〜September-December '99〜





1/9/'99
いつの間にやらもう9月。すぐ近くの天満宮の境内では、毎月1日恒例の骨董市が開かれている。古いものや食器を見るのは好きだけれど、通い始めたら際限がなくなりそうでまだ一度ちょっとだけ見に行ったきり。 東急ハンズ地下の成城石井食料品店に行ったら「閉店セール」と書いてあってぎょっとした。よく読んだら、今月中旬に開店するルミネに移転するらしい。つまり隣に引っ越すだけの話。なーんだ。ルミネには駅前にあったボディショップも引っ越すらしいが、閉店が早かったのでルミネが開店するまでの間買いものができない。化粧液もクレンジングももうないのに。かといって銀座や新宿に買いに行く時間はいまはない。銀座にもしばらく行っていないなあ。いまの仕事がひと段落したら、ゆっくり絵でも見に行こう。

12/10/'99
この前の日付が9月1日、今日は10月12日。最初に危惧していた通り、やっぱりわたしは日記をつけるのには向いていない性格らしい。他はわりと頻繁に更新しているのに、この日記のセクションだけがいつまでもそのまま。三つ子の魂百まで。

この時期にうれしいこと。出かけるときには必ず通る近くの家の横のムラサキシキブが、いつの間にかあざやかな紫色の実をつけて垂れ下がっていること。その枝を揺らす風がもう生温くなくて、空気が澄んで感じられること。それからその空気いっぱいに、甘くてさわやかな花の香が漂いはじめること。マンションのすぐ向かいの家の庭の茂みももう沢山つぼみをつけて、咲くよ咲くよ、と言わんばかりに芳香を放っている。さっとひと雨くれば、次の日には砂糖菓子のようなオレンジ色の花をいっせいに開くのだろう。夕方買いものに出て、その茂みの横をわざと特別ゆっくり歩きながらふと見上げると、空にきんもくせい色の細い三日月。


17/10/'99
夜型のわたしは時間が遅くなるほど仕事に熱が入ってくるので、ついつい夜明かししてしまうことが多い。昼間勤めに出ていないいまはなおさらで、あまり人には言えない時間帯に寝起きする毎日。今夜もあれやこれややっているうちに気づけば5時近くになってしまっていた。もういいかげん少し寝て午前中に買いものにでも出かけよう、と布団に入る前、ふとカーテンを開けて空を見上げると、昨日は曇っていたのに星が出ている。何となくベランダに出て手すりから身を乗り出すと、満天の星。...というか、街の明かりを全部消したらきっとそうだったろう。今度は玄関側に出てみたら、正面の東の空にひときわ明るい明けの明星が輝いている。しばらく手すりに寄り掛かって見上げていると、北寄りの空に不規則に動く小さな光。人工衛星だろうか。空はすでに暗くはなくて、濃紺から下に行くほど薄いブルーになり、鈍いばら色に変わっている。冷えた空気の中冴えざえと輝く明けの明星と朝焼けのコントラスト、刷毛で掃いたような薄い雲がつくる微妙な陰影。どんなに才能のある画家でも、どんなに腕のいい写真家でも刻一刻と変化するこの自然の色合い、この透明感をそのまま写し取ることはできない。自然にはかなわないと思う。

買いものには、結局行けなかった。明日こそ。

19/10/'99
ひと雨が待切れずにきんもくせいが開き出した、と思う間もなく、それを追うように同じ日の午後から雨が降り出し、しかもそれから数日ぐずぐずした天気が続いて、最後にとどめのように夜中の強い雨。今日見たら、近くの家の植え込みの花はあらかた落ちてしまっていて、曇り空でもときどき漂ってきていた香りももうしなくなってしまった。ここ数年、どうも青空の下で咲いているきんもくせいを見た記憶がない。大抵咲いたと思うとあっと言う間に散らされてしまう。一角がまばらなオレンジ色に染まったアスファルトを横目で見ながら、マンション前の信号を待つ。青に変わって渡ろうとした一瞬、ほんのかすかに甘い香りがして思わず振り向いた。今日は風もほとんどない。しばらく、ほとんど濃い緑だけになった茂みを見つめた後、信号が変わらないうちにまた歩き出す。

じゃ、また来年。
誰かが、そう耳元で言ったような気がした。

16/11/'99
先日、ずっと観たいと思っていた映画「ウェイクアップ!ネッド(原題"Waking Ned Devine")」を観に行った。アイルランドの小さな村を舞台にしたコメディ。宝くじで大当たりした途端ショックでぽっくり逝ってしまった身寄りのない老人の、受け取り人を失った賞金をめぐって52人の村人たちが繰り広げる物語だ。きつすぎるユーモアに、観客はときに笑うよりも絶句して固まってしまっていたようにも感じられた。通常ならもっとも忌み嫌われる話題であるはずの「死」さえも冗談にしてしまう、アイルランド人のユーモア。折しも深夜のドキュメンタリー番組で見たアイルランド人作家のインタビューで、彼が「アイルランド人は死者に敬意など払わない。死は最大の冗談だ」と言っていた。それは大袈裟としても、アイルランドでは天気と死は自虐的なまでの針を含んで繰り返しジョークの種にされる。
作物の育たない涸れた土地で苛酷な自然条件と圧政に苦しんだ長い長い歴史を持ちながら、人々は驚くほど陽気に歌い、踊り、杯をかたむけては冗談を飛ばしあい、笑う。どうあがいても太刀打ちできない厳しい自然と、少なくともかつてはすぐ隣あわせの存在であったであろう死を笑い飛ばす彼らの逞しさは、それらを誰よりもよく知っているからこそつちかわれたものなのかも知れない。

19/11/'99
今日の未明がピークと言われていたしし座流星群を観ようと、夜じゅう部屋とマンションのベランダを行ったり来たりしていた。夜半過ぎにインターネットのライブ中継サイトに接続すると、米ネヴァダ州では1分に5、6個流れていたと書かれていて慌てて外に出る。一晩中外で観測できるほどの装備も忍耐力もないので、一度に20分くらいずつちょこちょこ出ては空を見上げたが、それでも2、3個くらいずつ明るい流れ星が見える。街中で周りにこれほど灯が多くなければ、もっと小さくて暗いものも見えただろう。寒くなってきてそろそろ中に入ろうか、と思った矢先に東から西へ長い尾を引いてひゅっと光が走り、よーしもう少し、とまた空を見上げる。北東の空に徐々に登ってくる北斗七星の周辺によく流れるので、逆さになったひしゃくからぽろぽろと星がこぼれているようにも見える。何度目かに外に出たときには朝5時を過ぎていて、ほどなく西の空が鈍い赤色に染まってきた。暗い空を横切る流星も見物だけれど、赤さび色の地平線ぎわに向かって走る金色のすじも不思議な感じ。そうして観ているうちにも空は明るさを増してくる。赤から青のグラデーションに変化する空に走る流星、明るくなるほど負けずに輝こうとするように見える明けの明星。活気を取り戻しつつある街の音を聞きながらこんな光景を観るのは、ちょっと寒くても何となく贅沢な気分。本当は星じゃなくてただのちっぽけな岩石みたいなものなんだよとか、空があんな色に見えるのは空気中の塵のせいなんだよなんて言う人もいるけれど、こんな気分にさせてくれる岩石や塵って、すごい。明るくなってくる青に溶けていく北斗七星を見上げながら、そう思った。

22/11/'99
朝焼けを見ていたら、ふと不思議なものが目に入った。淡いばら色に染まった空を背景にした、奇妙な建物か何かのようなシルエット。ビルとビルとの間の空間に浮かび上がったそれは、古代の遺跡のようにも見える。遠くの山並みか、どこかの森がそう見えるのだろうか。よく目をこらすとその手前にはまだくすんだグレイに沈むビルの群れがあって、あちこちに赤い灯がちかちかと瞬いている。古代の遺跡の前に建つ近未来の都市、といった感じ。しばらく吸い寄せられるように見ていると、あれ?「遺跡」の形がさっきと変わっている?まさか。でもやっぱり、最初に見たときのシンメトリックな形ではない。それは山でも森でもなくて、雲が濃い影を形作っていたのだった。そうして不思議がったりなーんだ、と苦笑したりしているうちに辺りはどんどん明るくなって、手前の街も現代の、ふつうの街並に戻った。
よく物語などで、災害で壊滅したり海の底に沈んだ都市が夜明け前のほんの短い時間だけ現世に現れる、などというのがあるけれど、あれはやっぱり遠い昔の都市の遺跡か、それとも今よりもっと先の未来にあの場所にできるはずの街が、夜明けの数分間に何かの拍子でそこに姿を見せたのかも知れない。 





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