北村 薫――やさしい文体



 北村薫の「時と人」シリーズの第3作『リセット』を読み終わったところです。

 『スキップ』『ターン』『リセット』の3部作が完結したわけです。

 第1作『スキップ』は、17歳の女子高生が突然25年後の自分になってしまう話。25年のギャップ、社会的な変化はもちろんですが、働いている・夫がいる・子供がいるといった個人的な変化に、主人公はとまどいます。

 前半の、主人公が少女だった時の、つまり25年ほど前の時代の細々とした描写は、とてもなつかしいものでした。

 第2作『ターン』は、同じ1日が何回も繰り返されるという話。自分以外だれもいない世界で、同じ日が何回も繰り返されます。

 そして第3作『リセット』は、第2次世界大戦中に出会った少女と少年が、それぞれ生まれ変わって結婚する話。と書くとなんかみもふたもないような……。

 戦時中の少女の視点で書かれた第1部、北村薫はなんとやさしい文章を書くのだろう、と感心しながら読んだ。芦屋のお嬢様の視点で、だんだんと厳しくなる戦況と生活を背景に日常の生活を書きつづる。制服を来て登校していたのがもんぺになり、授業がなくなって学徒動員で飛行艇を作る工場に働きに行き、そしてその工場が空襲で爆撃される。ふと、平安の宮廷を女性の視点で書かれた源氏物語を思い出す。

 ぼくが北村薫を読み始めたのはつい最近なのでとっくに騒ぎはおさまっていたけれど、北村薫は当初性別さえ明らかにしていない覆面作家だったために、女性だと信じる読者が多かったそうな。こういう文体で書けるんだからそれも十分に納得できるというものだ。

 文章自体について意識するようになったのは大人になってからだ。そういう関係で記憶にある最初のものは、大学時代に当時は若手助教授だったある先生(最近他界したと聞く。若いのに……と思ったが実際には既に退官後のご不幸だった。このように人間の意識は茶飯事に『スキップ』する……)の横溝正史評だった。そのときはあまりピンとこなかったが、同じころに丸谷才一を知って作品を読みまくり、文章自体に興味を持つようになった。名文とそうでないものとの区別がつくようになった。吉川英治の『三国志』の第1巻を買って読み始めた。最初のページで読むのをやめた。文章が「そうでなかった」から。なるほどこういうことか、と思った。

 実は音楽でも同様なのだ。歌を聴くとき、声が美しいことがぼくにとっては必要条件らしい。以前、毎晩のように会社で一人で深夜残業していたころ、エンドレスでリピート再生して聴いていた、というか聴くことができたのは、声が美しい歌手のCDだけだった。飯島真理のマクロスの挿入歌集、谷山弘子の「しっぽの気持ち」、キリ・テ・カナワの「マイフェアレディ」「ウエストサイドストーリー」……

 閑話休題。

 北村薫の別のシリーズで好きなのは、覆面作家シリーズです。もう完結してしまったのが残念ですが。

 新妻千秋という深窓の令嬢が「覆面作家」というペンネームで作家としてデビューするのですが、このお嬢様、自宅の中ではお嬢様なのに、一歩家を出ると非常に活発な性格に豹変。鋭い推理で事件を解決します。

 「覆面作家」先生に振り回されるのは編集担当の良介ですが、シリーズラストではこの二人の感動的な愛の告白場面があります。ああ、うらやましい。

■北村薫の作品(一部)

 スキップ   新潮社、新潮文庫

 ターン    新潮社、新潮文庫

 リセット   新潮社

 覆面作家は二人いる  角川文庫

 覆面作家の愛の歌   角川文庫

 覆面作家の夢の家   角川文庫




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