遠き明日
319 :遠き明日 :04/04/19 17:30

「遠き明日」

陽の光を浴びながら、思うことは唯一つだけだった。
毎日、その事ばかりが気になって、この何年もの月日を生きてきた。
彼女は、今は何処かで幸せになれただろうか・・・・・

休憩の時間の終わりを知らせる放送が流れる。
周囲の者は、それぞれ、午後の作業場に向けて、素早く移動を始める。
俺は、もう一度だけ陽の光の方を向いて、大きく息を吸った。
やはり、彼女の事だけが気にかかった。

俺と彼女は、同じ国に暮らしていながら、既に、あの日あの瞬間から、きっと違う世界で生きることになったのだと思う。
寂しくないと言えば嘘になるが、諦める事には慣れていた。
ただ願うのは、彼女が、以前見せてくれた、
周囲の者さえ幸せな気分にさせてくれる、素敵な笑顔を取り戻していて欲しい。それだけだった。

作業場の方に戻る。機械を動かす音には聞きなれていた。
仕事も、体に染み付いてきたことだった。苦痛も何も無い。
閉ざされた世界で暮らすことにも慣れた。
もともと、あちらの世界に居場所なんて無かった気がする。

「・・・・・愛・・・・・」
口には出さず、心の中で呟いた。そして、俺は機械を動かし始めた。
この機械を動かすのも、あと少しの時間だった。

320 :遠き明日 :04/04/19 17:40

朝食のテーブルには、既に料理が並んでいた。
愛の料理は、朝から凝っている。早くから父との二人暮しが長かったこともあるのかもしれない。
愛の父親、俺は親父さんと呼んでいるのだが、毎朝のことで、スポーツ紙に夢中のまま、ついでのように口に料理を運んでいる。

「お父さん!食べるか読むかのどっちかにしてよー」
親父さんは聞こえてないふりをする。このやりとりも、いつもの事だ。

「○○さん、どうぞ」
愛が俺の前にコーヒーを置く。
「ありがとう、愛ちゃん。ところで、れいなは?」
愛の表情が一瞬曇ったが、
「なんか、ぎりぎりまで寝てたいって」
「そうか。ったく、我が儘ばっかしいいやがって」
「駄目だよ、そんな事言っちゃ。ね、皆同じ屋根の下で暮らしてるんだから。仲良くね!」
そう言って、自分も席につき、朝食を食べ始めた愛。

平凡な、でも、俺にとってはかけがえのない大切な今の暮らし。
今日も、いつもと同じように、なんら変わりなく始まった。

321 :遠き明日 :04/04/19 17:53

愛のことを「ちゃん」付けで呼ぶようになったのは、愛が高校に入った頃からだったか・・・
それまでは、実の兄妹のように、親父さんに育ててもらってきた。
愛も、実の兄に接するかのように、俺と接していた。
でも、いつからか、どこか照れくささと、俺の中に、自制心が働くようになった。
実際は、血のつながりも何も無いのだ。このままでは、何かいけない・・・と。

朝食が終わり、作業着を羽織り、住居のスペースと隣り合わせになっている作業場へと向かう。
愛も、素早く片付けを終え、「いってきまーす!」の声と共に、家を飛び出して行った。

愛の家は、自動車の部品を作る工場を営んでいる。俺はそこの住み込み社員というとこか。
訳あって、ガキの頃からずっとここで暮らしてきた。
小さな町工場だが、俺の仕事場であり、生きる場所であり、ここが全てだと思っていた。

他に、何十年とここで働く通称源さん。外国人労働者のバトゥ、
そして、親父さんの遠い親戚筋にあたる人の娘だったというれいなという女の子。
これが従業員の全てだ。
皆、どこか癖があるものの、楽しい職場だ。
まあ、れいなって娘は、何を考えてるのか、正直分からないのだが・・・
それに、恐ろしいくらい気が強い・・・

源さんとバトゥと軽く声を掛け合い、仕事が始まった。

322 :遠き明日 :04/04/19 18:04

仕事に没頭していると時間を忘れる。そんな時だった。
「ばかやろうがぁ!!!」
源さんの機械の音に負けないくらいの怒鳴り声が響き渡った。
振り返ると、源さんとれいなが、作業場の入り口でにらみ合っていた。

源さんはキレたら女相手でも平気で手を出す。それで、3度も結婚に失敗したと聞いた。
れいなが何かを言い返したらしく、源さんの表情がさらに険しくなっていた。
慌てて、止めに入った。

「ちょっと源さん、どうしたの?落ち着いてよ。おい、れいな、何があった?」
れいなは俺を少し睨み付けると、そのままそっぽを向いた。いつもこうだ。
さっぱり分からない。まともに会話したのも、もしかしたら無いかもしれない。
同じ屋根の下で暮らしていても、れいなだけは、全く別世界で暮らしているかのようだった。

「このガキ、一度わからせねーと駄目だ、○○。また遅刻してきやがった。あげくのはてには、うるせーんだよ、ときたもんだ」
早口の源さんの口調が、いつもの倍速になっている。
「あのさ、れいな・・・」
「うるせーんだよ・・・」
小声でそう呟き、れいなは自分の作業台に行ってしまった。

さらに激高する源さんをなだめることで、午前中が潰れた・・・・・

338 :遠き明日 :04/04/20 14:59

源さんと揉めた日、就業時間が終わり、れいなはそのまま何処かへ出て行き、結局、その晩は家に帰ってこなかった。
愛は心配して近所を探し回ったようだったが、俺は、源さんに酒に付き合わされ、立てなくなった源さんを家に送るハメになった。

口では悪態をつきまくるものの、源さんだって、れいなの事が心配でたまらないようだった。
たしか、同じくらいの歳の娘がいたはずだ・・・・・
「あいつは、何か大きな傷を抱えてるに違いねえよ・・・」
酔うと、ゆっくりになる口調で、俺に何度もそう呟き、○○、お前もちっとは気にしてやれ。そう言った。

確かに、れいなは心を閉ざしている感じがする。
まともに会話さえしてない俺が言うのも変だが、半年も同じ家で暮らしてれば、何かは感じる。
親父さんは、一度だけ、あの娘の思うとおりにさせてやってくれ・・・そう呟いたことがあった。
理由とかそういうのは、何を聞いても教えてくれなかった。

ほぼ同じ年代の愛とれいなで、こうも違うというのが、俺にはあまり理解できなかった。

次の朝、朝食の時にれいなが帰宅した。何か言おうとする愛を制止して、
親父さんはただ、「朝飯はちゃんと食えよ」とだけ穏やかな声で言った。
何かを言おうとしたのか、しばらく立っていたれいなは、少しして、テーブルに座った。
眼があったが、その眼の奥に何かどうしようもなく暗くて深いものを感じて、俺は黙って飯を口の運び続けた。

339 :遠き明日 :04/04/20 15:12

もうすぐ本格的な夏が始まろうとしていた。
夏には、従業員も皆一緒に、海に泊まりで行くのが毎年の恒例行事だ。
1泊しかしないが、俺達の毎年の楽しみだった。
豪勢な食事に、一流ホテル・・・というわけじゃないが、誰もがその日を楽しみにしている。大切な行事だった。

仕事が休みの今日、愛に頼まれ、買い物に付き合っていた。
「久しぶりだよね、二人で買い物くるなんて」
「まあな」
「なに〜、楽しくないの?もっと美人な色っぽいお姉さんが良かった?」
「・・・ばーか・・・」
楽しそうな愛。俺は何故か、妙に落ち着かなかった。
どこかむず痒い感じと、照れくさい感じと・・・・・

愛が手をつないでくる。
「人込み苦手なの。ちゃんと、しっかり握っててよね。迷子になったら泣いちゃうから」
いたずらっぽく微笑み、俺の手を強く握る。

昔は、こんなこと当たり前だったし、なんとも思わなかった。でも今は・・・
俺は、どうしてしまったのか?手が汗ばむのを感じていた。
愛の楽しそうな横顔が、とても眩しく見えていた。

そんな休日の日。夏が始まろうとしている。
そして、その夏が、俺や親父さんや、愛や、そう、何もかもを変える夏だなんて、思いもしてなかった。
狂った夏・・・・・あの夏が全てを変えてしまったんだ。

348 :遠き明日 :04/04/21 01:31

夏が始まった。工場の中は、暑さがきつい。
うだるような熱気の中、誰もが黙々と機械を動かしている。
でも、俺は夏が好きだった。
別に、俺の人生に何か劇的な事が起こるわけではないのに、何か気分が高揚する感じがするからだ。
ガキの頃、夏休みが好きだった感覚が、そのまま残っている感じだ。

愛は、もうすぐ夏休みに入る為、学校が暇になったらしく、ちょこちょこ仕事を手伝っている。
慣れたもので、下手なバイトより仕事が早い。
「なんかね、こうしてると楽しいんだー」
そう言って微笑む愛に、親父さんや源さんも満足そうだ。
バトゥは、日本語の読み書きをたまに教わっているようだ。

れいなだけが、そんな輪から一人離れていた。
どうも、愛ともうまくいかないようだ。
愛の方は、何かと気にしているのだが、れいなは鬱陶しく思っている様子だ。
一度、しっかり話でもしてみようか。そう思った。
「れいなちゃんは、私の事嫌いみたい・・・」
愛が苦笑いをしていた。

源さんの提案で、今日の夜、裏庭で花火をすることになった。
ちょうど良い機会だろう。れいなも、花火の時くらい、歳相応の笑顔でも見せるに違いない。
俺は、作業台の方のれいなを見た。
ジッと機械を見つめ、作業に集中している。どこか影がつきまとう表情ではあった。

349 :遠き明日 :04/04/21 01:41

浴衣姿の愛を見て、鼓動が早くなったのを感じた。
「見てー、どうかな?似合う?ねえ、ねえってば!」
「いや・・・あ・・あぁ、似合う似合う」
「なによそれー。ちっとも心がこもってないもん。いいもん、源さんとバトゥに見てもらうんだから」

いたずらな感じで俺に舌をだしてみせて、愛は向こうへ行ってしまった。
いつまでも、ガキの頃の愛の印象が強かったのに、いつの間にか、愛はすっかり成長していた。
背は小さいし、体も小柄だが、でも、すっかり女として成長してきていた。
うっすらと化粧をしていた表情や、髪をアップにしたうなじ部分。そして、あの笑顔。
呼び捨てにできなくなった理由を、はっきり悟った気がした・・・・・

俺は、いつからか愛を妹のような存在ではなく、一人の女として見ていたのだ。
どうしようもなく、何か恥ずかしさがこみ上げてきた。

源さん達とはしゃいでいる愛を横目に、つまらなさそうに隅の方で座っているれいなの側に行った。
近づく俺に気がつくと、れいなは何も言わず俺の方を見てきた。
「よ、よう。調子はどうだ?」
我ながら、それはないだろ!と思ったが、既に口から出ていた。
れいなは呆れた様な、怒ったような、なんともいえない表情をしていた。

350 :遠き明日 :04/04/21 01:50

「あっちで皆で花火やろうぜ。こんなとこで座っててもつまんないだろ?」
「・・・」
聞き取れないくらいの小さな呟きだった。
「えっ?なんて?」
「・・・、別にって言ったの・・・」
少しだけ音量が上がった。
「いや、だってさ、せっかくなんだし。な、たまには楽しまないと」
「・・・ほっといてよ・・・」
「おまえなぁ・・・」
思わず、苦笑していた。

気まずい沈黙が続く。いったい何を考えてるのだろうか?
れいなが笑う事なんてあるのだろうか?全く理解ができない・・・・・
そう思っていると、突然れいなが立ち上がった。
「部屋に帰る」
そう言って、歩き出そうとした。
「ちょっと待ってよ」

思わず、手でれいなの肩を掴んでいた。
別に悪気も無かったし、わざわざ触るつもりでそうした訳じゃなかった。だが・・・・・
「さ、さわんないで!!!」
びっくりするような絶叫と、れいなの怯えた表情。
「いや・・・え?・・・わ、悪い。そんなつもりじゃ・・・」
「・・・・・あの、わたし・・・・ごめんなさい・・・・」
そう言って、れいなは走り去ってしまった。

さっぱり訳が分からなかったが、何か俺はれいなを誤解してるんじゃないか?
そんな事を、この時感じた。

351 :遠き明日 :04/04/21 02:00

愛が駆け寄ってきた。
「どうしたの?大丈夫?」
「ああ」
「私、様子見てくるね」
「いや、今はそっとしておいてやろう。よくわかんないけど、今は一人にしてやろう。後で、俺が謝りに行くし」
「分かった。・・・じゃあさ、せっかくなんだし、花火しよ!ね!」
愛が俺を引っ張り、火元へと歩く。

花火の煌き。皆の楽しそうな顔。ゆらめく蝋燭の火。夜空に打ちあがった打ち上げ花火。色とりどりの輝き。
そして・・・・・愛の笑顔。
俺は、この瞬間がずっと続けばいいって思った。
信仰は無かったけど、こんな日々が続くよう祈った。
彼女の笑顔が続くなら、俺はそれだけで幸せだ。そう思った・・・・・

でも、確実に何かが近づいていたんだ。
俺にも、誰にも分からなかったけど、それは確実に俺達に近づいていた。
そんなことも知らず、俺達はいつまでも楽しく騒いでいたんだ。

13 :遠き明日 :04/04/22 03:30

電気を消した真っ暗なままの部屋。
れいなは、部屋の隅に、壁にもたれて座っていた。
カーテンを閉めていても、外の花火の明かりが、少しだけ部屋に差し込む。
膝を抱えて、ジッと闇を見つめる。

しばらくすると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
○○に体に触れられた時、とっさに叫んでしまった。
悪気はなかったが、反射的にそうしてしまった。謝らなくては。そう思った。
でも、どんな時も、本心とは別の言葉が口から出てしまう。
周りから見れば、ただの嫌な女にしか見えないだろう。
自分自身が一番それは分かっている。けれど・・・・・

あの日の出来事が、れいなの心を苦しめ、そして心を閉ざさせる。
今でも、はっきりと隅々まで覚えている。
忘れたいのに、日を追うごとに心に深く刻まれていく気がした。

「・・・お母さん・・・・・」
顔も覚えていないし、今何処にいるのか、生死さえ知らない母。
そんな母を想像して、その中で、料理をしたり、何処かへ出かけたり、そんな空想の時間だけが、今のれいなを支えていた。
自分はこの先どうなるのだろう?何の為に生まれてきたのか?
誰にも必要とされる事など、多分この先無いのだろう・・・そんな事を思った。

「お母さん・・・・・」もう一度小さく呟いた。暗闇に答えは無かった。
ただ、涙がこぼれただけだった・・・・・

14 :遠き明日 :04/04/22 03:38

花火の片づけを終え、源さんもバトゥも家路についた。
親父さんはすっかり酔って寝てしまっていた。
「風邪引くよ、お父さん」
そう言いつつ、愛は毛布をかけている。

「楽しかったねー。きれいだったな、あの打ち上げの花火」
「ああ、そうだな」
「次は、海に行ったとき、またしようね!」
愛は楽しそうに微笑んでいる。
「もっとでっかいやつ、次はそれやろう」
「うん」
そこで、なんとなく会話が切れた。どこか気まずさと、恥ずかしさがあった。
愛も、どこか手持ち無沙汰な感じで、落ち着きがない。

「あ・・・俺さ・・・」
「ん?」
「いや、れいな!そう、れいなにちょっと謝ってくるわ。なんか、怒らせちゃったみたいだったし。まあ、よく分かんないんだけどさ」
「・・・うん・・・あんまり気にしないほうがいいよ」
「あぁ・・・」
もっと、何かこういう時じゃないとできない話ってやつがあった気がする。

何かいいたげな愛をリビングに残し、俺は2階のれいなの部屋へと向かった。

15 :遠き明日 :04/04/22 03:49

ドアのノックの音で、れいなは我に返った。
寝たふりをしていようか。一瞬、そう思ったのだが、
「おーい、俺、○○。ちょっとだけいいかな?」
その声が聞こえ、慌てて涙を拭き、部屋の明かりをつけた。
謝るには、ちょうど良いタイミングかもしれない。自分からは、わざわざ行きづらかった。

ドアを開ける。
「あ、起こしちゃったか?ごめんな。あのさ・・・ちょっと話いいかな?」
れいなは頷き、部屋のベッドに座った。
「悪いな。ちょっと入らせてもらうな」
○○は、ドアのすぐ側に座り、部屋の中を眺めた。
「なんだ、さすが女の子だな。綺麗な部屋だな〜」
「・・・あの・・・用事は?・・・」
「あ、そうだ。悪い。いやさ、さっき怒らせちゃったみたいだったから、謝ろうと思ってさ。
別に、やらしいつもりで触ったわけじゃなくてさ。その、つい」

れいなにも、それはよく分かっていた。ただ・・・・・
「あの・・・私・・・ごめんなさい。大声だしたりして・・・」
「いや、全然。俺がびっくりさせちゃったから。・・あぁ、あんまいるのも悪いから、もう帰るわ。ほんと、ごめんな」
れいなは、何か他に言わなくては、そう思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。

16 :遠き明日 :04/04/22 04:00

「じゃあ、おやすみな」
○○はそう言うと、部屋から出ようとした。
「・・・・・あ・・・」
「ん?どした?」
れいなは、言葉が出ない。ふと思った。
この人になら、自分の苦しみを話せるかもしれない。受け止めてもらえるかもしれない。
いつも、他愛無い会話た、かけてくれる言葉の中に、優しさがあるのを感じていたからだ。

「れいな・・・・・あのさ、うまく言えないけど、もし何か辛いこととかさ、悩んでるんだったら、一人で抱え込むなよな」
照れくさそうに、○○が笑っている。れいなは、その照れ笑いを見つめる。
「まあ、俺なんかには相談なんかしたくもないだろうけどさ。親父さんでも、愛なんか歳も近いんだし。
とにかくあれだよ、こうして一緒に暮らしてるのも何かの縁だろ。いつでも気軽に声かけろよな」

○○は軽く片手をあげて去っていった。
れいなは、しばらくそのまま廊下を眺めていた。
人から、そんな優しい言葉をかけてもらったのは、いつが最後だったか。
勿論、親父さんにはとてもよくしてもらっている。でも、○○は全くの他人。
それなのに・・・・・人を信じなくなっているれいなの心。
○○の言葉が、頭の中を駆け巡っていた・・・・・

部屋の中に戻り、れいなはベッドの上で膝を抱えた。
閉ざした心の暗闇に、ほんの少し、明かりが差し込んだ瞬間だった。

31 :遠き明日 :04/04/23 00:24

愛は一人部屋で眠れぬ夜を過ごしていた。
今までは、もっと素直に、自然に○○と接することができた。
なのに、いつからか、どこかぎこちない自分に気がついていた。
もっと沢山話をしたり、もっと側にいたい。
けれど、最近は○○の方も、どこか自分と距離をおいている感じがしていた。

ため息が出た。
私の事、どんな存在に思ってるんだろう・・・・・
自分のこの気持ちは何なのか・・・・・
愛のもやもやした眠れぬ夜は続いた。

恒例の海旅行まで、もうすぐとなっていた。
皆、仕事にもよりいっそうの気合が入っていた。
俺は、あの花火の日以来、ほんの少しずつかもしれないが、れいなと話をするようになっていた。
どうってことはない、ありきたりの会話だったが、少しずつれいなが変わろうとしているのだ。それが大事だって思った。
源さんも、調子が狂ったようだが、時折、仕事をみてやったりもしているようだ。
今までなら、ほっとけよ、の一言で半日潰れる騒ぎだったのだ。

夏と共に、何か良い流れが始まった気がしてたんだ。
でも、そんなのは俺の思い込みでしかなく、この日かかった一本の電話が、全ての終わりの始まりだった。
この時は、そんなこと夢にも思わなかった・・・・・

32 :遠き明日 :04/04/23 00:32

その電話は、ちょうど昼飯の時にかかってきたんだ。
たまたま電話の側にいたバトゥがとったのだが、
「○○サン、チョットカワッテヨ。コノヒト、ナニカオコッテルヨ」
「誰?」
バトゥは首をかしげる。なんとなく、嫌な感じはしていた。

「お電話変わりました」
「社長さんは?」人をなめたような口ぶり。
「朝から外出しておりますが」
すぐさま舌打ちが聞こえ、
「帰ったら言っとけ。期日は過ぎてるぞってな!」
「あの、すいませ・・・・・」
切れていた。

最近、親父さんは朝から留守にすることが多くなった。
戻るのも、たいていが深夜だ。どこか疲れた表情で、やつれた感じがしていた。
俺は、源さんの問いかけにもあいまいに答え、この事は親父さんにだけ話すべきだって思った。
嫌な感じは、作業に戻ってからも消えることが無かった。

その日、親父さんは戻らず、次の日の夕方戻ってきた。
電話は、あの後はかかってこなかったが、不安だけが俺の中で増していた。

33 :遠き明日 :04/04/23 00:43

親父さんに電話の件を伝えると、そうか、とだけ呟き、再び親父さんは何処かへ出かけてしまった。

夕食後、俺は部屋でラジオに耳を傾けながら、窓際で煙草を喫っていた。
ベッドと、小さなテレビと小さな机。そしてラジオ。この部屋にあるのはそんなくらいだ。
テレビもラジオも、自分で直して使えるようにした。
ガキの頃から住み慣れた部屋。お袋がいた頃の匂いは、今も染み付いているって思ってる・・・・・

ノックがあり、愛が入ってきた。
「ごめんなさい、休んでるとこ。あの・・・」
「気にするなよ。どうした?」俺は、座るよううながした。
愛は座りながら、
「最近、お父さんの様子がおかしいし。それにね、黙ってたけど、家の方の電話にも、変な電話がかかってくるの」
「なんて?」
「泥棒・・・とか、金返せ・・・とか」
愛の表情が曇り、その眼に何かが溢れてくる。

「気にするなよ、ただの性質の悪い悪戯だろ。親父さんも、忙しいんだよ。この時期は稼ぎ時だしな」
話しながら、俺自身がひどく狼狽していることに気づいた。
愛が、すがるような眼を向けてくる。涙が溢れ出した・・・・・

俺は・・・彼女の微笑を守る為なら、何もかも犠牲にできるだろう。
愛には、いつも微笑んでいてほしい。この時、俺は、はっきりそう思ったんだ。

45 :遠き明日 :04/04/23 15:47

心配して涙する愛を部屋にかえし、俺は外を眺めながら、まとまらない考えを、考え続けた。
「くそっ・・・」
呟くだけ空しくなるが、口をついて出ていた。
ベッドに大の字に横たわる。天井の染み。胸騒ぎはおさまりそうになかった。

翌日から、電話はエスカレートしていった。
作業場、事務所、そして家。ひっきりなしにかかってくる。
親父さんに相談しようにも、姿がない。
怯える愛を学校まで送り届け、とにかく仕事をするしかなかった。
嫌な考えや推測だけが頭を支配していく。
源さんも、普段のおしゃべりが全く影を潜めている。

夕方、親父さんが戻ってきた。俺は事情を話し、親父さんの答えを待った。
「すまない・・・・・もう少しだけ耐えてくれ・・・」
それだけだった。会話が続かない。
「そんなに、苦しいんですか?」
源さんが口を開いた。親父さんは、答える代わりに、力なく笑った。

俺は、何も気づかなかった己を恥じた。情けなかった。
こんな時に、俺にできる事は何も無い。どれだけ親父さんや、ここに救われたことか・・・・・
それなのに、あまりに俺は無力だった・・・・・

46 :遠き明日 :04/04/23 15:58

「○○、れいな連れて、あそこの部品届けて来い」
「でも」
「いいから。とにかく行って来い。仕事は仕事だ」
「はい・・・」
源さんに言われ、俺はれいなを車に乗せ、工場を出た。
ここから先は、大人の話し合いということか・・・・・確かに、俺やれいながいても、何かできるわけではない。
けれど・・・

車内に沈黙が流れる。
こんな時、気の効く男なら、何か音楽でもかけるものなんだろうか。
俺はとてもじゃないが、そんな気分じゃない。
「あの・・・」
「ん?どうした?」
「あ、ご・・・ごめん・・・」
苛立っていたせいか、口調が荒かったようだ。
「いや、悪い。どうした?気にせず言ってくれよ」
「あのさ、○○はずっとあそこで育ったの?」
「ああ、そうだよ。あー、源さんか?ったく、相変わらずお喋りだな」
別に隠すつもりも無いが、わざわざ話すことでもないって思ってた。

俺の母親は、まだほんのガキだった俺を連れ、住み込みで親父さんの工場で働いていた。
その母親が亡くなって、天涯孤独となった俺を、親父さんは実の子のように育ててくれた。
だから愛とも兄妹のように育った。
親父さんは高校にも行かせてくれようとしたが、俺は一日も早く働きたかった。
義理とか恩とかじゃないけど、少しでも早く働いて、親父さんを助けたかったし、そうする事が一番だって思った。

48 :遠き明日 :04/04/23 16:23

「・・・てなわけだ。ドラマみたく、そう素敵なストーリーとはいかないな。残念だったか?」
俺は煙草を咥えた。
「ごめん・・・」
「別に謝ることないって。俺は惨めだって思ったりしてないし、恥ずかしいとも思っちゃいないし。な」
「・・うん・・」
「それより、れいなこそ寂しいんじゃないか?親父さんや、お袋さんに会いたいんじゃないか?こんなとこに一人住み込みでさ」

れいなが足元を見ている。まずいこと言ったか?一瞬、焦った。
「わたし・・・親いないから・・・親戚中転々としてて・・・それで・・・」
れいなは必死に何かを伝えようとしていた。
「何処でも邪魔者で・・・いい子にしなくちゃって・・・でも、私がいつも悪くて・・・ここはみんなが優しくて・・・
でも、わたしはいつも反抗ばかりで・・・ほんとは、そんなことしたくないのに・・・でも・・・」

源さんの言葉が頭に甦った。れいなは、傷を抱えている。
きっと、俺なんかには想像もつかない毎日だったのだろう。
たった一人で、周囲と戦いながら、れいなはれいななりに必死に生きてきたのだ。

「・・・わたしは・・・」
「もういいから、な。うまく言えないけどさ、ここにはお前を邪魔者扱いする奴はいないし、ここがれいなの家だ。
少しずつ、笑っていけるようにしなよ。そうすりゃさ、幸せな明日ってのが、むこうの方からこっちに来るさ」
れいなが俺を見つめていた。ほんの少し、れいなの微笑みを見た気がした。
でも、れいなの本当の傷を、俺はまだ知らなかったんだ・・・・・

97 :遠き明日 :04/04/26 00:46

配達を終え、工場に戻ったのは、かなり遅くなってからだった。
俺達が戻るのと、源さんが帰ろうとしているのが、同時だった。
源さんは、俺の肩を軽く叩くと、何も言わず帰っていった。

エスカレートしていく嫌がらせ。
工場のシャッターには、夜中のうちに罵詈雑言が書かれた張り紙が多々あった。
そして、ぶちまけられたペンキ。
夜中もやまない電話。そして・・・

愛が登校拒否をおこした。
学校の前に立っているガラの悪い男達。
誰彼かまわず、愛の家は借りた金を返さないと吹き込む。
昨日まで親しくしていたクラスメイトが、突然避けるようになる・・・・・

「行きたくない・・・お腹が痛いから今日は休ませて・・・」
ドアの向こうから、愛のか細い声が聞こえた。俺は、それ以上何かを聞く事ができなかった。
れいながちょうど通りかかった。
「なあ、ちょうど良かった。愛の様子、見てくれないか?ほら、俺が中に入るのもなんだし」
「・・・嫌・・・関係ないし・・・」
そう言うと、さっさと下に降りてしまった。どうにもならねーな・・・思わず呟いた。

出勤してきたバトゥが顔を腫らしていた。聞くと、途中、知らない男達に殴られたようだ。
今までの暮らしが確実に、音をたてて崩れ始めていた。その音を、確かに俺は聞いていた。

98 :遠き明日 :04/04/26 00:55

「れいな!ちょっとバトゥの顔みてやれや!」源さんの声が響く。
「薬箱はそこの棚にあるから!」
俺はそう言うと、源さんにうながされ、事務所の方に行った。
「○○よ、どうやらにっちもさっちもいかねぇみたいだ」
「どれくらいの借金なの?」
源さんが指を一本立てた。
「一千万!?」
気が遠くなりそうだった。
「いや・・・」
「えっ!?」
「一億・・・ちょっと欠けるくらいみてえだ」
「ばかな!?」

どうやら、親戚の甥の保証人になっていたようだ。
そして、その甥は借金だけ残して失踪。よくある話に聞こえるが、いざとなると現実感が湧かない。
親父さんは連日、あちこち金策に走り回っているらしい。
しかし、この状況を考えると、まともな筋の借金ではないようだ。
部屋に篭っている愛の事が頭に浮かんだ。
昨日、泣きながら帰宅して、話を聞くのに一苦労だった。愛は、すっかり怯えていた。

「とりあえずよ、今できるのは、きっちり納品することだけだ。俺達には、どうしようもねえ額だ」力無く源さんが笑った。

100 :遠き明日 :04/04/26 01:04

作業場に戻ると、バトゥが自分で顔にガーゼを貼っていた。
「あれ、なんで自分でやってんの?れいなは?」
バトゥが作業場の隅を指差した。
れいなが、小さくうずくまっていた。
「ボクハナニモシテナイネ。レイナサン、イキナリオビエタヨ。ダカラ、ボク、ジブンデヤッタヨ」

れいなの側に行き、声をかけた。
「おい、どうしたんだ?」
「・・・・・・・・」
「えっ?」
「・・・ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・」

ガタガタと震え、ただひたすら繰り返している。
「おい、しっかりしろ!どうした!?」
れいなの体を揺さぶり、声をかけた。少しして、れいなが我に返ったようだった。
「大丈夫か?しっかりしろよ」
「・・・・・あ・・・うぅ・・・」
いきなり、れいなが泣き崩れた。
「お、おい・・・」
「一人にして・・・お願いだから、ほっといて!」
そう言うと、れいなは走って作業場を出て行った。
源さんとバトゥも呆然としている。

一つ歯車が狂うと、意外と人生なんて脆いもので、あっさりと全てが狂い始めるものなのかもしれない。
・・・この短い間に、舌打ちが多くなった気がした。

103 :遠き明日 :04/04/26 01:37

愛は頭から布団を被り、ベッドの中で体を小さくしていた。
この短い間に、自分の生活がすっかり変わってしまった事を思い返していた。
今までは、特別裕福というわけではないが、不自由なく楽しい毎日を過ごしていた。
母親はいないけど、優しい父に、兄のような○○。
今では、兄に対する感情以上に、何か別の感情を抱いていた。
源さんも大好きだった。バトゥも。
れいなは、自分を嫌っているようだったが、いつか仲良くなれると思っていたし、そうしたかった。

全てが、あの日の電話から変わり始めていた。
疲れきった父の姿。恐ろしい電話。そして学校にまで来た恐ろしい人たち。
昨日まで楽しく話をしていた友人達も、あっという間に自分を避けるようになった。
クラスの中でも、学校の中でも、自分はそこにいないようになってしまった。

メールを送れば、すぐに返してくれた友人達。
愛の携帯は、音の鳴らないただの機械になってしまった。
寂しさと、怖さと、様々な感情が一気に愛を襲った。
いくら流しても、涙が枯れることはなかった。
自分は一体どうなってしまうのだろう・・・・・考えるほどに、頭の中に浮かぶイメージは悪くなっていくばかりだった。

「お父さん・・・・・○○さん・・・・・」
嗚咽が口から漏れた。愛は、よりいっそう体を小さく丸めた。
部屋には、愛の嗚咽だけが聞こえていた。

119 :遠き明日 :04/04/27 03:17

れいなは、工場から少し離れた土手に来ていた。
昔から、独りにはなれていた。
公園・神社の境内・裏山。場所は違えど、よくこうして時間が過ぎるのを待っていた。
だから、幼い頃から空想の中では本当の自分を出せる気がしていた。

源さんに言われ、飛び出したれいなを探していた。
行けるとこなど、たかがしれてるだろう。
しばらくあちこちを歩き回ると、土手にたたずむれいなを見つけた。
どこか、寂しげな後姿だった。

「よう」
そう言って隣に腰を下ろすと、いたずらを見つかった子供のような表情をれいなが浮かべた。
しばらく、何も言わず黙っていた。煙草の煙の行方を眼で追う。
夏の空は、今工場で起きてる事など忘れそうなほどに、澄んだ青空だった。
「・・・勝手に飛び出して・・・ごめんなさい・・・」
「気にすんな」俺は土手に横になった。陽の光が心地よい。
それっきり、れいなは再び黙ってしまった。

突然怒り出したり、時には驚くほど素直だったり・・・感情の起伏が激しいとは思う。
ただ、どんな時も、消しようのない暗さ、みたいなものがある気がしていた。何か理由があるのか・・・・・
「あのさ、今、工場は大変な時さ。考えたくもないけど、明日には潰れちまうかもしれない。どうすっかな?
俺なんか、ガキの頃からあそこで暮らしてんのにさ。行き場所なんてないしな」
なんとなく、口をついて出ていた。
膝を抱えて座るれいなは、黙って俺の話を聞いていた。

120 :遠き明日 :04/04/27 03:31

俺自身、実はどうしようもなく不安だった。
もし工場が無くなったら?もし、親父さんや愛とこれっきりになってしまったら?
悪いほうばかり考えてしまう。
愛の前では、こんな事言えたもんじゃない。
れいなの姿を見ていたら、なんとなく口に出していた。
どこかに、聞いてもらえるかも・・・という気持ちがあったのかもしれない。情けない話だが・・・

「私も・・・もう行くとこないよ」
れいながボソボソと喋り始めた。
「もう、親戚のとこに帰るのは死んでも嫌・・・
最悪の時は、また住み込みで働けるとこ探す・・・絶対、親戚のとこには帰らない・・・一人で生きてく」
こんな歳の娘が、かたくなにそう決意するには、何か相当なものがあるのだろう。

「そうか・・・そうだな。最後まで頑張るか!な。明日を信じて!ってやつか。なんかの映画の台詞だったかなー・・・」
俺はそう言って起き上がった。
「愛ともさ、仲良くしてやってくれよ。こんな時だからこそ、力合わせてさ」
「・・・嫌いなのよ、ああいう奴。甘ったれて育って・・・悪い人なんかいません、みたいに振舞って、
それに・・・私の事、可愛そうな子って感じで接してきて。親父さんには感謝してるけど、あいつには、余計なお世話!」
「あのなぁ・・・」苦笑した。
「好きなんでしょ?あいつのこと。だから、そういうこと言うんでしょ?」
「れいな、お前なぁ・・・愛は妹と同じなんだよ。
ただ、歳も近いんだし、同じ家で暮らしてんだから、仲良くしたらいいなーってさ」
れいなの表情が怖い・・・

121 :遠き明日 :04/04/27 03:43

「ま、まあさ、とにかくあれだ。一度ゆっくり話してみろよ、な」
何を焦っているんだ俺は・・・呂律がまわっていない。
「行こうぜ、な」
この時も、特に意識したわけでなく、なんとなくれいなの肩を軽く叩いた。
よく、友達同士がふざけあったりする、あの感覚と同じようなもんだった。

「さ、触らないで!・・・ゆ、許してよ!」
れいながひどく取り乱し始めた。
やっちまった!と思ったが、同時に、何故なんだ?と思ったし、どこか腹立たしくも思った。
れいなは座り込み、身を縮めている。
「悪かった。そんな変なつもりじゃないんだよ」
れいなは、ぶつぶつと何か言っている。ごめんなさい、そう言っているようだ。
「あのさ、どうしちゃったんだよ!?そんなに俺が不愉快か!?言ってくれよ」
答えは無い。れいなにあたってもしかたないのに、何故か声が荒くなった。

「先に帰るから。勝手にしてくれ」
ここしばらくの苛々が、こんな形で出てしまった。
すぐに自分自身に腹が立ってきた。
「・・・○○・・・ごめんなさい・・・」
れいなの涙声が背中から聞こえた。振り返る。
れいながこっちを見ている。泣いていた。思わず、うろたえてしまった。

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
何度も繰り返すれいな。
「あの、俺・・・悪かった。れいなにあたっちまった。ホントにすまない。情けないよ・・・・・悪かった」
れいなの側に戻り、もう一度謝った。
そして、しばらくの無言の間の後、れいなが口を開いた。俺は、その時の事を、今もはっきり覚えている。

133 :遠き明日 :04/04/27 21:45

すすり泣くれいなと、工場に戻る道を歩いていた。
すっかり陽も暮れて、夕焼けの空が広がっていた。
そんな美しい夕焼けの空とは反対に、俺の心の中はすっかりドス黒くなってしまっていた。
やり場の無い怒りや、腹立たしさや、悔しさや・・・・・
俺でさえこんな気分になるというのに、
当のれいなが今までどんな思いで、それらを抱えて生きてきたのかを思うと、余計に胸を切り裂かれる感じだった。

向こう側から、大学生くらいの男と、女子高生のカップルが腕を組み、ベタベタと寄り添いながら歩いてくる。
俺とれいなも、学校というやつに通ってれば、ちょうどそんなくらいか。
女子高生のほうが、すすり泣くれいなを見て、彼氏の方に何かを小声で呟き、二人で、大きな声をあげて笑った。
まるで自分達は勝ち組。俺達は負け組みというような、見下した嫌な笑いだった。

すれ違ってしばらくしてから、猛烈に怒りがこみ上げてきた。
俺や、れいなが、何に負けたというのだろうか・・・俺達は、人生の階段を踏み外したとでもいうのか・・・・・
ただ、自分なりの幸せを探して、必死に生きてきただけだ。

追いかけようかと思い、一瞬立ち止まると、れいなが無言で俺の手を握ってきた。
信じられなかったが、その小さな手は、しっかりと俺の手を握っていた。
俺は、その手を、れいなのその気持ちを強く握り返した。
夕焼けの下、再び歩き始めた。そこに言葉は無かった・・・・・

134 :遠き明日 :04/04/27 21:58

れいなは、幼くして親戚の家に預けられた。
両親は、れいなを残して東京に働きに出たが、いつしか行方知れずとなっていた。
必ず帰ってくるから、良い子にしてて・・・そう言って微笑んだ親の言葉をひたすら信じていた。
けれど、その約束は、いつしか果たされないものだと、誰に言われるでもなく、理解した。

無駄口を叩かず、言われたことは何でもこなし、ひたすら自分を押し殺して良い子でいた。
親戚の家の中の厄介者であるのは、幼いれいなにも感じられた。
親戚の家も、裕福な家ではなかった。むしろ、貧しい家だった。それに、子供が4人もいた。
余計なもんおしつけやがって、あのバカ夫婦が・・・叔父の口癖だった。

悲劇は、12歳の時に起きた。
酒乱気味の叔父は、その日も昼から家で一人酒に溺れていた。
れいなは、たまたま風邪をこじらせ、学校を休んで家で寝ていた。
甦る悪夢の記憶・・・・・静かに開くドア。酒臭い叔父の息が顔にかかる。
こうでもしてもらわねえと、おめーは他には何も役にたたねえからな。

のしかかる叔父の重さ。恐怖。塞がれる唇。声も出なかった。吐きそうだった。
抵抗するれいなの頬を打つ平手。叔父の手がパジャマを引き裂いた・・・・・
そして、経験したことの無い痛みが、体を貫いた・・・・・

また可愛がってやるからな・・・その言葉だけがれいなの耳に残った。
地獄が始まった・・・・・

135 :遠き明日 :04/04/27 22:09

叔父は、頻繁にれいなを求めた。拒むと、ひどく殴られた。
叔母も気づいたようだったが、救いの手は差し伸べられなかった。
そんな一年が過ぎ、叔父の家の家計のさらなる圧迫と共に、れいなは別の親戚の家に引き渡された。
それまでのことなど、何も無かったかのように。

あの悪夢以来、れいなは心を閉ざした。そうしないと、自分は生きていけない気がした。
よほどのことがないかぎり、自分から誰かに話しかける事もしなかった。
そんなれいなを、どの親戚もうとましがった。
だから、すぐに別の家に渡される。その繰り返しだった。

どうでもよかった。働ける歳になりさえすれば・・・それだけを思い生きた。
いつからか、感情をコントロールできなくなった。でも、そんな事も、もうどうでもよかった。

そして、義務教育が終わり、今の親父さんの所に引き取られることになった。
この事を話したのは、○○が初めてだった。
そして、れいなは、自分の為に泣いてくれた人をはじめて見た。信じられなかった。
同時に、味わったことの無い感情が、心の奥底から湧き上がるのを感じていた。
もういいよ、もう大丈夫だ。
そう言って抱きしめられた時、これで自分の人生にも少しは救いというものがあるという事を知った。
男に触れられる恐怖感は、何故か湧かなかった。安らぎが、そこには確かにあった。
その安らぎに、つかの間、れいなは身を任せた。

142 :遠き明日 :04/04/28 01:44

愛の頭の中に、電話のベル、友人達の冷たい視線、父の疲れきった姿。
それらが絶え間無しに浮かんでは消え、また浮かんでいった。
「助けて・・・」
言ってはみたものの、どこにも答えなんて無かった。
友人達が自分を指差して笑っている。その笑い声がどんどん大きくなる。
「やめて・・・お願いだからやめて・・・」
自分を取り囲み、友人達は、さらに大きな声で笑い続ける。
「・・・やめてー!!!・・・」

自分の叫び声で、愛は目を覚ました。
汗で全身が濡れている。呼吸が荒い。また涙が流れてくる。
どうしてこんなことになってしまったのか・・・このままでは気が狂いそうだ。
今までの、平凡でも幸せだった暮らしに戻りたい。
誰にも怯えることなく、堂々と生きていられる生活に戻りたい。
心の底からそう思った。
「・・・・・怖いよ・・・」
愛は再び頭から布団を被った。もう、眠りは訪れてくれそうになかった。
眠りの中にだけ、今は安らぎがあると思いたかった。
朝日が、愛の部屋の窓から差し込んできた。

俺は、一睡もできなかった。
れいなの事、今の工場の事。頭がパンクしそうだ。
カーテンを開けると、すっかり夏の朝が始まっていた。
窓を開ける。熱気が、一気に部屋の中に立ち込める。
隣の部屋にいる愛も、れいなも、そして親父さんも、この朝日を見ているだろうか?
今、何を思っているのだろう・・・・・

この夏が始まって、一番の暑さとなりそうだ。
そして、崩壊の日が始まったんだ・・・・・うだるような暑い夏の日。
澄んだ空が何故か不愉快で、俺は空を睨みつけた。
崩壊の日・・・・・そう、もうすぐ全てが終わろうとしていた。

143 :遠き明日 :04/04/28 01:56

その日は、朝から皆がくたびれきっていた。朝食の席に会話は無い。
親父さんが席を立つ時、××さんのとこに、昼までに納品しといてくれ。
そう言ったのが唯一の会話だった。

愛は、すっかり笑うこともなくなり、自分の殻に閉じこもっていた。
そんな愛を見るのが、たまらなく辛かった。どんな時も明るく元気な愛だったのに。
れいなは、いつもと変わりは無い感じだが、どこか少し吹っ切れた感じがした。
部屋を出たときに出くわしたら、おはよう、そう小さな声をかけてきた。
嬉しかった。そんな事がたまらなく嬉しかった。
だが、重く暗い空気が、この家を包んでいた。

俺は、始業時間になり、源さん達に挨拶をすますと、車に部品を積み込み、納品に向かおうとした。
運転席のドアを開けようとした時、全身を嫌な感覚が貫いた。
「どうした?○○」源さんが聞いてくる。
「いや・・・なんでもないよ・・・」

何かは分からないし、分かるはずもない。
でも、その感覚は、とても嫌なものだったし、正直なとこ、恐ろしかった。
ゆっくりと大きく深呼吸した。
作業場に座っている愛を見た。部屋に一人でいるのが怖いというのだ。
愛も俺を見ていた。
何故か、この時、愛がずっと遠くにいる気がした。
どこか違う世界に俺自身が放り出された気がした。
そんな思いを振り払いたくて、俺は車に飛び乗った。

144 :遠き明日 :04/04/28 02:09

納品に向かう車中も、納品の確認作業に立ち会っている時も、ずっと嫌な感覚は付きまとっていた。
そして、見るもの全て、納品先の人と話している時も、俺だけが違う世界にいる気がして、たまらなく不安だった。
こんな感覚、今まで経験したことが無い。

全てが遠く、そして白く感じた。
俺はどうなってしまったんだろう・・・・・

納品を終え、コンビニの駐車場に車を停め、買ってきた缶コーヒーを飲みながら、煙草に火をつけた。
指が震えていた。
眼を閉じる。
今俺がこんな状態では、親父さんも、愛も、何も守ることもできないし、何の役にも立たない。
とりえなんか無いけど、俺にだって守りたい物や、守りたい大切な人がいる。
失いたくない。強く思った。

大切な人を失うくらいなら、俺自身が壊れるほうがいい。
昔読んだハードボイルド小説の台詞みたいだ。
普通なら笑っちまうけど、この時の俺は、本気でそう思ってたんだ。

眼を開けて、エンジンをかける。
車を発進させる時、不意に、母の顔が浮かんだ。
その顔は悲しげで、でも、俺は身近に感じることができた。
そして、愛の顔を思い浮かべた。
けれど愛は、悲しいほどに遠かったんだ・・・・・

185 :遠き明日 :04/05/01 00:12

工場の前に、見たことも無い車が横付けされていた。
その車の雰囲気から、嫌な予感が強まった。俺は、急いで工場の中に入った。

眼に飛び込んできた光景。
鼻血を出して倒れている源さんと、その横にいるバトゥ。
そして、隅に立っているれいな。
そして・・・・・俺と同じくらいの若い男に頭を踏みつけられている、土下座をした親父さん。
その側には、年輩の男と、少し若い男。
親父さんはただ、勘弁してください・・・そう繰り返している。

愛の姿を眼で探した・・・・・事務所と作業場の合間の所で、呆然と親父さんの姿を眺めている。
俺は、一番見たくなかったものを見てしまった気がした。
親父さんは、俺の父であり、仕事の師であり、恩人だった。
いつもどっしりしていて、俺はいつも心の中で親父さんに何かしら頼ってきた。
その人のそんな姿は見たくなかった・・・しかたないといっても、あまりに惨めだった。

若造が、親父さんの頭に唾を吐きかけた。
「保証したもんは、返すのが人の道理でしょ・・・ねえ」
年輩の男が、下卑た笑いを浮かべながら言う。
「もう少し・・・もう少しだけ・・・」
親父さんが床に頭をついたまま言う。
若造の蹴りが親父さんの背中に入る。
「お父さん!!」愛が駆け寄った。

「こんな娘さんがいるなら、どうです?親孝行させたら。意味は分かりますよね?」
男達がいやらしく笑う。

186 :遠き明日 :04/05/01 00:24

「さて、どうするか決めてもらいますよ、今日は」
若造が、年輩の咥えた煙草に火をつける。
「この娘さんなら、いろいろ使い道はありますよ。ね、借金もチャラにして、娘さんの稼ぎでもう一旗あげたらどうです?」
「てめえら!」
源さんが掴みかかろうとしたが、若造ともう一人に軽くいなされた。

れいなと視線が合った。
俺は、どうしたらいいのか分からなかった。
情けないことに、足も震えていた。
でも・・・状況は痛いくらいに理解してた。
あいつらの言う意味も分かってた。
現実感てやつが湧かなかった。

「・・・わたし・・・お父さんの為なら、何でもしますから。もう、誰も苛めないで下さい。お願いします」
愛が立ち上がって言った。
「ほーう、これは感心な娘さんだ。なら話は早い」
「愛!!貴様ら、娘はまだ高校生だ!」
「今はね、若い娘さんに需要があるんですよ。だから我々も供給する。
まあ、これで解決ですから、めでたいじゃないですか。良い娘さんをお持ちで」
男の笑い声が耳を突き刺す。心を突き刺す。

愛が、真っ青な顔をしている。
そして遠い・・・見慣れた作業場が遠い。空気が重い。
心の中、そして俺自身の何かが壊れる音を聞いた。確かに聞いた。

れいなと再び眼が合った。
頑張れよ、負けるなよ。呟いた、心の中で。愛と眼が合った。
幸せになれよ・・・好きだった・・・ホントに好きだった・・・心で呟いた。
俺の手は、あまりにも自然に、近くにあったスパナを握っていた。

187 :遠き明日 :04/05/01 00:35

床を蹴った。自然と声が出た。何もかもがスローモーションに見えた。
年輩の男の顔が引きつる。誰かの叫び声が聞こえた。
源さんか、親父さんか。
手に、強烈な感触があった。
顔に、生暖かいものが飛んできた。
ゆっくりと崩れる男。赤すぎる血。

何もかもが遠くなった。
昨日も、明日も、今という時間も、すべてが遠くにいってしまった。
白い空気に包まれた・・・・・・・

俺は飛び起きた。またいつもの夢だ・・・体中が汗にまみれている。
朝日を感じた。外は晴れているようだ。
この何年もの間、ほとんどの朝をこの夢で目覚めてきた。
俺は両手を見る。・・・人を殺めたこの手を・・・・・

あの時、俺の固まった手からスパナをとってくれたのは、れいなだった。
誰も何も言わなかった。俺も何も言えなかった。あまり、その後は覚えていない。
両手にかけられた手錠の冷たさと、パトカーが走り出したとき、愛が追いかけて来てくれたのは覚えてる。
そうだ、途中で転んだんだ。怪我はしなかったろうか?

みんなどうしているだろうか?
今では、すっかり住む世界、生きる世界が違ってしまった。
俺の明日は、どこか遠くにいってしまった・・・でも、後悔はない。
あるのは、愛の笑顔が戻ったかどうか、その心配と、反省だけだ。

看守に、番号を呼ばれた。俺は返事をして立ち上がった。

188 :遠き明日 :04/05/01 00:45

風が心地よい。空は澄んでいる。俺は、おもいっきり空気を吸ってみた。
「○○、二度と戻ってくるなよ、いいな。しっかり生きていけ」
名前を呼ばれたのは、何年ぶりだろうか・・・・・最後に呼ばれたのはいつだったか。
俺は、深々と頭を下げた。

門が開き、俺は一歩を踏み出した。
塀の中の世界から、外の世界へ出た。
一度だけ、刑務所を振り返った。色々な思いがありすぎて、整理できそうになかった。
ゆっくりと歩き始めた。
行く場所も無いし、待っている人もいない。
孤独にはすっかり慣れた。
そう思わなくては、やっていけない・・・・・

しばらく歩くと、向こうに、一人の女性が立っていた。
誰かを待っているのだろう。
今日は、あと二人出所者がいる。
俺は足早に通り過ぎようとした。
「○○・・・・・」
何か言われた気がしたが、気にしなかった。
「・・・○○!!・・・」

自分の名前を呼ばれた気がした。
立ち止まり、振り返ってみる。

・・・・・れいな・・・・・あの時はまだガキだったが、すっかり女になっていた。
でも、まぎれもなくれいなだった。
「・・・どうして・・・」
れいなが、俺の胸に飛び込んできた。
「ずっと・・・ずっと待ってたよ・・・この日を・・・待ってた・・・」

189 :遠き明日 :04/05/01 00:57

「ばかな!?」俺はれいなを引き離した。
「いいか、俺とはもう関わるな。あの頃には戻れないんだ。生きる世界が違うんだよ、
もう・・・お前はお前の幸せを探せ。二度と会うわけにはいかない」
俺は歩き出した。

れいなが後ろから抱き付いてきた。
「一緒に背負って生きていこうよ・・・あの時だって自分ひとりで背負ってさ。
私にだって、○○の背負ってるものを分けてくれたっていいじゃない!そんなに私の事が嫌い?」
「・・・・・」

何か言いたかったが、言葉がでなかった。
「昔、土手で話したの覚えてる?あの時、私のために泣いてくれたよね?
今度は、私が○○の苦しさを受け止めてあげるから・・・・・
ずっとこの日の為に、私負けないで生きてきたよ・・・言ったでしょ?負けるなって・・・」

人の温もりを感じたのは、ずっと昔の気がした。
人から自分の為に泣いてもらったのは、初めての気がした。
俺は力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
俺の頭を、れいなが優しく抱きかかえた。
「もう独りじゃないよ・・・ずっと私がいる・・・」
何故か、涙が流れた。そんなもの流す資格も無いのに、とまらなかった。

何もかもが遠かったのに、今、れいなだけが近く感じることができた。
俺はしばらく、れいなの温もりに浸った。

あの狂った夏から、7年の月日が過ぎていた。
明日は遠いけど、生きれる、生きていける・・・そんなことを思ったんだ。


   〜第一部 終〜



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