監督:成瀬巳喜男/原作:幸田文/ 出演:田中絹代、山田五十鈴、高峯秀子、岡田茉莉子、 杉村春子、栗島すみ子、中北千枝子 /1956年作品 まず最初に思ったこと。 な、なんて、豪華な贅沢な、わくわくするキャスティングでしょう!!! 原作を読んでないので、時代背景がハッキリわからないのですが、 多分終戦後かなって気がします。 いわゆる芸者屋さん、それも、ちょっとさびれ気味の芸者屋さんを舞台に 花柳界をリアルに丁寧にあふれる眼線で描いた秀作です。 や、っぱり成瀬さんはすっごい監督と思ったし、いったい誰が主人公だろう??と 思うほど、だれもが皆、そこで息づき、一生懸命で、存在感にあふれ、 観客の女性なら誰もが、この中の誰かを主人公におのれと重ね合わせて 観られるんじゃないかと思えました。 こんな風に、どんな女性も活かしてくれる作品って胸が熱くわくわく楽しめます。 特に、栗島すみ子さん、うまいなぁ.....。 ほんとは、名前もわからなくて、後で、映画狂の夫に調べてもらって、わかったのですが、 役柄としても芸者屋の女将である山田五十鈴の、いわゆる花柳界の、上司いうか、 「ねえさん」なのですが、ホントに自然な、したたかな、「ねえさん」で、 着飾らない、でも清濁を併せ飲んできた貫禄がありました。 いるんですよね。いまでも、京都の古い街の中に..。 それがリアルで、ぜんぜん40年以上も前の作品なのに、 人物がちっとも色あせて感じない。 女が女であることを武器に、見せかけ最大に洗練された社会だからこそ、 そのしたたかな生命力、小賢しさ、そしてせつなさがあらわしやすい面はあると思うけど、 今を生きるわたしたちの、ともすると曖昧になりそうな人生に比べ、 自分の手で生きることの極限がよくわかり、それぞれの人がいとおしい。 この芸者屋にお手伝い役として田中絹代が飛び込んでくるのですが、 いわゆるくずれてない、 穏やかな、よく気のつく、出しゃばらない人で、 「えっ、こんなお手伝いさんホントにいるの?」って存在がひっかかるのですが、 この慈母のようにみえる田中絹代に誰もが気を許し、甘えていくのです。 最後、田中は、落ちぶれきった事にまだ気づいていない女将たちを残し、 花柳界から去っていくのですが、 お別れ前、おまんじゅうを買ってきて 「これはわたしの奢りよ」って暗示をかけて去るところが、 誰よりも強いしたたかさかもしれないです。 心底お互いの気持ちを預けあえない競争社会だから、そして、 自分で自分は大丈夫と本人(女将)が思うほど、したたかさの奥は深くないので、 だまされたり失敗もし、 でも、お手伝いの田中絹代を信用しちゃうところがおもしろいし、 いかにも人間ってところなんでしょう。 若い芸者の岡田茉莉子の美貌と向こうっ気の強さとエネルギッシュさ、 そして杉村春子のいまいちうだつの上がらない三味線芸者だが、 にくめない、飾らないしたたかさのある女、女将の山田五十鈴の娘に産まれながら、 母のような美貌に恵まれず、芸者屋を嫌い、 とりあえずミシン踏みの仕事を始める娘の高峯秀子、女将の友だちで男に棄てられ、 芸者にもなれず、小さい娘にお稽古事を習わせながら、 居候を続けている中北千枝子....。 それぞれの人生は平等でも平和でも安泰でもないかもしれないけど、 あれもこれもやっぱり女の人生って思える、生命力を感じた映画でした。 ☆ 5/30ビデオ鑑賞
出演:ウィレム・デフォー/ミランダ・リチャードソン/ローズマリー・ハリス/ ’94年イギリス/ とっても悲しい物語だけど、古き時代の女性の崇高な精神をあらわす、 心が澄む感じがする映画です。 「アデルの恋の物語」(’75/仏作品)や 「私が愛した男と女 ヘンリー&ジューン」(’90/米作品)に 通じるものがある。 自分の心の内を大事にし、あるいは、大切に育てられた才気ある女性が陥りやすい、 一途な精神世界なのかもしれません。 それにしても、アデルは文豪ヴィクトル・ユゴーの娘で、 アナイス・ニンは作家。ヘンリー・ミラーとの付き合い、 そしてビビアンはノーベル賞詩人・トーマス・S・エリオットの最初の妻って立場なんだ。 1914年頃、イギリスオックスフォードで物静かな文学青年トムと、 才気あふれ闊達な金持ちの娘ビビが出会い、恋をして結婚する。 お互いを求める気持ちは強かったけど、求め方がひずんでしまった。 互いの深層心理の闇をオブラートにくるんだまま結婚生活を続けるうち、 だんだん詩集も認められ忙しくなる詩人の手に負えないところまで、 病んでしまうビビアン。 「あなたの詩作を助けたい」 「私の詩にはずっと君がいる」という二人の気持ちも、 性を受け入れられない極度のホルモン不調のビビアンの体と心を前に、 だんだん溝が深まっていく。 トムのためにって気持ちも、校正等は秘書でまかなえたりで、 だんだん独占できない気持ちが膨れて、 空回りし始める。 崇高とも思えるトムの「詩は感情を表現するのではなく、感情からの逃避。 苦しまなければ得られないもの」も、ビビアンの奇怪な行動 (忙しいトムの事務所に入れてもらえないビビが腹いせに玄関ドアの郵便ポストから 手作りどろどろチョコを流し入れたり...)や 激しい感情の起伏を前に「人生は塗り替えられるものではない」と苦しんだ分、 気持ちが急速に遠ざかっていってしまう。 そして、求めあったのにどんどん孤独になっていく苦しみから プロテスタントの世界に踏み込み、洗礼を受ける。 それを嘆き悲しむビビは「臆病者ほど聖人になりたがる」と罵倒し すがる。 その悲しみはもうまるでトムの胸には響かなくなってしまう切なさ。 立ち止まり暗い穴でもがき攻撃的になる女と社会的ステータスも上がり、 前へ進む男との距離はものがなしい。 とうとう精神病院へ収容されることになったビビは云う 「私を引き渡すのね...楽しいときもあったでしょ、トム」 それから数年。閉経と共にホルモン異常は終わり、穏やかなビビとなった後も、 収容病院に残り、トムを思って時間を過ごす。 そんなビビをトムはただの一度も見舞わなかった。
監督:ヘクトールバベンコ/原作・脚本:ウィリアム・ケネディ/
監督&脚本:ジョージ・ルーカス/出演:リーアム・ニーソン/ユアン・マクレガー /ナタリー・ポートマン/ジェイク・ロイド/ペルニラ・アウグスト/ ('99.7.25映画館にて) 子どもに引っ張られるような感じで行ったのですが、観ていて結構楽しかったです。 いかに大勢のスタッフが、それぞれの夢を膨らませて、緻密に参加していたかが、 わかる気がする。 大画面で、前の方で、吸いついて楽しむ映画ですね。(笑) それにしてもテクノロジーの進化はすごい!! 出演していた人も試写会みるまでどういう雰囲気かハッキリわかんなかったのでは? ゲームにはまる人の気持ちがちょっぴりわかったような....(笑) たまにはこういう映画を観るのも、わくわくします。 衣装とか構成で、結構日本っぽい場面もありますよ。 子どもの「アナキン・スカイウォーカー」のお母さん役の女優さんが なんか、違和感を感じるほど(なんでこんな映画にでているの?)シリアスな感じで、 どっかで観たことある人?って気がしてたのですが、 あとで、娘にパンフレット見せてもらったら、 スウェーデンの女優さんで、 例の92年のカンヌ映画祭の「愛の風景」で主演女優賞を受けている 「ベルニラ・アウグスト」っていう人でした。 ジョージ・ルーカスは「アナキン」がいかにして、暗黒街の帝王になったか!を どうしても描きたいのですね! 次作のアナキン役はディカプリオとか。 |