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清水九兵衛−−親和の彫刻家  (Art Spectrum, February, 1975) 坪井みどり訳
Kyubei Kiyomizu, Sculptor of Affinities

 彫刻家としてのキャリアの頂点を52才で迎え,清水九兵衛は,展開し続ける彼の意志を最も明確に表すようなイメージを定着させた。第二次大戦初期,彼はまず本格的に建築を,戦後は彫刻の鋳造を学び,すぐに陶芸で有名な清水家へ養子にはいった。八年間,陶器だけを相手にして陶芸家としての名声を得たものの,彼は自分が欲するある種のコントロールや表現を,土という素材がかたくなに拒むことを知った。言い換えれば,芸術家は土の持つ独特の色や肌触りと多くの点で妥協しなければならず,最終的にできあがったものは『集団の作品』に他ならない。これに対し,どのようにでもなり,質を選ばない金属の鋳造に学生の頃からひかれていた清水は,1966年に陶と木を捨て,その後は金属一筋に仕事をしてきた。

 釉薬なしの陶器を依然として作りながら,彼は成形の名残とすっぱり縁を切った。この時期の作品で残されているものは,静止して抽象化された,ボッチョーニの分解されたビンのバリエーションのように,空間を立方体に切り取っている,

 この時期の作品について,清水は語ろうとしない。彼の言葉を借りれば,すべてに影響関係を読みこもうとする評論家との軋轢を避けるためだ。つまり,彼の作品と清水家の長い手技の伝統をつい結びつけたくなる評論家の誘惑は,きっぱりと拒否されるのだ。

 戦時下の日本では,ドイツとイタリアの三十年代の建築について,多くの情報がたやすく手にはいった。清水にとって,ドイツの構造はイデオロギー的に見てあまりに厳格で融通がきかなく思われたが,イタリアの作品はファシスト的ではありながらも,そこには「住むための空間」が感じられた。そしてそれは,建築および彫刻に対する彼自身の基本的なアプローチとなった。彼が気に入った特徴の一つは,建物の家具や扉などにブロンズを用いることだった。清水はイタリアの彫刻がいかにまわりの建築に溶け込んでいるかに感銘を受け,このような体験がエミリオ・グレコやペリクレ・ファッツィーニの彫刻によって,六十年代に初めて東京へもたらされた時には喜んだ。これらはすべて彼自身の彫刻観,すなわち住むための空間の延長線上に存在する彫刻を確認するものであった。このコンセプトは日本の古典建築には見られない。日本では,建物内部の彫刻は,従来二つの形式に限定されていたからだ。仏像は,薄暗がりの中で視界から隠されていた。たとえ見えたとしても,おそらく彫刻は一つの空間全体の中に埋没しており,しかもその全体は象徴的にも物理的にも見る者の空間から隔たっていた。さらに彫刻は,固定された位置,正面から見るべきものとされていた。これ以外の彫刻といえば,床の間に飾られたオブジェしかなく,それはその上に掛けられた軸物あるいは床の間自体の調和を乱さない程度の控え目な工芸品だった。こうした状況により,彫刻を存在させる二つの基本前提は実現されえない。すなわち本格的な表現を志向する意志とスケールの大きさである。日本では,彫刻と環境の統合といっても,住空間を作る対等な関係ではなく,より大きな価値への従属を意味する。このことは,清水が指摘するように,今日の日本の彫刻の多くが囲い込まれた空間しか示唆しない現象を作り出している要因の一つかもしれない。

 1966年から68年にかけての清水の作品は,こうした問題意識を反映している。磨きあげられた真鍮の形態は幾何学的であるにもかかわらず,ヘンリー・ムーアの後期の作品に見られるアニミスティックな形状や輪郭,すなわち物理的に異質なフォルムが重なり合い,突き抜け合う姿を映しだしている。1969年,清水にとって最初の欧州旅行は,すでに確立されていたこれらの傾向を一層強めたばかりでなく,彼自身の世界とヨーロッパ人の世界との隔たりを明らかにした。ローマのサン・ピエトロ寺院のずっしり重い石を見た清水は,ここは自分が彫刻を作る場所ではないことを確信した。
日本の美術や感受性の形において高く評価される特質に『ツヤ』がある。この言葉は訳しにくく,エロティックな含みを持つが,西洋におけるような強い意味あいはない。『艶』や俳優や芸者の”芸”の円熟,あるいは洗練された美術作品に見られるような,豊かで生き生きとした質を示唆する。清水はこの語を使って寺院の屋根の勾配や神社の鳥居の横木の曲線を説明する。これらの曲線は,直線からわずかにそれることにより,見る者を活力で見たし触覚的な反応を引き起こす。巨大で堅牢なローマの構築物と,流れるような曲線が軽やかな優美さを生み出す日本建築との間には,大きな溝があり,ある彫刻が両方の『住むための空間』に融和することは到底不可能である。

 このことは清水にとって日本崇拝への退行では決してない。たとえば日本的感受性の粋といえば,桂離宮が一番に取り上げられるが,清水はその木造建築のデリカシーについて,京都には大木がないために必然的に女性的な弱さを余儀なくされたとみなす。彼が賛辞を送るのは,横桁に貫かれた長くがっしりした柱が,大胆なそりを有した屋根を支える奈良東大寺の南大門である。それは鎌倉時代にふさわしい,たくましく男性的な力を見せてはいるが,ローマの石造建築のような下方に向かう圧力はほとんど感じさせない。彼はフランスで,ゴシック建築の柱の重みが,明るく軽快な上方への運動へと変質させられる様相に驚いた。しかしパリで最も興味を持ったのは,いわゆる公共建築ではなく,屋根から思い思いに頭を突き出している煙突の群れであった。煙突はいかなる建物の全体設計図にも含まれないが,そうかといって無関係でもない。ねじれた管状のフォルムは住空間全体に自然に溶け込み,目に見える鉛管もまたそうであった。同様に,清水の考える優れた彫刻とは,周囲の環境に居心地よく組み込まれ,どんな状況にも融和する包容力を持たなければならない。彼が自分の作品を『アフィニティー親和』と名付けたのはそういうわけである。

 彼がヨーロッパに見出したもう一つの適応例は,何世紀も前の人々に合わせて設計された家に現代風に住む能力だった。これは,石造建築のない日本ではほとんど無理な話だ。日本で彫刻やモニュメントが,住むという状態に統合されない理由は,建物が短命であることにもよるかもしれない。イギリスでは,公共の場に置かれたヘンリー・ムーアの彫刻が住空間の質を大いに高めているのを目にしたが,これもまた,公共の場へエネルギーを盛り込む伝統がない日本では,実現不可能なことである。
 その後作られた大地を抱きかかえるような管状の作品に,パリの煙突や鉛管の記憶を辿りたくなるが,このような解釈に彼は意外な顔をする。そもそもこれらの形態は,それ以前に用いられている。1968年,上面の平たい大きな曲線形態が真鍮で鋳造されたが,これは円柱形で突き抜かれ,床に直に接していた。これらの作品に使われた垂直軸と水平軸,また表面のつややかな光沢は,時としてあまりに複雑なイメージを作り出すが,それにもかかわらず,小さい作品でも雄大なスケール感を達成している。これは近年の日本の彫刻にはおよそ欠けている特質である。

 1970年,彼は艶消しのアルミニウム鋳造に転換し,水平性の強調,さらに厳格な単純性の追求によって,作品の脆弱さを大部分克服した。さらに,平たく四角い上部を持ち,底部は揺れ動くフォルムを床に設置することで,管状形態の意味を明らかにした。最初彼は,個々の部分を,平行に走る同種の穴で一直線に並べようと考えていた。だがそれでは穴が目立ちすぎるため,穴同士を円柱形で連結し,そのうちのいくつかを延長して底面で閉じる円錐形にした。これを見た私は,まるでSF小説に出てくるような,機械の手足を持った獰猛な生物を連想した。清水は私の解釈を否定はしなかったものの,『足』は床面との関係をより明確にし,透視しうるイリュージョンを完全に排除するために,先をとがらせた要素だと言った。

 上から見る彫刻を作りたいという彼の目的に沿って,最終的には一つの彫刻に内包される諸関係はほとんどすべて,水平性に集約された。それまでの作品に見られる垂直関係は作品を地上からあまりに遠く離し過ぎていたからだ。1974年,彼は案外容易かつ簡単にこの課題を克服し,飾り気のない優雅さという点で,今日の日本の彫刻の中でひときわ輝く作例をもってその仕事の頂点に達した。それぞれの作品は大地に据えられることで水平性を強調しつつ,同時に垂直性をもとりこんでいる。巨大な円柱から切り出された小部分の上に反転した同形の部分が載る。両者とも外側は曲面,内側は平面で,同じ点で切断されている。一つの要素が波打ち,うねれば,他の要素は平面あるいは異なった直面をなす。どの作品もこの同じテーマの変奏で,一つとしてあからさまではないが,すべてが優しく微妙に違った音色を奏でる。飛行機からこの世界を見ると,山々は小さく見えるが,その本当の大きさを我々は想像しうる。逆に清水の彫刻を実物大で見ると,はるかに大きなものを想像しうる。これらの作品は,室内空間に対しても,控え目にしかしモニュメンタルな表現法で結びついているからだ。清水の彫刻は,床の間に見出されるような,小さく刻まれた手工芸品とはいわば対極にある。
今回,南画廊での展覧会に出品された二作品は,きわめて簡素で,他の作品に比べるとはるかに大きいので,会場では居心地が悪そうだった。この問題の解決をみたのが,神戸で開かれた須磨離宮公園現代彫刻展である。もっとも。同展は現代日本の抽象彫刻が置かれている深刻な危機的状況,すなわち作品の実際の大きさとスケール,それに場所とを連関させる能力の欠如を露呈していた。というのも,作品の多くは室内に置かれた方がまだいいようで,設置場所をまったく考慮せずに設計されたものだった。その中で清水の作品は例外的であり,展覧会で与えられた場所よりも急斜面に合わせてつくられていたが,少量の盛土を補うことで,そのギャップを埋めていた。

 ここにこそ,彼の基本的な態度がはっきりと表れている。それは適応作用,すなわち彼の言う『親和』である。彼は南画廊展に出したアルミニウムの大作を舌のようにひきのばし,端から端まで上部と下部が完全に平行運動をなすような形態を,斜面に垂直なS状に展開させた。斜面から滑り落ちる心配もなく安定したこの作品には,押し付けがましいところはみじんもないが,確固とした存在感がある。大きさとスケールが完璧な調和を見せ,「平面と球を結び付ける」彼の意図は,室内のための小作品と同じように見事に達成された。彼が手がけた最初の屋外作品は,このようにきわめてすぐれているので,これを契機に大規模な作品の制作に拍車がかかることを願う。この寡黙で学者風の芸術家は,透明な言語で語られる真摯な造形目的を根気強くつかみとることで,いかなる流行も静かに超越する存在である。
(原題:Kyubei Kiyomizu, Sculptor of Affinitie


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