奇跡の海 

監督:ラース・フォン・トリアー/
出演:エミリー・ワトソン、ステラン・スカルスゲールド、カトリン・カートリッジ
/’96 デンマーク
<去年映画館で上映されたようです。レンタルビデオで鑑賞>

 1970年代のスコットランドの、とある田舎町は、
キリスト教戒律の厳しいカルヴィン教会が
村の人々を仕切っているような所です。
そこで育ったある若い女=ベスは純粋・無垢で過敏...
そんな彼女が流れ者のヤンと出会い、愛と性に目覚め、何も隠すことなく、
自分の気持ちと心の内なる神との対話に忠実に、愛の為だけに疾走するお話です。

 プロローグと幾つかの章、そしてエピローグと、区切りを入れて物語は進みます。
 プロローグでのベスと教会の老人たちとのやりとり―
ヤンとの結婚を認めて欲しいというベスに老人は
「よそ者がもたらした価値あるものは何か」と。
幸せいっぱいの表情でベスは応える「音楽」と。 
観ていて「音楽」の奥にあるものは何だろう??と思わされる。

 結婚・出会い・生活...等の章の区切り、
そのたびにスコットランドの風景画(写真かも)が表示され、
その時だけ、70年代のエルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイ等の歌や曲が流れる。
(いろいろはやった曲が流れてるらしく、よく知ってる人はそれだけで、
もっとわかるものがあるかも)
 本能のまま一途にしか生きられないベスとの生活で、
ただの退屈なヤンが愛の喜びを教えられ少しずつ、豊かさを内面に育てていく。
村の若者たちと油田発掘の現場へ泊まり込みで行くときも、
輸送のヘリにしがみついて止めてしまうほど、
ベスの気持ちは一途でみさかいなく、離れがたい。
でもヤンは村の人たちに認めてもらうためにも、油田に向けて出発し、
毎日決まった時間に、一本道の途中の
公衆電話ボックスで待つベスに電話をかける。
 そんなある日、油田での事故でヤンは頭を強打し、全身麻痺となってしまう。
 
 ヤンを救うため、ヤンにもう一度生きる意欲を持たせようと、
ベスはいつしか“自己犠牲”という深い穴にどこまでもはまっていく....
“麻痺になった自分の代わりに他の男と寝て、それを自分に話して欲しい。
そうすることで自分は想い出と生きられる”とヤンにたのまれ、
娼婦のような行動をとり、村人からつまはじきされ、
ただ一人の理解者で、彼女を包み込んでくれていた亡き兄の妻からもなじられる。
 それでもベスは“ヤンを救うには、生きる意欲を持たせるにはどうすれば一番いいか”
そのことだけを(心の中の神と対話しながら)追い求めて疾走する。
ヤンが危篤状態になったとき、ベスはどうすればいいか納得し走り出す。
 自分の命をなげうつ決意でならず者の乗る船にむかう...

 ベスは死にヤンは回復する。
そして義姉も担当医もベスの無垢の愛を受け入れることができるようになる。
 医者は法廷での証言で、
ベスのとった行動は精神障害によるものではなく、「善意」によるもの、
「善意」がもたらした結果と、正しく記して欲しいとはっきりいう。

 ベスは上手く立ち回ったり、いわゆるバランス感覚はないけれど、
自分の本能に忠実な分、
みんなが見失いがちな、自分の心の底の“清水”をつかむことができたような気がする。
彼女は本能の叫びで教会と対峙した。
女の教会内での発言が禁止されてるところで、ついに
「言葉を愛することはできない」と叫び、閉め出されてしまう。
この映画は宗教とか信仰心が解らないと理解できない部分が残るかもしれないけど、
それでも、特に信仰心を持ち合わせてない私でも、心をふるわせる感動がありました。
 このベス役の女優さん、次作が楽しみな人です。

 私はこの映画を観ながら、スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督の作品を
思い出しました。
幾つかの章に分けて進める脚本というか映像の進め方が似ていたからです。
わたしは映画通とは全く違いますが、十数年前、スウェーデンのこの監督の
「ある結婚の風景」という作品を見て、こんなすごい映画があるんだ!!と、
そののすばらしさに惹かれました。
ヨーロッパ、北欧の歴史とか自然やその国の
会話が肌にせまってくる、そんなものを感じるのも一つの楽しみ方です。

 ビヨンド・サイレンス 
 
監督:カロリーヌ・リンク/
 
出演:タティアーナ・トゥリープ、シルビー・テステュー、
ハウィー・シーゴ、エマニュエル・ラボリ、シビラ・キャノニカ/ '96.ドイツ
/'97ドイツ・アカデミー賞最優秀長編作品賞

 ドイツのある田舎町で、
ろうあ者の両親のもとに生まれた耳の聞こえる少女・ララの、
8歳時と、十年後の18歳時の家族の強い絆と、それゆえの葛藤をへて、
クラリネット奏者を目指して成長していくお話でしたが、見終わったとき、
とても満足感と軽やかな余韻の残る映画でした。

 映画の始まりの部分ー
まわりに雑木の残る凍った湖で2人だけでスケートを楽しむ、
叔母のクラリッサと8歳のララの笑顔。
そしてララ親子の住む家ー大きな窓から見える稲光と雷の音。
怖くて両親のベットに入るララ。朝のダイニングの窓から見える素朴な緑の木々。
祖母からの電話に出るララ。
あるいは、銀行へ行く母の通訳のため中途で学校を抜け出すララ............
そこには親子の
凝縮された関係以外のものはない。
そんな中、クリスマスで集まった祖父の家で、
クラリネット奏者である叔母のクラリッサから小さいとき使っていたクラリネットをプレゼントされ、
無意識下で、普段の音のない生活の息苦しさの出口を見つける......

 脚本も役者の演技も繊細で、嘘も無理も感じず、
扱うテーマが重くなりがちにも係わらず、華やかさや輝きのある作品です。
それはこの女性監督の役者の選び方のこだわりに寄るところが大きいと思います。

 父親役のハウィー・シーゴ(アメリカ)、
母親役のエマニュエル・ラボリ(フランス)はともに「ろう者」で、
プロ俳優として活躍してる人です。
でも、手話は世界共通ではないため、新たにドイツ手話を学びながら撮影したそうです。
私は、ラボリの表情、しぐさの一つ一つから深い母親の愛を教えられ、
何度も涙が出てしまいました。演技してるという作為は全く感じなかったのです。

 ろうの両親の耳代わりとして大人びてしまう部分と
幼さの微妙なバランスを持つ8歳役の少女は、
何百人のオーディションをし、大人びた面(表情)を持った(出せる)子を探し出したようです。
とってもキュートで、子供版ヨーロッパ雌猫みたいな、観る者を翻弄するかわいさがでてましたね。
手話も上手にあやつっていました。
子供は生まれてくる性別も親も場所も貧富も美醜もどんな子に生まれるかも選べない、
という事実の切なさ、重さを、
この子の笑顔でさりげなく、観る者の胸をグッと押す、心にくい演出です。

 また、両親、祖父母、叔母夫婦、以外のふれあいとして、
ボーイフレンドのトムが登場しますが、出会い方がとてもさりげなく設定されてます
(クラリネット奏者を目指して音楽学校の受験準備のため、反対する父親のもとを出、
夏休みを使い、ベルリンの叔母の家に身を寄せている。
そんなとき、市場をブラブラしてて、手話で楽しそうに買い物をしてる子供と
青年の2人づれから目が離せなくなって、2人の後をつけてしまう....)
この青年はろう学校の教師だったのですが、役者がいいです。
観る者を決して裏切らない。なよなよとした金髪青年じゃなく、
意志の強さ、ふところの大きさの出ている魅力を感じました。
この設定は上手いと思いました。

 自分の置かれた立場の壁を一つ乗り越えたララが、
音楽学校の試験会場で答える言葉が力強くてけなげでググッと胸が詰まります。
試験官のおじさんー「願書にユダヤ音楽に関心があるとあるが?」
ララー「感覚的なものです。とても明るくて力強いけれど、同時に
寂しくて束縛がある。その情感がよくわかるんです。」

 統一ドイツ後の経済、治安の混乱の中、自分に何ができるかを見失わない監督の、
女性ならではの執念と緻密さと思い入れが伝わってくる、お薦めの映画です。  
日本でもろう者やダウン症の方のプロの俳優が早く育ってほしいな、
そんな文化に成長したらなあとつくづく
思います。

 「コーリャ 愛のプラハ」 (原題=Kolya) 

監督:ヤン・スヴェラーク/
 出演: ズディニェク・スヴェラーク、
アンドレイ・ハリモン/’96 チェコ・イギリス・フランス/合作
1996・アカデミー外国語映画賞

 チェコ(スロバギア)映画史上最大ヒットした作品です。
 1988年・社会主義体制下(旧ソ連侵攻で)の
プラハ(もうすぐ体制が変わろうとする直前の頃)が舞台です。

 50も過ぎたチェコ人のチェロ奏者=ロウカは独身主義者。
気ままに女たちとも付き合っていたが、欲しい車のお金も払えず借金もあり、
母にも家直しのお金を要求されたりで、
借金先の墓堀人(墓石に字を彫る人)の知人から勧められた、
ロシア人女性との偽装結婚を
お金目当てにしてしまう。
 この墓堀人、子沢山で、動物も色々飼っている人。
多分その為、チェコ当局に隠れ、ロシア人の亡命のための偽装結婚の斡旋で
稼いでいる。
でもこの人、独特の存在感があります。
この映画にでてくる人、みんな揺るぎない不思議な個性がありました。
不安定な体制下で生き延びる顔と云うことでしょうか。
 ソ連女性は結婚式を挙げた後、無事チェコの市民権を得、
子供(コーリャ)を母に預け、西ドイツへ亡命する。
 これで形上、お金目当ての偽装結婚は終わりとなるはずだったが、
物語はここから始まる。
 コーリャのおばあちゃんが病気で入院、ロウカが引き取ることになってしまう。

 気ままに暮らしてきたロウカは戸惑いつつも、
言葉も通じず、不安から人見知りもきつく、
窓の外を眺め泣いているコーリャに対する愛を、少しずつ汲み出していく。
 その過程が、観ていて た・ま・ら・な〜〜〜い。

 かわいいコーリャを見ていたら、そうせずにはおれない気もわかるし、
ロウカ役のズディニェク・スヴェラークの抑えた、それでいて、
だんだんあふれてくるコーリャへの愛情表現が
観る者の心をくすぐる。
 ロウカから一歩も離れようとしないコーリャ。
楽団の練習にもチェコ当局からの呼び出しの時もくっついてるコーリャが
可憐でせつなくて、いとおしくて抱きしめたくて.......
コーリャが高熱を出しパニックになるロウカ。
困って元彼女(多分、結婚に踏み切らないロウカを見切り、
他の人と結婚したと思える人)に電話し、
看病に来てもらう。その彼女も凛としたものを持つステキな人なんですよ。
他人の子供のためにへなへなになってオロオロするロウカをつつんじゃえるような人。
 最後は西ドイツから迎えに来た母親にコーリャを手渡すのだが、
その別れの切なさとあっさり感が、もしかしたら、この映画のテーマかもしれない。
 原作「コーリャ 愛のプラハ」 ズディニェク・スヴェラーク著
 (すなわち、ロウカ役の人が脚本書き、監督は息子だそうです)
千野栄一訳/集英社1500円
読んでみようかなぁと思える心癒される作品と思いました。
  (1998.7.20自宅ビデオ鑑賞)

 ガープの世界  

監督:ジョージ・ロイ・ヒル/
 出演: ロビン・ウィリアムズ、グレン・クローズ、メリー・ベス・ハート、
 ジョン・リスゴー / 1982・アメリカ
*この映画は私の大好きな友だちのお薦めの作品です*

 コミカルでコケティッシュでウイットに富んだ作品です。
でも、とってもシリアスであったかくて、切なくて、ジョン・リスゴーの「おかま」役もなかなかよくって、
観ている者に 「どんな風にも生きられるんよ〜、無理しなくってもいいんよ〜」って
メッセージをもらえる映画です。 

 自立した人間として生きたいという強い信念を持った、
看護婦をしているある一人の女性がいます。
 欲望と名の付くものが嫌いで、でも子供は欲しいな と思っている頃、
ひん死に近い軍曹が運ばれ、ある夜誰もいないとき、
ガープとしか名前も言えない彼にまたがり、男の子を産み「ガープ」と名付けます。

 ここから話は始まります。
 彼女は偏見などものともせず、力強く、凛と背筋を伸ばしていきています。
 片や「ガープ」はナイーブで、繊細で、見たこともない父を慕う 空想好きの少年です。
 この二人、自分らしざを曲げることなく、でも(だからこそかな)
あるがままのお互いを尊重し、
深い愛情で結ばれています。

 父親がパイロットだったかも と思っているガープは飛行機乗りの帽子にあこがれ、
その連想から、頭と顎を保護する為の装具を付けるレスリング部に入り夢中になります。
又、好きになった女性が「作家が好き、作家と結婚する」と言えば
それを目指して まい進し、彼女と結婚します。
 作家を目指すガープを見、何故か
母親も「私も書きたいことがある」とタイプライターに向かい、
一気に分厚い枚数を書き上げ、出版社に持ち込む。
そして、母親の本は折しもフェミニズムの流れにのり、多くの女性に支持され、
大ベストセラーになります。

 片やガープは評論家受けはするも、マイナー系だ。
外で働く妻に替わり、子育て、家事をしながら原稿用紙に向かう。
 ガープは言う 「ボクは作家としての才能はあるけど、それより家族の触れ合いが大事」
 その時のロビン・ウィリアムズの表情が、
臭くなる一歩手前で踏みとどまって、愛情と はにかみと 譲らない信念をにじませて
い い な..。
 印税を稼いだ母は海辺に大きな家を買い、
どこにも行き場のない とことん墜ちてしまっている女たちを一人、又一人と拾い、
看護婦として、メッセンジャーとしての生き方を貫く。

 ガープと母の間をジョン・リスゴーの「おかま」ちゃんが行ったり来たり....
ステキで かわゆいんですよ〜。
 小さいとき近所に住んでいた、
媚びを売るようなことがちっともできなかった「プーちゃん」の人生が切ない。
 ガープの気持ちのどこにも「プーちゃん」はひっかからなかったんだね。
もしどこかに気づくものがあったなら.......だったのに。

 アメリカよりさらに遅れてる日本では、単一民族の長い歴史かどうか、
なかなか多様な価値観を心底から受け入れる土壌が
まだまだ荒れているような寂しさというか、自信のなさがあるように思う。
 私など、ますます自信とか信念という言葉から遠くなってるような日々。
       


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