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精神分裂の時代におけるエロスの可能性--芸術での記録と予言  (さぐる No.3, 1980) 松岡和子訳*
Possibilities for Eros in a Schizoid Age : The Documentation and Prophecy in the Art

 現代芸術におけるエロスについて語ることは複合した矛盾について語ることであり,その基本的な前提と,活動の背景とが前世紀までとはまったく違っていることを理解せずに,それを説明することはできない。だからまず初めに,論じているものについてはっきり認識しなければならない。

 「現象」としては,エロスを,批評家スーザン・ソンタグがしたように多様な形を持つセクシュアリティとして取り扱うこともあるし,プレイボーイや他の週刊誌のレベルで豊かな生活の飾りのひとつとして扱うかもしれない。あるいは漫画本レベルのサド・マゾや,ポルノ映画にも見られるように鬱積したエネルギーのいわば発散としてとらえることもあるだろう。

 ところが,このようなアプローチは,現実のとらえ方を,エロスの歴史的,古典的概念とは関係のない限られた世界へと狭めてしまう。そればかりでなく,エロスの最も陳腐で破壊的な取り扱い方である。むしろここではこの主題を,歴史をさかのぼって古代ギリシャ人の観点から考えたいと思う。この枠組みなら,われわれに色々な心理的真実を提示し,他の思想体系や伝統に対応することもできるだろう。

 エロスの古典ギリシャのイメージは,アフロディテとアレースの間に生まれた子,すなわち愛と戦争の子だ。つまり彼は感じやすさと攻撃的な情熱の両方を受け継いだのだ。そのイメージがまだ健在で,力強いバランスを保っている間に,エロスは成長して大人になった。ところが,後にヘレニズムの時代になって,個人の自由が政治的な弾圧の犠牲になったとき,アフロディテに対して人々が抱いていた深い情熱が感傷にとって替わり,エロスも情熱を失って幼年時代に逆戻りしてしまった。彼は,成長を拒否する幼稚な赤ん坊になり,この時点で「甘え」の神になったのだ。エロスの堕落。

 エロスのイメージに含まれているのは,一体化を通して生命を与えようとする衝動である。この考え方は現代の通常のエロスの概念,とくにフロイドの考えに影響されたものには欠けている。19世紀のピューリタンの時代には,抑圧された性的衝動が強度の緊張に達し,解放される必要があった。ところがフロイドはその必要性に集中したあまり,性というものはより大きなエロスの一部分にすぎないし,エロス全体,人格全体の中に統合されるべきものだということを忘れたのだ。

 こうした定義の問題のほかに,エロスが20世紀の人間の置かれている状況のなかでどのように働くかを探る必要があるだろう。現代心理学者ロロ・メイは,著書「愛と意思」の中で,20世紀の人間の根本的な心理状態は,分裂した状態に置かされていることだと言っている。現代では,感受性のある限り,人間は分裂した状態に置かれてしまう。つまり,まず周囲から孤立していると感じ,そういう孤立を「必要」とするようになる。つぎに,現代人は往々にして感じることができない。この孤立感と感受性の喪失の結果,親密な関係を避け,他人から遠ざかるようになる。

 さて周囲から孤立したといっても現実との関係がなくなるわけではない。しかし,他者との本当に深いコミュニケーションが不可能であるために,強烈な感情や想像の営みは個人の内側にとどまってしまう。もしも芸術家であれば,そういった内面の営みが作品に形となって現われることもあるだろう。
分裂的な「人間」と分裂的な「世界」を対比させることによって,この状況の複雑さを理解することができる。

 分裂的な人間のよい例はポール・セザンヌである。彼は,エクサン・プロバンスに家族とともに閉じこもり,パリからの訪問客を拒絶,きわめて規則的な生活を送った。それと同時に,彼が描いていた新しいヴィジョンは,ルノワールやピサロといった社交的な同世代の印象派の画家達よりもずっと美術の方向を決定づけるのに有効なものだった。想像力を純粋に保ち,自分のヴィジョンとそこへの道筋に真摯であるために,彼は都会の芸術の世界から離れる必要があると感じたのだが,それと同時に,美術史における自分の位置については,終始,十分に理解していたのだ。つまり彼のは「健康的な」分裂と言うことができよう。芸術家としてのアイデンティティーを守るために必然的にそうなったのだ。

 病的な分裂状態はヴィンセント・ヴァン・ゴッホである。彼は誰ともうまくコミュニケートできなかった。芸術家の共同体というアイディアに熱中したかと思えば暴力的に人と争い孤独に逃げ込む,というシーソーのような社会生活を送った。彼の病気は,一方では人間と自然に対して強烈な愛着を持ちながら他方では完全な孤独を求めるというアンビヴァレンスの極地だったように思われる。最後にはその矛盾があまりにも強くなり,絶望して自殺してしまった。今見ると,分裂状態は「人間」にあるであって,彼の「芸術」にはほとんどないことが分かる。

 分裂状態のなかで仕事をしたもうひとりの現代作家はマックス・ベックマンだ。第二次大戦の初期に彼が描いたシンボリックな作品は暴力的だが,その暴力への作家の感情は何も示されていない。そうした感情の欠落は彼の自画像にも現われている。彼は自己の真の姿を見せることを拒み,仮面しか見せない。

 20世紀の分裂した世界に生きる人間の最もはっきりした例はパブロ・ピカソだろう。彼も一種の分裂的な人間だったが,ピカソの絵は彼個人の状態だけでなく世界の状態についても語っているのだ。
青の時代の彼の作品は,普通の世界から切り離された無感動な人々,貧困に苦しむ人々,社会から追放された人々や旅芸人が描かれている。しかし,こういった青やピンクの時代に描かれた分離は「文学的」なものであって造形的,空間的なものではない。その意味ではこの時期の作品は現代アメリカ画家,エドワード・ホッパーと比較することができよう。真っ正直な「常識的」リアリズムでホッパーが描いたのは,疎外され,空虚な,決してやってこない何かを待っているような人々だった。

 ピカソの作品で決定的な分裂が起こったのは1920年代終わりから30年代,とくに暴力と断絶が身体的に最も激しく表れた大作「ゲルニカ」の頃だ。ここではアーティストは自身のエネルギーやコミュニケーションの可能性について絶望してはいない。伝達されているメッセージそのものが分断されているのだ。

 しかし,この時代の作品はピカソ自身の中に,一体化によって新しい生命を生み出すエロスへの恐怖があったことを示している。パブロ・ピカソの結婚生活はうまくいっていたが,子供が生まれるやいなや彼は恐怖心を抱き不安定になり,家族というこの拘束状態から逃れるために新しい愛人を作った。そういった生き方は,人生においては常に離婚という結果をとったが,作品においては分裂的なヴィジョンをもたらし,それは,文学的あるいは解釈上のレベルだけでなく,空間構成や形の断片化といったレベルで現われた。

 文学では,サミュエル・ベケットがコミュニケーションなしの分裂的世界に生きる人間の有り様の驚くべき例を提示する。そこに登場するアンチ・ヒーローたちは無感動で人を愛することも人と関係を持つこともできず,自分達の中に囚われてしまっている。彼等は行動を宣言するが決して実行には移さない。待っているのだが,待つべきゴドーは存在しない。「エンドゲーム」では,車椅子から離れられない目の不自由な主人が,召使に窓の外を見て何が見えるかを知らせるようにと言いつける。答えは「ゼロ」。召使の目には何もかもが灰色に見えて,物を区別することができない。「クラップ最後のテープ」では男がテープレコーダーで自分の声とコミュニケートする。 人との接触の最後の可能性としての偽の対話による自分自身との接触。エロスは存在しない。

 ベケットの最近作である「Fizzles」では,最初のテーマは「私はすでに生まれる前にあきらめてしまった」である。ジャスパー・ジョーンズの灰色のイラストと比較して読むと面白い。それは統一やつながりのまったくない人体の断片であったり,パターンのはっきりしない平行線模様だったり,敷き石の絵だったりする。こういったすべての要素は現実の世界からとられたものだが,アーティストの態度は現実とは関係がない。彼はそれらのモチーフを分断された(身体の)状態あるいは,運転している車からたまたま見かけたニューヨークのハーレムの壁の一部分のようなものとして見せているのだ。そういったものを互いに関連づけようとか,何か基本的な思考の枠づけや意味のある世界観と結びつけようとは決してしない。サミュエル・ベケットのテキストと同じように,そこにあるのは人格の完全な喪失と,無力感である。ここには統一的な純化されたレベルにせよセクシュアルな意味にせよ,エロスというものは存在しない。そのかわりに絶望があり,不一致から一貫性を生み出しているのだ。

 心理学者ロロ・メイによると,フロイドの時代の典型的な心理上の問題は,完全に抑圧された性へのリアクションとしてのヒステリーだったが,我々の時代の典型的な心理上の問題は強迫観念だという。人々は自分が空虚で無力,無感動な,まるで生きている機械であるかのように感じている。このような感情はベケットのモノローグに表されているが,かなりの数の20世紀の美術作品にもそのような「生きる機械」が登場する。

 ダダの運動では,ベルリンのラウル・ハンスマンが彫刻やコラージュに機械を使い,知力を分断化して作品から意味性を消そうとした。その意図は,第一次大戦とその直後の不条理に対する抗議と,ブルジョワジーの幻想を壊すことだった。フランスでは,フランシス・ピカビアはもっと喜劇的で,愛する機械を作り出したが,どのようなエロティシズムも完全に不可能なものだった。マルセル・デュシャンも同じ運動に荷担していたが,彼は基本的にグループの社会的なプロテストとは違う方向に向かっていたように思える。花嫁の絵画や大きなガラスの作品の非常に機械的なイメージにおいてさえ,彼のルーツはまったく違っている。アルテューロ・シュヴァルツは彼のデュシャンに関する長大な研究論文のなかで,「花嫁」は実はデュシャンの結婚したばかりの妹であって,このテーマについての作品は,彼の,他人に奪われた少女への失意の恋の反動によると書いている。デュシャンが機械の世界に逃げ込むのは,彼の隠された愛の対象から感情や感覚的な生活の可能性をすべて知性化して消し去ってしまうためなのだ。ハウスマンやピカビアの目的は,合理的社会を自称するものを分裂したものとしてあばき,攻撃することであったが,デュシャンの場合は一種の個人的な疎外の分裂性をおそろしく知的な観念体系によって隠すことだったようだ。彼の芸術的無名性という公の態度が,理論だけでなく恐怖に基づいているという可能性も大いにあるだろう。

 社会的あるいは個人的な関心事のどちらに強調が置かれているにせよ,これらすべてのアーティストたちのやっていることは芸術の昔からの機能である一種の予言だ。アメリカの詩人,エズラ・パウンドが芸術家は「人類のアンテナ」だと言ったことがある。マーシャル・マクルーハンはそれに付け加えて,芸術家は予言する際未来を見ているのではなく,世界を直接見て現在を報告しているのだと言うだろう。多くの人々は,バックミラーを通して世界を見ているので,それが未来だと思ってしまうのだ。
これらすべてが20世紀の背景を成すのだとしたら,芸術における真のエロスの働きにどう影響しているのだろうか。繰り返しになるかもしれないが,エロスとは一体化へ向かう創造的な推進力であり,実りをもたらすものであると考える。

 この時代の分裂した状況での一体化への満たされない切望を,宇佐美圭司の絵画に見ることができる。最初に彼が描いたのは不明瞭な空間に身体の部分が浮かんでいるというもので,合一を求める痛切なまでの緊張感があった。つぎに彼は光の帯を用いて沢山の断片化された人体をつなぎ合わせて優雅な統合を作り上げたが,それは知的であって肉体的ではない。結局それは,現に存在するものとなるかどうか分からないようなある事実のなかに,観念的に弁明を求めようとするものだ。

 肉体的あるいは精神的な不安による緊張感が宇佐美の作品にあるとするならば,ロバート・ローゼンクィストの引き裂かれた世界にはそういうものは何もない。彼の絵では,映画のスチール写真のようにものが並置されているのだが,見る者が象徴的なストーリーを導入しない限り一緒になっている理由が何もない。われわれは分裂した部分や標識を認識するが,何らかのつながりを自分でつけることを強要されている。アーティストは冷淡に無関心,無関係のように思える。

 現代の生活や芸術に見られる衝動性のひとつは,フェティシズムである。女性の衣類を盗んで,密かにながめたり触ったりする男のことを聞くことがある。イギリスのポップアーティスト,アレン・ジョーンズはそういった盗まれた品々を我々に見せる。シリコンを使って身体の部分を大きくして,全体の身体イメージから逸脱させる。ジョーンズはブラシとアクリル絵具を使って同じことをする。

 これは,「エロティカ」といわれるものだが先に述べたようなエロスとは何の関係もない。人格から離れ落ちた精神性のない性に属するものであって,追い出されたにせよ強調されたにせよ,トータルな人格が犠牲にされているのだ。これに関連して思い出されるのは,60年代なかばのトム・ウェッセルマンの作品に見られる隔絶された身体の一部分である。しかし,それは浅薄なのぞき趣味と衝動的な反応のなかにおとなしくおさまっている。そこでは意味が反響することもない。全体的なレベルでのコミュニケーションや感覚の働きが絶望的な場合,こういうものも何もないよりはましなのだろう。

 さて,ここに見られるのは明らかに暴力的な状態で,必然的な次の段階はサド・マゾのポルノグラフィを迎えることになる。他人に同情することも愛することもできなくなると,その人を非人間的な道具として使うようになる。ある種の機械である。ここには創造力のはいる余地はまったくない,なぜなら創造力は恐れられているからである。ゆえにエロスはここでは使われる道具になってしまい,表現にはならない。コミュニケーションは不可能になってしまったからである。

 小説家アラン・ロブグリエの世界では,このような物事の状況がどのように出来たかは,非常にはっきりとしている。初めから,彼は決して人でも物でもその中に入っていくことはしないで,ただ,それがどう見えて,どこにあるかを描写するだけで満足している。彼が言うには,われわれには個々のものの皮膚を感知することが出来るだけで,意味にまでは決して到達できない---もしも意味なるものがあるとしての話だが。だから他の人々や周囲の世界との深いレベルでのコミュニケーションは許されないのだ。ところでこのような不毛の状態は永遠に続くというわけではなく,必然的な結論としての彼の次の段階は暴力と盲目的な性である。そこには目的も意味もまったく欠落している。このことは,彼の不定形で不明瞭な時間の使い方において強調されている。フィクションで通常使われるフラッシュバックを用いた線状の様式ではなく,方向性のまったくない,内容がつかめないほど断片的なものになっている。このような混乱した性ー暴力の状態にはギョっとするような何かがある。なぜならそれは完全に分裂しているからである。

 このような現象は前例のないものではない。歴史的に,真のコミュニケーションが不可能になった時に,エロスが陳腐な道具として人間の表現の代わりに使われた二,三の例をとりあげるのも面白いかもしれない。

 16世紀に,ベネツィアのティツィアーノはビーナスを理想の美,エロスへの誘いとして描いた。人々がこのイメージをそういう意味で受け取ったかは,ここでは問題にしない。しかし,産業革命の19世紀に,エドワード・マネは「オリンピア」においてこのイメージがブルジョワ大衆にとって何を本当に意味していたのかを見せた。彼は,自己欺蔓に陥っている人々が決して見たくないと思っている事実を見せたのだ。ティツィアーノのエロスの感情はことごとくマネによって陳腐にされ,顔の表情は硬く,直接的で,仮面のように挑戦的だ。オリンピアはセックスマシーン以外の何物でもない。彼女の愛され方はいつも不毛で,彼女もそのことを知っている。彼女は高価な道具であり,金で買われ,利用され,報酬と一緒に捨てられるということも彼女は知っている,仕事なのだから。マネがやったことは,こういう事実を19世紀の偽善の世界の中ではっきりとさせたことである。というのは,サロンには肖像画が溢れていたが,お行儀の良さのベールで真実を隠していたからだ。

 その時代より早く,ロココ美術では,ブーシェが,セックスが本物のエロスからまったく分離してしまった頽廃的な世界を描いたが,彼もまた,ジメジメしたセンチメンタルなものの中に真実を隠してしまった。アメリカのポップアーティスト,メル・ラモスは現代向けにマネの仕事を繰り返している。18世紀の高級売娼婦は現代のコールガールになる。彼はセッティングを置き換えるだけで高級売娼婦の意味づけは変わっていない,それどころかもっと陳腐になっている。

 ラモスの,こういった暴露はアングルの流れをひいている。マネの「オリンピア」と同じ時代にアングルはギリシャ・ヘレニズムやイタリア・ルネッサンスの古典的裸婦画を,あえて再現しようとしていた。実際,彼は19世紀の偽ピューリタニズムの世界で仕事をしていたのでありながらである。ラモスは,そういうモチーフを切り離して使い,気味が悪いほど露骨な現代的描写のなかに偽善を露見させる。

 ラモスの女たちの顔の表情はプレイボーイ誌のそれと同じ,つまり空っぽである。どちらも見る者は巻き込まれてはいけない。なぜなら,そこに見えるのは人間ではなく,商品だからである。
こうした空虚な顔を見る男は,自分が性的にパワフルだと感じるが,現実の状況のなかで挑発されているのではない。先に述べたように,いったんエロスが情熱を失うや,彼は成熟をも失って,幼児に逆もどりしてしまった。かかわりがないということは情熱がないということであり,分裂をも意味しているのだ。見る者は,責任から解放された技術的なプロセスにはいることになる。つまり,「甘え」の世界である。

 このような姿勢は究極的には満足感をもたらさないものであり,不安感をかきたてる。アンディ・ワーホールの絵画に登場するリズ・テーラーやマリリン・モンローといったスーパースターの顔にこうした不安は見える。そして,ワーホールが本当に強調したかったことに注目すれば,こういった「魅力」はすべて感受性が欠落しているもので,見る人が個々に持っている様々な欲望に応える「パッケージ」になっているのだと分かる。言い替えれば,見る者はその空虚なイメージを操作して自身の欲望を満たすのだ,ちょうどプレイボーイ誌の写真と同じように。満足感は完全に関係を持たない想像力だけの世界にあるので,見る者は空想の「オールマイティ」であり,人間的な接触によってそれを証明することが禁じられている。これもまた分裂の現象である。

 エロス・パッケージの無意味性を強く示すもうひとつのやり方は,絵を描く時に価値判断を全然しないことである。これを初めてやったのは,マネの「Fete Champetre」である。ジョルジオーネは,すでに16世紀初めに彼の「演奏会」でこのテーマを扱っているが,抒情的な超越性があって,場面を日常の世界から浮揚させている。マネの実証主義的な世界には超越性のはいる余地はないので,彼は場面をあたりまえの現実にもどし,同時代の服装をした男たちと裸婦を描いたのだ。鑑賞者を非常に困惑させたのは,マネが画面のすべてのものを同等の細心さで描いたということである。現代のスーパー・リアリズムの画家ジャック・ビールも,マネと同じように,絵画のそれぞれの部分を徹底的に同じように強調して描くので,ついには,彼が本当のところ何を強調しようとしているのか分からなくなってしまう。裸婦は周囲の物と同じ重要性を持つのだが,そのような物の地位は,カラヴァッジオのような画家が人物像に添えて極めてていねいに描いた花や果物とは違っているのだ。カラヴァッジオの果物は驚異である。ジャック・ビールの物のいっぱい詰まった毛布や箱は商品だ。ひょっとすると女性もそうかもしれない。

 エロスの商品的な評価の意味するところは,ポップアーティスト,リチャード・ハミルトンの「今日は何でうちがこんなにいつもと違って素敵なんだろう?」という小さいが有名なコラージュに,非常に明解かつ喜劇的に表わされている。缶詰のハムからテレビセットに至るまで,画面に描かれているもので宣伝された商品以外のものは何もない。ボディービルの男と,裸でソファーに座り週刊誌のピンナップからとった挑発的なポーズをしている彼の女房らしき女性までである。

 現代芸術におけるエロスのかかえる問題のひとつは,フロイト心理学の与えたシュールレアリスト芸術家たちと,ことに彼等の「完全な自由」というコンセプトに対する強い(誤解されていることが多いが)影響である。これは人間の意識的なコントロールのもとにあるものではなく,むしろ行動の結果はどうであれ,感情や本能の表現に完全な自由を与えることによって緊張を解放することが奨励されているのだ。彼等のヒーローのひとりはあの狂人,マルキ・ド・サドだった。彼は「愛」と残酷とをひとつにつないだ。本能を徹底的に実践する人は自由であるとされ,抑制は悪であるとされた。
当然,個人の自由を得るために他人を道具として使うこと,たとえば真のコミュニケーションを拒むこと,によって問題が生じるのである。どんなに解放されたにしても,人間は自分自身のなかに閉じ込められたままなのだ。

 シュールレアリズムとそれに先行するダダを,二つの大戦の不条理と混沌という必然的な決着をみた合理主義の欠陥に対する反動として理解することは簡単だ。しかし,シュールレアリズムは,反対に不条理と混沌を生活の至るところに拡げることによって問題をはっきりさせたかもしれないが,その問題への何の解決ももたらさなかった。

 エロスと芸術の分野では,シュールレアリズムがパンドラの箱を開けることによって,あらゆる束縛からの「新しい」自由のための実に様々な表現方法を見つけだした。サルバドール・ダリの偏執的な幻想は一種の視覚的なカニヴァリズム---分裂病的な破壊へと至った。ルネ・マグリットは人間の姿をばらばらに切り離したが,そこにはどのような強い感情もなかったようだ。感情なしのエロス。これに,ウィレム・デクーニングは一種の喜劇的なヒステリーを加えたので,感情の問題はマグリットのときよりも一層不明瞭になった。

 ハンス・ベルメールは身体全体または一個の人格からセクシュアルな部分を切り離して強調し,一種の技術的なエロス,機械仕掛けのエロス人形を作り出す。この技法は後にヴンダーリッヒによって取り上げられたが,アーティスト自身がどんなに繰り返しても自動的な反応を起こすという,もっとポピュラーなレベルのものだった。これは一種のエロティカ・チックである。全体性からのエロティックな部分のこのような分離は,「エロティック」な感情を他のモノにあてはめて人間に近いセクシュアリティを付与することと平行しているように思われる。攻撃的なかたちをとったのが,メレ・オッペンハイムの毛皮の張られたティーカップであり,心地よくてちょっとおかしいのが,クラエス・オーデンバーグの作品である。オーデンバーグはこれまで論じてきたなかではどちらかといえば例外だ。彼のカンヴァス地で作られた綿の詰められた彫刻は,人間の置かれた状態の触覚的な比喩である。人間全体がその作品の中に入り込むような感覚がある。

 バルテュスの作品では,陰湿で衝動的な性が他のあらゆる可能性を消してしまう。そして,偏狭な覗き趣味へと終結していく---距離をとるエロス,麻痺状態。金子国義のオートマティックで冷たい作品はこれを模倣,利用したもので,彼はバルテュスにいくぶんか見られる衝動的な感情さえも消してしまった。そして,この傾向のおしまいに,ポール・デルボーのだらけた,アカデミックな作品には,エロスに対するまったくの絶望を見い出すことになるのだ。

 このような芸術家たちの仕事を振り返ってみると,明らかになるのは一般に「エロティック・アート」とされているものは,真に現代芸術的な価値観---内容とかたちとがひとつに融合してまったく新しい空間的拡がりのある状態を作り出しているのだが---を拒絶することを余儀なくされているのだ。「エロス的に」表現するためには,ルネッサンスまたはロマン主義か象徴主義の画面構造など,使い古された空間概念に後戻りしなければならない。であるから,「芸術」としては,ただネオ・クラシシズムの道筋の暗い側面を繰り返しているだけである。その時期のヨーロッパ芸術も,暗い陰に満ちた,死をこがれる泥沼のような「エロティシズム」の中にあって同じように後退的だったのだ。その芸術を泥沼から引き上げるにはクールベのリアリスティックで確かな目が必要だった。20世紀の泥沼についてはどうだろうか?

 どういう場合にせよ,この,性的衝動のなかに高まった緊張の解放としてのエロスというシュールレアリスト=フロイド的な概念が,あまりにも評論家達に受けが良いので,ほかの解釈は真面目に取り扱われるチャンスがほとんどない。しかしながら,私には,ソクラテスの時代から現代に至るエロスのもともとの概念は,かなりの思索に値するものだと思われる。それが今世紀に話題に上らないのは,人があまりにも問題が「どうであるか」にとらわれてしまって,うまい解答にはしらけてしまうからではないだろうか。答えに対する責任感なしに遂行される疑いというものは,作為的でハリウッドのB級映画の結末のような解決よりも,不思議と魅力的なものである。

 エロスは,現代人の問題の「原因」となっているが,本当は解決の道であるはずだ。エロスは一体化への推進力であり,新しいかたちを生み出し,その結果としての実りは大きな満足感をもたらす。他の観点から見れば,エロスはまた主体と客体との一致であって,それは人類の歴史上多くの思想体系において高い理想とされてきたものだ。

 そうなると,他の人間と同じように芸術家に残された問題は,どのようにして分裂した世界に打ち勝つか,どのようにして自身の分裂状態を突破する勇気を持ち,全体性や一致を探し求めるか,である

 この仕事は意外な方法で始まっており,多数の芸術家の,精神においても造形的な出来ばえにおいても徹底的にモダンな作品によって続けられている。しかしこれには別の,詳細にわたる論述が必要である。

(原題:Possibilities for Eros in a Schizoid Age : The Documentation and Prophecy in the Art)

*この文章は,松岡和子氏により再訳されました。

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