827.セル石 Cerite-(Ce) (スウェーデン産)

 

 

 

Cerite

セライト(ベージュ色)、鉄褐れん石-(Ce)(暗色) 
- スウェーデン、ベストマンランド県リッダーヒッタン, バストネス鉱山産

 

17世紀後半〜18世紀前半は元素の概念がいわば近代化した時代である。それまで形而上的に受け容れられてきた(きわめてもっともらしい観方だった)4大、3大、5大元素やクイントエッセンスの理論はひとまず棚上げされて、新しい元素(らしきもの)が次々と発見されていった。
フランスのA.L. ラボアジェ(1743-1794)が活躍した18世紀後半頃には約33の元素が存在した。近代化学の父と讃えられた彼は、燃素を否定して燃焼が酸素との結合であることを明らかにした(補記1)。化学反応前後の質量保存則を確立し、定量的な化学分析法をまとめた。実践的にそれ以上分離できない物質の構成単位として元素を定義し、同時に当時(1789年頃)知られていた元素を 1)自然界に広く存在する元素、2)非金属元素、3)金属元素、4)土類元素に分類した。
ここにもし鉛が元素であり、金も元素であるのだとすれば、化学的手法によって鉛を金に変えることは出来るはずもないことになろう。

とはいえラボアジェは誠実な化学者として述べるのであるが、不可分の単一粒子として元素を定義してもその粒子を観察出来るとは思われない、逆に実験的に分離可能な最終単位として元素を定義すれば、ある物質が元素であるかどうかは技術的限界に制約される。言い換えれば、形而上的な概念としての元素を実験的に知ることは出来ないが、一方で実験と観察とによって元素と認められた物質も将来は複合物/化合物であることが分かるかもしれない。しかしその真実性が確認できるまでは元素として扱うのだ、と言うのである。だから錬金術の可能性は未来に持ち越されたわけである。

ラボアジェは自分が定義した「ラジカル(酸基)」元素(塩酸・フッ酸・ホウ酸)や「土類」元素(チョーク/白亜、マグネシア、重土、アルミナ、シリカ)が化合物であることを見越しており、いずれこれらから純粋な元素が見つかると考えていた(実際、フッ素以外は1825年までに新技術の電気分解法などによって単離される)
また、1790年代以降に発見される一群の希土類も最初は酸化物の形で「元素」と認められ、その後単体が得られるのである。
ついでに言えば、放射能の発見を経て、20世紀にはある元素が別の元素に変化する現象を実験的に確認出来るようになったし、原子の分割も可能になった。今日では元素は分割不可能な単位としてでなく、(同位元素を含む)原子番号の等しい原子に与える名称となっている。

さて、新元素の発見には当時の鉱業大国スウェーデンに産する鉱物が重要な役割を果たしたが、希土類については特に「重たい石」(タングステン)(No.814)や「ガドリン石」(No.822, No.826)が関わった。
希土類の嚆矢となったイットリアはストックホルムにほど近いレサレ島のイッテルビー鉱山から得られたが、もう一つのプリマ・マテリアであるセリアの発見は、都から西に180キロほどの古い鉱山地域リッダーヒッタンのバストネスが舞台となった。

ストックホルムは古い時代の厚い氷河による侵食で出来た14の島からなる水都で、「北欧のヴェニス」の雅称を持つ。今日のメーラレン湖の水がバルト海に注ぎ込む出口にあたり、湾口にはレサレ島を含めて無数の小島が散らばっている。メーラレン湖は多数の中州を抱えた東西に長い湖で、リッダーヒッタンは湖の西端から北西に50キロほど遡ったところにある。
北方にダーラナ地方ファールンの大銅山を、また希産鉱物のメッカとして知られるヴェルムランド地方ロングバンを含む、ベルクスラーゲンと呼ばれる大鉱山地帯の一画をなす。ベルクスラーゲンは無慮1万の鉱山を数え、リッダーヒッタンにはそのうち大小約300の鉱山があったという。14世紀中頃から鉄鉱石を掘り、16世紀には銅鉱石も掘るようになった。採掘は6世紀に渡ったが、1978年に最後の鉄山が閉じてリッダーヒッタンの鉱業はやんだ。
ちなみにスウェーデンの銅産はファールンが繁栄を誇った17世紀が最盛期で、以後は勢いを落とす。18世紀中頃は、A.F.クローンステット(1722-1765)ら鉱物学者の指導で新たな鉱脈探査が行われたり、選鉱、精錬技術の改良が進められたものの、19世紀になるとすっかり産量が細り、1873年までに大きな銅山は終焉を迎えていた。

バストネスはリッダーヒッタンでももっとも古くから鉱業の行われた土地の一つで、新旧2つの地域に区分され、全体で大小約60の鉱山があった。銅を掘ったのが20ほど、あとは鉄を掘った。新区では18世紀半ばから主に鉄が掘られ、そのうちの2つの鉱山、Ceritgruvan (セル石鉱山の意) と Sankt Goransgruvan (聖ジョージ鉱山)に新元素セリア(セリウム)を含む鉱石が出た。

これは赤味を帯びた比重の大きな鉄鉱石で、バストネスでは「赤く重たい石」(レード・ツーングステァム)として知られていた(補記2)。C.W.シェーレがダーラナ地方の鉄山に産する白色の「重たい石」(ツーングステァム、後の灰重石から未知の金属土(酸化物)を得たのは 1781年のことだが(cf.No.814)、 翌年、当時15歳だったウィルヘルム・ヒーシンゲル(ヒシンゲル)(1766-1852)は、「バストネスの重たい石」をシェーレに送った。ヒーシンゲルはバストネスに鉱山や製錬所を持つ富裕な一族の出で、やがて家業を継いだが、自然科学を愛好し、化学者としても知られた人物である。若い日の彼はこの鉱石から同じ金属土(後のタングステン)が見つかるだろうと予想したが、化学分析の手腕に定評のあったシェーレをして、シリカ、アルミナ、少量の鉄以外の元素は抽出出来なかった。

やがて C.A.アレニウスがイッテルビーで黒い鉱物を発見し、ガドリンが新元素イットリアを報告すると、ヒーシンゲルは、あるいはイットリアが含まれているのかもしれないと考えた。ウプサラ大学の T.O.ベリマンらの下で学んだ経験を生かし、自ら「バストネスの重たい石」を分析してみると、それらしいものが含まれていた。そこでJ.J.ベルセリウスに話して一緒に分析を続けることにした。ベルセリウスはストックホルムの医科大学に無給助手の職位を得て 1802年にウプサラから移ってきていたが、翌年の春、ヒーシンゲルの知遇を得て実験室を提供されたのである。
二人はガドリン石と「バストネスの重たい石」の分析をやり直し、後者にはイットリアに似た性質を持つ未知の元素が含まれていると結論した。彼らは地名に因んでそれを「バスチウム」と呼んだが、後にセリウム(セリア)に変えた。 1801年にイタリアのピアッツィが発見した小惑星セレス(ケレス)の名を冠したのだが、おそらくはウラン(1789年)、チタン(1795年)、テルル(1798年)を命名したクラプロートの向こうを張ったのであろう。(cf. No.828 セル石2

実はドイツのM.H.クラプロート(1743-1817)は、同じ頃、やはりバストネスの重石を分析して未知の元素を発見していた。抽出した物質が淡茶色の土状だったのでテールオクロイト (terre ochroite)と名付けた。彼の論文はドイツの化学者 A.F.ゲーレン(1775-1815) が発行するジャーナルの3巻に発表されたが、ヒーシンゲルとベルセリウスの論文もまたゲーレンの査読を通って同じジャーナルに掲載される予定になっていたのだ。
両者は発見者の栄誉を激しく争い、ゲーレンやフランスのヴォークランらが分析を検証し、結局ヒーシンゲルらに軍配が上がった。幸いヒーシンゲルは先行してスウェーデン語版の小冊子を、自費で50部印刷していたのである。こうして新元素はセリウムと呼ばれることになった。セリアはその酸化物、赤い重石はセライト (Cerite: セル石)と呼ばれた。
クラップロートも認めたが、ただセリウムの由来はセレスより、むしろギリシャ語のcera (蝋)とした方がよいだろうと示唆した。そして新元素名に cererum セレルム、鉱物名に cererite セレライトはどうかと提案したという。自分は天体名を使ったことを棚に上げて…という感じがするが、一方のベルセリウスは後に、セレルムという名も示されたがすぐに消えてしまった、と他人事のように書いている。

セル石はセリウムと鉄の水酸珪酸塩で、組成 (Ce,La,Ca)9(Fe,Mg)[(SiO4)6(SiO3)(OH)|(OH)3]。 
色調は暗いバラ色のものが多いが、淡桃色、茶色、黄色、緑色、灰色、無色などバラエティに富む。しかもたいてい微粒で産し、自形結晶はきわめて稀なので、ラボを持たない素人には同定はちょっとムリかと思う。
画像は淡いベージュ色のセル石が、暗黒色の塊状鉱物中に斑に入った標本。典型的な産状で、暗黒色の部分は以前は褐れん石(Allanite-(Ce) )、あるいはセリン (Cerine) と標識されていた。しかし モンゴルに Ferriallanite-(Ce) (フェリ鉄褐れん石-(Ce), Fe3+>Al の種)が報告されて以降は(IMA 2000年記載)、フェリ褐れん石とされている。バストネス産の褐れん石には?マークが点灯しているようだ。
組成式からも分かるが、セル石にはセリウム以外の希土類が当たり前に含まれている。ヒーシンゲルやクラプロートらが得たセリアは、やがて純粋物でないことに気づかれる。

 

補記1:金属を燃焼させて生じる金属灰(アース:土類)は、ラボアジェ以前には金属から燃素(フロジストン)が分離された純粋な元素だと考えられていた。金属灰を木炭と混ぜて加熱すると、木炭が灰に燃素を与えて、化合物である金属が出来ると考えられた。
しかしラボアジェの観察は、金属灰は純粋な元素である金属に酸素が結びついた(その分重量の増えた)化合物であることを示した。 彼の見解は1790年代には (若い化学者の間で)広く認められるようになった。イッテルバイト(ガドリン石)を研究したガドリンもその一人である。

補記2:バストネスの「赤い重たい石」に関する記述は、1750年にクローンステットが報告した「緻密で赤味を帯びた、かなり重たい鉄鉱石」に遡り、 1746年に採集されたある標本は "tungsten"(重たい石)と標識されているという。彼は鉄を含む「黒いウォルフラム」にも言及したが、これは Ferriallanite だろうとみられる。
後にタングステンが発見されたベルクスラーゲン北部のダーラナ地方ビツベリ産の白い鉱石(灰重石)を「重たい石」と呼んだのもクローンステットである(1751年)。