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1、われわれがやっていること、やろうとしていること
私が仕事のつもりで目指していること、日々気にかけていること、仕事と思っていることを書いてみました。
●人の生活への夢を形にする。
別の言い方では夢を人に感ぜられるものにする、住環境への夢を味わえるものにするということ。
1-1、個人住宅の庭では
例えば個人庭園の場合、客を暖かくもてなせる家をつくりたいと思ったとする。
集合住宅の場合は現代を代表する庭園といっていいでしょうか。
さて集合住宅ではどんな庭を造るのでしょう。 公園の場合はどうなのだろう。
仕事といっても様々な捉え方があるが、ここでは食らうための生活手段として考えてみたい。
余り詳しく書くと「なんだそんなことしかやっていないのか、設計料をもっと減らそう」等と言われては大変だし、同業者にはわかっていることだし、はじめればすぐ判ることなのだから簡単にのべる。
我々の歩いている道は過去の何とつながりどこへ通じているのだろうか。
おしまい
●自分で良く理解して書いたわけでもありませんので長過ぎて纏まっていなくて読みにくところすみません。
全体を書くためには部分を省略しすぎたことも気になります。
客が人のお家を訪ねるとする。
この場合の主人の夢は、主人の威厳と主人のもてなし、こころづかいが通じる心に残る出会いでしょう。
人を訪ねるとき客側は大抵、どんな主人だろう、どんな挨拶からはじめたらいいのだろうと緊張してしまうものである。
主人側は客にできるだけ気楽になってほしいと思うのだが、習慣も違い普段の表情も知らない両者がいきなり出会うのは緊張を高めてしまうだけです。
余分な緊張は人と人の間に垣根を造ってしまうので、両者だけで素直な気持ちの触れ合いを可能にするには大変なエネルギーが必要になってしまう。
まづ、そんな客のためには気持ちを落ち着かせる工夫から始めねばならない。
道の脇の所々に下草を配して低い視線を保ち、充分アプローチを長くし、十分な時間の余裕を保たせます。
気持ちを落ち着かせた後は、余分な心配を思い出させる前に、気分転換が必要です。
丁度そのタイミングに置かれた水鉢の水面に反射する光に気づいて視線の方向を変えると、萌え出たばかりの紅葉の葉先の柔らかさに客の心も柔らかくほぐされ、その若々しい緑に前向きで素直な気持ちを抱かせる。
そんなことを誰かに伝えたい気分で歩みだすと母屋のひさしがゆたかな影を落とした中に実直な笑をたたえた主人の姿をみつけることができるでしょう。
お互いに十分なこころの準備を得ているので、最高の心に残る出会いが準備されました。
これで両者は全く素直な気持ちで、お互いの人柄への期待に胸を膨らませながら出会うことで夢が実現できたでしょうか。
人口の大部分が都市にすむようになったことと、大衆消費社会がもたらした個人主義の到来で共同で使う屋外空間はかってなかったほど重要な役割と期待を担うこととなりました。
従来のほとんど単一の作法・価値観、連帯責任でなりたっていた町家のくらし、お互いが離れて建っていた農村でのくらししか知らない日本人にとって高度成長のシンボルとしての明るい夢の裏側での大きな試練でもあったでしょう。
衣食住といいますが、自他共に認めるのが住の貧困です。
その実態は「うさぎ小屋」で表現されるので、面積、大きさのことと理解されてしまっているのが普通ですが問題は別のところにあると思います。
個人や家族が占有する面積だけで比較するのは、西洋人との生活習慣(分厚い壁で構成された個室でのベッドやソファやイスが生活の基盤)と、もともとは開放的な畳床で家具の少ない日本人の生活習慣と体格の差を考慮に入れると公平な表現ではないと思います。
それでも「うさぎ小屋」が納得されてしまうのは、個人の占有範囲の周りの部分が圧倒的に貧困だからでしょう。
ある建築家は住宅の設計において、「仕事場から寝室までのヒエラルキーをかたちに」といったふうな表現していたと思います。
言い換えれば公の場から私的な場へ繋がった、生活の場すべてが、おのおのの場面でお互いに関連をもって住生活全体の形をきめるということです。
どんなに小さな小屋に住んでいても、住人の生活パターンにかなっていて、周辺が豊かであれば全体の住生活は高い評価をえられるでしょうし、どんなに広い敷地を私的に占有していようとも、玄関の外、塀の外が自分の生活に適していないならば、全体としては貧しい住環境というべきでしょう。
勿論内部も不適切に構成されておれば貧しい住環境しか得れません。
人の生活は公的な部分から私的な部分への移行の中で、それぞれ固有の内容が適切に割り当てられることが要求されます。
寝室には寝室に、玄関には玄関に望まれる夢があります。
今までは建築の構造が通常永い時間をかけて、生活の変化とともにゆっくり変わってきたのですが、そうはできないのが現代です。
そこで集合住宅の共同庭園(公団などでは園地、住民には「外」とか「公園」といったりされています)が「今」を代表する庭園と言える所以です。
庭園と読んでいいのか公園と言うべきなのかはよくわかりませんが、公園には一応西洋文化の中でのモデルがあって、これとは明らかに違いますので庭園と呼びます。
もともと庭園は勿論どの建造物も、その役割が時代とともに変わっていくものなので現代の庭園と呼んでいいと思います。
さて前置きは此れくらいにして集合住宅の共同の庭を造るときの例をとにかくつくってみましょう。
各戸につながる通路が合流した歩道は気持ち良く歩きたいものです。
簡単なようですが結構大変です。周りにはベランダが大きく開口し、住民から見つめられているような気もしますし、逆にうっかり立ち止まってしまうと人の家を覗き込んでしまいそうで気を使います。
かといって人目を遮る目隠しの中を歩くのでは歩いている自分が拒否されているようで住いの顔としては失格だし、
住民にとっても閉鎖的ではまるで隔離されたような不安感におそわれてしまいます。
ここでの夢は住民が内外の人と気持ち良く共に感じ、暮らせるる開放感でしょう。
そんな開放感があれば四季の花や新緑を感じ、季節の風を思う存分吸い込むことができるので部屋に戻っても落ち着いて読書に没頭できそうです。
まづ通路にふと目をやるように少し模様をつけます。簡単にはブロックなので目地をつけましょう。
舗装材は硬いものが多く冷たい印象を与えがちなので柔らかい土色に落ち着いたもので、色に明暗があるものがほしいところです。
それだけではすぐ飽いてしまって長続きしないので遠い視線がとれる3叉路を有効に使います。
横を向いたら住棟ですが道はどこまで見つめても大丈夫なので、ここで精いっぱい視線を変えてもらいます。
そのためには通路の舗装がここからかわるぞという表現が要るのです。
目の前が変われば自然に周りを見渡そうとします。そこに目に付く印、絵になる景色を作りましょう。
目立つ樹木、しゃれたベンチでもいいと思います。
そんなふうに日常いつも使う通路、気晴らしにために歩いてみる通路が住民の目に自然にめに映り景観、機能の多様性を表現することで視線を誘導していくための手立てを組み立てていきます。
ゆったりと建てられている集合住宅であればこれだけで住宅を守る柔らかい環がすっぽりとできあがります。
この後は地形を生かして御近所と草花で育てたり、お客さんとハーブティーをたてて憩えるテーブルのある木陰をつくったりと今までの庭園や公園よりづっと豊かな景観ができそうですね。
一番今の夢を実現しやすいのが現代の庭である証拠です。
公園では人は自然と触れあい、なによりもその感動を共有し、共に楽しむすばらしさを味わうことがゆめになるだろうか。
いや例としては、もっと具体的に芝生の広場で寝っ転がることなんて具体的な夢のほうがわかりやすくふさわしいかもしれない。
しかし都市で住む誰もが一度は夢見る芝生の夢とは単に芝生が生えているということではないはづ。
何人でも、誰でも、ごろりんとどんな姿勢でもどんどん受け入れてくれそうな「だだっ広い広場」には、本来的に一人では生きられないのに、個人として生きていかねばならない都市生活者の渇望を満たす何かがきっとあるはづ。
これこそきっと「公園」の「公」の夢そのものと思う。
芝生広場の夢をもう少し具体的に描けるだろうか。
さて今日は休日、少し早く目が覚めたのでひさしぶりに、ゆっくり時間をすごしてみようと公園の入り口をくぐり、朝もやの中を歩き始める。
小さな花が間にのぞく生け垣の間を通り抜けると、突然目の前に白緑色の芝生が拡がり、先はどこまでつながっているのか判らない。
どこまでも続く無限の景観は利己的な排他性を忘れさせる最良の素材だ。
あさもやとか近景に目を奪わせるとかの演出で景観全体を俯瞰し景観の限界を意識させる要素を背後へ送る必要がある。
広場は先上りの緩い勾配で芝生の面が広く視野に入るようにして、長く歩かずに見え方の変化を大きくする必要がある。
このためには動線の方向と歩行への意識と、景観へ向ける意識の比率のコントロールを行う。
広場の端に沿ってゆっくりと歩いていくと、小さな透明に光る滴が芝生の葉先に集まりきらきらと朝日を映しているのに気付く。
顔を上げると視野がいつのまにか視野が開け周囲の背が高く葉の豊かな樹木の姿が浮かび上がっている。
ひとつひとつが精巧に作られた木の葉の触れ合う音は利用者一人ひとりにそれぞれの言葉で、しかも人を判断してはしょったり、丁寧になったりしないで同じ様な態度で直接語りかける。
自然の前で人はひとりひとり対等に、だから人と比べたり、較べられる緊張もなく自分らしく耳を澄ますことができる。
人が自分らしくしておれることの自信を取り戻しておけばもう他人の行動はこころの平穏を乱すものではなく、その場を共有する充実感のみが沸き上がってくる。
平らな広場の部分では色とりどりのシャツを着た小学生位の子供がサッカー遊びに興じ、お年寄りは子供たちを遠くに眺めながら木陰のチェアてコーヒーを飲んでいます。
お茶受けはこの公園で収穫したキイチゴのケーキだ。
子供と老人が一つの景色の構成要素となりお互いの存在がその芝生広場に来ることの価値となり、お互いに満足感を与えあう。
以上はただの例でしかないが、われわれの仕事はデザインであると思っているということは推察していただけただろうか。
人の生活の中に生まれ、育まれた夢を濾しとり、デザイン技術によって体験できるようにする。
これがわれわれが仕事のつもりでやろうとしてきたことである。
この意味では仕事の量は対価で定義されるもの、つまり仕事というからには買ってくれるだけの値打ちがあるとうこととまず理解することになる。
社会の中で経済的な価値を生む必要があるということであろうか。
人が生活のなかで欲しいものを手に入れるために、まずやっかいな作業が必要となるものがある。
そのやっかいな作業がお金を払ってでもやってもらう必要があるほどのものならば仕事として世の中に見えるようになるのだろうか。
ある仕事が社会の中で成立してきたということは、その時代の生活の中で必要だと思われたもののうちで、特にたくさんの人の工夫と努力、なによりも夢を実現しようとする強い意志叉は欲望がそそぎこまれ、しかもその時代の経済的な条件にかなったということだろう。
現実の仕事は気候や、地理的条件や、技術等さまざまで不安定な条件の組み合わせにより具体化されてきたのだろうが、いつも人の生活の夢がその基礎にあったことは確かである。
一方でこの夢は時間を重ね、蓄積することで当たり前のように文化をうみだしてきた。
当時の世間より鳥の餌のように撒かれた仕事を生活のために拾い、営々と任務を果たすことで同時に夢を実現してきた、つまり文化をつくってきたのだ。
厳しい自然と人の関係に、人も自然界の一部としての生命力を歌った農民による田楽・能、環境と生き方を統合する河原者による庭園、世間を共有しあうための絵やものがたり、様々な生活雑貨や衣服等、いずれも個々の厳しい仕事の結果、文化と言われるものが我々が目にすることができることになった。
したがって、仕事は結果的に文化そのものでもあったのだ。
仕事と文化は、社会の目に見える部分の現実と人そのもの奇妙な比例を想像させる関係として際立っている。
現実の苦しい仕事を核とした生活のなかで生まれた夢は気まぐれに仕事を作ってきたが、一方で確実に文化を築いてきたのだから。
ともかく我々設計で食っているものの大部分は役所、叉は「役所のような組織」から委託される仕事で生計を立てている。
残りの大部分は大手デベロッパーの住宅開発に伴う「最終的には役所へ移管される公園」や一戸建て住宅の外構(門塀、アプローチ)、ビル等建築工事に伴う植栽計画といったところだろうか。
後の方になるほど、独立した仕事というよりは、施工業者の営業活動サービスの性格が強くなることが多い。
したがって、はしょっていうと仕事の実際は行政が発注する公共事業の資料(調査、構想、設計、工事発注...)を作成する作業だ。
したがって標準的な内容で何人かかるかというような資料を基礎に面積による補正と若干の質による補正を加えて金額が算出される、と聞いている。
結果的にはおおまかな種別によったあとは面積に比例するので工事費と比例することになり、おおよそはそれで推定される。
つまりおおまかには私達の仕事の対価の大きさは対象面積に比例している。
行政にとっての公園は近代的な文化的で健康的な環境をつくると言う名目の公共事業であって、国や自治体の予算執行の一部分であり、その執行の量は官僚の仕事の量を計る目安でもある。
予算を残したら仕事をしていないと評価され来年の予算と、配置人数を減らされるのである。
我々の仕事は同じように当然これに比例して、執行される面積が多いと仕事は多く、少なければ逆である。
予算は高級(なんだかいまどきの言葉としては使うのがてれくさいひびきだけれど)官僚は高級官僚同士の話し合いで予算を決める。
これは想像するにさぞ大変なことだろう。
治水や下水等の必要性は説明しやすいが、いったい公園や景観のことをどう説明するのだろう。
どんなふうに説明され、検討されたかは知らないが、結果の政策をみれば推測できる。
政策には毎回新しい言葉が並んでいる、特に横文字かふしぎな日本語が多い。
そう新しい言葉を選んで新しい予算をつけているのだ。テクノポリス、コースタルコミュニティ、ワークショップ、ビオトープリタイアメントビレッジ、緑サンサングリーンプラン、ウオーキングトレイル事業、グリーンオアシス事業....もうたくさん、、、早い者勝ちで取り込んだ横文字か、汚い日本語ばかり。
耳慣れない外国の言葉か、誰も日常生活では使うはじのないような日本語の羅列。
こんな符牒に通じているということが高級官僚のしるしなのだろうか。
さすが高級というだけあって分かりやすい予算の付け方をみつけるものだという見方もできるかもしれない。
行政の各部門のトップにとってにとっての仕事とは担当部門の職員の仕事を安定的に確保すること、つまり今年の予算をうまく説明して確保し、そのあとは来年の予算を確実にするため確実に消化する。
高級官僚同士で、横やりのないところで要領良く意思の伝達を計るための符牒をつくり、仕事を分配し、執行する、その繰り返しが不思議な造語を生み、「公共事業」の足跡を残す。
我が国では公園は(一部の例外を除き)市民が望んで作られてきたのではなく、近代的な国家、健康的で強い国民、豊かで住みやすい国家のシンボルとして、行政の都合により作られ続けてきたのだ。
税金を払う者が知らないところで執行されるれる税金の支出がどんな結果をもたらしているか、興味がある人は全国の公園関連公共事業を直接見るといいだろう。
山奥の巨大人工遊具、美しい海岸風景に突然つくられた巨大鋪装広場、必要もなく立てられた巨大擁壁とそれを「化粧する」醜い偽の「自然岩盤」.....。
勿論それらは近代的で健康的な居住環境を作るという理論付けがなされ、調査もされての結果なのだ。
その理論付けや、調査や、工事のための図面作りや、工事費の計算が我々の仕事なのだ。
いや、正確に言うとそんなえらそうなことではなく、役所の指導に従い、確保された予算により、その執行を公正に進めるための理論をなぞり、実行に移すための一連の資料づくりが仕事の内容なのだ。
官僚のつかう符牒を理解し、意図された通りの資料を作るための資格もつくり、事実上の仕事を請け負う条件をある。
高級官僚の仕事の結果の予算配分は国庫補助によりすべての地方自治体の事業に配分され、事業に影響を与えることになる。
つまり彼らの仕事が我々の仕事の行方を決めているのである。
地方官僚も、国庫補助で縛られる以上高級官僚の意図に逆らうことはできない。
いや、理論上は勿論できるのだが、周りに敬愛される官僚ほど自分の担当する部門がスムーズに安定して業務が進行することには労をおしまない。
序列に異を唱えることの結果がどうなるかは世の中へ出たらすぐ理解できる常識ではあるが、出なければ分かりにくいのも確かであるが。
ま、それぞれの立場での苦労は並大抵ではないということだろう。
行政も仕事であるから給料を効率良く(誰も無駄に労働時間を費やしたくない)確保することに苦労し、努力せねばならないのだ。
ただ、現場を知る必要のない予算業務を作ることが目的の立案と執行による税金の支出が、われわれの仕事の基盤である以上、そこに生活と無関係な言葉、符牒が飛び交い、生活と無関係な施設が遺跡のように残されていくのを当然のことと認めざるを得ないだろうか。
意図的に生活から切り離されることで市民の目からその真の姿をくらませることが可能になることで、予算確保の舞台では効用ある言葉として機能するのは確かだろうが、人の生活の中に夢をみつけ、実現しようとする方向ではないのも確かなことだ。
そして仕事を核とした生活上の苦労の中で生まれた夢を蓄積することで築かれた過去の文化とも無縁であろう。
庭園文化は既に過去の遺跡なのだろうか。
日本庭園をあれは貴族社会や封建社会の文化であって近代的な居住環境には切り取った絵としての価値しかないものだという考えを聞くことがあります。
また、禅宗や儒教、神仙思想の表象であって、科学的な現代の社会の考えとは相いれないという声も聞いたことがある。
いずれの考えも、実際に日本庭園を前にすると、違うのではないかという気がします。
貴族に対する一般の人の関係を、全般的な支配者、被支配者の関係と捉え、伝統的な日本庭園を支配者の文化であり、下の人は労力奉仕を権力的に強いられただけの関係だというのは、とても自然な解釈だとは思えない。
当時、天皇は既に権力の中枢ではなく、何よりも、現実の生活上の活動から離れて久しい貴族自身に、自然の力に翻弄されながら、人の行動に法則を見つけ生活のなかにある。。を見付活用するようなエネルギーはあるはずもなかっただろう。
丁度視聴者の夢をうまく演じきる今のテレビタレントのような存在であったと考えられる。
低い経済力であるから富を集中しないと夢をかたちにできない時代だから、自然も含めた社会全体の了解の中で、役柄としての高貴な存在が、夢を演じて見せる。
その結果が日本庭園であり、様々な献上品であったと思う。
夢を演者として担がれていたのであって、力で押さえて上に立っていたのではない。
貴族個人の好みではなく、民衆の好みを吸い上げ、実演してみせる立場だったのだ。
たまたま当時の経済的な状況の中で可能であった社会構造の形態であって、現在の言葉としての上下関係よりもアイドルとファンの関係に近いと考えたほうが近いと思う。
ひとつの夢を社会で共有する文化のその時代の表現形式なのだ。
政治的な思想が変わっても、経済的なレベルが変わっても、それらの基礎になっている自然との関係や、生命への考え方自身がそんなに変わっているわけではないのではないだろうか。
庭の職人さんと西芳寺の有名な石組みを見に行ったときのことである。
職人さん「あの岩は風化してばらばらになって下へ落ちている、それで土が流れて間の小さな石はあそこに転がった、横の石も土が流れて根元が洗われて少し傾いたんじゃないかな」
岩の重さや安定感がもたらす平穏な雰囲気は、人の肉体が平安時代も今も変わらない以上、そんなにかわらないはずなのだ。
変わったのはその不安定や、平穏の意味を説明する言葉だけなのだ。
説明するための言葉は、現在も昔もその説明の言葉が必要な世界に合わせて語られる。
その世界が変われば、その言葉の意味も失われる。
その不安定や、平穏の感覚を特定の社会で共有するための道具としての神仙思想や禅なのだ。
ステイタスになればブランドのバッグを持つようなものであって、説明し、共有できるものであれば符牒でもなんでもよかった。
しかし、造形の原動力となる、人が夢を追う生活のなかで見つけた「自然の安定と人の肉体の関係の共鳴」や「人の行動時の感覚の働きや平衡の共通性」はかわらづ生き続けている。
そこに文化の厚みがあり、異なる文化にも受け入れられる深さを持っている証拠でもある。
風景をきめる小技が後世になって付け加えられたり、石が割れたり、転んだり、木が伸びたり、逆に枯れてなくなったり、白砂に苔が生えてしまったり、水位が変わったり建物が使われなくなるなどの理由で動線が変わって道が途中で止まってしまったりと変化しても、現代の人を感動させ、農耕文化以外の民族をも感嘆させるたのは基本となる軸をハッキリ押さえたデザイン力の高さの証である。
我々はまづ我々自信を感動させる伝統的な庭園の現実から出発できるのだ。
世界の庭園や構造物には文化の違いをこえて直接見るものを感動させるものが確実にある。
作られた時代や、思想や、論理的な説明の有る無しに関わらず伝わるものがある。
我々の日本庭園といわれるものはその代表ともいえるものだ。
我々が今の時代に公園など公共的な場を取り扱うのは当然のことである。
経済の水準があがり個人消費が経済活動の源泉でかつ、高密度に集積して人がすむ時代、個人の夢を浮き上がらせる公共の場の重要性は高まるばかりである。
高密度集積化による複雑な問題をうまく解決しながら、複雑にからみ合った問題を解決しつつ飛躍的に増えた材料を駆使し夢を実現するのは、以前にもまして腕の振いようがあるというべきである。
難しい問題に対処するには過去の蓄積程有り難いものはない。
なぜなら、いくら外の環境が変わろうとも、対象にしているのは同じ肉体を持つ人間なのだから。
世界的に見て我々程有利なスタートラインから公共庭園を考えられる国は見当たらないだろう。
現実はいくら厳しく見えようとも、生活の現実を正確に把握することから始める限り、文化は我々の活動の基盤となって、過去の豊かな蓄積は未来の飛躍への準備となることは既に保証されているのだから。
さあまづ伝統に感動しょう、そこで、生活の中でうまれた夢がどんなものか実感できたら、生活の現場に飛び込んで夢を見つけよう。
実際の生活の中で生まれ、つかわれる言葉で考え、立案し、協議、説明しよう。
そして生活の夢を実現する新しい仕事を築きあげよう。
どの章も論理的に語るには力不足だとも感じますし、逆にもっと幅広く論じなければ説明できないのではとも思います。
とりあえづ、造園を考える材料にしていただけたらと思います。