北上川水系紀行■1回■
七時雨山は岩手県北部の西根町と安代町にまたがる標高1060メートルの山で、周囲には田代平高原を北に挟み田代山、毛無森、西岳と1000メートル級の山並みが東に尾根づたいに続く。その山麓からこんこんと湧き出た水は馬淵川の水源となって、北へ或は東へ幾筋もの流れを作りだしている。また南流するせせらぎは北上川の源流であり、両河川とも流れはじめて程なく大河の様相を見せる。馬淵川の源泉はこの地点からさらに遡り葛巻町の袖山に端を発する。その流れは葛巻町、一戸町、二戸市と北へ下った後八戸市で海へと注ぐ。距離にしておよそ142キロメートルの道のりである。
ふたつの大河が南北に分岐するこの地帯は異常に亀ヶ岡文化の色合が濃い。二戸市の雨滝遺跡、一戸町の蒔前遺跡、岩手町の豊岡遺跡など晩期の主だった遺跡からは多量の土器が出土しており、優れた土器が多いことから、亀ヶ岡文化の中心地と考える向きがある。
馬淵川の「マベチ」はアイヌ語で「入り江の港の川」を意味する。流域が古くから水運、水産と係わり水路が開けていたことが語源からも窺える。
この地帯に亀ヶ岡文化が栄えた理由はいったい何だったのだろう。
北上川と馬淵川は縄文ルートとして密接な繋がりを持ち、両河川からの異種文化の流入が大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。

うっすらと雨に濡れた自動車道をひたすら北へ走り一戸インターで降りると、馬淵川はすぐ真下を流れていた。自動車道が高い所にあるせいか底にへばり付くように流れている。川に沿って走る国道4号線を以前訪れた御所野遺跡とは反対に北へ雨滝遺跡へと向かった。もうすでに馬淵川の川幅は広く水量も豊富にとうとうと流れを見せている。
地名で気になる「戸」の付く町は、南部氏がこの地に赴任した際に、この地方を東西南北に分け一戸から九戸までの町名を付けたことにはじまるという。現在、岩手県側の馬淵川流域に一戸、二戸、九戸青森県側に三戸、五戸、六戸、七戸、八戸の町名が残る。
二戸市に入ると頭上に男神岩、女神岩が姿を現す。
山肌を削りだして造作したかのような突起した岩で、車からの視界には突然現れて一瞬のうちに過ぎ去ってしまうのだが、真じかにそそり立つ岩には目を奪うものがある。シンボル的な存在でおそらく万人の心を留めたに違いない。雨滝遺跡のある二戸市は馬淵川に沿って発展した町で国道からは川を挟んで町並みが長く続くのが見える。川岸に張り出した丘陵上にはかつて九戸氏の居城であった九戸城跡があり堀や石垣が残る。
南部氏の家督争いに端を発した南部信直と九戸政実の戦いは戦国時代最後の戦いと言われ、1591年豊臣軍の加担で戦況は一転する。九戸軍は篭城の末、婦女子の助命を条件に降伏に応じるが、条件は果たされず一族の命は絶たれたと伝えられる。悲劇の舞台となった城は公園として整備され市民の憩いの場となっている。 ******************

金田一温泉を通り抜け青森県境へ差し掛かると川沿いの家並みは姿を消し川岸に山陵が迫る。舌崎という地名を捜しあぐねているうちにあっと言う間に青森県側に出てしまった。引き返すこと道路沿いに建てられた石碑が幸いしてどうにか雨滝遺跡を探すことが出来た。
遺跡は舌崎という地名のように川岸に延びた舌状台地にあり馬淵川右岸と接している。広く畑と果樹園になっていて道路沿いに民家が並ぶほか畑の所々にも民家が見える。1953年に行った明治大学の調査で、芹沢長介氏により「雨滝式」が提唱され注目を呼んだ。また亀ヶ岡土器が大量に出土することでも知られている。遺跡を訪れてみると想像以上に川と接近した低地であることに気がつく。

川岸を居所条件として重要視したことは、水の確保はもとより、莉内遺跡に見られるような漁労を行う上での立地条件が満たされていたことにあったようにおもう。
しかも運搬や移動の手段として河川を利用したことは十分に考えられ、河川を軸とした生活様式の確立が亀ヶ岡文化の発達を促したと言えよう。
周囲には現在も深い森が残り、様々な食料資源を満たしている。狩猟、採取そして漁獲によって得た産物は馬淵川の水運を利用して広範囲な交易に結びついていったのだろう。馬淵川を移動する縄文文化の流れがうっすらと見えて来たような気がした。
リンゴの花が咲きほころんだ雨滝遺跡の風景は本当にふるさとの情景を感じるものであった。
来た道を今度は二戸市の市街地を通り抜け、馬淵川の支流である安比川を西へ浄法寺町へと向かった。
昼に差し掛かったところで瀬戸内寂聴住職で話題となった天台寺に立ち寄った。この後、クマの土製品が出土した浄法寺町の上杉沢遺跡を訪れる予定だったが、ちょうど明日が天台寺の春の縁日と知り。気を引かれるまま訪れることにした。
それにしても参拝する人の多いのには驚いた。寺の復興では様々な問題を抱えて苦労したと聞くが、寺を人々に開放したいという住職の願いが報われているような気がした。山林を切り開いて長く続く石段を上りきると仁王門から境内を覗き見ることが出来た。残念なことに今年は春の訪れが早く、桜の木はすっかり色彩をなくしていた。それでも威容をほこる仁王像を繁々と眺めしばし心が清らかになったような気がした。

浄法寺町を横断する安比川は南に位置する七時雨山と北部の稲庭岳からの流水を集めて東へ流れる。この北からの流れに多々良沢川がありその上流に上杉沢遺跡がある。現在農業施設の建設にともなって平成8年から3年間の調査が行われており、これまでに竪穴住居跡や配石遺構などが検出されている。発掘された遺物には弥生前葉のクマをかたどった土製品2点と猿をかたどった土製品1点が見つかっているほか、弥生期の遠賀川式壷形土器も出土しており縄文晩期から弥生時代移行期の遺跡として注目されている。
上杉沢の集落を目指して多々良沢川をどこまでも遡っていくうちにかなり奥地に入りこんだような気がして多少不安がかすめた。道路脇で農作業をしている方に道を訪ねてみると真っすぐ行けばわかるとのことだ。全国的に報道された縄文の集落はひっそりとしていて長閑な風景を見せていた。静粛な村に遠慮しながら路上から見える上杉沢遺跡の台地を写真に納めた。
クマの土製品が作られたということは、おそらくこの地でクマを捕獲したのだろう。落とし穴による捕獲方法は、昨年報告された栃木県登谷遺跡の200基にもおよぶ落とし穴群の発見例でも頷ける。けものみちに意図的に配置されてあったというが、はたしてこのクマはどのようにして捕獲されたのだろう。クマの特徴をよく現した土製品は、全長約16センチ、高さ約8センチ立てると安定感があり朱が残っていることから信仰に用いたものとおもわれ、北海道のクマ信仰との関係を指摘する向きもある。

戻る途中道端でみごとなフキを見かけた。道端も菜園になってしまうのだから便利である。
写真を撮っていると、耕運機に乗った農家の人が何か珍しげに私を見ていた。はたしてどちらが珍しかったのだろうか。
馬淵川に引き返して一戸町の蒔前遺跡を探していた。日はもう傾きはじめている。帰路に付かなければいけない時刻だが、大幅に予定がくるってしまった。せめて北上川の上流にたどり着きたかった。宿泊先の北上市までにはだいぶ距離がある。早く温泉に浸かりたいと思う気持ちが探求心を気薄にしていった。
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