光のしたたる絵画 --ジョセフ・ラヴの絵画について--
大岡 信

 ジョセフ・ラヴ、通称ラヴさん。1929年米国マサチューセッツ州ウスターに生まれ、ボストン大学で哲学を専攻した。1956年初めて日本にやってきた彼は、2年間日本語を学び、上智大学で神学の修士課程を終えたのち米国に帰り、コロンビア大学で美術史を専攻した。ボストン大学で哲学の修士号、コロンビア大学で美術史の修士号を取得したわけだが、再び日本にやってきて、イエズス会神父として上智大学文学部で美術史を講じ、他大学からもぐりで聴講する学生が跡を絶たない名物先生となった。「美術手帖」「みづえ」その他の美術雑誌や、東京のたくさんの画廊における日本あるいは韓国またアメリカ、ヨーロッパの画家・彫刻家・造形作家の個展・グループ展のカタログ類に、じつに細やかな観察眼を駆使した論を書いた。そのかたわら、アメリカの新聞・雑誌などにも日本現代美術についてしばしば寄稿し、1960年代末ころから80年代初めのことまでの、同時代の最先端にある芸術活動を精力的に紹介する、ちょっと他に例を見ないをどの大きな役割を果たした。
 同時に彼は、絵画展や写真展を日本、アメリカ、オーストラリアでしばしば開き、評論活動と創作行為が一体となった全人間的な制作を続けてきた。初対面の日本人を一人残らず唖然とさせるほどのみごとな日本語を駆使して、いわゆるハナセル先生のモデルそのものといってよかった魅力的な人格のラヴさんだったから、その彼が病魔に犯され、しだいに動作にも言語活動にも自由を失いはじめたことを知った時の驚きといったらなかった。あれからもう10年ほどになろうか。大学も去らなければならなかった。障害の病状ははかばかしくない。だが、ラヴさんを知るほどの人ならだれでも、たとえいちいち口には出さなくとも、彼が不屈の意志で病気そのものをわが生活の伴侶として受け入れ、リハビリテーションに立ち向かう努力を続けていることに感動している。
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 かれこれ20年ほど前になると思うが、ラヴさんは日本の現代美術を論じた長大で精緻をきわめたある文章の末尾に、「しばらく内部(インサイド)に身を置くよそ者(アウトサイダー)」として同時代の日本美術を論じた、と印象的なことを書き、もし自分が誤っていたら、その誤った印象を誰かが訂正してくれることを願っている、とも書いていた。
 この謙虚さは、ラヴさんの生涯を貫いているある気高い意志の存在を感じさせるものだった。彼の現代日本美術論が誤っていると断じることのできる人は、扱われた当の芸術家たちについてはいざ知らず、当時誰一人いるはずがなかったのである。なぜなら、彼ほど丹念に、精密に、深い愛情と理解力をもって、同時代の、生まれつつある芸術家たちの、生まれつつある作品に付き合い、見守っている批評家は、他に一人もいなかったと言っていいのだから。そして当の芸術家たちにしても、自分自身について言われたことについてならいろいろ言うこともありえたが--芸術家は常に他人の批評や賞賛に対して不満をいだくものだ--ラヴさんの視野は常に洋の東西の広大な比較芸術論的背景の上に築かれていたから、個として独自性をいかに強く主張する作家であっても、自分の姿をより大きな視野の中で見直すきっかけを与えられるラヴ論文に対しては、刺激と感謝の念をよびさまされずにはおかなかったはずである。
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 ジョセフ・ラヴの変形キャンバスへの好みはずいぶん歴史が古いように思われる、彼が日本で開いた個展の最初のものは1972年秋の日本橋「南画廊」でのジョセフ・ラヴ展だったが、この時すでに彼は下辺が上辺よりも長い台形のキャンバスなどを用いて作品を描いていた。当時流行しはじめていたミニマリズムを意識した作品だったと思うが、私はその問題についてラヴさんと話したかどうか記憶にない。この人は自作について語ることが、全くといっていいほどなかったように思う。
 この控え目な自己抑制は、彼が他の若い作家たちについて書く時の、ほとんど献身的な善意の塊とさえ感じられるこまかい配慮にみちた評論を一方に置いて考えると、何だか不思議な気分にさえなる事だった。実際ラヴさんは、自らの作品について説明的になるのを極端に抑制していたと思われる。それが彼の感嘆すべき自己統御の現れだったとしても、私には少しそれが不満だったのも事実である。ラヴさんの作品のような、本質的に寡黙で瞑想的な画面は、その抽象性がどんな精神的磁場から生じているかをじっと考えないと、これは私には無縁のもの、と人々に思われてしまうおそれもあるからだ。ましてキャンバスがふだん見慣れた長方形のものでないため絵を見るよりも先にその形の異風さにびっくりしてしまう人々もかなりいるだろう。
 私は今、パルテノン多摩に並ぶはずの作品がどのようなものになるかについて、まだ詳しいことを知らずに書いているのだが、想像するに、1980年代半ばのころの作品が一番多くなるだろうと思う。これは今言った南画廊の個展当時のものよりも、さらに形が自由に変形されていて、台形の基本である二辺の平行性がなくなり、四角形は四角形でも、斜めに切られた長短さまざまの辺で囲まれた四角形のキャンバスの作品である。
 私はこれらの作品を見ながら、ラヴさんの脳裏に一つの光明世界のようなものがひろがっている状態を想像する。彼はスプレーで色を吹きつける技法と、絵筆のストロークで力強く不定形の線を画面に走らせる方法との二つの技法を併用しているが、色の形態の配置には、ある大いなる心の平安の世界への憧れが、祈りのように波うっているのが感じられる。底辺がぐっと大きく、上辺が小さくなっているキャンバスの活用には、明らかに遠近法の意識があって、上辺は単に狭くなっているのではなく、距離においても、またそれが暗示する時間の感覚においても、遠く遥かな世界そのものなのである。
 色はその遠く遥かな世界から、光のように、また音のように、したたりつつ降りてくるように思われる。
 そのようなものとしてラヴさんの当時の大作を見てみると、彼の精神的背景をなす神聖な世界に対するラヴさん独特の接近の過程がこれらの絵になっているのだろうということが、直観的に了解されるように思われる。
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(おおおかまこと 詩人)

1992年1月に開催された「ジョセフ・ラヴ展」(パルテノン多摩市民ギャラリー)カタログのために書かれた文章です。

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