記録

私たちのデコボコ道

小金井市に
放射能測定器が
やって来る日まで


=はじめに=

小金井市に放射能測定器を!という運動は、 小さな4〜5人のグループから始まりました。
ちょうどその頃は、チェルノブイリの影響で輸入品のあちこちから放射能が発見されて、マスコミでも取り沙汰されている時 でしたし、水際でチェックすべき厚生省では、セシウムについては370ベクレルを超えないものは輸入を許可し、おまけに驚くほど少ない設備と要員による抜き取り検査方式で、 ほとんどがフリーパスという状態でしたので、きちんと市民の側に立って放射能の測定をしてくれる体制の必要性を感じていました。

=「よし、私たちでもできる事を始めよう」=

小金井市でも、給食の材料や市民の持ち込む食品について、しっかり測定してもらおうということですぐ行動を開始しました。陳情書ができ上がって、またたくまに2千名の 署名を集め、議会に提出し、全会派一致で採択される(88年6月)まで1ヵ月半であったことを今考えるならば、今日ほどその被害の深刻さが明らかになっていなかったのにも かかわらず、チェルノブイリの事実の重さが、いかに多くの人の胸に刻み込まれていたかがわかります。あっという間に議会を通過してしまった なりゆきに、私たちはとまどいすら覚えたのでした。  

=「これからどうしたらいいんだろう?」=

全会派一致で採択されたなら、当然その実現にむけて行政が動き出すだろうと、とりあえず見守っていた私たちは、なかなか具体的な方針を示さない 行政の腰の重さに、だんだん苛立ちを覚えてきました。

=「このままこの陳情は闇に葬り去られるのではないか?」=

88年9月に「小金井に放射能測定室をつくる会」を結成、小泉先生に「何という行政か」とあきれられながら、私たちも再び行政と議会に対して測定室実現に向けての 要望書を提出しました。そのうち行政が測定器として50ベクレル以下は測定できない機種を考えていることがわかってきました。

=「おっと、機種の問題は大切だ」=

放射能の測定なんていうことにドシロウトの私たちにとって、真に有益な機種はどういうものかを、そこでやっと真剣に考え始めたのです。 中野区や藤沢市の足跡や専門家の意見を学びながら、できるだけ精度の高い機種をと、行政に要望していったのですが、その後の行政との機種論争はお互いどちらも絶対ゆずらず、 ドロ沼の様相を呈していきました。88年末の議会で測定器のための予算は通過したのに、翌年の1月にはどなり合いと机のたたき合いで話し合いは決裂 してしまいました。

=「あー、私たちの運動も終わってしまった・・」=

もうこれで行政との話し合いの糸口は全く絶たれてしまったと落胆していた時に、ある政党の議員から、実は行政がこだわっているのは機種なんかではなくて、 誰が測るのか(=市民に測ってもらいたい)ということなんだよ、それができるのなら自分が仲介の労をとってあげようと聞かされたときには、正に晴天のヘキレキ、ないしはキツネにつまま れるというのはこの事だったと思います。

=「しかし、一体ソレ本当?」=

もとより私たちの陳情の内容は、行政に測ってもらいたいというものでありましたので、もしその議員のいうことにウソがなく、ここで市民が測定を担うということになれば、 又新たな決意というものが必要となってきます。この時点で私たちの運動に、大筋二つの意見が出ました。一つは、そんな政党の議員の口車にのってはいけない、なにかの掛け引き が潜んでいるのではないか、あるいは、どれだけの市民が実際に測定業務を担い続けていけるのか、責任が持てるのかという否定の意見と、他の一つは、いわばワラをもすがる思いで 測定室実現のためにどんな小さな可能性でも追求しようとする受け入れの意見です。
受け入れ派は当然の前提として、自分たちで測定を担う(検体を出し続けることも含めて)決意をしたのですし、また最初の署名をしてくださった方 たちに対する責任を果たすためにも、そうした方がよいと考えたのでした。
話し合いの末、とにかく「つくる会」から代表を出して交渉にあたってみようということになりました。

=「行政はどう出てくるのであろうか?」=

半信半疑で選んだ方針でしたが、行政の意向はやはりその議員の言う通りだということがわかってきました。それからの行政の態度は一変しました。 初めからこちらも、市民が測定を担うことを前提で話し合いにのぞみましたし、行政はそれまで主張していた機種のことは一切言わないようになりました。
89年4月行政との長い長い1年が始まりました。

=「どうか、本当に実現しますように」=

行政は私たちだけに運営を任せたのでは何とも頼りないと考えたのでしょう。小金井市消費者団体連絡協議会(12団体から構成されている。以下消団連)にその一翼を担って ほしいと考え、消団連に要請しました。私たちが消団連にも手伝ってほしいと思いついたわけでもありませんし、当の消団連にとっても、降ってわいたような話で物議をかもしたことは 当然です。89年の三分の二は消団連の結論待ちで終りました。しかし、ただ受け身で待っていたのではありません。やはり食品の放射能を測定することの意味を理解してほしいと 願っていましたので、一緒に藤沢市、中野区、東京都の測定室を見学したり、話し合ったりしました。反対意見も数多く出されました。調理室(測定器を置く予定になっている部屋)に わざわざ放射能が入っていると思われる食品を持ち込むこと、シロウトが測定すること、検体が集まらないであろうこと、測定器を買うこと自体やめてもらいたい等々。
しかし、結局、 消団連としては運営には直接参加しないが、積極的に協力するという結論が出て、私たちもホッと胸をなでおろしたのが89年も末のことでした。これで行政も 私たちに運営を任せざるを得ないと覚悟を決めたのではないかと思います。翌90年1月には協議会設立準備会ができ、具体的な運営のついての 話し合いが、行政(経済課)と始まりました。そして90年度の新予算として4,755,000円が議会に提案され、3月30日に無事通過したのです。

=「やったー!」=

「つくる会」中心に市民が組織する協議会作り、規約書、誓約書作り等も着々と進める一方、測定器は私たちが希望していた機種にすると行政が決めました。そして90年 7月7日七夕の日に、とうとう「小金井市放射能測定器運営連絡協議会」が正式に発足しました。陳情から2年が経過していました。偉い方々を招いてのセレモニーに慣れていない私 たちは肩がこりましたが、何よりうれしかったのは、記念講演会をお願いした小泉先生の励ましの言葉です。「放射能汚染検査という地味で確実な市民の活動は、国境を越えて チェルノブイリ事故の放射能に悩み、苦しんでいる世界各地の市民を励まし、問題解決に連帯していくものであると思います。皆さんのこれからの活動に期待します。」
私たちが、どれだけ意味のあることができるかはわかりませんが、常に志だけは忘れないようにしたいものです。セレモノーの後のビールのおいしかったこと。その席でも 小泉先生の一言が印象に残り、忘れないようにしたいと思っているのです。・・・「運動というのは人間関係なんですよ。」

9月1日には市と協議会の調印をすませました。すでに測定器も届けられています。私たちの活動はこれからですし、なるべく早い時期に解決しなければならない問題が山積 しています。私たちが確実な測定技術を身につける事はもちろん、測定結果をどのような形で公表するのか、保育園や学校給食材料の測定も軌道に乗せること、できるだけ多くの市民に 放射能の恐ろしさを伝えていくこと、そして不幸にして原発事故が起きてしまった時には、有効に測定器を活用していけるよう、今から準備をしておくこと等々。
これらの実績を積み重ねていくことで、私たち市民一人一人がチェルノブイリを繰り返させない力を身につけていけるのだろうと思います。
そういう一人一人が増えていかない限り、チェルノブイリは二度三度と繰り返されてしまうのでしょう。
そうならないことを祈りつつ、一日一日を大切にしてゆきたいと思います。

           1990年9月記  小金井市放射能測定器運営連絡協議会 伏屋 弓子      
                                                      

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