余命半年と告げられたのは高3の初夏。
絶望感よりも何よりも勝ったのが安堵感。
あぁ、自分はやっと死ねるのか。

やっと……

大して親しくしていた友人もいない。
心配してくれるような肉親などいない。
独りだと自覚している。
淋しい。とすら思わない。
これでいいんだ。

残りの人生は静かに生きよう。
そして、
静かに終わっていこう。

独りで……

夕弦

ぴんと張り詰めた空気が好きだった。
時間がゆっくりと動き出す。
静寂に包まれた空間。
聞こえる音は弦の音と的を射抜く音。
満たされる静かな一時を、今はただ感じているだけ…
「翔」
黙想していた彼、依笠翔にかけられたのは静かな高い声。
「何?」
ゆっくりと瞼を上げる。
が、声をかけた女性を見ようとはしないで真直ぐと前を見つめている。
「話しかけたときぐらい相手の顔、見なさいよね」
「なんで?」
まっすぐに伸ばされた姿勢。
他のものには興味がないように、執着心を見せない。
翔はいつもこんな態度である。
それも相手は知っていると見えて、隣に座する。
「まぁ、別にいいけど。集合よ。選手は隣の道場」
そうか。と言ってゆっくりと立ち上がる。
日に透けている青年の立ち姿に、女性、柚貴砂姫はこう思った。
『綺麗』だと…
決して男に使う形容詞ではないが、翔は女性よりもその言葉が似合っていた。
「?どうした、柚貴」
「別に。」
弓を手にし、砂姫の視線に気がついた翔が声をかけるが、はぐらかされる。
「行くぞ。お前も選手だろう?」
道具一式を手に、翔が歩き出す。
砂姫は既に道具は移動してあったため、手ぶらで翔の後を付いていった。

既に道場にはメンバーが揃っていた。うち1人は補欠のメンバーだったが。
「遅いんだよお前は。どーせまた黙想でもしてたんだろう」
からからと笑って翔の肩を叩くのが、同学年の友成眞一だ。
「依笠先輩、無理しないで下さいよ」
そういって心配そうに声をかけたのが1つ下の希乃榧。
「あぁ。只の貧血と睡眠不足だよ。大したことじゃない」
弓道の県大会終了直後に翔が倒れたのはまだ記憶に新しい。
けれど、その真の病状を知る者はここにはいなかった。
「はぁ?貧血と睡眠不足だぁ?やつれたサラリーマンかよ、お前」
ほっとけ。と翔は軽くあしらった。
「あいにく俺はお前と違ってお気楽に過ごしてないんだよ」
「あ、なんだよ、それ」
「はいはい、その辺にしてね。練習始めるよ」
いつもながらの会話の歯止め役の砂姫が話を遮る。が、
「でもよ、稲瀬来てないぜ」
「あぁ、藤なら今日学校も来てないのよ。バイトじゃない?」
いつものことよ。だから補欠がいるでしょう。と弓を手に砂姫は軽く言う。
稲瀬藤とは、バイトで学校にさえ来ていないが、それでも選手になるのは彼女の実力である。
容姿も良く、学校ではかなりの支持を得ているらしい。
「じゃぁ、はじめるわよ。男子が前、女子が後ろ。2本連続で外れたらやり直しよ」
「あ、あいかわらずさらっ、ときついこと言ってくれるぜ。団体はないんだろう?」
「いいの。楽にするとあなたが怠けるでしょう?」
軽く砂姫にあしらわれ、眞一がぶつぶつ言いながら弓を構える。
6人の表情から徐々に真剣さが増していく。
響く音は弦の音と的を射抜く音と看的の声。
部活が終了したのはそれから1時間ほど経った後だった。
「っ、と。やっと終わったよ」
大きく伸びをしながら眞一が声を漏らす。
「なんだよ、一番当たってないだろう、お前」
「いいんだよ、俺は。榧に全部任す」
「や、やめてくださいよ、友成先輩。試合に出るの先輩じゃないですか」
「じゃぁ、俺の代わりに出てくれ」
「な、何言ってるんですか!!」
「はいはい、そこ、騒がないの」
やはり歯止め役の砂姫が会話を止める。
通常通りの日々。
何も変わりはしない。
きっと、自分がいなくなったとしても…
はっ、と気がつき、時計に目をやる。すでに時刻は7時を回っていた。
「やべぇ、遅刻じゃねぇか。じゃぁな」
「おい、翔。またバイトか?」
眞一が走っていこうとする翔に声をかける。
「あぁ。働かねぇと自分食わせてやれねぇからな」
「じゃぁ乗せてってやるよ。来な」
バイクで来ている眞一が翔に持っていたヘルメットを投げ渡す。
事故るんじゃない?と不吉なことを言う砂姫をあしらいつつ、眞一はバイクを転がしてくる。
「あいかわらずどでかいバイクだな。免許があるのか疑いたくなるぜ」
「ほら、行くぞ。時間ないんだろう?」
あぁ。と言って、眞一の後ろに跨る。
「んじゃな」
そう言うと音を立てて走り去っていく。
「あいかわらず仲良いわね、あの二人」
砂姫がぽつりと呟く。
「そりゃそうですよ。学校内でもほとんど一緒にいるみたいですし、二人とも目立ちますからかなり噂されてますよ」
「そういえば、クラスの女子が騒いでたわ」
今まで物静かで喋らなかった選手の一人、水落智が呟いた。
「そうなの?まぁ、眞一は兎も角、翔は綺麗よね」
「綺麗…ですか?」
砂姫が使った形容詞に不思議がり、榧が尋ねる。
「そう。綺麗じゃない?」
「…わかるかも」
賛同したのは補欠で入っていた雪麻菫。
「依笠君て、なんて表現していいかわからなかったけど、綺麗って合うかもね。でも砂姫。友成君も人気あるのよ」
「え、嘘。あのおちゃらけが?」
かなり不満そうな砂姫の言葉。
「だって顔は良いもの。女の子はやっぱり最初は顔で選ぶことが多いのよ。
まぁ、性格だって明るいし、普段はそこまでおちゃらけてるってわけでもないし」
ふーん。とまだ納得がいかなそうな砂姫。
「まぁ、いいじゃないですか。帰りましょうよ、先輩」
気まずいのか、さっさか歩みを進める榧に続いて、4人は話しながら帰っていった。

「なぁ、翔。本当になんともないのか?」
「何だよ急に。」
信号での待ち時間。眞一が翔に尋ねる。
「いや、なんだかんだ言って倒れたの初めてだったろう?気になってな」
相変わらず鋭いな。と思いつつ、大丈夫だと告げる。
「悪いな、余計な心配かけちまって」
「あぁ、いつものことだがな」
信号が青になり、走り出す。

気づかれてはいけない。
知られてはいけない。
この病状は。
絶対に…

目的地に着き、バイクから降りる。
「ありがとな」
「あぁ、しっかり働けよ」
笑いながら肩を叩くと、じゃぁな。と眞一は走り去っていった。
それを見送ることなく、翔は店の中へと消えていった。

喫茶店のバイトを終えて、家路に着く翔。
住まいは1Kで7畳ほどのアパート。トイレ・バス別付で都心にしては破格値のところである。
ふぅ。と、ため息をつきベッドに横たわる。
もし、このまま眠って目が覚めないままに終われたらどれほど楽だろう。
もし、独りで生きていなかったらもう少し命に執着はあったのだろうか?
もし…
そして翔は考えるのを止めた。
ふと思いたったように立ち上がり鞄の中を漁る。
取り出したのはシルバーのカードケースのようなもの。薬入れだ。
めんどくさそうに3,4個の錠剤と2袋の粉薬を手にし、冷蔵庫から水を取り出す。
そのまままたベッドまで戻り腰掛けたまま薬を飲もうとはせずにただ呆けていた。
「このまま生きて、なんになるんだ?」
静寂に包まれた空間に紡がれた言葉は翔の本心だった。
気休め程度の薬を飲んで、そこまでして永らせたい命なのか。と…
だが、そこまで考えておいて、翔は薬を口にした。
「このまま死んでも、なんにもならないよな」
いつも行き着く答えはそこだった。
ペットボトルを床に転がし、そのままベッドに仰向けになる。
睡魔は直ぐにやってきた。
どうせ死ぬのならせめて、生きられるときまで生きていよう。
ただ、そう思った…

通常通りの毎日がまた始まる。
朝、目が覚め、学校へと辿る。
冗談交じりの談笑。
眠くなる授業。
放課後の部活活動。
いつも通り、いつも通り変わりはしない。
「おい、翔」
声をかけたのは眞一。道場で暇があれば黙想をするのは翔のいつもの癖だ。
「なんだ?」
瞳は閉じたままに翔は答えた。
「立ち組むってよ。珍しく稲瀬も来てるから早く来いだと」
そうか。と、立ち上がろうとしたときに強い眩暈が襲った。
視界がぐらつく。開いたはずの目もよく見えてこない。立ち上がれない。

(倒れるな。倒れるな。倒れるな)
(知られちゃいけない。絶対に知られちゃいけない。絶対に。)

「翔?どうした?」
なかなか立ち上がらない相手の肩に手を置き、眞一が声をかける。
「いや、なんでもない。呆けてた」
「はい?どうしたんだ、お前」
翔は気にせず今度はすっと立ち上がり弓を手に取った。
「なんでもねぇよ。行くぞ」
言葉を返す間を与えず翔はそのまま歩き出す。
首を傾げながらも眞一は後ろをついていった。

その日、翔はバイトを辞めた。
その日から、翔は学校に、部活にあまりでなくなった。

関東大会まで、残り1週間強。

「ねぇ、翔はどうしたの?もう直ぐ関東大会なのに」
「俺が知るか!!」
砂姫の問いかけに眞一が吐き捨てるよう投げつけ、道場を飛び出していった。
「何、あれ?」
あっけにとられる砂姫に、榧が答える。
「この頃学校にもあまり来てないみたいなんですよ、依笠先輩」
「えっ、そうなの?てっきりバイトで来てないのかと思ったのに」
「(いや、それも問題だと思いますけど)なんか学校にいてもうわの空みたいで、友成先輩も気にしてるみたいです」
そう。と砂姫は眞一が走っていったほうを見やる。
何でこうなってしまったのだろうか。と…

眞一はバイクで走っていた。
向かっている先は翔のバイト先。
「えっ、辞めた?」
尋ねてみると、つい先日突然辞めると言い出したっきり一度も訪れていないのだという。
なら、何故学校に来ない?
あいつは何か隠してるのか?
そう考えながら眞一はまたバイクで走り出した。
何かがおかしい。
いつから?
―――――――――――――――――
思い当たったのは県大会直後。
あの時から、何かが違う?
眞一はそのまま翔の家へと向かった。

ベッドの上で寝転がる。
とりとめのないことが頭に浮かぶ。
けれど、やはり支配されていくのは自分のこと。
Ifを使った仮定法。
もし、もし、もし…
そればかりだ。
「なっさけねー」
自分自身にほとほと愛想が尽きてきた。
何も出来ないこの躰。
どうすることも出来ない。
分かっている。分かっている。
けれど……
『ドンドンドン!』
扉が激しく叩かれ、ビクッ、と身動ぎ躰を起こす。
ドアを開かずとも気配で分かる。
ドアの前に立っているのは眞一だ。
翔はそのまま声を出すことも動くことも出来なかった。
『ドンドンドン!!』
扉を叩く音は消えない。
「いるんだろう、翔!!俺に居留守なんて利かねぇぞ」
その声に諦めたように渋々と玄関を開く。
「やっぱいるじゃねぇか」
「何の用だ」
答えることなく眞一は部屋に入ろうとする。
「な、ちょっと待て」
慌てて止めようとする翔。
「入れろ」
ただ、冷たく言い放つ眞一。
いつもと様子が違うのは一目瞭然。
迫力負けした翔はそのまま押し切られ眞一を部屋に上げてしまった。

「単刀直入に聞くぞ。お前は何を隠してる?」
ビクッ、と翔の躰が反応した。
「何、も…隠してなんか…」
「じゃぁ何故学校に来ない?」
淡々と眞一が言葉を降りかけてくる。
「バイトだよ。代わってくれないか頼まれてよ。」
「んな見え透いた嘘つくんじゃねぇよ。バイト辞めてんだろ。」
「な、どうし…」
「翔!!」
眞一のきつい声が響く。
翔は何も言えずただ俯いてしまった。
「何を隠してるんだ?」
再度眞一が尋ねる。
翔は黙するしかなかった。

知られてはいけない。
知られてはいけない。
知られては……

がはッ、と大きく咳き込む。
そのまま口を押さえ、必死になって咳を抑えようとした。が、
フローリングの床に赫い色が落ちた。

「か、翔!!」
思いもよらない翔の異変に眞一がケータイに手を伸ばした。
「やめ、ろ。眞一。」
必死に眞一に縋る。
「何言ってやがる!!離せよ、翔!!」
「眞一!!」
今出せる最大限の大きさの声で眞一を制する。
ハタと、眞一の頭が冷めた。
翔は傍にあったタオルで口を床を拭い、そのまま台所で血のついたタオルを洗う。
洗い終わると、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、置いてあった薬入れに手を伸ばす。
「かけ、る?」
翔は答えず、いつも通りに薬を口に運ぶ。
何の躊躇もなく…
「分かってるんだよ、自分の病状くらい。頼むから騒ぎ立てないでくれ」
必死の懇願ではあるが、眞一には理解が出来てない。

今の

目の前で起きたことは、

一体

なんだったんだ?

けれど、どこかで分かっていた。
今起きた出来事を…
だからだろう。涙が頬を伝ったのは……

「俺はもう、助からない」
淡々と告げられた冷たい一言。
助からない。と、繰り返し翔が呟く。
眞一はそれが無性に赦せなくて…

感情任せに動いた拳が、翔の頬を捉えた。
避けるほどの動きが出来ない翔は、そのまままともに力を受け、躰が倒れる。
「助からない。だと?な、なんでそんな…」
「事実だ、眞一。俺はもう、半年も生きられない」
告げられた言葉があまりにも残酷で、受け止め切れなくて…
眞一は翔の胸座を掴み立たせる。
「なん、で…何で言わない。なん…で……」
「言って、どうにかなるもんじゃない。死ぬもんは死ぬ。変わらねぇよ」
眞一の手を振り解き、翔は落としてしまったペットボトルを拾い上げる。
眞一はただ呆然とその場に立ち尽くしているだけ。
「あの時さ。県大会の時、病院で精密検査したんだよ。それで見つかった。
詳しくはよくわかんなかったけどよ、もう手遅れだと。
まぁ、呈良く手術しなくても薬で抑えられるものだから手術はしてないし、入院もなし。
ただ、生きていられるだけ生きていくだけさ」
その時宣告されたのが余命半年だ。と、翔は静かに告げた。

眞一にはもう理解できてなかった。
理解しようとは思わなかった。
でも、それが現実で、
翔は独り、その道を歩いていた…

「だからもう、ほっといてくれ。関わらない方が良い。俺は、独りで静かに残りを過ごすよ」
その言葉に眞一の思考能力が回復した。
「独りで…独りでだと?ふざけんなよ」
「眞い……」
「独りでなんか絶対逝かせてやらねぇぞ、絶対だ!!絶対、独りで逝かせてなんてやらねぇ!!」
吐き捨てるように言葉を残し、眞一は部屋を飛び出していった。
それを追いかける素振りはしたものの、翔はただ、開かれたドアを見つめることしか出来なかった。

バイクに跨った。
ひたすらに走り回った。
今さっき聞いた言葉が信じられない。
だが、確かに現実だった。
「ちっくしょーーー!!」
叫び声はバイクのエンジン音で消されていく。
ただひたすら、眞一はバイクを走らせていった。

関東大会当日。
明治神宮。

誰も予想しなかった展開が目の前で繰り広げられていた。
関東大会男子決勝に翔と眞一が進んだのだ。
翔がそれだけの実力を持っていることは知っていたが、眞一が残ったのが予想外だった。
「どうしたの?眞一」
砂姫が話しかけても返事を返さない。
いや、誰が声をかけても反応すらしなかった。
ねぇ、どうしちゃったの?と砂姫は翔に尋ねたが、翔も黙想状態で終始無言だった。
お手上げ状態の砂姫。
それだけ集中力が保たれている。
重苦しい雰囲気に他のメンバーは外へと出て行った。
不意に、
「何でお前が死ななくちゃならない?」
眞一がぽつりと呟いた。何故、お前なんだと。
さぁな。と閉じた目をゆっくりと開きながら翔は言葉を綴った。
「寿命は誰にでも来るもんだ。それが早いか遅いかの問題だろう」
「なんで、なんでそんなに落ち着いてんだよ!!」
立ち上がった眞一は冷静すぎる青年に食って掛かった。
「まだ、18年しか生きてないんだぞ、18しか…なのに…」
「18も生きたよ。俺には永過ぎた」
こんなにも生きていた。そう、翔は呟く。
無情な程に、静か過ぎる辺り。
何よりも勝る感情の名前を、眞一はわからずにただ、翔を見つめていた。
眞一が掴んでいる手を引き離し、翔はその場を立ち上がる。
沈黙が振り落ち、もう誰にも振り払えないほどに重い空気が立ち込めていた。
「死ぬもんは死ぬ。変わらねぇよ、なにがあってもな」
1週間前も同じ台詞を聞いた。
けれど、この前とは違い、眞一は翔を見ることも出来ずにただただ、手を握り締めることしか出来なかった。
ふぅ、と小さなため息を漏らし、翔は先ほど出て行った砂姫たちと同じ方角へと歩いていった。
眞一の頬に涙が1筋流れた。
それは、幼い頃からを共有してきた翔に対してでも、自分の不甲斐無さのために流した涙でもなかった。
ただ、何も感じずに、不意に流れた涙だった。

「あ、翔」
外に出ると、翔を見つけた砂姫が駆け寄ってきた。
「どうしたの、2人してさ。翔はいつものことだから良いとして、眞一は変だよ」
「心配ないよ。あいつがただ拗ねてんだよ」
「拗ねてる?」
そうだ。と、翔は伝えた。
真実を知らせられるわけがなかったが、心配かけるわけにもいかなかった。
「まぁ、別になんでもないんならいいんだけど」
そういって心配そうに道場を見ながら皆が集まっている場所へ戻ろうとする。と、
「ただいまより、男子個人決勝を行います。選手の方は集まってください」
放送が流れた。
「さて、行ってくるか」
切り替えたように翔の表情が徐々に変わっていく。
「頑張ってね」
あぁ、と砂姫の声援に見送られ、再び道場の中へと戻っていった。

「ほらよ」
カケを嵌めた翔に眞一が弓と矢を手渡す。
「あぁ、サンキュ」
「まぁ、話は後できっちりさせてもらうからな」
少しの沈黙の後、分かったよ。と翔が声を紡いだ。
決勝に進んだのは、翔、眞一を含む9名。
皆、まだ1本も外してはいない。8射皆中だ。
決勝戦は射詰めで行われる。
射詰めとは外した者が落ちていき、最後まで当てたものが勝つ決め方だ。
決勝は大抵射詰めで行われる。

ピンッと伸ばされた背筋。
張り詰めた空気。
何もかもが心地よい感じがする。
神聖な場所へと足を踏み入れる。
自身の立ち位置まで来ると、用意されている椅子に座した。
「ただいまより男子個人決勝を行います」
起立。の声で一斉に立ち上がる。
番えられる矢。
筈の嵌められる音が聲える。
1人、また1人と矢を放つ。

――パンッ―――――
――カツッ―――――

射抜いた音。
外れた音。
9人中残ったのは5名。

――パンッ―――――
――カツッ―――――

繰り返される弦音と射抜く音と看的の声。

――パンッ―――――
――パンッ―――――
――カツッ―――――

16射と続いたところで、残ったのは翔と眞一だった。
薄らと見える汗。
心地よい緊張感。
満たされる気持ちでいっぱいになる。
神聖な場所だと実感が出来るほどに…
20射目。

――パンッ―――――
――パンッ―――――

外す気配さえない。
張り詰めている空気は会場全体にも伝わっている。
静かな空間。
ここだけ外界と隔離されている。
ざわめき1つない。
聴こえるのは息遣いと木々の掠れる音、鳥の囀り。
ゆったりとした動作で眞一の弓が動く。
打起し・引分け・会
変わることのない動き。27本目。
離れの瞬間、眞一の頭に翔の姿が過った。
本物ではない、映像の一場面のように、目の前に見えた。

――カツッ―――――

意識が揺らいだ。
乱れた心で矢は当たらない。
的を弾かれた。
周囲から小さく聞こえたため息の声。
眞一の精神力は限界をきていたらしい。
眞一よりもゆったりした、けれど、メリハリのある動作で翔が動作を起こす。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

総ての音が消えた。
翔の動作一つ一つに視線が吸い寄せられていく。
優雅で、雄大で、儚くて…
それでいてなによりも、哀しかった。

―――――パンッ―――――

矢は的の中心を射抜いた。
ふぅ、と満足そうに息を漏らしたのは眞一。
勝てると思ったことはない。
ただ、全力で戦ってみたかった。
「ただいまの結果、優勝、葵橋高校依笠翔。準優勝、同校、友成眞一に決定いたしました」
起立。の掛け声で立ち上がる2人。
ぴんと伸ばされた背筋。
一歩一歩踏み進む。
出口の前でユウをし、翔が一歩道場を出た瞬間だった。
張り詰めた糸が切れたように翔はその場に倒れ臥した。
「かけ…る?」
名前しか呼ぶことができなかった。
「翔、翔、翔、おい、翔!!」
眞一の声が響く。
他にあったのはサイレンの音。
青褪めた頬。
微かに息のある唇に手を触れる。
後のことはなにも眞一には見えてはいなかった。
ただ、現実感を持てないまま、病院へと向かっていた。

闇の世界から光の中へ戻されるような感覚で、翔は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
傍にあったのは眞一の顔だった。
「翔?」
心配そうに覗き込む。
答えるように、呟くように、紡いだ音は掠れた声だった。
「なんで、俺、まだ生きてるんだ?」
至極真面目に純粋に、それが翔の心だった。
「かけ…」
「何で死なせてくれないんだ?」
泣き出しそうな消え入るような声が堪らなく哀しくて…
「なんで、そんなに死にたがる。お前はなんで!!」
「―――――怖いんだ。考えれば考えるほど。怖くて堪らなくなる」
それは、眞一が初めて聞いた翔の弱音。
「かけ…」
「夜眠る前にいつも思ってた。このまま目が覚めずにいれたら。と…
もし、あのまま死んでいれたら、俺はきっと倖せだった。
お前と戦えた。真剣に。そして、最高の一本が引けた。十分だ」
翔がゆっくりと起き上がろうとする。
慌てて眞一は止めにかかるが、翔はそのまま抱きつくように眞一に縋った。
「死ぬことが事実なんだ。曲げることの出来ない。それでもやっぱり怖いんだよ、俺」
「か、ける」
口にしてしまったことで、今まで隠していた感情が一気に溢れ出す。
流した涙は止まらなかった。

ただ、時が流れた。
純粋に生命を慈しむ。
それだけしか二人に出来ることはなかった。
不意に、
「……くない」
翔が言葉を紡いだ。
「死にたくない」
「あぁ」
「死にたくない」
「分かってる」
「死にたくない」
繰り返しくりかえし、翔は呟く。
「分かってる。分かってるよ、翔」
死にたくない。と、やっと言ってくれた。
生きたいという当たり前の欲を、翔はようやく口にした。

それからほぼ医師の診断した通りの時期に翔は息を引きとった。
18年という短い歳月を、独りで生きてきた青年。
だが、最期は独りではなかった。
しっかりと、宣言した通り、眞一は翔の最期を看取ったのだ。
「眞一。こんなところにいたの?もう車出ちゃうよ」
「あぁ」
砂姫がかけてきた声に反応しつつも、眞一はその場を動こうとしない。
ふぅ。と、ため息をついて、砂姫は眞一の横に座る。
「そんな顔しないの。翔が哀しむよ」
「いいんだよ。それくらいあいつは分かってんだから」
「本当に仲いいよね。妬けちゃうな」
「は?何言って…」
そこで初めて眞一は砂姫の顔を見た。
その目は赤くなり、涙はまだ残っている。
「泣けば?」
「砂姫…」
「泣けばいいのよ。親友なんだったら、泣いてあげなくちゃ」
「砂姫」
眞一は砂姫の躰を抱き寄せた。
「なんで、俺、何も出来なかったんだろう。気づいてやれなかったんだろう。なんで…」
押し留めていたはずの涙が止まらなかった。
何もしてやれなかった後悔がいつまでも残る。
「何も出来なかったって、翔が聞いたら怒るよ。眞一は誰よりも翔の傍にいたじゃない。
それだけで、翔は嬉しかっ…」
最後まで言葉を紡ぐ前に涙で声が途切れた。
砂姫たちは本当に翔の病状を最期まで知らなかったのだ。
「あいつ、独りじゃなかったよな?」
眞一がポツリと呟く。
「当たり前でしょう。私たちだっていたし、なによりあなたがいたじゃない」
「そっか」
そうか。と確かめるように呟き、空を見つめる。

大切な親友が旅立っていった空を………


戻る

copyright © kagami All RightsReserved.