である心やすさから、だんだん、くだけた長話となっていく。もっぱら母親とだけの対話となり父親は、その周辺で、おしめをたたみ、ミルクを作り、お茶を入れ、こまめな動きを見せてくれる。本人の食欲がない、今日はプリン1個、牛乳少々、微熱がある。言葉が出ない、動かない、もう駄目でしょうか。母親自身の不安の確認である。お七夜に夫の実家の母親しかこない。常識がない。だから娘が病いになった。何と思っているのかわからない。娘のことが心配で私も病いになりそうだ。夜中に赤ちゃんが泣いたら皆に迷惑だから一晩中抱いていた。何から何まで思いきり語り続けられる。Wさんの夫は仕事が忙しく、Wさんの実家に眠りに帰るくらいの状態で、その食事作りも困る。偏食で何でも食べない、どんな育て方をしたのか等々母親のくり言は続く。Wさんの夫は、気兼ねでいづらいのである。  往診の次の日は必ず電話して、状況をきっちり聞き続けたが、Wさんの病いは身体的にも一進一退で、分娩後の腎機能障害もあり、発熱もたびたびあり、幻覚、幻聴らしき訴えを聞いたときは、身体的にも、生命の危機を感じ、入院と頭にうかび、医師の決断を感じたときも再三あった。  往診3カ月目くらいに病室から出て来たWさんに初めて会った。以後単独訪問を続ける。食事も少しずつ摂れるようになり、母親としての自覚も増え、Wさんなりにおしめをかえたり、ミルクも作ったり、動いてみたい気持をポツリポツリと語った。床の中で少しずつあせりが出てきたのだ。身長170センチの、のっぽのやせである。色白で目もとがパッチリ、面やつれの様子は、一層彼女をそそとした美しさに仕立てている。心労のひどい表情である。「赤ちゃんが重くて抱けないんです」「どうすればよいでしょうか」。小さな声である。人工栄養が、スムーズに赤ちゃんに受け入れられたため、お母さんに比べ赤ちゃんは、すくすく育って、重くなったのである。自分の不甲斐なさとくやしさでWさんは、また落ち込んでいく。食欲がない、身体が重いと訴える。薬ものみたくなくなる。  そんなとき母親は「元気になるまで、あんたは、何もしないでよい。私が皆してあげるから」といって母親代替である。母がWさんを駄目にしてしまう。母がWさんの力をうばっていく状況を作っていくように見えてきだした。  春から夏へ時はすぎていく。Wさんの体力が少しずつ回復のきざしが見えてきだしたある日、診療所に電話が入る。Wさんが自分の部屋から下の川へ飛び降りたのだ。オロオロした母親の声が続いている。  最近のWさんは、寝たり起きたり、同居の兄夫婦に気を遣い、両親にすまないと思い、夫の実家への想いも伝わり、赤ちゃんはなじまず、被害妄想の世界にだんだん閉じこもりつつあったのだ。危険だと思っていた医師も決してWさんを1人にしてはいけないと、申し渡してあったのだが…。  Wさんはいつも薬にこだわる。「いつまでのむのでしょうか」の質問はたびたびあった。  傷は思いの外軽く、この事件より、周囲の人の動きが変わってきた、まず賢い実家の母は積極的にWさんと赤ちゃんとの関わりを、介助し手助けする側となるよう心がけるようになった。  しかし、赤ちゃんは、丸々と太り、抱くのは無理のようだ。両親が気付いていないことはもう一つ、同居の兄夫婦の微妙な感じである。自分たちにできない子供が、嫁にいった妹にでき、両親は我が家の孫のように妹夫婦と赤ちゃんの丸抱えの世話と看護のあり方を、自然に心よく受け取れるほどの年齢ではない。ジッとしているWさんにとっては、この家にい続けていることが長期となればなるほど、Wさんの夫の気持もわかると共に、いづらくなる。もう実家での療養は1年半続いている。近所の人たちに対しても言い訳の材料がなくなる。病気であることは知られたくない。Wさんの新しいイライラはつのるばかりに見えだした。もう待てない。Y医師はどう見ているのか、身体的には、もう少しと思えるが、2人だけの家へ帰ればよいのだ。その上での援助を親たちがすれば、また、展開があるのではなかろうか。2人だけの生活は両親の不安が強く、まあお正月を実家で迎えついでに暖かくなるまでという、気の長い方向が両親の要望で出された。  12月の中ばのある夜、突然Wさんが、いなくなったのだ。家族の寝静まった夜中にオーバーを引っかけて4キロの道のりを懸命に2人の新居へ帰って行ったのだ。炬燵に入ってニコニコしているWさんを、夫が捜し出した。恐ろしさも、淋しさも思わず、思いきって実行したWさんの顔には、自信があふれ、それ以後、夫婦で新居へ帰る訓練が始められ無事親子3人の生活にかえるのだが、その間も両親の物わかりのよさそうな介入は続いていく。両親が交互に、お守りと家事の手伝いで泊りがけの援助が始まった。  しかし土、日は親子3人の水いらずの体験がなされ、今日はオムレツが作れた、今日は洗濯ができたとの報告が次々になされたが、疲労が激しく終日寝込む日もあるが、両親の助けで何とか乗りきることができた。  3月のお節句は、両方の親たちが寄って祝いもできたとのこと。長い往診と訪問も終わった。  Wさん夫婦が仲よく診療所に来る。家族計画の話も出る。パートの話も出る。もうWさんは強くなった。適当に親を利用していくちゃっかりした現代っ子である。Wさんの夫の転勤が少しずつ具体化するようになる。育児と家事が、果たしてできるのであろうか。Wさんの新しい悩みであり、親から本当の巣立ちができるのか、Wさんの夫の実家とのよい関係を作ることはどうするのか、本格的な大人社会での生活が始まろうとしていた。  ようやくWさん夫婦は決断して転勤に踏み切って診療所からも去って行った。その後の報告は何もない。元気になれば、来たくない場所でもある。医療に従事している者は、淋しいものである。それが去って行った人への贈り物でもある。  医師と保健婦との見方の違い、チャンスを逃したと見えたことがかえって本人の立直りを早くする場合もあるがまた、その逆もある。  同じ関わりの中でお互いに見えない部分の助け合いが、行動の広がりの中で、よりよい医療行為が行えるように動くことが医師介助とでもいえるかもしれない。学ばされた例の1つであった。医療者側といってみても医者あっての保健婦であることを痛切に感じた。常に医師は第一線にあり決断をせねばならない立場に立たされている。責任を丸ごと引っかぶっているのである。悔みも残念さも、私たちより何倍か大きく計り知れない。保健婦は、医療の中のほんのわずかな一部分しか担っていないのだ。楽なのである。  今後診療所はどうなっていくべきなのだろう。手探りで、手づくりの診療、病いとは何なのか、何か他にあるのだろうか。先日Y医師に聞いてみる。 「身体の調子はいかがですか」 「まあまあだ」 「現在、1番思うことは」 「1カ月くらい休養したい」 ポツリといった。考えさせられる今日今頃である。 6 「まきび病院」に席を置いて  私たちの周りには多くの大小様々な医療施設がひしめいていて、利用されている。健康でありたい、病いを癒したいという願望は強くても、入院するということに対しては、あまり積極的にはなれない考えを特に私はもっている。その中で働いている人たちに対しては二の次で、囲われている建物の中にい続けることの説明のできない息苦しさに耐えられなくなってくる。そんなときに心にひびく短い言葉に、いいしれないやさしさを感じたり、いいよどんだこちらの問いかけに十分な説明の返らない不安を、簡単にあしらわれた冷たさと受け止めたり、ときに敏感に反応していっては、もう2度と入院も相談にもきたくないと思ったことが再三あった。一般科への入院ですら人間に病いが加われば尋常ではなくなる。まして精神科へ受診して入院するとなると、一般社会では、尋常には受け止められなかった。今は少しずつでも過去のこととなりつつあるだろうし、なってほしいと願っている。そのような流れの中で、「まきび病院」の存在は大きな意味をもっている。十数年前ある女性が語っていた。 「私は不良だといわれてきた。男とも駆け落ちした。家の中で暴れて疲れて眠っていた。気がついたら病院の中、昼か夜かわからない。大声をあげて人を呼んだ。頭を壁にぶつけて暴れてみた。薬を多量にのまされた。何か頭が変になってきた。おとなしくしないと損だとわかった。退院して家に帰って来た。皆私を変な目で見る。こちらも見返してやるんだ。誰がこんなことにしてくれたのか」  どこまで真実かはわからないが、似たようなことはあったであろう。現在はそんなことがあろうはずはないが、精神病院、精神疾患についての見方や理解はまだまだ古くて正確ではないようだ。地域精神衛生活動が全国に活発に働きかけられて10数年、揺れ動きながら掘り起こされ続けて医療関係者家族本人たちの連帯感も高まり、少数ではあっても理解者の支援を増していさ、点々と存在するようになったささやかな作業所や、憩の家ができてきている。地域での拠点として存在し続けてほしいものである。病者や家族や関係者にとって次の支えの拠点として「まきび病院」の存在は、安心して場所をかえての療養休養のとれる所としてあり続けなければならない施設である。 「まきび病院」は全員がすべての来院者と共に生きている、とても明るい施設である。その明るさは、思春期の人たちや大多数の若い職員たちから、醸し出されている。外では理解されなかったものがこの場では強烈なエネルギーとなって発散される。ときにはけたはずれの行動とも思われるが、自立に向けての原動力と次へのステップヘの一時期と見ていけば、出しきった後必ず節度ある大人への道を求めていくことを期待したい。ときには純粋さを大人たちへの警告であることとして教えられることがある。中高年の人たちも、この若い人たちをとおしてそれぞれの人生のふり返りが得られつつ重苦しい療養生活でなく開放的な気分への転換を試みているに違いないし、生きている実感も改めて取りかえしてもらえるものと思っている。  目まぐるしく変わっていく社会の中で、戦前戦中戦後を生き抜いた人たちもだんだんせばめられつつある。内と外をふり返りながら、フッと考える。もののよしあしはともかくとして、とばしてはならないこともある。妥協できないこともある。伝えたいことも多くあることに気づかされる、若い人たちと共に批判し合い議論して後に続く人たちに伝え続けたい。「語りべ」ににも似た現在の心境である。「まきび病院」は出合いと往来の場である。いろんな人たちがその歩んで来た人生を見せる。その中にいる1人の女性を取り上げてみた。  青春から始まった病いと共に歩んで来た40年である。それは精神障害者としてであり、精神衛生活動の裏側を同じように歩いて来た道のりであっただろう。想いは万分の1も書き綴れなかったのが残念である。  にぎやかな昼食の後、詰所の前のホールでは、静かに団らんのひとときを過ごしている人が多い。数人の方は、行ったり来たり活発に動いている。その中に松子さん(仮名)がいる。初老の姿であるがまるで童女のようである。周期的に訪れる彼女だけの心の世界で何やら1人で早口につぶやきながら小走りに動いている。平常はあまり目立たないでひっそりとしているので初めての人は驚くが、たいていのことは、同室者も他の人たちからも、大目に見られてよほどのことがないかぎり、誰もとがめる人はいないようだ。当年六五歳である。  松子さんは故郷を離れた東京で勉学中に20歳で発病。原因はいろいろと取りざたされたが、真実は定かでない。資産家であり、造り酒屋の1人娘として出生、その後ほどなく婿養子であった父親は離婚された。戦前戦中を通して少しずつ家運は傾き、人手もなくなり、その中での松子さんの病状は、揺れ動き、入退院を繰り返していった。戦後雇人も去り、母娘の2人となり物価高での生活は、土地を売り、書画骨董などを次々に安価で手離していった。母親はよほどくやしい想いをもっていたのか、松子さんは母親から何回も同じことを繰り返し聞かされた。松子さんを語るために20数年前に遡ってみたいと思う。  山陽本線K駅より歩いて5分もかからないなだらかな坂の途中に彼女の家がある。隆盛を誇ったときに建てられた家屋は立派な構えであるが、かなりいたんでいる。高い塀を囲った家の裏木戸から入ると、小庭があり、庭木と古い石塔ろうが1つ、こけが青々と目にしみる。その向こうのガラス戸越しに2つの顔がのぞいている。松子さん母娘である。「いらっしゃいませ」と丁寧に迎えられる。2人共礼儀正しい方であり、松子さんの落ち着いたときは、周囲からは、孤立していてもまことに平和であった。ここまでにたどりつくのに、松子さんが発病して20年はどの年月が過ぎている。長い苦しい闘病の生活であったことだろう。2人共小柄でよく似た面だちである。母親は若いとき肺結核の既往歴があり、咳や痰の多いのを心配してずっと服薬中であり、よく風邪をひいた。はじめはよく帽子のリボン付の内職を2人でしている姿をみかけた。退屈しのぎだと話していたが、黙ってリボン付をしている松子さんの手先はふるえていてはかどらないようだった。  新しいものは取り入れない使い捨てはしない主義で、戦中よりここだけは取り残されているような生活を守り、明治と大正生まれの母娘がひっそりと暮している状況であった。便利さや快適さにならされた者には、想像できない質素な手のかかる毎日の生活の手順であった。井戸水をバケツで運び、屋敷続きにある松林から運んで来た木や枝で風呂を沸かす。そんな母の姿をじっと部屋から松子さんは見続け、丁寧に母が娘をお風呂で洗ってあげていた。どんな想いで病んでいる40歳の娘の背中を流していたのだろうか。ここだけは別世界のような感じがしていた。「あの子は精神病です。何もできないのです。それに小さいときから、何もさしたことがないのです」という。母親も腰が曲がっていろんな痛みを訴えていた。  ある日裏木戸の前に立つと、何かしら大声が聞こえてくる。松子さんの声だ。中に入って彼女を見る。リズムをとりながら手をたたき、大きな声を出して部屋の中を走り回っている。そばにじっと座っている母親の姿が目に入った。「4、5日夜も昼も寝ないでああして動き回って食事も少しくらいしか食べないんです。いつもの病気が悪くなったんです」日頃からあまり動揺しない母親だが、病いが悪化すると松子さんは元気よく外へ飛び出して行くので四六時中目を離すことができないのだ。今までに何回も外へ出て行き、近所の人たちと総出で捜したこともあり、母親は他人に迷惑をかけることを恥だと思い、彼女の病状についての心配なことと共に、気遣れして疲れていったようだ。それでも誰にも助けを求めようとはしないで、過ごしてきた。  薬物療法は継続中であり、定期的に病院へ電話をして、送付してもらい、薬物の調整が必要であることを話ても「これでよいのです」といって、取り上げてはもらえなかった。そんなときの母親は頑固で毅然としていて、近よれない所があった。 どうしても母親に他用ができたり看られないときは、部屋の独立した2畳ほどに錠をつけ、その中へ入ってもらっていた。平常時の母娘でつくられた約束事であった。いつもは母親が一方的に話をして、松子さんは無口で、返事くらいしか返さないでそばでじっとうつむいて座っているか、横臥していて多分、活発な幻聴に聞き入っていたと思う。  病状が悪化して動きが激しくなると一変して多様な状況を見せられた。平常は「お母さま」と呼ぶのが、「おーいばあさん」「死んでやる、死んでしまえ」「腹減った…」その他、親類縁者の名前が飛び出して恋人になったり、子供になったり、早口でしゃべりながら、勢いよく走り回る。 「あまり動くと疲れますよ」と手を握ぎる。「ハイ、ハイ」と答える声も早口でかん高い。その顔も紅潮して激しい息づかいの中で、こみ上げてくる感情のたかまりをかみしめて耐えているようだ。そんなときの彼女の瞳は深くキラキラと輝いて見え、また悲しみともうかがえた。服薬は病状に関係なく自らきっちりしていた。家は道路べりにあり、高ぶった松子さんの声は近所にもよく聞こえ、「また病気が悪いようだ。気の毒に」と噂され遠くまで伝わった。近所の人や親族の人たちの「入院するほうがよいのでは」という意見にも頑固に取り入れず、誰もがじっと見守るしかなかった。日頃から母親は「あの子の病気になったのも私も悪いんです、責任があるんです」といい続けていた。  もう駄目になる。2人とももたないと思った途端にそれまでの10日間がまるで嘘のように除々に平常に戻っていくときもあったり、数日でスーと眠りが続いて穏やかな状態を取り戻したり不思議な松子さんの症状であった。  そんなとき、医師たちの訪問が始まった。定期的な訪問によって松子さんの日頃の状態、周期的な変化、母娘の生活と環境など、じっくりと見聞きし、医療者側としての判断や方向を少しずつ出した。まず症状によって薬物療法を調整していく。生活や環境を整える。  家事の合理化などについても随分話し合った。松子さんの答えはなく母親の言葉が多かったが彼女の意見を常に問いかけ続けた。  母親の体力の衰えが目に見えてくる中で母娘の緊急時が起こったときどう対応していくか、別々の離れた生活ができるのだろうか。もちろん2人だけの長い生活の中で母親から松子さんには、事細かく多くのことが繰り返し伝えられていただろうと想像はできた。母親の心の中には過去において医療関係者および施設に対する不信感が年月と共に非常に根強くもち続けられあきらめながら現在に至ったと察せられた。また人間不信とも思えた。医師たちに対してもはじめは戸惑いながら少しずつ心を開き、だんだんとすべてに信頼の気持をもつようになっていった。「××の土地を売りました」「松子は△△さんに将来この家で看てもらいます」「すべてこの家のものは松子のものです。そのために倹約してきました」と話すごとに母親の気持が揺れ動き、不安が伝わってくるようだった。もう1つ入り込めない遠慮もあり、質問には答えながらも、母親には、こちらの想いはわかってもらえなかった。冷静に聞いていると、随分曖昧で、聡明な母親には思えないほど、松子さんの将来については、とても甘い考えを持っていた。  民生委員、近くの親族、近所の人たち、老人奉仕員さんたちなど母娘を取り巻く人たちをお互いに増やしていき、誰かが見守る状況づくりが少しずつできてきた。簡単な副食が届けられたり、立派な冷蔵庫も購入したり、買物も奉仕員さんや知人にお願いするという、ほっておけない、断われない状況になるほど母親が弱ってきたのだ。  1979年の夏、突然連絡が入った。母娘にとって数少ない近くの親族の方からだ。母親が高熱を出し動けない。松子さんの状態もよくないとのことであり、日頃から母親の家庭医である町内の医師も間もなく往診する手はずであるとのことである。常に心配していたことが現実にやってきたのだ。母親の主治医の話では疲労が激しく足がたたない。肺炎であり貧血もあり早急に入院を勧めた。  松子さんの主治医とも連絡をとり、松子さんもT病院へ入院が決められた。それまでに至るのにもスムーズにははかどらず、かなり時間が費やされた。母娘の別れて入院する不安と緊張を見て一同無言で考えこんでしまい、しばらく2人の愁嘆場を見続けた。数ヵ月後には2人共にもとの生活に戻ったが、以後母親の衰弱は激しく、安静を守るために入院を何回か繰り返し、そのたびに松子さんもまた入院となった。周りが心配するほどのこともなく彼女は人々になじみ母親から離れても自力でやれる体験を続けた。むしろ母親のほうが娘の心配で療養をほとんど中断しては、自宅へ帰り老衰を早めていったようだった。 1984年3月、母親の病状が急変したと連絡を受ける。松子さんは何回目かの入院を「まきび病院」で療養中であり、母親の入院先へ急行した。母親は、しっかりした意識の中で松子さんの手を固く握った。万感の想いを込めたものであったろうか、松子さんは少し前より気分の高まりもあってか、ただ「お母さま」「お母さま」と何回も呼びかける声にわずかにうなづき返した。長居もできないまま帰院した。2日後に母親は亡くなった。82歳であった。病いをもつ娘と共に病いと戦い病いをのろい社会から孤立して老いてゆき、ついに精根を使い果たした。心残りであっただろう。このような病いがなかったらこのような人生を歩まなかっただろう。  当院では、入院者に対して受持制がもたれている。松子さんは受持であるPSWと看護婦とで特に見守られているが、亡母の葬儀に松子さんと受持2人と私との4人で参列した。大勢の人たちの動く中に松子さんへの多くの視線が感じられた。看護婦の手を硬く握って彼女はすでに儀式の始まっている部屋にいく。読経の声の続く部屋は、みかけぬ人たちでいっぱいである。本日の儀式の代表である松子さんの喪主である席がない。かろうじてあけられた末席へ4人は座を占めることができた。不安と極度の緊張と悲しみの入りまじっ たであろう彼女の後姿は小さく揺れる。表情は見えない。付き添った3人の説明のできない怒りたい無言の気持は、共通したものであった。精神障害者である松子さんは、すでに喪主であることも無視されていた。亡母がいい続けてきたことも、松子さんの存在もこの場より通用しなくなったのだ。生前、母親に再三弁護士に相談するよう進めていたことも思い出されたが、すでに手遅れである。  1979年に母娘がそれぞれ別れて入院をしていた時期に、母娘の薄い親族の知人たちからいわれたことがあった。  「もしお母さんがおられなくなったら、松子さんは誰も看る人はないので親類の人たちが、そのまま一生入院させてもらえないだろうか、といわれている」と数回聞いている。あれほど多くの人たちが出入りし始め、理解されていると思われていた松子さんであっても、支える家族が、いなくなると即刻結論を出されてしまう社会の中の構造である。  家族の存在は本人にとっていちばん大切な人たちである。社会より排除され続けていく病者の姿を、まざまざと見せられ、その力は強大である。しかし医師たちの介入があったからこそ、このような言葉が少し遠慮がちに表面に出るのであって、医師たちとの出合いがなかったならば、いつの間にか彼女の意思も意見も聞かれないまま無視されて自由のない精神病院に入院させられ、障害者として隔離されて一生を過ごしたであろう。  「まきび病院」には、長期プロジェクトチームがあり、相談室と看護で取り組まれている。入院後9ヵ月過ぎると長期在院者として個々の問題を取り上げて、今後の生活の方向や働きかけをどうするかを考えていく。松子さんの受持のPSWも看護婦も、チームの中心的メンバーである。今後「まきび病院」でどう過ごしていくのか、彼女自身どうありたいのか、我々はどう援助できるかが課題となった。  松子さんは立派な家はあってもそこでの生活は誰もいないのでできない。財産は親族が管理し、松子さんは、そのことについてはあまり気にしないで浪費するのは望まない。年金だけを目標に消費の楽しさを満喫しだした。母娘の同一化した長い年月の中で、彼女の意思で好みの衣類を買ったことはなかっただろう。同伴してデパートでの買物はこの年月になかった行動であり、喜びであっただろう。つつましやかではあるがときには女らしい変身も望む。左手を高くかざして見せたその薬指にルビーの指輪が輝いていた。彼女の生涯で今を充実した日々であってほしい。歯科受診も自分でタクシーを呼び1人で行動するのも近い将来できるのではないだろうか。我が家は施設の中であってもまだまだ個性ある豊かな生活を生み出していくことを期待している。  沈みがちの続いた日はひっそりと壁に向かって座っている松子さんの後姿はまるで母親の姿であり、その瞳の奥にも母親を見ることがある。彼女と共にいつも母親はいる。「お母さん、これでいいのでしょうか」と問うてみる。黙って目を細めてうなづく母親を思い浮かべる。 あとがきにかえて 医療業界の暗雲  医療業界とりわけ病院経営について暗雲がたちこみ始めている。病院倒産件数も年々増加の一途をたどり、昭和59年度では、実に70件という数字を記録した。この数字は、従来のその病院固有の経営上のトラブルによる倒産という事象を越えて、病院経営が構造的に成り立ちにくいということを示してきている。現に国家財政赤字の解決策として、医療費の削減は行政当局の最大の課題として日夜真剣に議論されている。  これをみると、総医療費15兆円のうち国家がその4兆円を補助として支出している。今議論されている防衛費GNP1%をはるかに超えた金額であり、国家予算(支出)55兆円の10%に達せんとしているのである。これは確かに、行政当局としては大変なことである。世界一の医療体制と厚生省が自負しても、もうこれ以上の医療費は支出しえないであろう。しかも国債発行残高130兆円をかかえて…。  また一方、30年後には、国民5人に1人は65歳以上という老齢化社会に向けて総医療費は増々膨大化する恐れがある。何としても国は医療費を抑えにかかってくるであろう。そのための薬価基準の継続的引き下げ、診療報酬の引き上げ阻止、健康保険本人1割負担等々、支出の抑制または国民の自己負担などに転嫁を図ると同時に今後もきめの細かい医療費削減政策がとられようとしている。  このような現状と医師の供給過剰という見通しからして、確かに病院経営は経営として成り立ちにくいという一面が大きくクローズアップされてきたものである。  しかし、こんなことに負けてはおれない。国の政策が医療費削減だとしても、医師の供給過剰があるとしても、着実に患者は増大しているし、また医療への質的要求は、ますます増大してきている。国民の医療の選択の目がますます肥えてきている。        ここでは、いかに医療の質を高めるか、いかに患者諸氏に満足を与える看護をなしえるかによってこの医療業界の暗雲は簡単に払いのけることができる。そして、これをなし遂げる個々の病院にとっては、構造的不況業種ではなくて、大成長業種そのものとなりうるはずである。  病院経営は、サービス(患者諸氏の満足)を与えるという点であまりにも資本主義社会の原理から疎遠であった。不況業種のレッテルを貼られることで、サービスを与えるという資本主義社会の原則へ謙虚に立ち返らざるをえないのは目に見えている。しかし、多くの病院は、それが体質的にできないところが多すぎる。サービスという人類歴史の基本的営みの原則を忘れて…。 1 まきび病院の経営  ところで、当院はどうであろうか。107床の小規模病院でありながら、総勢スタッフは医師を含めて48名という大世帯である。実に患者2人に1名のスタッフである。環境的に成り立ちにくい経営をさらに輪をかけて成り立ちにくくしている。医療収入に対して総人件費の比率も50%近くに迫ってきている。わかりきった結果でありながら、スタッフの充実育成の悲願から有能な人材を採用し続けてきたためである。いつになったら開花するか定かではない。しかし、当院の方針は、これが資本主義社会の経済原則だという強い想いがある。他の施設にない<まきびの医療>を創りあげるのだという想いが。  この想いは今でも新鮮である。一色隆夫という強烈な個性がこの想いを右往左往しながら持続させている。医療の差別化、差異化、「まきび病院」のアイデンティティ等々、難しくいえば、このように表現されるかもしれない。しかし「当たり前」の医療というきわめて自然な、わかりやすい表現で新鮮さを持続させている。  「当たり前」の医療ということに関して私のような素人にはその内容がよくわからない。しかし、日本の精神医療界にあって当院の掲げるテーマは確かに何か違いがあることくらいはわかっている。この違いを、医師を含めて看護部門は医療のロマンというのであろうし、また、そうなのであろう。  だが一方、この医療のロマンを成立させる経営という場からみた場合でも、この違いは、経営のロマンでもある。経営環境の悪化にもかかわらず、病める人々は増大してきている。<まきびの医療>というものが社会的評価を受けたとき、「まきび病院」の経営はいかなる悪環境にもめげず、無限に病める人々を吸収しうることになるからである。そして無限に<まきびの医療>を提供しえることになるはずである。これは幻想なのであろうか。幻想としても当院はこれに向かって着々と無理な経営を持続させてきている。借金返済、財源に苦しみながらも人への投資、医療への投資を継続している。ときには、<まきびの医療>というものは経営側への挑戦状かと思いつつも…。 2 まきび病院の医療体制  「当たり前」の医療を標榜し、人材投入する限り、明確な職務範囲があるはずである。とまた私のような常識人は思う。  しかし、これがまた当院は非常に変わっている。何が「当たり前」か考えるのが各自の責任であり、どれが自己の職務範囲か考えるのも各自の責任なのである。極端にいうなら“各自が自己の考えで勝手に仕事をしろ。ただ当院は、その仕事の舞台を設定しているにすぎない。ヘマなことがあれば、院長が責任をもつ”ということになる。  面白いといえば非常に面白い。そして現在しきりにいわれているホロン組織の原型でもある。各自の独自の営みは自然に生命体(=組織)維持のサイクルに関わっている。とでも表現したらよいのか。これをつきつめると、ある人の職務の不都合さはその不都合さゆえに他の職務が新たに発生する。そして全体がうまくまとまるのだ、ということになる。でもこれは、いささか危惧が残る。生体学的に、またはロマンとしてはそうなのであろうが、各人の能力に相違があり、感情もある限りどうもうまくまとまらない場合もある。でも、それを基調に当院は動いている。  各人の動きは、決して組織にとらわれていない。1人の患者に多くの人が関与している。事務も薬局も栄養もすべてが関与している。そして衝突もさいさいある。疲れて勤め人に徹する人もいる。自己責任の重みを嫌がる人もいる。でも当院の方針は、あくまでも各自の自立性に常に戻っている。自立的体制の確立を目指した医療計画委員会を中心に現在10あまりの各種の会議が盛んである。業務連絡、業務計画、情報交換と種々の目的はあるが、業務のネットワークをよくしたいという願望のためである。惰性に流れる恐れをも我慢し、見守りながら自己解決、自己創造、ひいては自立の道への最良の方法であると無理に思い込ませて…。 3 まきび病院の自立  自己責任の体制は自立の道へつながる。自立とは、社会的独り立ちを意味する。そして社会的独り立ちはあくまでも社会が是認するから独り立ちできるものである。これを決して忘れてはならない。自立とは、決して自己本位ではないのである。それだから自立というものは常に社会、仲間、患者諸氏から自己の業務について評価批判され、それを踏まえて是認されうる自己を永遠に確立していかねばならないのである。その意味で自立的人間はナイーヴで謙虚な人間でないと達成されるはずはない。  当院のテーマである「当たり前」の医療「自立的体制」もまさにナイーヴな反省の繰り返しの作業で徐々に変容確立されていっている。どのような「当たり前」の医療が社会的に是認されるのかについて…。  自己責任体制についても同じである。自己責任体制というといかにも自由な放任主義が横行しているかのようにもみえる。しかし、現実はまったく違う。職員の医療行為については、常に医師をはじめ全員の目にさらされている。全員評価の中で自己の職務を創造的に遂行していく他はない。そして常にナイーヴな反省の繰り返しの作業で多くの若手がそれぞれ個性的に育ちつつある。職員の職務に危惧すべき点はないか、院長はいつも静かにときには激しく見守っている。細かな配慮は、職員同志が互いに行っている。そして職員同志のトラブルには、総婦長の静かな、軽やかな母性的手腕が大きく発揮されている。  確かに右往左往しながら、当院はここまでやってきた。まだまだ当院および職員の自立化について、世間に公表できうるものはない。端初的な自立化がやっとみえてきたというようなところである。でも、当院の方針は明確である。当院の方針を維持する限り、当院と職員の自立化は急速な勢いで、近い将来目に見えてくるものにはちがいない。そして、それを成し遂げるのも「まきび病院」という経営の場である。  経営の場は、前述したごとく医療の場(=ロマン)と本来的に矛盾するものではないし、明確に分けられるものでもない。両輪が相互に深く関わっているからこそ両者が存在しえるものである。  もちろん、そのときの状況により重点項目は目移りせざるを得ない場合もある。でも、これは、一過性である。一過性でないように医療方針、職員の自立化願望が維持継続してくれるだけでよいのである。事務局長としての私の当面の職務は、この点検だけなのである。 4 まきび病院の今後の課題と展望  自立化の点検は、当院の永遠の課題である。そして職員の自立化は、当院の医療提供の量的拡大、質的向上の基盤となる。この布石は着々と打ちつつある。行政当局の様々な医療供給体制の見直し作業にもかかわらず、具体的には、増床計画のための用地も確保している。当院の病棟を含めた医療環境の設計図もでき上がっている。そして過去の臨床現場での職員の行為について、そのノウハウと集大成ともいうべき多くのモデル化作業も試みつつある。他府県からも多くの患者諸氏を迎い入れえた院長個人のネットワークもより強固な拡がりを高めてきている。  しかし、もっと重要なことは、職員の自立化による職員自身の対外的ネットワークの拡大である。いずれ近い将来到達するネットワーク社会では、自立化した個人または組織がそれぞれの生き方を尊重したまま、尊重しえる相手と無差別に複合的に業務を組んでいくという傾向が顕著になってくる。  精神医療という過酷な現場に従事する職員は、単なる特定の病院の従事者という立場を超えて、また単なるプロフェッショナルという意識を超えて、他の同じ精神医療従事者と大いに連帯しうる要素が、ネットワークを形成する要素が、多いはずである。簡単にいえば、同じ悩み、苦しみ、楽しみを広くわかちあえる。また助言、指導、教育しえる場を無限に拡げていける可能性があるということである。また、この社会では、連帯しえる相手は精神医療従事者に限る必要もない。相手が「当たり前」の医療を標榜する当院を認めてくれれば、その方たちと共に何か仕事ができるはずである。  いつかはやりたい学校教育もその1つである。  このように、当院の「当たり前」の医療が市民権を得られ、当院の職員が自立化し市民権を得られれば、当院の医療は、病床数外来数の数にかかわらず、不断に拡大していく可能性がある。  この夢物語を可能にするのも、何度もいうように職員の自立化である。職員の“生”と“痛み”の不断の連続と“生”の共有、そしてそのシステム作りとそのキーステーションとしての当院の存在、これが当院の完結しない永遠の課題と展望である。