香港理工学院でグラフィックデザインを学び、卒業後、香港TVB俳優養成所に入学。
同期にはアンディ・ラウ、キャリー・ンーなどがいる。
養成所修了後、友人とティーン雑誌を創刊し、しばらく編集者として働く。
その雑誌のモデルとして知り合った女友達マーガレット・リーがリー・ハンシャン(李翰祥)監督の娘だった縁から、いきなり「西太后」の主演に抜擢される。
そして幸運にも、デビュー作で、1984年度香港電影金像奨最優秀主演男優賞を受賞。
その後3年程ツイ・ハークの電影工作室に籍をおき、本格的に映画を学ぶ。テレビでの活動は余り無いが、舞台劇にも進出。
1986年に再びリー・ハンシャン監督の「火龍 ザ・ラストエンペラー」(香港・中国合作)に出演。
見出してくれた監督への恩義と親交はたいへん深く、ベルトリッチ監督が「ラスト・エンペラー」を映画化する際、レオンに皇帝役のオーファーをしたそうだが、彼はリー監督に義を尽くして、オーファーを断ったという。「ガンメン」「アゲイン」など香港ノアールにも多く出演する。
1990年マギー・チャンと共演した「愛在別郷的季節」で台湾金馬奨主演男優賞受賞。
1992年、マルグリット・デュラスの同名小説の映画化、ジャン・ジャック・アノー監督「愛人 ラ・マン」(フランス映画)で世界進出を果たす。
同時期、香港で記録的ロングランヒットとなった「黒薔薇vs黒薔薇」で1993年度香港電影金像奨最優秀主演男優賞を再び受賞。
以後、オファーが殺到し、超人気役者として1996年ころまで驚異的な本数をこなすことになる。
1993年には12本の映画出演。
1994年、王家衛の「東邪西毒」出演。
1995年には香港、日本合作映画「南京の基督」で日本人岡川を演じ、富田靖子と共演。
1996年、音楽方面にも活動を広げ、ロックレコードから歌手デビューする。
しかし、その後、しばらく半休暇状態に入り映画出演は減少する。
1999年、自らがプロデュースした「天上人間」がリリースされ、映画界で新しい話題に。
2000年からは本格的に俳優活動も幅広く再開し、その活躍の場は香港、中国、欧米と、ますます広がっていく。
2003年台湾コロンビア制作の恐怖片「ダブルビジョン」がボックスヒット。
2004年、映画界発展のためにノーギャラで出演したという「大丈夫」で第23回香港電影金像奨最優秀助演男優賞を受賞。
中国大陸での映画祭でも数々の受賞はもとより、カンヌ、ベルリンなどの国際映画祭でも常連で、その評価はたいへん高い。
亡きアニタ・ムイが会長を務めた香港演芸人協会の理事にも名を連ね、2003年アジア全土でSARSが猛威をふるい沢山の犠牲者が出た際、香港演芸人協会主宰の1;99慈善活動では幕後方として力を尽くした。
また、編集者であったこともあり、文才は香港芸能界きっての達人。
その視点はたいへん鋭く話題は豊富で、現在も香港の新聞にエッセイを連載中である。
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