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多すぎる足跡--ジャスパー・ジョーンズの近作版画  (美術手帖, 1972年4月号) 松岡和子訳
Jasper Johns : Too Many Footprints

 ジャスパー・ジョーンズは,旗や標的などを勢いよく通り抜け,ティースプーン,ハンガー,針金といった素材に行きつく一方,芸術という行為についての新しい原則を確立した。それは,はっきりしたもの,わかりやすいものを求めようとする期待を,ことごとくくつがえしてしまうようなものである。1971年2月の,南画廊における個展では,この問題がますます複雑な方向へ向かっている。そして,いわば犯罪が行われた密室に通じる,論理的な通路へとわれわれを導く膨大な量の手掛りを与えてくれるのだ。ところが,この迷宮をたどって行っても,われわれは結局のところ死体を見つけることさえないかもしれず,ひょっとしたら殺人事件などまったく起こらなかったのではないか,といった何とも居心地の悪い気分のまま放り出されるのである。

 個展の中心は,最新のリトグラフのシリーズ,「何によって」からの断片である。油彩による大作「何によって」は,彼の過去の集大成だった。そのなかに含まれていたのは,見当違いの色を示す,ちょうつがいで留められた文字,脚の取れたさかさまの椅子,無骨な針金につるされたハンガー,色彩表,明度表,そして,小さな作品のなかで重要な地位を占めるようになったさまざまの物体などであった。今度の最新シリーズは,こうした集大成のおおいを剥ぎ取り,それをまったく異なった何かに変えている。彼の論理は,あらゆる因果律を打ちこわす。ちょうど,以前の作品で,ある色の名を綴った木の文字と,見当違いの色を塗られたその真下の文字との関係を断ち切ってしまったように,今度のリトグラフのなかでは,ある言葉と,その言葉が示す物体との非機能的な関係が,さらに一歩進められている。<U>という文字は,まるでクレス・オルデンバーグの風景画の幻想的な文字のように,立体のスケッチとして描かれている。ところがこの文字は,幻想をくつがえすようにかしいでおり,その先端は,赤,黄,青で描かれたドラフトマンの使う矢印によって,ページにくくりつけられている。すべてのものが,それ自身に逆らうように使われているのだ。

 スーザン・ソンタグは,ジョン・ケージが芸術を在庫品目録にしている,と書いたことがある。隣室のジョーンズが,われわれの前に品物をひろげているのを見つめながら,ケージはジョーンズとともに,こう言うかもしれない---絵画とは,それをつくり出している画家の肉体的な行為と,それを見る者の反応の両方から成り立っている,と。見る者は,一種の<のぞき魔>か探偵として,その仕事(まるでそれが芸術におけるまったく新しい何かであるかのように)の完成にひと役買うのである。ジョーンズは,アガサ・クリスティさながらに,隠してはあばき,あばいては隠すという執拗なゲームを繰り返す。とりわけ,ある<テーマ>をめぐる一連の仕事で,これを行っている。だが,良くできた探偵小説と同じく,そこには,意味を解明するための多すぎるほどの手掛かりが配されているのだ。ジョーンズは,ありきたりの物を実にそっけなく,実にひんぱんに描いてみせるので(鉛のバックに配されたバターつきパン以上にそっけないものがあるだろうか?),われわれは遂に,彼が目の前に置いた物を本当に見ているのだろうか,といぶかしんでしまう。彼は,部屋いっぱいに手掛かりをばらまいておきながら,一番かんじんな情報は洩らしてはくれない。

 数字のシリーズの配置は,実に厳密なロジックに基づいている。彩色されたいくつもの数字を,彼はまず赤,黄,青の三原色から始める。そして,徐々に等和色を導き入れ,最終的には,等和色が全体を覆うところでこのシリーズが完結する。実に論理的である。が,その言わんとするところは何か?まず第一に,彼が,色の漸進的な変化の問題を解決し,単純明快な方法でヴァラエティをつかんだということがわかる。だが,それがはたして重要なことだろうか?おそらく,彼の旗の論理と同じ程度には重要なのだろう---1958年,批評家たちは,ジョーンズが絵画(芸術)と旗(現実)とにコメントを加えているのだ,という指摘をした。この不明瞭な考え方がたとえ当たっているとしても,大して役に立つとは言えまい。実のところ,これは純粋主義者の絵画観であって,「私の考えのほとんどすべてには,不純物が包み込まれている」というジョーンズ自身の言葉とは,まったく相容れがたい。彼は,自分の仕事を,半ば精神的半ば視覚的な遊び,ないしは訓練の一形式と見なしており,それが見る者を苛立たせ,複雑な反応を呼ぶのだ。ケージが言っているように,彼は「自分自身と他人とを励まして,<より少なく>ではなく<より多く>をさせようとしている」のである。彼が多くの要素をミックスすることができればできるほど,それだけ多くの迷宮のなかに論理を持ち込み,また,それに応じてますます,心や目がさまよう通路の数も増えるという次第である。

 この複雑さは,彼の版画のテクニックにも入りこんでいる。彼のリトグラフを刷っている,ジェミニ・プレスのケネス・タイラーは,「刷りにくいという点では,ジョーンズが最右翼だ。なぜなら,彼は作品のなかで,実に複雑微妙なものをいくつも合体させているからだ」と言っている。われわれは,同じことを<作品の脈略>に対する彼の態度のなかに見て取ることができる。初期の,標的や旗や放り出された物体などは,一種の具象画だが,そうした具象的な物がどんな基盤につながっているかとなると,何も無いのである。それらの物には<場>が無いのだ。しかし,同じ時期の版画作品に現れる,これらのイメージの推移に注目すれば,描かれた具象物そのものが,それ自身の場だ,という気がしてくる。<物>を描く鉛筆やリト用クレヨンの筆致は,その物の内側にある空間や広がりを感じさせる。かといって,平面性が失われているわけではなく,内的な広がりと平面性とが共存しているのだ。そして,<物>としての物のアイデンティティが問われることになる。1968年から69年にかけてのリトグラフ「NO」では,これとは逆の過程をたどる。一本の針金を擬して盛り上げられた線は,製図用のテープのようなもので留めつけられている。その端にぶら下がっている<NO>という文字は,背景から切り抜かれ,背景の空間を変化させながら,確かなものだけが持つイリュージョンを打ち消している。同時に,もうひとつの影が背景に描かれており,これは,実際に落ちる影と共存している。彼は,あるひとつの脈絡をわれわれに与えておきながら,それを剥ぎ取ってしまうのだ。このことの真意は何だろう?

 ジョーンズの作品のなかには静物があるが,彼は,そうした目に映る物---針金,スプーン,文字など---を超えて,作品全体を新しいユニークな物に一変させるのである。2,3年前,私は「NO」のリトグラフに先立つ,くすんだ灰色のデッサンを数点見たが,そこでは,針金やスプーンやフォークなどが<物体>として描かれていた。どこまでが背景で,どこからが物なのか,ほとんど見分けがつかないほどで,この曖昧さは意図的なものと思われた。彼はすでに1965年に,「簡単にひとつの物体と定義づけられない物をどうやってつくり出し,どうやってそれに空間を付け加えるか,しかもそれが物体描写である続けるためにはどうしたら良いか」という,実際上の問題を呈示していた。これに対するつむじ曲がりで曖昧な答えが,先に述べたデッサンや「NO」中に見て取れ,また,「ハンガーとスプーン」では,幻想絵画風にハンガーをかしがせ,一方でその影は前の状態のまま残しておくといったやり方,針金の先に結びつけられたスプーンは姿を消し,そのあとにぽっかりと空白が残っているといったやり方のなかにも見受けられる。このスプーンの不在は,平らな紙面を意味するとも言えようし,計り知れない空間のなかに退いていく灰色の画面の,そのまた裏側の空間を意味しているとも言えよう。かつてジョン・ケージは,ジョーンズの作品について次のように言った。「物体の喪失と破壊と消滅とについて述べている物。それ自体についてはひとことも語らず,他者について語るもの。彼の作品はそういう物を含もうとしているのではないだろうか?」 こうした種類の作品に接するとき,われわれはいわば,物体のにおいを<嗅ぎとる>のである。あるいは,たとえ<見る>にしても,その物自身の姿ではなく,その物がかつて在ったという記憶を<見る>のだ。われわれは,かつて誰かがその<物体>を使ったことがあるということは思い出すが,どんな風に,そしてなぜそれらがこんな荒っぽい形で放り出されているのかわからない。「何によって」のシリーズは,ある種の美術的な期待は満足させてくれる。グレイの部分は微妙になめらかに,パールホワイトから玉虫色のグレイへと移り変わる。それが,墨で描いたような部分に,まるで宗達の水墨画のように<ぼかし>の手法でつながる(南画廊の志水楠男氏によれば,これの源は,大徳寺の禅僧たちの厨房のすすけた壁なのだそうだ。ジョーンズはそれを,長いことじっと見つめていたという)。美しいがテクスチュアのきわめて異なるこれら二つの部分は,二つの別々の絵の一部分をつなげたような唐突さがある。これは,われわれの神経に障るが,同時に,みごとな仕上げとテクスチュアは心地よい。何らかの規準にのっとりながら,それ以外の規準はそっけなく足蹴にしている。しかし,マックス・コズロフが指摘したように,これらの作品は,単に心を楽しませたり,苛立たせたりするための謎ではない---それらは詩なのである。

 ジョーンズが,主要な表現手段として版画を取り上げた理由は,それが過程(プロセス)を表現する芸術だからである。たしかに,アクション・ペインティングも,振りおろすひと筆ひと筆の記録だが,荒っぽく画面を修正しながら,ある空間やフォルムを決定づける最終的な試みに向かって動いているのだから,つまるところ,<完成をめざす>奮闘であった。ジョーンズは前と後とを同時に示したがり,ある点をさすかと見れば,それを拒みもする。あらゆる種類の可能性を表すのだ。ある仕事を終えて,彼は「はっきりと伝えたいものは,ここにはもうない」と言った。したがって,オーバーラップするいくつもの過程は,おそらく,何か他の目的をめざす単なる手段ではなく,彼の主眼なのだろう。「ウォッチマン」のなかで,油絵具をけずるようにして描かれたスティックは,画家の一連の行為をありありと示しており,見る者も,時間のなかを流れるテキストでも読んでいるような気持でながめる。だが,不透明な絵具は,しばしば過去の記録を台無しにしてしまう。ところが版画だと,この記録はほとんどそこなわれずに保たれる。版画のインクは透明だし,何度でも時を改めて刷り重ねることができるからだ。彼は,<つかの間>を画面に留める---「これは,ある瞬間ここにあったが,次の瞬間,他のものが取って代わった」。「ハンガーとスプーン」では,ハンガーの最初のフォルムと,たわめられたそれとが共々画面にあり,スプーンの存在と不在とが共存している。版画という手法はこうして,彼のテーマである時の推移と追憶を表現させてくれるのだ。

 黒と白だけの「0から9まで」も,その制作態度において,時の推移の記録と言える。彼は,同じ石版を使ってすべてを制作した。ある部分を拭き取ったり,前作のなかにあった線をなぞったり,時には拭き取ってしまったイメージと同じものをまた置き直したりしたのだ。彼の初期のデッサンや版画のなかに,迷宮のなかで幾度も重ねあわされた数字の同時存在を見るなら,彼の数字のシリーズは,そのひとつひとつを切り離し,前に刷られた数字から新しい数字へという具合に,過去の数字の記録を付け加えている。このシリーズは画家に,連続したイメージを,同時に存在する脈絡のなかで創り上げさせている。そこでは,移り行く時間と,記憶のなかに定着した時間とが混ざり合うのだ。最近作「何によって」のリトグラフでは,彼は大きな作品のなかで凍結していた時間を再び融かし,断片のなかに流し込み,昔の時間の大きな破片と新しい時間の融和をはかっている。
 ジョーンズは,移り行くものに大きな価値を置いている。彼が注意を集中させるのは,事物が<今>存在しているという事実であり,それらが人間の文化遺産として,あるいは歴史的な文学的な記憶の合成物の残余として,<いかに>存在するかには,さほどの興味を持ってはいない。彼が取り上げるものがおもしろかろうが,おもしろくなかろうが,大した違いはない。ある物が最初退屈であれば,ジョン・ケージの言うように「では,もう一度やってみる」までのことである。ジョーンズが描く物体の意味は,常に曖昧で不明である。だから,それらは知的なコントロールをすり抜けてしまう。彼は,ゲームでいつもまずい手を打っているように見えるが,ある仮の解決から次の解決へという動きは,絶えず続けている。

 ジョーンズは,同世代のひとびととともに,焦点を定めない多様性を含む,トータルな場の概念をもって制作している。その多様性のなかには,彼の空間構成ばかりでなく,時間に対する考え方も含まれているのだ。当たり前の,連続した歴史的時間は,彼独自の精神的時間に置きかえられる。その精神的時間は,江戸時代の<ぼかし>の手法やルネサンスの幻想や,今日のオブジェ(「かしいだU」)などをつなぎ合わせる。したがって,個々の要素が他のすべてに光を当て合い,それらを単なる物体から,曖昧なタイム・マシーンのなかの存在へと変化させるのである。彼は事物の<在りよう>を描く。時間を変質させ,時間によって変質させられながら。

 こうした過程を通して,彼は物とわれわれとの間に精神的な距離をつくり出す。おそらくは,それこそが審美的経験のエッセンスなのだろう。グリーンバーグの指摘にもあるように,経験され得るものはすべて,精神的に突き放し,距離を置くことによって,審美的にかつ芸術として経験され得るのだ。これこそ,ジョーンズの仕事の中心点である。彼は,事物をニュートラルにし,われわれが普通,まわりの物から受け取る感情的な反応を,乾いたものにする。ケージのやり方と同じである。ケージは,ラジオやテープや日常会話などから,膨大な量のマテリアルを統合し,同時に一方で,論理的な時間の流れを打ち壊す。したがって,情感的にあらゆるものが,おのれ以外のすべてを消し去るのである。モダン・アートについての最近のエッセーのなかで,スーザン・ソンタグは,あるポイントに注意を向けているが,それはまた,ジョーンズの仕事の核でもある。「観る者,聞く者を不愉快にし,じらせ,空しい気持にさせるといったモダン・アートの慢性的な体質は,静寂の極致への,ごく限られた,そして代用の参加と見なすことができる。この,静寂という理想は,今日の美学では<まじめさ>の主要な一規準にまで高められている。」私は,ジョーンズがこの方向に向かって制作をつづけていると思う。つまり,彼が示して見せるのは,物と芸術の両方であって,決して<表現>ではないのだ。まず第一に,彼はあらゆるものを,それ自身の抽象へと変化させる。したがって,それは主体から離れたひとつの構造になるのだ。彼の色は,次第に純度をおとしながら変化し,ある領域,ある物体の位置を決める。だが,<表現>はしない。ジョーンズが,彼の<探偵小説>のなかにあり余るほどの手掛かりを配したその結果は,<意味>や<解釈>を拒む静寂である。そこで,さまざまなテクスチュアのミックスがあり,リトグラフでは,幾重にもインクを重ねて刷るということになる。単純な物体を取り囲むものがあまりにも変化に富んでいるため,われわれは遂に黙りこまざるを得ない。なぜなら,ある解釈を下してみたところで,他のどんな解釈も十分成り立つからだ。

 ジョーンズは,われわれにある物を見せておきながら,こう言う。「これは,このものではありません。」目で見てそれとわかるものを否定したいという願望が,何よりもまず彼に版画というメディアを選ばせたのだ。彼は言う。「私が版画で気に入っている点は,個々に分離した段階を踏んで,それがつくり上げられるということであり,一段階ごとに,不確かさが投げかけられるからである」,「版画とは,こういうメディアだ,と分かったつもりでも,次にはそうではないことが分かり,したがって,また別の方法でそれを吟味してみようということになる」。そこで,あるひとつのリトグラフを刷り上げるまでの,ひとつひとつの段階が,その前の段階に問いを投げかけるのだ。では,この操作に立ち会ってみよう。

 黒と白の「0から9まで」では,各数字が,その前の版の修正になっている。ある部分を拭き取ったり,付け加えたりしながらも,新しい作品のなかには常に,前作の何らかのなごりがあるのだ。このシリーズが先に進むにつれて,テクスチュアはますます複雑になり,遂に最後の作「9」は,極端にシンプルで平面的になる。「一種の<断絶>があって『9』が来る。私はこのシリーズの外にある何かをしようと試みていた。といっても,単に,私が以前にはしたことのないものという意味ではなく,以前に私がしたものを無効にするような何か,という意味なのだ。言いかえれば,この一群の作品全体に,疑問を付すような何か,なのである」。

 もし,システマティックなアイロニーが,ジョーンズの仕事の中心であるとすればその理由は,彼がダダ風にショックを与えたがっているからではなく,ダイナミックに揺れ動いている世界に踏み込んで行けば,必ず混乱を引きおこすからなのだ。ある物と他の物との関係,そして観る者との関係が,あまりにも複雑になってくるので,遂に,真実を語るためにはすべての段階で次のことを認めなくてはならなくなる---つまり,一見全き説明と映るものが,おそらくは,何の説明にもなっていないということ。ジョーンズは,単に彼自身のなかからばかりでなく,リアリティすべてのなかから,このアイロニーを探し出そうとしている。彼は,観る者にもその探索に参加するようすすめ,そして警告する。「何事であれ,<はっきりと>見るという,それだけでもう大仕事である。なぜなら,われわれは,<何事も>はっきりとは見ていないからだ」。

(原題:Jasper Johns : Too Many Footprints)



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