1. Prologue

VIBE FOR PHILOへの出演は今やLIZZY BOYSにとって常に頭の片隅にある大きな目標といっていいでしょう。LIZZY BOYSとして2001年、2003年と2回も出演させてもらい、そこでの出来事は忘れることのできない素晴らしいものでした。

2001年と2003年の間にはメンバーチェンジという出来事がありましたが、にも関わらず2年という比較的短い間隔で再びVIBEに出演することができたのは、メンバーが変わってもTHIN LIZZYの曲を演奏して楽しむというバンドのスタンスは何も変わらず、必要だったのはただ新しいメンバーでのバンドのグルーヴを作り上げ、演奏力を高めるというシンプルな作業のみだったからだと思います。

2003年から2007年まで4年という歳月が過ぎてしまったのは、それまでのLIZZY BOYSとは違う局面がだんだんとバンド内に生じてきたからなのかもしれません。一つにはメンバーそれぞれが歳をとったということがあります。バンドを始めた頃は20代後半〜30代前半のラインナップだったのが、結成から9年を過ぎ、今や30代後半〜40代前半になりました。メンバーそれぞれの仕事や生活環境も次第に変わり、「ただ自分が楽しいから行く」という単純な動きがとりにくくなっていることは確かです。これからももっと難しくなるでしょう。

また、歳をとったもう一つの側面はメンバーに体調の不良が生じたということがありました。Historyをみても分かるように、LIZZY BOYSは2004年10月から2006年1月までの1年3ヶ月の間、一切のライブを行いませんでした。過去に例のない大きなブランクでした。このブランクはメンバーの体調不良が直接的な要因でしたが、おそらく理由はそれだけでなく、メンバーそれぞれのLIZZY BOYSに対するモチベーションの持ち方に違いがみられ、バンドの方向性が見失われてしまったような状況もあったのだと思います。大げさに言えばバンド解散の危機でした。

2003年のVIBEでのJimmy Coupとの出会いもバンドに大きな影響をもたらしました。2004年1月に河口湖で行われた彼とのオリジナル曲づくりは新鮮な体験でした。ただTHIN LIZZYの曲を演奏して楽しむということ以外の、LIZZY BOYSの新しい可能性を示す出来事だったと思います。しかしこの領域に踏み出すには相当のエネルギーが必要であるためなかなか進展せず、バンドの在り様を難しいものにしてしまったのかもしれません。

しかしブランクが1年を過ぎる頃、メンバーそれぞれのLIZZY BOYSに対する渇望は大きくなるばかりだったと思います。いつ再開するか、どうやって再開するか、話し合いを何度かしました。結局のところ結論はシンプルなものだったと思います。

俺たちはPhilの音楽とTHIN LIZZYが好きだ

という素直な気持ちを誰も口にしたわけではありませんが、結局誰もがこのシンプルな想いに基づくLIZZY BOYSの活動を続けたかったのだと思います。ブランクから復調するのは簡単ではない、もっと演奏力を高めたい、もっとエンターテインメントとしての質を高めたい、オリジナルにも挑戦したい、しかしメンバーの仕事環境や家庭環境はそれぞれ重たくなっている、というような複雑な想いや状況が絡み合う中、それでも今の自分たちにできるLIZZY BOYSを追求しようという気持ちが固まったように思います。

再開すると決まってからの活動計画は簡単に決まりました。

いつまたVIBEで演奏できるか分からないから、とにかく2007年のVIBEには出よう。そのための2006年を過ごそう

という活動目標を立て、2007年VIBEでの演奏を前提とした選曲で、ライブのたびに曲をがらっと変えたりしないで、3〜4回のライブをして完成度を高めていこうという計画を立てました。この計画に基づいて1月、5月、8月、12月と4回のライブを国内でこなしました。この活動計画は今回のVIBEでの結果からみると非常に的を得ていたと思います。

8月のライブ“PHILO'S CALL"が終わったところでメンバーの意思を最終確認し、SmileyにVIBEに出たいという意思を伝えました。そして即OKの返事をもらいました。そこからの動きはVIBEに一直線でした。Pre-VIBEとVIBEのセットリストをおおよそ決めて、12月のライブで最終仕上げをしようというものです。

そのセットリストを決めるのがメンバーの意見がなかなか合わず難しいのですが、それも楽しい作業といえるでしょう。ああだこうだ言いながら、なんとか12月のライブ、Pre-VIBE、VIBEの選曲を固めました。過去2回のVIBEでLIZZY BOYSは「あまりメジャーではないけど、なかなか味わい深い選曲をする」という評価が定着(?)していたので、その期待に応えたいという想いと、「最後かもしれないVIBEで悔いが残らないように自分が本当に好きな曲で勝負したい」という想いがぶつかり合い、激論(?)が交わされました。

とにかく何とかセットリストを固め、Smileyにもリストを伝え、それぞれが飛行機と宿の手配をしていきました。八田は12月27日に出国し1月2日深夜にダブリン入り7日にダブリンを発つ、久保は12月31日に出国し2日にダブリン入り6日にダブリンを発つ、瀬戸口は1月2日に日本から直接ダブリン入りし5日にダブリンを発つ、柴田も1月2日に直接ダブリン入りし8日にダブリンを発つということになり

とにかく2日の夜、ダブリンで落ち合おう!

ということだけを決めました。

この間、一つだけ気になることがありました。VIBEのスペシャルゲストのことです。2001年はRobbo、2003年はMidgeと、THIN LIZZYの元メンバー・クラスの人がゲストとして出演しましたが、2007年のVIBEではいつまでたっても公式ホームページでスペシャル・ゲストが発表されない。もちろん今回もまたスペシャル・ゲストと共演したいという野望もあったので、

Scottに決まらないかなー

などと無邪気な希望をよく話していたのですが、Dosh Nagle(THIN LIZZY解散の後、Philと共にGRAND SLAMやTHREE MUSKETTERSでキープレイヤーとして活躍したギタリスト )がアコースティックで出演ということが発表された以外、結局ギリギリになっても発表されません。Smileyに誰か決まらないのかと聞いても

今年は No special guest だよ。LIZZY BOYSがスペシャル・ゲストさ!

などとお戯れを仰る始末。スペシャル・ゲストとの共演の野望はともかく、ビッグ・ネームが出演しないと集客に影響があるだろうなーと心配をしていたのですが。いずれにしても今回はスペシャル・ゲストの虎の威を借りることなく、自分たちだけで勝負しなければいけないようです。しかし結果的には実はこのことが、LIZZY BOYSのステージに良い影響を与えたように思います。

とにかく12月2日のライブを終え、ほどなく年の瀬となり、メンバーはそれぞれダブリンに向けて三度(瀬戸口は再び)旅立ちました。八田はむんさんとローマで休日を過ごし、久保はキクちゃんとアイルランドのコークで休日を過ごした後、1月2日、メンバー4人はダブリンに集結しました(結局、2日の夜は久保、瀬戸口、八田は会えたのですが、柴田とはこの日は会えず)。

八田、むんさん、瀬戸口、久保、キクちゃん、ポリさん(2006年に知り合った筋金入りのLIZZYファン。Philの死を悲しむあまりそれ以来LIZZYを聞かなくなったそうですが、あるきかっかけでLIZZY BOYSとVIBEのことを知り、今回VIBE観戦のため初渡愛)の6人でとりあえず適当なパブに入り新年の乾杯をしました。皆疲れていたので、とりえずこの夜は1杯だけ飲んで解散しました。

この後八田と久保は懐かしい顔と再開をしました。八田&むんさん、久保&キクちゃん、ポリさんはVIBEのために集まる世界中のファンの多くが泊まる THE NORTH STAR HOTEL に宿をとっていたのですが、ホテルに帰るとラウンジで髭と長髪の人懐っこい顔が仲間とビールを飲んでいました。

Hi, Masa,Takuo!

Jimmy Coupでした。今回 Gnasher というバンドで VIBE に参加する Jimmy は、12月上旬から既にダブリン入りし、リハやギグをこなしていたのです。そこで Jimmy と飲んでいたのは Gnasher のメンバーではなく、Barry James という Phil との関わりも深いイギリス人とそのバンド仲間でした(その中に後で非常にお世話になる John というドラマーもいました)。早速その仲間たちに加わり Jimmy との再会を喜び合いました。Jimmy はダブリンで友人の家に泊まっているとのことで、NORTH STAR HOTEL には泊まっていないのですが、今日から自分たちが NORTH STAR HOTEL に泊まるということを知ってわざわざ会いに来てくれたのです。相変わらずいいヤツです。

Jimmy はさっきまで別の場所で Smiley や柴田と飲んでいたと言います。「?」と思ったものの、とにかく柴田も無事にダブリンに入り、Jimmyとの再会も果たしたんだなということがわかって一安心しました。ほどほどに飲んで、

じゃあまた明日、お互い楽しもうぜ!

と分かれたでした。

(Text:久保)

(第2話 “Pre-VIBE" に続く)