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日本の現代美術における詩的イメージ (ART INTERNATIONAL Sep. 1974) 坪井みどり訳
The Poetic Image in Contemporary Japanese Art

 過去17年以上にわたって東京の画廊や美術館を散策してきたが,振り返るとある事実が少しずつ浮かびあがる。それは,抽象表現主義であれ,あるいは構成主義やバウハウス系統の冷たい抽象の諸派であれ,西洋の純粋な抽象に匹敵するものが日本には希有だということである。むろん吉原治良や斎藤義重の初期には,驚くほど早熟な,彼ら独自の構成主義的でハード・エッジ風な作例がみられるが,それとて主流にはなりえなかったようだ。おそらくこの現象は日本人気質を多分に現しているのだろう。

 1973年9月,南画廊が日本で初めてのキュビズム展を開いた。同展には一貫してキュビズムの立場をとった日本で唯一のアーティスト,坂田一男も参加していた。だが一般に日本人アーティストは,ボナールやマティス(彼は江戸時代の美術作品に空間を学ぶところがあったという)が作り出したちらちらとゆらめくような画面,サム・フランシスの鮮やかな色彩の浮遊,ピカソのエッチングにみられる流れるような線にいたるまで,キュビズムよりももっと感性に訴えるような西洋の20世紀美術に魅かれる傾向にあった。

 しかしそれにも増して,特に戦後美術に強く現れているのは,ほとんどそのまま詩や物語りに置き換えうる,暗くて密やかかつ攻撃的なイメージに対するあくなき興味である。禅の教養を伝えるには「以心伝心」,言葉は無用というように,言葉に対する禅の不信はよくいわれるが,その反面,叙情的にまた言葉によって語られるアートが常に必要とされたように思われる。このことは,日本の作曲家が作品に対するきわめて情緒的なコメントを,音楽会のプログラムやライナー・ノートに書き添える事実に暗示される傾向ともにている。彼らは西洋の作曲家が作るような,フォルムのはっきりした構築的な曲を書いたときでさえそうなのだ。またNHKラジオ局が音楽会を放送する際,曲の解説が肝心の演奏と同じくらい長いのも事実だ。

 明治時代に日本に初めて紹介され,本当の意味で普及した西洋の詩は象徴詩といえる。そしてある詩集関係の編集者によれば,この時期の批評傾向は今日でもなお,一般大衆の詩に対する態度の根底に流れているという。詩自体はこの立場から離れても,読者がごく普通に詩を解釈する場合,象徴ということを念頭に置いているというのだ。

 この種の象徴主義的傾向は,造形芸術においても顕著にみられる。他の芸術運動の盛衰をよそに,この傾向は恒常的な態度として存続してきた。というより他の運動が日本のアートシーンに現れるときにその内容そのものを形作っており,その結果,どんな運動も本当に新しく,前代未聞と呼ぶことができないほどである。(西洋の評論家は,日本の諸運動を最新の西洋モデルの真似だ,としばしば考えようとするが,この解釈も根強い象徴主義的傾向の前には無に帰してしまう。)

 1950年代,当時の日本の中堅アーティストは,美的正統性を求めて悪戦苦闘していた。彼らは圧倒的な戦後の混乱に対して皆が抱いた悪感情の渦中から一歩抜け出したところまで彼らの正統性を引き上げようとしていた。1950年代半ばの国内展を特徴づけるのは,荒々しい色使い,重苦しい形態,そして鼓舞された労働者階級の生々しい姿である。これらの中堅作家たちは,二つの方向に分かれていった。一つは”反美術”をうたった読売アンデパンダンであり,彼らは非美術的なガラクタを素材としてグロテスクなイメージをつくりあげ,”美”を初めとするあらゆる理想世界に対して暴力的な反旗をひるがえした。

 二番目の方向は,過去の日本への郷愁に基づいていた(大抵無意識のうちに)。それは純朴な備前焼や,茶室に見出される”作られた自然”,あるいは京都の苔寺の庭園に見え隠れする空間,密教の闇といった世界である。ただしこれらのアーティストの中で,自分の作品を安全な過去への逃避と考えていた者はほとんどいないと私は確信する。外国の評論家の中には,ミッシェル・タピエのようにかれらの作品を国際的アンフォルメル運動と重ね合わせる者や,トーマス・ヘスのようにニューヨーク派(抽象表現主義)の下手な亜流だとみなす者がいる。日本では東野芳明がこうした作品のうちに日本的なルーツを認め,ノスタルジックな退行現象だと嘆いているが,彼は日本の批評解釈の海においては独泳者に近い。

 近代美術史上,最初の前衛的な版画家,恩地孝四郎(1891-1955)が浮世絵師や初期の陶芸家がもっていた非空間性やテクスチュアに対する興味を,彼らとは異なった方法で真剣に掘り下げたことは意義深い。恩地は靴の踵,麦藁,硝子などをそのまま版とした抽象版画によって日本の版画の長い手技の伝統に反抗したのだが,彼の作品では,抽象形態の一つ一つが,叙情的なリアリズムによってはっきりと言葉で定義できるような感情内容を伴ったオブジェと化している。彼の前衛形式(とそれに続く多くの前衛形式)は,彼が反対したアカデミックな日本趣味よりも,自然に対する日本的感受性の長い伝統に深く根ざしているといえる。

 振り返ってみれば,50年代のアーティストには,日本の風土に密着した叙情性の追求という恩地と似たような道を歩んだアーティストが多い。例えば斎藤義重は,虫食いのような穴のあいたざらざらの木の板に,ほとんど単色に見える色を塗ったが,これは忘れ去られた洞窟や,かつて鮮やかに着色された寺院の遺構が幾世紀にもわたる風雨にさらされて見るかげもなく色褪せてしまった状態に似ている。萩原英雄の60年代初めの版画にみられる風化した肌ざわりも同系統だ。

 この時期の他のアーティストは,古代の象徴学と取り組んだ。吉原治良は黒地のカンヴァスに荒々しい筆使いで禅の宇宙環を描いたし,オノサトトシノブは幾何学的に正確な円をマンダラのように連続させた。イサム・ノグチの影響を受けた流政之と木村賢太郎の彫刻は,自然界に存在する粗削りな形態と宇宙的な無意識状態のシンボルとが漠然と交錯した世界だ。これらの作品は皆,より普遍的で詩的な象徴性の探究の結果であるが,この種の象徴性は,他には見られない日本独特の”気候風土”に囲われたものだ。重い大木を思わせる黄褐色の重厚な形態が画面を覆う山口長男の大きな絵画もこの特質を共有している。もっとも山口の場合,象徴的メッセージはそれほど直接的ではなく,黒い背景に描かれた単純かつ平坦で大地のような色面という表象の奥に存する厳粛な雰囲気が,パレットナイフによる絵具の厚塗りによって一層強調されている。

 戦争の灰塵の中で幼少期を過ごした人々の,実に微妙で円熟した詩的反応が社会経済の混沌の中から生まれてきたのは,ようやく次の世代になってのことだ。50年代の無審査の展覧会,読売アンデパンダンに培われ,新しいグループや個人がきわめて不安定な精神状態を表現した。

 1961年,桂ゆき子は,手漉きの紙をしわくちゃにして板に張りつけた絵画の連作を発表した。これらの作品は,空間に棚を設け,時間をほとんど完全に止めてしまう効果をもつが,たとえるならフランツ・カフカの文学的世界を抽象画に移しかえたものといえるだろう。緊張感はあくまで二次元的であり,しわくちゃの平たい長方形が伸び縮みしてじわじわと神経を刺激する。

 60年代半ばまでに作られた加納光於の版画も,同様の幻覚的な特質をもつ。黒い形態はオディオン・ルドンのリトグラフを思い出させるが,加納の作品には水面下世界からとられた海洋生物のモチーフ−−エビやカニ,貝類,不定形のクラゲ,そしてこの釣り人がよく腰をおろす,波に洗われてあばたづらになった岩など−−が見える。60年代初期の版画作品としては,亜鉛板そのものを溶かして作品とし,それぞれを『鏡』と名付けたものがある。この頃までの作品は,いわばカフカの『変身』エビかカニに変えられ,海底を長い間さまよいながら見つめた,詩的で半現実的な風景とみなすことができる。

 60年代の彫刻家は,SF小説を彷彿とさせるほど獰猛なオブジェ制作によって,最も強い説得力を持っているかもしれない。京都の彫刻家,清水九兵衛は,長い系譜を誇る陶工の家の出身だが,陶器を捨て,アルミニウムの管状フォルムに隠された獰猛性を追求した。作品の表面がわずかにいぶされることで,硬質の金属は柔らかい光を放ち,作品の内部生命を微妙に表出させている。部分的に動く先端を持ったこの作品は,半ば機械的,半ば動物的な状態が,居心地悪そうに共存している。

 榎本エイコの木彫は,別種の猛々しさをもつ。というのもその生物的な部分が暗闇に向かって口をあける鰐のような穴を形成しており,侵入者を飲み込もうとする蝿地獄を思わせる。ニューヨークの作家,リー・ボントクーの作品と似ているが,ボントクーの壁面作品のもつ,昆虫的な野蛮さは見られない。榎本の,自然木に鑞を塗った表面はそれ自体で美しく,形態がかもしだす叙情的な動物性との微妙なコントラストをなしている。

 この種の”密閉”を好むアーティストのうち,最も成功しているのは,30歳代後半になる若林奮である。私が彼の作品を最初に見たのは1963年,東京国立近代美術館で開かれた『彫刻の新世代』展のときである。18人の出品作家のうち,若林の作品は彫刻を通常語る言葉では最も描写しにくく,ある奇妙な出来事をそれに関連したオブジェの提示によって説明しているかのように見受けられた。彼のその後の作品に照らし合わせると,隠れた手がかりを示すことによって知られざる現実を暗示するという文学的な美学−−これは彼の基本的な態度である−−と同一線上にあることがわかる。後の作品になると,手がかりはさらに隠蔽されていく。鉛の板の内部に本を閉じ込め,それをスチール製の机にボルトで取り付けて本をまったく読めない状態にしたり,数多くのエキセントリックな機械じかけのオブジェを鉄の箱に入れ,ネジできっちり閉ざしたりする。金属のパラシュートその他を表紙の内側にボルトで留めつけ,きっちりと閉じた本(一見詩集らしき)などがある。70年の万博に出品された作品は,スチール製の板を地面に置いたものだが,蝶番つきの不規則な形の開口部がいくつもあり,その蓋もボルトで閉められていた。だが今回はあまりに目立たないため,作品に気づく人すら少なく,近くにあるイサム・ノグチの泉の作品の動きを隠すかのように,その上を歩くだけだった。

 このように物体を視界から隠し,ヒントだけを与えて解答は提示しないという興味は,日本人アーティストに共通する叙情的なスタンスである。さらに二重に隠すという手法が見出されるのが大西清自の鋳造作品だ。彼は物体(人の手を型どるときもある)を正方形または長方形の厚板に載せ,シーツで包み込んで全体の型をとり,それにアルミニウムかすぐに錆びつく鉄を流しこんで作品をつくる。部分的に腐食したテクスチュアと,鋳造プロセスが始まる前にすでに視界から隠された物体との組合せは,先に述べた三次元のオブジェと同じように,不吉な効果を生み出す。これらの作品のほとんどには,わざと美しいとはいえない色が使われており,カフカの陰鬱な小説や日記を生んだ出口の無い土壌,すなわちひんやりとしたプラハの春の街の上に暗くたれこめるピューターのような灰色の雲を思い出させる。日本ではスモッグが満ちた都市の上空に,どんより曇ったそらやよどんだ空気が流れてているだけで,この種の重苦しい空はないが,こうした雰囲気は,戦後の美術に確かによく見出される。

 近年の作品の多くは,コンセプチュアル・アートの独特の形と考えられる。そこに漂うもの寂しさは,二つの理由によっておそらく説明がつくだろう。一例をあげると分かりやすいかもしれない。1974年一月,真板雅文の近作展が東京のギン画廊で開かれた。壁面を飾るのは,人気のない屋内外空間の白黒写真で,その前の床に置かれたランプの放つ光が写真の表面に反射してイメージの一部は見えない。同種のアイディアは,吉田克朗がすでに見事に具体化しているが,吉田は単純な抽象画の前に照明を設置した。どちらの場合も画面から発する光(吉田の作品では画面上のいろいろな部分からの発光,真板の場合は作品の物理的状況よりも,こうしたアイディアや雰囲気の方に重点があるようだ。撮影する場面に対する真板の態度は,同世代のコンセプチュアル系の日本人アーティストの多くと呼応している点で意味深い。パリの屋根裏にある彼のアトリエの一隅を写した写真を私が見ていると,彼はその場面が美しすぎるので,実はあまり満足していないのだと語った。等身大のその写真には,ちらかった鍋や汚れた筆が他のガラクタに入り混じって床に撒き散らされたり,だらしなく壁にかけられたりしていた。私には彼を苛立たせている”美”が何なのか,いくら考えてもわからなかった。同様に,古い鉄道の下を通る地下道から見た眺めや,さびれた空き地で裸電球のついた街灯柱が,その下の塵やうす汚い雑草を照らしだしている夜の写真でも,”美”はわからずじまいだった。今日世界各地のコンセプチュアル・アートにしばしば見出される,時間や活動の記録写真においては,核となるコンセプトを強調するため,わざと非美術的な雰囲気を用いる傾向がある。そしてもし1973年のパリ・ビエンナーレを基準に考えるなら,ぼろぼろに壊れた物体への興味は,国際的に広まっており,これは非美術的というより反美術的現象ととらえるべきだろう。それでもなお私は,日本でのこの作品傾向の背後にある厳密な理由を探るとき,それはちっとも新しい現象ではないように思う。

 私の考える説明の一つは,これが工業国日本の風景そのものを映す断固としたリアリズムの形式だというものだ。交通公社の旅行キャンペーン用ポスターとは裏腹に,工業のあるほとんどの街や都市はスモッグが充満する灰色の世界で,木造住宅やコンクリート打ちっぱなしのアパート群を汚れたもやが覆っている。人口過密都市における生活条件として,多くの住宅ではその内部でさえも,日本の旅館や寺にみられるような明るく広々とした空間という贅沢を味わうことができない。当然のことながら,家庭生活は顔と顔をつきあわせるような状態で,猫の額ほどの庭には芝もはえない。スモッグが濃いため,夏には木の葉も落ちてしまう。目にやきついたこれらの風景が心象風景にも反映され,多くの若いアーティストが人間生活に対する自身の不安感を表す際の手段となったとしても不思議はない。この種の心象が多様にまた頻繁にみられることについて,少なくともこうした理由づけは可能だろう。

 同様に,上矢津のシルクスクリーン−−そこに描かれているのが,目障りな赤いガスの雲にしろ,灰色の背景上の黒い石炭の固まりにしろ−−に表現された厭世観もまた,一部説明できると思う。1970年のジャパン・アート・フェスティバルで,上矢は二匹のカエルの生態を奇妙に光るセリグラフで表し,指でこすりイメージの一部を指紋でぼかした。作品は自然史の詩というシリーズの『R.T.テンポヴドリアの墓』と名付けられた。にじみと色は,まるで映りの悪いカラーテレビの画面のように見えた。ところで過去数年間にわたる彼の作品を見ると,彼が新しい”密教”の影響を受けているのではないかと考えられる。この宗教は,高僧松沢宥をリーダーとする,世界の撲滅を準備する”涅槃”というハプニングの形式をとる。松沢のグループは,昨年東京のピナール画廊で『カタストロフ・アート』という国際展を開催し,次のような国際声明文を出した。

 展示そのものは,美術的イベントというより,来るべき千年至福王国を目指すドキュメントとしての価値が高かったが,エネルギー危機の前に早くも日本の多くの若いアーティストをとらえていた不安感の発現として興味深かった。

 松沢は,1970年の東京ビエンナーレで,空の部屋に続く戸口の上の掲示によって,彼自身の方向を明確に述べた。人々がそこを通るときに,松沢の死について考えることを促す内容で,「その死はあなたの将来の死に似ているばかりでなく,過去の何億という人類の死,そしてこれから起こる何兆という死にも似ている」という。やたらに度々使われている”終末”の語に,西洋でいう”黙示録的終末”が想起させる絶対的終焉の響きはない,と教えられたが,それでも特に若いアーティストの間に蔓延している未来への恐怖や喪失感がいかに根強いかが感じられる。それがために彼らは美術作品をつくることができなくなったり,もしできたとしても反美術的な方向に向かうか,上矢津のセリグラフに見られるような,荒涼たる絶望感に満ちた文学的イメージを追求するにいたっているのだ。

 恒例のジャパン・アート・フェスティバルに出品された植松ケイジの作品も,同様の不安感をかもし出している。それは暗い廊下に続く戸口を写した四枚の写真作品だ。一枚目は戸口のみ。二枚目では,植松が扉の脇柱と脇柱の間で両手両足を突っ張り,水平に体を支えている。三枚目の写真では,長さ一メートル以上の方柱が,敷居の真ん中に真っ直ぐに立てられている。四枚目では,植松が戸口の上部に向かって同じ柱を押し付けている。このように異なった四つの状況下における戸口を見せたにすぎない作品だが,単なるプロセスの記述やアイディアの提示を越えるような暗い雰囲気を周辺にただよわす。それは先の真板の”リアリズム”が存在の質への反応という点においてきわめて明解な様相を帯びていたのと似ている。なたこの種のリアリズムは,40年代末から五十年代初めのイタリアのリアリズム映画に突如出現したものと同じである。以前の植松の作品を振り返ると,二つの巨大な黒いプラスティック製の袋の作品に,類似の特徴を見出すことができる。ヘリウムのつまったこの袋は,底があいていて,東京都美術館のほら穴のような彫刻展示室の天井から床までを浮遊していた。この巨大な作品の素材として黒いプラスティックを選んだのは必然的なことかもしれないが,最近作にも同じ黒という色のまい色を用いているのを見ると,驚くほど近似した感受性や意図が伝わってくる。

 以上のアーティストの作品が暗くて密やかだとすると,これから取り上げる別のグループのアートはもっと攻撃性を前面に押し出し,一見,社会全体をむしばむ病や反抗から生まれた作品とさえ見られる。これらの作品を精神病や感情障害の産物と単純にみなせば事実を歪めることになろうが,彼らの作品によく現れる象徴学は精神病の分野と境界を接し,この種のイメージを公然と用いている。文学的特質,すなわち言葉にして論じることのできるイメージへの欲求は,ここにも又見出されるのである。
この種のアーティストがまとまって登場した最も重要な展覧会の一つは,1964年に南画廊で開かれた『ヤング セブン』展で,荒川,三木,工藤,菊畑,中西等,現在も活躍中の名前が世間の注目を集めた。荒川修作はその後ニューヨークで開花した極端に密閉的な作品の基盤となるドローイングに加え,ピンクや紫のクッションを詰めた木箱に,セメントと綿の量塊や車を象徴する部品から成る卵型に似たオブジェを置いた作品を展示した。それは何か奇異で見たこともないような動物の胎児ができかけているようなものだったが,エドワード・キーンホルツの『不法の手術』という作品と同じ位,胸が悪くなった。きわめて触覚的で,気味悪く不愉快なこれらの作品は,”男根崇拝”から生まれた工藤哲巳のアサンブラージュとも通じるところがある。五十年代からネオ・ダダ・オルガナイザーズのメンバーである工藤は,1962年以来パリに住んでいるが,ハプニングにも参加し,基本的な方向を変えずに彫刻的なアサンブラージュを構成し続けてきた。

 日本で発表された彼の最新作は,箱根の彫刻の森美術館の『現代世界の人間像』(第二回現代国際彫刻)展に出品された,1970年作の『イオネスコのポートレート−−映画”泥”のために−−ある世代の終わり』である。それは火から取り出すのが遅れたマダム・タッソー鑞人形館の人像のように鑞がしたたる身体の断片で,半分溶けかかった足と男根が紙屑やわけのわからない気味の悪いものにまじって鳥かごの上から吊り下げられ,かごの下の方では別のガラクタの山の上に頭部と手がのっている。この作品は,生身の人間のゴム型と同じく,精緻なリアリズムにある程度の衝撃的価値はあるが,それを除けば,臨床講義以上のものとしてはあまりに熱にうかされすぎていると思われた。だが丁度臨床講義が完璧に言語で説明できるのと同様に,この作品も言語化されうることは確かだ。

 もっと抑制のきいた静かな攻撃性が見出されるのは三木富雄で,彼は主にアルミニウムで耳を鋳造することに取り組んできた。三木の耳は,頭部から引きちぎられ,しばしば紐状の外耳道をぶらさげている。当初から彼の作る耳は想像上のミニチュア風景に似ていたが,七十年万博の時に彼はこの傾向を具体化させ,子供たちがよじ登ったり大人がその陰で休めるほど巨大な耳が横たわる作品を作った。ネオ・ダダの一員として作品を作りはじめた彼は,自動車や機械の部品を組み立てたり,屋根瓦を並べて模様を描いたりした。だが1963年以降は,ごくわずかの例外を除いて,切り取られた耳というテーマにとりつかれ,半ば強迫的に作品を作り続けた。これらの耳は,普通,”聞こえない耳”すなわち切り離されて凝固した感情,あるいは人間同士の意志が通じあえない状態を象徴すると解釈されている。しかし十年以上にもわたってこのイメージから生まれた作品を説明しつくすには,それだけでは一部あたっているにしても不充分だろう。私には,この仕事は強迫観念的でしかも文学的なイメージが展覧会Aとして大規模に集積されたものであり,それらはきわめて私的な方法で,実のある表現やコミュニケーションに対する欲求不満,あるいは我々が罠にはまったと感じるような,個人の支配力を越えた全体的社会状況への反発といったものを表しているように思われる。(むろんこうした意味づけを越えて,たった一つのイメージを維持しながらそれぞれを固有の作品に仕上げていく三木の能力には驚かされ続ける。)フラストレーションの爆発という現象は,その後の60年代末の学生運動−−多くの大学は,象徴的な戦争に備えて素人くさく武装した要塞と化した−−の際に再燃することになる。ある意味ではネオ・ダダの運動は,後のこの騒乱の,美術分野における先駆けとみなしうるかもしれない。だが芸術上の運動を社会運動の先駆として見ることには常に危険がつきまとう。マルローがいみじくも,風刺をきかせて述べているように,美術は一般にすべてを意味するがゆえに何も意味しないのだ。

 同様に表現主義的な中西夏之の仕事は,食いちぎられた大きな生肉の断片に似た1961年の作品に始まる。1963年には,四隅にキルティングを張ったテーブルの上板のようなものが天井から吊り下げられ,まん中にあいたいくつもの穴からしわくちゃのシーツのような形態がのぞいている作品へと移行した。その後,Oyvind Fahlstromの風刺漫画から一部借用したのではないかと思われるイメージ−−とりわけシャツの胸を開いた頭のない男の像−−が,ナイフで塗られたゆるやかな縞模様の背景に登場した。六十年代の半ばには,様々なモノを入れた透明なポリエステル製の卵を制作した。人間の髪の毛や古時計,錆びた釘などが中でゆれ動くこれらの卵は,かえることのない永遠のゴミ箱といえる。だが1968年には方法論を変え,鉄や鉛,アルミニウム等で精巧な人間の手を鋳造した。人さし指から手首にかけてきれいに切断され,磁石の力で二つの部分が互いに反発しあっている手だ。しかも小指の中には,油と空気泡の入った,大工の使う水平器の管が埋めこまれている。鉛のおもりや鎖,重さや長さの測量器具,あるいは薄くそぎ切りにしたモノの破片などは,中西の作品に絶えず登場する。彼の最新作である11のオブジェ・シリーズもポリエステルや金属の粉で作られたレリーフだが,驚くべき上品さと繊細さをもって,この種のオブジェを描出している。さて,彼の作品がダダの一形式であるとしても−−私自身はこの意見に反対だが(もっともピカビアの機械類やマン・レイおよびマルセル・デュシャンの『大ガラス』のためのドローイングには,中西の作品の先駆とみるべきものがある)−−ユーモアに満ちたこれらの先駆者には見あたらない不安感が,中西の作品にはただよう。彼の作品から受ける印象は,彼は一種の悪魔払いを行っているということで,混乱した表層のイメージ,あるいはきめ細かく仕上げられてはいるが不吉な香りのする機械類の中に,彼自身の不安を吐き出しているのだ。彼の作品は時々,叙情詩調の雑誌カットや表紙として使われるが,中西が文学的解釈に対してオープンだからこそ,詩人や他の文学者の仕事と結びつくのだ,と私は思う。

 同じ理由から文学や詩の雑誌・書籍に作品が組み込まれる作家がもう二人いる。そのひとり野中ユリはここしばらくマックス・エルンストの『Femme Cent Tetes』からヒントを得たような様式を続けているが,エルンストに比べるともっと女性的なデリカシーと細部にわたる入念な仕事ぶりが目につく。詩的な感受性に基づいたネオ・クラシシズムの断片的なヴァージョンともいうべき画風だ。詩的感受性は現代の日本の多くの部分を占めているが,もとはと言えば,いつもながらにフランスの象徴主義から派生している。野中独自の領分は,掌にはいってしまいそうなミニチュア版画の世界といえる。

 もうひとりのアーティスト加納光於についてはすでに触れた。六十年代末,ニューヨークに長期間旅した後,彼の作品は突然変わり,六十年代半ばの『半島シリーズ』には見出せなかった文学的指向が強く現れるようになった。私のみるところ,この時点でジョゼフ・コーネルの影響が非常に強く,以来,コーネルの影響下から抜け出ることが,彼にとってきわめて難しくなった。コーネルの作品に似た空想の箱シリーズを作ったほどで,特筆すべきは1972年作の『アララットの船』という複合的な作品だろう。これは詩人大岡信との緊密かつ貴重な共同作業を経て作られたものだ。まず大岡が短い詩の連作を作り,加納に渡す。加納はオブジェを制作し,イメージの文学的根拠を伏せたまま箱に入れる。このようにしてできあがった造形作品ともとの詩との関係は,1964年に東京の草月ホールで行われたロバート・ラウシェンバーグと日本人観客との関係に似ているとの印象を受けた。ラウシェンバーグは舞台に金色の屏風を立て,観客からの質問に一つ一つ答ながら,屏風にモノをはりつけたり,ある部分に色を塗ったりした。つまり言葉による問いと造形的な答えの間には,いかなる関係も存在しない,ということだ。もっとも加納の場合,作品は難解ながらもきわめて文学的色合いが濃い。

 1973年の南画廊の展覧会で,加納は『葡萄弾』と名付けられた,箱とドローイング,版画のシリーズを発表した。彼は家具職人か昔の版画職人のように,手技に対して細心の注意を払っている。言い換えるなら,詩人が言葉を扱うように,オブジェや個々のイメージを扱う。彼にとってのオブジェやイメージは,全体的な空間世界,あるいは色彩世界における要素というよりも,ゲームにおける数とりコインのようなものに他ならない。事実,加納は最新作の版画シリーズについて,色彩が感情に及ぼす影響を特に意識したと主張しているが,色は知覚の中で,他のどの要素が形をなすより前に,感覚を直撃するはずだ。

 これ以前にも,南画廊でもっと大規模な作品を展示したアーティストの中で,巧みに構想されたゲームにおける数とりコインとして絵画的要素を利用したり,特定の状況に対する自分の反応を説明しようとした作家がいた。彼,菊畑茂久馬の作品は,しばしばルーレットの回転盤を含んでいるが,ひと目で彼の作品とわかるものの一つ,1964年の作品では,回転盤は木の上に描かれている。不釣り合いに大きいキューピー人形のような赤ん坊の顔が立体的に現れ,人形その他のオブジェがはりつけられた背景は,縞状に塗られている。菊畑は,このアサンブラージュの連作を始めた当時,重い病にかかった幼い我が子の生命をひどく心配していた。この頃の作品には,イチジクの葉や,したたる絵具,子供の頭といったイメージが象徴的に見出されるが,すべてこうした状況を背景として生まれたものである。

 今日の若いアーティストの作品は,感情的文学的表現から離れて,知的遊戯のおりなすパラドックスにより近づく傾向にあると思われる。その意味で最も成功しているアーティストの一人は松本 で,彼の版画は一見,一般向けの科学の本のページからとられたかのように見えるが,あくまで「一見」だ。1970年,私は横浜市民ギャラリーで開かれたグループ展,『今日の作家展 1970年』で松本を知ったが,彼は同展に二つの版画シリーズを出品していた。シリーズのテーマは『ピストル』と『蛇口』で,これらの実物がまず現れ,次いで平面的な版画で表され,次第にそのイメージは単なるシルエットへと近づいていく。その後の作品には,桃とその種子を格子縞で表した版画や,樹木を緑色の陰影で表現したもの,サクランボを二重線で刷り出した作品などがある。さてこれらのうちどれをとっても造形的とは呼べず,シルクスクリーンの技法においても洗練された手技は見出されない。各作品は,完璧に明らかな事実を不明瞭に記述したものだが,かといって同様に不透明なジャスパー・ジョーンズの作品に見出される,物理的かつ知的な知覚上のフラストレーションとも無縁だ。にもかかわらず,松本の使う教科書の挿絵風のイメージには妙に謎めいたところがあって,丁度マグリットの絵に描かれた矛盾だらけで明白な文章や作品名のように,我々を繰り返しひきつける。

 このように第二次大戦以来,時期によって様々な潮流が流れた。現在は多くのアーティストにとっては挫折の時代,また他の者にとってはより深い静寂と単純さへと向かう転換点といえる。これらすべての作品を振り返ると,現代日本人の感受性の中で,少なくとも一つの領域−−高度な文学性および叙情性−−は常に活発に働いてきたことが明らかだ。西洋からの多大な影響,またそれを日本で貪欲に吸収しようとする人々の存在にもかかわらず,この,どちらかといえば言語的な表現形式の流はゆるがない。言葉と絵画が交互に書かれた十世紀の絵巻物に遡る説話的,叙情的な伝統はあまりに確固としたものであり,美術の終焉そのものが予見される今日でもなお,衰えることなく脈々と流れ続けている。

(原題:The Poetic Image in Contemporary Japanese Art)



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