デザインの成立
仕事の中で「デザインは情報の流れを調整すること」ともいえるのかもしれないと思っていましたので、
デザインと芸術論、里山を介しての計画論を読ませていただき、デザインの成立について普段思っていることを書きます。
私は他人に説明するということは大変難しいことと常日ごろ感じて仕事をしています。
余りにも難しいものですから、人は基本的にすでに自分の中にあることしか、認識できない、したがって「デザインの役割は人の中にある共有可能な部分を見つけだし、意図的な行動へ促すことである」といきなり言ってしまったりしてしまいます。
ちっとも言うことと実行が一致していませんが文章のデザインは素人ですからご容赦ください。
さて人と他人又は物との間のコミュニケーションが効率良く行われる様調整することがデザイン作業の過程であるということは
●目的に適った情報の量、強度(つながりやすさ=予測性、確実さ、恒常性、規則性、予測が容易な規則性と関心を呼び覚ます刺激=いきなり、予測不可能、意外性)を取り扱うということで
●情報伝達の説明、定義
から始めるべきと思っているのですが、デザインの成立へ早く行きたいので単に項目を挙げたということで今回は省略させてください。
そんな理論のあるなしに関わらづ、われわれは前書きとしてデザインのようなあいまいな概念を語るとき、また論理を組むための前処理、同じ土俵に乗せるための技術として、簡潔に定義でできるか?分かりやすい例で一気に引き込めるかといろいろ頭をめぐらせます。
日常の具体的な場面(どのホッチキスがつかいやすいか?等、同じ目的及び評価基準を誰もがすぐ想像できる)だと前口上はいりません、回りくどく理屈っぽくなってしまうだけでわかるものもわからなくなってしまいます。
あるグループの間で普通に通じる言葉や論理が別のグループでそうはいかないことは言うまでもないでしょう。
論理学や数学はそんな定義の記述や表現が学問の核をなしていると聞いております。
国会討論の中継を見ればそんな場面が意識的に延々と繰り広げられていることはご存知の通りです。
われわれが使う言葉というのはやっかいなものですので冗長な文章をお許しください。
日常に身の回りの間では、あんなに苦もなく伝わる言葉が、ある時は伝えたくないことまで伝わってしまう言葉遣いが、ひとたび仕事先の「わからづや」相手にはどんなに努力しても誤解されて伝わってしまったりするのです。
この辺は男女の機微になるともっとデリケートで昨日伝わった言葉が、今日は別の意味になってしまったりと手に負えません。
おかげで小説家や脚本家はこの不況下でも仕事がなくなることはありません。
はじめから言葉はそんなもんさ!と言ってしまうと困る分野もあるのです。
音楽や絵などそれだけで他人とコミュニケイトできてことばの議論なんかいらないよ!というきっぱりした態度でおれる人はいいのですが、そんな才能と自信のない私は困ってしまいます。
抽象絵画であれば中学校等では、面や線は力や重力(バランス、力動感、等で説明される要素に)色はよく知られている3要素に分解されて説明されたりします。
これは作品の物理的な尺度による分析ではありますが 作品の存在理由を説明するものではありません。
これらの作品が人と会話(情報交換)できるのは作品が前記の要素を駆使して見る人の受信部に共振を呼び、繋がりを確保したうえで、この共有した通信線に不規則な部分(意図的に乱された部分=情報)を埋め込んで共感を得る、他人の考え、感情を共有できることになります。
どうして強い繋がりを確保できたか、という問いには前記の物理的な解析は役に立つようです。
人間の知覚のメカニズムが物理的な原理によっており、その生成の過程は生物学的に裏付けられているのですから、基本的な知覚のしやすさの共通の原理は当然存在するでしょうし、解析可能な部分がかなりあるであろうことは予想できます。
但し、物理的な解析は物理的な部分、叉は物理的な尺度に置き換えて解析できる部分に限られるのは当然のことであろうと思われます。
しかも、そのうちでも解析できるのは通信線としての部分のみであって、作品の存在理由がよっている不規則な部分(情報)の値打ち(汎用性???)の解析にはほとんどなんの手掛かりも持ち得ないのではないかと思いますがいかがなものでしょうか。
更に問題を複雑にする構造が創造されます。
通信線になれるのは物理的な対応がある要素(前記の色「光」の他に、よく知られているものには音「振動」「触覚」「味覚」、少し次元が変わりますが神経「ニューロン、たんぱく質、化学物質の受容体他」)及び記述可能な概念(ことば、数式「論理」)があることが知られています。
でも言葉などは少し意味が違うことにお気づきと思います。
これらは先の振動知覚(音や光)、触覚をとおして二次的につくられる通信線であるということだと思いますがこのことが更に問題を複雑にしてしまいます。
それはこの通信線は、重層的に通信線が形成されるものであることによります。
基本的な(物理的なあるいは生理的な)通信線の上に二次的な通信線更にその上に三次的、と言った具合です。
一度成立するとこの通信線が二次的であるか、どうかなどということは機能的に一切差異が無いないことで、何が通信線の役割をなしているのかはしばしば不明確になってしまいます。
古典的な芸術に関しては作品の評価がある程度確立していること、経験的な積み重ねの蓄積もあって、何が通信線として機能しているかはたいした問題になることは無いようですが、現代美術や前衛芸術、更にファッションの分野では「一番のみどころ、腕の見せどころ」であったりします。
さて今までの話ではデザインと芸術の差についてはふれていません。
その差は伝えるべき情報部分にあって通信線の部分には差はないと考えられるからです。
情報部分について言えばとりあえづ近代的な見方(個人の存在の表現を意図しているかといったこと)が両者の差となっているというのは大雑把には大変分かりやすく感じています。
したがって情報部分を読み取ることができれば何がデザインで、何が芸術か建設的で確かな議論がきっと可能でありましょう。
しかし通信線をとりちがえて伝えるべき情報でなく、偶然紛れ込んだような枝葉の情報を議論の材料にしたり、通信線の読み方を知らなかったりすると全く誤った情報を得て、議論は成立できません。
現在はパソコンを始めとするデジタルな通信機器が身近になったのでシリアル、パラレル、IRDA,等のハードや、様々なプロトコル(通信規則の基本ソフト面)の種類になぞらえての通信線の選択(発見、発明?)の問題は以外と実感しやすいのではないかと思いますがいかがでしょうか。
通信線といっても、現実には何も物理的な対応を想定しているわけではありませんから本当は使いたい表現ではありませんが。
ただ機能としてははっきり通信線と言うのが明快だと思いますが形態としては似てませんね。
一般的には表現手法、表現手段ということになるのでしょうか?
画材や、平面(キャンバス)か立体か(彫刻)、等の区別と混同されてしまいそうですね。
何を媒介として伝えるか?という問いかけに対し、音楽家なら、ピアノでとかバイオリンでとか答える人もいるでしょうし、リズムでとかメロディでとか答える人もいるでしょう。
超絶技巧で圧倒するのが得意な人もいれば、叙情的に語りかけるような歌いあげで(声でという意味にかぎらづ)魅了使用とする人もいます。
いずれの場合も音楽の場合規則的な音の配列から更に規則的に選択し規則的に配列することで通信線を確保し情報を載せて伝達しているわけです。
音痴では(音程や、リズムがコントロールできなければ)音楽の表現は不可能なことはよくわかると思います。
和楽器では音程ではなく音色だという人もいるようですが若干コミュニケーションルールがちがうのでしょう。
もう一度言いますと古典的な音楽は振動の規則性を人に伝え、通信線として時間的な共有状態を確保したうえで、不規則な部分をはめこみ、情報として取り出せるようにした文化であると言えます。
絵画では 具象画の場合、人や景色の存在感等を共有します。
したがってそれを実現する基礎技法ちしてのデッサンが重要な技術になります。
現実の生活の経験と近いかたちの通信線が設定されるのでわかりやすいのですが、生活感の淡い子供や、異文
化の人には伝わらないこともあります。
抽象画では色や線、形、大きさ等のもつ力動やバランスが人の体が持つ、叉は視覚が持つ力動やバランスを呼び起こし共有されます。
これらは具象画に比べて多彩で、年齢や、経験に左右される部分が少なく直感的ですが、間違った通信線を選ばれてしまうこともあります。
以上通信線の表現を用いたのは
●原則、人と人がコミュニケーションするためには共通に自分の中に持っている部分が必要である。
共通なものを比較し違うところを見つけることではじめて情報が伝えられる。
したがって通信線が確保されなければ情報は届かない。
「デザインが成立しない」ということで
単純に言うと「音痴の歌う曲は聴けない!」ということです。
勿論われわれが問題にしている対象は古典音楽ではありませんので、実際は音楽に適用される言葉で誤解無く包括的に表現できるわけではありませんが、現在私は(少なくとも私の知っている語意での表現では)現状を明快に表現するには一番適当な言い方であろうと感じています。
音楽家が作品を作るときにそれを説明する言葉が必要ではないように、本質的には造園家が(こんな言葉をつかうのは唐突かも知れませんが)作品をつくるのには言葉は必要では無いと思います。
そうはいっても現実の商品としての音楽CDがヒットするためには狭義の音楽家以外のたくさんのスタッフが必要であること以上に、現実の公園なり庭園なりが世の中に現れるためには多くの人、組織を必要としています。
ここらへんは仕事でこの方面に関係されている方(ランドスケープとか緑地とかの用語を使っておられる人々)は私共以上に詳しく、実際の豊富な経験をお持ちのことと思います。
他の分野の人や、組織が必要である以上、何らかの説明する用語も必要になるわけで、私がここで「通信線」という誤解を呼ぶような表現をとりあげた理由でもあります。
「デザインの成立」についての文章はこれで今回はおしまいですが
「あなたの言っている通信線とはこの分野では何かを言ってくれれば話はすぐわかる!」という声が聞こえてきそうです。
大変もっともで話のつじつまから言えば始めに言っておけば、きっと長々と書く必要は無かったのです。
しかし、通信路が何か記述するということは創作の技術の中心的な部分ですので大変デリケートな部分?も含んでいるのです。
でも、ここまで話を進めた責任上 思い付く項目ぐらいはとりあえづ挙げておきます。
造園における通信線の例
○重力(人が生まれたときよりいつも受けている力の感触)
○進もうとする方向、視線(展開への期待、意図を妨げる力への不安、それを通そうとする緊張)
○人との距離(他人の存在から自分の領域保護への執念とそのことによる自分自身の抑圧)
○様式、演技、見立て(時間をかけてその文化圏で広く浸透した共有行動)
●念のための参考1=「楽器」としての壁、入り口、自然、緑、花、石、、、
●念のための参考2=「テクニック」としての壁、入り口、滝、拡がり、、、、
ここで今までのあらっぽい話の進め方が急に怪しくなったのはそれなりの理由があります。
過去のこの分野での議論で用語自身は違っても、このような内容の記述が少なかった理由でもあったと思います。
これは、始めに挙げた通信線の重層的な形成故の見えにくさに加え、通信線を操作する当事者が、学者や、政策立案者、公園管理者ではなく創作を仕事としているもののであることに、由来しています。
この理由の一つは(体験的には画家でも音楽家でも、詩人でも、あるいは陶芸家でもそうだと思うのですが、)造園家が創作の際は自分自身を鼓舞し集中力を高めるため、他人の作品をわけもなく?けなします。
(口に出すという意味ではないですけれど)つまり客観的にこの人の使う通信路が何で、、という評価分析の態度ではなく、まづ否定しまくり、否定できないもので見えてくるものは自分の作品にも取り入れる(どうしても否定できなければ仕方がないから仕方なしに)といったかなり社会的にはアブノーマルな心理過程を自分の中に作ったりしますのでとても他人が見て納得できるような記述ができそうもありません。
もちろん、創作家が人間として困った人達だといっているのではありません(あくまでも創作作業の過程での頭の中の活動の様子です)し、私のことを困った創作家だと思われても理由が創作作業の結果というわけでもありません。たまたま困った人だったというだけですね。
又別の理由は創作が本業であると生活の糧の企業秘密をばらしてしまうことで、他の創作家に仕事をとられてしまうのではないかという危惧もあるかもしれません。
(もっとも造園関係ではそんな心配しなければならないほど人が関心を持つ、もうかる分野ではないといううわさですが!)
ですから批評家のような方がいて、その批評に対し、私たちがふん、あんなこと言ってる。とかあれ、意外ときびしいこと言うけど、ほんとにわかって言っているのかななんて言えるんだったら大変創作活動が活性化して、たくさんの人に共有してもらえるような技法や、言葉が豊になり、通信路などといったあざとい用語を使わなくてもいい時代になるかなあとも思います。
あと今までは一番現実的な理由だったのですが、創作している本人には文章を書く時間がない。
ということでしたが、しかしこの点では世の中は急速に変わりつつあります。
あるいはすでに変わってしまいました。
最近の景気状況から創作家という言葉は消えてしまいそうですので、先程のデリケートな問題は全て解決してしまいそうです。