「夜を泳ぐ」(2)

 階段の上についた平太郎は、ちょっとのあいだ立ちどまって、またたく星の下に丸く広がる海をながめました。左手の岸からすこし沖へいったところに大きな岩がつきでています。平太郎がいま立っている崖とおなじくらいの高さです。岩のてっぺんのあたりはぼうっとしています。ごつごつした岩に何本もの松の木がはえているのです。なにもかもまっ黒です。あたりもとても暗いので、岩のまん中にあいた大きな穴もほとんど見えません。その穴のせいで岩全体が自然にできた橋みたいです。
 崖にそった小道をすべりおりたほうがいいか、それとも木や下ばえを跳びこして下におりたほうがいいか、平太郎は迷いましたが、30秒もしないうちに、はだしの足の下のつるんとした石の暖かさが感じられました。まるで巨大な鳥がうみおとしたばかりの卵のように、空気よりずっと暖かです。昼間のうちに夏の日の暑さをすっかりためこんだのでしょう。
 やがて平太郎は、小さな波がよせてくるところから二、三歩手前にある大きな岩まできました。波は、ザザーッとよせてきてはまたひいていきます。平太郎はひものむすび目をほどき、寝巻きをはらいおとすように脱ぎました。
 海からまっすぐに立ちあがっている大きな岩。その高い崖には半円形のくぼみがありました。平太郎はいまその入り口にたっているのです。平太郎のうしろがわの崖には洞窟がぱっくり口をあけていて、目のまえの海がこのあたりのどこよりも静かなのは、海底の大きな岩が大波をとめ、小さなくぼみの静けさをかきみださないからでしょう。岩と岩のあいだに足のさきをはさまれないためには、また、意地わるな岩にひじをぶつけないためにはどこから水にはいったらいいか--そんなことを考える必要はありませんでした。このあたりではもう百回くらい遊んだことがあるからです。
 平太郎はそろそろと海にはいり、しゃがんで肩まで水につかり、それから、裏がえった大きなカニみたいに両手両足をうしろにのばし、岩の上をはって進みました。しばらくいってから腹ばいになり、ようやくのびのびと泳ぎだします。膚はうろこのついた魚の膚のように水になじみ、ぜんぜん力をいれなくても動けるのです。