はてビオトープ?

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ビオトープのことを聞いたけれど

ビオトープのことを10年以上前だったと思いますが最初に「ANTHORS」で読んだときはそうだよねー、ドイツではそんな努力をしているんだと素直に感心したた記憶があります。
日本ではトンボ池が注目されて、へえボランティアでここまでやれるんだ、すごいと思って見に行くとビオトープですと説明されてえっとその言葉、どこかで聞いたようなと思いました。
子供会をひきつれての里山で枝落としの後、次は池を掘ってビオトープだねという声をききました。
えっ生き物がいる場を新しく作るの?生き物なら困るくらいいっぱいいるじゃない。
ハイキングでキノコ狩りや、クワガタ探検したじゃない。
ザリガニとりは自分たちでやっていたじゃない、バードサンクチュアリじゃないよね。
役所へ行くと「ビオトープ」を作るため「蒲の密生した単純な護岸」を改修して丸太を打ち込み多様な植物を植え込んだ浅瀬を作っている調整池を紹介されました。
農村問題のセミナーへ行ったら今までの水田の圃場整備はビオトープの減少を招いたので今後ビオトープ的な場所を確保、創出したり...等の対策が必要だと講師はおっしゃいました。
ビオトープ.ビオトープ.ビオトープ.....えっいったい何がおこっているのだろう。


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自然の生き物の成育環境を再現する場所?

自然の生き物の成育環境を再現する場所?、水辺の生き物が生息する場所?、自然の生き物の生息環境を学ぶ場所?、自然の生き物の成育環境を残し保護する場所?自然の生き物が生活するのに必要な広さのある場所?
1、再現するのがビオトープなら自然の生き物がほとんどいない場所につくるんだな。

2、水辺の生き物は、生き物の環境を学ぶのには観察しやすく分かりやすいという意味だとするとで、住宅に近い公園や緑地又は学校につくるといいのか。

3、生き物の成育環境を保護するのが目的なら従来の自然保護区と同じだろうか、もっとありふれた生き物も保護しようということなのだろうか。

4、生きものに必要な広さだとイヌワシとトノサマガエルでは比較にならないぞ。

ビオトープとはなんでしょう、最近の使われかたを見ていると私はよくわからなくなってしまいましたので、調べてみました、大体以下のような具合でよろしいでしょうか。
  ■言葉の成り立ちとしては、生き物を意味するBioと、場所を意味するTopeという言葉から成り立っているドイツ語で野生生物の生息の場所(ビオトープ)で「多様な生物との共生の空間」

■生態学上の用語としては、自然の状態で多様な動植物が生息する環境の最小単位」で、地球上の生態系(エコシステム)を保続して行く上の構成単位でもある。

■概念の成り立ちは地理的区分の最小単位を追求する過程に生まれたもので、最初は地形・地質的な 内容を主としたもの「ジオトープ」が考えられていましたが、次第に地形・地質の条件をも反映する要素 として、その上に生じた生物群集が着目されるようになりました。

■時事用語としては、日本ビオトープ協会 情報センターを引用させていただきますと 「最近になりビオトープの概念が特に重要視されるようになった理由としては、環境変化に対して生物群集が地形・地質的要因と比較してはるかに影響を受け易い事、人間生活との関わりがより直接的である事、などが考えられます。
ビオトープはこの様に本来は普遍的な単位であり、広大な自然地域の区分にも用いられますが、環境保 全の立場からは、特に人間によって広汎に改変された地域(市街地・農耕地)に斑点状に残存する自然地 域に適用される場合が多く、これらを「狭義のビオトープ」として捉える事が出来ます」とあります。
つまり多様な要素が複雑にからみあった自然環境について話すのに、目に見える結果としての生き物が分かりやすくてっとりばやいということのようです。
やっぱり広い意味と狭い意味とあるようにも書いてあるようにぼんやりしたところもあるが従来の自然ではなく人と共存する身近な場での自然を扱うための概念ということは確かなようです。

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ビオトープ以外の言葉に替えてみると

ここで同じ内容をビオトープ以外の言葉に替えてみましょう。
自然の保護、環境の保全のためにいわれてきたこと
(A)地球全体の多様な生き物と共存できる環境の保護を現実化するのは難しいが、まづ身近な自然に関心をもち、人以外の生き物と共存する努力をすることに親しむことからはじめよう。

(B)自然環境の保護のためには最下層から最上層までの一つの完結した生態系の存続を可能にする拡がりを認識せねばならない。その拡がりの中の部分として人の生活と共存する自然とつきあおう。

ということはドイツでの多様な生き物との共生の場の再生という自然とのつきあいかたの現実的な形として「ビオトープ」がうまくあてはまったというのが現実でしょうか。
具体的にトンボやアオガエルを話題にするのでとても直感的にわかりやすいものだできそうでいかにも楽しそうですね。
でもその親しみやすさのかげで、簡単には共生の難しいし生き物がたくさんあること、共生が楽しい面ばかりではないことが忘れられてしまう心配もでてきます。
以前よりよく知られているとおり、自然との共生、環境の保護は総論賛成、各論実行不能の歴史でした。
この難しさの中で「楽しいビオトープづくり」は実行可能なな「公共事業」になるかもしれないというのは意地悪すぎるかもしれませんが。
でも以前の考え方でも充分なのに新しい言葉をつかうのは使う側の意図があるのでしょう。
人と共存してきた生き物が豊かな自然が、都市のそばに広がっているのが今までは当たり前と思って暮らしていました。
そして今その豊かな自然との共存が危うくなってきた、まさにこの時期に既に自然との共生が遠い昔に途絶えたドイツの概念を持ち込むのは、自然との共存をなしくずしに既になくなったものとして、難しい対立する問題を無視してしまう世論をつくろうとしているのではないかと不安も感じます。
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人と自然のその力関係は、そのまま文化の差をつくる


農業はもともと自然の生き物との間にに競争をもちこむことで始まったと思います。
ところが人と自然のその力関係は雨と日照量で地域により大きな差が生まれ、そのまま文化ごとの差をつくる力の一つともなっています。
自然の強さに応じ好むと好まざるに関らず、農業を続けようとすれば、自然と共生せねばならない部分がでてきますが、そのあらわれかたは景観にもはっきりあらわれます。
その結果、いわれ続けてきた表現ですが自然への対決と同化といった分け方も生まれました。
勿論工業化を経て、高密度な都市居住があたりまえになっている現代の生活ではそんな2分したような表現では自然環境問題に効率的に対応することはできませんが、農業を含めた自然環境の現実に差がなくなってしまったわけでもないと思います。
西洋(U.S.Aも含み、イギリス、ドイツ等が典型的ですが)では生活の場で目に映る自然は明らかにみすぼらしく、人に虐げられた姿であるのが大部分で普通なのです。
でも旅行で美しいヨーロッパを御覧になってそんなはづはない!きれいな自然だったよ!とおっしゃるかもしれない。
そう確かにきれいな風景です。でもそれはたいていの場合「自然」とは遠いところにある人の手による緑地なのです。
「きれいな」と感じるのは人により、勿論日本の風景では得にくいシンプルな要素によるのびやかな景観のせいもあるでしょうが、自然自身が制御されたことによる「整頓された」「整理された結果見やすくなった」認識しやすさによるところもあるかと思います。
ヨーロッパでは普通、自然のままとは荒れ果てた岩山がまっ先に想像されるような風景です。
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日本では緑といえば自然が当たり前

日本では緑といえば自然がまっさきに連想されて当たり前と思っています。
西洋の人が思い浮かべるアジアの農業風景もまったくそのとおりです。
特に日本も含めてアジアの農業は西洋文化の眼には自然との共生のシンボルのように考えられています。
でも緑の景観が自然をそのまま意味するわけではないドイツでは、そんな緑の中に自然を育てようとビオトープをつくりました。
言葉としての一般の使われ方を、我々がどうこういうことはできませんが、環境の創造に関る、もしくはそれにかかわることで日々の糧を得ている者は、その言葉の行方を気にすることは、自身の技術にとって無視できないのではないかと思います。
日本はまだ豊かな自然との共生による農業が生きています。
確かに年々難しくなってきてはいますが日本全国ではまだ豊かな自然が残っています。
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今必要なのは、農業を生かした自然との共生

今必要なのは、自然がなくなってしまった国からの手法ではなく、永く自然との共生のなかで分化を育んできた経験を生かした自然との共生ではないかと思います。
その手法は食糧問題、農村生活問題と含めた農業経営に基盤をおいたものでなければなければならないと思います。


日本に住んでいれば美しい田園を誰もが思い浮かべると思います、その生活の中での自然風景(風物)の重要さはドイツの自然保護でいう物理的な環境保全のもつ重要性とは比べ物になりません。
どちらの景観が優れているかとか、どちらの評価が正しいのかという問題ではなく、歴史的な(言うまでもなく過去が人や文化を作ってきたのです)連続性の中で否応無しに文化の中で重要性が決められているのです。
自然との共存、他の生き物とに共生、環境の保護は見映えのよさや、目先の楽しさだけに目を奪われて文化の基盤となる自然を見失っては環境に関るデザイナーとしていい仕事を残せないのではないかと覆います。
身近な生き物で子供たちが喜ぶ姿は誰の目にもはっきり見えるのでとりあえづ生き物が見つかる水辺をつくっておけば自然保護や環境に配慮した姿勢に見えますが、それだけではデザイン作業に必要な情報(社会を動かす力の情報)としては足らないと思います。
確かに聞きふるされてインパクトの無くなった「みどり」「グリーン」より学問的なひびきも魅力的なひびきです。
でも耳当たりのいい言葉は、言葉を使う専門家「?」の都合のいい解釈、あるいは違いを無視しての非論理性その違いの重要性に気がつかない普通の市民「?」に対する世論操作への利用も過去にはありがちなことでした。
公共によるビオトープつくりは工事金額がダムや干拓に比べ問題にならない程小さいから、それもいいじゃないかといわれるかもしれませんがもっと大事な農業問題から目をそらされるのに使われてはたまりません。
実際、民間でやられている多くのビオトープははすばらしい活動です。
里山や廃田でのボランティア活動は、子供たちが自然と親しみ学ぶことで自然への新たな共存の知恵もうまれるのではないかと思います、そんな素晴しい活動が市民に根付き豊かな成果を挙げるためにも都市環境、経済も含めた将来への基盤としての農業問題への正面からの取組が必要と思います。

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自然の定義について追加


風景の言葉の使い方が乱暴でよくわからないという御意見がありました。
確かにそのとおりでした、肝心な言葉が身勝手では困りますね。
ここでは環境を見るときの「自然」の言葉を次の様に使っています。
「自然」を自然の力が支配的に見える、このままでは人の意思によらない生き物が更に増えていくだろうと見る人に思わせる風景。
「自然ではない」を人の力が支配的に見える、人が支えていないと現在より貧しい生き物しか見えなくなる風景。
生態学でも農学でもない使い方ですが、風景として環境の中での自然を取り扱うときには比較的無理の無い様に思っているのですがどうでしょう。
(株)山崎農業研究所の中川昭一郎さんが ほ場整備における生態系への配慮「農村と環境-No.16(2000.4)」で二次的自然に追加して三次的自然の概念を提案しておられます。
農業経営からの提案として大変貴重な意見ですが更に積極的に都市経済の基盤としての環境(農村経営、農村風景)を考えたいというのが本音です。
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