オードリーの部屋


オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、アメリカで活躍した映画女優。英国籍。本名は、オードリー・キャスリーン・ヴァン・ヘームストラ・ヘプバーン・ラストン(Audrey Kathleen Van Heemstra Hepburn-Ruston)。"資料はすべてWikipediaからの抜粋"

その生涯

撮影 1991年
アイルランド系イギリス人でイギリスの保険会社に勤める父ジョセフ・アンソニー・ヘップバーン・ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラ(貴族の出)のもとに、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれる。5歳でイギリスのケント州にある寄宿学校に入学。その頃、両親は離婚し、ナチスに共鳴した父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間Arnhem Conservatoryでバレエの特訓を受ける。15歳には有能なバレリーナになり、密かにナチのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊った。第二次世界大戦中は反ナチスのレジスタンス運動に従事していた。オードリーの叔父と母親の従兄弟はナチ抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられた。オードリーは栄養失調のため急性貧血症、呼吸困難、浮腫を患った。16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で一人のイギリス陸軍兵を介護する―20年後彼は監督になって彼女の作品を演出することになる―『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤングである。また、戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだという。

ハリウッドデビュー以前のヨーロッパにおける活動では、ロンドンでバレエを習う等、ヨーロッパを中心とする各国で生活した経験を持つ。そのためか英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語に抜群に堪能であった。イギリスを中心に、映画、舞台等の脇役や端役をこなしていたが、『初恋』で、主役の妹でバレリーナの役柄(準主役)を演じる。『モンテカルロへ行こう』の撮影のために訪れたリヴィエラ(フランス)において、同地に滞在していた女流作家のコレットに見出され、彼女のブロードウェイ上演舞台作品である『ジジ』の主役・ジジ役に大抜擢。ジジ役を探していたコレットが、オードリーを初めて見た際に、「私のジジを見つけたわ!」と言ったのは有名なエピソードである。前後して、『ローマの休日』のアン王女役のオーディションに合格。パラマウント映画と契約し、アメリカにおいてスクリーンデビューを果たす。『ローマの休日』のアン王女役、『麗しのサブリナ』のサブリナ役等で一躍有名に。華奢で日本人に親しみやすい風貌と言われ、そのファッションも憧れの的となった。現在でもその人気は根強く、写真展等のイベントが開催されるほどである。

映画への出演数はそれほど多くはないものの、『ローマの休日』ではアカデミー主演女優賞を獲得。(イタリア・ローマで開催されたプレミアではイングリッド・バーグマンがオードリーの演技に感動して泣いてしまった。) その後も『マイ・フェア・レディ』、『ティファニーで朝食を』等に出演。彼女の魅力が十分に生かされた作品ばかりだ。本人によると『マイ・フェア・レディ』では歌唱部が吹き替えられ、また『ティファニーで朝食を』では主人公が彼女の本来のイメージとはかけ離れており、どちらもがっかりしたという。ただし、作曲家のヘンリー・マンシーニは彼女をイメージして名曲『ムーン・リバー』を作曲して、広く親しまれている。

1954年に俳優のメル・ファーラーと結婚、息子ショーンが生まれる。メルはこれが三度目の結婚で、俳優として当時下り坂であり、映画制作へ軸足を移していた。スターとして駆け上がる妻との不釣り合いがたたり、離婚。1970年に、10歳年下のイタリア人精神科医アンドレア・ドッティと再婚し、男児をもうけたが離婚に終わっている。彼女の出演歴が1960年代後半から1970年代にかけて欠落しているのは、子育てに専念するため、引く手あまたの大作の出演を拒否し続けたためである。ドッティとの別離後から亡くなるまで、オランダ人俳優ロバート・ウォルダーズ(女優マール・オベロンの最後の夫)と同棲した。

1989年の『オールウェイズ』を最後に映画界を引退。その後ユニセフ親善大使に就任、その際に「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている。当時内戦の続くソマリアやスーダンなどの子どもたちに大使として笑顔を届けた。またその一方で『世界の庭園』という番組のホスト役として、7ヶ国・16の庭園を訪れる。

1993年1月20日、結腸ガンで亡くなる。(享年63歳)



このリンクは私の選んだオードリーの写真集です。是非覗いて下さい。
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主な出演作品(映画)

オランダの7つの教訓 - Nederlands in 7 lessen (1948年)
若気のいたり - One Wild Oat (1951年)
ラベンダー・ヒル一味 - The Lavender Hill Mob (1951年)
天国の笑い声 - Laughter in Paradise (1951年)
若い妻たちの物語 - Young Wives' Tale (1952年)
モンテカルロへ行こう - Nous irons a Monte-Carlo (1952年)
初恋 - The Secret People (1952年)
ローマの休日 - Roman Holiday (1953年)
麗しのサブリナ - Sabrina (1954年)
戦争と平和 - War and Peace (1956年)
パリの恋人 - Funny Face (1957年)
昼下りの情事 - Love in the Afternoon (1957年)
尼僧物語 - The Nun's Story (1959年)
緑の館 - Green Mansions (1959年)
許されざる者 - The Unforgiven (1960年)
ティファニーで朝食を - Breakfast at Tiffany's (1961年)
噂の二人 - The Children's Hour (1961年)
シャレード - Charade (1963年)
パリで一緒に - Paris When It Sizzles (1963年)
マイ・フェア・レディ - My Fair Lady (1964年)
おしゃれ泥棒 - How to Steal a Million (1966年)
いつも二人で - Two for the Road (1967年)
暗くなるまで待って - Wait Until Dark (1967年)
ロビンとマリアン - Robin and Marian (1976年)
華麗なる相続人 - Bloodline (1979年)
ニューヨークの恋人たち - They All Laughed (1981年)
おしゃれ泥棒2 - Love Among Thieves (1986年)
オールウェイズ - Always (1989年)




YouTube Audrey Tribute



以下に沢山あるユーチューブの中で二つの作品を取り上げリンク(埋め込み)を貼りました。

(1)Audrey Hepburn Filmography(出演映画のパンフレット集です)





(2)Always (Richard Dreyfus & Audrey Hepburn)(最後の作品オールウエイズ)