マーラー

交響曲第1番「巨人」
 マーラーは交響曲に声楽を多く取り入れていますが、この第1交響曲は声楽こそ入らないものの、歌曲集「さすらう若人の歌」の旋律が使われています。
 「巨人」という名前は、もともとこの交響曲がドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルが20才台の若者を描いた小説「巨人」に基づいて、交響詩として作曲されたためについています。最初は5楽章ありましたが、作曲者自身によって、元の第2楽章「花の章」が削除され、さらに各楽章に付いていた小説「巨人」に基づく標題も削除されて、第1交響曲となりました。
 第1楽章は、ゆっくりとした4拍子の自然の風景を思わせるような部分と、すこし速い2拍子の部分とが交互に現われます。主部である2拍子の部分では、「さすらう若人の歌」の第2曲「朝の野辺を歩けば」の旋律が使われています。
 第2楽章は、速い3拍子の激しい部分と、中間のゆったりと美しいワルツ風の部分との三部形式。
 第3楽章は、ボヘミア民謡の旋律がカノン風に次々に現われる部分、オーボエとトランペットで始まる美しい旋律の部分と、「さすらう若人の歌」第4曲の旋律を使った美しい中間部でできています。
 第4楽章は、嵐のような荒々しい第1主題とチェロがゆっくりと奏でる第2主題、そして展開部では第1楽章の展開部が突如として始まり、その後第2主題、第1主題の順に再現され、最後には力強く情熱的なコーダで終わります。
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交響曲第4番
 マーラーは生存中はウィーン国立歌劇場及びフィルハーモニーの指揮者として、つまり世界で最も名誉ある指揮者のひとりとして活躍していました。(単に「最も名誉ある指揮者」と言わないのは、そのときベルリンではリヒャルト・シュトラウスが指揮をしていたからです。)しかし、彼の死後、特に1960年代に入ってから、指揮者マーラーは交響曲作曲家として世界的に「ブーム」を巻き起こすほどの人気を博し、そしてそれは現在も続いています。
 マーラーの時代には、交響曲という形式は既に頂点を通り過ぎていたといっていいでしょう。すでにベートーベンの時点で声楽を取り入れるという破綻(?)が起きていましたし、その後ワーグナーによって絶対音楽は窮屈なものになっていたのです。そんな交響曲に、マーラーは歌曲を持ちこみました。ベートーベンの第9はマーラーと並べてみればあくまで「声楽」であって、決して「歌曲」ではありませんでしたよね。
 第1交響曲、第2、第3と、次第に大編成に、次第に長大にというか楽章が1つずつ増えていったのですが、本日演奏する第4交響曲では楽章は普通の4つに戻り、声楽はソプラノの独唱ひとりになり、管弦楽もトロンボーンを含まない小さい編成になっています。
 第1楽章は、鈴とフルートの軽やかなリズムでちょうどクリスマスを連想させるように始まります。すぐに現れるバイオリンのなめらかな旋律をはじめ、出てくるメロディーをきいていると、どことなく雲の上を歩いているというか、足が地についていないというか、遊園地で子供の心が浮かれているといった、明るくやわらかい雰囲気につつまれている楽章です。
 第2楽章は、速い3拍子の舞曲。マーラーはこの楽章について、死神が演奏するのだと語ったといいます。独奏バイオリンが1音高く調弦した楽器を演奏して、不気味な雰囲気を出します。ちょうどサン・サーンスが交響詩「死の舞踏」でやったのと同じです。
 第3楽章は、コントラバスの特徴あるリズムにのってチェロが美しい旋律を奏でます。変奏曲形式で、ベートーベンの第9の3楽章が思い起こされます。楽章の最後の部分では、突然嵐のような強奏が現れますがそれもすぐに収まり、静かに終わります。
 第4楽章は、ソプラノの独唱による歌の楽章で、オーケストラは極度に控え目に演奏するよう指示されています。歌詞は天国の生活の素晴らしさを語っているのですが、古えの聖人がたくさん登場して、生活を楽しくするために見方によればとんでもない放蕩の限りを尽くしています。いわば強烈なパロディなのですが、楽譜には子供らしく明るく、皮肉抜きで歌うよう指示されています。つまり、キリストの使徒だろうと、どんな悲劇の主人公だろうと、楽しく暮らしているのが天国の天国たる所以だというわけらしいのです。

私たちが楽しんでいるのは天国の喜び だから、地上の俗な暮らしは避けている。
俗世界のやかましい騒ぎなどひとつも 天国にいると聞こえて来はしない。
何もかもこよなく穏やかに安らかで こよなく穏やかで安らかに生きている。
私たちが送っている暮らしは天使の生活。
そればかりか、実に愉快で 実に愉快で朗らかな私たち。
私たちが送っている暮らしは天使の生活。
踊ったり、跳んだり、はねたり、歌ったり、私たちは歌う。
天国の聖ペテロが眺めているなかで。

ヨハネが子羊から目を離さないか 屠殺の暴君ヘロデは待ち窺っている。
私たちのすることは、忍耐強い いまだ罪を負わずにいる寛容な愛らしい子羊を死に導くこと。
聖ルカさまときたら、ためらわず よく考えもせず牛を殺して肉にしてくれ、
お酒も、天国の酒蔵ではまるでただ、小さい天使たちがパンを焼いてくれる。

さまざまな種類のおいしい野菜もあって 天国の庭園に生えている。
上等のアスパラガスに隠元豆、ほしいものは何でもあって、深いお皿にいっぱい揃っている。
おいしいりんご、おいしい梨、おいしいぶどう。
庭番たちはすきなだけ取らせてくれる。
鹿が食べたければ、兎が食べたければ、誰はばからず悠々と 動物たちのほうから駆け寄ってくる。
お祝いやお祭の日ともなれば 魚もこぞって喜びながら泳いでくる。
待ってましたと聖ペテロ 網に餌つけ、天国の生け簀のなかに走りこむ。
料理は何といってもマルタさま。

音楽も、地上のどこを探しても こちらのものと肩を並べるものなどない。
1万1千の処女たちが 思いのままに踊っている。
聖ウルスラ様もつい誘われて笑ってる。
音楽も、地上のどこを探しても こちらのものと肩を並べるものなどない。
聖チェチーリアとその一族は たぐいまれなる宮廷音楽団。
天使たちの歌声が 五官のすべてを醒すので、五官のすべてを醒すので、
何もかも、喜びのため 喜びのために 目を覚ます。
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交響曲第5番
 マーラーは、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者として、歌曲作曲家として、交響曲作曲家として有名です。歌曲では『さすらう若人の歌』『子供の魔法の角笛』『亡き子を偲ぶ歌』等の歌曲集を、交響曲では1番から9番の番号付交響曲と未完の第10交響曲、番号なしの『大地の歌』を作曲しています。
 『大地の歌』は、本当は第9交響曲なのに、過去第9番を最後に死んだ作曲家が多いので番号をつけなかったのです。しかし、その甲斐もなくマーラーも第10番を完成させる前に亡くなってしまいました。
 マーラーの交響曲は、大規模で長大なものばかりですが、その内容は歌曲的な性質が強く、抒情的で美しいものです。第1番は声楽こそないものの、主題は自作の歌曲のものですし、第2番から第4番は声楽を含んでいます。第8番は「一千人の交響曲」と呼ばれるように、2組の混声合唱と児童合唱、8人の独唱者という途方もない声楽を含んでいます。さらに、『大地の歌』は2人の独唱者とオーケストラのための歌曲というような構成の交響曲です。
 このようにマーラーの交響曲は声楽と密接な関係を持っているのですが、第5番から第7番の3曲では声楽を使わない交響曲を作曲しています。今日演奏する第5番が、マーラーの作風の初期から中期への転換点だといえるでしょう。
 遠くはバッハの対位法から、近くはワーグナーの和声・対位法・管弦楽法に学んで作曲され、その規模と形式は非常に大規模です。交響曲は、古くはベートーヴェンからその形式の拡張・逸脱が始まりました。そして20世紀の初め、マーラーにおいて極限に達しました。その後、十二音技法に至る調性の崩壊によって、調性を基礎とする交響曲は音楽の主流からはずれていきます。その後には、ショスタコーヴィチ等のごく少ない作曲家が交響曲作曲家と呼ばれるようになっていくのです。
 さて、この曲は5つの楽章からできています。
 第1楽章は「葬送行進曲」と名付けられていて、葬送のファンファーレで始まり、最後は静かに沈み行く和音のうえの泣き声のような音型で終わります。第2楽章は対照的に荒々しく始まります。しかし、主要な部分は第1楽章と同じ旋律や音型が使われています。つまり、2つに分かれてはいますが、実際には1つの楽章と考えられるのです。5つある楽章のうち2つをひとつと考えると結局4楽章となり、交響曲の形式に即しているといえます。
 第1第2楽章の主題には、静かで悲しげな主題がいくつかあります。どれも同じリズムで始まるのですが、これはベートーヴェンの英雄交響曲第2楽章の葬送行進曲と同じターンタターというものです。西洋の慣習に疎い私はそもそも実際の葬送行進曲というものを聞いたことはありませんが、このリズムは葬送行進曲の出だしの特徴のなのでしょうか。
 第3楽章は3拍子のスケルツォ。実際にはワルツです。なにしろマーラーはウィーンの歌劇場の指揮者なのです、ワルツはお手のものだったでしょう。しかし、実際の踊りの音楽として使うには、当時の貴族はもちろん現代の下世話な一般市民でも大変でしょうが……。なお、この楽章には6本のホルンに加えてソロホルンのパートがあり、活躍します。
 第4楽章は弦楽器だけで演奏される、ゆっくりとした美しい楽章です。映画やテレビCMにも使われた有名な曲です。
 第5楽章はロンド。交響曲の終楽章にロンド形式は良く使われますが、マーラーはこの第5交響曲で初めてロンドの終楽章を書きました。序奏でいろいろな楽器が断片的に出たあと、ホルンが優雅に演奏するのが第1主題、そのあと細かい音符を忙しく演奏するのがその副主題で、それぞれフーガ風に発展して行きます。この部分を中心にして、マーラー得意の対位法の技法を駆使して二重フーガあり、三重フーガありで盛り上がり、最後には金管楽器によるすさまじいまでのクライマックスが築かれ、強烈なままに終わります。
 横響ではマーラーはこれまでに第1交響曲と第4交響曲を演奏してきました。今回初めて第5番を演奏するわけですが、非常につらく険しい道のりでした。弦楽器奏者はこれまでの曲とえらく異質な音型と音程に、弾いていてあってるのか違ってるのかわからないと嘆き、木管楽器奏者は楽器の最低音より低い音が出てくるので楽器の先に継ぎ足す管を作り、金管楽器奏者はあまりにも活躍できるのでハイになる者もいれば「ここは今のテンポでやられると死んでしまうのでもうすこし速くして」と指揮者に嘆願する者もあり、打楽器奏者は工務店に勤める団員に特殊な楽器の製作を発注する、といった具合だったのです。さて、本番はどうなることでしょうか。
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